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2021/08/24

三合塚の「三つ目」は・・・(目黒区 三合塚(2))

前回、目黒区の三合塚が辿った数奇な運命について触れたけれど、実はもう一つ、重要なことを忘れていた。
「三合塚」の名が示すとおり、塚は全部で「3基」あったはずであるが、調査の結果、前方後円墳ではない、とされたのはこのうち南寄りの2基である。
それでは「三合塚」の残りの1基は果たしてどこにあるのだろうか。

三合塚は古くから3基の塚として認識されていたはずで、「新編武蔵風土記稿」でも「塚ノ数三アルニヨリカク唱フ」とされている。
その3基目の塚の所在については、現地に立てられている目黒区の解説板に決定的(?)と思われる手掛かりがある。
公園の東側、道路に面して立てられている解説板には、「前方の二つの塚と右手奥の木立のあるところ」が三合塚である、とある。

11 三合塚解説板

「前方の二つ」は前回取り上げた二つであるから、残りの一つは「右手奥の木立のあるところ」にある、ということになる。
公園の右手奥に目をやると、二つ目の塚から北に少し離れたところに、竹垣で囲われた「それっぽい木立」がある。

12 右手奥の木立(東から)

「祝 皇太子殿下 雅子妃殿下 ご成婚記念」の標柱が立っていて、全体が笹で覆われていてよく見えないけれど、見る角度によっては笹が丸く湾曲した饅頭型に生えているようにも見える。

13 右手奥の木立(北から)

なるほど、どうやらこれが三つ目の塚のようではある。測った訳ではないけれど、この笹の生えた木立がそうだとすれば、3基の中ではこれが一番大きいようにも見える。
塚上には隣地との境界線の柵が通っていて、半分より向こうは柵で仕切られている。
柵の向こうはすぐ傍まで建物が迫っているように見えるので、柵の向こう側は削平されて、半ば半円形のようになっているのかも知れない。

14 右手奥の木立

周囲を注意深く見回しても、この他に「塚」と思しきマウンドも見当たらないので、おそらくこれが「右手奥の木立のあるところ」に当たるのだと思うのだが、なんとなく腑に落ちない感じもする。
首をひねりながら「ほんとにこれかなぁ」と独り言ちたところで、誰かの視線を感じて振り向くと、視線の主と目が合った。

15 園内、「両目を開いた」カタツムリの遊具
(園内 両目を開いた「カタツムリ」の遊具)

塚の所有者である富岡丘藏氏は、昭和52年12月に著した「目黒区史跡散歩」で三合塚について次のように書いている。
「三つの中の残る一つは西寄り、かなり離れて、現在隣番地個人庭園に極小形のものが見られたが、今ははっきりしない。」

公園内を改めて見返してみると、右手奥の「それっぽい木立」は、南寄りの二つの塚から見て北側に位置している。
ただし、公園南端、一時期は「前方部」とされた東寄りの塚から見ればやや北西方向とも言えるし、「それっぽい木立」の向こう側半分が公園敷地からはみ出ている(が削平されて存在しない?)点も考慮すれば、真北と言うよりはやや「西寄り」にズレている、と言えなくもないけれど、両者の距離はおそらく5mほどか、あったとしても10mは離れていなさそうであるので、「西寄り」ではあったとしても、「かなり離れて」とは言えないようにも思うのだが、どうなのだろうか。

16 南寄りの2基から見た右手奥の「それっぽい木立」
(最も南寄りの塚から西寄りの塚を見たところ。右端に見切れているのが「右手奥のそれっぽい木立」だが、この距離感が「かなり離れて」?)

加えて、「目黒区史跡散歩」によれば三つ目の塚は公園隣の番地、宅地の庭にあった、とある。
現在の公園の広さは821㎡で、開設年月は「昭和59年12月」、すなわち南端二つの塚の確認調査と同じ時期であるが、一方で昭和36年の目黒区史によると、南寄りの二つの塚がある公園の面積は「約460㎡」とあるので、公園は以前は現在の半分ほどの広さであったようである。
「460㎡」というのは凡そ20m×23mぐらいの広さ、ということになるが、南端の二つの塚が前方後円墳と考えられた際、その大きさは「全長20m、後円部径7m、前方部幅5m」とされたので、直感的には公園の南側1/3から半分ほどを南端の二つの塚が占めていた、という配置になりそうな気がする。
公園右手奥の「それっぽい木立」は、南端の2基から北に5~10mほど離れている。20m×23mの南半分を二つの塚が占めていたとすれば、残りの北側半分はあと10m×23mほどしか残っていない、ということになる。
仮に「それっぽい木立」までの距離が5mであるとして、その直径が10mあったとすれば、半分くらいは公園の北側半分に含まれていたことになるが、距離が10mだとしたら、直径10mの塚は公園の北側半分には収まっていなかったことになるのではなかろうか。
「それっぽい木立」のあった場所がその時点で既に「公園」であったとするならば、「隣の宅地の庭」には当たらないはずであるし、「5mか10mか」で悩む前に、5mも10mも、そもそも「かなり離れて」とは言い難いと思うのである。

悶々としてきたので、違う方面から考えてみよう。
「目黒区史」(昭和36年12月)には三合塚の所在地は「富士見台1533番地」とある。
昭和8年の発行なのでだいぶ古いが、「大東京區分圖三十五區之内目黒區詳細圖」という地図を見ると、「富士見臺1533番地」は現在公園がある一画、60m四方ほどの台形をした一画がそうであったようであるから、「隣の番地」はこの台形の外側ということになりはしないだろうか。

17n 「冨士見臺1533番地」 昭和8年 大東京區分圖三十五區之内目黒區詳細圖
(「冨士見臺1533番地」、公園は黄色い枠のあたり。昭和8年 大東京區分圖三十五區之内目黒區詳細圖)

ただし、これについては違った解釈もできるかも知れない。
昭和5年発行の「東京府荏原郡碑衾町全圖」ではこの一帯の町名はその名も「三合塚」となっていて、公園のある台形の一画は複数の番地に分かれていたようである。

18 「三合塚1783番地」 昭和5年 東京府荏原郡碑衾町全圖
(富士見台1533番地は以前は複数の番地に分かれており、公園のある地番は道路を挟んだ南側にも及んでいた。昭和5年 東京府荏原郡碑衾町全圖)

土地の筆割が道路の向きとズレていたり、道路を挟んで両側にあったりするので、公園周囲の「ト」の字の道路は後付けで作られたものだと思うが、この地図では公園は1783番地の道路北側にある。もし、公園右手奥の「それっぽい木立」が1784番地にあるのであれば、「隣の番地にあった」という定義にも当てはまるのかも知れない。

さらに悶々の度合いが強まってきたので、いつものように昔の航空写真でこの辺りを見てみることにした。
戦前から戦後すぐの写真では公園のある一画は樹木が生い茂っていて判然としないが、昭和24年(1949年)の写真で突如、樹木が伐採されたのか、裸になった敷地の南端に二つ、塚と思しきものが見えている。

19 1949年3月3日 米軍撮影 USA R587-34 国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」 より

これを拡大して周囲を見つめていると、いつものように何となく、塚のようにも見える影がいくつか見えるようになってきた。
(おそらくこれを「錯覚」とか「幻覚」とか言うのかも知れないが。)

20 前の写真を拡大
(前の写真を拡大)

赤い点々が南端の2基で、黄色が「それっぽい木立」と思われる位置、そして悶々の悪戯による目の錯覚か幻か、左(西)の方にいくつか「塚」と言われればそのようにも見える(見えない?)丸い影があるようにも思えるので青い点々を打ってみた。
写真撮影時のキズや現像ムラかも知れないと思い、1963(昭和38年)年の写真も見てみたが、いくつかは同じものが写っている(ように見えませんか?)。

21n 1963年6月26日 国土地理院 MKT636-C13-14 国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」 より

と、ここまで調べていて、ふと思い返したことがある。
「目黒区史跡散歩」では、大きさも「極めて小形」のものが見られたが、昭和52年の時点では既に「はっきりとはわからなくなっていた」と書かれていたではないか。
であるならば、20~30年遡った昭和30年代といえど、航空写真でわかるほどの大きさではなかったのかも知れない。

今回はお手上げ、完全にグロッキーなので、いかにも中途半端で恐縮だが、三合塚についてはこれにてお仕舞い。

<投稿 2023.9.24>

(参考)
 「新編武蔵風土記稿」
 「郊外碑文谷誌」 富岡丘藏 昭和4年12月
 「目黒區大観」 目黒區大観刊行會 昭和10年8月
 「目黒区史 教育資料として」 東京都目黒区教育委員会,昭和28年1月
 「目黒区史 本編 第3版」 東京都立大学学術研究会 東京都目黒区 昭和36年12月(昭和45年9月第3版)
 「東京都文化財調査報告書13 荏原地域における考古学上の調査」 東京都教育委員会 昭和38年3月
 「目黒区史跡散歩 東京史跡ガイド⑩」 山本和夫・富岡丘藏・樋口信助 昭和52年12月 学生社
 「大東京區分圖三十五區之内目黒區詳細圖」 昭和8年7月
 「東京府荏原郡碑衾町全圖 番地界入」 昭和5年4月
 「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1



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