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2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(3)(島根県出雲市 西谷9号墓)

前回に引き続き、出雲市の西谷墳墓群を見学している。

丘上の史跡公園を見学し終えてクルマに戻り、2~3分走って300mほど離れた三谷神社へ向かう。墳墓群最大の四隅突出型墳丘墓とされる9号墓は、そっくりそのまま三谷神社の境内になっている。

01 三谷神社

神社のある丘の麓の駐車場にクルマを停めて、石段を上がると、いったん石段が切れてテラスのようなところに鳥居が立っている。丘の斜面の傾斜がここから変わっているように見えるので、どうやらここから上が墳丘墓のようだ。

02 神社石段途中の鳥居

9号墓は4代目、弥生時代最後の出雲王墓とされ、東西62m、南北55m、高さ5mと、墳丘規模が西谷の丘上にある先代の3基よりも大きいだけでなく、墳裾を取り巻く石列が3列になっていることに加え、先代3基とは離れた別の丘に築造されている等、歴代の王墓とは何らか異なる意図、例えば従来よりも強大な権力の誇示等、これまでとは異なる「別格」の王墓として築かれたのではないか、とされている。

史跡に指定されているとは言え、ここは神社の境内であるから、史蹟としての整備は特段なされていないようで、墳丘は周囲をぐるりと生い茂った木々に囲まれているので、全容を眺めることはなかなか難しそうである。

03 神社境内

04 墳丘(上から)

境内の由緒書によれば、三谷神社の祭神は健磐龍命(タケイワタツノミコト、別名「阿蘇都彦命」(アソツヒコノミコト)=阿蘇神社の祭神とされる神)だそうだ。南北朝・室町時代に紀州熊野から奉遷され、当初は現在地より1kmほど南の「元権現」という場所に祀られたが、戦国時代、さらに南の「三谷山」に遷座、昭和36年に大雨で社地が崩れたため、翌年この地に再び遷座されたのだという。
当時はまだこの丘が弥生時代の墳丘墓であることは知られていなかったが、西谷の丘の調査が進むにつれて、この地も重要な遺跡であることが判明したものの、民有地であったことから西側斜面に社務所が新設される等、遺跡としての景観維持が必要となり、平成12年に新たに史跡指定に組み入れられたそうだ。

05 墳丘(下から)

06 9号墓遠望

出雲地方には東西二つの「クニ」があった、とされており、西の「クニ」はここ、西谷の丘周辺に、東の「クニ」は安来市の荒島周辺にあったものと考えられているようだ。
東にあったもうひとつの「クニ」の中心、安来市の荒島墳墓群でも、弥生時代後期後葉の築造とされる大型の四隅突出型墳丘墓が複数確認されており、西谷の丘と同一の(あるいは類似した)墳墓祭祀の文化を有していたと考えられる一方、墳丘規模と墳裾配石列の関係に相違が見られること等から、東西二つの「クニ」はそれぞれ別個の「クニ」として、相互に自立した状態で並存していたのではないか、と考えられているようだ。

出雲地方で四隅突出型墳丘墓が作られたのと同じ時期、吉備地方南部では「楯築(たてつき)墳丘墓」という双方中円型(円形の墳丘墓の前後二方向に長方形の突出部を持つ)で全長72mもある巨大墳丘墓が築造され、他方、丹後地方では「赤坂今井墳丘墓」という長径が40m以上もある長方形の方形台状墳丘墓が築かれ、さらに東海地方では前方後方形の弥生墳丘墓が複数確認されていることなどから、弥生時代後期後半という時代は、列島各地でそれぞれ独特な形状の墳丘墓を築く祭祀文化を有する「クニ」が存在していたと考えることもできるらしい。
これらの巨大墳丘墓に葬られたのは各地の「王」であって、所謂「魏志倭人伝」に記述された「倭国大いに乱れる」という状態は、諸説あるようだが、こうした「クニグニ」が、何らかの理由で頻繁に衝突を繰り返さざるを得ない緊張状態に陥った、ということのようである。

この時代、西谷の丘だけでなく、安来市の荒島墳墓群でも墳丘墓の急激な巨大化が見られるほか、吉備や丹後地方でも確認されている墳丘墓の規模は弥生時代後期後半、突如として巨大化しているようだ。
外敵との対外的な緊張関係が高まった結果、それぞれの「クニ」では結束力が強まり、強力なリーダーシップを持つ強大な「王」が出現、王墓も巨大化した、と考えられるようである。
何か現代に通じるものがあるような気がするのは気のせいか。

いずれにせよ、弥生時代後期に各地で独自の発展を見せ、弥生時代末期に突如巨大化した出雲王や吉備、丹後の王たちの墳墓は、時代が弥生から古墳時代に移ると同時に何故か急速に独自性を失い、各地とも次第に定型化された「古墳」祭祀に収斂していく。出雲地方でも独特の造形を持った四隅突出型墳丘墓は、三谷神社の9号墓を最後に姿を消してしまう。

出雲の覇権を握っていた弥生出雲王たちに一体何が起こり、その後、彼らはどのような運命を辿ったのだろう。

西谷墳墓群の周辺は、前回も触れたように古墳時代末期まで連綿と墓域として使用され、多くの古墳が築造されているが、それらの古墳はいずれも20m前後の小型の古墳であって、しかも墳形は方墳が大半を占めている。このことから、弥生時代末期、一辺が60mにも及ぶような大型の四隅突出型墳丘墓を築いた出雲西部の「クニ」はその後、古墳時代に入る前に断絶ないしは没落してしまったのではないか、と考えられるようだ。
出雲西部ではその後、斐伊川を遡った中流域に神原神社古墳(方墳)や松本1号・3号墳(前方後方墳)などが築造されるようになることから、政治的な中心は西谷の丘周辺から斐伊川中流域に移動したのではないか、と考えられるようだ。
(一説には、出雲王朝はヤマト王権による倭国統一に北九州や吉備の勢力とともに参画した、ともされるようであるが。)

他方、出雲東部の荒島墳墓群の周辺では、大成古墳、造山1号墳など、立派な竪穴式石槨を有する上に三角縁神獣鏡が副葬された初期古墳の築造が見られることから、出雲東部の「クニ」は弥生時代末期の動乱を乗り切り、古墳時代になってもなお、その勢力を維持していたとも考えられるようだ。ただし、出雲東部の初期/前期古墳は、大型ではあるがいずれも方墳であることから、「クニ」としての統治権は維持したものの、その地位は前方後円墳の築造が許されるような身分としてではなかったようだ。

古事記には斐伊川のほとりで出雲タケルがヤマトタケルに誅殺される、という話があるが、日本書紀にも崇神天皇60年(紀元前38年)、出雲振根(イズモフリネ)が筑紫を訪れている間に、天皇から神宝を見せるよう要求された弟の飯入根(イイイリネ)がこれを朝廷に献上してしまったため、怒った出雲振根が飯入根を「止屋(ヤムヤ)の淵」(=現在の「塩冶(エンヤ)」)で誅殺、これを受けた朝廷側が吉備津彦(キビツヒコ)らを差し向けて出雲振根を征討した、というよく似た話が載っている。「塩谷」は西谷の丘からわずか2~3kmほどのところであり、これらの伝承は西谷の出雲王権がヤマト王権によって滅ぼされたという遠い時代の記憶を今に伝えるものではないか、と考える説があるようだ。

ふむふむ、なるほど、そうかそうか、と思っていたが、記事を書いている最中、Amazonからのお薦めを頂き、梅原猛という作家の「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」という本を買って読んでみた。
そこでは出雲弥生王権の最期は、古事記に見える大国主命の「国譲り神話」である、とされていた。
天照大神の直系で日向国から南九州一帯を支配し、次第に勢力を蓄えた天孫族が大軍を従えて東征、西日本全体を戦乱状態に陥れた結果、各地の豪族たちは拠点集落を高地に移して防御を固めたが抗い切れず、徐々に天孫勢力に降伏、やがて、天照大神の弟であるスサノオの娘婿で、いわば親族に当たる出雲の大国主命に国譲りを迫ったものと考えられる、という見解であった。
一方で、時代の下る出雲タケル(大国主命の17代後の子孫)の伝承は、越(高志=北陸)など広域にわたる支配権を国譲りで返上したものの、その後も出雲西部に限って支配権を維持した大国主命の末裔が、後年になって再びヤマトと対立し、滅ぼされたものではないか、と書かれていた。

事の真偽は専門家の皆さんの議論にお任せする以外にないけれど、出雲の地を旅してみて、素人なりに色々と感じるところもあった。
ここから先は私の勝手な妄想、根拠も何もない戯言である。

遥か昔、稲佐の浜で国譲りを迫られた大国主命は、その判断を二人の息子に委ねたが、聡明で思慮深く、恐らくは平和主義者だったであろう大国主命は、稲佐の浜を埋め尽くす夥しい天孫族の大軍を目前に、数多の犠牲を出さざるを得ない無益な戦いを避け、自らは神となってこの国の行く末を永遠に見守る、そういう選択をせざるを得なかったのではないだろうか。
事代主命(コトシロヌシノミコト)はそうした父の判断に従い、同じく出雲国の安泰を祈りながら自ら青柴垣に隠れたが、勇猛果敢だった建御名方命(タケミナカタノミコト)は諦め切れず最後まで抵抗を続け、遠く諏訪湖まで転戦、敗退した後、同じく諏訪大社に祀られることを条件に降伏したのではなかったか。諏訪大社の万治の石仏はもしかすると後世になって、諏訪の民衆が建御名方命の姿を刻んだものではないか。
親族関係にあった大国主命から力ずくで国を奪い取ったヤマト王権側は、覇権を争った大国主命一族の祟りを大いに恐れ、巨大な神殿を建て、大国主命の御霊を永遠に祀ったのではなかったか。

昨日訪れた稲佐の浜は梅雨時で鉛色の厚い雲に覆われ、湿った海風が時折強く吹いていた。
遠い昔、大国主命が国譲りを迫られたその日、空はやはり厚い雲で覆われていたのだろうか。その時、遥か神話の時代、天孫族が下りてきたというその空を、大国主命は一体どのような気持ちで見上げたのだろうか。

昨日見た稲佐の浜の風景を起こい起こしながら、そんなことを思った。

<投稿 2019.10.10>

(参考資料)
「市民の考古学5 倭国大乱と日本海」 2008年10月 甘粕健氏編 同成社
「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」 2019年4月 梅原猛氏著 新潮文庫
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「シリーズ遺跡を学ぶ123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」 2018年2月 渡辺貞幸氏 新泉社
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社




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コメント

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天孫族と出雲

>その時、遥か神話の時代、天孫族が下りてきたというその空を、大国主命は一体どのような気持ちで見上げたのだろうか。
 昨日見た稲佐の浜の風景を起こい起こしながら、そんなことを思った。

〇興味深い出雲旅行記でした。
 天孫族ですが、ツングース系の天孫降臨神話と関係しているのかなと思っています。その意味で、邪馬台国が南方系とすると、出雲は北方系(ツングース系)で、最も先進地であった印象を記事から受けました。
 草々

Re: 天孫族と出雲

レインボー様、いつもコメント頂き、どうもありがとうございます。

記事の中で挙げた「葬られた王朝」という本にも、素戔嗚命は朝鮮半島から渡って来たのではないか、とありました。北九州に移住したマレー系の人々も、ツングース系の人々と同じように、半島を経由して列島に渡ってきたのでしょうか。
遥か昔、危険を冒して海を渡った人々が、お互いの文化をそれぞれ伝え合うことで様々な文化が醸成されていたのか、と思うと、感慨深いです。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。