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2016/07/28

中世まで墓地として使われ続けた古墳(東京都大田区 光明寺荒塚古墳)

これまで出張にかこつけてあちこちの古墳を見て来たが、実は地元、大田区は古墳の宝庫のようなところである。
ところが、23区内は宅地化が文化財保護よりも早く進行したためか、古くから史跡として指定されたもの以外、古墳が完全な形で遺存していることは残念ながら極めて稀なケースと言っても過言ではない。
今日はそんな大田区の古墳を見に行きたいと思う。

光明寺は行基菩薩による天平年間(729~749年)の開基という真言宗の古刹で、矢口の渡しに近く、交通の要衝として古くから栄えた土地らしい。古くは多摩川の流路は今よりももっと東よりを流れていて、光明寺裏の光明寺池は旧多摩川の河跡湖と言われている。有名な新田義興誅殺伝説があった頃の多摩川はこちらの流路を流れていた、とも言われる。これはこれで興味深いのではあるが、今日のお題は古墳である。

光明寺境内東側は今でも一段土地が高くなっており、古来、「上墓(ウワンバカ)」と呼ばれてきた。
荒塚はその上墓の中にあり、義興誅殺の首謀者、江戸遠江守が義興の祟りに遭って雷に撃たれてもがき苦しみながら息絶えた時の墓とされ、近在の者は近寄ったり供養したりしてはならない、といったような言い伝えがあったと聞いたことがある。今では綺麗に整地・整備されているが、少し前までは荒れ藪の中の土塚のようなところに無数の板碑が散乱していたという。

20160728_DSC03167s【90-2】光明寺荒塚古墳1号墳

荒塚は直径20.5m、高さ2.3mの円墳で、平成5年に環状8号線建設のための発掘調査が行われ、5世紀末に築造された古墳のマウンドを、その後も室町時代に至るまで、鵜の木の在地土豪層とその一族郎党の墓としてそのまま転用していたものであることが判明している。墳頂には南北朝時代以降の板碑があったらしいが、今では別に保管されているらしく墳丘上には見当たらない。

20160728_DSC03169s【90-2】光明寺荒塚古墳1号墳

20160728_DSC03170s【90-2】光明寺荒塚古墳1号墳


荒塚には1号墳の他に2号墳があるとされているが、2号墳(直径16.5mの円墳と言われている)は平成5年の発掘調査時に1号墳西側で周溝が発見されたのみで、調査時は既に墳丘は失われていたらしい。

20160728_DSC03166s【90-2】光明寺荒塚古墳1号墳

上の写真手前側が2号墳のあったあたりか。

義興の祟りか、雲行きが怪しくなってきた。

光明寺荒塚地図

2016/07/22

洪積台地上の住宅街に残る方墳(埼玉県さいたま市 本杢古墳(土合古墳群))

神明神社古墳から北に2kmほど、中島という場所にも本杢古墳という古墳がある。

中島小学校から住宅地の緩い上り坂を上ると、左側に道路面より一段高くなった木立が見えてくる。木立の北東の隅に墳丘が見えている。これが本杢古墳である。

浦和本杢古墳南東から

北側から見ると、道路に面した部分が削られて高い土の壁のようになっている。

浦和本杢古墳 北から

北東の隅に昭和57年に設置された解説板が残っていて、「水田を下に望む洪積台地上の円墳」とあるのが見える。平成4年の墳形確認調査で方墳と判明する以前は円墳とされていたらしい。

浦和本杢古墳 北東隅から

浦和本杢古墳 北東隅昭和57年解説板

木立は自然公園のように整備されていて、墳丘のすぐ近くまで近づくことができる。

浦和本杢古墳 遠景

浦和本杢古墳近景

平成13年に設置された解説板があり、墳丘は一辺20m以上、高さは4.5m、古墳時代後期に築造された方墳とされている。

浦和本杢古墳解説板

「大宮台地とよばれる洪積台地の西端、荒川の低地を望む台地の縁辺部」とあるとおり、木立の中を西に進むと、台地を下る階段がある。台地の高さは結構ありそうだ。昭和57年当時、台地下には水田が広がっていたのだろうか。

浦和本杢古墳台地下への階段

台地の南側からも円筒埴輪が見つかっているらしく、付近に別の古墳もあったのではないか、と考えられているらしい。

帰り際、振り返ると、季節外れの紫陽花の向こうで、古墳が何か言っているような気がした。

浦和本杢古墳と紫陽花

これも別の意味で「熱中症」と言うのだろう。

2016/07/22

大槌川を望む大型円墳(埼玉県さいたま市 神明神社古墳(土合古墳群))

先方の都合で、まだ午後3時であるが、仕事を切り上げることになった。夏の午後、陽はまだ高い。

埼玉県は古墳の多いところだが、中でも浦和の台地縁辺や、荒川沿いの低地の自然堤防上には、古くからいくつもの古墳群が連なって形成されてきた。浦和はここからすぐ目と鼻の先である。

浦和と言えば、小学生の頃、埼玉県の県庁所在地は「浦和市」だった。
当時、県庁所在地を言い当てる遊びが流行ったが、単純だった私は「埼玉県の県庁所在地は?」という問いに易々と引っかかった。「埼玉市なんてありませーん」という友人のドヤ顔は今でも忘れない。
今日は明るいうちに、さいたま市となった浦和の古墳をいくつか回ってみたいと思う。

神明神社古墳は中浦和駅の西方100mほど、大槌川を望む南岸の高台に位置している。

浦和神明神社古墳 南から

6世紀後半から7世紀前半頃、古墳時代後期築造の円墳で、直径33m、高さ4.5m、さいたま市内有数の規模だそうだ。

20160722 DSC_4264s浦和神明神社古墳 解説板

解説板には「周囲の低地を一望できる細長い台地の最南端」とあるが、北側は大槌川が流れており、南側も住宅地になっているので、古墳の立地は実感しづらい。

北側に回り込むと大槌川沿いは公園になっており、こちらから見ると墳丘の高さが実感できる。

浦和神明神社古墳 北から

浦和神明神社古墳 北から

西側の墳丘上には古墳の名前の由来となっている神明神社が鎮座している。

浦和神明神社

浦和神明神社 解説板

曇り空とセミしぐれの中、青紫の花だけが色鮮やかだ。

浦和神明神社鳥居

古墳を挟んで東側には東福寺という真言宗の寺があり、明治時代に一度、廃寺となった後、昭和になってから再建されたようだ。
平安時代の大日如来坐像や鎌倉時代の板碑などがあるらしく、古くから栄えた場所であったのだろう。

浦和東福寺大日如来解説

浦和東福寺板碑

浦和東福寺板碑解説

歴史の重みと檀家の方々の信心深さを感じる。

浦和東福寺石仏


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2016/07/04

品川沖を望む古墳(東京都品川区 大井公園内古墳/大井林町古墳)

鮫洲駅にほど近い大井公園に古墳が残されているらしいので、見に行ってみようと思う。

昨年もそうだったように、今年の夏も猛烈に暑い。予報では今日の最高気温は体温以上になるという。ここまで暑いと車のエアコンもほとんど利かない。

公園下、第一京浜に面したコインパーキングに車を停め、一歩、外に出た途端、そこはもう灼熱地獄。温度計は40℃を超えている。

大井公園は武蔵野台地の東端、品川沖を望む丘陵上にある。埋め立てで海は遥か沖に遠ざかってしまい、公園の木々も大きくなったけれど、往時は海がよく見えたのではないか、と思う。木陰は少し涼しいが、今日は生憎全く風がなく、公園は草いきれと蝉時雨でむせ返るようだ。

目指す古墳は公園内の築山のような形で残されているという。
解説板も何もないのでどれが古墳か定かでないが、おそらくこれがそうなのであろう。

20160704 DSC_4188s大井公園内古墳

マウンドは昔日の墳丘が残っているのか、それとも後世の盛土か、という問題以前に、土留めの木組みやコンクリートの階段などで、もはや古墳だと言われても俄かには信じ難いが、周囲を見回してもそれらしきものは見当たらない。

20160704 DSC_4187s大井公園内古墳

20160704 DSC_4199s大井公園内古墳

文献によると規模は不明ながら墳形は円墳、円筒埴輪の破片が採取されたが古墳に並べられていたものかどうかはわからないようだ。


以前はここから南、山内容堂公の墓所の東隣に大井林町2号墳という前方後円墳があったらしい。昭和24年の発掘調査時点で既に墳丘はかなり破壊されており、遺存地形からやや軸の歪んだ前方後円墳と判断されたが、今では、5世紀代に築造された古墳の墳丘を取り込む形で6世紀代に改めて前方後円墳として築造されたもので、軸の向きはその際に変更されたもの、ということになっている
大井林町2号墳はそうした珍しい古墳であったようだが、残念ながら、公園・小学校建設で跡形もなく削平されてしまったようで、正確な跡地すら定かではないようだ。都内の宅地開発と遺跡保護の両立の難しさを改めて考えさせられた。

大井公園内古墳地図


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