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2018/02/20

名古屋の「繁華街」に残った古墳(1)(愛知県名古屋市 浅間神社古墳、那古野山古墳(大須古墳群))

愛知県一宮市で旧知の知人と会い、昨夜は名古屋駅前のホテルに泊まった。
翌朝、折角なので東京へ戻る新幹線の時間を遅らせて、名古屋市内の古墳を見てから帰ることにした。

名古屋で古墳と言えば、熱田神宮近くの断夫山古墳や白鳥古墳、守山区の志段味古墳群などが有名なのであろうが、そこまで足を延ばす時間はなさそうである。「古墳マップ」で物色したところ、地下鉄で二駅ほどの大須観音周辺にいくつか古墳が残っていて、「大須古墳群」と呼ばれているらしい。
今日はこれを見て帰ろうと思う。

名古屋駅の東には、比高差10mほどの台地(熱田台地の熱田層)が南北に細長く伸びており、台地の北端に名古屋城、南端には熱田神宮がそれぞれ占地している。大須観音は台地のちょうど中ほどにあるが、西側すぐ近くまで、台地に細長く食い込んだ侵食谷が伸びてきている。
朝の通勤時間帯は既に過ぎており、いつも混んでいる印象のある地下鉄も乗客は疎らであった。
大須観音駅で下車して地上へ出ると、すぐに前方に大須観音が見えて来た。

<大須観音>
目的は「コフン」であるが、観音様の目前を素通りするのもあまりに失礼かと思い、大きな拝殿の階段を上って手を合わせた。
境内は思いのほか広く、2月にしては穏やかな朝陽を浴びて、ハトたちも平和そうである。

01 大須観音

大須観音は元々、岐阜県の大須(羽島市、昨日行った石刀神社もそうであった。)にあったものを、名古屋の城下町建設に際して、徳川家康がこの地に遷座したのが始まりだそうだ。国内最古の古事記写本を始め、貴重な文献を多数所蔵しているらしい。
意外なことに、江戸から明治、大正、戦前までの永きにわたり、この一帯は名古屋で一番の繁華街として大変賑わったそうである。大須観音、万松寺、若宮八幡社などの境内では芝居や相撲、曲芸などの興行が連日のように行われ、戦前までは文句なく名古屋随一といわれた盛り場であったそうである。
そうした土地柄ゆえ、上代の古墳など残っていそうにないのであるが、幸い、いくつかその痕跡を残しているようである。観音様には畏れ多いけれど、先を急がせて頂くとしよう。

<浅間神社古墳>
大須観音から東へ伸びる商店街のアーケードを100mほど進み、一つ目の十字路を右折すると、すぐそこに「富士浅間神社」の鳥居と御社が見える。

02 富士浅間神社

明応4年(1495年)に後土御門院の勅令で駿河本宮富士浅間神社より分霊を勧請したそうで、社殿は古墳の墳丘上に建てられている、とされる。

03 富士浅間神社近景

見たところ拝殿の基壇は盛り上がっているようには見えないので、拝殿脇から後方を見せて頂くと、石で法面が覆われているが、確かに後方にある本殿の基盤は2~3mほど高さがある。墳形や規模、築造年代などはいずれも不明であるが、おそらくこれが墳丘の名残、とされる部分であろう。

04 富士浅間神社古墳


<那古野山古墳>
浅間神社から商店街のアーケードへ戻り、そのまま北に進むと、周囲をビルに囲まれた一画に小高い小山のようなマウンドが姿を現す。

05 那古野山古墳遠望

遊具などはないが小さな公園として整備されており、マウンド中央には頂上へ至る階段が設けられている。

06 那古野山古墳墳丘

先ほどの浅間神社の境内も含め、この一帯は明治の廃仏毀釈で廃寺となるまで「清寿院(富士山観音寺)」という修験道の寺院の境内であったそうで、那古野山古墳は「浪越山」とも呼ばれたこの寺院の境内の築山若しくは富士塚の一部が残存したものと考えられているようだ。

07 浪越公園案内

現存するマウンドの大きさは直径22m、高さ3m余りで、前方後円墳の前方部が削平され、後円部が遺存したものと考えられていたようだが、名古屋市教育委員会が平成7年に行った墳丘確認調査の結果、「古墳の墳丘と考えられた土の多くは、中世以降の盛土」であるとされた。とは言え、埴輪などの遺物も多く出土したことから、「中世盛土の下、若しくは近くに古墳があることも確実」なようだ。

08 那古野山古墳墳頂

現在残っているマウンドは、「5世紀中~後半の古墳を大幅に改変盛土したものが、近世の「浪越山」であり、現状の那古野山古墳でもある」ということのようである。

この調査で墳形に関する確認が行われたのかどうかわからないが、鶴舞中央図書館の発行した「浪越山盛衰記」という資料によれば、古墳はやはり「前方後円墳」であったとされ、元治2年(1865年)に出土した高さ48cmの須恵器(「有蓋脚付短頸壺」)は先ほどの浅間神社で保管されているそうである。

江戸時代の浪越山と浅間神社の姿は、天保15年(1844年)に発行された「尾張名所図会」の「清寿院 善篤寺 大須大門前」の挿絵に見ることができる。

09 尾張名所図会 大須 清寿院(部分)

(右上赤矢印が浪越山(「庚申山」?)、左下赤矢印が浅間神社(「富士権現」?)。浪越山前方には細長い尾根のようなもの(前方部?)が続いており、浅間神社は高いマウンドの上に描かれている。)

明治24年の地図でも、一面が市街地として黒く塗り潰された中、大須観音の東に旧清寿院の境内と思われる一画があり、そこに大小二つの「塚/古墳記号」のようなものが見えている。

10 明治24年「名古屋(二万分の一)」(部分)

(上下に並んだ上が「浪越山」、下は判別しづらいが「浅間神社古墳」か? 「今昔マップ on the web」 明治24年測図、明治26年7月発行 「名古屋(二万分の一)」より。)

名古屋随一の繁華街として都市化が急速に進む中、幸運にも寺社の境内に取り込まれたことで開発の波に飲み込まれることなく、今日までその姿を留め得たのであろう。

長くなったので、続きはまた次回。

(地図)
名古屋大須地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「名古屋の幻の富士山 浪越山盛衰記」 2011年12月 名古屋市鶴舞中央図書館
https://www.library.city.nagoya.jp/img/kensaku/osusume/adult2011/hoshi2_201112.pdf
「大須二子山古墳の画文帯仏獣鏡」 名古屋市博物館 http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_02/index.html

コメント

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市内の小古墳がどのような経過で残存

>江戸時代の浪越山と浅間神社の姿は、天保15年(1844年)に発行された「尾張名所図会」の「清寿院 善篤寺 大須大門前」の挿絵に見ることができる。

〇興味深い記事でした。
 市内の小古墳がどのような経過で残存できたのか、説得力のある記事でした。
 草々

Re: 市内の小古墳がどのような経過で残存

レインボー様、いつもご覧頂き、どうもありがとうございます。

少し南の方にあったという二子山という古墳も寺院の境内となり、尾張徳川家側室の墓所などもあったようですが、空襲で焼失してしまったらしく、その後、体育施設や道路用地となって消滅してしまったようです。

文化財にもそれぞれ運不運のようなものがあるのだな、と感じます。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。