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2020/03/30

琵琶の形?の桜の丘(さいたま市西区 琵琶島古墳跡)

大宮で、お客さんの大事な商談に同席することになった。

2020年の3月も明日で終わりである。コロナ禍がだいぶ深刻になり始めた時期で、首都圏ではちょうど外出自粛要請が出され、都県境を越えるような移動は控えたいところだが、商談そのものがコロナ禍を受けた深刻なものであるから止むを得まい。
大宮の街へは最近あまり行っておらず、不慣れなので、時間に遅れてしまっては大変であるから、余裕を持って出発したところ、自粛要請で高速道路はスッカスカに空いており、1時間ほどの余裕を保ったまま与野ジャンクションまで到達してしまった。
このまま目的地近くの駐車場へ停めてしまってもいいのだが、車中で1時間待つのもしんどいので、高速を降りて新大宮バイパスをそのまま北進することにした。

3kmほど北上して三橋五丁目北交差点で西へ折れ、県道2号線をしばらく進むと指扇地区に入り、台地上を走ってきた県道は大きく蛇行して、ゆるい下り坂で比高差7mほどの荒川低地へと降りて行く。
このあたりの字名は「琵琶島」となっていて、台地縁の一帯には琵琶島貝塚、新屋敷貝塚など縄文海進時代の貝塚が分布している。
そんな琵琶島地区の南、舌状台地の縁から100mほど離れた場所に、全長80mはあろうかという細長くて大きな丘があり、頂きに神社の祠を頂いている。

01 琵琶島古墳跡?遠景

02 琵琶島古墳跡?

さいたま市の遺跡地図を見ると、この細長い丘全体が古墳時代後期の「遺跡番号12-395 琵琶島古墳」とされており、グーグルマップでは丘の北端、神社の祠があるあたりに「琵琶島古墳」のマーカーがついている。

03 琵琶島古墳跡?

そうか、これ、古墳なのか、ずいぶん大きくて立派な墳丘だなあ、細長いのは前方後円墳の名残りかなあ、と思いながら丘の南東側へ回ると丘上へと続く参道と鳥居があり、綺麗に手入れされた花壇に色とりどりの春の花と、折しも満開の桜吹雪が参道を染めていた。

04 墳丘?入口の花々

入り口脇にはお供え物を前にした浮彫の青面金剛像が立っていて、桜の花びらを纏って心なしかうれしそうにも見える。

05 青面金剛様

石像に手を合わせ、一礼して鳥居を潜り、参道を進むと先ほど下から見えた祠が見えてくる。

06 墳丘?上へ

07 墳丘?上の稲荷神社祠

鳥居の扁額には「稲荷神社」、さいたま市の遺跡地図では「八雲神社」と表記されていて混乱するが、先ほどの青面金剛様同様、こちらにもきちんと飲料水が供えられていて、ほっとする。

あまり時間がなかったのでこの日はそのまま大宮駅前へ行き、帰宅してから色々と調べてみた。

そもそも「琵琶島古墳」であるが、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」を見ると何と「方墳」と書かれている。あの細長い墳丘がどうやったら方墳になるのだろうか、と疑問に思いながら調べると、細長い丘そのものはどうやら古墳の墳丘ではないようである。

「埼玉の古墳 北足立・入間」によれば、昭和47年に新屋敷貝塚の発掘調査をした際、「舌状台地の平坦部」に「古墳跡」が見つかり、「幅2~2.8mの周溝の一部が発掘された」のだそうだ。しかもその周溝は「ほぼ直角に曲がっており、方墳の可能性も考えられる」とある。周囲には主体部の横穴式石室の石材と思われる砂質凝灰岩が散在しており、周溝内からは長頸壺の頸部が出土、さいたま市立博物館に収蔵されているのだそうだ。
古墳跡が見つかったのは最初に見た古墳北側、祠の立つあたりであろうか、kohunsukiさんの「関東の古墳&陵墓研究」というブログによると丘の裾部あたりだったようだ。舌状台地の縁から離れた荒川低地上でも、カシミール3Dで標高を測ると丘の裾部でも1mほど周囲よりも高い場所にあるようなので、古墳は荒川低地の微高地上に築かれていたということかも知れない。

では一体、あの細長い丘は何なのだろうか。自然地形か、はたまた神社を祀るために人工的に造られた後世の盛土なのだろうか。

このあたりの字名である「琵琶島」の地名の由来を調べてみると、この辺りは昔、周辺に海が迫っていた頃(というから縄文海進の時代?)、島は海中にあって、丸い形が琵琶のように見えたので琵琶島と呼ばれていたのではないか、という記述があった。
縄文海進の時代に人々が楽器の琵琶の形を想像した、という訳でもないだろうから、昔、海だったはずの場所にある楕円形の丘で、形が琵琶に似ている、と後の世の人々が名付けた、という意味であろうが、少なくとも明治39年頃の地図では既に細長い塚のマークがここに描かれており、明治以前にこれほど大きな丘を、神社を祀るために人手だけで土を盛って築いた、ということもないだろうから、やはりこの丘は自然地形であって、間違っても前方後円墳の名残り、という訳ではないようである。(個人的にはまだ諦めきれていないが・・・。)

ところで現在、細長い丘は青面金剛さんの立っていた場所から始まっているけれど、さいたま市の遺跡地図ではもう少し南、道路を挟んだ反対側まで遺跡の包蔵地として指定されている。
昭和の頃の航空写真で見ると、丘の南側にもこんもりとした森が続いていたようなので、鳥居の向こう側、現在駐車場になっている敷地まで丘状地形は続いていて、丘は今よりももっと長かったようではある。

08 19791001_CKT792C7A11(国土地理院)より周辺部
(1979年10月撮影の航空写真より周辺部を拡大。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」 より)

桜の花というのは何故か曇り空にもよく似合う気がする。
この時は、コロナがその後、我々の生活をここまで変えてしまうとは夢にも思ってもいなかったのだが、今になって思えば、曇り空の下、琵琶島で見た桜は、我々のそんな将来を教えてくれていたのかも知れない。

09 丘上 曇り空の桜

<投稿:2022.2.28>

(参考)
「埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ」 https://www.pref.saitama.lg.jp/isekimap/index.html
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」 1994年3月 埼玉県教育委員会
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
「関東の古墳&陵墓研究」 kohunsukiさん http://kohunsuki.livedoor.blog/archives/801756.html
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

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2020/03/12

水子地区の古墳跡に思う(富士見市 正網南遺跡、氷川前遺跡/氷川前古墳)

<富士見市内の古墳跡探訪(5)>
富士見市の高台にある水子貝塚は、縄文海進の頃、柳瀬川が流れている崖下すぐそこまで、荒川低地奥深くまで海が入り込んでいたのだという、頭ではわかっていても、どうにも俄かには信じがたいようなことを視覚的/直観的に教えてくれる大変に感慨深い遺跡であるが、貝塚の周辺は針ヶ谷などと同じく旧水谷村であって、どうやら数多くの古墳が築かれた場所であったようだ。

「新編武蔵国風土記稿」によると、この辺り、古くは「百八塚」と言われるほど多くの塚があったそうだが、江戸時代には既に十ヶ所ほどしか残っていなかったのだそうだ。それらは供養塚、念仏塚、経塚、(稚?)児塚、祭礼塚、神送塚、庚申塚などと呼ばれていたほか、大應寺の所領地内にも大應寺塚という細長い堤のような形になった古塚があった、とされる。さらに時代が下るとこれらの塚はほとんどが消滅してしまっていたようで、大正元年(1912年)出版の「入間郡誌」では、唯一、松山という場所(松山という名の小山?)に塚が残っていて、塚の上にはお地蔵様が立っていた、とされている。

ところで、旧版の「埼玉縣史」(1951年)には、かつてこの辺りから出土した刀や埴輪についての記述がある。
明治40年頃、大字正綱(正しくは正網?)の山王阪(坂?)に山王神社という神社があり、明治の神社合祀政策を受けて近隣の氷川神社に合祀されたが、その際、社殿床下から直刀、玉類、鏡等が出土したとされる。
さらに、大字水子の八幡神社附近からは「土師質土器及び武装せる埴輪人形」が出土したとされている。
ただし、これらの遺物の所在は残念ながらその後わからなくなってしまっているようだ。

大字正網の山王坂というのは、柳瀬川の流れる崖下、国道463号線からみずほ台の方へと上ってくる途中の坂のことではないかと思うが、この道は旧江戸道にあたるようで、明治時代の地図を見ると、現在、ほぼ南北に八幡神社、水子氷川神社が並ぶさらにその南、坂道に面したあたりにもう一つ、鳥居のマークが見える。これが床下から刀や鏡が出土したという山王神社ではないかと思うが、現在の場所で言うと、坂の中ほどに立つお地蔵様の向かい辺りにあったのではないかと思う。
クルマを停めることができなかったので写真は撮れなかったのだが、現地は民家が建ち並んでいるものの、その敷地が一段高くなっていて、恰も神社があったような雰囲気ではある。
なお、坂の中程に立つお地蔵様は元禄14年(1701年)の造立だそうだが、「松山の上に立っていたお地蔵様」というのはもしかしたらこのお地蔵様のことなのではないか、とも思わないでもないが、これは全くの当て推量である。

一方、「武装せる埴輪人形」が見つかったという水子の八幡神社というのもおそらく水子氷川神社のすぐ北にある八幡神社のことであろうし、ここも地形図で見ると台地に入り込んだ解析谷の際に臨む立地のようである。
この辺りの台地の標高は20mほどで、眼下に柳瀬川を望む台地の縁であるから、古墳を築造するには持って来いの地形ではある。

ところで水子貝塚は同じ台地上ではあるが、古墳があったと思われる神社からは北に2kmほど離れていて、周辺にはまだ畑などが広がる長閑な景色が残されていて何だか安心する。

01 水子貝塚近くの田園風景

貝塚の周辺は旧石器時代から中世までの永きにわたる時代の複合遺跡である「氷川前遺跡」に指定されているらしく、「埼玉の古墳 北足立・入間」によれば昭和58年の調査で円墳跡が1基、さらに少し離れた貝塚北側からも円墳跡が見つかっているらしい。
昭和58年に見つかった方は「氷川前1号墳」と名付けられ、墳丘は既に削平され残っていなかったが、内径10.8m、外径14mの正円形に近い周溝が見つかったそうだ。周溝底から鬼高式の土師器が出土したことから、築造は6世紀代ではないか、とされるらしい。
貝塚北側で見つかった方は「氷川前2号墳」とされ、こちらも周溝のみが部分的に発掘されたようだ。1号墳より一回り大きく、西南側にブリッジのある推定内径16m、外径は18mの円墳と考えられているようだ。

さて、富士見市内を駆け足であちこち回って来たが、秋の陽は釣瓶落とし、17時を回って陽が落ちてきた。
できれば貝塚のやや西にある上水子ノ氷川神社(北側氷川神社)にあるという富士塚を見たかったのだが、暗くなってきたことだし、クルマを停める場所も見つからないので、また次の機会にしようと思う。

02 同じく水子貝塚近く

上の写真は1枚目と同じ場所で撮ったものだが、1枚目の右側に見えているのが上水子ノ氷川神社の社殿ではなかろうかと思う。

すぐ近くまで瀟洒な住宅街が迫っているようなので、こうした長閑で平和な景色もじきに変わっていくのかも知れない。
それは私のような市井の一市民には如何ともし難い事実であるのだから、せめてこうした心洗われるような夕暮れの光景ぐらいは記憶に留めておけるようにしたい、と思いながら写真に納めて帰路についた。

<投稿:2022.2.23>

(参考)
富士見市ホームページ
 遺跡台帳 No.52正網南遺跡 https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/syougaigaku/bunkazai/isekidaichou/2010-0421-1405-137.html
 遺跡台帳 No.45 氷川前遺跡 https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/syougaigaku/bunkazai/isekidaichou/2010-0421-1350-137.html
 歴史探訪『ふじみ・発見』 No.7 水子八景 https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/02midokoro/hujimihakkenn/2012-0731-1533-127.html
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html


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2020/03/12

コロボックルの古墳跡?(富士見市 貝塚山古墳跡/コロボックルの碑)

<富士見市内の古墳跡探訪(4)>
富士見市には「コロボックルの碑」というものがあるそうである。

いつの間にかそういうことはすっかり忘れてしまっていたけれど、確か「コロボックル」は「蕗の下の人」であった。
そう言えば、昔読んだ児童文学書に不思議な挿絵があった。特徴的な顔立ちの小人が蕗の葉を傘にしたり、草花の茎に座ったり、小鳥の背中にも乗っていたようにも思う。小学生の頃、当時の遊び場は専ら学校の裏山か近所の雑木林だったので、あちこちで蕗の葉を見かけるそのたびに、もしかしたらあの小人が木陰からそっとこちらを見てやしないだろうか、と子供心に思ったものである。

コロボックルはアイヌの人々が語り継いできた伝説上の小人で、何でもアイヌの人たちより古くからその土地に住んでいたのだそうだ。
彼らはアイヌの人たちと森や川で取れた獲物を交換し合っていたが、何故だかその姿を見られることをひどく嫌っていたそうだ。
ある日、アイヌの若者が獲物を交換しにきたコロボックルの手に綺麗な青い入れ墨があるのを見て、思わずその手を掴んで小屋の中に引き入れたところ、姿を見られたコロボックルはひどく腹を立て、怒って何処かの土地へ去って行ってしまったのだという。コロボックルの去った土地では水は涸れ、魚も採れなくなったというから、現代の我々が辿っている道にも相通ずるものがあるようだ。

ところで北海道に自生する蕗は大きなものでは草丈が2mにも及ぶのだそうで、そんな巨大な蕗であれば私でも余裕で入れそうであるから、その気になれば私だってコロボックルになれたのかも知れない。

明治から大正にかけて、このコロボックルが先住民族として古くから日本に住んでいた、と学術的に?考えられていた時期があったらしい。
アイヌの人たちに追いやられる以前、日本には広くコロボックルが住んでおり、古事記などにも見える「土蜘蛛」というのはこのコロボックルを指すもの、と考えられていたようだ。古墳の石室や横穴式古墳などは天井も低く、現代人は立って入れないことから、これらは遠い昔に住んでいた背の低いコロボックルが作ったものだ、と考えられたようで、あの有名な「吉見百穴」も当時は「コロボックルの住居跡」と考えられていたらしい。

前置きが長くなったけれど、富士見市の「コロボックルの碑」はそんなコロボックル人種の遺物とされた古墳跡地を示す石碑である。
石碑は大正元年、旧鶴瀬村にあった貝塚稲荷神社跡に建立されたもので、現在では山室二丁目の保育園の敷地脇に移設されており、正面には「貝塚稲荷旧跡碑」と彫られている。

01 コロボックルの碑

貝塚稲荷神社は渡戸一丁目というからこのすぐ北、保育園北を東西に走る道路のすぐ向こうに西から伸びてきていた舌状台地の先端近くにあったようだ。

二万五千分の一「与野」昭和24年
(昭和24年 二万五千分の一「与野」より渡戸一丁目付近の舌状台地先端部。「貝塚」の記載が見える。今昔マップon the webより)

明治政府による神社合祀令によって、貝塚稲荷神社は近隣の氷川神社に移転合祀されることとなり、払い下げられた貝塚稲荷神社の土地を開墾したところ、ご神木の根元から鉄刀と人骨が出てきて大騒ぎになったそうだ。
石碑にはそうした来歴が記されていて、石碑裏面に「東京帝國大學諸学士出張 貝殻調査 三千年以前石器時代 コロボックル人種遺物」と記されていることから「コロボックルの碑」と呼ばれているらしい。

02 説明板

ところで、もともと貝塚稲荷があった場所は古くから「貝塚山」と呼ばれており、貝殻が多く散乱していたそうだ。貝塚山は高さ八尺余り、周囲八十歩ほどの塚状地形をしており、周囲には掘が巡っていたらしい。現在では削平されてなくなってしまったが、ここは直径13mの円墳であったとされており、古墳は「貝塚山古墳」と呼ばれているようだ。

富士見市のホームぺージ「貝塚山遺跡」には、「かつてあった古墳」の古写真が掲載されており、「富士見市指定文化財一覧」のページでは同じ写真が「移転前のコロボックルの碑」として掲載されている。
後者の写真は鮮明で、なるほど雑木林の中に石碑が立っているのが写っている。手前左側には「富士見村指定史蹟〇〇」と書かれた白い標柱が建っていて、標柱の前を石碑へ向かって真っすぐに伸びる小道は上り坂になっているように見えるので、石碑は周囲よりも一段高い場所に建てられているようだ。石碑の高さは0.8mであるが、坂道の高さは目測でその3倍くらいはありそうだから、高さは「貝塚山古墳」の高さと符合しそうではある。石碑の立つ地盤の形や大きさなどは写真からはよくわからないが、写真に写っている雑木林はだいぶ大きいので、この雑木林全体が貝塚山(古墳)そのものという訳ではなさそうである。

なお、ここからは鉄刀が出土したようで、これは東京帝室博物館に寄贈された後、現在も東京国立博物館に収蔵されているそうである。
全長81.2cm、刀身現長71.8cm、身幅2.8cmで切先部分は欠損しているものの、刃側に段のある片関で、刀身は鎬のない平造り、刃側に緩やかに湾曲した内反り太刀で、5世紀代のものと考えられているそうだ。

かつて貝塚山があったとされる一帯はすっかり開発されていて、閑静な住宅街になっていて、かつての面影は偲ぶべくもないが、東西に走る道路に沿ってコンクリートの擁壁が立ち上がっていて、地形はかつての舌状台地の雰囲気を残している。
かつての舌状台地へ上り、住宅地を通り抜けて台地の反対側まで行ってみると、崖際に小さな公園があった。

03 縄文の丘公園

「縄文の丘公園」とは何とも素敵な名前の公園で、高台になっているので北側の景色も開放的で心地よいのだが、公園に人の姿はなく、何とも勿体無い。

04 台地上の縄文の丘公園

05 公園から北方の眺め

公園の名が「縄文」であるのは、この一帯から旧石器時代や縄文草創期の石器がまとまって発見されたことに因んでいるようだ。遺跡は「貝塚山遺跡」と呼ばれ、縄文早期の炉穴が数百基、縄文前期から中期、後期の集落跡も発見されているそうだ。貝塚山古墳もこの遺跡内にあったが、あくまで脇役のような扱いになっているように見える。

ところで、公園から見下ろす北側には「末無川」や「消え水」の名を持つ砂川堀が流れているが、その砂川堀を渡った向こう側には「お舟山」という不思議な山があるそうだ。
長さ50m、幅25m、高さ2mほどの低い「山」で、人工地形か自然地形か不明だが、「榛名権現の神様が乗ってきた舟が埋められている」とも、「棒をさせば鉄の船にあたる音がする」とも言われるそうである。
地下に石室の埋まった巨大古墳を思わせる何ともミステリアスな伝承であり、この日は残念ながら行くことができなかったが、機会があれば是非行ってみたいものだ、と思う。

そう思いながら見上げると頭上には大輪の白木蓮。先日は沈丁花が咲いていたが、この花も春の訪れを感じさせる素敵な花だ。

06 白木蓮

あ、いま、花びらの中でコロボックルが手を振って・・・いや、そんな訳ないか。
五十路の老眼、霞目も始まったか・・・。

<投稿:2022.2.13>

(参考)
富士見市ホームページ
 遺跡台帳 No.19貝塚山遺跡https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/syougaigaku/bunkazai/isekidaichou/2010-0421-1140-137.html
 富士見市指定文化財の紹介 コロボックルの碑
 https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/syougaigaku/bunkazai/2010-0423-1925-137/shiteibunkazai.files/korobokkuruhp.pdf
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html


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2020/03/12

富士見市内の古墳跡探訪(3)(富士見市 オトウカ山(旧茶立久保古墳)、赤飯塚)

仕事帰り、空いた時間を使って富士見市周辺の塚や古墳にまつわる旧跡などを見て回っている。

余計なお世話かも知れないのだが、「富士見市」と隣接する「ふじみ野市」の市境は複雑に入り組んでいて、何故こんなことになっているのだろうか、と思う。
以前にも触れたが、この辺りに古くから伝わる言葉に「七沢八寺」という言葉があって、村には寺院が八つ、沢(川)が七つあった、ということのようだが、事程左様にこの辺りは谷が多かった、ということもあって、両市の境は入り組んでいるのだろう、と思っていたが、それだけでは説明できなさそうな場所もある。
富士見市がふじみ野市域に食い込んでいる地域の先端、恵光寺という寺院がある一帯は、さらにまた幅100~200mほどの細長い「富士見市」が700mほどにわたってふじみ野市域に激しく食い込んでおり、その南西隅では整然と建ち並ぶ住宅街の中ほどの1軒だけが富士見市に属しているように見え、町内会の回覧板など相当不便ではなかろうか、と心配になってしまう。
歴史的な背景として、富士見市、三芳町、上福岡市、大井町の広域合併構想が住民の反対などで白紙となった後、上福岡市と大井町が合併してふじみ野市ができた、という経緯も市境の複雑さに影響しているのかも知れないが、いずれにしても余所者がとやかく詮索する類いの話でもないのだろうな、と思っていた。

埼玉県内の古墳を網羅した著名な研究書である「埼玉の古墳」は、埼玉県立博物館の館長を務めた塩野博氏の手によるもので、関連する調査報告書や古文書の内容なども網羅されており、私のような素人からすれば、これさえあれば他には何も要らない、という崇高な辞典のような存在であるが、この本によれば、富士見市のうち旧鶴瀬村に当たる地域には「この地域の古墳については現存するものもなく、不明なところが多い」のだそうである。
確かに富士見市教育委員会では、把握している市内の埋蔵文化財包蔵地の分布図と各遺跡の詳細をホームページで公開しており、この中には、いくつかの古墳跡についての記載はあるものの、墳丘の現存する古墳は含まれていないようである。
しかしながら「埼玉の古墳」によれば、富士見市では昭和54年(1979年)にも市内の遺跡地図を作成していたそうで、この時点では当時の旧大井町との境界に位置する「オトウカ山」だけは唯一、現存する古墳ではないか、とされていたようだ。

だいぶ前置きが長くなったが、この「オトウカ山」、まさに富士見市がふじみ野市に細長く熾烈に食い込んでいる一帯の際にあるのである。

<オトウカ山(旧茶立久保古墳)>
現在では公園になっている一画に見上げるほどの小山があり、傍らに説明板が立っている。
「オトウカ」は「お稲荷」の音読みで、その昔、狐が棲みついていた、と伝わり、古くは「狐山」とも呼ばれていたそうだ。

01 公園の中のオトウカ山

02 オトウカ山

この場所はかつて「茶立久保(ちゃたてくぼ)」と呼ばれた地区にあって、昭和40年代くらいの地図で見ると「東久保」、「亀久保」など、窪地の名残りのような字名がそこかしこに見える中に「茶立久保」の字名も見えている。
戦前にはここで石器や土器などが見つかったという記録もあるらしく、一時期は古墳であると考えられていて、「茶立久保古墳」と呼ばれていたようであるが、古墳である確証がなかったことから、これを疑問視する向きもあったようだ。

03 オトウカ山

昭和57年に測量調査と周溝確認、遺物探索のための発掘調査が行われ、墳形は一辺約23m、高さ4.8mの方形状をしているものの、周囲に周溝は確認されず、現在では中近世の塚ではないか、と考えられているようだ。

04 オトウカ山

かつては頂上に寛政4年(1792年)造立の「富士浅間大神」の碑と、寛政6年(1794年)造立の「藤塚神社」の碑が立てられていて、これらの石碑は現在では近くの榛名神社に移設されているそうだが、こうした経緯から少なくとも江戸時代から明治にかけては富士信仰に伴う富士塚(浅間塚)としての扱いを受けていたものと考えられているらしい。

05 オトウカ山

ところで再び、「埼玉の古墳」であるが、三芳町の旧家である開拓地主宅に残されている「元禄七年川越領三富村野守境界争裁許状」なる境界争いの裁判書類の裏絵図に塚が書かれていて、おそらくこれは村の境界を示す境塚ではないか、と考えられることから、この塚がオトウカ山を指すものかどうかはわからないが、オトウカ山もこうした性質を有する可能性も指摘されているようである。

この一文を読んで、なるほど、と思った。冒頭に長々と書いたとおり、オトウカ山は富士見市とふじみ野市、合併前で言うと旧勝瀬村と旧大井村の複雑に入り組んだちょうど境界線の際にあるのである。確かに境塚にピッタリではないか、と。
隣村との境界線を画するために築かれた境塚が後世、富士講の大流行を受けて富士塚若しくは浅間塚として利用された、ということは十分自然なことのように思う。
古墳ではなかった、という解釈はちょっと残念だが、中世、オトウカ山の頂上から見る景色って、一体どんなだったのだろうかと、頂上から周囲を見渡しながら思うばかりである。

06 オトウカ山の頂から

<赤飯塚>
ところでここから1.5kmほど南東、東上線沿いの上沢一丁目あたりにも「オトウカ」に由来する言い伝えが残っているそうである。
そのあたりは昭和40年代ぐらいまで「赤飯塚」という字名だったらしく、ここにあったという丘状の林に狐(オトウカ)の群れが棲んでおり、食糧が乏しくなると附近の畑や家畜を荒らすので、赤飯をオトウカの林に供えたところ被害を受けることがなくなったのだそうだ。
赤飯を供えたという「丘状の林」というのもオトウカ山と同じく、村の境界を示す塚だったのかも知れないな、と思う。

その頃はオトウカ山も赤飯塚も、どちらも狐が棲みつくような長閑で濃密な里山の風景の中に佇んでいたことだろうし、しかもそれだってほんの何十年か前までは、江戸時代と大して変わらぬ光景だったことだろう。

富士見市のホームページには昭和30年代のオトウカ山の白黒写真が掲載されている。
現在よりも木々が疎らな斜面が写っており、目を閉じて、想像の中でその斜面を登り、頂上まで登ったところで振り返ってみる。
果たして南東の方向に赤飯塚は見えるだろうか、狐の群れは見えるだろうか。

<投稿:2022.2.5>

(参考)
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏 さきたま出版会
富士見市ホームページ
  歴史探訪 「ふじみ・発見」  No.3・・・勝瀬に残る山 オトウカ山
  遺跡台帳 No.3 オトウカ山遺跡
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html


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2020/03/12

富士見市内の古墳跡探訪(2)(富士見市/三芳町 浅間後遺跡/浅間神社と旧富士塚)

外出自粛期間中ではあるが、仕事が早く済んだので富士見市内で寄り道させてもらっている。
針ヶ谷、栗谷津と古墳や遺跡の痕跡を辿って来たが、続いては少しく詳細不明、情報がほとんど見当たらないのだが、「富士塚跡」を見に行きたいと思う。

鶴瀬駅の西方、行政区域では富士見市を出て三芳町に入ったところに「藤久保」、「富士塚」という地域がある。
この後に行ってみようと思っている別の史跡を地図上で探していて偶然見つけたのだが、最初、「富士塚」と言えば「凸」、「藤久保」は「富士窪」?だとすれば「凹」であろうから、デコとボコが揃っているのも面白いな、と思った。
地名からすると、きっとこの辺りに富士塚がある(あった?)のかしら、と思い、探してみたのだが、探し方が悪いのか、インターネットでいくら検索しても全く情報が見当たらず、唯一、富士見市の遺跡台帳の「浅間後遺跡」の解説に、遺跡の別称が「富士山」、と書いてあるのが見つかっただけであった。「浅間後」という字名は「富士塚」地区のすぐ北の一帯である。

行き詰ったので、いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で昔の地図を見てみると、東西に道が交差する北東角に塚のマークを見つけた。

01 明治39年二万分の一「志木」 今昔マップ on the webより
(明治39年二万分の一「志木」より該当部分を拡大 今昔マップ on the webより)

これが富士塚かどうか、これだけではわからないが、「富士塚」の字名はこのすぐ南であるし、塚のマークがプロットされている場所には現在、神社のマークが見えており、この神社は「藤久保浅間神社」というようなので、おそらくこれが地名の由来となった塚なのだろう。百聞は一見に如かず、とにかく現地へ行ってみることにした。

行ってみると周辺は住宅街で人やクルマの往来が思いのほか多く、路上駐車は無理そうである。現地のすぐ近くにコインパーキングがあったようだが停め損ねてしまったので、再び富士見市域に戻ったところで別のコインパーキングを見つけ、歩いて現地まで引き返した。

02 藤久保浅間神社

住宅が建ち並んだ一画、路地を入った先に小さな神社が祀られている。

03 藤久保浅間神社

扁額には「浅間神社」とあって、こじんまりとした境内に解説があった。

04 境内の解説柱

「東乗院」という寺院の修験者が秩父からこの地に移り住んだ際に勧進された、と伝わるそうで、「かつては十五メートルもの高塚に祀られ」ていた、とある。

05 藤久保浅間神社

解説にはさらに、「塚や周辺には樹木が生い繁り、また塚下の崖からは権平川の水源となる湧き水も流れ出ていたと聞く」とある。塚は権平川の流れる谷に面した崖上にあったらしく、崖からは湧水が湧いていたようである。
この場所は三芳町域であるが、50mほど東は富士見市との境になっており、富士見市側ではこの「権平川の水源」に関連する情報が市のホームページに載っている。
合併して富士見市(富士見村)になる以前、当時の鶴瀬村(これも合併してできた村で、もともとは鶴馬村)に古くから伝わる言葉に「七沢八寺」という言葉があるそうだ。その昔、村には寺院が八つ、沢(川)が七つあったらしく、この七沢のうちの一つが「権平沢(ごんべざわ)」で、その水源は今でも現地周辺に湧水として残っているようである。
カシミール3Dで地形の起伏を見ると、浅間神社のある場所の標高は26mほどで、北東側すぐのところに比高差2mほどの浅い谷状地形がある。確かに浅間神社の北東側には大人の背の高さほどの段差が残っている箇所があるが、宅地化が進んでいて見たところ周辺に川はないように見えるので、もしかすると暗渠になっているのかも知れないが、この辺りから権平川は北東に向かって流れている(いた)ようである。

ところで、解説にあった「15メートルもの高塚」という記述であるが、これはそのまま解釈すると「高さ15メートルの塚」という意味になると思うのだが、もしそうだとすると、富士塚はかなりの大きさだったことになる。
志木市にある「田子山富士塚」は高さ8.7m、今朝がた立ち寄った清瀬市の「中里の富士塚」も高さは9mであるが、いずれも頂上からの眺めは少なからず身の危険を感じるほどの高さであった。
高さ15mと言えば、昔住んでいた5階建ての公団住宅くらいの高さになりそうであるし、その高さを支えようとすれば、塚の直径は高さよりも格段に大きくなるだろうから、相当巨大な塚だった、ということになりはしまいか。

5階建て公団住宅と同じ高さの塚、というのも俄かには信じがたい気もするが、塚は戦後も暫くの間、現存していたようなので、古い航空写真であればその姿を確認できそうである。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で時系列を遡って見ていくと、宅地化の進んだ1975年の時点で既に塚は削平されているようだが、1961年の時点では周囲を田畑に囲まれた塚らしき影が見えている。塚の南を通る道が塚を避けるように膨らんでいるものの、塚(と思われる影)はせいぜい直径10~15mほどのように見える。

06 1961年6月撮影_MKT613C186国土地理院より
(1961年6月撮影_MKT613C186 「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院より)

さらに遡って、1948年に米軍が撮影した写真は鮮明で驚いたが、写真を拡大してみてもう一度驚かされた。

07-1 1948年1月米軍撮影_USAM738128より
(1948年1月米軍撮影_USAM738128  「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院より)
(↓上記写真を拡大)
07-2 上記写真の拡大
(1948年1月米軍撮影_USAM738128  「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院より)

白く映った神社の祠のような建物に向かって南西方向から伸びる参道のような線が見える。白く見える線は石段だろうか。
勘違いかも知れないが、神社の建つ塚も形は円形でないにせよ、直径は相当あるように見え、塚を避けて膨らんでいる道の湾曲がそのまま塚の外縁のように見えなくもない。
傾斜や高さはよくわからないが、のっぺりとして見えるので全く高さはないようにも見えるが、影が映っていないのでそう見えるのかも知れない。
測ってみると、南側を通る道の湾曲部分は20~30mほどありそうに見えなくもない。基部の直径がそれだけあれば、確かに高さも15mぐらいにはなるのかも知れない。

もし本当に高さ15mの富士塚だったのならば、是非この目で一目、見てみたかったものであるが、三芳町か富士見市でこの富士塚の在りし日の写真など、残されていないものだろうか。

<投稿:2022.1.30>

(参考)
富士見市ホームページ 遺跡台帳 No.32浅間後遺跡
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1




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