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2017/03/08

多摩川中流域 右岸の首長墳~(1)(東京都多摩市 稲荷塚古墳/臼井塚古墳(和田古墳群))

多摩川の河岸段丘上には数多くの古墳が築かれているが、古墳時代前期から中期にかけての有力首長墳は下流域に集中して築造され、中流域に古墳群が出現するのは5世紀末以降、古墳時代の後期になってからとされている。今日はそうした中流域の古墳をいくつか見て回ろうと思う。

<稲荷塚古墳>
多摩丘陵の北辺、多摩川の河岸段丘が支流の大栗川と乞田川に削り出された舌状台地上、北向きの広い緩斜面の一段高い高台に明治時代に祀られた恋路稲荷神社がある。
南側の道路から1mほど盛り上がった敷地に、さらに2mほどの高まりがあって、神社の社殿はその上に建っている。

多摩市稲荷塚古墳01

多摩市稲荷塚古墳02


稲荷塚古墳はこれまでに何度か調査が行われており、昭和27年の調査では、神社の建設に際して墳丘上部が削平された際に天井部分が失われていたものの、切石造りの胴張り型、複室構造の横穴式石室が発見された。

多摩市稲荷塚古墳03

平成2年の調査では周溝が検出され、その形状から古墳の形状が国内でも稀な八角形墳であることが判明したそうだ。築造は7世紀前半、全長7.7mで切石造りという傑出した石室構造もさることながら、八角形墳という国内でも稀な墳形から、在地の豪族とは系統の異なる人物の墓である可能性があるとされている。

多摩市稲荷塚古墳04

現在見えている2mほどの高まりが2段築盛の上段で直径22m、神社建設で削平される以前は4mほどの高さがあったものとされている。下段は直径34mで、幅2mの周溝で周囲と区切られていたらしい。

多摩市稲荷塚古墳05

石室はその後、覆屋で覆われた状態で一般公開されていたようだが、もともと石材が脆かったことから風雨で劣化が進み、平成9年に保存のために埋め戻されている。現在はコンクリートブロックで石室の形状と地中の位置がわかるようになっている。

多摩市稲荷塚古墳06

椿だろうか、満開のまま落ちた花が墳丘を飾っている。

多摩市稲荷塚古墳07

古墳の北側には江戸時代、資福院という黄檗宗の寺院があったらしく、墳丘脇には二代目の住職の墓が残されている。

多摩市稲荷塚古墳08

周辺は公園になっていて、今日は平日で人気がないが、綺麗に並べられた椿の花からすると、普段はさぞかし賑やかに違いない。

多摩市稲荷塚古墳09

多摩市稲荷塚古墳10


この地に赴任して在地の豪族を治めたであろう古墳の主も、資福院のご住職も、揃って目を細めているだろうか。

<臼井塚古墳>
稲荷塚古墳の西50mほどのところに、切石造りの胴張り型、複室構造を持つ古墳がもうひとつ見つかっている。
昭和27年に稲荷塚古墳と共に調査された臼井塚古墳で、墳丘は既に失われていたが、こちらも全長5mの石室を持つ傑出した古墳だったそうだ。現在は埋め戻されて畑の下に眠っている。

多摩市臼井塚古墳跡11

臼井塚古墳はその後、調査はされておらず、墳形や規模等は不明であるが、二つの古墳の石室は、尺度の基準(高麗尺)や使用石材の種類(凝灰岩)など、構造上の類似点が多いらしい。築造順は臼井塚古墳の方が新しいとされるようだが、両者はごく近くに隣接して埋葬されているので、近親者同士の墳墓ではないかとも言われているらしい。
想像を豊かに膨らませれば(これを『妄想』というのかも知れないが)、二つの古墳の被葬者は遠く離れたこの地へ赴任してきた支配者とその妃だったのかも知れない。

多摩市臼井塚古墳跡12

もしそうだとしたら、二人はもう1400年も隣り合わせて眠りについていることになる。
西の空を見上げながら、できれば自分の人生もそのように穏やかでありたいと思う。

多摩市臼井塚古墳跡13


(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 多摩地区所在古墳確認調査団(1995年3月)
「多摩のあゆみ137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳」 財団法人たましん地域文化財団

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