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2017/04/27

中世の戦の伝承の残る塚(東京都府中市 首塚/胴塚)

前回に引き続き、今回も「江戸名所図会」に見える府中市の古墳を巡ろうと思う。

「江戸名所図会」の「分倍河原」の項では、このあたりの古墳について、「正慶二年の夏 新田義貞朝臣 鎌倉勢と合戦ありし地にして 其時討死せし人の墓あり 土人 首塚 胴塚など称へて今猶此処の田間に存す」として、鎌倉攻めの戦死者を葬った塚という伝承が紹介されている。

日本では戦の論功行賞を討ち取った相手の身体の一部で行っていたためだろう、こうした伝承を持つ塚や古墳は全国に数多く、著名なものでは東京にある将門塚、京都にある秀吉の耳塚などがある。
「分倍河原 陣街道」の挿絵に描かれている「首塚」、「胴塚」も、こうした伝承を持つ塚のひとつである。

02_江戸名所図会(首塚 部分)

<首塚>
陣街道の東側、八雲神社から北東に300mほどの住宅街、周囲の道路より腰の高さほど高くなった場所に稲荷社が祀られている。

03_府中首塚(東から)

墳丘は「多摩地区所在古墳確認調査報告書」では直径10m、高さ2mの円墳とされているが、現状の大きさは東西10m、南北4.5mで、高さ80cmほどのコンクリートブロックで周囲を巻かれている。

04_府中首塚(南東から)

墳丘にあった大きな欅の木は伐採されてしまったようだが、欅の木の根元に見られる50cmほどの高まりはそのまま残されている。

05_府中首塚墳丘

「江戸名所図会」に描かれた、樹々の生い茂るこんもりと大きな墳丘は大半が失われ、ごく一部が残されているのみであるが、貴重な文化財であるのだから、もっとその存在を主張してもよかろうに、と思うけれど、所有者の方からするとそれはそれで色々と大変なのかも知れない。

06_府中首塚南西から


<胴塚>
「江戸名所図会」では、天王塚、首塚と、もうひとつ「胴塚」という名の塚が描かれている。

07_江戸名所図会(胴塚部分拡大)

形や大きさは「耳塚」と同じくらいだろうか、位置は天王塚の左(西)に描かれているが、この「胴塚」は現在、所在がわからなくなっているようである。
天王塚から西の方向にある古墳としては、「東京都遺跡地図情報」では6基ある。北から順に、「高倉20号墳」、「高倉21号墳」、「耳塚(2基、遺跡番号4-I)」、「大塚(遺跡番号4-K)」、「山王塚(遺跡番号4-C)」である。

このうち、「高倉21号墳」は開発に先立つ調査で周溝の一部が発見されたが墳丘は削平され残っていない。

「耳塚」はかつてこの辺りに2基並んで存在したという伝承のあるもので、正確な所在地は不明のようだ。
浅間神社の北側を東西に走る浅間横丁と呼ばれる道の案内版に「道筋は耳塚辺りまでだったが、昭和41年に清水坂道(七生道)まで延長」とあり、「東京都遺跡地図情報」では「耳塚」はこの道を挟んで北と南にあったとされているが、「古墳なう」さんのブログによると、高倉20号墳と21号墳がこの「耳塚」ではないか、とされているらしい。

08_府中浅間横丁現地解説

「大塚」は、「多摩地区所在古墳確認調査報告書」の出版された1995年当時は「墳丘:一部残存」とされているものの、現在では痕跡が確認できなくなっているようだ。
国土地理院のウェブサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で昔の航空写真を見て見ると、戦後、米軍が撮影した写真に、建物のようにも見えるが、もしかすると大塚ではないかと思われる影が映っている。

1948年3月撮影(USA-M871-23の該当部分を拡大)
09_USA-M871-23(拡大)
中央下の大きな森が天王塚の森、中央が浅間神社、上右に首塚、上左に高倉20号墳、その下の天王塚からの道がカーブした先に写っている黒い部分が大塚? どことなく目、鼻、口で顔のようにも見える。


ということで、残る2つ、高倉20号墳と、山王塚(4-C)を見に行こうと思うが、長くなったので続きは次回。


(参考資料)
「名所江戸図会」 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559049?tocOpened=1
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

コメント

非公開コメント

この古墳、感傷的にさせます

>墳丘にあった大きな欅の木は伐採されてしまったようだが、欅の木の根元に見られる50cmほどの高まりはそのまま残されている。

〇町の片隅にあるこの小さな古墳、昔を思い出させる雰囲気がありますね。昔は周囲に家など無かったのでしょう。
 感傷的になってしまいます。

No title

レインボー様

いつもコメントどうもありがとうございます。
そうですね、戦後の航空写真でもまだ周囲は田畑ばかりで、人家は甲州街道沿いにしかなかったようです。
僅か60~70年の間に、日本の風景は一変してしまったようですが、そんな中にあって、こうした古墳が1300年前の名残をとどめているのはすごいことだと感じます。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。