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2018/02/20

名古屋の「繁華街」に残った古墳(2)(愛知県名古屋市 日出神社古墳、大須二子山古墳跡(大須古墳群)、白山神社古墳)

尾張一宮からの帰途、新幹線の時間を遅らせて、名古屋市中区大須周辺の古墳を見に来ている。

那古野山古墳から北に300mほど、台地上を東西に走る若宮大通という大きな道路がある。
日出神社はその若宮大通の南側に鎮座している。

<日出神社古墳>
日出神社の社殿も古墳の墳丘上に建てられている、とされていて、那古野山古墳にあった解説板にもあったとおり、この日出神社古墳も、もともとは5世紀頃に築造された前方後円墳であった、とされているようだ。

01 日出神社遠景

社殿は東を向いて建てられており、鳥居をくぐった先、野菜の露店が出ている駐車場の向こうに参拝者のための賽銭箱があるけれど、社殿への扉には鍵が掛けられている。

02 日出神社近景

社殿に向かって手を合わせ、写真を撮らせて頂きたい旨、お願いしてみたものの、さて、周囲は建物が立ち並んでいて、どちらへ回り込んでみても、社殿の建っている墳丘はよくは見えない。
仕方がないので周囲の石柵の隙間から写真を撮ってみたが、神様のお許しが頂けなかったのだろう、ピントがうまく合わず何だかよくわからない写真になってしまった。

03 日出神社拝殿

墳丘を見るのは諦め、いったん境内を出て、もと来た道から南側へ回ってみると、こちらの一画はビルか何かの基礎工事をしているようで、少し距離はあるが、日出神社の杜が見えている。

04 日出神社古墳遠望

工事関係のクルマが駐車している場所に入らせてもらい、カメラを頭上高く掲げながら1枚撮影させてもらった。気が急いて水平に撮れなかったが、社殿は人の背丈の倍くらいの高さに建っているようで、ずいぶんと高さがあるようである。

05 日出神社古墳遠景

目的の大須古墳群のうち、墳丘が残っていると思われる古墳は以上であるが、那古野山古墳のマウンド以外はほとんど見えなかったせいか、些か物足りない。もう一つだけ、どこか近くの古墳を見に行きたい。

「古墳マップ」で調べると、東に2kmほど行けば、さらに古墳があるようだ。やや南東方向の鶴舞には八幡山古墳と一本松古墳、北東方向には白山神社古墳というものがあるらしい。
八幡山古墳は「東海最大の円墳」で直径82m、国の指定史跡で魅力的であるが、そうなるとすぐ近くの一本松古墳も見たくなってしまい、キリがなくなってしまうので、周辺に別の古墳マークの見当たらない白山神社古墳に行ってみることにした。

白山神社に行くには、バスや地下鉄を使っても、結局最後は徒歩で行くしかないようである。ここから歩いても30分ほどなので、直接徒歩で向かうことにした。

若宮大通を東へ向かうと、久屋大通に向かって緩やかな下り坂となる。同じ熱田台地上でも、西端の熱田面と中央の大曾根面とでは3mほどの高低差があるようだ。
大通り公園から北上して瓦通りを東に進み、栄の繁華街を抜け、西白山まで来ると、白山神社はもうすぐそこである。

<白山神社古墳>
住宅やマンションが立ち並ぶ一画に突然、見上げるほどの高さの小高い丘が姿を現す。
頂上の神社へと階段が続いている。

06 白山神社(古墳後円部)

07 白山神社(古墳後円部)

墳頂の社殿で手を合わせた後、南の方向を見ると、境内が細長く続いている。

08 白山神社(後円部から前方部)

白山神社古墳も前方後円墳とされ、北側の社殿の建っている部分が後円部、細長く伸びている境内が前方部のようだ。

09 白山神社(前方部から後円部社殿)

下へ降りて今度は下から境内を見上げてみた。高さも結構あるようだ。この独立丘全体が古墳の墳丘なのだろうか。もしそうだとすると、墳丘は相当の高さになる。

10 白山神社(古墳括れ部)

「古墳:探訪」というブログによると、古墳は全長85m、後円部直径47m、高さ6m、前方部幅50mで、名古屋市教育委員会が平成19年に行った試掘調査で墳丘の周囲に盾形周濠が確認されたほか、円筒埴輪の破片が採取されたことから、5世紀中頃の築造と考えられるそうだ。
伝承によると古墳の主は「尾張氏」若しくは「物部氏」であるという。

今日は朝から4基の古墳を見て来たが、選んだわけではないものの、いずれも墳形は前方後円墳で、それらが歩いて30分ほどの範囲に分布している。

関東を中心に古墳を見ていると、昨日の一宮今伊勢古墳群もそうであったように、前方後円墳は古墳群の主墳として稀有な存在であって、周辺には複数の円墳群を従えて(?)いる、といったパターンが多いように思う。
多くの前方後円墳が立ち並んでいる、という構図は、それほど多くの古墳を見ている訳ではないので偉そうなことは言えないけれど、見た範囲の狭い知識からすると、さきたま古墳群や多摩川台(荏原台)古墳群といったような、国造の支配拠点だったであろう地域を除くと、さほど多くはないのではないだろうか。

この白山神社古墳と鶴舞にある古墳、大須古墳群とは少し距離があるので一括りにしてしまっていいのかわからないけれど、鶴舞の古墳も、八幡山古墳は円墳であるが(ただし巨大)、一本松古墳もやはり前方後円墳であるし、追記で後述する大須二子山古墳も前方後円墳であったとされる。
さほど広くない範囲にこれだけ前方後円墳ばかり多く築かれた背景は、一体どういったものなのだろう。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)は東征の途次、尾張国造の祖とされる乎止与命(オトヨノミコト)の元を訪ね、娘の美夜受比売(ミヤズヒメ、日本書紀では「宮簀媛」)と婚姻の約束をしたとされる。東征後、倭建命はこの地へ戻り美夜受比売と結婚、草薙劔を置いたまま伊吹山の荒ぶる神の征討に向かい、戦いの末、深手を負って亡くなったとされる。
この、乎止与命は天火明命(アメノホアカリノミコト)を祖神とする一族で、物部氏と同系とされるようだ。
前方後円墳がヤマト政権の象徴、政権から統治を正式に認められた地方豪族のみが築造を許されたものであるならば、倭建命と外戚関係を結ぶほど関係が深く、ヤマト政権中枢との距離が近いことを以って、前方後円墳の築造が許可され、支配が長期にわたったことから国造家代々の墓所として数多くの前方後円墳が累々と築かれていった、ということなのだろうか。

さあ、あまり気は進まないが、東京へ帰るとしよう。やらねばならぬ仕事が山積している。
どうせなら、仕事も前方後円墳の形にでも積みあがれば多少、モチベーションが上がるのだが。


(地図)
大須~白山・鶴舞地図



(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「古墳:探訪」 https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/c20e2711bef5700cab01dc96c2c2a2bb







<追記>大須二子山古墳
那古野山古墳脇にあった「那古野山古墳物語」という解説板を何気なく見たところ、「大須二子山古墳」という名の前方後円墳が描かれていた。

名古屋市博物館のHPによると、6世紀前半に築造された前方後円墳で、現在の名古屋スポーツセンターのある場所にあったとされる。
墳丘の規模は、一説によれば「全長75+8m(周溝の意味か?)、後円部・前方部幅40m、括部幅30m」とも、「全長138m、前方部幅100m、後円部直径72m、高さ10m」とも言われているようだ。
後円部には尾張徳川家の側室の墓所などがあったようだが、空襲で失われた後、道路・球場建設などで発掘調査などを経ないまま、昭和22年頃までに全て破壊されてしまったらしい。工事中に出土したと伝わる銅鏡や馬具、甲冑等の副葬品は名古屋市博物館などに保管されているらしい。

道路にするにしても、せめて調査だけでも、とも思うが、終戦直後の日本である。
皆、生きることに精一杯で、古墳の発掘などしている暇は誰にもなかったのだろう。

古墳も、戦争も、開発も、全て人間の所業である。

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