FC2ブログ
2017/08/27

隅田川に伝わる人買い伝説の塚(1)(東京都墨田区 木母寺梅若塚)

訳あって、長いことブログの更新ができなかった。
いつの間にかすっかり季節が進んでしまい、何と年が変わってしまった。今日は2018年の1月1日である。
ようやくブログの更新をする時間ができたのだが、今日書くことができるのはだいぶ以前、まだ暑かった真夏の頃の話である。

===========================================

日頃の運動不足の解消、という訳でもないが、夫婦揃って折り畳み式の自転車を買った。

会社勤めを辞してからというもの、移動は専らクルマになり、最近身体もなまってきた上に、これはどうにも地球に優しくないな、と思っていた。
今回は妻と二人、折り畳み自転車で、隅田川に伝わる伝承・伝説に纏わる塚を回ってみようと思う。

<梅若塚>
墨堤通りから一本東の細い路地に入り、コインパーキングにクルマを停め、自転車に乗り換える。
本題からは外れるが、この道は「下の道」と呼ばれる古い道で、源頼朝も通った由緒ある道のようであるが、今はすっかり地元の生活道となっている。

01 下の道


木母寺は平安中期の貞元2年(977年)の創建と伝わる古寺で、境内奥には「梅若堂」と「梅若塚」が並んでいる。

02 梅若堂と梅若塚


木母寺は昭和51年に防災拠点建設のため、現在地に移転してきたそうで、移転前は現在地よりも150mほど東、墨堤通りに面した区立梅若公園のあたりにあって、梅若塚も昭和51年に寺と共に現在地に移転してきたそうである。
梅若堂は明治22年の建立で、関東大震災や東京大空襲などの災禍から奇跡的に生き残ったものの、木造建築が認められない防災拠点への移築に際して、全面をガラスケースで覆われている。

03 梅若堂


梅若塚はその梅若堂の手前に、まるで石碑の土台のような形に見えているが、周囲を覆う石組みの一部は旧地にあった時代のもののようだ。

04 梅若塚全景

05 梅若塚近景


この「梅若塚」には寺の創建に関わる古い伝説が伝わっている。寺でもらった「木母寺略誌」には、「梅若塚(梅若山王権現堂)の由来」が次のとおり書かれている。少し長いが原文のまま引用する。

「梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976年)3月15日なり。いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はは応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り悲歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」

梅若伝説は、室町時代に成立したとされる謡曲「隅田川」で取り上げられ、後世、元禄から享保年間にかけてこうした「隅田川物」と呼ばれる文芸作品が大流行したことで広く世に知られることとなり、江戸時代、木母寺には数多の人々が参拝しただけでなく、徳川将軍家の庇護も受け、大変な賑わいを見せたようである。

06 江戸名所記 巻三角田川(梅若堂と梅若塚)
(「江戸名所記」 巻三 「角田川」より梅若堂と梅若塚)

この話は、人身売買が一般的であったとされる中世の時代の空気感を今に伝えるとともに、都から東国へと向かう奥州街道がこの地を通っていたことを教えてくれる。

昭和2年に発行された鳥居龍蔵氏の「上代の東京と其周囲」という、古墳に興味のある方には有名な書籍にもこの梅若塚に関する記述があり、当時の梅若塚の写真とともに前出の「江戸名所記」の挿絵が紹介されていて、「而も此の繪を見ると、非常に大きな塚であつて、さうして其の上に祠が設けられて居る。・・・略・・・これ等から考へて見ると、今日見るやうな塚よりも、非常に大きな塚であつて、それが長い年月の間に、段々小さくなつて来たやうに見へる」と書かれている。

07 上代の東京と其周囲p86梅若塚写真
(「上代の東京と其周囲」より「梅若の塚」)

移転前の梅若塚やいかに、と思っていたが、上記を見ると昭和の初め、塚の周囲は既に大人の腰の高さほどの石で巻かれているものの、現在よりは一回り大きかったようであり、祠が建っている部分の塚の高さは大人の背丈ほどが残っていたように見える。

上記の書籍の中で、梅若塚と思われる記述は既に、江戸時代初期に成立したとされる「慶長見聞集」や、長享元年(1487)年成立とされる道興准后の「廻国雑記」にもみられる、とあり、梅若塚は相当古くから存在したのではないか、とされている。当時、周辺には業平塚や牛御前の隣、秋葉杜内など、他にも多くの「古墳」と思われる遺構が存在したらしく、鳥居博士は梅若塚もこうした上代の古墳の一つだったのではないか、と考えていたようだ。

隅田川畔の自然堤防状の微高地にあったであろう、在りし日の梅若塚の旧地を見に行ってみようと思う。


<梅若塚旧蹟>
移転前、梅若塚があった場所は、どのような関連があるのかはわからないが、現在は榎本武明の銅像の立つ公園になっていて、その公園の奥まったところに「梅若塚旧蹟」の碑が建っている。

08 梅若塚旧蹟


すっかり整地され、元の地形は全く想像もつかないが、公園の周囲を巡る盛土は自然堤防時代の名残りではないか、というのは儚い期待であろう。

少し離れた場所に解説板と、梅若堂の輪郭が黒く書かれた透明なガラス板が設置されている。ガラス板越しに見ると、ここに梅若堂があった時代の風景が見えるような仕掛けになっていて大変に興味深いが、残念ながら公園には、歓声を上げながら自転車で走り回る子供達と、ベンチで一人静かに新聞を読む老紳士の姿しか見えない。彼らにはこうした仕掛けはもはや当たり前のもので珍しくもないのだろうか、ガラス板を覗き込んで感心しているのは我々夫婦だけだった。

09 在りし日の梅若堂


続いて、隅田川対岸に残る、梅若丸の母親の墓と言われる妙亀塚へ行ってみようと思うが、長くなったので続きはまた次回・・・。


(地図)
梅若塚地図


(参考資料)
「木母寺略誌」 天台宗木母寺
「上代の東京と其周囲」 鳥居龍蔵著 磯部甲陽堂 昭和2年1月
「隅田川の伝説と歴史」 すみだ郷土文化資料館編 2000年6月
「濹東向島の道」 鈴木都宣著 2000年1月
「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/



コメント

非公開コメント

No title

明けましておめでとうございます。

梅若塚のことは少し本で読んだことはあります。いつも楽しみに拝見させて頂いております。

本年も宜しくお願い致します。

Re: No title

あけましておめでとうございます。

だいぶ間が開いてしまいましたが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。