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2018/06/10

古代出雲玉作遺跡と周辺の小円墳(島根県松江市 玉作湯神社/玉作遺跡、徳連場古墳、記加羅志神社址古墳)

2018年6月、梅雨時の出雲の旅も今日が最終日である。
昨晩は玉造温泉に宿泊した。宿は鉄筋コンクリートでやや風情には欠けるけれど、街は古き良き昭和の香漂う、懐かしくて心地よい温泉街であった。

<玉作湯神社/玉作遺跡>
昨日は一日、古墳ばかり見て回ったので、今日は同行の家人の希望を優先したいと思う。
朝食を早々に済ませた後、まずは温泉街の南端近くにある「玉作湯神社」に参拝した。

01 玉作湯神社鳥居

02 玉作湯神社社殿

不勉強で知らなかったのだが、この神社は願い事が叶うスピリチュアルスポットとして有名なのだそうで、小雨模様にも関わらず、道理で境内は若い女性の姿が多い。
祭神は温泉や温泉療法に所縁の深い大名持命(大国主命)と少彦名命、玉作りの神である櫛明玉命(クシアカルダマノミコト)の三柱で、境内の一部からは古代の玉作遺跡が見つかっているそうだ。

03 玉作遺跡解説版

04 玉作遺跡収蔵庫

さて、家人の次なる要望は「宍道湖畔で鯛めし」とのことなので、これから松江市内へ移動しようと思うが、移動前に少しだけ、この周辺の古墳を見せてもらおうと思う。

<徳連場(とくれんば)古墳>
温泉街の東側、丘陵上に「出雲玉作資料館」があるが、その北側、林道のような道を少し上った林の中に、「徳連場古墳」という変わった名前の古墳がある。

05 徳連場古墳遠景

「徳連場」というのは古墳の所在地の字名らしい。玉作遺跡の近くにあるだけあって、被葬者は玉作りと密接な関係を持った人物と考えられているようだ。

06 徳錬場古墳解説版

墳形はこの地方としてはやや珍しい(?)円墳とされ、直径は8.5m、高さは1.5m、東側を除く三方には堀が巡っているらしい。

07 徳錬場古墳近景

主体部はわずかに胴張りのある凝灰岩の割竹形の舟形石棺で、蓋、身いずれも突起があり、蓋と身の合わせ部分はそれぞれ印籠口式に加工されているのだそうだ。石棺の全長は2.37m(内法1.62m)、幅は最大で0.8m、深さは21~18cm、古式の特徴を有することから、この地域では比較的古い時代のもので、古墳時代中期、5世紀代の築造と考えられるそうだ。副葬品としては鉄剣やガラス玉が出土しているようだ。

08 徳錬場古墳石棺

周囲はすっかり林に囲まれていて、築造された当時、このあたりが一体どのような場所だったのか想像もつかないが、今はただ、爽やかな小鳥の囀りが聞こえるばかりである。玉作湯神社や温泉街の喧騒がまるで嘘のような、穏やかな場所である。


<記加羅志(きからし)神社址古墳>
徳連場古墳から東に降りていくと、県道25号線の西側は見晴らしのよいなだらかな斜面が広がっていて、この一帯は「出雲玉作史跡公園(宮垣地区)」となっている。
この一帯からは多くの玉作工房跡と製作途中の玉類の未成品、原石や砥石などが発見され、大正時代に国の史跡指定を受けた後、昭和49年に公園として整備されたそうだ。

09 史蹟出雲玉作跡解説版

古墳時代から奈良、平安時代までのおよそ500年間にわたって玉作が行われただけあって、周辺からは多くの古墳群も確認されている。
徳連場古墳の西には「徳連場横穴墓」、北方には小型の円墳数基から成る「青木原古墳群」が、また南方には消滅してしまったようだが方墳2基から成る「烏坊古墳群」が、温泉街にほど近い丘陵上には墳丘は残っていないようだが「小丸山古墳」と呼ばれる石棺式石室が残っているらしい。

史跡公園の中ほど、木立が茂った場所に「記加羅志神社址古墳」がある。

10 記加羅志神社跡古墳遠景

11 記加羅志神社跡古墳解説版

墳丘前には「史蹟 玉作址」の碑が立っている。

12 史蹟玉作址碑と記加羅志神社跡古墳

古墳は、東側で確認された弓なりにカーブした周溝跡から、徳連場古墳と同じく、直径約14mの円墳とされている。墳頂部が後世削平されており高さは不明なようだが、現存する墳丘の高さは西側から見ると2~3mほどはありそうである。埋葬施設は、天井石は失われていたが、墳丘中央から軟質凝灰岩でできた小型の横穴式石室(基底部長2.55m、玄室長1m、奥壁幅1.65m)が見つかったそうだ。石室内からは須恵器の高坏が出土、石室の形状などからも、築造時期は古墳時代後期とされている。
玉作工房跡に囲まれるように築かれていることから、古墳の被葬者は玉作の技術者集団を統括する立場にあった人物ではないか、と考えられているらしい。

13 記加羅志神社跡古墳墳頂

史跡公園一帯の字名は古くは青木原であったらしく、平家蟹さんという方のブログ「古墳のお部屋ブログ館」を拝見すると、史蹟公園内にはほかにも「青木原古墳」という古墳も保存されているようだが、見つからなかった。
「記加羅志神社」というのはスサノオノミコトを祀った神社で、大正15年に玉作湯神社に合祀されるまでここにあったらしい。墳丘上に散らばっている石は「参道の名残り」だそうである。

14 記加羅志神社跡解説版

「キカラシ」というのは菜の花の別名と同じだが、スサノオノミコトを祀る神社に菜の花の名前を冠したようにも思えない。出雲国風土記にもその名は見えず、よもや古墳の被葬者の名前、という訳でもないだろう。
「トクレンバ」もそうだが、果たしてどんな由来があるのだろう、と思う。

改めてあたりを見回して見ると、この見晴らしのよいなだらかな丘陵上のそこかしこで、遥か遠い昔、玉類が盛んに作られていた、そんな時代があったのか、と思う。
あたり一面、背の高いタンポポのような黄色い花が風に揺れるばかりであるが、まさかこの花が「キカラシ」という訳でもあるまい。

15 黄色い花

<投稿 2020.1.4>

(参考資料)
「古墳のお部屋ブログ館」 https://kofunoheya.blog.fc2.com/
「玉造 烏坊遺跡群 古墳群・集落跡・古墓群の記録」 昭和45年3月 玉湯町教育委員会
「史跡出雲玉作跡 発掘調査概報」 昭和47年3月 玉湯町
「出雲玉作跡保存管理計画策定報告書Ⅰ 宮垣地区・宮ノ上地区」 昭和61年3月 玉湯町教育委員会
「史跡出雲玉作跡 宮ノ上地区発掘調査報告書」 2009年3月 松江市教育委員会




2018/06/09

出雲東部の大型方形首長墳(島根県松江市 大庭鶏塚古墳/山代二子塚古墳(山代・大庭古墳群))

2019年も師走となり、世の中はもうじき2020年、オリンピックイヤーを迎えんとしているけれど、このブログはまだ2018年6月、梅雨時の出雲を旅している。出雲の歴史は深淵で、なかなか抜け出せそうにない。

<大庭鶏塚(おおばにわとりづか)古墳>
「八雲立つ風土記の丘」から国道432号線を1.5kmほど北上したあたり、山代町バス停の西側に、段築の残る大きな墳丘が見えている。
「大庭鶏塚古墳」と呼ばれる6世紀中頃の築造とされる大型の方墳である。

01 大庭鶏塚古墳 北東から遠望

02 大庭鶏塚古墳 解説版

高さ10mの二段築成の方墳で、南東方向から伸びてきた舌状台地の先端部分を切り離すようにして築かれている。大きさは東西40~41m、南北42~43mで、基底部は後世の削平を受けており、現状よりもかなり外側で墳丘の立ち上がりと思われる痕跡が確認されているらしい。
北西角に立つ解説版の後ろから墳丘上へ木製の階段が続いており、墳丘に登れるようになっている。

03 大庭鶏塚古墳 墳丘上への上り路

埋葬施設の発掘調査はされていないようで、土足で他人様の墳墓に上るのは気が咎めるが、同行の家人を路上駐車した車中に残したままで時間もないので、心の中で合掌しながら意を決して階段を上ると、墳頂は意外と広々としている。大きな木々がそこかしこに生えていて、社はないようだが、木の根元には紙垂のついた鳥居が見える。

04 大庭鶏塚古墳 墳頂の木

被葬者に申し訳ないので、墳頂を抜き足差し足で南側まで横断、下を見ると、墳丘の下段の一部が四角く突き出ているのがわかる。解説版にあった南と西の二方向の造出のうちのひとつのようだ。

05 大庭鶏塚古墳 墳頂から見た南側造出分?

階段で再び墳丘下まで降り、今度は墳裾沿いに西側へ回る。西側にも造出があるはずであるが、こちらは木々が生い茂っていてよくわからない。昭和53年に行われた調査では、西側の造出は先端に向かって広がる撥型と考えられているようだ。

06 大庭鶏塚古墳 西側造出部?

この一帯には大型の古墳が集中していて、「山代・大庭(やましろ・おおば)古墳群」と呼ばれているが、中でも「大庭鶏塚古墳」が他の古墳に先行して作られたものと考えられているようだ。

古墳の名称になっているとおり、この古墳には朝鮮半島に類例の多いらしい鶏鳴伝説が伝わっているそうである。「ここには金の鶏が埋葬されている」とか、「良いことがある日や正月には金の鶏の鳴き声がする」、「その鳴き声を聴くと長寿になる」、といった伝承が伝わっているのだそうだ。

小雨の降る中、もしかしたら鳴き声が聞こえたりしないだろうか、と耳を澄ませてみたが、聞こえてくるのは国道を行きかう自動車の音ばかりである。墳丘に土足で登るような不届き者には幸運の金鶏の声など聞こえるはずもないのであろう。

<山代二子塚古墳>
大庭鶏塚古墳から国道の東側へ路地を少し入ったところに、「八雲立つ風土記の丘」の分館、「ガイダンス山代の郷」という施設がある。館内には周辺史跡や古墳の解説などがあるはずだが、到着が遅かったためか、残念ながら入り口にはカギがかかっている。
館内は見学できなかったが、駐車スペースが空いているので、今度は路上駐車せずに済む。古墳に興味のない家人を再び車中に残し、北側に隣接する「山代二子塚古墳」へと向かった。

07 山代二子塚古墳 南から前方部遠望

「山代二子塚古墳」は日本で初めて「前方後方墳」という呼び方をされた古墳なのだそうで、前方部をガイダンス施設のある南西方向に向けており、全長は94mと、出雲地方で最大規模だそうだ。墳丘は二段築成で、築造時期は6世紀半ば、先ほど見た大庭鶏塚古墳に後続する首長墳と考えられているようだ。

08 山代二子塚古墳 南から全景

前方部は先端幅55m、高さ7.5mで、墳丘周囲には幅7m、深さ2mの周堀と、その外側には外堤と呼ばれる土手が確認されており、周堤まで含めた大きさは150mに及ぶという。

09 山代二子塚古墳 全景

墳裾通路から中央の括れ部に向かって進むと、曇天ながら雨は上がり、雲間に僅かだが青空も見えてきた。金鶏の声も聞こえず、ガイダンス施設すら見学できないのか、ではせめて雨ぐらいは止ませてやろう、と古墳の主が思ってくれたのかも知れない。

10 山代二子塚古墳 墳丘のキバナコスモス

見学用通路がそのまま前方部上を斜めに横断するように続いているので、今度はあまり気後れせず墳丘に登れてしまう。括れ部とその向こうに見える後方部の量感には圧倒されるばかりだ。

11 山代二子塚古墳 前方部上から見た後方部

墳丘を横断し、北側から後方部に回り込む。ここには墳丘内部の本物の土層が見学できる施設があって、未発掘の巨大な石室の位置などが示されているらしいのだが、ガイダンス施設同様、こちらもカギが閉まっていて、扉は閉ざされている。やはり古墳の主には許してもらえていないようである。

12 山代二子塚古墳 後方部土層見学施設入り口

後方部の大きさは幅53m、高さ9.5mで、北東側の半分は明治40年頃、陸軍によって削平されてしまったようだが、近年になって復元され、先ほどの土層見学施設はその時に設置されたらしい。

13 山代二子塚古墳 後方部角

「山代・大庭古墳群」はこの他、山代二子塚古墳の東に、「山代方墳」という東西45m、南北43mで周堤を含めると一辺が80mを超える大型方墳があり、さらにその南東にも巨大な横穴式石室が古くから露出した「永久宅後古墳」という方墳が個人の敷地内に現存しているらしい。(2019年12月18日付で「出雲東部の最後の首長墓」として島根県埋蔵文化財調査センターが「山代原古墳」と命名したのはこの古墳だろうか。終末期7世紀前半の築造で一辺23mの方墳、とされる。)
中でも山代二子塚古墳は出雲地方で最大規模であることから、この古墳群に埋葬されたのは出雲国造などの出雲東部の最高首長クラスの一族ではないか、とされ、築造順は大庭鶏塚古墳(6世紀中頃) ⇒ 山代二子塚古墳 ⇒ 山代方墳 ⇒ 永久宅後古墳(7世紀前半?) と考えられている。

ところで、前回紹介した「岡田山1号墳」も前方後方墳だったし、出雲最大の古墳も前方後方墳である。出雲は相対的に大型の前方後方墳や方墳が多く、しかもこれらの方形墳が古墳時代末期まで築造され続けた特殊な地域なのだそうだ。

しかも興味深いことに、意宇郡の首長クラスの古墳を規模/年代ごとに分類すると、山代二子塚古墳とほぼ同時代の築造と思われる中型の前方後円墳が3基あり、さらに小型の前方後方墳も複数認められることから、山代二子塚古墳の盟主を頂点とする序列が存在していたのではないか、と考えられるらしい。
最も上位とされる盟主墳(山代二子塚古墳)が前方後方墳で、それに次ぐナンバー2クラスの首長墳が前方後円墳(魚見塚古墳(62m)、手間古墳(66m)、東淵寺古墳(67m))、という点が興味深い。
ちなみに前回見た岡田山1号墳は、その大きさや副葬品などから、もう一階級下位のナンバー3クラスの豪族の墓ではないか、とされるらしい。

前方後円墳はヤマト王権の権威や王権から認められた地位などの政治的な秩序を表すものだ、とされるようだが、それにしても何故、出雲では古墳時代全体を通して、前方後方墳や方墳などの方形墳が盟主墳として築造され続けたのだろうか。

円形墓の起源は「平等」や「自然」にあって、円はその中心からどこも等距離であることから、階級格差という発想を含まない縄文古来の発想であるのに対して、「四角形」は中心からの距離に相違があることから、弥生時代になって食料の生産効率の善し悪しから階級格差が生まれた時代の発想である、という解釈もあるようだが、個人的には「円」というと、太陽や月、鏡といったイメージがある一方、「方形」、すなわち「四角」は、乏しい想像力を膨らませれば、例えば「大地」とか「領土」を具現化したもの、と言えないだろうか。
素人の単なる思い付きだが、もしかするとヤマト王権は、「天から降臨した神の子孫」、すなわち「天孫族」であることを強調するために、前方後「円」墳に「鏡」を埋納するようになった、というのはさすがに考えすぎだろうか。
そう考えると、出雲で方形墳が盟主墳とされ続けたのは、天孫族と国譲り神話で対峙した大国主命がかつて治めた「出雲」という「クニ」の人々が潜在的に持つ深層心理、深い精神性に根差したものなのではないだろうか。

14 山代二子塚古墳 キバナコスモス

ふと気づくと、前方部上で楽し気に話す若い男女の笑い声が、途切れ途切れ、風に乗って聞こえてくる。

15 山代二子塚古墳 前方部上の一組

おっさんが一人、ウロウロしているのもなんだか申し訳ないので、いそいそと通路を来し方へと戻りつつ、振り返ると後方部の頂上では、別の一組が草の上にしゃがみ込んで、何か話している声が遠く響いている。

16 山代二子塚古墳 後方部上の一組

遥か昔、古代出雲の人々のアイデンティティーが生んだ(かも知れない)前方後方墳の上で、現代の出雲の人々の、何気ない日常の一コマが、自分とは全く無関係に目前を通り過ぎてゆく。

そう言えば、もうだいぶ長い時間、駐車場に家人を置いたままである。
今夜の宿は「美人の湯」だそうであるから、思う存分浸かってもらうとしよう。

<投稿 2019.12.22>

(参考資料)
「風土記の丘地内遺跡発掘調査報告Ⅸ 山代郷正倉跡・山代方墳 付:大庭鶏塚古墳」 1993年3月 島根県教育委員会
「シリーズ八雲立つ風土記の丘 No.6 山代二子塚古墳」 2013年3月 島根県教育庁文化財課
「シリーズしまねの遺跡発掘調査パンフレット6 魚見塚古墳・東淵寺古墳」 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
「古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか」 2016年3月 白石太一郎氏 文春新書




2018/06/09

国引き神話と見返りの鹿(島根県松江市 八雲立つ風土記の丘展示学習館/岡田山古墳群)

西谷の丘周辺の四隅突出型墳丘墓を見学した後、出雲市を後に宍道湖南岸を40kmほど西へ移動して松江市に入った。次の目的地は意宇(オウ)平野にある「八雲立つ風土記の丘」である。

弥生時代後期、出雲地方には東西に二つのクニがあったことは前回触れたとおりである。東西のクニはそれぞれ島根県内で最も大きな平野部に発展し、西のクニは出雲平野の西谷の丘、東のクニは安来平野の荒島周辺を中心として、相互に自立した状態で併存していたと考えられている。
ところが、倭国大乱と言われる激動の時代を経て古墳時代に入ると、東西それぞれの政治的な中心地は移動することになる。西の出雲平野では西谷の丘から2kmほど北西、中央から派遣された日置氏の墓とされる今市大念寺古墳の周辺が中心となった一方、東は安来平野ではなく、この意宇(オウ)平野に勢力の中心が移ったようだ。

出雲国風土記には、記紀には見えない独特の神話として「国引き神話」があり、意宇の地名の由来が語られている。登場するのは「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコト)」で、一説には大国主命はこの神の孫だそうであるが、この神が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と新羅や隠岐、越の国などから余った土地を手繰り寄せた後、持っていた御杖を衝き立てて「意恵(オヱ)」と仰ったことから「意宇(オウ)」と名付けられた、とされる。「オヱ」は感動詞だそうだが、「終えた」という意味であろうか。平野のほぼ中央、国府跡の北東に御杖を衝き立てた址とされる「意宇の杜」の伝承地が今でもあるらしい。

ところで八雲立つ風土記の丘の展示資料館であるが、「見返りの鹿」という芸術的な埴輪や、「額田部臣」の銘文の入った大刀などが展示されていて見ごたえがある。

01_八雲立つ風土記の丘「見返りの鹿」

展示も充実しているが、敷地内には他にも竪穴式住居が何棟か復元されているほか、岡田山1号墳、2号墳があり、これらは岡田山古墳群と呼ばれている。
展示資料館を出て北方に進むと、右手前方に岡田山2号墳の大きな墳丘が見えてくる。

02_岡田山2号墳遠景

直径43m、高さ6.5mの円墳で、発掘調査はされていないらしいが、段築・葺石の痕跡や円筒埴輪が認められる、とある。

03_岡田山2号墳解説板

04 岡田山2号墳近景

さらに進むと、一段高くなったうえに、岡田山1号墳の前方部が見えて来る。

05_岡田山1号墳遠景

全長24m、葺石・二段築成の前方後方墳であるが、築造は6世紀後半とされている。

p6 岡田山1号墳解説板

07_岡田山1号墳近景

右側が前方部、左が後方部で、前方部と後方部の高さはほとんど同じぐらいに見える。
後方部には横穴式の石室があり、ちょうど解説員の方がいらっしゃったので幸いなことに石室の中に案内してもらえたが、私は古墳好きのくせに石室内へ入るのはできれば遠慮したいタチである。少し拝見しただけで早々に退散してしまったが、石室内には家形石棺も残り、石室側壁は斜めに立ち上がる持ち送り式、柱石を持つ両袖式であることから、九州地方の古墳石室との類似性が見られるのだそうだ。

08_岡田山1号墳石室

09_岡田山1号墳石室解説板

意宇平野は奈良時代になると出雲国府が置かれ、名実ともに出雲地方の政治的な中心となったが、実はそれよりも以前、5世紀頃、既に意宇川の流路が人為的に付け替えられる等、灌漑による水田開発が行われていた可能性があるのだそうだ。
出雲国府跡の発掘調査では、奈良時代の建物群跡の下から5世紀代の大規模な方形区画が発見されていて、これは当時の首長の居館跡ではないか、考えられている。

ところで、日本書紀では仁徳天皇の即位前記に、出雲臣の祖であるとされる淤宇宿禰(オウノスクネ)が天皇の命により朝鮮半島を往来する伝承が記載されている。

当時、この地を治めていた淤宇氏が、半島との交流から関係を深め、半島勢力から伝えられた水利・土木技術を利用して意宇平野の灌漑事業を行うことで力を蓄え、やがては出雲全体の掌握に至ったのではないか、とも考えられるらしい。

そして、それとほぼ時を同じくするかのように、意宇平野周辺の丘陵上には小型方墳の古式群集墳が多数出現することになる。意宇平野南部の大草丘陵には、東百塚山古墳群、西百塚山古墳群を始めとする200基以上の群集墳が密集しているのだそうだ。
これらは、灌漑事業による急激な人口増加に加えて、支配首長層の階層分化が進んだことで、この時代になると有力な農民層でも自らの墳墓として古墳を造ることができるようになったことを物語っているのだそうだ。

次回は意宇平野北部の山代地区に、日本最大級の前方後方墳を見に行こうと思う。

<投稿 2019.11.10>

(参考資料)
「出雲国風土記 全訳注」 2018年3月 荻原千鶴氏 講談社学術文庫
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「前方後方墳の謎」 2007年10月 植田文雄氏 学生社






2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(3)(島根県出雲市 西谷9号墓)

前回に引き続き、出雲市の西谷墳墓群を見学している。

丘上の史跡公園を見学し終えてクルマに戻り、2~3分走って300mほど離れた三谷神社へ向かう。墳墓群最大の四隅突出型墳丘墓とされる9号墓は、そっくりそのまま三谷神社の境内になっている。

01 三谷神社

神社のある丘の麓の駐車場にクルマを停めて、石段を上がると、いったん石段が切れてテラスのようなところに鳥居が立っている。丘の斜面の傾斜がここから変わっているように見えるので、どうやらここから上が墳丘墓のようだ。

02 神社石段途中の鳥居

9号墓は4代目、弥生時代最後の出雲王墓とされ、東西62m、南北55m、高さ5mと、墳丘規模が西谷の丘上にある先代の3基よりも大きいだけでなく、墳裾を取り巻く石列が3列になっていることに加え、先代3基とは離れた別の丘に築造されている等、歴代の王墓とは何らか異なる意図、例えば従来よりも強大な権力の誇示等、これまでとは異なる「別格」の王墓として築かれたのではないか、とされている。

史跡に指定されているとは言え、ここは神社の境内であるから、史蹟としての整備は特段なされていないようで、墳丘は周囲をぐるりと生い茂った木々に囲まれているので、全容を眺めることはなかなか難しそうである。

03 神社境内

04 墳丘(上から)

境内の由緒書によれば、三谷神社の祭神は健磐龍命(タケイワタツノミコト、別名「阿蘇都彦命」(アソツヒコノミコト)=阿蘇神社の祭神とされる神)だそうだ。南北朝・室町時代に紀州熊野から奉遷され、当初は現在地より1kmほど南の「元権現」という場所に祀られたが、戦国時代、さらに南の「三谷山」に遷座、昭和36年に大雨で社地が崩れたため、翌年この地に再び遷座されたのだという。
当時はまだこの丘が弥生時代の墳丘墓であることは知られていなかったが、西谷の丘の調査が進むにつれて、この地も重要な遺跡であることが判明したものの、民有地であったことから西側斜面に社務所が新設される等、遺跡としての景観維持が必要となり、平成12年に新たに史跡指定に組み入れられたそうだ。

05 墳丘(下から)

06 9号墓遠望

出雲地方には東西二つの「クニ」があった、とされており、西の「クニ」はここ、西谷の丘周辺に、東の「クニ」は安来市の荒島周辺にあったものと考えられているようだ。
東にあったもうひとつの「クニ」の中心、安来市の荒島墳墓群でも、弥生時代後期後葉の築造とされる大型の四隅突出型墳丘墓が複数確認されており、西谷の丘と同一の(あるいは類似した)墳墓祭祀の文化を有していたと考えられる一方、墳丘規模と墳裾配石列の関係に相違が見られること等から、東西二つの「クニ」はそれぞれ別個の「クニ」として、相互に自立した状態で並存していたのではないか、と考えられているようだ。

出雲地方で四隅突出型墳丘墓が作られたのと同じ時期、吉備地方南部では「楯築(たてつき)墳丘墓」という双方中円型(円形の墳丘墓の前後二方向に長方形の突出部を持つ)で全長72mもある巨大墳丘墓が築造され、他方、丹後地方では「赤坂今井墳丘墓」という長径が40m以上もある長方形の方形台状墳丘墓が築かれ、さらに東海地方では前方後方形の弥生墳丘墓が複数確認されていることなどから、弥生時代後期後半という時代は、列島各地でそれぞれ独特な形状の墳丘墓を築く祭祀文化を有する「クニ」が存在していたと考えることもできるらしい。
これらの巨大墳丘墓に葬られたのは各地の「王」であって、所謂「魏志倭人伝」に記述された「倭国大いに乱れる」という状態は、諸説あるようだが、こうした「クニグニ」が、何らかの理由で頻繁に衝突を繰り返さざるを得ない緊張状態に陥った、ということのようである。

この時代、西谷の丘だけでなく、安来市の荒島墳墓群でも墳丘墓の急激な巨大化が見られるほか、吉備や丹後地方でも確認されている墳丘墓の規模は弥生時代後期後半、突如として巨大化しているようだ。
外敵との対外的な緊張関係が高まった結果、それぞれの「クニ」では結束力が強まり、強力なリーダーシップを持つ強大な「王」が出現、王墓も巨大化した、と考えられるようである。
何か現代に通じるものがあるような気がするのは気のせいか。

いずれにせよ、弥生時代後期に各地で独自の発展を見せ、弥生時代末期に突如巨大化した出雲王や吉備、丹後の王たちの墳墓は、時代が弥生から古墳時代に移ると同時に何故か急速に独自性を失い、各地とも次第に定型化された「古墳」祭祀に収斂していく。出雲地方でも独特の造形を持った四隅突出型墳丘墓は、三谷神社の9号墓を最後に姿を消してしまう。

出雲の覇権を握っていた弥生出雲王たちに一体何が起こり、その後、彼らはどのような運命を辿ったのだろう。

西谷墳墓群の周辺は、前回も触れたように古墳時代末期まで連綿と墓域として使用され、多くの古墳が築造されているが、それらの古墳はいずれも20m前後の小型の古墳であって、しかも墳形は方墳が大半を占めている。このことから、弥生時代末期、一辺が60mにも及ぶような大型の四隅突出型墳丘墓を築いた出雲西部の「クニ」はその後、古墳時代に入る前に断絶ないしは没落してしまったのではないか、と考えられるようだ。
出雲西部ではその後、斐伊川を遡った中流域に神原神社古墳(方墳)や松本1号・3号墳(前方後方墳)などが築造されるようになることから、政治的な中心は西谷の丘周辺から斐伊川中流域に移動したのではないか、と考えられるようだ。
(一説には、出雲王朝はヤマト王権による倭国統一に北九州や吉備の勢力とともに参画した、ともされるようであるが。)

他方、出雲東部の荒島墳墓群の周辺では、大成古墳、造山1号墳など、立派な竪穴式石槨を有する上に三角縁神獣鏡が副葬された初期古墳の築造が見られることから、出雲東部の「クニ」は弥生時代末期の動乱を乗り切り、古墳時代になってもなお、その勢力を維持していたとも考えられるようだ。ただし、出雲東部の初期/前期古墳は、大型ではあるがいずれも方墳であることから、「クニ」としての統治権は維持したものの、その地位は前方後円墳の築造が許されるような身分としてではなかったようだ。

古事記には斐伊川のほとりで出雲タケルがヤマトタケルに誅殺される、という話があるが、日本書紀にも崇神天皇60年(紀元前38年)、出雲振根(イズモフリネ)が筑紫を訪れている間に、天皇から神宝を見せるよう要求された弟の飯入根(イイイリネ)がこれを朝廷に献上してしまったため、怒った出雲振根が飯入根を「止屋(ヤムヤ)の淵」(=現在の「塩冶(エンヤ)」)で誅殺、これを受けた朝廷側が吉備津彦(キビツヒコ)らを差し向けて出雲振根を征討した、というよく似た話が載っている。「塩谷」は西谷の丘からわずか2~3kmほどのところであり、これらの伝承は西谷の出雲王権がヤマト王権によって滅ぼされたという遠い時代の記憶を今に伝えるものではないか、と考える説があるようだ。

ふむふむ、なるほど、そうかそうか、と思っていたが、記事を書いている最中、Amazonからのお薦めを頂き、梅原猛という作家の「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」という本を買って読んでみた。
そこでは出雲弥生王権の最期は、古事記に見える大国主命の「国譲り神話」である、とされていた。
天照大神の直系で日向国から南九州一帯を支配し、次第に勢力を蓄えた天孫族が大軍を従えて東征、西日本全体を戦乱状態に陥れた結果、各地の豪族たちは拠点集落を高地に移して防御を固めたが抗い切れず、徐々に天孫勢力に降伏、やがて、天照大神の弟であるスサノオの娘婿で、いわば親族に当たる出雲の大国主命に国譲りを迫ったものと考えられる、という見解であった。
一方で、時代の下る出雲タケル(大国主命の17代後の子孫)の伝承は、越(高志=北陸)など広域にわたる支配権を国譲りで返上したものの、その後も出雲西部に限って支配権を維持した大国主命の末裔が、後年になって再びヤマトと対立し、滅ぼされたものではないか、と書かれていた。

事の真偽は専門家の皆さんの議論にお任せする以外にないけれど、出雲の地を旅してみて、素人なりに色々と感じるところもあった。
ここから先は私の勝手な妄想、根拠も何もない戯言である。

遥か昔、稲佐の浜で国譲りを迫られた大国主命は、その判断を二人の息子に委ねたが、聡明で思慮深く、恐らくは平和主義者だったであろう大国主命は、稲佐の浜を埋め尽くす夥しい天孫族の大軍を目前に、数多の犠牲を出さざるを得ない無益な戦いを避け、自らは神となってこの国の行く末を永遠に見守る、そういう選択をせざるを得なかったのではないだろうか。
事代主命(コトシロヌシノミコト)はそうした父の判断に従い、同じく出雲国の安泰を祈りながら自ら青柴垣に隠れたが、勇猛果敢だった建御名方命(タケミナカタノミコト)は諦め切れず最後まで抵抗を続け、遠く諏訪湖まで転戦、敗退した後、同じく諏訪大社に祀られることを条件に降伏したのではなかったか。諏訪大社の万治の石仏はもしかすると後世になって、諏訪の民衆が建御名方命の姿を刻んだものではないか。
親族関係にあった大国主命から力ずくで国を奪い取ったヤマト王権側は、覇権を争った大国主命一族の祟りを大いに恐れ、巨大な神殿を建て、大国主命の御霊を永遠に祀ったのではなかったか。

昨日訪れた稲佐の浜は梅雨時で鉛色の厚い雲に覆われ、湿った海風が時折強く吹いていた。
遠い昔、大国主命が国譲りを迫られたその日、空はやはり厚い雲で覆われていたのだろうか。その時、遥か神話の時代、天孫族が下りてきたというその空を、大国主命は一体どのような気持ちで見上げたのだろうか。

昨日見た稲佐の浜の風景を起こい起こしながら、そんなことを思った。

<投稿 2019.10.10>

(参考資料)
「市民の考古学5 倭国大乱と日本海」 2008年10月 甘粕健氏編 同成社
「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」 2019年4月 梅原猛氏著 新潮文庫
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「シリーズ遺跡を学ぶ123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」 2018年2月 渡辺貞幸氏 新泉社
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社




2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(2)(島根県出雲市 西谷墳墓群史跡公園)

出雲弥生の森博物館の展示を見た後は、いよいよ四隅突出型墳丘墓の実物を見に行こうと思う。

四隅突出型墳丘墓は博物館のすぐ西側、西谷の丘の上にある。
西谷の丘は比高差20mほどの高台で、東に斐伊川を望む眺望のよい場所である。台地の西側は切り拓かれて学校などになっているが、墳丘墓群の見つかった東側一帯は史跡公園として整備されている。
墳丘墓は丘上に南北に並んでおり、北から順に1号墓、2号墓・・・となっている。

01 墳丘墓分布図(博物館パンフレットより)
墳丘墓分布図(博物館パンフレットより拝借)

この丘上には、大型の四隅突出型墳丘墓が3基、小型のものが2基と、少し離れた神社境内に大型のものが1基確認されており、これら大型の墳丘墓は歴代の弥生出雲王の墳墓とされている。行ったことはないので勝手な妄想ではあるが、どことなくエジプトの王家の谷を連想してしまう。
この一帯は、弥生時代末期に四隅突出型墳丘墓が作られた後も、引き続き墓域として連綿と使用され続けたらしく、周辺では古墳時代の円墳や方墳なども数多く確認されているようだ。

02 現地解説板

博物館横には古墳時代末期の横穴墓も見えている。

03 横穴墓群 第3支群

できれば全てをつぶさに見て回りたいけれど、残念だがそこまでの時間はないので、四隅突出型墳丘墓に絞って順番に見て回ろうと思う。

博物館前の坂道から丘陵上に上ると、木立の向こうに最南端、小型の6号墓が見えてきた。

04 6号墓(北から)

柵が載っているマウンドがそうであろうか。

05 6号墓解説板

06 6号墓(南から)
南側から。手前左の赤土部分が残存する突出部?

四隅のうち一隅だけが残っているようだが、墳墓脇の解説板と見比べてもどうも判然としない。築造されてから幾星霜、1800年以上経っているのだから、部分的に残っているだけでも、もはや奇跡ではある。6号墓の墳丘は東西16m、南北は8m以上、高さ2.5mで墳裾の配石は1列、弥生時代終末期の築造とされている。

丘上を北に向かうと5号墳がある。
5号墳はパンフレットでは「墳」とされていて、弥生時代の墳丘墓でなく古墳時代の古墳のようだが、現地の解説板の表示は「5号墓」で、「築造時期は不明」となっている。かつては前方後方形と考えられた時期もあったようだが、22m × 17m前後の長方形墳墓だった可能性が高いとされている。

07 5号墓解説板

5号墓
北側から振り返って。手前左側が「土壙」の見つかった「北西平坦部」?その奥、中央の最も高く見えているところが5号墓

5号墓のすぐ北側に聳える小山が4号墓、大型の四隅突出型墳丘墓である。
4号墓は大型墳丘墓の中で3号墓、2号墓に続いて築造された3代目の王墓(築造順は3号墓→2号墓→4号墓→9号墓)とされており、弥生時代後期後半(2世紀末頃)の築造とされている。
現地解説板によれば方丘部は東西32m、南北26m、突出部を含めると約40m(パンフレットでは『47m × 45m、高さ3.5m』)で、壺や鼓型器台のほか、吉備地方の特殊土器も出土している。

09 4号墓解説板

墳丘は山道で破壊されていた突出部を復元、遺存していた方丘部に若干盛土をし、表面に芝を貼った状態で保存されているそうだ。

4号墓北西突出部

4号墓の北隣には「17号墓」がある。
墳丘は調査時点で既に原形を留めておらず、解説板に「現状では高さ70cm以上、直径または一辺が8m以上の円形または方形」とあるが、あいにく草叢で所在が定かでない。

17号墓解説板

正面にあるこの茂みがそうであろうか。

17号墓?

その北側に隣接する3号墓も大型の四隅突出型墳丘墓で、西谷の丘では最も古く、初代出雲王墓と考えられており、築造は弥生時代後期後半、2世紀後半頃と推定されている。発掘以前、墳頂にはお堂があって、斜面にはお堂へ至る石段が残っていたそうだ。
墳丘は墳裾周りに石列(2列)が復元されており、独特な形状がよくわかる。大きさは東西40m、南北30m、高さ4.5mで、突出部を含めると約50m(パンフ記載は『52m × 42m × 4.5m』)もあり、博物館の展示にあったとおり、墳頂の主体部からは祭祀目的と思われる柱穴の跡や厚く敷き詰められた朱、ガラス製の勾玉などのほか、吉備や越(高志=北陸地方)の土器も出土している。

3号墓南西突出部

つくづく、突出部は見れば見るほど面白い形状である。何やら巨大なカモノハシが腹ばいに寝そべっているようにも見える。

北側2号墓墳頂から見た3号墓

墳頂へは階段で上ることができ、発掘された主体部や柱穴の位置がカラー表示されている。

3号墓墳頂主体部と柱穴跡の表示

墳頂から北を見ると、墳丘全体の張り石まで再現された2号墓がすぐ隣に見えている。

3号墓墳頂から見た2号墓

2号墓は3号墓に続いて築かれた2代目の王墓で、弥生時代後期後葉、規模は南北36m、東西24m、高さ4m(パンフ記載は『46m × 29m × 3.5m』)、墳裾の配石は2列あったそうだ。戦前まで陶土採取の対象とされてきたため、墳丘は南側の一部を残して大きく削平されていたらしい。残存墳丘に2mほどの盛土をして墳丘全体を復元、墳裾配石や貼り石まで再現され、築造当時の威容を目の当たりにすることができる。墳丘内部には発掘調査の過程を紹介した展示施設まで設けられている。

2号墓解説板

2号墓北西突出部

さらに史跡公園の北端ギリギリ、高校のグラウンドを見下ろす場所に、この地で最初に四隅突出型墳丘墓として発見された1号墓がある。

1号墓

発掘当時、既に北西側が大きく崩されて半壊状態だったようだが、残存部分から大きさは10m四方ほどと推定されている。南東側墳裾から大きく弧を描いた石列(1列)が発見され、当時は古墳時代初期の「発生期の古墳」と考えられていたことから、「西谷1号墳」若しくは当時の地名から「来原1号墳」と呼ばれたらしい。

1号墓解説板

さて、史跡公園として整備されているのはここまでのようだが、もう1基、国内最大の四隅突出型墳丘墓である9号墓が300mほど離れた丘の上に残っているようだ。

が、しかし、だいぶ長くなってしまったので続きはまた次回、西谷墳墓群を築いた弥生王たちの時代を妄想してみたいと思う。

<投稿 2019.09.02>

(参考資料)
「出雲弥生の森博物館ホームページ」
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html
「シリーズ遺跡を学ぶ123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」 2018年2月 渡辺貞幸氏 新泉社
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版