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2018/06/08

大国主命の国譲りの舞台(島根県出雲市 出雲大社、稲佐の浜、日御碕神社)

出雲を旅行することになった。
空港へ降りたつと、折しも山陰地方はちょうど梅雨入りしたらしく、あいにくの雨模様である。

富士には月見草がよく似合うそうだが、出雲は雨がよく似合う、と思う。

20年ほど前、鳥取へ出張で何度か来たことがあり、一度、足を延ばして出雲大社まで来たことがあった。
どうやら私は雨男であるらしく、その時も天気は雨まじりであったが、靄が山を覆うさまや、谷間を霧が流れるさまはまさに「八雲立つ出雲」であると思ったものである。
そう言えば、(鳥取は出雲ではないが)投入堂に上った時も前日までの雨で岩肌は濡れていたし、雨で湿った鳥取砂丘の馬の背に初めて上った時も、低く垂れこめた雨雲の切れ間から眼下に広がる鉛色の海面を照らす一条の陽光を見て、神々しいとはこういうことを言うのかも知れないな、と思ったものだ。

<出雲大社>
出雲大社は、記紀に見える国譲り神話で建御雷神(タケミカヅチノカミ、日本書紀では武甕槌神)に国を譲った大国主命(オオクニヌシノミコト、日本書紀では大己貴神(オオナムチノカミ))を祀り、明治以前は「杵築(キツキ)大社」と呼ばれたそうである。

門前に車を停めて、翠雨に煙る長い参道を進む。平日の午前中で、しかも雨模様にも関わらず、参拝者の姿が多く、濡れた玉砂利を踏む音がそこかしこから響いてくる。

大国主命は、国を譲る条件として、自らを祀る社を「底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽高しりて」としたとされ、見上げるほどの高さの本殿は往古、今日の倍の高さ(16丈=48m)があったとされており、平安時代は「雲太、和二、京三」(出雲の社の大きさは大和東大寺、京の大極殿をも凌ぐ)と言われたそうである。
(出雲大社には上古の本殿の高さはなんとさらに倍の32丈=96mあった、と伝わるそうである。)

01 出雲大社 本殿

境内からは当時の本殿の宇豆柱(うずばしら=棟持柱)の根太が近年発掘され、隣接する「古代出雲歴史博物館」で保存展示されている。その巨大さには驚嘆してしまうが、出雲大社の宝物殿である「神祜殿」には博物館のものよりもさらに一回り太い心御柱(しんのみはしら)の根太が展示されており、その巨大さたるや、まさに度肝を抜かれる。

02 心御柱ポスター
(根太は撮影禁止のためポスターの写真を撮影。百聞は一見に如かず、残念ながら写真では巨大さが伝わらない。)

<古代出雲歴史博物館>
出雲大社に隣接する「古代出雲歴史博物館」は島根県立の施設で、県内各地から出土した膨大な考古遺物が展示されている。限られた時間で出雲地方の遺跡をダイジェストで理解するには打って付けの施設である。
さすがに出雲、展示はとても充実しており、雲南市神原神社古墳から出土した卑弥呼が中国魏から賜った100枚のうちの1枚とされる「景初三年(239年)」の銘の入った三角縁神獣鏡(重文)や、入れ子状態で発見されたものやウミガメの絵が見られるもの(国宝)など膨大な銅鐸群、そして大正14年の発見当時、木製の鞘から刀身をスルっと引き抜くことができたと伝わる金銅装双龍環頭太刀(重文)など、興味深い遺物が所狭しと並んでいる。

03 古代出雲歴史博物館 三角縁神獣鏡

04 古代出雲歴史博物館 銅鐸群

05 古代出雲歴史博物館 刀剣
(暗がり(腕前?)で写真がボケてしまっているが、歴史解説のボランティアさんによると、この刀は発見後、愛好家によって私蔵されている間に錆びてしまったらしく、県で譲り受けて展示する際に研磨したところ、刀身部分がだいぶ短くなってしまったらしい。)

とりわけ個人的に圧巻だったのは、斐川町の荒神谷遺跡から出土したという358本の弥生時代の銅剣群である。

06 古代出雲歴史博物館 銅剣

壁面を埋め尽くす夥しい数の銅剣はいずれも「中細形」と呼ばれ、銅剣の中でも古い時代区分のものとされるそうである。農道予定地の丘陵斜面にびっしりと並べられた状態で発見された銅剣の数は、それまでに国内で発見されていた銅剣の数(300本ほど)を遥かに超えていたそうである。

<稲佐の浜>
出雲大社のすぐ西にある海岸は「稲佐の浜」と呼ばれ、国譲り神話で建御雷神と天の鳥船神(鳥の石楠船神、日本書紀では経津主神(フツヌシノカミ))がこの浜で大国主命に国譲りを迫った、とされる。

07 稲佐の浜弁天島 遠景

二柱の神は十掬剣(とつかのつるぎ)の柄を浜に突き立て、刃の切っ先に胡坐をかいて、「屏風岩」を背に国を譲るよう迫ったという。
浜に聳える大岩は「弁天島」と呼ばれ、岩上には鳥居と社があり、古くは弁財天を祀っていたそうであるが、明治以降は豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)を祀っているそうだ。てっきりこの岩が国譲りの屏風岩かと思い、なるほど確かにこの岩そのものが十掬剣を表象しているのかも知れないな、などと独り言ちたものの、よくよく調べれば屏風岩は弁天島から300mほど離れた場所にあるらしい。

08 稲佐の浜弁天島 近景

<日御碕神社>
だいぶ陽が傾いてきたが、せっかくなので古くからの夕陽の崇拝地とされる日御碕神社へ行ってみたい。
出雲市のホームページによると、この日御碕神社は、「日ノ本の昼を護る伊勢大神宮」と並び「日ノ本の夜を護る」とされる古社で、出雲国風土記では「美佐伎社」としてその名が見える。
社殿は上の宮、下の宮とに分かれており、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る上の宮は「神の宮」、天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る下の宮は「日沉宮(ヒシズミノミヤ)」と呼ばれる。権現造の社殿は徳川家光の命によって寛永21年(1644年)に建てられたもので重要文化財となっている。

09 日御碕神社

上の宮(「神の宮」)はもともとは背後に聳える標高45mほどの「隠ヶ丘(かくれがおか)」の上に祀られていた社を、安寧天皇13年(紀元前536年!)に現在地に遷座したものだそうだ。
「上の宮」というだけあって、境内の一段高くなった場所に社殿が建っている。

10 日御碕神社 上の宮(神の宮)

「隠ヶ丘」は、出雲国を作り終えた素戔嗚尊が柏の葉を投げて自らが鎮まる場所を占った際、柏の葉が止まった場所として、日御碕神社の宮司の祖先である天葺根命(アメノフキネノミコト)が社を祀ったと伝わるらしい。丘の上からは柏の葉の化石が出土しているそうだ。

下の宮(「日沉宮」)は開化天皇2年(紀元前156年!)に清江の海と呼ばれたすぐ西の海岸線に浮かぶ日置島に祀られていた社(出雲国風土記に言う「百枝槐(ももえのえにす)社」)を天暦2年(948年)に村上天皇の命により現在地へ遷座したものだそうだ。

11 日御碕神社 日置島(経島)

「百枝槐社」がもとあったとされる日置島に行ってみた。この島は「経島」とも呼ばれ、島の百枝の松に瑞光が輝いているのを見た天葺根命が天照大神を祀ったのが日沉宮の始まりと伝わるらしいが、現在では草木は全く見当たらない代わりに、ウミネコのコロニーになっている。

「槐」という文字は恥ずかしながら初めてお目にかかる漢字であるが、「サイカチ」とも読むらしい。意味は「エニス」が転じて「エンジュ」と呼ばれるマメ亜科の植物の名前であるらしく、木質は硬く、蕾を乾燥させたものは止血作用のある生薬として用いられるそうである。

硬い木材としての利用価値だけでなく、止血効果のある薬でもある木が島上に群生していたことから、怪我への効用に対する謝意が祈りの対象へと変容していったのであろうか。現在も島上には鳥居と社が見えているが、神域のため神職以外の立ち入りは禁じられているのだそうだ。

だいぶ長くなったので、続きはまた次回。明日は四隅突出型墳丘墓を見に行きたいと思う。

<投稿 2019.03.03>

(参考資料)
出雲市ホームページ http://www.city.izumo.shimane.jp/
「出雲観光ガイド」 出雲観光協会ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/
出雲大社ホームページ http://www.izumooyashiro.or.jp/
島根県立古代出雲歴史博物館ホームページ http://www.izm.ed.jp/



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