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2018/04/20

義経の財宝伝説と富士塚(神奈川県大和市 公所浅間神社)

(世の中では年が変わって2019年になったが、このブログはまだ2018年の春である・・・。)

以前、町田市の「鶴間」の語源について、「義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた」という伝承がある、と書いた。
今回はこの、義経の財宝が埋められている、という伝説の地を訪ねてみようと思う。
今回は、まかり間違えれば俄か億万長者も決して夢ではない(かも知れない)。

国道246号の目黒交差点から国道16号の旧道を八王子方面に右折、境川を渡って緩斜面を緩やかに上った先は大和市の「下鶴間」である。
「鶴間」は平安時代の文献にもその名が見える古くからの地名で、今日でこそ相模原市(上鶴間)、大和市(下鶴間、鶴間)、町田市(鶴間)と幾つもの行政区域に分断されているが、中世の頃は全て合わせて「鶴間(紘間)郷」と呼ばれていたようだ。

現在、「下鶴間」と呼ばれる地域は国道16号の旧道の両側に広がっているが、このうち16号の東側、眼下に境川を望む高台上に「公所(ぐぞ)」という地域がある。

「公所」と書いて「ぐぞ」と読むのはかなり難解な部類ではないか、と思うが、「公所自治会ホームページ」によると、正確なことはわからないまでも、県内には他にも同様の地名が見られ、頼朝の時代に各地に置かれた関所の所在地を意味するのではないか、とされているらしい。このあたりには鎌倉古道や滝山街道などの古街道が今でも残っており、古くは「仕置場」、「牢場」などという字名もあったのだそうだ。

この「公所」のほぼ中央に鎮座するのが鶴間郷の総鎮守とされる「公所浅間神社」で、冒頭述べた義経の財宝伝説はこの公所浅間神社に伝わる伝承とされる。

01 公所浅間神社

神社の北側一帯からは古墳時代後期の集落遺跡が見つかっており、「下鶴間甲一号遺跡」と呼ばれているそうである。

02 下鶴間甲一号遺跡

ただ、この公所浅間神社は国道16号のバイパス建設工事に際して、昭和50年に現在地に移転しており、義経の財宝に関わる伝承は移転前の旧地に関わるものらしい。
神社の旧地は現在地よりも500mほど西、台地上を掘割状の切通しで通過するバイパスを見下ろす小さな丘として残っている。

03 下鶴間浅間神社遺跡

バイパス工事で削られる以前、神社の境内となっていた丘は現在よりもかなり大きかったようで、大和市が設置した解説板に載っている往時の白黒写真を見ると、木々が疎らに生えた南北に細長く小高い丘が映っている。

04 下鶴間浅間神社遺跡解説板(全景)

さて、義経が埋めた伝説の財宝はどこにあるのかしら、写真にある小高い丘はバイパス工事でどのくらい削られて、今残っているのは写真のどの部分なのかしら、そもそもバイパス工事の際、財宝は発見されなかったのかしら、などと考えながら、再び解説板に目をやると、思いがけず「塚」の古写真が二枚、掲載されているではないか。

05 下鶴間浅間神社遺跡解説板(塚)

解説板の後ろには丘の上に続く小路があり、登ってみると、丘の上には塚が一つ、残されていた。

06 下鶴間浅間神社遺跡塚遠景

近づいて見ると「富士塚(浅間の森)」と書かれた標柱が立っている。

07 下鶴間浅間神社遺跡塚富士塚標柱

この塚が解説板のいずれの塚かはわからないが、現在の地形図と照らし合わせて見ると、どうやらこれは丘の全景写真の中央付近に移っている方の塚ではないか、と思う。
よく見ると、全景写真の中央右手には社殿の屋根のようなものも見えているようなので、「旧社殿裏手の塚(1号塚)」が残されているのではないか、と思う。

08 下鶴間浅間神社遺跡塚近景

09 下鶴間浅間神社遺跡塚(南から)

おっと、いかんいかん、つい「塚」に目が眩んで、肝心の「財宝」を忘れるところであった。(目が眩むのは普通、「財宝」の方ではないかと思うが。)
鶴間一帯には冒頭の伝承とともに、一節の古い歌が伝えられているそうである。

「朝日があたって夕陽が映え、雀がチュンチュン鳴く所、大釜いっぱい鍋いっぱい」
「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆満杯」

これらはいずれも義経が密かに埋めた財宝のありかについて謡った歌である、とされる。

義経がこの地に財宝を埋めたのは、鎌倉入りを許されず失意のうちに京都へ戻る途上、という状況であるが、しかしながら何故、腰越から京都へ向かおうとしていた義経が鶴間に立ち寄ったのであろうか。
確かに鶴間には古くから、「矢倉沢往還」と呼ばれた街道が通っており、鎌倉時代には宿場機能も成立していたのかも知れない。東国から京都を目指すのであれば、この矢倉沢往還を通ることは当然のようにも思えるが、鎌倉から京都を目指すのであれば、鶴間を経由するのは些か遠回りな感が否めない。

考えて見れば、公所浅間神社の旧地周辺には崖地も多く、そうした崖には横穴墓も多く見つかっているそうである。こうした上代の横穴墓から副葬品が見つかったという話に加えて、もう一つの鶴間の由来伝承、鷹狩りの際、源頼朝がここで鶴が舞うのを見た、という伝承が融合されて、いつしか「義経の財宝伝説」が形成されていったのかも知れない。

いやいや、そんな「夢のない」話をしてしまっては、せっかくの歴史ロマンが台無しである。
あくまでも義経はきっと、弁慶を従えてここ、鶴間に至り、茜空に鶴が舞うのを見たに違いない。
きっとそうに違いない。


(地図)
公所浅間神社地図


(参考資料)
「公所自治会ホームページ」 http://guzo.d2.r-cms.jp/topics_detail4/id=51
「公所浅間神社鶴舞伝説」 http://sengenjinja.web.fc2.com/0densetu/densetu.html



2018/04/06

新座市内の古墳痕跡?(埼玉県新座市 夫婦塚跡(No.25遺跡)/稲荷塚(富士塚)跡(No.1遺跡))

新座郡の前身である新羅郡は郡境の閑地に置かれたことから、古墳はあまり多くは築かれず、古墳空白地帯となったのかも知れない、と書いたことがあった。
一方で、いやいや、きっとそんなはずはない、新座市にも古墳は実はたくさんあったに違いない、と思(願)いつつ調べていたところ、「新座市史」にこんな記述を見つけた。 

「No.25遺跡 畑中一丁目 
黒目川左岸の野火止台地、国道254号線の南方約150mに所在
『夫婦塚』と呼ばれる円墳と方墳の存在が伝えられるが、現在は宅地化されて消滅」

 「No.1遺跡 東北二丁目
 野火止台地上、東武東上線志木駅の西南約200mに所在
 県の遺跡台帳では『稲荷塚』(地元では字名から『富士塚』)と呼ばれ、志木駅を中心とする大塚古墳群に含まれている。
 昭和55年9月5日、宅地造成工事に伴い試掘調査を行い、土盛りを分断したところ土層は柔らかい黒色土のみであり、古墳らしい形跡は何ら認められなかった。よって当遺跡は古墳ではなく、時期不詳の塚であった可能性が高い」 

知らなかったのは不勉強な私だけなのであろうが、ほ~れ、見たことか。やっぱり古墳、いっぱいあったんじゃん、と思い、仕事のついでに見に行くことにした。(後者は『古墳ではなかった』というくだりは、もはやこの男の目には入っていないのである。)

 <夫婦塚(No.25遺跡)>
 練馬から川越街道を北上、和光市、朝霞市と進むと、やがて前方に野火止台地へ上る長い上り坂が見えて来る。台地の手前、崖下を縫うように流れているのが黒目川であり、目指す「夫婦塚(No.25遺跡)」はこの黒目川を望む台地上の縁にあったようである。 

川越街道から南に逸れて「畑中」という信号で右折するとすぐに台地上への上り坂が始まる。この道は明治時代の地図にも載っている古くからの道のようである。
 やがて坂の頂上付近に大きなマンションが見えて来る。 

01 新座市夫婦塚跡付近

新座市史に載っている「No.25遺跡」の位置図を見ると、遺跡はこの大きなマンションの敷地から、今通って来た道路を挟んで反対側の住宅地の方まで、およそ100m四方ほどの範囲にわたっていたように書かれているが、「現在は宅地化されて消滅」とあるとおり、あたりを見回してもそれらしい痕跡は見当たらない。
 
02 新座市夫婦塚跡付近
 
03 新座市夫婦塚跡付近

新座市史の他には全く手掛かりがなく、「夫婦塚」と呼ばれた円墳と方墳が一体どこにあったか皆目わからないのであるが、「夫婦塚」と呼ばれたのであれば、円墳と方墳はそれなりに近い距離に並んであったのではないだろうか、と思うし、相応の大きさの墳丘を伴っていたのではないだろうか、と思う。 
いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見ても塚や古墳を示す記号は見当たらなかったが、このあたりに人家の記号が目立ち始めるのは時系列的には昭和51年の地図以降であるので、それ以前の航空写真を見れば墳丘の痕跡などが映っているかも知れないと思い、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」で戦後の航空写真を穴が開くほど凝視してみたが、この一帯は「広葉樹林」だったようで、一面に広がる木立に埋もれてしまっているのか、判然としなかった。 

04 夫婦塚周辺航空写真(昭和22年) 
 (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和22年撮影(M676-106)の現地周辺を拡大 何となく中央やや上に丸い影があるような気もしないでもないが・・・。) 

<稲荷塚(富士塚、No.1遺跡)>
 時間もあまりないので、続いて志木駅の南西200mにあったという時期不詳の塚、「稲荷塚(富士塚)」を見に行こうと思う。 
こちらは新座市史の遺跡位置図の縮尺が大きすぎて、事前に場所が絞り込めていなかったが、志木駅南西にその名も「富士塚公園」という公園があるので、ここがその跡地なのだろうと思い、100mほど北、イオン裏のコインパーキングに運よく空車があったのでクルマを停めた。 
徒歩で富士塚公園に向かう前、もう一度、「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見てみた。 
やはり今、富士塚公園のある場所に塚・古墳マークは見当たらないな、と思った矢先、その100mほど北方に奇妙な記号があることに気が付いた。 
記号はゲンゴロウかミジンコのように見えたが、地形図にそんな絵が描かれているはずもなく、もしかするとこれは「塚・古墳マーク」ではないだろうか、と思う。

 05 今昔マップon the webより明治39年 2万分の1「志木」(部分)  

大正、昭和の地図で見ても同じ場所に「塚・古墳」記号が描かれているので、おそらくこれが昭和55年まであったという「稲荷塚(富士塚)」であろうと思う。国土地理院の航空写真でも、丸い塚の墳丘が確認できる。

06 稲荷塚周辺航空写真(昭和50年)  (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和50年撮影(CKT7415-C16A-14)の現地周辺を拡大 中央上に斜めに志木駅、中央下、丸で囲んだ部分が稲荷塚(富士塚)と思われる場所) 

そうか、ではこの場所は現在のどこにあたるのか、と思ったところでハタ、と気づいた。
今、クルマを停めたばかりのこの駐車場を取り囲む建物の向きがどうもおかしい。敷地がほぼ円形をしているのである。
 07 新座市稲荷塚跡


位置的にもおそらくここが稲荷塚(富士塚)の跡地で間違いないように思う。 

今回訪ねた塚・古墳はいずれも開発で消滅してしまっていて、手掛かりもさほどなく、その痕跡を探すだけに留まったけれど、こういう不完全な探索行も、これはこれでなかなか面白いものだ。 

おっと、いかんいかん、仕事の時間に遅れてしまいそうである。 

夜、帰宅してから少し文献を当たってみたところ、「埼玉の古墳(北足立・入間)」という書籍の「荒川流域右岸の古墳」の項の末尾に、「(伝)大塚古墳群」として以下のような記述があった。

 「(伝)大塚古墳群
  柳瀬川と荒川の沖積地にのぞむ志木市域には、『埼玉縣史』に『志木町古墳群』が登載され・・・『朝霞町の西北に接して柳瀬川・新河岸川に臨める台地に多くの古墳を存し、主として円墳で字大塚の塚ノ山は其の以て地名を来せるものであり、其他田子山の富士、久保の二墳、稲荷山の二墳、二塚の二墳、出口の休塚等其の数可なりに多きを見られる。』・・・しかし志木市史編さんにあたって、文献、古地図、実地調査、聞き取り調査を行ったが古墳と認められる墳丘はなかった。・・・昭和55年段階では古墳群と認められないという結論に達し・・・その後の調査でも、古墳と認識できる資料は発見されていない。・・・野火止塚は・・・台地の奥にあり、古墳の可能性はきわめて薄い。そのほかの『塚』も古墳とは考え難いものである。」 

「稲荷山の二墳」というのは志木駅南西の「稲荷塚」であろうし、「夫婦塚」は言及されているのかよくわからないが、これを読む限り、塚の山古墳も含め、このあたりの塚はいずれも古墳ではない、という文意に読める。
 専門家の方々が「古墳ではない」とするものを、それでも「古墳!」と言い張るつもりはない。
 ないのであるが、それでも遠い昔、誰かが何かしらの意図を以ってこうした塚を築いたことは確かであって、そうした人々は果たしてどのような思いをこれらの塚に込めたのだろうか、また、近世になって削平されるまでの間、そうした古塚は人々からどのように思われていたのだろうか。 
余計なお世話かも知れないが、そんなことをつい、思ってしまうのである。

 (地図) 
夫婦塚跡地図


稲荷塚跡地図



(参考資料) 

「新座市史 第一巻 自然・考古 古代中世 資料編」(新座市立図書館デジタルアーカイブ)http://www.lib.niiza.saitama.jp/das/detail?24&id=1 

「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html 

「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」1994年 埼玉県教育委員会

「埼玉の古墳(北足立・入間)」2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会