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2018/06/09

出雲東部の大型方形首長墳(島根県松江市 大庭鶏塚古墳/山代二子塚古墳(山代・大庭古墳群))

2019年も師走となり、世の中はもうじき2020年、オリンピックイヤーを迎えんとしているけれど、このブログはまだ2018年6月、梅雨時の出雲を旅している。出雲の歴史は深淵で、なかなか抜け出せそうにない。

<大庭鶏塚(おおばにわとりづか)古墳>
「八雲立つ風土記の丘」から国道432号線を1.5kmほど北上したあたり、山代町バス停の西側に、段築の残る大きな墳丘が見えている。
「大庭鶏塚古墳」と呼ばれる6世紀中頃の築造とされる大型の方墳である。

01 大庭鶏塚古墳 北東から遠望

02 大庭鶏塚古墳 解説版

高さ10mの二段築成の方墳で、南東方向から伸びてきた舌状台地の先端部分を切り離すようにして築かれている。大きさは東西40~41m、南北42~43mで、基底部は後世の削平を受けており、現状よりもかなり外側で墳丘の立ち上がりと思われる痕跡が確認されているらしい。
北西角に立つ解説版の後ろから墳丘上へ木製の階段が続いており、墳丘に登れるようになっている。

03 大庭鶏塚古墳 墳丘上への上り路

埋葬施設の発掘調査はされていないようで、土足で他人様の墳墓に上るのは気が咎めるが、同行の家人を路上駐車した車中に残したままで時間もないので、心の中で合掌しながら意を決して階段を上ると、墳頂は意外と広々としている。大きな木々がそこかしこに生えていて、社はないようだが、木の根元には紙垂のついた鳥居が見える。

04 大庭鶏塚古墳 墳頂の木

被葬者に申し訳ないので、墳頂を抜き足差し足で南側まで横断、下を見ると、墳丘の下段の一部が四角く突き出ているのがわかる。解説版にあった南と西の二方向の造出のうちのひとつのようだ。

05 大庭鶏塚古墳 墳頂から見た南側造出分?

階段で再び墳丘下まで降り、今度は墳裾沿いに西側へ回る。西側にも造出があるはずであるが、こちらは木々が生い茂っていてよくわからない。昭和53年に行われた調査では、西側の造出は先端に向かって広がる撥型と考えられているようだ。

06 大庭鶏塚古墳 西側造出部?

この一帯には大型の古墳が集中していて、「山代・大庭(やましろ・おおば)古墳群」と呼ばれているが、中でも「大庭鶏塚古墳」が他の古墳に先行して作られたものと考えられているようだ。

古墳の名称になっているとおり、この古墳には朝鮮半島に類例の多いらしい鶏鳴伝説が伝わっているそうである。「ここには金の鶏が埋葬されている」とか、「良いことがある日や正月には金の鶏の鳴き声がする」、「その鳴き声を聴くと長寿になる」、といった伝承が伝わっているのだそうだ。

小雨の降る中、もしかしたら鳴き声が聞こえたりしないだろうか、と耳を澄ませてみたが、聞こえてくるのは国道を行きかう自動車の音ばかりである。墳丘に土足で登るような不届き者には幸運の金鶏の声など聞こえるはずもないのであろう。

<山代二子塚古墳>
大庭鶏塚古墳から国道の東側へ路地を少し入ったところに、「八雲立つ風土記の丘」の分館、「ガイダンス山代の郷」という施設がある。館内には周辺史跡や古墳の解説などがあるはずだが、到着が遅かったためか、残念ながら入り口にはカギがかかっている。
館内は見学できなかったが、駐車スペースが空いているので、今度は路上駐車せずに済む。古墳に興味のない家人を再び車中に残し、北側に隣接する「山代二子塚古墳」へと向かった。

07 山代二子塚古墳 南から前方部遠望

「山代二子塚古墳」は日本で初めて「前方後方墳」という呼び方をされた古墳なのだそうで、前方部をガイダンス施設のある南西方向に向けており、全長は94mと、出雲地方で最大規模だそうだ。墳丘は二段築成で、築造時期は6世紀半ば、先ほど見た大庭鶏塚古墳に後続する首長墳と考えられているようだ。

08 山代二子塚古墳 南から全景

前方部は先端幅55m、高さ7.5mで、墳丘周囲には幅7m、深さ2mの周堀と、その外側には外堤と呼ばれる土手が確認されており、周堤まで含めた大きさは150mに及ぶという。

09 山代二子塚古墳 全景

墳裾通路から中央の括れ部に向かって進むと、曇天ながら雨は上がり、雲間に僅かだが青空も見えてきた。金鶏の声も聞こえず、ガイダンス施設すら見学できないのか、ではせめて雨ぐらいは止ませてやろう、と古墳の主が思ってくれたのかも知れない。

10 山代二子塚古墳 墳丘のキバナコスモス

見学用通路がそのまま前方部上を斜めに横断するように続いているので、今度はあまり気後れせず墳丘に登れてしまう。括れ部とその向こうに見える後方部の量感には圧倒されるばかりだ。

11 山代二子塚古墳 前方部上から見た後方部

墳丘を横断し、北側から後方部に回り込む。ここには墳丘内部の本物の土層が見学できる施設があって、未発掘の巨大な石室の位置などが示されているらしいのだが、ガイダンス施設同様、こちらもカギが閉まっていて、扉は閉ざされている。やはり古墳の主には許してもらえていないようである。

12 山代二子塚古墳 後方部土層見学施設入り口

後方部の大きさは幅53m、高さ9.5mで、北東側の半分は明治40年頃、陸軍によって削平されてしまったようだが、近年になって復元され、先ほどの土層見学施設はその時に設置されたらしい。

13 山代二子塚古墳 後方部角

「山代・大庭古墳群」はこの他、山代二子塚古墳の東に、「山代方墳」という東西45m、南北43mで周堤を含めると一辺が80mを超える大型方墳があり、さらにその南東にも巨大な横穴式石室が古くから露出した「永久宅後古墳」という方墳が個人の敷地内に現存しているらしい。(2019年12月18日付で「出雲東部の最後の首長墓」として島根県埋蔵文化財調査センターが「山代原古墳」と命名したのはこの古墳だろうか。終末期7世紀前半の築造で一辺23mの方墳、とされる。)
中でも山代二子塚古墳は出雲地方で最大規模であることから、この古墳群に埋葬されたのは出雲国造などの出雲東部の最高首長クラスの一族ではないか、とされ、築造順は大庭鶏塚古墳(6世紀中頃) ⇒ 山代二子塚古墳 ⇒ 山代方墳 ⇒ 永久宅後古墳(7世紀前半?) と考えられている。

ところで、前回紹介した「岡田山1号墳」も前方後方墳だったし、出雲最大の古墳も前方後方墳である。出雲は相対的に大型の前方後方墳や方墳が多く、しかもこれらの方形墳が古墳時代末期まで築造され続けた特殊な地域なのだそうだ。

しかも興味深いことに、意宇郡の首長クラスの古墳を規模/年代ごとに分類すると、山代二子塚古墳とほぼ同時代の築造と思われる中型の前方後円墳が3基あり、さらに小型の前方後方墳も複数認められることから、山代二子塚古墳の盟主を頂点とする序列が存在していたのではないか、と考えられるらしい。
最も上位とされる盟主墳(山代二子塚古墳)が前方後方墳で、それに次ぐナンバー2クラスの首長墳が前方後円墳(魚見塚古墳(62m)、手間古墳(66m)、東淵寺古墳(67m))、という点が興味深い。
ちなみに前回見た岡田山1号墳は、その大きさや副葬品などから、もう一階級下位のナンバー3クラスの豪族の墓ではないか、とされるらしい。

前方後円墳はヤマト王権の権威や王権から認められた地位などの政治的な秩序を表すものだ、とされるようだが、それにしても何故、出雲では古墳時代全体を通して、前方後方墳や方墳などの方形墳が盟主墳として築造され続けたのだろうか。

円形墓の起源は「平等」や「自然」にあって、円はその中心からどこも等距離であることから、階級格差という発想を含まない縄文古来の発想であるのに対して、「四角形」は中心からの距離に相違があることから、弥生時代になって食料の生産効率の善し悪しから階級格差が生まれた時代の発想である、という解釈もあるようだが、個人的には「円」というと、太陽や月、鏡といったイメージがある一方、「方形」、すなわち「四角」は、乏しい想像力を膨らませれば、例えば「大地」とか「領土」を具現化したもの、と言えないだろうか。
素人の単なる思い付きだが、もしかするとヤマト王権は、「天から降臨した神の子孫」、すなわち「天孫族」であることを強調するために、前方後「円」墳に「鏡」を埋納するようになった、というのはさすがに考えすぎだろうか。
そう考えると、出雲で方形墳が盟主墳とされ続けたのは、天孫族と国譲り神話で対峙した大国主命がかつて治めた「出雲」という「クニ」の人々が潜在的に持つ深層心理、深い精神性に根差したものなのではないだろうか。

14 山代二子塚古墳 キバナコスモス

ふと気づくと、前方部上で楽し気に話す若い男女の笑い声が、途切れ途切れ、風に乗って聞こえてくる。

15 山代二子塚古墳 前方部上の一組

おっさんが一人、ウロウロしているのもなんだか申し訳ないので、いそいそと通路を来し方へと戻りつつ、振り返ると後方部の頂上では、別の一組が草の上にしゃがみ込んで、何か話している声が遠く響いている。

16 山代二子塚古墳 後方部上の一組

遥か昔、古代出雲の人々のアイデンティティーが生んだ(かも知れない)前方後方墳の上で、現代の出雲の人々の、何気ない日常の一コマが、自分とは全く無関係に目前を通り過ぎてゆく。

そう言えば、もうだいぶ長い時間、駐車場に家人を置いたままである。
今夜の宿は「美人の湯」だそうであるから、思う存分浸かってもらうとしよう。

<投稿 2019.12.22>

(参考資料)
「風土記の丘地内遺跡発掘調査報告Ⅸ 山代郷正倉跡・山代方墳 付:大庭鶏塚古墳」 1993年3月 島根県教育委員会
「シリーズ八雲立つ風土記の丘 No.6 山代二子塚古墳」 2013年3月 島根県教育庁文化財課
「シリーズしまねの遺跡発掘調査パンフレット6 魚見塚古墳・東淵寺古墳」 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
「古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか」 2016年3月 白石太一郎氏 文春新書




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コメント

非公開コメント

出雲の由来は朝鮮半島

>古墳の名称になっているとおり、この古墳には朝鮮半島に類例の多いらしい鶏鳴伝説が伝わっているそうである。

〇いつもながら、たいへん興味深い記事でした。やはり、出雲の由来は朝鮮半島(もと新羅)でしょうか。
 また、前方後円墳のルーツも興味深いですね。
 草々

No title

レインボー様、いつもコメントを頂き、どうもありがとうございます。
出雲や北九州、ヤマトなどもそうだったのだと思いますが、当時の先進文化の窓口は主に朝鮮半島、新羅や百済・任那などの三韓地域を経由してのことだったのだと思います。
五胡の南下で押し出された高句麗が三韓に圧力をかけ、百済が倭国と結んで乗馬技術や須恵器生産、製鉄技術などがもたらされた、と読んだことがあります。
鶏鳴伝説もそうした歴史の証左なのだと思います。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。