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2017/12/19

桜に囲まれた静かな神社と方墳(茨城県 潮来市 大生殿神社/大生殿塚古墳、釜谷古墳群?)

前回は偶然見かけた貝塚古墳群と思しき塚を紹介したが、仕事まではまだ時間があるので、もう少し先の「大生殿塚古墳」まで行ってみようと思う。

再び県道187号線を北に向かうと、ひっそりと静かな築地の集落に差し掛かる。
腰を深く曲げた野良着の老婦人が一人、道路脇に立っている。少し速度を落として通り過ぎてから、バックミラーを見ると、クルマが通り過ぎるのを見届けた彼女はゆっくりと車道を横切り、畑の中へと歩いていく、その姿がバックミラー越しにゆっくりと遠ざかっていく。
時間に追われながら古墳巡りをしているような自分とは、何と言うか、人生の深みの度合いのようなものが全く違うなあ、と思う。

集落を抜けると、左右に畑が広がって見晴らしがよい中を、道は北北西に向かって真っすぐに伸びている。
このあたりは「大生原」という場所らしい。

<追記>
恥ずかしながら、この時点では事前に何の予備知識も持たずに現地を訪れたが、帰ってから調べると、「大生」は「オフ」もしくは「オウ」、「オホウ」と読み、ヤマトタケルの神話にもその名の見える歴史ある場所であるだけでなく、古代、この地を治めたとされる「大生氏」を巡る古代史上の「謎」を秘めた場所であるらしい。大生氏を巡る謎は非常に奥深いようなので、また回を改めて紹介したい。

<大生殿塚古墳>
小さなタクシー会社のある十字路を右折して、老人ホームの前を東へ進むと、カーナビでは雑木林の中を北へ道が分岐していることになっているが、どうにも見当たらない。仕方なく北側から迂回すると、今度は道は見つかったものの、この道、果たして、この前クルマが通ったのは一体いつだったのだろう、といった感じの心細い未舗装の道である。意を決して進むと、右手の木立の向こう、高く大きな小山の上に神社の社殿が見えて来た。

神社の名は「大生殿神社」と言い、社殿は「大生殿塚古墳」の大きくて高い墳丘上に建てられている。

01 大生殿塚古墳

社殿へ上る石段脇には神社の由緒などが記載された石碑が建っており、それによるとこの神社は中世にこの地方を治めた大生弾正平定守を祀っているらしい。

02 大生殿塚古墳

大生弾正平定守は、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣へ向かう途上、駿州藤枝で病気に罹り、没する際に「後世この病に罹る者は必ず救う」と言い残したため、大生の領民が大生殿霊神としてこの地に祀ったのだそうだ。神前で杉の葉をもらい受け、その杉の葉と葭(ヨシ)を使って門口に徳利を下げておくと家内に病魔が入って来ない、と伝わるそうだ。

03 大生殿神社由来

社殿に手を合わせ、写真を撮る許しを請う。墳丘上の社殿から見ると、下から見上げるよりも高さを感じる。

04 大生殿塚古墳 墳頂より

古墳の墳丘は、古くは上円下方墳と考えられていたらしいが、調査の結果、現在では全長23m、高さ3.5m、周溝を持つ二段築成の方墳で、7世紀中頃の築造と考えられているようだ。

05 大生殿塚古墳

拝殿の後ろに回るのは何だか少し畏れ多いが、墳裾は周囲をぐるっと一周することができる。

06 大生殿塚古墳

周囲は三方を鬱蒼とした木立に囲まれており、他に人の気配は全くない。
そろそろ時間も迫ってきたので、最後に社殿に向かって一礼し、東側、クルマで入ってきた一画に戻った。

植えられているのは桜の木だろうか、今日は人の気配がなく寂しげな雰囲気だが、春になれば地元の氏子の方々が花見にやってくるのだろうか。

07 大生殿神社の桜

大生弾正殿の末裔の人々は一体どんな人々なのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、桜の木々の向こうに見え隠れしている社殿にもう一度目をやった。
きっと大生弾正殿もそんな賑やかな季節を心待ちにしていることだろう。

08 大生殿神社と桜


<釜谷古墳群?>
大生殿塚古墳を見た後、来た道とは違う道から戻ろうと、ゴルフ場の東側を通る道へ出たところ、畑の向こうに大きな木がこんもりと見えており、その木の根元が膨らんでいるように見えた。

09 釜谷古墳群?

近くまで行ってみると、木の根元の地面は畑に半円状に突き出している。

10 釜谷古墳群?

単なる木の根太かも知れないが、石碑のようなものも建っていて、定かではないが、これも古墳か塚のひとつなのではないか、と思う。(この男には、丸い地面の盛り上がりはもはや何もかも古墳に見えるのである。)

11 釜谷古墳群?

後日調べてみると、このあたりにも「釜谷古墳群」という古墳群があるようだ。
どうやら大生原の台地上には、かなりの密度で塚や古墳があるようだが、残念ながらもはやタイムアップ、仕事に向かう時間である。次回、いつ来ることができるかわからないが、今度来る時はきちんと下調べをした上で、じっくりと巡ってみたいものである。


(地図)
大生殿塚古墳地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




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2017/12/19

竹林に囲まれた静かな墓域(茨城県 潮来市 貝塚古墳群?)

久しぶりに鹿島へ行くことになった。
仕事は午後からなので、あまり遠くへは行けそうもないが、その前に少し寄り道ができそうだ。

事前に下調べができなかったが、「埼群古墳館」さんの古墳地図を見ると、潮来市の北部、北浦を東に望む台地上に古墳群がいくつかあるようなので、そちらに向かってみようと思う。

潮来インターから県道50号を北上し、鹿島線の高架をくぐる。オーバーパスのようなちょっと複雑な交差点で県道187号線へ入り、標高30mほどの台地の上へと上っていく。

この辺りは「築地」という字名のようで、台地に深く入り込んだ開析谷を挟んで、東側には大きなゴルフ場が広がっている。道は複雑な地形の高みを縫うようにうねりながら台地上を通っている。

大きなカーブに差し掛かったところで、窓外を過ぎていく竹林の向こうに何気なく目をやると、頂上に石塔を乗せた大きな塚のようなものが目に入った。

車を路肩に停めて近づいて見ると、竹林の一画が切り拓かれて墓地になっているようで、そこかしこに点在する墓石や石仏などの向こうに、石塔を頂いた大きな塚状のマウンドが聳えている。

01 潮来 築地 貝塚古墳群?遠景

興味本位で墓域に立ち入るのは心苦しいが、心の中で手を合わせつつ、少しだけ見学させてもらうことにした。
不規則に点在する墓石に頭を下げつつ、そっと進むと、近くで見る塚は思いのほか大きく、直径は7~8m、高さは2mほどありそうである。

02 潮来 築地 貝塚古墳群?近景

墳頂の石塔には何か文字が彫られているようだが、ここからはよく読めない。塚はそれ自体が墓所になっているのだろう、頂上の石塔に上がるための階段が付けられており、新しい花が手向けられている。さすがに土足で上るのは心が咎められるので辞めておこうと思う。

03 潮来 築地 貝塚古墳群?墳頂

塚の向こう側は地盤が崖状に落ち込んでいるので、塚の背景は青空になっている。
墳丘の木々が伐採されている上に、下草も刈られているので、もしかすると近々、発掘調査か何かが行われるのだろうか、それとも墓地として綺麗に整地されるのだろうか。

04 潮来 築地 貝塚古墳群?東側面

あたりはひっそりとしていて、風の音だけが聞こえている。

眠りについている方々の平穏を邪魔するのもご迷惑だろう、余所者は早々に退散しようと、車に戻ろうと思い、振り返って、あっ、と思った。

今まで気付かなかったのだが、よく見ると、墓域のあちこちの地面も、小さく塚状に盛り上がっている。
崖の際にある大きな塚の周囲に、これを取り囲むかのように、小さな塚がいくつも点在している。

05 潮来 築地 貝塚古墳群?周辺の地面

06 潮来 築地 貝塚古墳群?入り口付近

そうか、と思った。

やはりここは古くからの神聖な墓域なのだろう。
ひときわ大きな墓を囲むように、そこかしこに小さな墓が立ち並ぶ、そんな光景は、眠りについた盟主を、死してなお、その一族が永遠に守り続けている、そんな光景にも見える。何と言ったらよいのだろう、「墓所」というものの、何か「本来の姿」のようなものを見た気がした。

07 潮来 築地 貝塚古墳群?竹林

これらが古墳なのか、中世の塚なのか、もはやそれは本質的な違いではないのだろう、と思った。
改めて心から合掌し、早々にこの場を立ち去ることにした。

家に帰って「いばらきデジタルまっぷ」でこのあたりを見ると、「貝塚古墳群」という名の古墳群があるようだ。

偶然見つけたこれらの塚が貝塚古墳群かどうかはわからないが、思わぬ場所でふいに、何か、忘れかけていた大切なものを見せてもらった気がした。


(地図)
潮来 築地 貝塚古墳群?地図


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34



2017/12/13

塩浜の謎?の石造物(神奈川県川崎市 塩浜神明神社、出来野嚴島神社)

今日は古墳ではなく、近くの神社にある「謎」(?)の石造物について、である。

仕事が煮詰まってしまったので、気分転換に出掛けることにした。
仕事場を兼ねている自宅から10分も自転車を漕げば大師橋であり、寒風に身を竦めながら多摩川を渡るとそこは川崎市、大師河原である。
幹線道路に沿って工場やら倉庫やらが立ち並び、大型トラックがひっきりなしに行き交う、色で言えばモノトーンに沈んだ感じの、一見、どことなく無機質な印象を受ける街並みであるが、路地に入ればあちこちに神社や小さな祠などが残っている。
今となっては想像もつかないが、明治時代までは製塩の盛んな海浜の集落であったらしく、「塩浜」という地名が今でも残されている。
その塩浜地区に、以前から気になっていた石造物がある。

<塩浜神明神社>
塩浜地区の南に、地区の鎮守である「神明神社」がある。

01 塩浜神明神社

天照大神を祀る神社で、江戸時代にこのあたりで製塩が始まった頃、延宝7年(1679年)に鎮守として勧進されたそうだ。

02 塩浜神明神社

社殿前の狛犬は弘化4年(1847年)の作だそうで、台座には新橋や内神田の塩問屋の名前が見える。

03 塩浜神明神社狛犬

04 塩浜神明神社狛犬台座

05 塩浜神明神社狛犬

06 塩浜神明神社狛犬台座

さて、件の石造物は境内の奥、「稲荷神社」の社の隣の祠の中にある。

07 塩浜神明神社 謎?の石造物

砂岩か何か、柔らかい材質の石材に彫られたものだろうか。
潮風で摩耗してしまったのか、石仏のようにも見えるが、一体これは何なのだろう、と思う。

08 塩浜神明神社 謎?の石造物

これがもし人為的に作られた造形であるとすれば、作者は相当な美術センスを持っていたのだろうと思う。

隣には神像だろうか、穏やかな笑顔の石像が祀られている。

09 塩浜神明神社 神像?


<出来野嚴島神社>
先ほどの石造物が一体何なのか、明確にはわからないのであるが、実はよく似たものが、近くの日の出地区にある嚴島神社にも残されている。

10 塩浜神明神社

この神社の東側の海岸は戦前まで出来野海岸と呼ばれ、遠浅の干潟が遥か沖まで広がっていたそうだ。海沿いには防潮堤が築かれ、松並木が連なっていたそうである。
神社の創建は定かでないようであるが、市杵嶋姫神(イツクシマヒメノカミ)を祀ることから古くは「出来野弁財天」と呼ばれ、境内に聳える銀杏や松の大木が沖を行く船の目印になっていたそうである。

11 出来野厳島神社

境内の片隅にはそうした古の古木であろうか、枯れた巨木の切り株が残されている。

12 出来野厳島神社

この神社の境内にも、先ほどの石造物とそっくりなものが残されている。

13 出来野厳島神社庚申塔

幟旗には「出来野庚申地蔵菩薩」とある。

川崎区のホームページを見ると、「奉納されている力石や塩で溶けた二基の庚申塔に漁業で栄えた往時がしのばれる。」とある。
庚申塔であるならば、これは石材に彫られた一面六臂の青面金剛地蔵像だったのであろう。そう言われて見れば、右側の像は胸の前で両手を合わせて合掌しているようにも見える。

14 出来野厳島神社庚申塔

それにしても、海沿いで潮混じりの強風がいくら強いとは言え、それだけでここまで摩耗するものであろうか。
度重なる高潮で波に洗われるなどして、水の力で摩耗してしまったのだろうか。
もしかすると、海岸の岩を波が侵食して、自然にできた造形美が地蔵の形に似ている、として信仰の対象となったものとは考えられないだろうか。

いや、先ほどの神明神社のものと合わせると3体もある。恐らく、そんな偶然は3回も続けて起きないだろう。


暮れ行く雲を見上げながら、海岸沿いに松並木が立ち並んでいたという、ほんの80年前の風景を思い浮かべてみた。

その頃の庚申塔の金剛地蔵像は、一体どんな表情をしていたのだろうか。

15 出来野厳島神社夕空


(地図)
塩浜地図


(参考資料)
「かわさき区の宝物15-2出来野厳島神社」 川崎市川崎区ホームーページ www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25622/15-2.pdf




2017/12/12

歴史濃い拝島の富士塚(東京都昭島市 日吉神社富士塚)

日頃の行いがよっぽど悪いのだろうか、前回に引き続き、今日もまた仕事の打ち合わせがキャンセルになった。

ここは昭島市拝島町で、すぐ近くには以前から行ってみたいと思っていた日吉神社の富士塚がある。仕方がないので、(と言いつつ何故かうれしそうではあるが・・・)、この富士塚を見に行こうと思う。

旧奥多摩街道は、国道16号線が通る河岸段丘よりも一段下を通っているので、街道の北側には高い崖が見えている。
崖に沿って街道を西へ進むと、拝島大師の大きな楼門が見え、その先の路地を北へ入ると、大日堂の仁王門と日吉神社の鳥居が見えて来る。大日堂と日吉神社は崖の上に建てられている。

01 拝島日吉神社

「大日堂境域及び日吉神社境域」は東京都の史跡に指定されていて、貴重な文化財が数多く保存されている。
大日堂の本尊、「木造大日如来(金剛界)坐像」は藤原時代の作とされ、仁王門に並び立つ金剛力士像も鎌倉期、正和3年から4年(1314年から1315年)の作とされている。
崖下には「おねいの井戸」と呼ばれる室町時代の眼病平癒伝説の伝わる井戸があって今でも清冽な水を湛えているし、境内の藤棚はなんと樹齢800年だそうだ。

02 拝島大日堂、日吉神社

他にも、日吉神社の例祭である山王祭で行われる「榊祭」が都の無形民俗文化財に、三台の人形山車が市の有形民俗文化財に指定されており、拝島という町は何とも歴史の残り香が濃厚な町である。

こうした文化財も是非見ておきたいが、まずは崖上へと続く石段を上り、日吉神社の社殿で神様に手を合わせ、日頃の行いを詫びることにする。

03 拝島日吉神社

さて、目指す富士塚は本殿の左隣、さらに一段高くなった、まさに崖の縁にある。

04 拝島日吉神社富士塚

「あきしまの歴史散歩」という昭島市発行の書籍には境内の見取り図が掲載されていて、それによると富士塚の直径は東西20m、南北25mほどで、西側が道路で削られたような形をしている。

06 拝島日吉神社富士塚

高さは大人の背丈ほどであろうか、富士塚と言っても溶岩が配置されているようには見えず、頂上にも祠などがあるようには見えない。

07 拝島日吉神社富士塚

北側には大きめの河原石のようなものが積み重なっている。

08 拝島日吉神社富士塚

明治時代には富士塚の南側に登山路のようなものがあったようだが、金網で周囲を囲われていて、人が立ち入るような雰囲気でもない。登山路があったと思われる方へ回り込んでみると、南側は崖の斜面となって落ち込んでおり、こちらから見るとだいぶ高さがあるように見える。

09 拝島日吉神社富士塚

大日堂の藤原仏は平成の修復中らしいので崖下に下り、階段脇の「おねいの井戸」に行ってみた。

10 拝島日吉神社おねいの井戸

滝山城主北条氏照の家臣、石川土佐守の娘の眼病平癒を祈願してこの井戸の水で目を洗ったところよくなった、という言い伝えがあるそうだ。井戸には今でも冷たそうな水が湛えられていて、井戸端には蝉の抜け殻をいくつもつけた不動明王が鎮座している。

11 拝島日吉神社おねいの井戸 蝉の抜け殻をつけた不動明王

あたりには公園で遊ぶ小学生の歓声が響いている。
晩秋の日差しを受けて、仁王門の仁王様も池の紅葉も穏やかである。

12 拝島大日堂仁王門

13 拝島大日堂仁王門横の池



なお、最後にひとつ、個人的に気になる話を付け加えておきたい。
(いつもの「これ、古墳では?」的な話なので、興味のない方は読み飛ばして頂いて・・・。)

拝島橋が架けられる以前、戦前までは今よりやや上流に「拝島の渡し」があったらしいが、何とこの拝島の渡し、戦前まで「路線バスが渡し船で川を渡っていた」という。
川越と拝島をバスで結んでいた「多摩湖バス」という会社が昭和13年に路線を八王子まで延長したが、架橋されていなかったので、拝島の渡しを船でバスごと渡っていたそうだ。「あきしまの歴史散歩」には小さなボンネットバスが船で川を渡っている珍しい写真が掲載されている。

ところで、当時の拝島の渡しはどのあたりにあったのだろうかと、いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で昔の地図を見ていたところ、明治時代の地図上に二つ、ちょうど現在の拝島橋で多摩川を渡った右側あたりに「古墳/塚」の記号のようなものがあることに気が付いた。

拝島橋周辺
(右下が拝島の渡し、黄色線が現在の拝島橋と国道16号のルート、赤矢印が塚状地形記号、明治42年測図、大正2年製版「拝島(二万分の一」より該当部分を拡大)

「多摩地区所在古墳確認調査報告書」でも「東京都遺跡地図」でも何ら言及されていないが、ここから西に1kmほどのところには中世、奈良から平安時代の塚(「昭島市No.32遺跡」)があるようだし、東に800mほど行った一段上の段丘上には「浄土古墳群」があるので、ここに古墳や塚の類いがあったとしてもおかしくはないと思うのであるが、どうだろうか。

なお、明治の地図には、現在昭島市内で確認されている浄土古墳、経塚下古墳、大神古墳はいずれも記載されていないが、浄土古墳の発見は昭和50年、経塚下古墳は昭和51年、大神古墳は平成7年のことで、それぞれ発掘によって存在が確認されるまで地下に埋もれていたことになるので、明治時代には認識されていなかったのであろう。

とすると、明治の地図に残されている二箇所の塚状地形の痕跡は、果たして何だったのだろう・・・。
(当然、「古墳!古墳!」と当人は思っているのであるが・・・。)


(地図)
日吉神社富士塚地図



(参考資料)
「あきしまの歴史散歩」 2017年3月 昭島市教育委員会
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#




2017/12/05

小山を転用した新宿の富士塚(東京都新宿区 成子天神社富士塚)

前回に引き続き、中野坂上周辺を訳あって散策している。

前回紹介した「宝仙寺」であるが、江戸名所図会によればここには「馴象の枯骨(じゅんぞうのここつ)」、なるものが伝わっているという。

享保13年(1728年)、ベトナムからの朝貢品として牡牝二頭の象が海を渡り、将軍吉宗の謁見を受けたという話には聞き覚えがあった。鼻の長い象を初めて見た江戸の人々はたいそう仰天したそうだ。
象はそれから暫く浜御殿で飼育された後、この中野村の源助という者に下げ渡され、このあたりに建てられた象小屋(象廐:キサヤ)で飼育されていたらしい。象は寛保2年(1742年)に亡くなったが、その牙が戦災をくぐり抜け、一部が今でも宝仙寺に残っている、という。

残された象牙を見るのは少し忍びないが、象が飼育されていた象廐は、中野坂上の交差点の南西200mほどのところにある幼稚園のあたりにあったそうだ。

01 中野坂上象廐跡

02中野坂上象廐跡

少し前に亡くなった井の頭公園の象の「はな子」は、絵本になるほど多くの人々に愛されたそうであるが、江戸時代、遠い異国に連れて来られた象は一体どんな気持ちで我々日本人を見つめていたのだろうか。

再び坂上の交差点に戻り、青梅街道を新宿方面に下る。

地形図を見ると、中野坂上の交差点は西から細長く伸びる標高差8mほどの舌状台地の先端にあるためか、交差点から四方へ伸びる道は、西へ向かう青梅街道以外は全て下り坂になっている。

東側の崖下を流れるのは神田川で、古くはここが豊島郡と多磨郡の境であったらしい。

神田川にかかる淀橋には、自らの財産の隠し場所を他人に知られまいと、中野長者鈴木九郎が使用人の命を奪った、という伝説が伝わっている。行きに一緒に橋を渡った使用人の姿が帰りには見えなくなったので、「姿見ずの橋」と呼ばれたそうであるが、鷹狩りでこの地を訪れた将軍家光がこの不吉な話を嫌い、淀の流れを思い起こさせるので、以降、淀橋と呼ぶように、と命じて以降、この橋は淀橋と呼ばれるようになったそうだ。

03 淀橋


何となく背後を気にしながら淀橋を渡ると新宿区に入る。青梅街道沿いに立ち並ぶ高層マンションの向こう側へ回ると、成子天神社がある。

<成子天神社富士塚>
成子天神社は学業の神様である菅原道真公を祀る神社で、周辺の再開発に伴い平成26年に再整備されたそうで、境内はすっきりと明るく、清潔な感じの都会的な神社であるが、本殿(拝殿)の向こうにマンションが見えているのは、何だか見慣れない光景ではある。

04 成子天神社

この場所は、神田川が南北に削った幅500mほどの谷に面した高さ5mほどの段丘の縁に位置しており、もともと「大神宮」と呼ばれる神社が古くから祀られていたらしい。
平安時代、菅原道真公が亡くなった際、その生前の姿が彫られた像を都より持ち帰り、この地に祀ったのが神社としての始まりとされるようだ。
本殿でお詣りを済ませた後、目指す富士塚は左奥、境内の北西隅に周囲をすっかり高層ビルに囲まれた状態で残っている。

05 成子天神社富士塚

高さは12m、新宿区では最大の富士塚で、大正9年に境内に残されていた「天神山」という小山を富士塚に転用して築かれた、とある。

06 成子天神社富士塚解説

登山口は解説板の隣にあり、開門時は誰でも上ってよいようだが、いざ上ってみると、下から見上げる以上に高く、そして大きい。

07 成子天神社富士塚

08 成子天神社富士塚


ところで、解説板にもあったように、もともとここにあったという「天神山」は一体どういう性質の「小山」だったのだろうか、と思う。(要は「古墳」だったのではないか、と期待を交えて勘繰っているのである。)

ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」には、富士塚に転用される前の天神山に関する「豊多摩郡史」の記述が引用されていて、それによると梅の木などが植えられた眺望のよい小山だったようだ。

この「天神山」が自然地形に起因する山であったのか、それとも人為的なものだったのか、決め手となるものは残されていないようであるが、明治42年(富士塚築造前)の地図を眺めると、現在富士塚のあるあたりに古墳/塚を表す記号のようなものが見える。もしかするとその当時、天神山は自然地形ではなく、何等か人為的なマウンドとして認識されていたのかも知れない。(これにはかなり個人的な「期待」が含まれていて、冷静で客観的な判断はついぞしていない。)

ついでに視線を前回の宝仙寺三重塔の「梵塔」記号に移すと、そのすぐ左下(南西)にも、同じように「古墳」記号のようなものが描かれているように見える。(これも同じく全く恣意的な「希望」ではある。)

09 明治42年地図(成子天神社周辺)

10 明治42年地図(中野三重塔周辺)

(著作権の問題などがあるようなので、必要な部分だけを拡大。上が成子天神社富士塚のあたり、下が中野坂上の宝仙寺三重塔周辺。赤矢印が「古墳/塚」記号?いずれも明治42年測図、大正2年製版「中野(二万分の一」より。)

前回も引用した「都心部の遺跡」という調査報告書には、古い時代の地図などに残されている古墳記号に関する調査結果なども掲載されているが、富士塚転用前の天神山については特段言及されていない。
「東京都遺跡地図」でも成子天神社の富士塚については特段の記載は見当たらないところからすると、やはり「天神山」が人為的なマウンド(というか古墳)であった、という可能性はないのかも知れない。

だがしかし、永遠に失われてしまった在りし日の風景を、地形図や古記録から自分勝手に妄想する、こんな想像のひとときが、また、楽しいのである。

11 成子天神社


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/