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2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(1)(神奈川県川崎市 二子塚古墳跡/北見方古墳跡(二子・諏訪古墳群))

低地古墳とか、微高地古墳という言葉は一般用語ではないかも知れないが、以前、川崎市中原区に点在する多摩川下流域の自然堤防上に残る古墳の痕跡を見て回った。
市街化の著しい多摩川下流域の平野部にあって今なお、往時の痕跡を留めている古墳はとても面白かった。
今日はその続編、という訳ではないが、幸い雨も降らなさそうなので、気分転換に中原区の上流に隣接する高津区の低地古墳を見に行きたいと思う。

高津区の北東部は多摩川に面しており、そのちょうど中ほど、厚木街道(大山街道)が二子橋で多摩川を渡っているあたりが二子地区、そこから下流に向かって諏訪地区、北見方地区と続く。この3地区にはいくつか現存するものを含め多くの古墳があり、それらは総称して「二子・諏訪古墳群」と呼ばれている。
まず最初に、二子地区にあった古墳跡から見に行ってみようと思う。


<二子塚古墳跡>
二子塚古墳は「二子」の地名の由来となった古墳で、大正時代までに削平されてしまったらしく、今となっては見ることはできないが、在りし日の姿が以下のとおり、新編武藏風土記稿に残されている。

「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり 其の一は塚の敷一段二十歩の徐地にて高さ五丈許 形丸く芝山にて樹木なし 故に土人坊主塚などいへり ・・・(中略)・・・一は少しく東の方ヘ寄てあり 徐地六畝廿九歩高さ二丈五尺あり 南の方少し欠けて上に若木の雑木生立り」

二つの塚が少し離れて並んでいたことから「二子塚」と呼ばれていて、塚の間を奥州古道が通っていた、とされる。明治39年の地図でも二つの塚が表記されており、塚の間ではないが、塚の脇をかすめて北方へと続く小路が描かれている。(明治39年の地図は今昔マップ on the webでも確認できる。)
これらの情報からすると、古墳は長さ60mほどの前方後円墳ではなかったか、と言われているらしく、川崎市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」では、昭和8年の地割図上で墳形を推定復元して掲載している。

01 二子塚古墳墳丘復元イメージ

絵心がないのでお寒い図で大変恐縮であるが、概ね上図のような位置関係であったようである。

後円部の輪郭を残していると思われる北側の小路(上図ではグレー表示となっている)は、唯一残る古墳の痕跡と言っていいのだろう、現在でも円弧を描いていて、円弧の内側、後円部があったと思われる部分は一部、空き地となっている。
無理をすれば、古墳があった頃を妄想できないこともないが、あいにく住宅地で人通りが多く、空き地を眺めて遠い目をしている不審なオッサンを皆、チラチラと横目で見ながら通り過ぎて行く。

02 二子塚古墳跡

二子塚古墳は消滅してしまったが、古墳があった場所のやや西(左)、細長い公園に「史蹟二子塚之碑」が立っている。

03 史蹟二子塚之碑

昭和43年に立てられた碑で、公園内にはこの他にもう一つ、見たところ見当たらないのだが、大正4年に立てられた「二子塚舊蹟」碑があるらしく、この碑の存在によって、少なくとも大正4年には既に「舊(旧)蹟」となっており、墳丘は姿を消していたことがわかるらしい。

古墳は大正の中頃に発掘されたと伝わり、勾玉や耳環、鈴釧(すずくしろ:周囲に複数の鈴のついた腕輪)などが出土、神奈川県庁に納められたとされるが、それらの所在は不明となっているようだ。ただし、鈴釧については写真が残っているらしく、周辺の古墳からの出土遺物との比較から、二子塚古墳の築造時期は6世紀前半頃と考えられているようである。

「史蹟二子塚之碑」の立つ公園の片隅では、川崎市内で昭和42年まで活躍していたトロリーバス(ポールで電線から電気を取り込んで走った電気バス)の実物が静かに余生を送っている。

04 史蹟二子塚之碑とトロリーバス

こういう余生の送り方は何だか羨ましい。

直感的で分かりやすい方向指示器の造形は現在でも十分、印象的である。

05 トロリーバス


<北見方古墳跡>
二子塚から府中街道を東へ350mほど進むと、右方向に旧道が直進で分岐していく。旧道を進むと、左手から道が再び合流してくる。合流してきた道は今通った旧道に代わってできた新道のようだが、現在の府中街道はさらに北方を通っている。
この古い新道と旧道との合流地点の北側に、明治39年の地図には塚のマークが見えており、川崎市市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」ではこれが「北見方古墳」であろう、としている。下の写真の瀟洒なマンションが建っているあたり、がそうだと思われる。

06 北見方古墳跡?(1)

直径16mほどの円墳であったようだが、現在では古墳の痕跡を感じるものは残されていない。
だが、そう思って見れば、考えすぎかも知れないが、道路が少し湾曲しているように見えなくも、ない。

07 北見方古墳跡?(1)

おそらく無関係なはずだと、心で思っているのだが、道路脇に大きな石が埋まっていて、気になる。

08 北見方古墳跡?(1)道路脇の石

この古墳は正確な位置はわかっていないようで、川崎市の遺跡地図 「ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム」では、ここから200mほど北にあるマンションの駐車場(下の写真中央付近)に古墳マーク(高津区遺跡No.145)が付してある。

09 北見方古墳跡?(2)

一部解読不能な文字があり恐縮だが、新編武藏風土記稿では以下のように記されている。

「古塚 村の北の方にあり田間に突出せり高さ七尺餘 敷の径六間許 何塚と云うことも傳へず中古里正掘りて平田を発(?)んとせしに古陶器井(?)に壺など出しかさま〇(?)証となすべき物なし古へ故ある人の葬地などにてもあるが今は上に石の地蔵を建」

当時、既に名前も伝わっておらず、開墾のため削平・縮小していたようであるから、正確な場所がわからなくなっているのも仕方がないことかも知れないが、塚上に石のお地蔵様が建っていたというのであれば、塚はなくなっても、お地蔵様は依然としてどこかに祀られているかも知れない。

そう思って周辺を歩いてみたが、平日の住宅街、カメラ片手にウロウロするのはどうにも憚られる。
仕方がないが、諦めて次なる古墳を見に行こうと思う。次は墳丘の現存する古墳であるが、長くなったので続きはまた次回。


(地図)
高津区地図①


(参考資料)
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年 川崎市民ミュージアム
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21




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