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2017/08/27

隅田川に伝わる人買い伝説の塚(2)(東京都墨田区 石浜神社白髭富士、妙亀塚)

梅若塚の旧所在地を見た後、対岸へ渡るため白髭橋で隅田川を渡る。

梅若伝説とは直接の関係はないが、中世まで、隅田の渡しの両岸には宿場町があったそうだ。梅若塚のある東側(左岸)は隅田(須田/住田)宿、川を挟んだ西側(右岸)は石浜(橋場)宿と呼ばれたらしい。

00 隅田川

治承4年(1180年)、平家打倒の兵を挙げた源頼朝は石橋山で敗れた後、海を渡って安房で態勢を立て直して房総半島を北上、国府台から武蔵国を目指して西進したが、大雨で増水した隅田川を前にして5日間も足止めされ、この地を治めていた江戸重長の助けを借りて長大な船橋で大軍を対岸へ渡した、という。その時、頼朝が彼の乳母と再会したのは「隅田宿」とされている。(ちなみにこの時、頼朝が通ったであろう、国府台から隅田までの道は古代官道である東海道の残存道で、鐘ヶ淵駅の南を踏切で渡る一筋の道として、現在でも辿ることができる。)
一方で、対岸の石浜宿には弘安4年(1281年)に時宗の開祖一遍上人が立ち寄って道場を開いた、とされる他、正平7年(1352年)の武蔵野合戦で足利尊氏が撤退したのも石浜の宿、とされている。

現在の橋場地区は静かな住宅街となっていて、宿場があった当時の面影は全く残っていないようだが、唯一、往時の賑わいを彷彿とさせてくれる手がかりとなるのが白髭橋の北の袂にある石浜神社である。

<石浜神社富士遥拝所(白髭富士)>
石浜神社は石浜神明社、橋場神明社とも呼ばれたようで、社伝によれば神亀元年(724年)創建の古社であり、頼朝も奥州藤原氏討伐に際して武運を祈願した由緒のある神社だそうである。

01 石浜神社

二つある石の鳥居にはそれぞれ寛延2年(1749年)、安永8年(1779年)の銘があり、橋場町名主を含む商人達が寄進したものだそうだ。
笠木の断面が蒲鉾型で、柱の傾斜が大きい「石浜鳥居」と言われるものだそうである。

02 石浜神社鳥居

もう一つ、石浜神社には宝暦8年(1758年)に造営された、と伝わる富士塚(富士遥拝所)が残っている。
「古墳なう」さんも書いているとおり、この富士塚は古墳などの転用ではないようだ。

03 白髭富士


<妙亀塚(妙亀尼塚)>
前回紹介した梅若伝説には実は悲しい続きがある。

梅若丸の母は梅若塚の傍らに庵を建て、妙亀尼として不運な我が子を供養していたが、結局、悲しみに耐えきれず、浅茅が原の鏡ケ池に身を投げてしまった。ところが不思議なことに、亀がその遺体を乗せて浮かび上がってきたので、忠円阿闍梨が墓を建て、妙亀大明神として祀ったのだそうだ。

橋場地区の中ほど、どことなく懐かしい風情の街なかに小さな公園があり、妙亀塚はその公園の中に静かにあった。

04 妙亀塚全景

石を積み上げた高さ1.5mほどの塚で、頂上に板碑が一枚、祀られている。

05 妙亀塚近景

解説板によると板碑は弘安11年(1288年)のものだそうで、板碑としては相当に古いもののようであるが、塚との関係はわかっていないようである。

06 妙亀塚解説板

ところでこの塚は、よく見ると周辺の土地よりも全体として1mほど高くなった公園の中心にある。
「古墳なう」さんが掲載しているとおり、「上代の東京と其周囲」に掲載されている関東大震災直後の妙亀塚の写真を見ると、確かにこの公園の土台全体が妙亀塚の名残りなのかも知れない。

07 妙亀塚遠景

08 上代の東京と其周囲より震災後の妙亀尼塚
(「上代の東京と其周囲」より震災後の妙亀尼塚)


ところで、古墳や塚にあまり興味のない妻は少しつまらなさそうである。
半日付き合ってもらったお礼に、言問橋まで行って言問団子を食べさせてあげようと思う。途端に妻の顔が喜びの表情に変わる。そろそろ閉店の時間かも知れないが、急げばまだ間に合うかも知れない。二人で夕暮れの川沿いを急いで漕ぐペダルは何だか穏やかで心地よかった。

10 白髭橋夕景

言問団子の店は閉店間際だったが、「せっかくいらしたので、一皿づつなら」と無理なお願いを聞いて頂いた。
至福の表情の妻を見ながら、自転車での散歩もいいものだな、と思った。

11 言問団子

春になったらまた自転車で長明寺に桜餅でも食べに来よう。

(地図)
妙亀塚地図


(参考資料)
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/
「上代の東京と其周囲」 鳥居龍蔵著 磯部甲陽堂 昭和2年1月
「隅田川の伝説と歴史」 すみだ郷土文化資料館編 2000年6月
「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/



2017/08/27

隅田川に伝わる人買い伝説の塚(1)(東京都墨田区 木母寺梅若塚)

訳あって、長いことブログの更新ができなかった。
いつの間にかすっかり季節が進んでしまい、何と年が変わってしまった。今日は2018年の1月1日である。
ようやくブログの更新をする時間ができたのだが、今日書くことができるのはだいぶ以前、まだ暑かった真夏の頃の話である。

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日頃の運動不足の解消、という訳でもないが、夫婦揃って折り畳み式の自転車を買った。

会社勤めを辞してからというもの、移動は専らクルマになり、最近身体もなまってきた上に、これはどうにも地球に優しくないな、と思っていた。
今回は妻と二人、折り畳み自転車で、隅田川に伝わる伝承・伝説に纏わる塚を回ってみようと思う。

<梅若塚>
墨堤通りから一本東の細い路地に入り、コインパーキングにクルマを停め、自転車に乗り換える。
本題からは外れるが、この道は「下の道」と呼ばれる古い道で、源頼朝も通った由緒ある道のようであるが、今はすっかり地元の生活道となっている。

01 下の道


木母寺は平安中期の貞元2年(977年)の創建と伝わる古寺で、境内奥には「梅若堂」と「梅若塚」が並んでいる。

02 梅若堂と梅若塚


木母寺は昭和51年に防災拠点建設のため、現在地に移転してきたそうで、移転前は現在地よりも150mほど東、墨堤通りに面した区立梅若公園のあたりにあって、梅若塚も昭和51年に寺と共に現在地に移転してきたそうである。
梅若堂は明治22年の建立で、関東大震災や東京大空襲などの災禍から奇跡的に生き残ったものの、木造建築が認められない防災拠点への移築に際して、全面をガラスケースで覆われている。

03 梅若堂


梅若塚はその梅若堂の手前に、まるで石碑の土台のような形に見えているが、周囲を覆う石組みの一部は旧地にあった時代のもののようだ。

04 梅若塚全景

05 梅若塚近景


この「梅若塚」には寺の創建に関わる古い伝説が伝わっている。寺でもらった「木母寺略誌」には、「梅若塚(梅若山王権現堂)の由来」が次のとおり書かれている。少し長いが原文のまま引用する。

「梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976年)3月15日なり。いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はは応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り悲歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」

梅若伝説は、室町時代に成立したとされる謡曲「隅田川」で取り上げられ、後世、元禄から享保年間にかけてこうした「隅田川物」と呼ばれる文芸作品が大流行したことで広く世に知られることとなり、江戸時代、木母寺には数多の人々が参拝しただけでなく、徳川将軍家の庇護も受け、大変な賑わいを見せたようである。

06 江戸名所記 巻三角田川(梅若堂と梅若塚)
(「江戸名所記」 巻三 「角田川」より梅若堂と梅若塚)

この話は、人身売買が一般的であったとされる中世の時代の空気感を今に伝えるとともに、都から東国へと向かう奥州街道がこの地を通っていたことを教えてくれる。

昭和2年に発行された鳥居龍蔵氏の「上代の東京と其周囲」という、古墳に興味のある方には有名な書籍にもこの梅若塚に関する記述があり、当時の梅若塚の写真とともに前出の「江戸名所記」の挿絵が紹介されていて、「而も此の繪を見ると、非常に大きな塚であつて、さうして其の上に祠が設けられて居る。・・・略・・・これ等から考へて見ると、今日見るやうな塚よりも、非常に大きな塚であつて、それが長い年月の間に、段々小さくなつて来たやうに見へる」と書かれている。

07 上代の東京と其周囲p86梅若塚写真
(「上代の東京と其周囲」より「梅若の塚」)

移転前の梅若塚やいかに、と思っていたが、上記を見ると昭和の初め、塚の周囲は既に大人の腰の高さほどの石で巻かれているものの、現在よりは一回り大きかったようであり、祠が建っている部分の塚の高さは大人の背丈ほどが残っていたように見える。

上記の書籍の中で、梅若塚と思われる記述は既に、江戸時代初期に成立したとされる「慶長見聞集」や、長享元年(1487)年成立とされる道興准后の「廻国雑記」にもみられる、とあり、梅若塚は相当古くから存在したのではないか、とされている。当時、周辺には業平塚や牛御前の隣、秋葉杜内など、他にも多くの「古墳」と思われる遺構が存在したらしく、鳥居博士は梅若塚もこうした上代の古墳の一つだったのではないか、と考えていたようだ。

隅田川畔の自然堤防状の微高地にあったであろう、在りし日の梅若塚の旧地を見に行ってみようと思う。


<梅若塚旧蹟>
移転前、梅若塚があった場所は、どのような関連があるのかはわからないが、現在は榎本武明の銅像の立つ公園になっていて、その公園の奥まったところに「梅若塚旧蹟」の碑が建っている。

08 梅若塚旧蹟


すっかり整地され、元の地形は全く想像もつかないが、公園の周囲を巡る盛土は自然堤防時代の名残りではないか、というのは儚い期待であろう。

少し離れた場所に解説板と、梅若堂の輪郭が黒く書かれた透明なガラス板が設置されている。ガラス板越しに見ると、ここに梅若堂があった時代の風景が見えるような仕掛けになっていて大変に興味深いが、残念ながら公園には、歓声を上げながら自転車で走り回る子供達と、ベンチで一人静かに新聞を読む老紳士の姿しか見えない。彼らにはこうした仕掛けはもはや当たり前のもので珍しくもないのだろうか、ガラス板を覗き込んで感心しているのは我々夫婦だけだった。

09 在りし日の梅若堂


続いて、隅田川対岸に残る、梅若丸の母親の墓と言われる妙亀塚へ行ってみようと思うが、長くなったので続きはまた次回・・・。


(地図)
梅若塚地図


(参考資料)
「木母寺略誌」 天台宗木母寺
「上代の東京と其周囲」 鳥居龍蔵著 磯部甲陽堂 昭和2年1月
「隅田川の伝説と歴史」 すみだ郷土文化資料館編 2000年6月
「濹東向島の道」 鈴木都宣著 2000年1月
「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/



2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(3)(神奈川県川崎市 諏訪神社/諏訪古墳?(二子・諏訪古墳群))

前回に引き続き、高津区の諏訪地区で古墳を探している。

前回見た二つの現存古墳のほかに、新編武藏風土記稿にはもうひとつ、3基目の塚として以下のような記述がある。

「今一つも同じ辺(字塚田通)にあり 古は広さ百坪許ありて高き塚なり 一年土人掘くつせしに武器財宝の類出せしか その人大に煩ひなやみけり 恐れて其のまま埋(?)めをけりと 今は僅の塚なり」

古くはかなりの広さの塚で、土地の人が武器財宝の類いを掘り出したらしいが、発掘した人は塚の祟りか大いに煩い悩んで、恐ろしくなってそのまま埋め戻してしまったそうだ、といった意味だろうか。

今となっては塚の名前も、所在もわからなくなってしまったようであるが、およそ二つの古墳とほぼ同じ地域にあったようで、川崎市市民ミュージアムの「加瀬台古墳群の研究」では「諏訪古墳」という名称で記載されている。


ところで、この塚とはあまり関係なさそうではあるが、すぐ近くに諏訪神社という神社がある。

前回紹介した、諏訪浅間塚に関する新編武藏風土記稿の記述に「諏訪左近」の名が出て来る。
「諏訪左近」とは、この地を開墾したとされる諏訪左近頼久のことであろう。
諏訪頼久という人は、その名のとおり信濃国の出身で、天正18年(1590年)、秀吉に滅ぼされた小田原北条氏、北条氏直の許を離れ、この地に定住したそうで、慶長年間(1596~1615年)になって、故郷の諏訪から諏訪大社の分霊を勧請し、諏訪神社を創建した、とのことである。

この諏訪神社は、諏訪浅間塚古墳の北100mほどのところにある。

諏訪浅間塚古墳の北側の道を北西に進むと、現存する古墳の土地を江戸時代に管理(所有?)していたとされる明王院という寺院の裏手に出る。墓地に面して道は急に細くなる。そのまま右に円を描くような狭いカーブを抜けると、すぐ右手、円弧の内側に諏訪神社の弐の鳥居が立っていた。

01 高津区諏訪神社

本殿で手を合わせ、写真を撮る許しを請う。

02 高津区諏訪神社

さて、見たところ、社殿の建てられている地盤は石段3段分ほど高くなっているが、境内には古墳のような盛り上がりは見当たらない。そりゃそうだ。そんなに簡単な話なら、とっくに諏訪古墳の痕跡として認識されていて然るべきであろう。

03 高津区諏訪神社

少し離れて眺めると、社殿の周囲は縁石のようなもので丸く縁取りされている。

04 高津区諏訪神社

縁石に沿ってそのまま社殿の裏の方へ回って見ると、社殿裏側は石段で囲われていないものの、やはり地盤が周囲よりも高くなっているように見える。

05 高津区諏訪神社

(つける薬のない「何か」のスイッチが入ったようであるが、)たかだか社殿の下の地面が少し盛り上がって見えるだけである。
神様の住まいである社殿を人間の住む地面よりも高い位置に祀る、というのは人間の心情であろうし、さほど珍しいことでもなかろう。

だがしかし、この状況を極めて恣意的に、古墳好きの都合だけで解釈すると、この盛り上がりは何となく「それ」っぽく見えなくもない。
しかも、神社前の道路の形状も何故か鳥居の南で円弧を描いており、あたかも「何か」を避けているようにも見えるではないか!

動悸が若干激しくなってきた。

とは言え、残念だが、やはりそんなうまい話はあるはずがなかろう。

新編武藏風土記稿では、この諏訪神社について、
「諏訪社 村の北の方にあり」
として、塚と何らかの関係があるような書き方はしていないし、3基の塚のある「塚田通」は村の南の方を指すのに対して、諏訪社のある村の北の方は「諏訪前通」という名の別の地区とされている。

諏訪社や塚について、断片的とは言え、これだけの伝承が伝わっているのだから、もし3基の塚のひとつに諏訪社が祀られたのであれば、その部分についての伝承だけが伝わっていない、というのも考えづらい。

そもそも私のような素人が考えつくようなことがこれまで誰にも検証されずに看過されてきた、などということもなかろう。
阿形の狛犬が、そんな私を見て大笑いしている。

06 高津区諏訪神社狛犬

それにしても、武器財宝の類が出土したのは、一体いつの時代だったのであろうか。
諏訪左近がこの地に定住・開墾するよりも以前の話であるならば、「大いに煩い悩んだ」祟りを鎮めるために、その地に故郷から諏訪神を勧請して祀った、と考えることもできそうであるが、全ては遥か数百年の時の彼方、今となっては確かめる術はなさそうである。

07 高津区諏訪神社


そんなことを考えながら、神社前の道をもと来た方へ歩いていると、北側の畑の中に小さな祠が祀られているのが見えた。

08 高津区諏訪の小祠

09 高津区諏訪の小祠

どことなく「僅かになってしまった塚の祟りを鎮める祠」のように見えたのは、きっとそればかり考えながら歩いていたからかも知れない。思い込みにも些か限度というものがあろう。

でも、これってもしかして・・・💛(いい加減にせぃ。)


(地図)
高津区地図③


(参考資料)
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/




2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(2)(神奈川県川崎市 諏訪浅間塚古墳/諏訪天神塚古墳(二子・諏訪古墳群))

新編武藏風土記稿によれば、川崎市高津区の諏訪地区には古くは3基の塚があったとされる。
そのうち現存しているものは2基、「諏訪浅間塚古墳」と「諏訪天神塚古墳」とされ、それらは、前回訪ねた二子古墳跡から500mほど東、川崎市出身の詩人で童謡作家の小黒恵子氏の童謡記念館の近く、現在の多摩川流路から500mほどのところに、100mほどの距離を置いて近接して残っている。

<諏訪浅間塚古墳>
小黒恵子童謡記念館の敷地の塀に沿って裏に回ると、北側に隣接する木立の中に小高い墳丘が見えてくる。

01 高津区諏訪浅間塚古墳

墳丘は思いのほか高く、よくお世話になっている「古墳マップ」によれば、高さ3.8m、直径19.5mの円墳だそうである。東側(写真で言えば向こう側)はかなり削平されており、遺存している部分は楕円形に近い、とある。

古墳はあいにく民家の敷地内にあるようで、立ち入りはできないようだ。隣の童謡記念館の裏庭からは手が届きそうな距離であるが、あいにく童謡記念館の閉館時刻も過ぎてしまったので、記念館の塀越しに背伸びしながら覗き込むしかない。塀の上から覗き込むのは、我ながらどうにも心苦しい。

02 高津区諏訪浅間塚古墳

こちらを睨んでいる犬は先ほどから動かないので、きっと置物に違いないが、心苦しいのもあって、つい、目を合わせるのが躊躇われる。とか言いながら、結局写真まで撮っている自分に少し呆れてしまう。「おまえ、いい歳して、そこまでするのか」と心の中では、思っている。
思っちゃいるけど、ヤメラレナイのである。

諏訪浅間塚古墳については、1830年頃に編纂された新編武藏風土記稿では次のように書かれている。
「(三つのうち)一つは字塚田通にあり百姓傳八と云うものの住居の後にて高さ三四丈ばかりの塚なり 上に富士浅間を勧請し石の祠を立て裏に諏訪左近七世の孫小黒傳八と彫(?)れり 宝暦(1751~1764年)の頃造立せしものなり 故に土人、浅間塚と云う」

高さ3~4丈と言えば9~12mであり、もはやちょっとした小山である。さすがにそれは若干誇張されているようにも思えるが、削平される以前はそれくらい大きな古墳だったのかも知れない。

03 高津区諏訪浅間塚古墳

多摩川沿いの微高地に屹立する高さ12mの古墳・・・。できることならタイムマシンにでも乗って、是非この目で実際に見てみたいものである。


<諏訪天神塚古墳>
諏訪天神塚古墳は先ほどの諏訪浅間塚古墳から100mほど南にある。

この古墳については、新編武藏風土記稿では次のように記されている。
「(三つの塚のうち)今一つも同じ辺(字塚田通)にあり四五十坪許にてさまて(?)高からざる塚なり 上に天神の社あるゆえ土人天神塚とよべり」

諏訪天神塚古墳は平成17年に測量調査、平成18年~20年にかけて発掘調査され、川崎市市民ミュージアムから調査報告書「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」が発行されている。それによると、古墳は直径16.4mの円墳と考えられているが、墳丘は大きく削平されており、高さ1.5mほどの低い高まりが畑の中に残されているに過ぎない状態となっている。

04 高津区諏訪天神塚古墳

墳頂部には「渡唐天神」の石造が祀られており、そのすぐ脇の地中には破壊された石室の壁面が残されていたらしい。

05 高津区諏訪天神塚古墳

06 高津区諏訪天神塚古墳 墳頂の渡唐天神

周溝部分は戦後暫くの間は水田として利用されており、現在の畑地に転用するに際して埋め戻されているらしく、墳裾は削平・埋め戻しの結果、著しく損壊しているようである。

07 高津区諏訪天神塚古墳

発掘の結果、埋め戻された周溝の底部からの高さは3.9m以上あると推定されているようであり、削平された部分を加味すると、削平前の墳丘の高さは6m近くと推定され、「至近に残る諏訪浅間塚古墳同様、墳丘高の顕著な円墳が往時には存在したのであろう。」とされている。

至近距離に2基、小高い円墳が並んでいる光景があたかも目に浮かぶようである。

08 高津区諏訪地区の夕暮れ

気が付けば、住宅地でおっさんがひとり、遠い目をして道端にボーっと突っ立っている。
西に陽が傾いてきた。

(地図)
高津区地図②


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/




2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(1)(神奈川県川崎市 二子塚古墳跡/北見方古墳跡(二子・諏訪古墳群))

低地古墳とか、微高地古墳という言葉は一般用語ではないかも知れないが、以前、川崎市中原区に点在する多摩川下流域の自然堤防上に残る古墳の痕跡を見て回った。
市街化の著しい多摩川下流域の平野部にあって今なお、往時の痕跡を留めている古墳はとても面白かった。
今日はその続編、という訳ではないが、幸い雨も降らなさそうなので、気分転換に中原区の上流に隣接する高津区の低地古墳を見に行きたいと思う。

高津区の北東部は多摩川に面しており、そのちょうど中ほど、厚木街道(大山街道)が二子橋で多摩川を渡っているあたりが二子地区、そこから下流に向かって諏訪地区、北見方地区と続く。この3地区にはいくつか現存するものを含め多くの古墳があり、それらは総称して「二子・諏訪古墳群」と呼ばれている。
まず最初に、二子地区にあった古墳跡から見に行ってみようと思う。


<二子塚古墳跡>
二子塚古墳は「二子」の地名の由来となった古墳で、大正時代までに削平されてしまったらしく、今となっては見ることはできないが、在りし日の姿が以下のとおり、新編武藏風土記稿に残されている。

「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり 其の一は塚の敷一段二十歩の徐地にて高さ五丈許 形丸く芝山にて樹木なし 故に土人坊主塚などいへり ・・・(中略)・・・一は少しく東の方ヘ寄てあり 徐地六畝廿九歩高さ二丈五尺あり 南の方少し欠けて上に若木の雑木生立り」

二つの塚が少し離れて並んでいたことから「二子塚」と呼ばれていて、塚の間を奥州古道が通っていた、とされる。明治39年の地図でも二つの塚が表記されており、塚の間ではないが、塚の脇をかすめて北方へと続く小路が描かれている。(明治39年の地図は今昔マップ on the webでも確認できる。)
これらの情報からすると、古墳は長さ60mほどの前方後円墳ではなかったか、と言われているらしく、川崎市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」では、昭和8年の地割図上で墳形を推定復元して掲載している。

01 二子塚古墳墳丘復元イメージ

絵心がないのでお寒い図で大変恐縮であるが、概ね上図のような位置関係であったようである。

後円部の輪郭を残していると思われる北側の小路(上図ではグレー表示となっている)は、唯一残る古墳の痕跡と言っていいのだろう、現在でも円弧を描いていて、円弧の内側、後円部があったと思われる部分は一部、空き地となっている。
無理をすれば、古墳があった頃を妄想できないこともないが、あいにく住宅地で人通りが多く、空き地を眺めて遠い目をしている不審なオッサンを皆、チラチラと横目で見ながら通り過ぎて行く。

02 二子塚古墳跡

二子塚古墳は消滅してしまったが、古墳があった場所のやや西(左)、細長い公園に「史蹟二子塚之碑」が立っている。

03 史蹟二子塚之碑

昭和43年に立てられた碑で、公園内にはこの他にもう一つ、見たところ見当たらないのだが、大正4年に立てられた「二子塚舊蹟」碑があるらしく、この碑の存在によって、少なくとも大正4年には既に「舊(旧)蹟」となっており、墳丘は姿を消していたことがわかるらしい。

古墳は大正の中頃に発掘されたと伝わり、勾玉や耳環、鈴釧(すずくしろ:周囲に複数の鈴のついた腕輪)などが出土、神奈川県庁に納められたとされるが、それらの所在は不明となっているようだ。ただし、鈴釧については写真が残っているらしく、周辺の古墳からの出土遺物との比較から、二子塚古墳の築造時期は6世紀前半頃と考えられているようである。

「史蹟二子塚之碑」の立つ公園の片隅では、川崎市内で昭和42年まで活躍していたトロリーバス(ポールで電線から電気を取り込んで走った電気バス)の実物が静かに余生を送っている。

04 史蹟二子塚之碑とトロリーバス

こういう余生の送り方は何だか羨ましい。

直感的で分かりやすい方向指示器の造形は現在でも十分、印象的である。

05 トロリーバス


<北見方古墳跡>
二子塚から府中街道を東へ350mほど進むと、右方向に旧道が直進で分岐していく。旧道を進むと、左手から道が再び合流してくる。合流してきた道は今通った旧道に代わってできた新道のようだが、現在の府中街道はさらに北方を通っている。
この古い新道と旧道との合流地点の北側に、明治39年の地図には塚のマークが見えており、川崎市市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」ではこれが「北見方古墳」であろう、としている。下の写真の瀟洒なマンションが建っているあたり、がそうだと思われる。

06 北見方古墳跡?(1)

直径16mほどの円墳であったようだが、現在では古墳の痕跡を感じるものは残されていない。
だが、そう思って見れば、考えすぎかも知れないが、道路が少し湾曲しているように見えなくも、ない。

07 北見方古墳跡?(1)

おそらく無関係なはずだと、心で思っているのだが、道路脇に大きな石が埋まっていて、気になる。

08 北見方古墳跡?(1)道路脇の石

この古墳は正確な位置はわかっていないようで、川崎市の遺跡地図 「ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム」では、ここから200mほど北にあるマンションの駐車場(下の写真中央付近)に古墳マーク(高津区遺跡No.145)が付してある。

09 北見方古墳跡?(2)

一部解読不能な文字があり恐縮だが、新編武藏風土記稿では以下のように記されている。

「古塚 村の北の方にあり田間に突出せり高さ七尺餘 敷の径六間許 何塚と云うことも傳へず中古里正掘りて平田を発(?)んとせしに古陶器井(?)に壺など出しかさま〇(?)証となすべき物なし古へ故ある人の葬地などにてもあるが今は上に石の地蔵を建」

当時、既に名前も伝わっておらず、開墾のため削平・縮小していたようであるから、正確な場所がわからなくなっているのも仕方がないことかも知れないが、塚上に石のお地蔵様が建っていたというのであれば、塚はなくなっても、お地蔵様は依然としてどこかに祀られているかも知れない。

そう思って周辺を歩いてみたが、平日の住宅街、カメラ片手にウロウロするのはどうにも憚られる。
仕方がないが、諦めて次なる古墳を見に行こうと思う。次は墳丘の現存する古墳であるが、長くなったので続きはまた次回。


(地図)
高津区地図①


(参考資料)
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年 川崎市民ミュージアム
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21