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2017/03/08

多摩川中流域 右岸の首長墳~(2)(東京都多摩市 庚申塚古墳/塚原古墳群1号墳(和田古墳群))

稲荷塚古墳・臼井塚古墳がある舌状台地は800mほど北を流れる大栗川に向かって徐々に標高が下がっていく。稲荷塚古墳がある場所の標高は約80m、大栗川が流れているあたりの標高は60mほどなので、20mほどの標高差があることになる。
この緩やかに下っていく緩斜面のちょうど中央あたりに庚申塚古墳、さらに下がって丘陵の末端近く、大栗川を望む高台に塚原古墳群がそれぞれ残されている。稲荷塚古墳・臼井塚古墳から、大栗川を挟んだ対岸の丘陵上にある万蔵院台古墳群までを総称して「和田古墳群」と呼んでおり、稲荷塚古墳のわきに解説が設置されている。

多摩市稲荷塚古墳わき和田古墳群解説00

<庚申塚古墳>
稲荷塚古墳から距離にして北に300mほど、丘陵上を南北に貫く道の三叉路の少し北側に、庚申塚古墳と書かれた案内版の立つ一画がある。標高は70mほどと、稲荷塚古墳と塚原古墳群のちょうど中間ぐらいの場所にあたる。

多摩市庚申塚古墳01

道路よりも一段高くなっており、かろうじて古墳の名残りを感じるが、南側と西側を住宅と道路で大きく削られて三角形になってしまっている。

多摩市庚申塚古墳02

航空写真などで見ると西側は丸みが残っているようだが、まるで8等分したピザの1ピースのような形になっている。
現在の墳丘の高さは1mほど、直径は10mほどで、墳丘には川原石のような石があちこちに残っている。

多摩市庚申塚古墳03

墳頂にはコンクリートの小屋の中に、赤い前掛けをかけたお地蔵様と庚申供養塔が並んで立っている。
お地蔵様は風雨で摩耗してしまったのだろうか、表情は定かでないが、こうした石仏こそ、見る人の心持ちによって表情は違って見えるのかも知れない。

多摩市庚申塚古墳04



<塚原古墳群1号墳>
庚申塚古墳からさらに大栗川に向かって丘陵を下ると、舌状台地の末端を横切る幹線道路に行き当たる。道路の南側に広がる瀟洒な住宅地の一画、個人宅の敷地内に見えている形のよい墳丘が塚原古墳1号墳である。

多摩市塚原1号墳05

塚原古墳群は古くから多くの古墳が密集した群集墳として知られ、「武蔵名勝図会」にも記述がある。

「塚原というところは古塚数ケ所ありて、山谷にあり。大なる塚もなく、いまは十四、五ケ所なり。もとは四、五十ケ所ありて、大抵列をなせりと云。或は元弘の合戦のとき、鎌倉の軍勢の屯したる旗塚なるべしとも云。」

元々は40~50基が列を成していたという古墳群であるが、今日、墳丘が現存するのはこの個人宅内の1基だけのようだ。現存する1号墳の墳丘は直径10m、高さ2mとなっている。

多摩市塚原1号墳06

この古墳群では昭和38年以降、現在までに9基が確認されている。いずれも直径10m台の円墳で、築造は最も古いもので6世紀中葉、新しいもので7世紀中葉とされている。主体部が検出された4基はいずれも自然石をそのまま使用した横穴式石室であるが、うち2基は胴張り型の複室構造とされ、4基はいずれも基準尺度として「晋尺」が使用されているらしい。

多摩市塚原1号墳07

稲荷塚古墳、臼井塚古墳は基準尺度が「高麗尺」と相違があることに加えて、石室の構造材が人為的に加工された切石でなく自然石であること、築造場所が相対的に低いこと、墳丘の規模や墳形の相違などから、塚原古墳群は数世代にわたって営まれた在地の豪族層の群集墓ではないか、と言われている。

丘陵の中腹に50基もの円墳が列をなして累々と広がる光景は、それだけでも迫力あるものだっただろうが、その向こうの高台に、一回りも二回りも大きい八角形の古墳が周囲を睥睨するかのように聳えている光景はさぞかし圧巻だったことだろう。残念ながら全ては想像の彼方、遥か昔の光景である。

多摩市夕景(桜が丘公園)08


(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 多摩地区所在古墳確認調査団(1995年3月)
「多摩のあゆみ137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳」 財団法人たましん地域文化財団

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