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2018/01/30

銀杏坂周辺の古墳跡(茨城県水戸市 水戸東照宮境内古墳群、三の丸古墳跡)

これまで水戸へはクルマで行くことが多かったが、あいにく昨夜から雪になったので今回は電車で行くことにした。
運よく1本早めの電車に乗れたので、今日は水戸駅から歩いて行ける古墳跡を見に行こうと思う。

水戸駅周辺の地形は思いのほか起伏に富んでいて、駅の北側には高さ20mほどの舌状台地が西側から張り出しており、駅前から北西へと続く大通りはこの台地を切り通しながら緩やかに上っている。
坂の名前は「銀杏坂(いちょうざか)」で、登り口には名前の由来となった、昭和20年の大空襲をくぐり抜けた大銀杏が聳えている。

01 水戸大銀杏

銀杏坂の南側、台地の末端が独立丘のように小高く突き出た高台に「水戸東照宮」がある。

02 水戸東照宮前景

水戸東照宮は徳川家康を祀る神社として、初代水戸藩主徳川頼房により元和7年(1621年)に創建され、創建当時の社殿が昭和20年まで残っていたが、残念ながら空襲で焼失してしまったそうである。

03 水戸東照宮遠景

拝殿で合掌し、境内を見せて頂く許しを請う。境内には何とあの「黄門様」が造らせたという、時を知らせる銅鐘「常葉山時鐘」や、九代藩主斉昭が造らせたという鉄製の戦車「安神車」などが残されていて、思いのほか楽しい。

04 水戸東照宮安神車

<東照宮境内古墳群>
ところで古墳であるが、江戸時代に「常葉山(ときわやま)」と呼ばれたこの見晴らしのいい高台は、「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、弥生時代の住居跡遺跡のほか、「東照宮境内古墳群」という古墳群があった、とされている。
この古墳群については、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳3、湮滅」、「現況:境内」とある以外、ネットで検索しても特段の情報が見当たらず、詳しいことはわからないが、近年の宅地開発ならまだしも、江戸時代の神社造営の際、古くからそこにあった古墳を完全に破壊してしまうようには、(期待も込めて)思えないのである。
境内にそれらしい痕跡のようなものはないか、と探していると、摂末社のひとつだろうか、「稲荷神社」の祠の土台が円墳状に見えなくもない。(やれやれ、また神社の「土台」を見ている。)

05 水戸東照宮稲荷神社

そういう目で見ると、すぐ脇にある「常葉山時鐘」の鐘楼の土台も一段高くなっているように見える。

06 水戸東照宮常葉山時鐘

神社の境内にある周囲より一段高い場所は須らく古墳の痕跡である、とは思わないが、本人は既にこれで「何か」を「2箇所」見つけたつもりでいる。
さらにもう一箇所・・・・と改めて境内を見渡すと、本殿の後方にひときわ大きな樹叢が見えている。

07 水戸東照宮本殿遠景

近寄ってみると、そこは柵で囲まれていて、立ち入ることはできないようであるが、奥の方、大きな木の根元が石で巻かれているのが見える。高さは1mほど、奥行きはわからないが、幅は7~8mほどあるだろうか。

08 水戸東照宮本殿北側

これが古墳の痕跡かどうか、全く定かでないが、本人は「3箇所目」を見つけたつもりでいるようで、しかも何故か満足しているようである。

約束の時間までまだ少しあるので、東照宮を辞し、アーケードの商店街を通って再び大銀杏まで戻ってきた。
ネットで検索すると、目前の銀杏坂は明治20年に新しく拓かれた道で、古くは大銀杏から北東方向、三の丸小学校へと続く急坂が元々の銀杏坂であったようである。
「いばらきデジタルまっぷ」を見ると、この旧銀杏坂を上った先にも古墳マークが付いている。

<三の丸古墳跡>
マークが付された場所は、目前に聳える水戸京成ホテルの向こう側、現在は広い駐車場になっているあたりのようだ。

09 水戸旧銀杏坂

こちらも情報が見当たらず詳細はわからないが、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳、湮滅」、「現況:宅地」となっている。

10 水戸三の丸古墳跡

約束の時間が近づいたので水戸駅へ戻ろうと、再び旧銀杏坂を下る。ふと見ると、坂の南側に廃墟のような広大な空き地が広がっている。

11 水戸西武跡地


そう言えばここには昔、西武デパートがあったはずである。

20年以上昔、駆け出しの私が珍しく一人で水戸出張の大役を仰せつかり、出張に不慣れだった若造が自分で選んで予約した前泊の宿が見つからず、このあたりを彷徨った記憶が不意に蘇った。
確かあれはまだ寒い春先だった。上野から特急にひたすら揺られてすっかり陽の暮れた水戸駅に着いたまではよかったが、肝心のホテルが見つからず、何度も西武デパートの前を通った。通るたびに、また同じ場所か、という焦りと同時に、知らない街でもここには人の気配がある、という妙な安堵感のようなものを覚えた記憶がある。

散々歩き回ってようやく探し当てたその宿は「ビジネスホテル」のはずであったが、個人経営のような佇まいで、そろそろと中に入って行くと、無人のフロントの前には大きな白い犬が2匹、悠然と寝そべっていた。
あの時のホテルは一体どこにあって、今でも果たして営業しているのだろうか。白い犬はどうしているだろうか。

感傷に浸っている時間もなく、駅に向かって歩を早めながら、そう言えば最近、「旅情」というものをあまり感じなくなったのは、こんな自分でもいつの間にか出張に慣れてしまったせいかも知れないな、と思った。

「旅情」は薄れてしまったようだけれど、歳を重ねると「郷愁」や「感傷」は強まるようである。

(地図)
水戸銀杏坂周辺地図


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「目的地までが目的地~坂と峠 銀杏坂」 http://satoshi.quu.cc/moku/nippn.files/touge/icyozaka.htm




2018/01/14

沖積平野の微高地「神社」巡り(2) (埼玉県吉見町 氷川神社、熊野神社、稲荷神社、氷川神社)

妻のリクエストで埼玉県吉見町の道の駅「いちごの里よしみ」にイチゴを買いに来たついで(?)に、古荒川流域の沖積低地に点在する神社の「土台」を見て回っている。

道の駅でイチゴを買い終わってしまったので、神社や古墳にはさほど興味のない妻にとっては、見知らぬ町の見知らぬ神社巡りは退屈なようで、車内には微妙な空虚感が漂っている。(でもまだやめないのである。)

<氷川神社(北下砂)>
地頭方の頭殿神社から500mほど南に離れたあたりに、もうひとつ別の自然堤防が南北に細長く伸びている。
北側から、微高地の東端を通る道路に入って100mほど進むと、地図には載っていないが、道路から少し離れたところに神社の森が見えた。

01 氷川神社(北下砂)遠景

場所は竜渕寺という寺院の北、地図で見ると今泉地区と北下砂地区の境界線にまたがって建てられているようだ。
西陽が眩しくて見えづらいが、鳥居の扁額は「氷川大明神」と読める。

02 氷川神社(北下砂)鳥居扁額

鳥居をくぐり、東面して建つ小さな社殿に手を合わせる。社殿は1mほどの高まりの上に乗っている。

03 氷川神社(北下砂)本殿

横から見ると、社殿の基壇は円形もしくは方形に盛り上がって見える

04 氷川神社(北下砂)南から

立地する場所の標高は14.8mとやや低めだが、それでも周囲の田圃よりはいくらか高い場所にあるようだ。
マウンドがやや低めな感じは受けるが、ここも雰囲気としては「古墳感満点」と思うのである。

05 氷川神社(北下砂)西から


だが、しかし、いくら「雰囲気」があったとしても、解説板も何もないので、こうした神社の土台が実は古墳である、という確証は一向に得られない。
このままで行くと、ブログのタイトルも「滋味“神社の土台”」か何かに変えねばならないか・・・。


<熊野神社(丸貫)>
先ほどの場所から同じ微高地上を800mほど南に下ると、今度は少し境内の広い神社に着いた。
鳥居に扁額は見当たらないが、地図を見ると「熊野神社」とある。

06 熊野神社(丸貫)遠景

広い境内に比べるとやや小さな本殿は、1.5mほどの高まりの上に祀られている。

07 熊野神社(丸貫)本殿

08 熊野神社(丸貫)南東から

裾がコンクリートブロックで四角く囲まれているので、「雰囲気」はあまり感じないが、立地的にも先ほどの氷川神社と同じく、周辺の田圃より僅かに高い土地に建っている。

神社の社殿横には観音堂があり、その裏手、境内の南西一画には、立派な宝篋印塔がたくさん並んでいる。
よくわからないが、地元の武士の菩提所のようなところだったのだろうか。

09 熊野神社(丸貫)南西の宝筐印塔群


<稲荷神社(谷口)>
さらに南下しつつ、今度は自然堤防の西端に位置する神社を目指した。
西陽が傾いてきて判読がつらくなってきたが、扁額には「正一位稲荷大明神」とある。

10 稲荷神社(谷口)鳥居扁額

小さな社殿は10段ほどの石段のついた、大人の背丈ほどのこんもりとした基壇上に建てられている。

11 稲荷神社(谷口)本殿

何気なく覗くと手水石には、今朝張った氷だろうか、溶けずに張ったままだった。

12 稲荷神社(谷口)手水石

社殿の脇に回らせてもらうと、マウンドには土留めが巡らされていて、表面の土もどことなく新しいように見えるが、よく見ると社殿手前に大きな石材が見えている(ようにも見える)。

13 稲荷神社(谷口)南から

社殿の向こうは一面の田圃が広がる中、住宅が点在している。
西陽はほとんど山の端に隠れてしまい、左前方に小さく富士山のシルエットが黒く浮かんでいた。

14 稲荷神社(谷口)西側夕景


<氷川神社(万光寺)>
さすがに暗くなってしまったので家路に着こうと思い、ナビをセットしようと道路脇に停車したところ、すぐそこにまた神社があった。

15 氷川神社(万光寺)遠景

ここも社殿は1mほどの高まりの上に建てられているが、自然堤防の縁にあるのだろう、社殿の裏はさらに一段高くなっている。

16 氷川神社(万光寺)本殿

17 氷川神社(万光寺)東から


さすがに暗くなって写真のピントも合いづらくなってきた。助手席の妻もげんなりした表情をしている。


恐縮しながら家に帰り、吉見特産のイチゴの御相伴に預かりながら調べてみると、道の駅から最初に向かった高負彦根神社へ道の途中、すっかり素通りしていた「横見神社」はまさに古墳の上に社殿が建っているようだし、そもそも道の駅の西にある「久保田横見神社」や、南にある「とうかん森」なども古墳なのではないか、という説はあるようだが、その一方で、今日見て回った神社が古墳を転用したものだ、という説はいくら探してもついぞ見当たらなかった。

今日一日はすっかり、骨折り損の何とやら、だったようである。
けれど、隣でテレビを見ながらイチゴを食べている妻の顔は何とも嬉しそうなので、まあ、よしとしよう。

(地図)
吉見町地図(南部)


(参考資料)
「埼玉の古墳 [比企・秩父]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会



2018/01/14

沖積平野の微高地「神社」巡り(1) (埼玉県吉見町 高負彦根神社/ポンポン山、天満宮/頭殿神社)

イチゴを買いに行こうと思う。

埼玉県吉見町と言えば「吉見百穴」で有名な町であるが、最近は「イチゴ」の生産にも力を入れているらしい。

今や全国津々浦々に「道の駅」があるが、吉見町の道の駅は「いちごの里よしみ」といって、イチゴ押しである。道の駅好きで、しかも大のイチゴ好きの妻をドライブに連れて(古墳がある町へ)出かけるにはこの上ない。

吉見町は東に荒川、西に吉見丘陵が広がっており、丘陵端の崖面に穿たれた「吉見百穴」を始め、一説には500基以上の古墳が密集する地域らしい。4世紀前葉の築造で古式の前方後方墳とされる「山の根古墳」など、とても魅力的な古墳があるようだが、こうした古墳はいずれも山中にあるらしく、残念ながら妻を連れて行くには不向きなようである。残念だが吉見町の古墳巡りはまたの機会に譲ることにした。

それでも諦めきれずに地図を眺めていると、丘陵下、荒川流域の沖積平野のあちこちに点在する神社の記号が目についた。いずれも標高は周辺の田園地帯より1mほど高くなっているようなので、沖積低地にある自然堤防状の微高地上にいくつもの神社が祀られているようだ。

吉見町は、古くは「横見郡(評)」と呼ばれ、安閑天皇元年(534年)に起こったとされる武蔵国造の乱の勝者である笠原直使主(カサハラノアタイオミ)が朝廷に献上した4ケ所の屯倉(ミヤケ)のひとつ、「横渟(ヨコヌ)屯倉」の比定地とされる。ヤマト朝廷による東国支配の拠点として古くから栄えたためか、町域に延喜式内社が3社もあるほか、神社の数も多いようだ。
こうした神社の中には、自然堤防上に作られた古墳を転用して、その上に社が祀られたものなどもきっとあるに違いない。今回はこうした微高地上の「神社の立地」を観察して回ろうと思う。

(いつものことだが、どこかに出掛ける際、事前に入念な下調べをして行くことは稀で、今回も地図上で適当に目星を付けた神社に行ったのだが、残念ながら訪問しなかった神社のいくつかに、実際に古墳上に祀られた、とされる神社がいくつもあったらしいが、それがわかったのは例によって帰宅した後であった・・・。)

とにかく、まずは道の駅に向かい、昼食を済ませつつ、イチゴをこれでもか、とばかりに買い込んだ。
神社巡りの手始めに、町の北部の丘陵上にある「高負彦根(タカオヒコネ)神社」に向かうことにした。

<高負彦根神社(ポンポン山)>
高負彦根神社は町域に3社ある延喜式内社の1社であり、吉見丘陵が半島状に低地に突き出した「玉鉾山」と呼ばれる高台の頂上にある。

高負彦根神社(遠景)

創建はこの地区の神社の中で最も古いとされ、社記によると何と和銅3年(710年)の創建と伝わるそうだ。天平勝宝7年(755年)には既に官社となっていたというから、相当の古社である。

高負彦根神社(鳥居扁額)

祭神はいずれも出雲系の味鉏高彦根尊(アジスキタカヒコネノミコト)、大己貴尊(オオナムチノミコト)とされるが、解説板によると「素戔嗚尊(スサノオノミコト)とも言われる」とある。

高負彦根神社とポンポン山由来

沖積平野の微高地神社巡りに先立ってまずここを訪れたのは、3社ある延喜式内社のうち最古の創建ということもあるが、社殿の建つ玉鉾山に伝わるという伝説を確かめてみたかったからである。

玉鉾山は別名「ポンポン山」とも呼ばれ、解説板にもあるとおり、地面を強く踏むと「ポンポン」という音がするそうである。
社殿脇に裏の高みへ至る道があり、見上げると解説板にある写真と同じ風景が見えている。

ポンポン山

果たして人間が強く足踏みをしたくらいで本当にそんな音がするのだろうか、半信半疑であったが、周囲に人影がないことを確かめてから、夫婦揃ってその場で地団駄を踏んでみると、確かに鈍い反響音のような音がする(ような気がする)。

吉見町のHPによれば、その昔、財宝の隠し場所を探していたある長者がこの神社に詣でたところ、「この岩山に埋めれば私が守ってやろう」というお告げがあったため安心して財宝を埋めた後、後世になって盗人が山に入って財宝を掘り出そうとしたところ「ポンポン」という山鳴りがしたので恐れて逃げ出した、という言い伝えが残っているらしい。

青面金剛(宝暦六丙子(1756)年)
(宝暦六丙子(1756)年の銘のある青面金剛像)

この「ポンポン」という音については、地下に空洞がある、という説や、ローム層と砂岩の境界で音が反響している、という説などがあるそうだ。
地下の空洞というのはもしや古墳の石室なのではないかしら、と思い訪れてみたが、頂上周辺の地質は土ではなく岩盤のようで、残念ながら古墳が埋もれている、という雰囲気ではないようであった。

山頂部

それはともかく、ポンポン山の頂上からの眺望は頗るよく、青空が目に染みる。

山頂からの眺め


<塚状地形?>
高負彦根神社からそのまま山あいを北東へ進むと、やがて道は緩い下り坂で沖積平野へと降りていく。
前方に広い田畑が広がる間際、道が目前の高みを迂回するように巻いているので停まってみた。

塚状地形?

何かはよくわからないが、高みの上に上がる階段が付いているので、庚申塚か何かだろうか。

塚状地形?


<天満宮/頭殿神社(地頭方)>
沖積平野に出ていくつかの神社を見学した後、南東へ進むと、北吉見郵便局の北、「地頭方」という変わった字名の地域に至る。吉見北小学校の東隣にこじんまりと「天満宮」がある。

地頭方 天満宮(遠景)

向かって右に建つ背の高い方の鳥居に掛かっている扁額に「天満宮」、左側の鳥居の扁額は「頭殿神社」と読める。

地頭方 頭殿神社扁額

左側の鳥居の向こうに高さ2mほどのマウンドが見えている。

地頭方 頭殿神社のマウンド

奥行きは5mほどだろうか、手前側は削られているのか、玉石で巻かれているが、向こう側へ回ると円形の盛土から、何やら石材がところどころ顔を出しているように見えなくもない。

地頭方 頭殿神社のマウンド

地頭方 頭殿神社マウンド

立地としては周辺の標高が14~15m前後であるのに対して、この神社の地盤は標高16mほどで、高負彦根神社の崖下から東に向かって鎌のように湾曲しながら沖積平野に横たわる微高地の北の縁近くに位置している。

見た目、立地とも、個人的には「古墳感十分」と思うのだが、裏付けとなる情報は何もない。


さて、この後も続けていくつかの神社を巡る予定であるが、長くなりそうなので続きはまた次回。


(地図)
吉見町地図(北部)
(茶色マーカーの神社は古墳らしく見えなかったので紹介しなかった。)


(参考資料)
「吉見町HP」 http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_ponponyama.html



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2018/01/07

鹿島大神の神鹿伝説 (東京都江戸川区 鹿見塚/鹿見塚神社、鹿島神社)

前回、潮来市にある大生西部古墳群、大生神社と鹿島神宮を巡る古代史の一端を紹介した際、「元鹿島」と言われる大生神社に祀られていた大生氏、藤原氏双方の氏神である「タケミカヅチ」の神が、神護景雲2年(768年)、常陸から奈良の春日大社に遷幸された、という話を紹介した。

遠く東国の鹿島(香島)から奈良までの鹿島大神の遷幸の途次、大神の杖であったお供の神鹿が病に罹り、里人の看病虚しく亡くなったため、その地に塚を築き手厚く葬られた、という伝承が伝わる地域があるらしい。
東京の江戸川区、「鹿骨(シシボネ)」という地域である。

江戸川区郷土資料室が発行する「解説シート『江戸川区の地名(1)鹿骨』」には、「地名の由来」として前述の伝承が紹介されていて、その際に築かれた塚を「鹿見塚」と呼ぶこと、「鹿骨」の地名はこの伝承に由来すること、そして、「塚は、今も鹿骨三丁目にある鹿見塚神社内に残っています。」ということが書かれている。

神護景雲2年に築かれた塚が、幾星霜、1250年の時を経て、開発著しい東京都内に何と今でも残っている、という記述を見て、アドレナリンが全開となった。居ても立っても居られず、翌日、休暇を取っていた妻を誘って早速見に行ってみることにした。

ところでその「鹿見塚」は、前述の「解説シート」によると、かつては7~8mの高さに土盛りされた塚で、太い老松が植わっていたそうである。いつの頃かその松も枯れ、周囲の木々も悉く伐採、塚も掘り返されたそうである。
「解説シート」には鹿見塚神社と鹿見塚の石碑の写真が掲載されているが、肝心な「鹿見塚」は映っていない。だがしかし、そんなはずはない、「残っている」と書いてあるのだ、現地に行けば必ず痕跡のようなものが残っているに違いないと思いながら現地へと向かった。

「鹿見塚神社」は思っていたよりも小さく、前沼橋という名の交差点の角にこじんまりとあった。

01 鹿骨鹿見塚神社

02 鹿骨鹿見塚神社

鳥居前の解説板には確かに「鹿見塚」と書いてある。
ほーら、やっぱりあるじゃないか、すげーすげー、神護景雲2年、1250年、どれ? どれが塚?
(アドレナリン全開のため暫く取り乱しますが、ご容赦下さい。)

03 鹿骨鹿見塚神社解説

境内には「解説シート」に載っていた「鹿見塚」の碑が建っており、石碑の周囲の地面に塚の痕跡を探す。どこ?どこ?痕跡どこ?

04 鹿骨鹿見塚

碑の後ろには大木の切り株があるので、これぞ老松の切り株に違いないと思いつつ、で、どこ? 鹿見塚、どこ?

05 鹿骨鹿見塚

いくら探しても痕跡らしきものは見つからない。改めて鳥居前の解説板を読み返してみる。
石碑自体は昭和42年に建てられた、とあるが、解説文冒頭の「この鹿見塚」の「この」は、一体「どの」塚を指しているのであろう。もしやこの石碑を指しているのだろうか。

諦めがつかず、なおも境内でうじうじしていると、インターネットを見ていた妻から「近くの鹿島神社にも何かある」旨の啓示を頂いた。「鹿島神社」はここから1kmほど北にある、やや大きな神社である。

06 鹿骨鹿島神社遠景

鹿見塚の伝承は「鹿島神社」前の解説板にも記載されていた。

07 鹿骨鹿島神社解説

鹿島神社は、村人たちが鹿見塚の伝承を奇縁として、武甕槌命、天照大御神ほかの神を勧請して建立された、と伝わるそうであるが、明治以前は「五社神明社」と呼ばれたとおり、戦国時代にこの地に入植した五つの一族の氏神を合祀したのが始まりのようである。

08 鹿骨鹿島神社境内

本殿と拝殿が少し離れているようにも見える上に、本殿の下が少し高くなっているようにも見えるので、この神社が鹿見塚の上に建てられているのではないか、とも思いたくなる。

09 鹿骨鹿島神社本殿

拝殿脇には神鹿の像が建っていて、像の背後には戦争の慰霊碑だろうか、いくつかの大きな石碑が若干高くなった地面の上に建てられているけれど、さすがに神様のお供の神鹿の眠る塚上に碑を建てるようなことはしないだろう。

10 鹿骨鹿島神社神鹿像

11 鹿骨鹿島神社神鹿像背後の碑

よくわからないまま、ふと社殿を見上げれば、明治の社殿改築時のものであろうか、墨文字の由緒書きが掲げられている。旧仮名遣いで読みづらいが、中ほどに「則チ其ノ塚今ニ村位巽之方ニ存セリ」の文字が見える。
12 鹿骨鹿島神社由来書

「巽」と言えば南東であり、ここは鹿骨村の北辺に当たるようなので、やはり鹿見塚があった場所は先ほどの鹿見塚神社の方角のようではある。

「鹿骨」は古くから人々が生活していた地域で、正応3年(1290年)の銘のある板碑を始め多くの板碑が見つかっているらしい。それほど古くから集落が形成された歴史深い土地で、人々の暮らしを見守ってきた神鹿である。私のような不心得者には、そう簡単に姿を見せてはもらえないのだろう。

13 鹿骨鹿島神社から見た夕陽


(地図)
鹿骨周辺地図



(参考資料)
「解説シート 『江戸川区の地名 (1) 鹿骨』 」 江戸川区郷土資料室




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(4)(茨城県潮来市 大生原のその他の塚)

前回まで大生神社周辺の古墳を紹介してきたが、他にもあちこちで塚状のマウンドを見かけた。古墳かどうか自信はないが、まとめて紹介だけしておこうと思う。


<大生の天狗塚>
鹿見塚古墳の東、県道187号の向こう側に県道に面して、地面がうっすらと膨らんだ上に石碑がいくつか建っている一画がある。
01 大生天狗塚遠景

脇に立っている柱には「潮来市大生の天狗塚」とある。
02 大生天狗塚近景

茨城県で「天狗」と言うと、幕末の元治元年(1864年)、尊王攘夷を掲げて反乱の兵を挙げた「天狗党」事件が思い浮かぶ。
この塚が天狗党に関連したものかどうかはよくわからないが、水戸藩内での抗争は明治になってからも続いたそうで、一部の地方では今でも身内争いのことを「天狗」と呼ぶらしい。


<大生原庚申塚>
イタコモーターパークの北側の道沿いの木立の中に、「猿田彦大神」、「大青面金剛」などと書かれた庚申塔が集められた塚があった。
03 大生原庚申塚遠景

04 大生原庚申塚近景

石碑はいずれも庚申信仰の石塔であろうが、それらが建てられている塚は小ぶりな円墳のようにも見える。
05 大生原庚申塚 東から


<水原庚申塚>
潮来カントリークラブの北東側、水原というところの畑地の中にも庚申塔が集められた塚があった。
06 水原庚申塚遠景

07 水原庚申塚近景

庚申供養の信仰は近年まで行われていたらしいので、こうした庚申塚は珍しいものではないのかも知れないが、やはり地面が盛り上がっていると、それが何であろうとついつい、近寄ってしまう。
背景に見えている木立の頭が夕焼けに染まっている。


<仲台古墳群?>
先ほどの庚申塚から東へ100mほど、畑の中に、頂上に石碑を乗せた大きなマウンドがあった。
08 仲台古墳群? 南から

西隣は墓地になっており、東側のマウンドは小さな前方部のような形になっている。
ここでもマウンド上の木の枝がところどころ夕陽に染まっている。
09 仲台古墳群? 東から

裏側へ回るとこちらは綺麗な円形に見える。
10 仲台古墳群? 北側から

「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、このあたりには「仲台古墳群」という記号がついているので、もしかするとこれもその一部なのかも知れない。


<松和稲荷神社>
大生神社のすぐ前、鬱蒼とした木立に囲まれて小さな稲荷社の祠が建っている。
11 松和稲荷遠景

「松和稲荷大明神」という名の神社で、祠の脇の石碑には次のようにある。

「和銅4年(711年)、秦之伊呂貝が餅を的にして矢を射った処、その餅が鳥となって稲荷塚「松の梢」に飛んできて村の人々は此処に稲荷の社を建立」

12 松和稲荷碑文

「秦之伊呂貝」と言えば、山城国風土記逸文伊奈利社条に見える「伏見稲荷大社」の起源伝承に出て来る「伊呂巨(具)秦公」(イロコ(グ)ノハタノキミ)のことであろう。伏見稲荷大社の創建伝承は、伊呂巨が餅を的にして矢を射ろうとしたところ餅が白鳥に化身して飛び去り、舞い降りたところに稲が生えたため社を建て「伊奈利(稲成り)」の社とした、というものであるが、松和稲荷の創建伝承はこれによく似ている。

ところで、この松和稲荷は古く明治までは「稲荷塚古墳」の墳上にあった、とされる。稲荷塚古墳は大生東部古墳群の主墳とされる全長61mの前方後円墳で、松和稲荷はその後円部上に南を向いて建っていたらしい。

またいつの日か、ここに来ることがあったら、その時は必ず、墳頂に松和稲荷の社を頂いた当時の面影を探しに、稲荷塚古墳を見に来ることにしよう。


(地図)
大生原地図

水原地図



(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34