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2018/03/28

町田市にある木曽の富士塚(東京都町田市 富士塚(提灯塚)、木曽一里塚)

町田へ行く機会ができた。

20年ほど前まで、町田には30年近く住んでいた。
昭和40年台後半、当時は庶民の「羨望の的」であったという「公団住宅」の抽選に当たり、調布のアパートから一家四人で憧れの「団地」に移り住んだ。
団地には商店街があって、お菓子屋、おもちゃ屋、本屋と、子供の心を釘付けにする魔法のような店ばかりでなく、喫茶店やスーパーマーケット、銀行まで全てが揃っており、なんとまあ便利で快適な街であることか、と子供心に思ったものだ。
近所にはそこかしこに公園や芝生の広場があったし、七国山という里山も近かったので、とにかく遊ぶ場所に事欠くことはなかった。テレビゲームやファミコンなどというものは中学生になるまでお目にかからなかったので、雨でも降らない限り、家で遊ぶなどという発想はなかった。毎日のように、全速力で学校から帰るや否や、玄関でランドセルを放り出しては、陽が落ちて友人の顔が見えなくなるまで外で遊びまわっていた。

かつては羨望の的であったはずのマンモス団地も、平成も30年を過ぎ、築50年を経てすっかり老朽化が進み、住人も高齢化が進んでいると聞く。そりゃそうだろう、子供だった私がとっくに五十路を迎えているのである。
自分が通った小学校、中学校が生徒数の減少で廃校になった、と聞いた時は、普段、ニュースで他人事のように聞いていた「母校が廃校になる」という感覚は、なるほどこういうものか、と妙に納得したものである。

すっかり前置きが長くなってしまったが、町田はそんな思い出深い場所なので、ウキウキしながら「東京都遺跡地図」を眺めていると、「木曽東」という場所に「塚」のマークがあることに気が付いた。
この塚は見覚えがあった。木曽の交差点の東側、周囲にまだ畑の残る中、料金が格安であった小さなクリーニング店の裏にひときわ大きな小山のようなものがあるのを、駅へ向かうバスの車窓から毎日のように目にしていた。当時は「塚」や「古墳」に興味はなかったが、見るともなく毎日のように目にしていたので、潜在的な記憶として覚えていたのであろう。

「東京都遺跡地図」には、塚の名は「富士塚(提灯塚)」とある。例によって「時代:不明」、「種別:その他(塚)」という、何とも曖昧な整理ではあるが、そうか、あの塚は「富士塚」だったのか、と思った。
あれからだいぶ経つので、もはや開発の波に飲み込まれてしまって残っていないかも知れないが、とにかく見に行ってみることにした。

<富士塚(提灯塚)>
すっかり拡幅されて見違えるようになった町田街道を北西に進み、木曽交番前で右折して細い道を北へ向かう。この道筋は、往古、「夷参(イサマ)」と呼ばれた座間から大沼を経て、「富士塚」脇をかすめて北上、小野路から多摩丘陵を越えて府中へと向かう、古代官道の痕跡とされる道でもある。
こんなところに病院なんてあったかしら、お、この銀行は覚えてるぞ、といちいち感動しながら進むと、左前方に見覚えのある大きな木立が見えてきた。

01 木曽富士塚(提灯塚)遠景

クリーニング店は見当たらなかったし、塚の周囲に広がっていたはずの畑もコンビニの駐車場になっていたけれど、幸いなことに、塚はどうやら昔の姿そのままに残っていた。

02 木曽富士塚(提灯塚)全景

塚をこれほど近くでじっくりと見るのは初めてであるが、大きさは直径20mほど、高さは3mほどはあるだろうか、記憶の中の塚よりも大きくて、塚上には祠などが立っているようである。

03 木曽富士塚(提灯塚)麓から頂上

20年振りの再開を祝してくれている訳でもなかろうが、折しも塚上の桜はちょうど満開で、西陽にうっすら赤く染まって風に揺れている。

04 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

南側に回って見ると頂上へは階段が続いており、上まで登ることができる。

05 木曽富士塚(提灯塚)南側塚上への階段

頂上は意外に広く、浅間社の石の祠と、石碑が二つ並んでいる。

06 木曽富士塚(提灯塚)塚上の祠、石碑

由来碑は漢文であろうか、難解だが、おおよその意味は、木曽三家(さんや)には富士塚があって、その高さは1丈5尺、広さは3畝、古より道に迷った旅行者がこの塚に登り、富士を見て方向を確かめたと云う、塚上には一本松と呼ばれた老松があり、梢は雲を凌ぎ、幹には洞があって獣が住んでいたという。樹下には浅間社の小祠があったが、文化4年(1807年)に失火で老松ともども一晩で焼失してしまったが、皆で相談して幼い(稚)松を植え、碑を建てた、といったようなことだろうと思う。富士塚と言っても、中近世に多く築かれた富士講に基づくものではないようだ。

07 木曽富士塚(提灯塚)塚上の由来碑

「今昔マップ on the web」で明治の地図を見ると、「一本松」と書かれた大きな塚/古墳マークが確認できる。

08 「今昔マップ on the web」より木曽周辺
(右上赤矢印が「一本松」こと富士塚、左下赤矢印のT字路西側に後述する木曽一里塚 「今昔マップ on the web」 明治39年測図二万分の一「原町田」より木曽周辺を拡大)

周辺の地形は、塚の東側が200m四方ほどの大きな窪地になっていて、調整池と呼ばれる人口の池があり、窪地周辺は縄文から平安時代にかけての土器や土師器などの包蔵地となっているようであるが、他に大きな高低差もなく、南を流れる境川と、北を流れる鶴見川にはさまれた標高100mほどの平坦地になっている。
南北に走る古奥州街道に隣接していて、以前見た鶴間の一里塚(鶴間大塚)とよく似ているが、こちらは一里塚としてではなく、方角を確認するための物見塚として語り継がれてきたのであろう。

「堅牢地神塔」というのは初めて見るが、元禄期以降に広まったとされる「地神(ジジン)講」、すなはち春分・秋分に最も近い戊の日は田の神と山の神が交代する日であり「土を動かしてはならない」とされ、畑仕事を休み、地神様をお祀りして大地の恵みに感謝する、という民俗信仰であり、大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。

09 木曽富士塚(提灯塚)塚上の堅牢地神塔

見上げれば、西陽に染まった桜と青空しか視界に入らない。

10 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

11 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

ところで、「木曽」の「三家」というのはこのあたりの字名であって、「三家」というのは近くのバス停の名前にもなっているので馴染みが深いが、その由来については耳にしたことがない。インターネットで検索しても特に見当たらないのだが、うっすらとした記憶では、何で読んだか、誰かに聞いたかも定かでないが、昔、このあたりには人家が3軒しかなかったのでその名がついた、といったことではなかったか、と思う。

一方で、「木曾」という方は「新編武藏風土記稿」にその名が見える。
「矢部八幡」という神社が市内の矢部町にあるが、昔は矢部のあたりも木曾村の一部であって、この神社に昔あった鐘の銘文によると、木曽一族がこの辺りに移り住んだためについた地名だそうだ。
因みにこの「矢部八幡」は別名「箭幹(やがら)八幡」と言い、古くは「木曽八幡」と呼ばれたらしいが、木曾氏(木曾義仲)が滅亡したために木曾の名を憚って「箭幹(やがら)八幡」と呼ぶようになったのだという。

<木曽一里塚>
ところで、富士塚から少し西に行ったところに、「東京都遺跡地図」には載っていないが、「木曽一里塚」という塚があるようなので、そちらにも行って見た。

12 木曽一里塚全景

一里塚と言うからには、塚が面したこの道も街道だったのだろうと思うが、古奥州街道は先ほどの富士塚脇の道であるはずだから、町田街道の旧道の一里塚かと思ったが、塚は町田街道の旧道には面していない。これは江戸初期の元和3年(1617年)に、駿河の久能山に祀られていた徳川家康の遺櫃を日光東照宮に移すために整備され、後に大山詣でにも利用されたルート、「御尊櫃御成道」に設けられた一里塚なのだそうだ。塚上の祠は日本狼を祀る御嶽山の「おいぬ様」こと「大口真神」の祠だそうである。

13 木曽一里塚解説

14 木曽一里塚前の御尊櫃御成道

「御尊櫃御成道」はこの塚の前を通って町田街道の旧道を左折して小野路方面に至ったらしい。ほぼ同じルートを辿りながら、古くからあったであろう三家の富士塚横の古奥州街道を通らずに、わざわざ別ルートを経由した、ということは、江戸初期には既に富士塚横の道は廃れてしまっていたのであろうか。
前述の明治の地図を見ると、確かに富士塚横の道沿いにはほとんど人家は描かれておらず、まさに「三家」状態のようである。大切な「御尊櫃」の御成に際して、何かと便利な木曾村中心部を通るルートが選ばれた、ということなのかも知れない。

今回は懐かしさのあまり、つい長くなってしまった。当時は知る由もなかったが、子供時代を過ごした懐かしい土地に刻み込まれていた、古から積み重ねられてきた歴史の「記憶」をこの年齢になって初めて知った。
出張先で浮かれてばかりおらず、もっと自らの出自の地で研鑚に励むべきかも知れない。


(地図)
木曽富士塚、一里塚地図



(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html




2018/03/05

雨の合い間の大塚跡(東京都八王子市 日向古墳、大塚八幡神社)

午後からの所用を早めに切り上げ、いつものようにクルマで帰路に着いた。
今日は朝からあいにくの雨模様であるが、少しだけ道草をして帰ろうと思う。

八王子市鑓水から始まる都道20号線の通称は「野猿街道」である。何と野趣に富んだ名であろうか、と以前から思っていた。
今日でもまさか野猿が出る訳でもあるまいが、大栗川が削った幅500mほどの谷あいを北東に向けて伸びている。谷と言っても左右の尾根との比高差は30~40mほどであるのに加え、街道沿いには瀟洒な住宅が立ち並んでいるので、クルマで走っていると、およそ「猿」や「山」、「谷」といったイメージとは程遠いのであるが、それでも柚木、堀之内を過ぎると街道の北側にはなだらかな丘陵が迫ってくる。
やがて突然、多摩モノレールの白く太い鋼鉄の軌道が頭上を横切る。街道の南側に見える駅の名前は「大塚・帝京大学」であり、このあたり一帯の字名は「大塚」となっている。

1995年に多摩地区の古墳を網羅的に調査した「多摩地区所在古墳確認調査報告書」という書籍に、この「大塚」という字名の由来と思しき古墳が載っている。
「日向(ひゅうが)古墳」という名のその古墳は、「大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部」に占地する、「直径13m、高さ2.5m」の「円墳」とある。
ただし残念なことに墳丘は「消滅」、主体部も「消滅?」となっていて、痕跡は残っていないのかも知れない。
インターネット版の「東京都遺跡地図情報」によると、日向古墳のマークは野猿街道の南側、「大塚八幡神社」の境内に付されていて、雨は止みそうにないが、古墳のあった跡地だけでも眺めて行こうと思った。

地図で見ると、神社のある一帯は、直径100mほど、高さ10mほどの円形の独立丘のような地形になっていて、神社はその最も高い場所に建てられているようだ。まさかこの丘全体が古墳、などということはなさそうだが、字名の「大塚」はこの独立丘を指すのではないだろうか。地形図で見てもほぼきれいな円形をしていて、まるで大きな塚のようにも見える地形である。

東側から丘を登って神社の駐車場にクルマを停める。

雨の中、あちこち古墳の痕跡を探すのも少し億劫なので、昇寛さんの「埼群古墳館」や挂甲の武人さんの「週末は古墳巡り」などを見てみると、本殿脇にある稲荷社の土台が往時の墳丘の痕跡ではないか、とされているようだ。

そうか、と思いもう一度外を見ると、ちょうど折しも運よく雨が止んでいるではないか。
日頃の行いを天の神様が見守って下さっていたのか(いや、多分そうではないと思うが)、絶好の好機である。

鳥居の向こう、一段高くなっているところに見えているのが大塚八幡神社の社殿で、その左脇に見えている赤い祠が稲荷社のようである。

01 大塚八幡神社遠景

まずは八幡様に、雨を止ませてもらったお礼と、古墳の痕跡を写真に撮らせてもらえるよう、両手を合わせる。

02 大塚八幡神社社殿

社殿脇の稲荷社は、基壇を石垣で四角く囲まれていて、大きさはそれなりに見えるのだが、高さの方はどうも2.5mもあるようには見えない。

03 大塚八幡神社稲荷社


駐車場に戻って南側から回り込むと、左手から盛り上がった土台がそのまま稲荷社の土台へと続いているようにも見える。

04 大塚八幡神社

左手には階段があり、稲荷社背後の寺院の墓所へと続いている。

05 日向古墳の墳丘痕跡?

06 日向古墳の墳丘痕跡?

階段を上って見ると、墓所にはたくさんの石仏や石碑が草々の合い間に静かに立ち並んでいて、何だかあれこれ詮索するのはどうにも憚られるような気がしてきた。

07 日向古墳の墳丘痕跡?

そう思った途端、今まで止んでいた雨が突然、再びパラパラと降り出してきた。
もうそこまででよかろう、と八幡様が仰っているのだろうか。

雨の中、墓所に向かって一礼し、続いて稲荷社、八幡神社にも頭を下げて、クルマに戻った。

少し雨脚が強くなり始めたようだ。夕方になって道路が渋滞し始める前に帰るとしよう。


(地図)
日向古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「週末は古墳巡り」 https://kofunmeguri.hatenablog.com/




2018/03/01

多摩川上流、丘陵上の首長墓墳(東京都八王子市 北大谷古墳)

昨年夏の夕暮れ、仕事が終わってまだ明るかったので、以前から気になっていた古墳を探しに行ったことがある。
ブログを始めて暫く経った頃、「古墳なう」さんから推奨頂いた「北大谷古墳」である。

「北大谷古墳」は多摩川上流域左岸の加住南丘陵上に築かれた古墳時代末期、7世紀前半の首長墓墳で、府中熊野神社古墳のそれをも凌ぐ傑出した規模の切石積み三室構造の横穴式石室を持ち、古く明治時代からその存在を知られた古墳だそうである。

八王子インターの南、小高い丘の上は農地になっていて、夕暮れの中、土の農道を進むと、遠くの農地ではあと片付けだろうか、男性の駆るトラクターのエンジン音が黄昏の丘陵上に響いていた。

見上げると、西の空は夕暮れの中、低く黒い雲が流れ、立体的で何とも奥行きを感じる光景だった。

01 丘陵上 昨年の夏、農地で見た夕景

1400年前の夕暮れも、果たしてこんな荘厳な光景だっただろうか。

流れる雲を見ながら、ふと思い出していた。
あれはいつのことだっただろう、だいぶ以前、ある温泉ホテルに仕事で単身、長期間泊まり込む機会があった。
あの時も季節は夏だった。
朝から晩まで、精神的にもハードな仕事だったが、仕事を終えた後は毎晩、営業終了間際の屋上大露天風呂に浸かった。
終了間際の露天風呂は人影も疎らで、毎晩のように「貸し切り」の大きな湯舟で星空を見上げながら、明日の仕事の進め方をあれこれ考えたものである。
とある晩、いつものように一人、風呂から夜空を眺めていると、向こうの山の端から見事な満月が、音もなく、静かに昇ってきたことがあった。
中空に明るく輝く月を見ていると、柄にもないが、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の旋律が聞こえてくるような気がした。


そんな、半ば忘れかけていたような出来事を思い起こしながら、「タンホイザー」を口ずさみつつ、その日はそこで暫くの間、流れて行く雲と沈む夕陽を眺めていた。

気が付くと周囲はすっかり薄暗くなっており、古墳探索はまたの機会、ということにした。


あれから季節は巡って今日は2018年の早春、だいぶ日差しが春めいてきたな、と思っているところに、八王子での仕事が午前中で片付いた。ちょうどよいので、帰りがけに北大谷古墳に寄ってみようと思う。

前回夕陽を眺めた農道を再び辿り、丘陵上を行くと、畑の向こう、地面が盛り上がって見えているのが墳丘のようである。

02 北大谷古墳遠望(北から)

以前は石室がむき出しになっていたらしいが、石材の傷みが激しいことから、現在は埋め戻されているらしい。
墳丘の周囲にはフェンスが巡らされており、立ち入りはできないように見えるが、オヤコフンさんのブログにもあるとおり、斜面を少し下ると解説板があり、さらに進むとフェンスが途切れ、墳丘に近づくことができる。

03 北大谷古墳現地解説

04 北大谷古墳墳丘 南西から

05 北大谷古墳墳丘 南から


近寄って見ると、墳丘のほぼ中央が縦に少し窪んで見えている。あのあたりが埋め戻された石室であろうか。

06 北大谷古墳墳丘 近景

07 北大谷古墳墳丘 近景

この古墳は古く明治32年に発掘が行われたが、発掘される以前は南側に石室が開口していたそうである。
発掘以前に盗掘を受けていたらしく、遺物は発見されなかったようだ。
その後、昭和8年、平成4年にも調査が行われた結果、墳形は直径39m、高さ2.1mの円墳若しくは方墳とされているらしい。

墳丘脇の斜面を登り、東側に回り込むと、墳丘は丘陵の頂が緩斜面となって下り出すギリギリのところを利用して築かれているのがわかる。墳丘はこちらから見るとそれほど高さを感じない。

08 北大谷古墳墳丘 北東から

この古墳の特徴は何と言っても周辺で同時期に築造された古墳を凌駕する規模の切石積みの横穴式石室を持つ、という点にあるそうだ。
石室の構造は前室・中室・玄室(羨道・前室・玄室)の三室構造で全長は10.01m、玄室は胴張り型で最大幅3.16mもあり、同じく複室構造で胴張り型の切石積み玄室を持つ武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳、多摩市稲荷塚古墳や白井塚古墳よりも全長、玄室幅とも遥かに大きいのだそうだ。

築造時期は稲荷塚古墳よりは僅かに新しいものの、熊野神社古墳などには先行するものと考えられているらしく、稲荷塚古墳が八角形墳、熊野神社古墳や天文台構内古墳が上円下方墳と特徴的な墳形であるところからすると、この北大谷古墳の墳形も単なる円墳・方墳ではないのではないか、などと思ってしまう。

熊野神社古墳のような葺石の痕跡は見つかっていない一方で、丘陵の北側は丘陵と墳丘を画するように周溝の痕跡が発見されているらしい。

7世紀前半と言えば、推古天皇の摂政であった聖徳太子が遣隋使を派遣、太子亡き後、朝廷内で蘇我氏が権勢を奮っていた、そんな時期である。
畿内では飛鳥寺や法隆寺などが相次いで建立され、古墳祭祀から寺院祭祀へと埋葬・祭祀の方法が移り変わろうとする過渡期にあたり、日本で古墳というものが造られた最期の時期でもあるようだ。
古くからの風習が新しく伝えられた文化に置き換えられようとしていた、そんな時期に、この地にこれだけの規模の石室を持つ伝統的な「古墳」を作った人物は、一体どんな人物だったのだろう。

古墳の規模からすれば、被葬者は多摩川上流域でもかなりの勢力を持った首長であったであろう、とされるものの、墳形や葺石の有無などの相違から、特殊な墳形で葺石を有する熊野神社古墳の被葬者とは身分が異なる人物、と考えられているらしい。

想像を逞しくすると、多摩川上流域を代々支配してきた首長(国造若しくは郡司?)として傑出した勢力を永らく維持しており、武蔵国府に中央から赴任している国司との関係も相応に有していて、中央の最新の情報が得られる立場にありつつ、仏教というものには警戒感を抱きながら、国司を凌駕する豊富な資金力を有するものの、残念ながら国司ほどの官位は有していないことから、上円下方墳や八角形墳などの築造が認められない、旧来からの伝統を重んじる在地豪族、といったイメージを抱くのであるが、いかがであろう。(古墳の主に怒られてしまうだろうか。)

それにしてもここは東京近郊であるにも関わらず、どこか懐かしい里山の雰囲気が色濃く感じられる場所である。
古墳の南西側は木立が途切れて眺望が開けていて、遠く八王子の市街地だろうか、人家が密集しているのが見えている。
木々の芽はまだ固いようだけれど、好天の高台の雑木林は陽だまりで暖かく、墓所というよりは桃源郷のように穏やかである。

09 丘陵上からの眺望

もしかすると、ここに古墳を築いた人物は、ここが後世、開発の手の及ばない、1400年経っても変わらず穏やかであり続ける、そんな場所であることが実はわかっていたのではないだろうか。

桃源郷のような丘の斜面で、少し春の気配のする風に吹かれながら、唐突に、そんなことを思った。


(地図)
北大谷古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「多摩のあゆみ 第137号 多摩川流域の七世紀代古墳」 2010年2月 財団法人たましん地域文化財団
「墳丘からの眺め 北大谷古墳」 http://massneko.hatenablog.com/entry/2017/10/01/000000





2018/01/07

鹿島大神の神鹿伝説 (東京都江戸川区 鹿見塚/鹿見塚神社、鹿島神社)

前回、潮来市にある大生西部古墳群、大生神社と鹿島神宮を巡る古代史の一端を紹介した際、「元鹿島」と言われる大生神社に祀られていた大生氏、藤原氏双方の氏神である「タケミカヅチ」の神が、神護景雲2年(768年)、常陸から奈良の春日大社に遷幸された、という話を紹介した。

遠く東国の鹿島(香島)から奈良までの鹿島大神の遷幸の途次、大神の杖であったお供の神鹿が病に罹り、里人の看病虚しく亡くなったため、その地に塚を築き手厚く葬られた、という伝承が伝わる地域があるらしい。
東京の江戸川区、「鹿骨(シシボネ)」という地域である。

江戸川区郷土資料室が発行する「解説シート『江戸川区の地名(1)鹿骨』」には、「地名の由来」として前述の伝承が紹介されていて、その際に築かれた塚を「鹿見塚」と呼ぶこと、「鹿骨」の地名はこの伝承に由来すること、そして、「塚は、今も鹿骨三丁目にある鹿見塚神社内に残っています。」ということが書かれている。

神護景雲2年に築かれた塚が、幾星霜、1250年の時を経て、開発著しい東京都内に何と今でも残っている、という記述を見て、アドレナリンが全開となった。居ても立っても居られず、翌日、休暇を取っていた妻を誘って早速見に行ってみることにした。

ところでその「鹿見塚」は、前述の「解説シート」によると、かつては7~8mの高さに土盛りされた塚で、太い老松が植わっていたそうである。いつの頃かその松も枯れ、周囲の木々も悉く伐採、塚も掘り返されたそうである。
「解説シート」には鹿見塚神社と鹿見塚の石碑の写真が掲載されているが、肝心な「鹿見塚」は映っていない。だがしかし、そんなはずはない、「残っている」と書いてあるのだ、現地に行けば必ず痕跡のようなものが残っているに違いないと思いながら現地へと向かった。

「鹿見塚神社」は思っていたよりも小さく、前沼橋という名の交差点の角にこじんまりとあった。

01 鹿骨鹿見塚神社

02 鹿骨鹿見塚神社

鳥居前の解説板には確かに「鹿見塚」と書いてある。
ほーら、やっぱりあるじゃないか、すげーすげー、神護景雲2年、1250年、どれ? どれが塚?
(アドレナリン全開のため暫く取り乱しますが、ご容赦下さい。)

03 鹿骨鹿見塚神社解説

境内には「解説シート」に載っていた「鹿見塚」の碑が建っており、石碑の周囲の地面に塚の痕跡を探す。どこ?どこ?痕跡どこ?

04 鹿骨鹿見塚

碑の後ろには大木の切り株があるので、これぞ老松の切り株に違いないと思いつつ、で、どこ? 鹿見塚、どこ?

05 鹿骨鹿見塚

いくら探しても痕跡らしきものは見つからない。改めて鳥居前の解説板を読み返してみる。
石碑自体は昭和42年に建てられた、とあるが、解説文冒頭の「この鹿見塚」の「この」は、一体「どの」塚を指しているのであろう。もしやこの石碑を指しているのだろうか。

諦めがつかず、なおも境内でうじうじしていると、インターネットを見ていた妻から「近くの鹿島神社にも何かある」旨の啓示を頂いた。「鹿島神社」はここから1kmほど北にある、やや大きな神社である。

06 鹿骨鹿島神社遠景

鹿見塚の伝承は「鹿島神社」前の解説板にも記載されていた。

07 鹿骨鹿島神社解説

鹿島神社は、村人たちが鹿見塚の伝承を奇縁として、武甕槌命、天照大御神ほかの神を勧請して建立された、と伝わるそうであるが、明治以前は「五社神明社」と呼ばれたとおり、戦国時代にこの地に入植した五つの一族の氏神を合祀したのが始まりのようである。

08 鹿骨鹿島神社境内

本殿と拝殿が少し離れているようにも見える上に、本殿の下が少し高くなっているようにも見えるので、この神社が鹿見塚の上に建てられているのではないか、とも思いたくなる。

09 鹿骨鹿島神社本殿

拝殿脇には神鹿の像が建っていて、像の背後には戦争の慰霊碑だろうか、いくつかの大きな石碑が若干高くなった地面の上に建てられているけれど、さすがに神様のお供の神鹿の眠る塚上に碑を建てるようなことはしないだろう。

10 鹿骨鹿島神社神鹿像

11 鹿骨鹿島神社神鹿像背後の碑

よくわからないまま、ふと社殿を見上げれば、明治の社殿改築時のものであろうか、墨文字の由緒書きが掲げられている。旧仮名遣いで読みづらいが、中ほどに「則チ其ノ塚今ニ村位巽之方ニ存セリ」の文字が見える。
12 鹿骨鹿島神社由来書

「巽」と言えば南東であり、ここは鹿骨村の北辺に当たるようなので、やはり鹿見塚があった場所は先ほどの鹿見塚神社の方角のようではある。

「鹿骨」は古くから人々が生活していた地域で、正応3年(1290年)の銘のある板碑を始め多くの板碑が見つかっているらしい。それほど古くから集落が形成された歴史深い土地で、人々の暮らしを見守ってきた神鹿である。私のような不心得者には、そう簡単に姿を見せてはもらえないのだろう。

13 鹿骨鹿島神社から見た夕陽


(地図)
鹿骨周辺地図



(参考資料)
「解説シート 『江戸川区の地名 (1) 鹿骨』 」 江戸川区郷土資料室




2018/01/02

「鶴舞う里」の大きな一里塚(東京都町田市 鶴間大塚)

正月休みに座間の実家へ顔を出そうと思うが、少し早めに自宅を出て、寄り道をしてから行こうと思う。

首都高から保土ヶ谷バイパスで横浜町田インターを過ぎ、国道246号のバイパス手前の交差点を左折して246の旧道に入る。高校生でバイクの免許を取った頃はまだバイパスは開通しておらず、「246」と言えばこの片側一車線の道しかなかった。今でもこちらを通ることが多いのは、旧道が好きなこともあるが、年を取って「郷愁」が年々強くなっているせいもあるのだろう。
武蔵と相模の国境とされる境川に向かって、緩やかな南向きの斜面をゆっくりと下っていく景色は、空が広くて気持ちが落ち着く眺めだ。
赴きのある大谷戸の集落で246の旧道と南北に交わる古い道との交差点に立つ庚申塔なども風情があってよい。

この南北に真っすぐに走る道は「戸塚道」と呼ばれ、瀬谷を経て泉区の飯田から戸塚方面へと至る古くからの道で、飯田までのルートは鎌倉街道上道とも言われているようだ。
大谷戸からこの「戸塚道」を少し北上したところに、「鶴間大塚」もしくは単に「大塚」と呼ばれる大きな塚が現存している。

戸塚道は今では住宅地の中のごく普通の生活道路になっており、大塚はその道路に面した東側に残っている。

02 鶴間大塚

「鶴間」は町田市であるが、隣接して相模原市に「上鶴間」、大和市に「下鶴間」という地名がある。分割・編入が行われる以前はいずれも相模国高座郡だったそうだ。
「ツルマ」の語源はいくつかあるようだが、源頼朝が富士に鷹狩りに行くために通りがかったときに鶴が舞うのを見た、というもの、あるいは義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた、という伝説もあるらしい。

さて、塚であるが、とても大きくて立派な塚であるが、この塚についての情報は意外と少ない。

「東京都遺跡地図情報」では時代は「[中世]」、種類は「その他(塚)」となっているので、時代不明の塚の一種という、何だかよくわからない整理になっている。
塚の所在する鶴間町内会のホームページによれば、塚の高さは5mほどで、地元では「一里塚」とされているようだ。直径は10mほどはあるだろうか。

01 鶴間大塚


塚の頂には、火難及び盗難除けを祈願して祀られた奥多摩の御嶽信仰に由来する小さな石祠が建っている。

03 鶴間大塚

04 鶴間大塚 頂上の御嶽社祠


塚の中腹には「一里塚 鶴間」と彫られた新しい石碑が建っている。

05 鶴間大塚 中腹の一里塚碑

周囲はすっかり開発が進み、住宅や企業が立ち並んでいるが、少し以前までは、あたり一面、畑が広がっていたようである。「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」という40年ほど前に発行された書籍には、畑の向こうに鬱蒼とした木立を背負って聳える大塚の写真が掲載されている。
「今昔マップ on the web」で見ると、一面に桑畑の記号が広がる中、南北に真っすぐ伸びた街道に面して、塚のマークが見えている。

06 明治39年 2万分の1「長津田」より(今昔マップon the webより)
(中央赤矢印が鶴間大塚、その左脇を南北に通るのが戸塚道こと旧鎌倉街道上道、画面右上から斜めに横切っているのが大山街道こと国道246号の旧道、画面左下に黒く境川 今昔マップon the web 明治39年測図、42年製版「長津田(二万分の一)」より該当部分を拡大)


このあたりの地形は、500mほど西を境川が南北に流れる高さ15mほどの高台の上であるが、塚がある場所から高台の縁までは300mほど離れている。一里塚にしては大きくて背も高いので、もとは古墳だった可能性も・・・と思っていたが、立地からするとやはりこれは一里塚なのであろう。

とは言え、少し合点が行かないのであるが、これが一里塚であるならば、道の反対側にもあったようにも思うが、「今昔マップ on the web」で見ても、明治39年の地図には道の反対側には何も描かれていない。道路拡幅に伴い、一里塚の片方が削平された、という例も多いように思うので、不思議なことではないのかも知れないが、この道はどうも拡幅されたようには見えない。
桑畑への開墾で削平されたのであれば、両方とも削られてしまうようにも思う。
さらに、これが一里塚なのであれば、地図上を街道沿いに南北へ辿れば、隣の一里塚も残っているのではないか、と思い、いろいろ探してみたのだが、周辺には一里塚やその跡地、伝承などもさっぱり見当たらない。

一里おきに道の両側に一里塚がある、というのは江戸時代に整備された街道の特徴なのであろうから、鎌倉時代までに自然発生的(?)に成立した鎌倉街道の一里塚は、一定間隔にある訳でも、道の両脇に必ず塚がある、という訳でもないのかも知れない。

そうだとすると、こうした一里塚は、たまたま誰かが、何かの目的で、街道沿いに築いた塚、ということなのだろうか。
(そうではなく、昔からそこにあった古墳だったんじゃないの?と、ノドまで出かかっているのであるが・・・。)

いずれにしても、果たして、この塚の正体は一体・・・。


(地図)
鶴間大塚地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「鶴間町内会ホームページ」 http://www.tsuruma.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」 芳賀善次郎著1978年10月 さきたま出版会
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎著 2007年7月 風人社