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2017/05/24

那珂川流域の微高地古墳(茨城県水戸市 上河内大塚古墳)

水戸での所用が明るいうちに終わったので、帰りがけにもう一箇所、寄り道をしたいと思う。

那珂川沿いに県道63号線をひたすら行くと常磐道の水戸北インターへ至るが、その途中、那珂川が階段状に蛇行している北岸近くに「上河内」という地区があり、鎌のような不思議な形をした自然堤防状の微高地に「大塚古墳」という古墳がある。

「いばらきデジタルまっぷ」の遺跡地図情報によれば、大塚古墳は「円墳1、現況:境内」となっており、現地へ行ってみると、背の高い木立の土台が周辺よりも2mほど高くなっている。

01 上河内大塚古墳(東から)

北側(写真の右側)は道路で墳裾が削られているようにも見えるが、この道路を通って向こう側(西側)へ回ると、小ぶりな鳥居と「庚申供養塔」と書かれた比較的新しい石碑が建っており、木立の中に祀られている祠へ上がる階段がある。

02 上河内大塚古墳(北から)

墳頂は平らに均されていて、ブランコや滑り台などの遊具が並んでいる。

03 上河内大塚古墳(南西から)

階段を上がり、手を合わせつつ、木立の中へ進むと、供物などを並べるためのものだろうか、石室材の一部のようにも見える石板が小さな祠の前に置かれている。

04 上河内大塚古墳(墳頂の祠)

再び階段を下りて見ると、南側は隣接する民家の農機具置き場のようであるが、ここが自然堤防の南端近くのため、南に向かって周囲の地形が落ち込んでいる。古墳は自然堤防の最も高い場所からやや下がった斜面に築かれているように見える。

05 上河内大塚古墳(南から)

河川や海岸近くの低地に形成された自然堤防上に古墳が築かれている例は、名取市の海岸近くにある下増田飯塚古墳群や、東京・川崎の多摩川下流域などでも見てきたが、こうした低地古墳が築造されるに至った背景を考えるととても興味深い。

「カシミール3Dスーパー地形」という地形データが表示できるソフト(アプリ)で見ると、大塚古墳のある微高地の標高は9mほどあり、南側の水田より4~5mほど高いので、水害の危険はなさそうに思える。けれども、500mほど北には那珂川が削った標高30mの河岸段丘が聳えているというのに、何故、段丘の上でなく低地の微高地に古墳を作る必要があったのだろうか。
低地古墳の築造は、段丘上に築かれた古墳よりも相対的に時代が下るように思うが、古墳時代も後期に至ると、地域を統括する首長だけでなく、支配下の有力者層なども古墳を築造したようであるので、自らの支配地域が低地に限られる人物は、その中で最も高い微高地に古墳を作らざるを得なかったのかも知れない。

想像を逞しくすれば、周辺が洪水で水没する中、濁流の中に取り残された島のように、自然堤防上の古墳が毅然と屹立する姿が妄想できるのであるが、そうした自分たちの生命を守ってくれる水塚のような安全地帯を、特別な力が宿る神聖なものとして見た、ということなのかも知れない。

そんなことをぼんやりと考えながら薄暮に沈みゆく墳丘を眺めていると、そもそも明確な答えがどこかに書いてある訳でもなく、我々には知る術はないのかも知れないが、こういう思索に耽る時間、遥か昔の風景を空想する時間が、また楽しいのである。
だがしかし、はたから見れば単なる不審者にしか見えまい。暗くなる前に退散することにしよう。

それでもやはり、古墳巡りは、楽しい。


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34


大塚古墳、一本松古墳地図





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2017/05/24

海沿いの古墳(茨城県大洗町 下宿古墳/塩見塚古墳)

ここのところ仕事が立て込んでいて、ブログの更新がほとんどできなかったが、出張に行く機会はそれなりにあった。
この日も午後から水戸へ行く用事があり、早めに出かける余裕はなかったが、(柄にもなく)海が見たいと思ったので、少々回り道をして茨城の海を見に行こうと思う。

水戸市の東、太平洋に面した大洗町には行ったことがなかったが、調べて見ると、海沿いの崖の上に下宿古墳という古墳があるようだ。海を見下ろす古墳というのは初めてであるが、海風に吹かれながら見る古墳はさぞかし趣き深いことだろう。

水戸大洗インターで高速を降りてしばらく走ると海が見えてくる。大洗サンビーチから海岸沿いの高台を走る県道へ入り、すぐに左へ分かれる旧道を進むと静かな集落に入る。

行政区域は成田町であるが、どうやら集落は「夏海」というらしい。

梅雨の薄曇りの昼下がり、通りには人影もなく、行き交うクルマも疎らである。

通りに沿って両側に民家が並んでいて、いかにも趣き深い街道の風情である。東側の民家の合い間からは時折、海がチラリと見える。

01 大洗町夏海集落

夏海とはいい名前だと思いながらなおも進むと、「夏海火の見下」というバス停が見えてくる。目指す下宿古墳はこのバス停の目の前、道路の西側に海を向いてひっそりとあった。

<下宿古墳>

02 大洗町下宿古墳

墳丘の高さは大人の背丈ぐらいであろうか、墳頂とその手前に祠が二つと、それぞれに鳥居が建っている。

03 大洗町下宿古墳

祠へ参拝しやすくするためだろうか、墳丘は緩やかな傾斜になっていて、古墳本来の高さからはだいぶ低くなっているようにも見える。

04 大洗町下宿古墳

古墳の前面は道路で画され、両脇はギリギリまで民家が迫っている。裏側は民家の敷地内のようだが、祠のすぐ裏まで削られているように見える。

05 大洗町下宿古墳

06 大洗町下宿古墳

古墳の名前になっている下宿というのはこの辺りの字名のようであるが、バス停の名前になっている火の見櫓は見当たらなかった。
火の見櫓と言えば、子供の頃、夏休みによく遊びに行った母方の祖父母の家の目の前にも火の見櫓が立っていた。子供心にいつか上ってやろうと思っていたが、機会のないまま、祖父母も他界してしまい、火の見櫓もとうの昔に撤去されてしまった。

07 大洗町夏海火の見下バス停

少し疲れているのか、いつにも増して感傷的になっているようである。できることならこのまま海沿いをどこまでもずーっと走って行きたいが、これはセンチメンタルではなく現実逃避である。

残念ながら古墳からは海は見えなかったが、少し戻ったあたりの海側の路地に入っていくと、あいにくの曇り空を映した鉛色の海が国道の向こうに見えていた。

08 大洗町夏海集落

来た道を集落の中ほどまで戻ると、字名は下宿から上宿へと変わるようだ。このあたりにももう一つ古墳があるようなので、通り道でもあるし、見て行こうと思う。


<塩見塚古墳?>
「伊勢参宮記念碑」と書かれた風格のある石碑の立つ小さな神社は神明宮というらしい。「いばらきデジタルまっぷ」によると、神明宮脇の細い道を東に入った先、海岸段丘の際のあたりに塩見塚古墳があるようなのだが、道路からは見えなかった。民家の敷地内のようであるし、道が細いのでクルマを停めるスペースもなく、いったん通り過ぎてから振り返ってみた。

08 大洗町塩見塚古墳?

古墳は中央の木立の中にあるのだろうか。再び来ることがあるかわからないので是非見てみたいが、そろそろ時間も迫って来た。
どうにも中途半端な終わり方なので、代わりと言う訳でもないが、おそらく単なる盛土か何かだと思うけれど、少し手前の空き地にあったいかにも古墳のようなマウンドの写真を撮って、無理やり気持ちの整理をつけた。

09 大洗町塩見塚古墳近くのマウンド

最後に、そもそも海をまだよく見ていなかったことに気づき、海岸まで下りて行って、大急ぎで少しだけ海を眺めた。
低くて黒い雲が空を一面覆っていたけれど、久しぶりの海は(感傷的な五十路のおっさんの)心に沁みるには十分だった。

10 大洗町

写真の右の方に写っている崖の上のどこかに今日行った古墳があるはずである。ここからはそれがどの辺りなのか見当がつかないが、海を見下ろす古墳もいいものだ、と思った。


下宿古墳、塩見塚古墳地図


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2017/05/19

河岸段丘の上の見晴らしのいい無名古墳(東京都国立市 青柳西方無名墳)

忙しくなり、遠出をする機会が減っていたが、今日は外出先での仕事を早めに切り上げることができた。天気もいいので少しだけ寄り道をして帰ろうと思う。

国立市南部、青柳地区は多摩川本流に面した高さ10mほどの河岸段丘上にあって、崖の縁から南側の眺望がとてもよいためか、四軒在家古墳群、青柳古墳群と呼ばれる古墳群があったことがわかっており、一部は墳丘の名残なども残されているようである。
ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」を見ると、これらの古墳群の西にひとつだけ、400mほど離れたところに古墳が現存しているようだ。

ひっきりなしに車が行き交う甲州街道から南に路地を入ると、途端に空気が変わる。自転車に乗った学生たちが散歩中の老人たちをゆったりと追い越してゆく。のんびりとした、どこか懐かしい感じの空気だ。

崖沿いの道を進むと、前方にひときわ太い木が見えてくる。

01 国立青柳西方無名墳

「多摩地区所在古墳確認調査報告書」では「畑地内に径約7mの円形の高まりが約80cmの高さで残っている。南側は道路によって若干削られている。」とあるが、現在は西側も道路になっていて、だいぶ小さくなっているように思える。

02 国立青柳西方無名墳

祠が祀られているところが墳丘の中心だとすると、全体の1/4、北東部分が残っているということだろうか。聞き取り調査で河原石積の石室があるものとされており、祠の周囲に並ぶ人頭大の河原石はそうした構造材の一部なのかも知れない。

03 国立青柳西方無名墳


周囲の樹々が伐採され、すっきりした感じになっているが、残された大きな木が青空に映えて清々しい。

04 国立青柳西方無名墳

南側の眺望は頗るよく、少し強めの風が心地よい。まさに「薫風」である。
崖下には府中用水の取入口があるようだ。

05 国立青柳

06 国立青柳府中用水取入口


向こうからゆっくりと歩いてきた初老のご婦人が、「わたくしを撮って下さってたのかしら?」と笑いながら通り過ぎて行った。こちらの心の中にまで清々しい風が吹いた。


(参考資料)
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団


青柳西方無名墳地図



2017/05/12

古墳空白地帯の現存古墳と富士塚、貝塚(埼玉県志木市 塚の山古墳/田子山富士塚/城山貝塚)

志木市には塚の山古墳以外に現存する古墳はないらしい。


<塚の山古墳>
塚の山古墳は、その名も大塚という地区にあり、以前は周辺の二塚、稲荷山地区に複数の古墳があって、大塚古墳群と呼ばれていたそうであるが、現存するのは塚の山古墳のみとなっているらしい。
柳瀬川が流れる幅広の谷を見下ろす標高差8mほどの台地の縁に築かれており、昨年近くを通りかかった際はちょうど真夏であったためか、解説板も墳丘も草木が覆い繁っていてよく見えなかったが、「大きさは直径6~7m、高さ約3m」とされているらしい。

01 志木市塚の山古墳
(2016年7月撮影)

しかし、志木市にはもっとたくさんの古墳があったのではないか、と思う。
柳瀬川に面した河岸段丘の崖は北東方向に5kmほど続いた後、柳瀬川と新河岸川の合流地点で南東に向きを変え、再び3kmほど続いている。古代の地方豪族の勢力範囲がどの程度かわからないが、古墳を築くのに最適と思われる地形が8kmにわたって連続しているのであるから、もっと多くの古墳があって然るべきではないだろうか。

志木市のある新座郡の前身は新羅郡で、天平宝宇2年(758年)に渡来系新羅人のために新たに設置された郡だそうである。
志木市のホームページによると「当時渡来人を受け入れた場所は郡と郡の境の閑地(未開発地)が多かったとされていること、また、新羅郡を『武蔵国閑地』に設置したという記述が『続日本記』に見られることから、志木地区周辺も近隣の入間郡や豊島郡などに比べると未開発地であったものと思われ」るらしく、隣接する新座市も含めて、この辺りには有力な支配者が出現することがなく、古墳があまり築造されなかった、ということなのかも知れない。

前置きが長くなったが、このあたりに他に古墳がないか調べていると、「田子山富士と敷島神社」というホームページで、志木市内にある「田子山富士塚」という塚の前身は古墳であった、という記事を見つけた。
場所はやはり柳瀬川と新河岸川の合流地点を見下ろす崖の上で、敷島神社という神社の境内である。
百聞は一見にしかず。時間を作って現地に行ってみた。


<田子山富士塚>
神社の境内では植木市が開かれていて、団子を売る店なども出ている。派手ではないが、小さなお祭りのようで、何だかうれしくなる。

正面にくだんの巨大な富士塚が見えているが、先に神社の本殿にお詣りを済ませておこうと思う。

03 志木市敷島神社本殿

さて、富士塚であるが、前述の記事によると、「田子山はこのあたりの古い地名で、田子山塚はもともと7世紀後半頃の円墳であり、富士塚としての築造は明治5年」とある。地元の男性がここにあった塚(古墳)に登ったところ、暦応3年(1340年)の板碑が見つかったことから、ここに富士塚を作ることとなったらしい。

04 田子山富士塚

02 田子山富士塚解説

以前は石造物の倒壊や崩落が進んで危険な状態にあったらしく、修復工事を終え、再び登れるようになったのは平成28年7月からだそうだ。
塚の高さは約9m、直径は30m×25mの楕円形で、中腹にはたくさんの石造物が林立している。

05 田子山富士塚石造物

頂上には小さな祠があり、木花開耶姫命が祀られている。高さがあるので境内が一望できる。

06 田子山富士塚頂上

07 田子山富士塚頂上より

北側は崖になっているはずなので、麓まで下りて見てみると、一気に落ち込んでいる訳ではなさそうだが、確かに何mか落ち込んでおり、崖の縁という感じである。

08 田子山富士塚北側崖状地形

北西側の麓には「御胎内」が掘られており、長い方は奥行き16.2mもあるようなので、もし塚の基礎が古墳であるとしたら、地下の埋葬施設に当たるのではないかとも思うが、どうなのだろう。

09 田子山富士塚御胎内

境内には他にも石仏などが多く、そのうちの一面六臂の仏様は持ち物からすると、隣の石碑にあるとおり不動明王像だろうか、邪鬼を踏みつけながら、よく見ると左手に合掌する人物像を持っている。

10 志木市敷島神社境内不動明王像

左側の不動明王の台座に「引又」の文字が見えるが、古くは「蟇俣」の字が当てられていたらしく、志木市によると「地形が蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ているところからきている」という説もあるらしい。台地が低地に向かって三角形にせりだしているところが蟇蛙の形、ということなのだろうか。


<城山貝塚>
ところで、富士塚からほぼ真西に800mほどの志木三小に面した台地の突端に、「城山貝塚」という縄文時代の貝塚がある。

11 志木市城山貝塚

12 志木市城山貝塚解説

城山というのはこのあたりに中世の城跡(木曽義仲の子孫が築いた「柏の城跡」)があったことからついた地名のようだが、貝塚があるということは、縄文海進の時代にはこのあたりにも人が住んでいたということだと思うし、住居跡も発見されている、とある。それほど古くから人が住んでいた地域なのであれば、やがて、こうした人々を統括する首長が出現してもよさそうなものである。

もっと多くの古墳が作られたものの、調査などがなされないまま削平され、消えてしまっただけなのだろうか。そうだとすると、「〇〇塚」などの伝承が残されていないのは、何故なのだろう。

いずれにしても、現実問題として古墳は現存しないのであるから仕方がないが、何故この地域に古墳が少ないのか、何となくわかったようで、やはりよくわからない。

だからこそ、知的好奇心が疼くのではあるのだが。


(参考資料)
「志木市の歴史」 志木市ホームページ http://www.city.shiki.lg.jp/index.cfm/53,2415,263,html
「田子山富士と敷島神社」 http://hosinobiru.com/concept.htm

塚の山古墳、田子山富士塚、城山貝塚地図


2017/05/08

常陸国風土記に見える「鯨岡」(茨城県行方市 橋門阿弥陀堂)

霞ヶ浦での仕事を終え、時計を見るとまだ夕方の5時である。すっかり陽が長くなったので、日没までまだ1時間以上ある。
帰り道からは外れるが、以前、暗くなってしまってよく見ることができなかった、行方市の橋門にある阿弥陀堂をもう一度見に行ってみたいと思う。
霞ヶ浦大橋を渡って行方市に入り、高須交差点を右折して湖岸の355号線を10kmほど南下すると旧麻生町の橋門に至る。阿弥陀堂は355号線に面した高みの上にある。

01 行方橋門阿弥陀堂

道路沿いに何気なくあるように見えるが、なんと、養老2年(718年)成立とされる常陸国風土記の中で、「男高(オダカ)の里の栗家(クリヤ)の池の南にある岡で、鯨がここまで這ってきてそのまま息絶えて伏せった場所」とされる「鯨岡」の一部であるとされ、しかも、もともとは古墳だったと考えられているようである。

02 行方橋門阿弥陀堂解説

「鯨岡」という名前からすると、築造当時は前方後円墳だったのではないか、と思うが、「いばらぎデジタルまっぷ」では遺跡としての登録はされていない。

道路側から見ると3mほどの高さに見えるが、南側から見ると道路側の上部が平らに削られて阿弥陀堂が立てられているのがわかる。背後(右側)はさらに倍ほどの高さが残っているようだが、土の断面がむき出しになっており、こちら側はかなり削られて変形してしまっているようだ。

03 行方橋門阿弥陀堂(南から)

04 行方橋門阿弥陀堂

05 行方橋門阿弥陀堂(南から)

階段を上って阿弥陀堂に手を合わせ、写真撮影の許しを請うたが、板碑に浮彫りという阿弥陀様は信仰心の薄い者には見えないようである。

06 行方橋門阿弥陀堂

道路の方角でなく南を向いた阿弥陀堂の脇に、一段高い遺存墳丘が見えているが、北川(左側)の傾斜と比べると、やはり南側(右側)はだいぶ削られてしまっているように思える。

07 行方橋門阿弥陀堂

往時の姿やいかに、と頭の中で思い浮かべながら、帰路についた。

途中、西陽の中、湖岸に見事な鯉幟を見かけた。

08 行方井上根古屋宿近くにて

写真では大きさや迫力が伝わらないと思うが、それぞれの鯉の大きさは5mくらいあるのではないか、と思う。そういえば最近、こうした立派な鯉幟を見かける機会もだいぶ減ったように思う。
当家の女性だろうか、「せっかくならもっと風があればよかったのだけれど・・・」と残念そうであったが、そんなことはない。十分すぎるぐらい印象深い光景だ。

最後に蛇足ながら、鯉幟の足許に何やら石碑が建っており、その時は何と書かれているのか読めなかったのだが、帰宅していろいろと調べていたところ、「玉清井」という、日本武尊の東征伝説に関連した石碑であったようだ。来年の5月にでも是非また再訪したいと思う。

橋門阿弥陀堂地図

(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸国風土記の世界」 市民の考古学⑪ 2011年12月 茂木雅博著 ㈱同成社