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2017/12/05

小山を転用した新宿の富士塚(東京都新宿区 成子天神社富士塚)

前回に引き続き、中野坂上周辺を訳あって散策している。

前回紹介した「宝仙寺」であるが、江戸名所図会によればここには「馴象の枯骨(じゅんぞうのここつ)」、なるものが伝わっているという。

享保13年(1728年)、ベトナムからの朝貢品として牡牝二頭の象が海を渡り、将軍吉宗の謁見を受けたという話には聞き覚えがあった。鼻の長い象を初めて見た江戸の人々はたいそう仰天したそうだ。
象はそれから暫く浜御殿で飼育された後、この中野村の源助という者に下げ渡され、このあたりに建てられた象小屋(象廐:キサヤ)で飼育されていたらしい。象は寛保2年(1742年)に亡くなったが、その牙が戦災をくぐり抜け、一部が今でも宝仙寺に残っている、という。

残された象牙を見るのは少し忍びないが、象が飼育されていた象廐は、中野坂上の交差点の南西200mほどのところにある幼稚園のあたりにあったそうだ。

01 中野坂上象廐跡

02中野坂上象廐跡

少し前に亡くなった井の頭公園の象の「はな子」は、絵本になるほど多くの人々に愛されたそうであるが、江戸時代、遠い異国に連れて来られた象は一体どんな気持ちで我々日本人を見つめていたのだろうか。

再び坂上の交差点に戻り、青梅街道を新宿方面に下る。

地形図を見ると、中野坂上の交差点は西から細長く伸びる標高差8mほどの舌状台地の先端にあるためか、交差点から四方へ伸びる道は、西へ向かう青梅街道以外は全て下り坂になっている。

東側の崖下を流れるのは神田川で、古くはここが豊島郡と多磨郡の境であったらしい。

神田川にかかる淀橋には、自らの財産の隠し場所を他人に知られまいと、中野長者鈴木九郎が使用人の命を奪った、という伝説が伝わっている。行きに一緒に橋を渡った使用人の姿が帰りには見えなくなったので、「姿見ずの橋」と呼ばれたそうであるが、鷹狩りでこの地を訪れた将軍家光がこの不吉な話を嫌い、淀の流れを思い起こさせるので、以降、淀橋と呼ぶように、と命じて以降、この橋は淀橋と呼ばれるようになったそうだ。

03 淀橋


何となく背後を気にしながら淀橋を渡ると新宿区に入る。青梅街道沿いに立ち並ぶ高層マンションの向こう側へ回ると、成子天神社がある。

<成子天神社富士塚>
成子天神社は学業の神様である菅原道真公を祀る神社で、周辺の再開発に伴い平成26年に再整備されたそうで、境内はすっきりと明るく、清潔な感じの都会的な神社であるが、本殿(拝殿)の向こうにマンションが見えているのは、何だか見慣れない光景ではある。

04 成子天神社

この場所は、神田川が南北に削った幅500mほどの谷に面した高さ5mほどの段丘の縁に位置しており、もともと「大神宮」と呼ばれる神社が古くから祀られていたらしい。
平安時代、菅原道真公が亡くなった際、その生前の姿が彫られた像を都より持ち帰り、この地に祀ったのが神社としての始まりとされるようだ。
本殿でお詣りを済ませた後、目指す富士塚は左奥、境内の北西隅に周囲をすっかり高層ビルに囲まれた状態で残っている。

05 成子天神社富士塚

高さは12m、新宿区では最大の富士塚で、大正9年に境内に残されていた「天神山」という小山を富士塚に転用して築かれた、とある。

06 成子天神社富士塚解説

登山口は解説板の隣にあり、開門時は誰でも上ってよいようだが、いざ上ってみると、下から見上げる以上に高く、そして大きい。

07 成子天神社富士塚

08 成子天神社富士塚


ところで、解説板にもあったように、もともとここにあったという「天神山」は一体どういう性質の「小山」だったのだろうか、と思う。(要は「古墳」だったのではないか、と期待を交えて勘繰っているのである。)

ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」には、富士塚に転用される前の天神山に関する「豊多摩郡史」の記述が引用されていて、それによると梅の木などが植えられた眺望のよい小山だったようだ。

この「天神山」が自然地形に起因する山であったのか、それとも人為的なものだったのか、決め手となるものは残されていないようであるが、明治42年(富士塚築造前)の地図を眺めると、現在富士塚のあるあたりに古墳/塚を表す記号のようなものが見える。もしかするとその当時、天神山は自然地形ではなく、何等か人為的なマウンドとして認識されていたのかも知れない。(これにはかなり個人的な「期待」が含まれていて、冷静で客観的な判断はついぞしていない。)

ついでに視線を前回の宝仙寺三重塔の「梵塔」記号に移すと、そのすぐ左下(南西)にも、同じように「古墳」記号のようなものが描かれているように見える。(これも同じく全く恣意的な「希望」ではある。)

09 明治42年地図(成子天神社周辺)

10 明治42年地図(中野三重塔周辺)

(著作権の問題などがあるようなので、必要な部分だけを拡大。上が成子天神社富士塚のあたり、下が中野坂上の宝仙寺三重塔周辺。赤矢印が「古墳/塚」記号?いずれも明治42年測図、大正2年製版「中野(二万分の一」より。)

前回も引用した「都心部の遺跡」という調査報告書には、古い時代の地図などに残されている古墳記号に関する調査結果なども掲載されているが、富士塚転用前の天神山については特段言及されていない。
「東京都遺跡地図」でも成子天神社の富士塚については特段の記載は見当たらないところからすると、やはり「天神山」が人為的なマウンド(というか古墳)であった、という可能性はないのかも知れない。

だがしかし、永遠に失われてしまった在りし日の風景を、地形図や古記録から自分勝手に妄想する、こんな想像のひとときが、また、楽しいのである。

11 成子天神社


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/



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