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2017/01/13

那珂国の国造とその妃の墳墓群(茨城県水戸市 愛宕山古墳群とその周辺)

那珂川流域で最大規模の前方後円墳が、水戸市内の北方、那珂川を見下ろす台地上に残る愛宕山古墳である。往時は周囲に多くの古墳を従えて古墳群を形成していたらしく、北西には袴塚という地名が今も残り、南西方向には馬塚古墳、少し離れて五軒町にも古墳群があったという。東側には妃の墓と伝わる古墳もあったそうだが、宅地開発で消滅してしまったという。重機に削られゆく我が妃の墓を前に被葬者の気持ちはいかばかりであっただろう。


<愛宕山古墳>
後円部墳頂に祀られている愛宕神社の参詣用駐車場に着いた時は既に陽が西に傾きかけており、墳丘はうっすらと茜色に染まっていた。

愛宕山古墳

茨城県教育委員会によると、愛宕山古墳は全長137m、後円部は直径78m、高さ10m余、前方部の幅73m、高さ9mに及ぶという。墳形は前方部が長く発達した典型的な中期古墳の様相だそうだ。築造は6世紀初頭、那珂(仲)国造祖(ナカノクニノミヤツコノソ)建借間命(タケカシマノミコト)の墳墓と言われている。

愛宕山古墳解説板

解説板にあるとおり、墳丘の遺存状況は極めて良好で、段築の痕跡も明瞭に判別できる。

愛宕山古墳段築

後円部南西の階段で墳頂の愛宕神社に参詣、仕舞い支度の宮司さんが笑顔で会釈してくれる。

愛宕山古墳

社殿の周囲には多くの祠がある。その中のひとつに「姫塚古墳祠宮」が祀られていた。墓はなくなってしまったけれど、祠は一緒に祀られているのを見て、ほっとした。

姫塚古墳祠宮

高い後円部は周囲の見晴らしもいい。

愛宕山古墳

長く伸びる前方部は後円部よりも低く、いったん15段ほどの石段を下りる。振り返ると後円部の高さがよくわかる。

愛宕山古墳

前方部は緩やかな上りになっている。

愛宕山古墳

西陽が眩しい。

愛宕山古墳

後方部墳頂には天満宮の祠。再び振り返ると後円部が遠い。

愛宕山古墳

愛宕山古墳

前方部石段下には風格を感じる「茨城百景」の碑、その隣には古墳名の幟と手作りの解説板。

愛宕山古墳

古墳の幟

手作りの解説板

青いクレヨンの縁取りはお孫さんだろうか。宮司さんの人柄が滲んでいるようだ。

北東側を古墳に沿って歩いてみた。下から見上げる量感と、墳丘の綺麗な円弧に圧倒される。

愛宕山古墳


<姫塚古墳跡>
姫塚古墳は建借間命の妃の墳墓と伝わる小型の前方後円墳で、かつて、愛宕山古墳の前方部東側に並ぶように築かれていたらしい。昭和49年に宅地開発で消滅したという。

姫塚古墳跡あたり?

大きさは全長58m、後円部直径40m、高さ4m、前方部幅20mの小ぶりな前方後円墳だったという。後円部に比べて前方部が半分というのも細すぎるようにも思うが、無粋な詮索はやめておこう。妃の墓であれば華奢でもいいではないか。

しばし空想に耽った後、ふと視線を上げると強烈な西陽と、青空。

愛宕山古墳周辺

愛宕山古墳周辺


<馬塚古墳>
愛宕山古墳の南東200mほどのところに広い空き地がある。以前は生涯学習センターや原子力事務所などがあったところのようだが、建物は取り壊されて更地のようになっている。

馬塚古墳のある更地

左手の大きな桜の樹の隣に見える墳丘が馬塚古墳である。

馬塚古墳全景

馬塚古墳解説碑

馬塚古墳墳丘

直径14mの円墳とあるが、一説には移設復元保存されたもののようで、そう言われて見れば下草もほとんどない姿はそんなふうにも見えてくる。

馬塚古墳墳丘


<一盃山稲荷神社>
那珂川から古墳のある台地を見上げてみたいと思い、台地下へ下りたところで、台地からはやや独立した円錐形の小さな高台に神社が建っているのが見えた。

一盃山稲荷神社

「いばらきデジタルマップ」で見ても埋蔵文化財包蔵地ではないようなので、古墳ではないようだが、形や木々の具合などは、よほど「古墳っぽく」見える。

一盃山稲荷神社

小高い社殿からは那珂川方面の眺望が利く。

一盃山稲荷神社より那珂川を望む

まだ4時半だというのに、西の雲が茜色に染まった。冬の日暮れは早い。

一盃山稲荷神社あたり

那珂川夕景


(参考資料)
「いばらきの文化財」 茨城県教育委員会http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/index.html
「いばらきデジタルまっぷ」 茨城県 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34

愛宕山古墳群地図


<追記> 2018.4.17

上記の地図では見えていないが、盲学校から南西の一帯は「袴塚」という町名が付されているので、おそらく古くはそういう名のもうひとつ別の古墳がこのあたりにあったのだろう、と勘違いしていた。

その後、常陸の歴史を折りに触れ調べていると、偶然、この「袴塚」について書かれた書物を見つけた。
水戸市教育会という団体から昭和7年に発行された「水戸郷土讀本」という本で、この愛宕山古墳について紹介する文章中に、以下のように書かれていた。

「谷中新道の十字街を左に折れて約三百五六十米行くと、老樹の茂つた一つの丘陵をみるであらう。それが愛宕山で、頂上には村社愛宕神社が鎮座ましますのである。
・・・(略)・・・

愛宕神社をこの上に建てた以前から、この丘陵は袴塚といふ名で知られ、且つその頂上には、古く三島明神が祀られてあつたといふ傳説もある
・・・(略)・・・

この古墳の形式は今から約千七八百年乃至二千年前の陵墓の制に當てはまり、丁度其の時代は成務天皇から應神天皇の御代にかけて、・・・(略)・・・現在の水戸の附近は其の頃は那賀の國に属して居たのであるから、この立派な墓は其の国造の初祖たる建借間命の遺骸を葬つた處と判断して誤りは無からうと思はれるのである。」


なるほど、言われてみれば、前方後円墳の前方部の裾の広がりは、袴の裾に似ていなくもない。