琵琶の形?の桜の丘(さいたま市西区 琵琶島古墳跡)
大宮で、お客さんの大事な商談に同席することになった。
2020年の3月も明日で終わりである。コロナ禍がだいぶ深刻になり始めた時期で、首都圏ではちょうど外出自粛要請が出され、都県境を越えるような移動は控えたいところだが、商談そのものがコロナ禍を受けた深刻なものであるから止むを得まい。
大宮の街へは最近あまり行っておらず、不慣れなので、時間に遅れてしまっては大変であるから、余裕を持って出発したところ、自粛要請で高速道路はスッカスカに空いており、1時間ほどの余裕を保ったまま与野ジャンクションまで到達してしまった。
このまま目的地近くの駐車場へ停めてしまってもいいのだが、車中で1時間待つのもしんどいので、高速を降りて新大宮バイパスをそのまま北進することにした。
3kmほど北上して三橋五丁目北交差点で西へ折れ、県道2号線をしばらく進むと指扇地区に入り、台地上を走ってきた県道は大きく蛇行して、ゆるい下り坂で比高差7mほどの荒川低地へと降りて行く。
このあたりの字名は「琵琶島」となっていて、台地縁の一帯には琵琶島貝塚、新屋敷貝塚など縄文海進時代の貝塚が分布している。
そんな琵琶島地区の南、舌状台地の縁から100mほど離れた場所に、全長80mはあろうかという細長くて大きな丘があり、頂きに神社の祠を頂いている。
さいたま市の遺跡地図を見ると、この細長い丘全体が古墳時代後期の「遺跡番号12-395 琵琶島古墳」とされており、グーグルマップでは丘の北端、神社の祠があるあたりに「琵琶島古墳」のマーカーがついている。
そうか、これ、古墳なのか、ずいぶん大きくて立派な墳丘だなあ、細長いのは前方後円墳の名残りかなあ、と思いながら丘の南東側へ回ると丘上へと続く参道と鳥居があり、綺麗に手入れされた花壇に色とりどりの春の花と、折しも満開の桜吹雪が参道を染めていた。
入り口脇にはお供え物を前にした浮彫の青面金剛像が立っていて、桜の花びらを纏って心なしかうれしそうにも見える。
石像に手を合わせ、一礼して鳥居を潜り、参道を進むと先ほど下から見えた祠が見えてくる。
鳥居の扁額には「稲荷神社」、さいたま市の遺跡地図では「八雲神社」と表記されていて混乱するが、先ほどの青面金剛様同様、こちらにもきちんと飲料水が供えられていて、ほっとする。
あまり時間がなかったのでこの日はそのまま大宮駅前へ行き、帰宅してから色々と調べてみた。
そもそも「琵琶島古墳」であるが、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」を見ると何と「方墳」と書かれている。あの細長い墳丘がどうやったら方墳になるのだろうか、と疑問に思いながら調べると、細長い丘そのものはどうやら古墳の墳丘ではないようである。
「埼玉の古墳 北足立・入間」によれば、昭和47年に新屋敷貝塚の発掘調査をした際、「舌状台地の平坦部」に「古墳跡」が見つかり、「幅2~2.8mの周溝の一部が発掘された」のだそうだ。しかもその周溝は「ほぼ直角に曲がっており、方墳の可能性も考えられる」とある。周囲には主体部の横穴式石室の石材と思われる砂質凝灰岩が散在しており、周溝内からは長頸壺の頸部が出土、さいたま市立博物館に収蔵されているのだそうだ。
古墳跡が見つかったのは最初に見た古墳北側、祠の立つあたりであろうか、kohunsukiさんの「関東の古墳&陵墓研究」というブログによると丘の裾部あたりだったようだ。舌状台地の縁から離れた荒川低地上でも、カシミール3Dで標高を測ると丘の裾部でも1mほど周囲よりも高い場所にあるようなので、古墳は荒川低地の微高地上に築かれていたということかも知れない。
では一体、あの細長い丘は何なのだろうか。自然地形か、はたまた神社を祀るために人工的に造られた後世の盛土なのだろうか。
このあたりの字名である「琵琶島」の地名の由来を調べてみると、この辺りは昔、周辺に海が迫っていた頃(というから縄文海進の時代?)、島は海中にあって、丸い形が琵琶のように見えたので琵琶島と呼ばれていたのではないか、という記述があった。
縄文海進の時代に人々が楽器の琵琶の形を想像した、という訳でもないだろうから、昔、海だったはずの場所にある楕円形の丘で、形が琵琶に似ている、と後の世の人々が名付けた、という意味であろうが、少なくとも明治39年頃の地図では既に細長い塚のマークがここに描かれており、明治以前にこれほど大きな丘を、神社を祀るために人手だけで土を盛って築いた、ということもないだろうから、やはりこの丘は自然地形であって、間違っても前方後円墳の名残り、という訳ではないようである。(個人的にはまだ諦めきれていないが・・・。)
ところで現在、細長い丘は青面金剛さんの立っていた場所から始まっているけれど、さいたま市の遺跡地図ではもう少し南、道路を挟んだ反対側まで遺跡の包蔵地として指定されている。
昭和の頃の航空写真で見ると、丘の南側にもこんもりとした森が続いていたようなので、鳥居の向こう側、現在駐車場になっている敷地まで丘状地形は続いていて、丘は今よりももっと長かったようではある。
(1979年10月撮影の航空写真より周辺部を拡大。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」 より)
桜の花というのは何故か曇り空にもよく似合う気がする。
この時は、コロナがその後、我々の生活をここまで変えてしまうとは夢にも思ってもいなかったのだが、今になって思えば、曇り空の下、琵琶島で見た桜は、我々のそんな将来を教えてくれていたのかも知れない。
<投稿:2022.2.28>
(参考)
「埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ」 https://www.pref.saitama.lg.jp/isekimap/index.html
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」 1994年3月 埼玉県教育委員会
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
「関東の古墳&陵墓研究」 kohunsukiさん http://kohunsuki.livedoor.blog/archives/801756.html
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
2020年の3月も明日で終わりである。コロナ禍がだいぶ深刻になり始めた時期で、首都圏ではちょうど外出自粛要請が出され、都県境を越えるような移動は控えたいところだが、商談そのものがコロナ禍を受けた深刻なものであるから止むを得まい。
大宮の街へは最近あまり行っておらず、不慣れなので、時間に遅れてしまっては大変であるから、余裕を持って出発したところ、自粛要請で高速道路はスッカスカに空いており、1時間ほどの余裕を保ったまま与野ジャンクションまで到達してしまった。
このまま目的地近くの駐車場へ停めてしまってもいいのだが、車中で1時間待つのもしんどいので、高速を降りて新大宮バイパスをそのまま北進することにした。
3kmほど北上して三橋五丁目北交差点で西へ折れ、県道2号線をしばらく進むと指扇地区に入り、台地上を走ってきた県道は大きく蛇行して、ゆるい下り坂で比高差7mほどの荒川低地へと降りて行く。
このあたりの字名は「琵琶島」となっていて、台地縁の一帯には琵琶島貝塚、新屋敷貝塚など縄文海進時代の貝塚が分布している。
そんな琵琶島地区の南、舌状台地の縁から100mほど離れた場所に、全長80mはあろうかという細長くて大きな丘があり、頂きに神社の祠を頂いている。
さいたま市の遺跡地図を見ると、この細長い丘全体が古墳時代後期の「遺跡番号12-395 琵琶島古墳」とされており、グーグルマップでは丘の北端、神社の祠があるあたりに「琵琶島古墳」のマーカーがついている。
そうか、これ、古墳なのか、ずいぶん大きくて立派な墳丘だなあ、細長いのは前方後円墳の名残りかなあ、と思いながら丘の南東側へ回ると丘上へと続く参道と鳥居があり、綺麗に手入れされた花壇に色とりどりの春の花と、折しも満開の桜吹雪が参道を染めていた。
入り口脇にはお供え物を前にした浮彫の青面金剛像が立っていて、桜の花びらを纏って心なしかうれしそうにも見える。
石像に手を合わせ、一礼して鳥居を潜り、参道を進むと先ほど下から見えた祠が見えてくる。
鳥居の扁額には「稲荷神社」、さいたま市の遺跡地図では「八雲神社」と表記されていて混乱するが、先ほどの青面金剛様同様、こちらにもきちんと飲料水が供えられていて、ほっとする。
あまり時間がなかったのでこの日はそのまま大宮駅前へ行き、帰宅してから色々と調べてみた。
そもそも「琵琶島古墳」であるが、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」を見ると何と「方墳」と書かれている。あの細長い墳丘がどうやったら方墳になるのだろうか、と疑問に思いながら調べると、細長い丘そのものはどうやら古墳の墳丘ではないようである。
「埼玉の古墳 北足立・入間」によれば、昭和47年に新屋敷貝塚の発掘調査をした際、「舌状台地の平坦部」に「古墳跡」が見つかり、「幅2~2.8mの周溝の一部が発掘された」のだそうだ。しかもその周溝は「ほぼ直角に曲がっており、方墳の可能性も考えられる」とある。周囲には主体部の横穴式石室の石材と思われる砂質凝灰岩が散在しており、周溝内からは長頸壺の頸部が出土、さいたま市立博物館に収蔵されているのだそうだ。
古墳跡が見つかったのは最初に見た古墳北側、祠の立つあたりであろうか、kohunsukiさんの「関東の古墳&陵墓研究」というブログによると丘の裾部あたりだったようだ。舌状台地の縁から離れた荒川低地上でも、カシミール3Dで標高を測ると丘の裾部でも1mほど周囲よりも高い場所にあるようなので、古墳は荒川低地の微高地上に築かれていたということかも知れない。
では一体、あの細長い丘は何なのだろうか。自然地形か、はたまた神社を祀るために人工的に造られた後世の盛土なのだろうか。
このあたりの字名である「琵琶島」の地名の由来を調べてみると、この辺りは昔、周辺に海が迫っていた頃(というから縄文海進の時代?)、島は海中にあって、丸い形が琵琶のように見えたので琵琶島と呼ばれていたのではないか、という記述があった。
縄文海進の時代に人々が楽器の琵琶の形を想像した、という訳でもないだろうから、昔、海だったはずの場所にある楕円形の丘で、形が琵琶に似ている、と後の世の人々が名付けた、という意味であろうが、少なくとも明治39年頃の地図では既に細長い塚のマークがここに描かれており、明治以前にこれほど大きな丘を、神社を祀るために人手だけで土を盛って築いた、ということもないだろうから、やはりこの丘は自然地形であって、間違っても前方後円墳の名残り、という訳ではないようである。(個人的にはまだ諦めきれていないが・・・。)
ところで現在、細長い丘は青面金剛さんの立っていた場所から始まっているけれど、さいたま市の遺跡地図ではもう少し南、道路を挟んだ反対側まで遺跡の包蔵地として指定されている。
昭和の頃の航空写真で見ると、丘の南側にもこんもりとした森が続いていたようなので、鳥居の向こう側、現在駐車場になっている敷地まで丘状地形は続いていて、丘は今よりももっと長かったようではある。
(1979年10月撮影の航空写真より周辺部を拡大。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」 より)
桜の花というのは何故か曇り空にもよく似合う気がする。
この時は、コロナがその後、我々の生活をここまで変えてしまうとは夢にも思ってもいなかったのだが、今になって思えば、曇り空の下、琵琶島で見た桜は、我々のそんな将来を教えてくれていたのかも知れない。
<投稿:2022.2.28>
(参考)
「埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ」 https://www.pref.saitama.lg.jp/isekimap/index.html
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」 1994年3月 埼玉県教育委員会
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
「関東の古墳&陵墓研究」 kohunsukiさん http://kohunsuki.livedoor.blog/archives/801756.html
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
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