FC2ブログ
2018/03/28

町田市にある木曽の富士塚(東京都町田市 富士塚(提灯塚)、木曽一里塚)

町田へ行く機会ができた。

20年ほど前まで、町田には30年近く住んでいた。
昭和40年台後半、当時は庶民の「羨望の的」であったという「公団住宅」の抽選に当たり、調布のアパートから一家四人で憧れの「団地」に移り住んだ。
団地には商店街があって、お菓子屋、おもちゃ屋、本屋と、子供の心を釘付けにする魔法のような店ばかりでなく、喫茶店やスーパーマーケット、銀行まで全てが揃っており、なんとまあ便利で快適な街であることか、と子供心に思ったものだ。
近所にはそこかしこに公園や芝生の広場があったし、七国山という里山も近かったので、とにかく遊ぶ場所に事欠くことはなかった。テレビゲームやファミコンなどというものは中学生になるまでお目にかからなかったので、雨でも降らない限り、家で遊ぶなどという発想はなかった。毎日のように、全速力で学校から帰るや否や、玄関でランドセルを放り出しては、陽が落ちて友人の顔が見えなくなるまで外で遊びまわっていた。

かつては羨望の的であったはずのマンモス団地も、平成も30年を過ぎ、築50年を経てすっかり老朽化が進み、住人も高齢化が進んでいると聞く。そりゃそうだろう、子供だった私がとっくに五十路を迎えているのである。
自分が通った小学校、中学校が生徒数の減少で廃校になった、と聞いた時は、普段、ニュースで他人事のように聞いていた「母校が廃校になる」という感覚は、なるほどこういうものか、と妙に納得したものである。

すっかり前置きが長くなってしまったが、町田はそんな思い出深い場所なので、ウキウキしながら「東京都遺跡地図」を眺めていると、「木曽東」という場所に「塚」のマークがあることに気が付いた。
この塚は見覚えがあった。木曽の交差点の東側、周囲にまだ畑の残る中、料金が格安であった小さなクリーニング店の裏にひときわ大きな小山のようなものがあるのを、駅へ向かうバスの車窓から毎日のように目にしていた。当時は「塚」や「古墳」に興味はなかったが、見るともなく毎日のように目にしていたので、潜在的な記憶として覚えていたのであろう。

「東京都遺跡地図」には、塚の名は「富士塚(提灯塚)」とある。例によって「時代:不明」、「種別:その他(塚)」という、何とも曖昧な整理ではあるが、そうか、あの塚は「富士塚」だったのか、と思った。
あれからだいぶ経つので、もはや開発の波に飲み込まれてしまって残っていないかも知れないが、とにかく見に行ってみることにした。

<富士塚(提灯塚)>
すっかり拡幅されて見違えるようになった町田街道を北西に進み、木曽交番前で右折して細い道を北へ向かう。この道筋は、往古、「夷参(イサマ)」と呼ばれた座間から大沼を経て、「富士塚」脇をかすめて北上、小野路から多摩丘陵を越えて府中へと向かう、古代官道の痕跡とされる道でもある。
こんなところに病院なんてあったかしら、お、この銀行は覚えてるぞ、といちいち感動しながら進むと、左前方に見覚えのある大きな木立が見えてきた。

01 木曽富士塚(提灯塚)遠景

クリーニング店は見当たらなかったし、塚の周囲に広がっていたはずの畑もコンビニの駐車場になっていたけれど、幸いなことに、塚はどうやら昔の姿そのままに残っていた。

02 木曽富士塚(提灯塚)全景

塚をこれほど近くでじっくりと見るのは初めてであるが、大きさは直径20mほど、高さは3mほどはあるだろうか、記憶の中の塚よりも大きくて、塚上には祠などが立っているようである。

03 木曽富士塚(提灯塚)麓から頂上

20年振りの再開を祝してくれている訳でもなかろうが、折しも塚上の桜はちょうど満開で、西陽にうっすら赤く染まって風に揺れている。

04 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

南側に回って見ると頂上へは階段が続いており、上まで登ることができる。

05 木曽富士塚(提灯塚)南側塚上への階段

頂上は意外に広く、浅間社の石の祠と、石碑が二つ並んでいる。

06 木曽富士塚(提灯塚)塚上の祠、石碑

由来碑は漢文であろうか、難解だが、おおよその意味は、木曽三家(さんや)には富士塚があって、その高さは1丈5尺、広さは3畝、古より道に迷った旅行者がこの塚に登り、富士を見て方向を確かめたと云う、塚上には一本松と呼ばれた老松があり、梢は雲を凌ぎ、幹には洞があって獣が住んでいたという。樹下には浅間社の小祠があったが、文化4年(1807年)に失火で老松ともども一晩で焼失してしまったが、皆で相談して幼い(稚)松を植え、碑を建てた、といったようなことだろうと思う。富士塚と言っても、中近世に多く築かれた富士講に基づくものではないようだ。

07 木曽富士塚(提灯塚)塚上の由来碑

「今昔マップ on the web」で明治の地図を見ると、「一本松」と書かれた大きな塚/古墳マークが確認できる。

08 「今昔マップ on the web」より木曽周辺
(右上赤矢印が「一本松」こと富士塚、左下赤矢印のT字路西側に後述する木曽一里塚 「今昔マップ on the web」 明治39年測図二万分の一「原町田」より木曽周辺を拡大)

周辺の地形は、塚の東側が200m四方ほどの大きな窪地になっていて、調整池と呼ばれる人口の池があり、窪地周辺は縄文から平安時代にかけての土器や土師器などの包蔵地となっているようであるが、他に大きな高低差もなく、南を流れる境川と、北を流れる鶴見川にはさまれた標高100mほどの平坦地になっている。
南北に走る古奥州街道に隣接していて、以前見た鶴間の一里塚(鶴間大塚)とよく似ているが、こちらは一里塚としてではなく、方角を確認するための物見塚として語り継がれてきたのであろう。

「堅牢地神塔」というのは初めて見るが、元禄期以降に広まったとされる「地神(ジジン)講」、すなはち春分・秋分に最も近い戊の日は田の神と山の神が交代する日であり「土を動かしてはならない」とされ、畑仕事を休み、地神様をお祀りして大地の恵みに感謝する、という民俗信仰であり、大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。

09 木曽富士塚(提灯塚)塚上の堅牢地神塔

見上げれば、西陽に染まった桜と青空しか視界に入らない。

10 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

11 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

ところで、「木曽」の「三家」というのはこのあたりの字名であって、「三家」というのは近くのバス停の名前にもなっているので馴染みが深いが、その由来については耳にしたことがない。インターネットで検索しても特に見当たらないのだが、うっすらとした記憶では、何で読んだか、誰かに聞いたかも定かでないが、昔、このあたりには人家が3軒しかなかったのでその名がついた、といったことではなかったか、と思う。

一方で、「木曾」という方は「新編武藏風土記稿」にその名が見える。
「矢部八幡」という神社が市内の矢部町にあるが、昔は矢部のあたりも木曾村の一部であって、この神社に昔あった鐘の銘文によると、木曽一族がこの辺りに移り住んだためについた地名だそうだ。
因みにこの「矢部八幡」は別名「箭幹(やがら)八幡」と言い、古くは「木曽八幡」と呼ばれたらしいが、木曾氏(木曾義仲)が滅亡したために木曾の名を憚って「箭幹(やがら)八幡」と呼ぶようになったのだという。

<木曽一里塚>
ところで、富士塚から少し西に行ったところに、「東京都遺跡地図」には載っていないが、「木曽一里塚」という塚があるようなので、そちらにも行って見た。

12 木曽一里塚全景

一里塚と言うからには、塚が面したこの道も街道だったのだろうと思うが、古奥州街道は先ほどの富士塚脇の道であるはずだから、町田街道の旧道の一里塚かと思ったが、塚は町田街道の旧道には面していない。これは江戸初期の元和3年(1617年)に、駿河の久能山に祀られていた徳川家康の遺櫃を日光東照宮に移すために整備され、後に大山詣でにも利用されたルート、「御尊櫃御成道」に設けられた一里塚なのだそうだ。塚上の祠は日本狼を祀る御嶽山の「おいぬ様」こと「大口真神」の祠だそうである。

13 木曽一里塚解説

14 木曽一里塚前の御尊櫃御成道

「御尊櫃御成道」はこの塚の前を通って町田街道の旧道を左折して小野路方面に至ったらしい。ほぼ同じルートを辿りながら、古くからあったであろう三家の富士塚横の古奥州街道を通らずに、わざわざ別ルートを経由した、ということは、江戸初期には既に富士塚横の道は廃れてしまっていたのであろうか。
前述の明治の地図を見ると、確かに富士塚横の道沿いにはほとんど人家は描かれておらず、まさに「三家」状態のようである。大切な「御尊櫃」の御成に際して、何かと便利な木曾村中心部を通るルートが選ばれた、ということなのかも知れない。

今回は懐かしさのあまり、つい長くなってしまった。当時は知る由もなかったが、子供時代を過ごした懐かしい土地に刻み込まれていた、古から積み重ねられてきた歴史の「記憶」をこの年齢になって初めて知った。
出張先で浮かれてばかりおらず、もっと自らの出自の地で研鑚に励むべきかも知れない。


(地図)
木曽富士塚、一里塚地図



(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html




コメント

非公開コメント

No title

michikusa520さま、こんにちは。

この辺りにかつて住まわれていたのですね。
富士塚(提灯塚)と一里塚は私も以前、見学に訪れました。古くはこの周辺は畑だったのか、私が訪れた時は、塚の周囲にまだ野菜か何かが植えられていた記憶があります。michikusa520さまの画像を見ると、今は当時よりは綺麗に整備されているように見えます。

私も古墳巡りをしていて、思いがけずかつて暮らした場所に遭遇することがあります。当時とは景観が変わっていて寂しさを感じつも、残された痕跡にノスタルジックな気分に浸ることも少なくありません。

いつも楽しく読ませていただいております。今後の更新も楽しみにしています。

Re: No title

ご~ご~ひでりん様、いつもご覧頂き、どうもありがとうございます。

どうも最近は一人で勝手に思い出に浸る傾向が強くて、そんなものをお読み頂くのもどうしたものかな、と思っております。

町田には長いこと住んでおり、日がなバスの車窓から、見るともなく、この富士塚を眺めていたものです。
ご~ご~ひでりんさんの仰るとおり、昔は周囲は畑だったと思います。
詳しい由来などはわかりませんが、古墳であっても、そうでなくとも、このままの姿で将来も残っていて欲しいものです。

なかなか更新が捗らず、半年も前の桜の季節の記事を今頃載せていてお恥ずかしい限りです。

今後ともどうぞよろしくご指導下さい。