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2018/06/23

狐と尼さんの伝承の伝わる古墳(山梨県甲州市 おまん稲荷塚古墳、髪切塚)

今回も、まだ世間が平穏であった、2018年梅雨のできごとである。

仕事で疲れているのか、最近、妻に少し元気がない。

気分転換にドライブに誘うと、彼女にしては珍しく、山梨のワイナリーに行ってみたい、と言う。
梅雨の降りしきる中、中央道で勝沼まで行き、地元のワイナリーが経営するという古民家レストランに向かった。
いつもなら混雑していて予約しないとだいぶ待たされるようだが、今日は雨のせいか空いていて、予約していないのですが、と恐る恐る尋ねると、意に反して「どうぞ」とすんなり店内に通された。梯子のような階段に軽く難儀しながら階上へと上ると、店内には年配の夫婦が一組と、もう一組、外国人を交えた3人組が静かに食事をしている。皆、小声で話している、というわけでもないのだが、古民家の屋根や壁は、湿気と一緒に話し声を吸収するのだろうか、店内は不思議と静謐で満ちていて、目を閉じると微かに木枠の窓の外、しと降る雨音が静かに響いてくる。こんな雨の休日もいいものである。

ゆっくりと少し遅いランチに食後の珈琲まで終えて、再び難儀な階段で階下へ降りると、1階はここで作っているワインを試飲しながら購入できるような設えになっている。いつの間にやら妻は、小さなワインボトルを何本か握りしめて、うれしそうに笑っていた。少し元気が出たようだ。
レジの隣では、大きな白い犬が床で丸くなってすやすやと寝息を立てている。何もかもがひっそりと静かな雨の午後である。

店を出て、目前に見えている町営のぶどうの丘に登ってみることにした。こちらも雨のせいだろうか、売り場は人影も疎らで、展望台から雨に煙る勝沼盆地をのんびり見下ろしていると、次第に雨足が弱まってきた。

01 ぶどうの丘より勝沼盆地

夕方になり、そろそろここも閉店時間のようであるが、日が暮れるまではまだ間がある。帰りの中央道も渋滞しているだろうから、もう少し寄り道をして行こうか、と言うと、気配を察したのだろうか、妻から「古墳、見てよし」のお許しが出た。なんとも思いもかけず、山梨の古墳デビューと相成った。

心の準備をしていなかったので、慌てて「古墳マップ」で近くの古墳を探すと、旧勝沼町内の古墳はどこも果樹園の敷地内にあるようで、さすがに果樹園はどこももう閉園時間であろう。この辺りの古墳はまた別の機会、ブドウ狩りでも兼ねてまた尋ね来ることにして、さてと、と目を北に転じると「塩山」の文字が目に入った。

全くの余談であるし、思い出話は健康にはあまりよくないそうだが、勝沼町などと合併して甲州市ができるずっと以前、私が中学に上がった40年ほど前の夏、そこは「塩山市」だった。
人見知りの私が一人でどうしてそんなものに参加したのか皆目覚えていないが、当時住んでいた町田市が主催した塩山市との子供交換留学のようなイベントで、塩山市内、山の中腹の民家に何泊かお世話になったことがある。
笛吹川でキャンプファイヤーをしたような記憶もあるが、はっきりと覚えているのは、八王子から乗った中央本線の普通列車で塩山駅に到着した際、青空と蝉時雨の中でふと見上げた駅名標の「えんざん」の文字と、翌朝起きて顔を洗おうと何気なく捻った蛇口から出た水の、とても真夏とは思えないような冷たさだった。

<おまん塚稲荷古墳>
そんなことをぼんやりと思い返しながら、ぶどうの丘を下って鬢櫛川(びんぐしがわ)沿いに西へ向かい、清水橋西詰交差点を右折、左右に果樹園が広がる中をどんどん上っていくとやがて陸橋で中央本線を跨ぐ。跨いだ先の交差点を右折して、すぐに住宅の合間を左折して入って行くと、右手の畑の向こう、大きな杉木立を頂いたマウンドと祠が見えてきた。

02 おまん稲荷塚古墳 遠景

すっかり雨も上がったようなので、カメラを持って畑の向こう側に回り込むと、隣家の庭先だろうか、墳丘の手前は芝生の広場になっていて、何十年ぶりかで見るような懐かしい遊具がいくつか、鉛色の空と古墳の墳丘を背に置かれている。

03 おまん稲荷塚古墳横の芝生広場と遊具

墳丘は高さ2mほどだろうか、「古墳マップ」には「円墳」とある。

04 おまん稲荷塚古墳 近景

05 おまん稲荷塚古墳 近景

墳頂の祠は稲荷社で、小さな白狐の人形がいくつか並んでおり、つい先ほどまで皆で話をしていたけれど、時ならぬ闖入者に驚いて、皆、一斉に息をひそめてこちらの様子を伺っているように見える。

06 おまん稲荷塚古墳 墳頂の稲荷祠

ところで「おまん稲荷」という名称には何か謂われがあるのだろうと思い、いろいろと調べてみたが、狐にまつわる伝承があること以外、詳しいことはわからなかった。
お稲荷様と言えば狐様、狐は稲荷の神の使いとされるし、関係ないかも知れないが、茨城県鉾田市には「大塚おまんと青塚おせん」という狐の姉妹の伝承が残っているそうなので、この「おまん稲荷」もそういった名前の狐にまつわる祠なのかも知れない。

07 古墳脇 梅雨に濡れた花

<髪切塚>
さて、おまん稲荷塚古墳を辞して、来た道を戻る途中、Googleマップで「しおごみち」と書かれた北東から南西へ向かう一本道と斜めに交差する。この道の謂われもよくわからなかったが、何となく気になってこの道へと逸れたところでふと見ると、皮膚科の建物の裏に大きな木を何本か頂いた小山が目に入った。

08 髪切塚 遠景

皮膚科はもう診察時間が終わったのか閉まっているので、駐車場の隅にクルマを停めさせてもらい、社内に妻とワインを残して小山を見に行ってみた。

09 髪切塚 近景

夏草で判然としないが、高さは3mほどあるだろうか、周囲はだいぶ大きく、直径10mほどはありそうである。

10 髪切塚 近景

これはどうやら「髪切塚」と呼ばれる塚のようで、一説には古墳である、とも言われるようであるが、詳しいことはまたしてもわからずじまいであった。
ただし、「髪切塚」という名前の由来は見つけることができた。
「JH1IRUのページ」という方のホームページに山梨の民話が紹介されており、その中の「比丘尼原(びくにっぱら)」という地名の由来に、この髪切塚の由来が書かれていた。

「比丘尼原」というのはこの周辺の字名のようであるが、南北朝時代の天授六年(1380年、北朝年号では康暦2年)、今でもこの地にある善正寺の僧の娘が、塩山の向獄寺で仏門への入門を願い出たが、女性であることから願いは聞き入れられず、意を決して髪を下ろし、顔に焼き鏝を当てることで信心の深さを示し、漸く入門を許され、「理庵尼(りあんに)」という法号を授かって仏門に帰依したことから、このあたりを「比丘尼原」と呼ぶようになったのだそうだ。この尼さんが髪を下ろしたと伝わる場所が「髪切塚」で、ここがその塚のようである。
尼さんが切った髪を埋めた塚、若しくはこの塚上で髪を切った、ということなのだろうか、髪を埋めるにしては塚が大きすぎるようにも思うけれど、やはりそれ以前からあった塚(ないしは古墳)に後世、逸話が付加された、ということではないだろうか。ちなみにここから西に6㎞ほどの旧春日居町にある牧洞寺古墳はこの「理庵尼」の墓である、とも伝わるようだ。

いずれにしても、昔の日本には、我々のように平和な時代に育った人間には到底思いも及ばないような、なんと信仰心の深い人々がいたのだろうか、と思う。せめて、各地にこうした伝承があることを後世に伝え残していくことぐらいは、我々のような平和な世代の責務なのではないだろうか、と思う。

クルマに戻ると、妻は、ワインと一緒に買ったつまみの味見を始めていた。だいぶいつもの彼女に戻りつつあるようで安心でもあるし、これはこれで平穏な毎日の中で自分が守れる幸福の一つなのだろう、と何となく思う。
さて、彼女がワインまで開けてしまわぬうちに、早々に帰路につくとしよう。

<投稿 2020.04.18>

(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「ふるさとの昔ばなしシリーズ 鉾田市 狐と赤ん坊」 茨城いすゞ自動車㈱ https://www.ibaraki-isuzu.co.jp/story/detail/id=187
「山梨市の民話 地名の由来 比丘尼原」 JH1IRUのページ https://www.qsl.net/jh1iru/yamanashi/minwa/biku/biku.htm





2018/06/19

「水戸の始まり」の前方後方墳(茨城県水戸市 安土星古墳群跡/大井神社)

趣味で古墳を見に行くことは、間違いなく「不要不急の外出」であろうから、自粛すべしと心得ている。
けれど、止むを得ず仕事で外出せねばならない日もある。出来れば出かけたくはないのだが、仕事なので仕方がない。
そんな仕事への行き返り、時間の許す範囲で、移動経路から大きく外れずに行ける範囲の古墳であれば、必ずマスクを着用した上で、できるだけ誰にも会わないよう、手短かに写真を撮ってすぐに帰る程度なら許容範囲かしら、と思っているけれど、果たしてどうなのだろう。
もとより古墳を見に行って、誰かに会うようなことは滅多にないのだが・・・。

これはまだ、世の中がこんなことになろうとは微塵も思っていなかった、2018年6月の夕方の話である。

水戸での仕事が終わり、時計は17時を回っているけれど、帰りがけにもう一カ所、寄り道したい場所がある。以前から是非見たい、と思っていた「安土星(あどぼし)古墳」である。

「安土星古墳群」は水戸市飯富(いいとみ)町の安土星という地域にあった古墳で、県北地域最古級の前方後方墳であったそうだが、国道バイパス工事の採土作業のため発掘調査が行われた後、残念ながら保存されることなく削平されてしまい、今は駐車場になっている、という。

水戸駅前の市街地から国道123号を北西に走り、水戸北インターを横目に常磐道をくぐって左折すると、田園風景の向こうに古墳のある細長い台地が横たわって見えている。時刻は18時半を回って、西の空がだいぶ茜色に染まってきた。暗くなってしまうので急がねばならない。

01 夕景の舌状台地

台地に向かって真っすぐ進むとほどなく「飯富特別支援学校入口」の信号に差し掛かる。信号右上に見えている駐車場が「安土星古墳」のあった場所であるらしい。

02 特別支援学校入口信号

03 飯富特別支援学校校門前

駐車場は学校敷地内で勝手に立ち入るわけにも行かず、一言断ろうにも時間が遅いためか人影がない。
仕方がないので、学校入口の信号近くの公園から駐車場を見上げて空想に耽るほかない。

04 台地下公園から見上げた古墳跡地

こうして見上げている高台は、西を那賀川本流、東を田野川で細長く削られた舌状台地が南に向かって突き出した末端部分で、高台と麓の比高差は10~15mほどある。
肝心の古墳群については、インターネットなどで調べてもなかなか詳しいことはわからなかったが、水戸市教育委員会他から成る調査団が1981年に発掘調査した記録を纏めた調査報告書、「常陸安土星古墳」によると、古墳群はもともと13基の古墳から成る古墳群であったらしく、分布域の最南端、目前の台地上の前方後方墳が1号墳と名付けられ、古墳群中の盟主墳であっただろう、とされたようだ。
1号墳は自然地形を利用した地山削り出しによる全長約40mの前方後方墳であったが、南東方向、尾根の先端に向かって検出された前方部はやや歪んでおり、長さもごく短く、しかも盛土は全くなかったらしい。括れ部西側には造出状の突出部があり、後方部はやや縦長、長方形の二段築成で高さは2mほどあったらしい。主体部は検出されなかったようだが、埴輪を持たないことから古い時代の築造と考えられ、出土した土器片などから判断して5世紀前半頃の築造であろう、とされたそうだ。

なお、後方部北西に隣接して東西10m、南北9mの方墳が確認され、こちらは2号墳とされたが、周溝の形状などから築造順は1号墳が先行するものとされたようだ。

この辺りは那賀国の中心地として古くから開けた場所であったらしく、1kmほど北方には、延喜式内社で常陸国那賀郡七座の筆頭社としてその名の見える大井神社がある。

05 大井神社鳥居

露出の加減で写真からはそうは見えないかも知れないが、だいぶ日が傾いて辺りが薄暗くなった。薄暮の無人の境内を一人で歩く根性はあいにく備わっていないので、参詣はまたの機会にしようと思う。

この神社の祭神は建借間命(タケカシマノミコト)で、大和朝廷から派遣された建借間命がこの地域を平定、那賀(仲)国造に任命された際はこのあたりを根拠地としたと考えられるらしく、水戸市商工会議所のホームページには、この地が「水戸の始まり」とある。
そう聞くと、安土星古墳が建借間命の墳墓か、とも思ってしまうが、建借間命の墳墓と伝わるのはここから那賀川沿いに5kmほど南東に行ったところにある巨大な前方後円墳「愛宕山古墳」であって、ここは昨年の冬に訪れたことがある。

06 愛宕山古墳(2017年11月)

愛宕山古墳は6世紀初頭の築造で、考古学上は安土星古墳の2代後の首長墓とされ、両者の間には首長墓がもう1代、かつて愛宕山古墳に隣接して存在していた「姫塚古墳」が挟まると考えられるようだ。

大井神社は江戸時代の初期、寛永年間(1624~1645年)までは安土星古墳のすぐ近くにあったそうで、古墳近くには当時の御手洗池の跡が残っていたようである。明治6年まで大井神社の社地は現在よりもずっと広く、安土星古墳も境内地内にあって別名「大井御立山」と呼ばれ、神社に残る寛政期(1789~1801年)の絵図には前方後円墳としてその姿が描かれているのだそうだ。

ところで、鳥居横の由緒書きには「建借間命はもと肥の国の意富臣(おふのおみ)」とある。

07 大井神社由緒書き

以前、潮来市の大生西部古墳群と大生神社について調べた際、「多(オオ/オウ)氏/大生(オフ)氏」についてもいろいろと調べた。オオ/オウ/オフ氏は、建借間命と同じく神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)を祖とし、鹿島神宮を奉斎した中臣氏もオオ臣族としての那珂臣族で、オオ氏とは同祖同族とする説もある。
この大井神社ももとは「意冨比(おほひ)神社」若しくは「鹿島明神」と呼ばれていたようであるが、この「カシマ」は「建借間命」の「カシマ」を表す、という説もあるようだ。
鹿島神宮も元々はオオ氏の奉斎した神社であるという説もあるようで、時代が下るにつれ、国家的な祭祀の中心に中臣氏が台頭、東国の神郡祭祀に際しても、東征以降、この地方の政治/祭祀権を握っていたオオ氏が、その立場を中臣氏に徐々に奪われたのではないか、と素人なりに考えたが、それと同じことがここ、祭祀権をオオ氏が握っていた大井神社と、これに代わって那賀国の政治/祭祀権を掌握するようになった新勢力(吉美侯部(キミコベ)氏?)とその本拠地である水戸駅南の台地上にある吉田神社/吉田古墳群でも起こったのではないか、という解釈が前述の調査報告書には紹介されていて、興味深かった。

大井神社の宮司である松本氏は意富(オフ)臣の一族であるそうだし、そもそも「飯富」という地名も「飫富(オフ)」の誤記であろう、とされているのだそうだ。

最後に、そもそも「安土星」とは惑星の「土星」の古い和名で、読みは「あどほし」、「あとぼし」、「あづちのほし」、「安曇星」、「梓星」などとも表記されたらしい。(「あどほし」と聞くと、年代的には水森亜土さんと小林亜星氏を連想してしまうが・・・。)
何故、この地域の字名に土星の名前がつけられているのか皆目わからないけれど、自分が生まれ育った土地に星の名がついていたとしたら、ロマンがあってさぞかし素敵だっただろう。
ただし、もしそうであったなら、趣味は古墳巡りではなく、きっと天体観測に嵌っていたに違いない。

外出自粛もあることだし、天体望遠鏡、買ってみるかなあ。

<投稿 2020.4.10>

(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸安土星古墳」 1982年 常陸安土星古墳調査団
「水戸の始まりの史跡と信仰」 郷土いいとこ再発見 水戸商工会議所 https://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shinkou/




2018/06/19

東海十二景の前方後円墳(茨城県東海村 富士神社/二軒茶屋古墳群)

久しぶりに水戸へ行くことになった。
加えて今回は水戸へ行く前に、少し足を延ばして東海村で別の用事を済ませる必要があった。東海村に行くのは初めてである。

いつものように、どこかで道草ができるよう1時間ほど早めに出発したが、これまたいつものように、首都高の渋滞に阻まれ、東海村で用件を済ませた頃には残り時間は30分を切っていた。
あわよくば前方後方墳や六角形墳などが集中するという真崎古墳群や、その近くにある権現山古墳などを見たいと思っていたが、残念ながら間に合いそうにない。
水戸へ向かう道すがら立ち寄れそうな古墳はGoogleマップでは見当たらなかったが、(当時はまだ閉館していなかった)昇寛さんのブログ「埼群古墳館」で見たところ、国道6号線へ戻る途中に「二軒茶屋古墳群1号墳」という古墳があるようなので、ここに立ち寄ることにした。

6号線の二軒茶屋交差点の100mほど手前を左折、住宅地を抜けると前方にこんもりとした木立が見えてきた。南側の空き地にクルマを停めると、目前に小ぶりな鳥居と真新しい看板が立っている。

01 富士神社東側鳥居

02 東海十二景解説版

「東海十二景」というのは、1991年に東海村が公募によって選定した村内12カ所の景勝地で、ここ「冨士神社」は、「森林に覆われ、古墳の墳頂に祀られた神社の風景と周囲の田園との調和が素晴らしい」ことから十二景に選ばれたという。神社の祭神は木花開那姫命で、冨士浅間神社を1610年(慶長15年)に勧請して創建された、とある。

03 富士神社/二軒茶屋古墳群遠景(南東より)

神社は古墳の墳丘、おそらく後円部上に立っていて、思いのほか小高いところに社殿が見えている。

04 二軒茶屋古墳1号墳後円部上の富士神社社殿

地図で見ると、この場所は標高25mほどの台地上を「つ」の字状に走る浅い谷に向かって北から突き出した比高差2mほどの半島状の高まりに位置しているようである。古墳の墳丘は全長40m、後円部径25mの前方後円墳とされ、調査などは行われていないらしく、築造時期など詳細はわからないようだ。
墳丘は「若干切り崩されて」いるためか、前方部はどうも判然としない。

05 二軒茶屋古墳1号墳前方部

解説版にもあったとおり、ここは「二軒茶屋古墳群」で、他にも円墳などがいくつかあるようだ。
そう思って西に向かって伸びる参道に沿って歩くと、どうやらそれらしくも見える高まりもある。

06 参道脇の高まり

さらに一の鳥居を出て少し脇に行ったあたりの道路沿いもどことなく膨らんでいるようにも見える。

07 西側鳥居横の高まり

周辺をもう少しじっくりと観察したいところだが、今日のところは残念ながら時間切れである。

冨士社晩霞の碑文には、「人声稀れに想いは悠久の神の代に遡る」とあるけれど、悠久の時の流れを遡るのは、さすがに30分では難しかったようである。

<投稿 2020.3.19>

(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/ (残念ながら閉館中)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「東海十二景」 東海村ホームページ https://www.vill.tokai.ibaraki.jp/sangyo_business/shoko_kankogyo/2551.html
「冨士社晩霞」 東海村Wai-Waiにぎわい情報局 http://tokai-mura.info/fujisyabanka/





2018/06/10

宍道湖を見下ろす「狭田の国」の首長墳(島根県松江市 古墳の丘 古曽志公園)

今日は出雲の旅の最終日、夕方の便で帰京する予定である。2泊3日の旅行だったにも関わらず、足掛け1年間にもわたった出雲編もようやく今回で締めくくりである。

今日は同行の家人の見たい所へ行く、という約束なので、古墳を見る予定はなく、宍道湖畔で鯛めしを食し、食後に月照寺で歴代松江藩主の墓を見た後、松江城を散策、天守閣には上がらず、興雲閣のカフェでコーヒーとデザートを頂きながら休憩したものの、それでも出雲空港からの帰りの飛行機まではだいぶ時間が余ったので、宍道湖の北側を一畑電鉄に沿ってのんびりと帰ることにした。
宍道湖を間近に見ながらしばらく走っていると、「古墳の丘 古曽志公園 ⇒」という看板があり、時間もまだあるのでちょっとだけ寄らせてもらうことにした。
宍道湖を見下ろしながら丘陵上へと続く道を上っていくと駐車場があり、公園の案内図を見て驚いた。東西600mほどの敷地内に、たくさんの古墳が散らばっている。

01_古曽志公園案内図

時刻は16時45分、公園の駐車場は「17時に閉鎖」となっているので、とても全部は見れそうにない。大急ぎで西側だけを見ることにして、丘の上へと続く長い階段を上るが、歳のせいかすぐに息が上がり、半ば身悶えしながら登り切ると、広々としたところに「姥ヶ谷古墳群」の解説版と方墳3基が並んでいる。
往時は5~6基あったとされているようだが、ぱっと見、解説版がなければただの築堤か何かのようである。

02_姥ヶ谷古墳群

写真を撮ってすぐに先に進むと「古曽志大谷4号墳」の「模型」?と、さらにその先には、葺石まで再現された前方後方墳、「古曽志大谷1号墳」の立派な復元墳丘があった。

03_古曽志大谷1号墳

この古墳は調査当時、後世の人為的な改変をかなり受けていたものの、墳丘は全長46mで括れが小さく、前方部に造り出しがあり、墳丘全面に葺石と円筒埴輪を有する、出雲地方でも有数の規模の前方後方墳であることがわかり、保存運動の結果、墳丘全てを完掘し、現在の場所へ盛土ごと移築保存されたのだそうだ。築造時期は古墳時代中期後半(5世紀後半頃)とされ、墳頂からは宍道湖が一望に見渡せて頗る絶景である。移築された復元古墳とは言え、なかなかに迫力のある光景だが、時間もないので墳頂から宍道湖を一瞥して、あたふたと駐車場へと戻った。

04_古曽志大谷1号墳から見た宍道湖

既に時計は17時になっていたが、駐車場の出口はまだ閉鎖されていなかった。係りの人が駐車場を閉められず困ってしまっては申し訳ないので、レンタカーを駐車場からいったん出して脇の路上に停め、東側の「古曽志大塚古墳群」も見てくることにした。

東側の尾根へは長さ46mの歩道橋、その名も「地球46億年をわたる橋」で渡れるようになっていて、渡り切るとすぐに「古曽志廻田古墳群」、方墳2基が並んでいるそうだが、どうもそのようには見えない。

05_古曽志廻田古墳群

さらに進むと「古曽志大塚1号墳」、直径46m、高さ6.7mの二段築成の大型の円墳で、西南方向に長さ4.5m、幅10mの造り出しを持っているそうである。規模の大きさから先ほどの「古曽志大谷1号墳」と並ぶ、この地域の首長墓であろうとされている。

06_古曽志大塚1号墳

こちらも葺石、円筒埴輪を有していたらしく、築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半頃)で、こちらの円墳の方が先ほどの古曽志大谷1号墳(前方後方墳)に先行するものとされているようだ。歴代の首長墓が円墳から前方後方墳へと移行するというのはあまり聞かないように思うのだが、それはきっと私の研鑽が足りないのであろう。

07_古曽志大塚1号墳解説

甚だ慌ただしかったが、無事、ひと通り見終わったので、再び46億年の橋を1分ほどで渡り終えてレンタカーに戻ると、それでも駐車場の出口はまだ開いたままだった。

レンタカーに乗り込む前に、改めてあたりを見渡しながら、考えた。

宍道湖を見渡すこのあたりの丘陵には、この公園以外にも古墳が点在しているようで、言わば「古墳だらけ」だったようだが、この一帯は古くは「秋鹿(あいか)郡」と呼ばれ、「出雲国風土記」の国引き神話に見える「北門の佐伎の国」から土地を引いてきて出来たとされる「狭田の国」の中心地に比定されていて、出雲国の統一以前から独立した「クニ」があったものと考えられているそうだ。
出雲では弥生時代から、東西に有力な「クニ」がそれぞれ興っていたと考えられているようだが、そうした「強国」に挟まれた丘上の小さな「狭田の国」は、一体どのようにして「クニ」としての主権を保っていたのだろう。
宍道湖や大橋川などの河川が物理的に一線を画する役割を果たしていたにしても、すぐ近くに強大な「クニ」がある緊張感やいかに、と思うのである。会社勤めを辞して個人事業主となった自分としては何となく、他人事とは思えないのである。

08_丘上から望む宍道湖

もしかすると、国譲りを強要される以前、大国主命が治めたと伝わる出雲の国は、そうした小さな「クニ」の主権も尊重されるような、緩い連合体のような、平和な国だったのかも知れない。
もしそうであるならば、一体いつからこの国は、いや、この星は、そうした平和な時代の記憶を忘れてしまったのだろうか。それともまだ、そうした遺伝子は、我々の身体の、心の奥底に仕舞い込まれていて、いつの日かそうした記憶を思い起す、そんな日がやがて来るのだろうか。

長いようで短かった出雲の旅の終わりに思いがけず見つけた、なんとも滋味深い古墳群であった。

<投稿 2020.3.12>

(参考資料)
「古曽志遺跡群発掘調査報告書」 1989年3月 島根県教育委員会
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版





2018/06/10

松江市内の低地古墳(島根県松江市 乃木二子塚古墳)

玉作温泉から松江市内への移動の途次、少しだけ回り道をして「乃木二子塚古墳」という前方後方墳を見ていくことにした。

宍道湖沿いの国道54号に出て右折、そのまま国道9号線へと入ると前方右手の小高い丘の上に遺跡のようなものが見えてくる。これは田和山遺跡という弥生時代中期に廃絶したと考えられている丘上の砦のような遺跡で、大量の礫石(つぶていし)や石鏃が散乱した状態で発掘され、ここで大規模な攻防戦が行われたのではないか、とされている。興味はあるが時間がないので、後ろ髪を引かれつつ国道9号線を下り、側道をそのまましばらく進むと、道路の反対側、その名も「乃木二子塚古墳前」のバス停横の広い草地の中央に、ふたこぶの墳丘が見えてきた。

01 乃木二子塚古墳

松江市教育委員会による「乃木二子塚古墳他詳細分布調査報告」によれば、この古墳は昔、殿様が塚上から鷹狩りの様子をご覧になった場所、と伝わるそうだ。
後世の削平で形は崩れているが、墳丘は全長36mの前方後方墳とされ、後方部は長さ22m、高さ4m、前方部は長さ14m、高さは2.25m、前方部は北側が削られてしまったのか先端が狭まっている。後方部も開墾で削平されており、墳丘の立ち上がりがかなり急傾斜になっているらしい。

02 乃木二子塚古墳 解説版

周囲からは周溝も確認されており、築造年代は6世紀前半頃と考えられているようだ。

03 乃木二子塚古墳

古墳のある場所の標高は4mほどで、やや北を東西に流れる山居川が削った谷間の低地のような場所に占地している。少し南北に移動すれば標高差10mほどの高台があり、そちらにも多くの古墳群や弥生時代の周溝墓、四隅突出型と思われる方形墓などもあるというが、この古墳の主は何故、敢えて谷間の低地に自らの奥津城を造らせたのだろうか。と思う。
現在の山居川の流路は標高2~3mほどの高さのようであるから、標高差が1mはあったことになるが、それだけあれば山居川が氾濫しても墳丘が水に浸るようなことはなかったのだろうか。

前述の調査報告は古墳の基礎的なデータ収集が目的であったらしく、墳丘本体や主体部などの調査は実施されなかったようであるが、1982年の調査当時、「乃木二子塚古墳」の前方部のすぐ西隣にもうひとつ、「二子塚古墳」という別の古墳が並んでいたようだ。
報告書に掲載されている白黒写真の端にもその姿が写っているが、現地を見渡す限り、どうやら残っていないようであった。
「二子塚古墳」の方は東西17m、南北19m、高さ3mの「隅丸方形墳」で、円墳か方墳か判然としなかったようであるが、調査当時、墳丘は既に畑として利用されていたらしい。

04 乃木二子塚古墳
(1982年当時は写真右端奥あたりの位置に「二子塚古墳」があったらしい。)

雨が少し強くなってきた。傘もささずに嬉々として写真を撮って回るモノ好きなオッサンは、バス停に停車するバスの乗客の目にどう (おそらく変わり者、として・・・) 映っているだろうか。

旅の恥は掻き捨て、少し意味は違っているかも知れないけれど、つくづく、昔の人はよく言ったものである。


<投稿 2020.2.29>

(参考資料)
「乃木二子塚古墳他詳細分布調査報告」 1982年 松江市教育委員会