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2018/05/29

高台の2つの末期古墳(青森県八戸市 鹿島沢古墳群、丹後平古墳群)

青森県にある古墳は「末期古墳」と呼ばれる直径数m程度の小円墳の群集墳で、古墳時代ではなく飛鳥時代から平安時代にかけて築造され、同じ様式の群集墳が宮城県北から南北海道にかけて広く分布しているそうだ。

01 末期古墳の分布域
(2017年7月、おいらせ阿光坊古墳館にて)

青森県内には3箇所、末期古墳の群集墳が確認されており、これらはいずれも八戸市の周辺に点在している。
仕事で毎月行っている八戸だが、大抵はとんぼ返りで帰って来てしまうので、昨夏、阿光坊古墳群を見て以降、どこかに寄り道するようなことはなかった。
今回は仕事をやり繰りして、半日時間を空けることができたので、仕事の後、まだ見ていない鹿島沢古墳群と丹後平古墳群に行ってみたいと思う。

<鹿島沢古墳群>
会議を午前中のうちに終え、いそいそと本数の少ない路線バスに乗って鹿島沢を目指す。
鹿島沢は、八戸の市街地南に迫る山塊の中腹、標高90mほどのところにある。八戸ニュータウン行きのバスに乗って羽仁もと子記念館前で下車、ここはまだ鹿島沢の一段下のような場所であるが、既に標高70mほどあるので、市街地の眺めが良い。

02 鹿島沢下からの眺め

バス通りの西側にはさらに20mほど比高差のある高台が南北に走っていて、古墳はこの見上げるような高台の上にある。

03 鹿島沢古墳群遠望

解説板によると古墳が発見されたのは昭和33年で、それまで青森県で古墳は知られておらず、発見当時は岩手県二戸市の堀野古墳群が古墳分布の北限と考えられていたようである。
盛土はほとんど失われていたようだが、7世紀頃のものと思われる10基ほどの古墳が10mほどの間隔で確認され、川原石敷きの埋葬部から土師器甕や直刀、鉄鏃、ガラス玉などの副葬品が発見されたそうだ。
青森県のホームページによると直径1.2m、高さ1.3m(『直径<高さ』というのも不思議な感じがするが。)の盛土を削平したところ木炭層が発見され、さらに下層から川原石の埋葬部、副葬品が出土した、とある。

04 鹿島沢古墳群解説板

古墳跡は埋め戻されて草地になっており、薫風が草を揺らして吹き抜けていく。
気配を感じたのか、草叢から雉が鋭く一声鳴きながら木立の中へ走り去って行った。

05 鹿島沢古墳群近景

06 鹿島沢古墳群現況

Wikipediaによると古墳は根城(ねじょう)古墳群とも呼ばれ、鹿島沢からは3基、隣接する大久保地区からも5基が見つかっているようだ。大久保地区の5基はその後、宅地造成で消滅してしまったらしいが、大久保地区から出土した銅製の杏葉や帯金具、勾玉などの出土品は青森県重宝に指定され、根城にある八戸市博物館で見ることができるそうである。

蛇足になるが、「根城」は鹿島沢の1.5kmほど北にある、建武元年(1334年)、南部師行によって馬淵川を望む高台に築城された城で、江戸時代に岩手県の遠野に国替えされるまでの300年間、南部氏の居城であった場所である。

07 史跡根城の広場
(2015年9月 史跡根城の広場にて。隣接の博物館にある鹿島沢古墳群の出土品は見忘れてしまった。)


もう一ケ所、丹後平(たんごたい)古墳群は鹿島沢古墳群から2kmほど南、八戸ニュータウンという新興住宅街にある。次のバスまではだいぶ時間があるので、このまま高台上の道を歩いて行こうと思う。
「風薫る」とはよく言ったもので、木立を抜けて来る風のなんと爽やかなことか。微かに漂うよい香りは一体何だろうかと思っていると、香りの主は頭上のニセアカシアの花のようである。

08 ニセアカシアの花

爽やかな香りで気分もよいが、ニセアカシアは明治になって輸入された外来種であり、しかも日本固有の生態系に被害を及ぼすとされる「生態系被害防止外来種」だそうである。

暫く行くと瀟洒な住宅街に入る。
近くに小学校があるのだろう、下校途中の小学生が多く、町内会の掲示板には「連れ去り注意!知らない大人に声をかけられてもついて行ってはいけません!」の文字。最近は物騒な事件も多いので、古墳見学にも気を遣う。
ふと見れば、前方からランドセルを背負った女子児童が一人、歩いて来る。
勘違いされても困るので、視線を合わさないよう、俯きながらすれ違おうとしたまさにその時。
すれ違いざま、小さいがはっきりとした声で、おそらく彼女は「コンニチワ」と言った。
不意な出来事に慌てつつ、遠ざかる彼女の背中を見送りながら、子供には善人と悪人の区別がつくのかしら、などと思った瞬間、別のポスターが目に入った。
「不審な人には、こちらから『コンニチワ』と声をかけましょう!」
なるほど、「コンニチワ」作戦は確かに効果覿面である。

<丹後平(たんごたい)古墳群>
丹後平古墳群はニュータウンの一画、白山台保育園の向かい側に埋め戻された状態で「保存」されていた。

09 丹後平古墳群遠望

古墳群の総数は100基前後とされており、7世紀後半に南側から築造が始まり、北に移動しながら9世紀後半まで継続した、と考えられているようだ。
埋葬施設は長方形の木棺直葬のほか、土壙墓や地下式横穴なども混在しているらしい。

10 丹後平古墳群解説板

確認された中で最大規模の15号墳は直径(周溝内径)9mで、ここから発見された獅噛式三累環頭太刀柄頭(しがみしき さんるいかんとうたち つかがしら)は国内に他に類例を見ない見事なもので、新羅で製作されたものと考えられているそうだ。(これも実物は八戸市博物館で展示されているらしい・・・。)

周囲をぐるりと一周してみたが、宅地造成で周辺の土地は削平されているらしく、特に南側と東側はコンクリートブロックが高い壁のようになっている。

11 丹後平古墳群遠望(南から)

12 丹後平古墳群南側

比高差の少ない北西隅に一ケ所だけ階段があるが、黄色いチェーンがかけられており、自由に見学していいような雰囲気ではなかった。

13 丹後平古墳群北西隅

14 丹後平古墳群現況

遺跡は保存されている一画だけに留まらず広範にわたっていたようであり、南東側には木立の茂る緩斜面が僅かに残っている。

15 丹後平古墳群南方の窪地地形
(軽トラックの左、コンクリートブロックの塀の上の草地が古墳群の保存区域)

緩斜面の先はすり鉢状に落ち込んでいるようで、見晴らしがよい。地形図を見るとこの先は歪な楕円形の窪地になっているようで、窪地の向こうにはまだ鬱蒼とした木立がところどころ見えている。古墳を造った人々が暮らしていた時代は一体どんな光景だっただろうか。

バス停で帰りのバスを待ちながら考えた。新羅から見事な太刀を輸入するほどの力を持っていたこの地の人々はその後、一体どのような運命を辿ったのだろう。

大和朝廷による蝦夷侵攻は延暦2年(802年)、阿弖流為(アテルイ)の降伏を以って事実上収束し、概ね岩手県中部の志波城(若しくは徳丹城)から秋田県中部の雄勝城までを北限とするラインで一旦停止したようである。
今日見て回った鹿島沢古墳群、丹後平古墳群と、昨夏に見た阿光坊古墳群はいずれもこの侵攻停止ラインよりも北に位置しているので、これらの地域の人々は、もしかすると大和朝廷側による直接的な侵攻は受けずに済んだのかも知れない。
しかしながら、蝦夷の地ではその後、大和朝廷の俘囚となった部族を中心とした部族間紛争が頻発したそうである。
少なくとも蝦夷の人々から見れば、蝦夷の地に災いを齎した大和民族こそ、ニセアカシアの比ではない「外来種」であったに違いない。

彼方からバスが近づいて来た。
目を凝らすと、そのバスは行きに乗って来たのと同じバスのようであった。

<投稿 2019.01.13>

(地図)
鹿島沢・丹後平古墳群地図


(参考資料)
「oh! 史跡探訪 八戸市の古墳」 http://oobuta.fc2web.com/rekisi/kofun/si/hatinohe.html
「鹿島沢古墳群出土品」 https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/juho_kouko_26.html
「鹿島沢古墳群(ウィキペディア)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島沢古墳群
「丹後平古墳群」 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,3241,129,153,html
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,69662,129,63,html