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2018/06/09

国引き神話と見返りの鹿(島根県松江市 八雲立つ風土記の丘展示学習館/岡田山古墳群)

西谷の丘周辺の四隅突出型墳丘墓を見学した後、出雲市を後に宍道湖南岸を40kmほど西へ移動して松江市に入った。次の目的地は意宇(オウ)平野にある「八雲立つ風土記の丘」である。

弥生時代後期、出雲地方には東西に二つのクニがあったことは前回触れたとおりである。東西のクニはそれぞれ島根県内で最も大きな平野部に発展し、西のクニは出雲平野の西谷の丘、東のクニは安来平野の荒島周辺を中心として、相互に自立した状態で併存していたと考えられている。
ところが、倭国大乱と言われる激動の時代を経て古墳時代に入ると、東西それぞれの政治的な中心地は移動することになる。西の出雲平野では西谷の丘から2kmほど北西、中央から派遣された日置氏の墓とされる今市大念寺古墳の周辺が中心となった一方、東は安来平野ではなく、この意宇(オウ)平野に勢力の中心が移ったようだ。

出雲国風土記には、記紀には見えない独特の神話として「国引き神話」があり、意宇の地名の由来が語られている。登場するのは「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコト)」で、一説には大国主命はこの神の孫だそうであるが、この神が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と新羅や隠岐、越の国などから余った土地を手繰り寄せた後、持っていた御杖を衝き立てて「意恵(オヱ)」と仰ったことから「意宇(オウ)」と名付けられた、とされる。「オヱ」は感動詞だそうだが、「終えた」という意味であろうか。平野のほぼ中央、国府跡の北東に御杖を衝き立てた址とされる「意宇の杜」の伝承地が今でもあるらしい。

ところで八雲立つ風土記の丘の展示資料館であるが、「見返りの鹿」という芸術的な埴輪や、「額田部臣」の銘文の入った大刀などが展示されていて見ごたえがある。

01_八雲立つ風土記の丘「見返りの鹿」

展示も充実しているが、敷地内には他にも竪穴式住居が何棟か復元されているほか、岡田山1号墳、2号墳があり、これらは岡田山古墳群と呼ばれている。
展示資料館を出て北方に進むと、右手前方に岡田山2号墳の大きな墳丘が見えてくる。

02_岡田山2号墳遠景

直径43m、高さ6.5mの円墳で、発掘調査はされていないらしいが、段築・葺石の痕跡や円筒埴輪が認められる、とある。

03_岡田山2号墳解説板

04 岡田山2号墳近景

さらに進むと、一段高くなったうえに、岡田山1号墳の前方部が見えて来る。

05_岡田山1号墳遠景

全長24m、葺石・二段築成の前方後方墳であるが、築造は6世紀後半とされている。

p6 岡田山1号墳解説板

07_岡田山1号墳近景

右側が前方部、左が後方部で、前方部と後方部の高さはほとんど同じぐらいに見える。
後方部には横穴式の石室があり、ちょうど解説員の方がいらっしゃったので幸いなことに石室の中に案内してもらえたが、私は古墳好きのくせに石室内へ入るのはできれば遠慮したいタチである。少し拝見しただけで早々に退散してしまったが、石室内には家形石棺も残り、石室側壁は斜めに立ち上がる持ち送り式、柱石を持つ両袖式であることから、九州地方の古墳石室との類似性が見られるのだそうだ。

08_岡田山1号墳石室

09_岡田山1号墳石室解説板

意宇平野は奈良時代になると出雲国府が置かれ、名実ともに出雲地方の政治的な中心となったが、実はそれよりも以前、5世紀頃、既に意宇川の流路が人為的に付け替えられる等、灌漑による水田開発が行われていた可能性があるのだそうだ。
出雲国府跡の発掘調査では、奈良時代の建物群跡の下から5世紀代の大規模な方形区画が発見されていて、これは当時の首長の居館跡ではないか、考えられている。

ところで、日本書紀では仁徳天皇の即位前記に、出雲臣の祖であるとされる淤宇宿禰(オウノスクネ)が天皇の命により朝鮮半島を往来する伝承が記載されている。

当時、この地を治めていた淤宇氏が、半島との交流から関係を深め、半島勢力から伝えられた水利・土木技術を利用して意宇平野の灌漑事業を行うことで力を蓄え、やがては出雲全体の掌握に至ったのではないか、とも考えられるらしい。

そして、それとほぼ時を同じくするかのように、意宇平野周辺の丘陵上には小型方墳の古式群集墳が多数出現することになる。意宇平野南部の大草丘陵には、東百塚山古墳群、西百塚山古墳群を始めとする200基以上の群集墳が密集しているのだそうだ。
これらは、灌漑事業による急激な人口増加に加えて、支配首長層の階層分化が進んだことで、この時代になると有力な農民層でも自らの墳墓として古墳を造ることができるようになったことを物語っているのだそうだ。

次回は意宇平野北部の山代地区に、日本最大級の前方後方墳を見に行こうと思う。

<投稿 2019.11.10>

(参考資料)
「出雲国風土記 全訳注」 2018年3月 荻原千鶴氏 講談社学術文庫
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「前方後方墳の謎」 2007年10月 植田文雄氏 学生社






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コメント

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古代出雲の方墳と銅矛のルーツ

>そして、それとほぼ時を同じくするかのように、意宇平野周辺の丘陵上には小型方墳の古式群集墳が多数出現することになる。

〇たいへん興味深い記事でした。
 ところで、古代出雲の特徴として、方墳や銅矛が出てきますが、これは朝鮮半島がルーツでしょうか。

Re: 古代出雲の方墳と銅矛のルーツ

レインボー様、いつもコメント、どうもありがとうございます。

申し訳ありません、勉強不足で銅矛・方墳とも、ルーツが何処か存じないのですが、銅矛文化圏は西日本中心とされているようですので、地理的には朝鮮半島から伝わったものと考えるのが自然なのだろう、と思います。

墳墓の形状については、円形・方形ともに世界中で広く見られるそうですが、日本で見つかっている弥生時代前期の周溝墓は円形よりも方形が圧倒的に多いのだそうです。方形は円形に比べると人工的な形状と言え、四方の中心からの距離が同心円のように等距離ではないことから、方墳は弥生時代になって人々に階級意識が生まれた結果の産物ではないか、と考える説もあるのだそうです。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。