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2018/03/01

多摩川上流、丘陵上の首長墓墳(東京都八王子市 北大谷古墳)

昨年夏の夕暮れ、仕事が終わってまだ明るかったので、以前から気になっていた古墳を探しに行ったことがある。
ブログを始めて暫く経った頃、「古墳なう」さんから推奨頂いた「北大谷古墳」である。

「北大谷古墳」は多摩川上流域左岸の加住南丘陵上に築かれた古墳時代末期、7世紀前半の首長墓墳で、府中熊野神社古墳のそれをも凌ぐ傑出した規模の切石積み三室構造の横穴式石室を持ち、古く明治時代からその存在を知られた古墳だそうである。

八王子インターの南、小高い丘の上は農地になっていて、夕暮れの中、土の農道を進むと、遠くの農地ではあと片付けだろうか、男性の駆るトラクターのエンジン音が黄昏の丘陵上に響いていた。

見上げると、西の空は夕暮れの中、低く黒い雲が流れ、立体的で何とも奥行きを感じる光景だった。

01 丘陵上 昨年の夏、農地で見た夕景

1400年前の夕暮れも、果たしてこんな荘厳な光景だっただろうか。

流れる雲を見ながら、ふと思い出していた。
あれはいつのことだっただろう、だいぶ以前、ある温泉ホテルに仕事で単身、長期間泊まり込む機会があった。
あの時も季節は夏だった。
朝から晩まで、精神的にもハードな仕事だったが、仕事を終えた後は毎晩、営業終了間際の屋上大露天風呂に浸かった。
終了間際の露天風呂は人影も疎らで、毎晩のように「貸し切り」の大きな湯舟で星空を見上げながら、明日の仕事の進め方をあれこれ考えたものである。
とある晩、いつものように一人、風呂から夜空を眺めていると、向こうの山の端から見事な満月が、音もなく、静かに昇ってきたことがあった。
中空に明るく輝く月を見ていると、柄にもないが、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の旋律が聞こえてくるような気がした。


そんな、半ば忘れかけていたような出来事を思い起こしながら、「タンホイザー」を口ずさみつつ、その日はそこで暫くの間、流れて行く雲と沈む夕陽を眺めていた。

気が付くと周囲はすっかり薄暗くなっており、古墳探索はまたの機会、ということにした。


あれから季節は巡って今日は2018年の早春、だいぶ日差しが春めいてきたな、と思っているところに、八王子での仕事が午前中で片付いた。ちょうどよいので、帰りがけに北大谷古墳に寄ってみようと思う。

前回夕陽を眺めた農道を再び辿り、丘陵上を行くと、畑の向こう、地面が盛り上がって見えているのが墳丘のようである。

02 北大谷古墳遠望(北から)

以前は石室がむき出しになっていたらしいが、石材の傷みが激しいことから、現在は埋め戻されているらしい。
墳丘の周囲にはフェンスが巡らされており、立ち入りはできないように見えるが、オヤコフンさんのブログにもあるとおり、斜面を少し下ると解説板があり、さらに進むとフェンスが途切れ、墳丘に近づくことができる。

03 北大谷古墳現地解説

04 北大谷古墳墳丘 南西から

05 北大谷古墳墳丘 南から


近寄って見ると、墳丘のほぼ中央が縦に少し窪んで見えている。あのあたりが埋め戻された石室であろうか。

06 北大谷古墳墳丘 近景

07 北大谷古墳墳丘 近景

この古墳は古く明治32年に発掘が行われたが、発掘される以前は南側に石室が開口していたそうである。
発掘以前に盗掘を受けていたらしく、遺物は発見されなかったようだ。
その後、昭和8年、平成4年にも調査が行われた結果、墳形は直径39m、高さ2.1mの円墳若しくは方墳とされているらしい。

墳丘脇の斜面を登り、東側に回り込むと、墳丘は丘陵の頂が緩斜面となって下り出すギリギリのところを利用して築かれているのがわかる。墳丘はこちらから見るとそれほど高さを感じない。

08 北大谷古墳墳丘 北東から

この古墳の特徴は何と言っても周辺で同時期に築造された古墳を凌駕する規模の切石積みの横穴式石室を持つ、という点にあるそうだ。
石室の構造は前室・中室・玄室(羨道・前室・玄室)の三室構造で全長は10.01m、玄室は胴張り型で最大幅3.16mもあり、同じく複室構造で胴張り型の切石積み玄室を持つ武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳、多摩市稲荷塚古墳や白井塚古墳よりも全長、玄室幅とも遥かに大きいのだそうだ。

築造時期は稲荷塚古墳よりは僅かに新しいものの、熊野神社古墳などには先行するものと考えられているらしく、稲荷塚古墳が八角形墳、熊野神社古墳や天文台構内古墳が上円下方墳と特徴的な墳形であるところからすると、この北大谷古墳の墳形も単なる円墳・方墳ではないのではないか、などと思ってしまう。

熊野神社古墳のような葺石の痕跡は見つかっていない一方で、丘陵の北側は丘陵と墳丘を画するように周溝の痕跡が発見されているらしい。

7世紀前半と言えば、推古天皇の摂政であった聖徳太子が遣隋使を派遣、太子亡き後、朝廷内で蘇我氏が権勢を奮っていた、そんな時期である。
畿内では飛鳥寺や法隆寺などが相次いで建立され、古墳祭祀から寺院祭祀へと埋葬・祭祀の方法が移り変わろうとする過渡期にあたり、日本で古墳というものが造られた最期の時期でもあるようだ。
古くからの風習が新しく伝えられた文化に置き換えられようとしていた、そんな時期に、この地にこれだけの規模の石室を持つ伝統的な「古墳」を作った人物は、一体どんな人物だったのだろう。

古墳の規模からすれば、被葬者は多摩川上流域でもかなりの勢力を持った首長であったであろう、とされるものの、墳形や葺石の有無などの相違から、特殊な墳形で葺石を有する熊野神社古墳の被葬者とは身分が異なる人物、と考えられているらしい。

想像を逞しくすると、多摩川上流域を代々支配してきた首長(国造若しくは郡司?)として傑出した勢力を永らく維持しており、武蔵国府に中央から赴任している国司との関係も相応に有していて、中央の最新の情報が得られる立場にありつつ、仏教というものには警戒感を抱きながら、国司を凌駕する豊富な資金力を有するものの、残念ながら国司ほどの官位は有していないことから、上円下方墳や八角形墳などの築造が認められない、旧来からの伝統を重んじる在地豪族、といったイメージを抱くのであるが、いかがであろう。(古墳の主に怒られてしまうだろうか。)

それにしてもここは東京近郊であるにも関わらず、どこか懐かしい里山の雰囲気が色濃く感じられる場所である。
古墳の南西側は木立が途切れて眺望が開けていて、遠く八王子の市街地だろうか、人家が密集しているのが見えている。
木々の芽はまだ固いようだけれど、好天の高台の雑木林は陽だまりで暖かく、墓所というよりは桃源郷のように穏やかである。

09 丘陵上からの眺望

もしかすると、ここに古墳を築いた人物は、ここが後世、開発の手の及ばない、1400年経っても変わらず穏やかであり続ける、そんな場所であることが実はわかっていたのではないだろうか。

桃源郷のような丘の斜面で、少し春の気配のする風に吹かれながら、唐突に、そんなことを思った。


(地図)
北大谷古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「多摩のあゆみ 第137号 多摩川流域の七世紀代古墳」 2010年2月 財団法人たましん地域文化財団
「墳丘からの眺め 北大谷古墳」 http://massneko.hatenablog.com/entry/2017/10/01/000000





コメント

非公開コメント

武蔵野でしょうか

>桃源郷のような丘の斜面で、少し春の気配のする風に吹かれながら、唐突に、そんなことを思った。

〇記事と写真、拝見しました。
 風景がいいですね。雄大な大地に、のどかな昔を思い出させる静けさ、これが埼玉古墳群に繋がる武蔵野でしょうか。
 草々

Re: 武蔵野でしょうか

レインボー様

いつもコメント頂き、どうもありがとうございます。

武蔵国の支配者が、埼玉古墳群などを築いた国造層から、中央集権に基づく国司に移り変わる時期でもあったのだと思いますが、時代が変わりゆく中、それでも変わらずにそこに留まる、ということの意味を(柄にもなく)考えてしまいました。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。