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2017/07/31

八幡太郎義家の甲冑塚(東京都北区 平塚神社・甲冑塚古墳)

京浜東北線の上中里駅前の台地上にある平塚神社には、これまでにも何度か訪れていたが、社殿裏に古墳があることは最近まで知らなかった。

東北・上越新幹線で頻繁に出張に出ていた頃、上野駅を出て列車が地上に出ると、まず目に飛び込んでくるのは進行方向左手に聳える高い台地であった。数分間にわたって続く高い台地を眺めながら、あの台地の上から見る景色は一体どんなだろうか、と、いつもぼんやりと考えていた。

だいぶ以前に妻と古河庭園を見学に行った際、よもやそこがあの台地の上とは気づかずに立ち寄ったのが平塚神社への最初の訪問であった。その後暫くして、都内に残る古代官道の痕跡を調べていた際に、平塚神社の周辺は古代の豊島郡衙の跡地である、と知り、再び訪れた際、社殿裏に源義家の鎧を埋めた塚がある、という伝説は読んでいたけれど、そのこと自体をすっかり忘れていた。

所沢からの帰り道、遠出をする時間はないので帰りがけに都内でどこか寄り道をしたいと思い、いつものように「古墳なう」で都内の古墳を見ていると、平塚神社裏に現存古墳マークを見つけた。そう言えばその昔、義家伝説を読んだことをようやく思い出したので、懐かしさもあり、立ち寄ってみることにした。

飛鳥山公園を左に見ながら、確かここにも古墳がたくさんあるらしいなあ、と後ろ髪を引かれつつ、続けざまに目に入る「西ヶ原一里塚」の文字にも強く惹かれつつ、三度目の平塚神社へやって来た。

01 上中里平塚神社

境内の写真を撮る前に、まずは手を合わせて非礼を詫びる。

02 上中里平塚神社

先ほども書いたとおり、この周辺は奈良時代から平安時代にかけて、地方政庁である豊島郡衙があった場所とされており、神社の西方の滝野川公園や病院のあるあたりを中心とした500~600m四方が郡衙跡地とされている。古代郡衙がいつ頃、どのような変遷を経たのかも大変興味深いが、その後、この一帯は中世から戦国時代にかけて、太田道灌に滅ぼされるまでの間、この地方で覇権を握っていた豊島氏が、14世紀に石神井に移転するまでの永きにわたり本拠地とした平塚城の城跡でもあるそうだ。

03 上中里平塚神社

源義家が奥州征討の帰途、この地に立ち寄ったとされるのは平安時代の末期、既に豊島氏の城館だった時代で、逗留の礼としてか、豊島氏は義家から鎧一領と、義家が戦の守り本尊としていた十一面観音像を下賜されたという。「江戸名所図会」によると、その後、元永年間(1118~1120年)に「城内清浄の地を択(えら)んでかの鎧を塚に築き収め城の鎮守とす。塚の形、高からざるをもって平塚と号す。地名もまたこれによりて称す」とあり、この伝説に従えば、塚は平安時代に築かれたもの、ということになるが、「東京都遺跡地図情報」では「時代:古墳時代」、「種別:古墳」とされている。

社殿の脇にフェンスと木立が見えている。地面が(心が?)盛り上がっているのがわかる。

04 上中里甲冑塚古墳

「江戸名所図会」には平塚神社の挿し絵があり、社殿の右奥に「よろひ塚」の文字と大きく膨らんだ塚が書かれている。

05 江戸名所図会「よろひ塚」

甲冑塚のある場所はフェンスで囲われており、「危険個所あり 関係者以外立ち入り禁止」と掲示されている。樹木の合い間から空が透けて見えるので、木立の向こうはすぐ台地の縁となって落ち込んでいるのだろう。
フェンスのすぐ向こう、地面は2mほど盛り上がっており、塚の痕跡を感じる。盛り上がっている部分がだいぶ広いように思うが、東京都の遺跡一覧では直径40m、高さ3.5mの円墳とされているので、この盛り上がり全体が「甲冑塚古墳」もしくは「鎧塚」なのであろうと(希望を込めてそう)思う。

06 上中里甲冑塚古墳


(地図)
甲冑塚古墳地図


(参考資料)
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/
「隅田川の伝説と歴史」 2000年6月 すみだ郷土文化資料館編
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/



2017/07/27

人身御供伝説を伝える橋の跡と信仰の塚(大阪府大阪市 槲の橋跡/塚本如来塚)

今回は古い伝承にまつわる文化財を紹介したいと思う。古墳ではないので、興味のない方は読み飛ばして頂いた方がよいかも知れない。

久しぶりに大阪に行くことになった。
大阪と言っても、淀川の北岸の「歌島」という地区である。

ここには以前にも来たことがある。
島でもないのに「歌島」とはどういう云われがあるのだろう、と思っていた。

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2年半ほど以前、当時はまだ会社勤めを辞するか決めかねていた。
仕事を終え、最寄りの塚本駅へと向かいながら、ぼんやりと将来のことを考えていたが、気が付くと正面に夕焼けが見えていた。東に向かって歩いていたはずなので、考え事をしていて方角を間違えたらしい。

01 大阪歌島夕景


<槲(かしわ)の橋跡>
小さな四つ角で、一体駅はどっちだろうと見渡すと、傍らにポツンと「槲の橋 野里の渡し跡」という石碑を見つけた。

02 大阪野里槲の橋跡碑

季節は2月、道に迷って身体が冷えてしまったので、駅前の古めかしい喫茶店で暖を取りつつ「槲の橋」について調べてみた。
先ほどの四つ角は、明治時代に流路を現在の新淀川として直線に付け替える以前、このあたりで大きく蛇行していた旧淀川(中津川?)に明治9年に架けられた橋の袂にあたる場所だったようだ。
その後、中津川の旧流路は埋め立てられ、そこに「歌島」という町名がつけられたのか、と思いきや、西淀川区のHPによると、「旧村名による。一説によれば「加島(かしま)」の古称を転化して「歌島(うたじま)」と訓じたと言う。」とあるので、やはり古くからの呼び名のようであった。
「槲」というのは「神功皇后がこの地を訪れた時、土地の人が餅を柏の葉に載せ、野咲きの花束を添えて歓迎の意を表したのに対し、この地を「鼻川の里」、渡しを「かしは」と命名したことに由来する」そうである。

ところで、槲の橋跡の石碑のある野里地区には、「一夜官女祭」という神事が今でも残っているという。

03 大阪歌島一夜官女祭

その昔、野里村では、疫病や水害を鎮めるため、毎年、白矢の当たった家の娘を人身御供として荒ぶる神に差し出していたが、ある年、ここを通りがかった侍が、神が民を苦しめるのを不審に思い、娘の身代わりとして唐櫃に身を潜めたところ、現れたのは神ではなく大きな狒々(ヒヒ)で、侍は狒々を退治してそのまま立ち去った、という伝承があるそうだ。(その侍はその後、大阪夏の陣で討ち死にしたそうである。)
今でも毎年、人身御供の一夜官女(氏子の女児七名)を、正装した村人が皆で迎えに行く神事として祭礼が行われており、大阪府の指定文化財に指定されているそうだ。

04 大阪歌島夕景

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あれからあっという間に2年半が経った。縁あって、その当時関わっていた仕事を今でも続けているので、今日、こうして再び歌島に来ている。
仕事が早く終わったので、記憶をたどり、再び野里の「槲の橋跡」碑までやってきた。季節は打って変わって7月、じっとしていても全身から汗が噴き出してくる。

ところで最寄りのJRの駅名は「塚本」である。「塚」とつくからには、古墳か塚かはともかく、何か云われのあるものがありそうなので、駅前の2年半前と全く変わらない古めかしい喫茶店に入り、今度は全身の汗が引くのを待ちつつ、塚本地名の由来を調べてみた。

西淀川区のHPでは、「『和名抄』に記された旧郷名『槻本郷』に由来する。『槻本』はツキノモト、またはツカノモトと読む。」とある。なんだ、「塚」は「槻」の詠みが変化したもので、残念ながら「塚」や「古墳」の類いではないようである。

ただし、別の方のホームページによると、旧中津川堤防近くにある「塚本如来塚」は古くは別の場所にあって、昔はその場所を「塚ノ本」と呼んでいた、とある。地図で見ると、現在の「塚本如来塚」はここから10分も歩けば行けそうな距離である。まだ全身の汗は引いていないが、もしかしたらそこに行けば「塚」だった頃の痕跡が何か見つかるかも知れない。

<塚本如来塚>
塚本駅の東側を北上、淀川通りを渡って300mほど歩くと、旧中津川の自然堤防に沿っていると思われる湾曲した細い道が交差するあたりにお堂があり、中に数体の石仏が皆、赤い前掛けをかけて並んでいる。

05 大阪塚本如来塚

06 大阪塚本如来塚

堂内には塚の由来を記した解説がある。古くは南の方、現在は新淀川の流路となっているあたりに、「建武年間」(14世紀)に作られた「東西3m、南北1.8mの盛土」の塚があり、その上に「三体の石造物があった」とある。

07 大阪塚本如来塚

自然堤防上に塚状の高まりを作る、となると、俄然、もともと古墳があったところにさらに盛土を高く積み上げたのではないか、と思いたいところであるが、全く根拠はなく、もはやこれは妄想に過ぎない。
新淀川開削に伴い、塚は明治30年に「旧中津川の南岸堤防敷」である現在地に移されたようであるが、石造物はその当時からのものが今でも大切に保存されているそうである。摩耗でほとんど表情がわからない石仏(うっすらと憤怒の相が見える気がするので馬頭観音か不動明王?)も大切に祀られている。

08 大阪塚本如来塚

お堂の脇を西に向かって湾曲した細い路地が続いており、奥に墓地が見えている。墓地には六地蔵が祀られている、というので、心の中で非礼を詫びつつ、見学させてもらう。

09 大阪塚本六地蔵

塚本という地域は戦災を免れた古い建物が多く残る地域でもあるようだ。
そこかしこの路地に、少し懐かしいような風景が隠れていた。

10 大阪塚本界隈

11 大阪塚本界隈

12 大阪塚本自販機のひやしあめ

13 大阪塚本夏草と煙突


(地図)
塚本如来塚地図


(参考資料)
西淀川区ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/index.html
「十三のいま昔を歩こう」
『消えた中津川 2 塚本編』 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-59.html?sp
『塚本の名前の由来』 http://atamatote.blog119.fc2.com/category2-6.html



2017/07/20

あきしまの古墳散歩(1)(東京都昭島市 富士塚/大神古墳跡)

ひょんなことから「あきしまの歴史散歩」という出版物を手に入れた。
青梅線の中神駅前で時間を持て余し、駅前の喫茶店に入ったところ、珈琲を飲みながら新刊本が座って読める、というカフェだったのだが、そこで販売していたので買ってみた。
装丁もタイトルも至って控えめな冊子であるが、昭島市内に点在する歴史的な遺物や文化財を写真入りで紹介していて、地図も載っている。こういう冊子は、仕事が終わってからちょっとだけ寄り道したい、などという時にとても重宝である。

今日は少し仕事が長引いてしまって、18時を回ってしまったが、この冊子によれば、すぐ近くに「富士塚」があるようなので、行ってみようと思う。

<富士塚・惣十稲荷>
中神駅の西隣り、昭島駅の南を青梅線に沿って東西に走る江戸街道から少し路地を入ったところ、公園の脇に赤い鳥居が立っているのが見える。

01 昭島富士塚惣十稲荷遠景

鳥居の奥に見える、祠を頂いた小高いマウンドが富士塚で、「新編武藏風土記稿」によると高さは凡そ8尺(2.4m)あるようだが、「あきしまの歴史散歩」では詳しい由来は不明とされている。

02 昭島富士塚惣十稲荷南から

03 昭島富士塚惣十稲荷西から


頂上に見える赤い大きな祠は「惣十稲荷」の祠で、天保6年(1835年)に村民に「神がかり」が起こった際、肥後国の惣十稲荷を勧請したものだそうである。「神がかり」の詳細は「古墳なう」で詳しく紹介されている。

03 昭島富士塚惣十稲荷

04 昭島富士塚惣十稲荷


頂上にはもうひとつ、「浅間社」の祠が祀られているほか、塚と同じ敷地内に「神明社」の祠も祀られている。

05 昭島富士塚脇神明社

地面が膨らんでいればそれは全て古墳だ、という訳ではなかろうが、富士塚だけでなく、「神明社」の祠も何となく盛り上がった地面の上にあるように見える。

この富士塚については、「東京都遺跡地図情報」に登録はなく、古墳を流用したものだ、という説も見当たらないようであるが、立地的には多摩川から三段目(?)の河岸段丘の縁近くに位置している。
この富士塚の位置する段丘の一段下、2kmほど南東の福島町二丁目には「昭島市No.21遺跡」と呼ばれる古墳がかつてあったようであるし、さらにもう一段下の面には、南に1.5kmほどのところに「浄土古墳」や「昭島市No.44遺跡(大神古墳)」、「経塚下古墳」などが確認されているが、ここはこれらの古墳からは距離的に離れ過ぎている感じもするので、残念ながらこの塚はやはり古墳の転用ではないのであろう。

まだ明るいので、ついでに「大神古墳」を見に行ってみることにしよう。

<昭島市No.44遺跡(大神古墳)>
「あきしまの歴史散歩」によると、大神古墳は「平成7年の夏にマンション建設予定地から発掘された7世紀初頭の古墳」で、「直径17.5mの円墳」だそうである。(左記の直径は周溝の外周直径を指すようである。)
川原石積みの石室からは全長90cmのほぼ完全な状態の直刀が発見されたそうである。

八高線が奥多摩街道を跨いでいる西側、奥多摩街道は段丘を削り込んだ切り通しを通っており、大神古墳はその切り通しの北側のマンションの敷地内から発見されたそうである。

06 昭島大神古墳跡

切り通しの下から見上げて見ると、マンション横に何やら小さなマウンドが見えているようにも見える。

07 昭島大神古墳跡?

直径17.5mには見えないし、「あきしまの歴史散歩」に載っている写真では、地中から川原石積みの石室が露見しているので、発掘された時、既に墳丘はなかったように思えるので、まさかこれが墳丘の名残とは思えないが、気になるので階段を上らせてもらい、小声で「失礼しまーす」と呟きつつ、マンションの1階通路まで入らせてもらった。

08 昭島大神古墳跡?

直径は5mほど、高さは1.5mほどだろうか、隣家の庭の築山のようでもあるし、発掘時の残土か何かを積み上げただけかも知れないが、どことなく雰囲気のあるマウンドではないか。

もはや、この男はとにかく地面が盛り上がっていさえすれば、それだけでいいようである。


(地図)
昭島周辺古墳地図


(参考資料)
「あきしまの歴史散歩」 2017.3 昭島市教育委員会
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/



2017/07/08

東濃最大の前方後円墳、前波の三ツ塚(岐阜県可児市 長塚古墳/野中古墳)

昨年暮れに法事のため可児市に行った際、思いがけず「西寺山古墳」という、4世紀中頃に作られた前方後方墳を見る機会があった。
「西寺山古墳」の近くには他にも「野中古墳」、「長塚古墳」という大型の前方後円墳があり、3つの古墳を総称して「前波の三ツ塚」として古くから知られていたようだ。

先日も訳あって再び可児市まで行くことになった。

早朝に自宅を出発、新東名高速から豊田東ジャンクションで東海環状道に入って可児御嵩インターで下り、ほんの少し寄り道させてもらい、二つの古墳に立ち寄った。

<長塚古墳>
前波の三ツ塚の中では最も新しく、5世紀前半(岐阜県のホームページでは4世紀後半)に築造された前方後円墳で、前方部をほぼ西に向けた東濃地方最大の古墳だそうだ。

01 可児市長塚古墳解説板

02 可児市長塚古墳括れ部

大きさは現地解説板によれば、全長72m、後円部直径38.4m、高さ6.9m、括れ部の幅18.5m、前方部長35.8m、幅28.5m、高さ4.7mで、周囲に幅25mほどの周濠が巡っていたらしい。南側には周濠の名残だろうか、広い空き地が残っている。

03 可児市長塚古墳南東より全景

その空き地の中央付近に、周溝を渡る陸橋部の名残か、細い道路が今でも残っている。

長塚古墳測量図(現地解説板より)

さらに、南東側には幅5mほどの外堤の一部が残っているそうである。

04 可児市長塚古墳南西より

西側前方部の裾部は崩壊によるものか、墳丘の傾斜が緩やかに見える。

05 可児市長塚古墳西より前方部裾

括れ部に墳丘に登れる踏み跡があり、心の中で手を合わせながら静かに上らせてもらう。

06 可児市長塚古墳括れ部より後円部

前方部を見ると、墳丘は二段築成のようで、何となく段築のような雰囲気が見て取れる。

07 可児市長塚古墳後円部上より前方部


<野中古墳>
長塚古墳の150mほど西、公民館のような建物の北側に墳丘が残されているが、破壊が著しく、解説板などもないので、一見したところ古墳のようには見えないが、古墳好きには古墳以外の何か、というようにも見えない。

08 可児市野中古墳西より

「古墳マップ」によると大きさは推定で、全長62.4m、後円部径38.4m、前方部幅36.5mの前方後円墳で、西寺山古墳に後続する首長墓と考えられているそうである。

09 可児市野中古墳北西より全景

長塚古墳の解説板に書かれていた図によると、現在残っているのは北側の括れ部周辺のみのようであるが、西側と北西側以外からは見ることができず、全体がどうなっているのかはよくわからなかった。

野中古墳測量図(長塚古墳現地解説板より)

10 可児市野中古墳北より後円部

過去、竪穴式石槨が発見されたらしく、刀剣や国産の三角縁三神三獣鏡が出土したという。

11 可児市野中古墳南西より

12 可児市野中古墳北西より


隣接する御嵩町伏見地区にも美濃地方最古級と言われる前方後方墳(高倉山古墳)があるほか、葺石で覆われた二段築成の方墳(次郎兵衛塚古墳)など、可児市は古墳の宝庫のようであるので、是非、時間を作ってゆっくりと訪れてみたいものである。


(地図)
長塚古墳、野中古墳地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「可児市ホームページ」 http://www.city.kani.lg.jp/4233.htm


2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(3)十三森(2)遺跡)

青森県おいらせ町の「阿光坊古墳群」に来ている。
町営の「おいらせ阿光坊古墳館」の展示は想像以上に面白かったし、古墳群そのものも濃密に分布していて、復元された墳丘に夏草が茂った光景はあたかも平安時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。
3つのエリアのうち、阿光坊遺跡、天神山遺跡は見終えたので、残るは最も奥まったところに広がる「十三森(2)遺跡」である。

<十三森(2)遺跡>
「十三森(2)遺跡」の「(2)」については前々回にも書いたとおり、近くに「十三森遺跡」として古くに指定された遺跡があることから、これと区別するために付けられたようであるが、本家「十三森遺跡」は、近くにあった近世の塚と混同されたようで、本来、昔から「十三森山」と呼ばれたのはこのあたりだったようである。
古墳館の展示によれば、ここ、十三森(2)遺跡には9世紀に入ってから築造されたと考えられる65基の古墳の存在が確認され、そのうちのいくつかは現在でも築造当時からの墳丘がそのまま遺存しているようである。

古墳群の入り口からほぼ真っすぐに遺跡内を通る見学用の道路を進むと、十三森(2)遺跡エリアが目前の木立の向こうの方に見えてくるが、まだそれなりに距離がありそうである。古墳館で思いのほか時間を使ってしまったこともあり、帰りの新幹線の時間が少し気になってきた。
改めて辺りを見渡せば、見渡す限り人影はない。今日は青森にしては珍しく日差しが強く、汗だくでもある。まさかクマなど出やしないだろうが、元来「ヘタレ人間」なので、つい心が折れそうになる。

と、その時、森の中からホトトギスの見事な鳴き声があたりにこだました。耳を澄ますと、あちこちで鳴いている鳥のさえずりと、森を吹き抜ける風の音以外は何も聞こえない。人工的な音が一切聞こえない状態というのは久しぶりであるが、ともかく気を取り直して、木立の間の道を進む。
ふと脇を見ると、子供の背丈と同じくらいの立派なシダが密生している。葉が広がらず立ち上がっているので「クサソテツ」ではないかと思う。芽吹く頃は「コゴミ」と呼ばれ、食料となる植物である。遥か遠い昔、この辺りに住んでいた人々が見た風景もこうだっただろうか。

13 十三森(2)遺跡へ至る木立

頑張ったご褒美、というほどの距離でもないが、ようやく十三森(2)遺跡エリアに至り、解説板が出迎えてくれた。

14 十三森(2)遺跡解説

背後の斜面には調査後、再現された「J10号墳」の墳丘がこんもりと見えている。

15 十三森(2)遺跡 J10号墳

「J10号墳」は調査以前も地面に円形の塚状の高まりが確認されていたようである。構造は、周溝を掘り下げた土を埋葬部に盛土したものと考えられ、もともと墳丘はそれほど高くなかったものと考えられている。周溝は全周しておらず、南側が途切れて通路状になっている。

16 十三森(2)遺跡 J10号墳周溝

周辺には他にもたくさんの古墳が散在しているはずであるが、このエリアで復元されているのはこのひとつだけのようである。

築造当時の墳丘の痕跡はないものか、と辺りを見回すと、やけに木の切り株が多いのに気が付いた。

17 十三森(2)遺跡遠望

改めて見渡せば、あちこちに数えきれないほどの木の切り株が見えている。

18 十三森(2)遺跡遠望

古墳の見学が目的であれば、林立する樹々が伐採されて見通しがよい方が、地形を含めた全貌が把握しやすいので助かるが、それにしても一体、どれほどの木を伐ったのだろう。

林を抜けてくる風に吹かれつつ、一人、考えた。

永く住み慣れた土地を奪われた人々の、怒りや悲しみがたくさん沁み込んでいるであろう大地に育った木々を伐り倒すのも、日本の林業の現状からすると仕方のないことなのかも知れない。手入れの行き届かない状態で放置するよりは、木を伐ってでも観光資源として活用する方が得策、ということかも知れないし、そうして開発された場所にわざわざやってきた自分が偉そうなことを言えた義理ではないが、解説板にあるとおり、1000年以上残り続けた貴重な遺産を守り伝えていくためとは言え、やはり何か、どことなくやり切れないものを感じる。

19 十三森(2)遺跡解説

そんなことを考えながら改めて見渡せば、辺り一面に累々と広がる夥しい数の切り株が、遠い昔、ここで平和な暮らしを送っていたであろう蝦夷の人々の墓標のようにも思えてきた。

20 十三森(2)遺跡


複雑な思いのまま阿光坊遺跡エリアの方に戻ると、エリアの境界となっている谷底を一筋の川が流れていた。
この水は蝦夷の人々の生活を支えた水だったのだろうか。傍らにはやはり大きな切り株がひとつ。。。

21 阿光坊古墳群内を流れる小川

この細い流れに沿うように当時の道路跡が見つかっているらしく、見学路からはだいぶ離れたところに解説板が立っていた。

22 古代道路遺構解説

古墳群の入り口まで戻ると、来た時は気付かなかったが看板があり、いままさに古墳群は2017年10月のオープンを目指して公園として整備中のようである。

23 阿光坊古墳群

24 阿光坊古墳群

平安時代へのタイムスリップ感覚だけでなく、思い込みに過ぎないかも知れないが、蝦夷の人々の鎮魂の念のような感覚を味わうことができたのは、広い遺跡でついぞ他に人を見かけなかった、という点もあったであろうが、それだけではなく、数本の解説板以外に、人工の工作物がほとんど設置されていなかったという点も大きかったと思う。これからアズマヤやベンチが設置されれば、地域の活性化にも繋がるであろうし、より多くの人々が見学に来やすくなることは間違いないのだろうけれど、その一方で、もしかすると今日味わうことのできた非日常的な感覚は、それらと引き換えに失われてしまうのかも知れない、と思った。

帰宅してからいろいろ調べていると、発掘調査前の古墳群の写真を紹介したサイトを見つけた。
「Oh!古墳探訪」 http://oobuta3.web.fc2.com/kofunn/s-frem.html

以前、古墳は鬱蒼とした木立の中にあって、確かにこれでは、本当に興味のある者以外は近づくことさえ難しかっただろう。しかも、墳丘はほとんど判別できなかったようなので、整備・復元された今の方が遥かに見学はしやすくなっているようである。

もしかすると、文化財保護の本質は、人間が過去、人為的に改変した自然の一部を、自然が元に戻そうとする、その営みを、再び人為的に阻害する、そんな側面を持ち合わせたものなのかも知れない。


(地図)
阿光坊古墳群地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「Oh!古墳探訪」 http://oobuta3.web.fc2.com/kofunn/s-frem.html
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会