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2018/03/01

高台に並ぶ五つの信仰塚(神奈川県川崎市 五所塚、長尾神社)

最近、昔話をする機会が増えたのは、年を取ったせいだろうか。

学生の頃、学習塾でアルバイトをしていた。
塾は小田急線の登戸駅近くにあった。
世田谷通り(登戸周辺の呼び名は「津久井道」)はいつもひどく混んでいたので、遠回りだがぐるりと迂回して通うことが多かった。そんな迂回路の途中に「五所塚」という地名が、確か、あった。
平成14年に閉園した向ケ丘遊園もその頃はまだ営業しており、遊園地のある生田緑地の丘陵を府中街道から急な切通しの坂で上っていくと、当時はほとんど気に留めることもなかったが、「五所塚」という町があり、そこから塾に通っている生徒もいたのを覚えている。
30年近い歳月を経て、再び仕事の行き帰りに近くを通る機会が増えたので、周辺の古墳や塚の所在を調べていると、ふと、あの頃よく通った「五所塚」の名前が蘇ってきた。どうやら近くに名前の由来となった塚があるようである。

八王子の北大谷古墳を見た後、天気もよいので高速に乗らず、府中街道で多摩川沿いに走り、まだ明るいうちに、生田緑地の丘陵下に至った。
いつ頃できたのであろう、「藤子・F・不二雄ミュージアム」の先の信号を曲がると、切通しの急坂はあの頃と変わっていなかった。
坂を上り詰めたところで脇道に入り、細くくねるような狭く急な上り坂でさらに高みを登って行くと、頂上に古く由緒ありそうな神社と、その右手にこじんまりとした公園が見えてくる。府中街道からの標高差は50mほど、切通しからでも30mほどはありそうな、丘陵の最も高い場所にあるこの公園に、町名の由来となったであろう五つの塚が並んでいる。

01 五所塚遠景

塚は南北に細長い公園に整然とほぼ等間隔で一列に並んでいる。

02 五所塚遠景2

五つの塚はいずれもフェンスで囲まれており、大きさはどれも大体同じぐらいで、直径4m、高さ2mほど、古くは「墳墓」という伝承があったそうであるが、現在では「中・近世に村境や尾根筋に築かれた十三塚などと同様の民俗信仰に基づく塚」と考えられているそうだ。

03 五所塚解説板

マウンドはどれも同じような形に見えるが、北側から南側に行くにつれて少し大きくなっていくように見える。

04 五所塚近景(北側の塚)

上の写真が最も北側、下の写真が南側の塚であるが、マウンドの高さと周囲のフェンスの高さを比べると、少し大きさが違うようにも見える。

05 五所塚近景(南側の塚)

加えて、南側の二つはマウンド上に太い樹木が生えていて、風格がある。枝打ちされた感じが鹿の角のようにも見える。
全く関係はないが、「ウルトラの父」には角があり、「ウルトラの母」にも角のようなものがあった・・・。五つあるので、手の指と同じく、端からお父さん、お母さん、お兄さん・・・、という訳でもあるまいが。

06 五所塚近景(南側の塚上の木々)

公園の南側は眺望が開けていて、遠く霞んで見える山並みは丹沢、左端のピークは大山であろう。

07 五所塚南側眺望

解説板にもあったとおり、この高台では「権現台遺跡」と呼ばれる縄文時代の集落跡が見つかっているらしい。発掘された竪穴式住居跡の平面形は「隅丸方形」でなく「五角形」をしていたそうで、同じく見つかった配石遺構には石棒が据えられていたらしく、こちらは狩猟に関連した祭祀遺構と考えられているらしい。

来る時に見た公園北側の神社は「長尾神社」という名前だそうだ。

08 長尾神社遠景

古くは「五所塚神社」、「五所権現社」と呼ばれ、毎年正月七日に行われる「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事は五穀豊穣と村内安全を祈る古くからの行事だそうで、馬に乗らずに矢を射る「歩射(ぶしゃ)」神事であるらしい。地区の7歳未満の長男二人と介添え役の父親が正座したまま的を射って、矢が「鬼」の字を貫けばその年は豊作になるのだそうだ。

「長尾」の由来はこの地区が昔、「長尾村」であったことによるようだが、そもそも「長尾」の地名は、史実がどうであったかは定かでないが、上杉謙信こと「長尾景虎」と所縁がある、ともされるらしい。
神社はもともと「神木(しぼく)長尾(谷長尾)」と「河内長尾(多摩川流路変更で新たに開墾された河川沿いの低地)」という二つの地区に分かれていた長尾村のそれぞれの地区の鎮守、「赤城社」と「五所権現社」を、明治42年、五所権現社に合祀したそうだ。

09 長尾神社境内

「五所権現社」というのは五柱の神様(権現様)を祀る社、という意味合いであろうが、確か以前、「五所宮」というものの由来は、統治を代理人に委ねていた国司が任地に赴く際、一之宮から五之宮まで全てにお詣りしたことになるよう一ケ所に合祀したもの、という記事を読んだ記憶がある。
合祀前の五所権現社も同じように、五つの塚の上にそれぞれ五柱の神様を祀っていたのではないか、とも思ったが、100年ほど前までそのような状態だったのであれば、合祀前の神社の姿が伝承として伝わっているであろうし、文化・文政期に編纂された「新編武藏風土記稿」でも、五所塚と五所権現社とは全く別個のものとして紹介されている。

「墳墓五ケ塚 小名神木谷ニアリ五ツナカラ並ヘリ 長尾景虎及従者ノ墳墓ナリト云傳フレトモ 景虎ハ天正六年越州春日山ノ城ニテ没セシコト世ニシル所 別ニユヘアル人ノ塚ナルヘシ 相傳フ昔此邉ヨリ石ノ匣ヲ堀出セシコトアリ 大サハ大抵一尺四五寸四方ニテ蓋ニ高印ノ二字ヲ彫リ其中ニ・・・(略)」

この五所塚には「五所塚」の「ゴショ」を「御所」と解釈する別の伝承もあるようである。
gannyan1953さんのブログで紹介されているが、昔、この地で平将門の軍勢と京都(御所)からの軍勢が戦となって御所軍が敗走、討死した五人の将兵を埋めたもの、との伝承もあるそうだ。
また、将兵と運命を共にしたと伝わる童子を供養した場所には「稚児松」と言われる松があったそうだが、松はその後、枯れてしまったという。

塚と社のいずれが先にあったのかはわからないが、もしかすると古くからあった五つの塚の傍らに祀られた鎮守の社がいつしか「五所権現」と呼ばれるようになったのかも知れない。(古墳好きの発想はあくまで「塚」が先、なのである。)

早春の日差しは穏やかで、森の梢のあちこちから時折ヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。何とも爽やかで気持ちのいいところである。神社の樹叢は川崎市の保存樹林に指定されているそうだ。
社殿裏は高台北東側の眺望がまた素晴らしい。

10 長尾神社北東側眺望

できることならこのままずっとここにいたい気もするが、現実逃避もここまでである。
やれやれ、いい加減帰らねば、仕事がたんとお待ちかね、である。


(地図)
五所塚 地図


(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「五所塚と権現台遺跡」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000089.html
「長尾神社の歩射」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000112.html
「歴史と素敵なおつきあい」 https://rekisisuki.exblog.jp/18487761/




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