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2018/10/24

心が疼く「石積み」(東京都福生市 睦橋東袂の石積み)

今回は、以前から気になっていた「石積み」である。

何年か前から仕事であきる野方面へ往復する機会が増えて、クルマで睦橋を渡るたびに、橋の東側の袂の斜面上にある石積みが気になっていた。
それは遠目には、人頭大の丸い川原石がゴロゴロと積み上げられているだけの、単なる石積みにしか見えなかったのだが、確かこのあたりの古墳はあんな感じの積石塚が多いらしいんだよなあ・・・と、そこを通るたびに気になっていたけれど、「東京都遺跡地図情報」を見てもそこには古墳マークはおろか、遺跡表示すらされていなかった。

ある日、「今昔マップ on the web」を眺めていて、何気なく例の石積みのあたりを見てみた。
そのあたりは明治の頃から「内出」という集落があって、橋が掛けられるずっと以前から民家が多かったらしく、明治の地図で既に一帯が黒い斜線で「市街地」表示されていた。
中央少し上、神社と寺院が並んでいるそのすぐ南、斜線が白く抜けてしまっている箇所があった。
あれれ、塗り損なってるじゃん、これ、と思ったその時、ハタと気が付いた。塗りつぶし損ねているわけではなくて、これは「塚/古墳」のマークではないのか、と。

01 内出周辺の明治時代地図(二万分の一「拝島」明治39年)
(中央、寺院記号下に見える「塗り残し」? 今昔マップ on the webより、二万分の一「拝島」明治39年)

位置的には現在、睦橋通りが通っているあたりか、それよりやや南にズレたあたりだろうか、おそらく睦橋通りを切り拓く際、切り通しになって崩されてしまっているようにも思えるが、もしかするとここには昔、塚や古墳の類いがあったのかも知れない。
そう思ったところで再びハタと閃いた。いつも気になっていたあの石積み、実はこれだったりするんじゃなかろうか。

数日後、半ば無理やりセットしたあきる野での用事を終え、睦橋を渡り、懸案だった斜面の石積みの前に立ってみた。(仕事とどちらが主目的なのだろうか、と自分でも時々思うことがある。)

02 気になっていた石積み

積み上がっている石は思いのほか大きく、しかも石の積まれている底地はコンクリートで階段状に整地されていて、やはり少なくともこれは古くからある石積みの塚か古墳がそのまま遺存している、という訳ではなさそうである。

03 石積みから多摩川を望む

やはり空振りだったかしら、と思い、振り返ってみると、少し離れた空き地に大きな木が一本、立っており、その根太のあたりが盛り上がっているようにも見える。

04 少し東に見える木

05 少し東の木の根太

いやいや、さすがにこれは木の根太が盛り上がっているだけだろう。だがしかし、永年鬱積した欲求不満がそうさせるのか、頭では違うと思っているのに、何故か写真まで撮ってしまう。(しかもそれをブログで記事にしてしまう。)

結局のところ、明治の地図にあった塚/古墳マークの正体も存否もわからずじまいであるが、これで終わってはあまりに何なので、ひとつだけ。
ふと見ると、石積みのやや下の方に、福生市の立てた史跡の案内板がポツンと立っていた。

06 石積み下の福生市史跡案内板

お!やっぱここ、古墳だったのか!と、諦めの悪いオッサンは瞳を輝かせつつ駆け寄ったのだが、やはりそうではなかった。
昭和30年頃まで、このすぐ下の河川敷から砂利が採取され、それを運搬する鉄道がここを通っていたらしい。確かにいまの南武線なども私が子供の頃は砂利を運ぶ貨物列車が走っていたようにも思う。コンクリートの強度を増す重要な建築資材として、多摩川の砂利は首都東京の経済成長を担っていたのだ、と聞く。
戦前の地図を見ると、当たり前だが解説版と同じ経路を線路が通っているのがわかる。いまの拝島駅の北西、共光稲荷神社前の駐車場のあたりまで続いていたようだ。

積年の懸案はひとまず解消した、と思ったけれど、習慣というものは恐ろしいもので、その後もやはり、ここを通るたびにこの石積みが目に入り、何故か心が疼くのである。

07 石積み近くで見上げた空



<投稿 2020.6.14>

(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html





2018/10/19

中世今井氏の物見塚(東京都青梅市 今井物見塚)

日を追うごとに新たに感染する方の人数が減ってきて、少し明るい気持ちになってくるが、とは言え、罹患され、闘病されている方が一人でもいる限り、コロナ禍は完全な終息、とは言えないのだろう。

以下、2018年10月の話である。

春先、仕事で弁護士さんを乗せて青梅市内を走っていた時、ふと見た道路の名前が「物見塚通り」だった。
きっとどこかに物見塚と伝わる塚があるに違いない、とその時以来、気になっていた。

都内にある塚や古墳は、ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」がとても詳しいので、青梅市内の塚を順番に見ていくと、青梅インターの近く、岩蔵街道沿いの「今井物見塚」という塚がどうやら「物見塚通り」の由来となった塚のようだった。
夏から始まった新しい仕事は、まさに岩蔵街道のひとつ東、飯能街道沿いなので、少し家を早く出て、今井物見塚へ立ち寄ってみることにした。

国道16号を左折して岩蔵街道に入る。岩蔵温泉という鉱泉に向かう道なのでそう呼ばれているようだ。
岩蔵温泉には仕事で何度か行ったことがあった。伝説ではヤマトタケルが岩の蔵に鎧を置いたことから「岩蔵」と名付けられたそうで、泊まったことはなかったが、長閑な山あいの静かで居心地のよさそうな温泉であった。
青梅スタジアムのあるあたりは、川などが流れている訳でもなさそうだが、高低差10mほどの崖になっていて、緩い上り坂になっている。坂道を上ると圏央道との交差点で、圏央道の開通に合わせて、それまで一直線だった街道はここでクランク状に左、右と折れ曲がるが、この右折地点の北側に「今井物見塚」がある。

01 今井物見塚 近景

草で墳丘(塚丘?)は全く見えないが、高さは大人の目の高さほどだろうか、何となく細長い形をしていて、塚の名前の書かれた石柱が立っている。

02 今井物見塚 近景

03 塚上の標柱

東京都遺跡地図情報ではここには塚などの登録はなく、ウィキペディアで見ても昭和末期まで2mほどの高さの丘が残っていた、とあるので、もしかしたら今あるこのマウンドはその当時の名残りの一部か、若しくは後世になって復元されたものなのかも知れない。
昭和の末まで残っていたのであれば、航空写真などに写っているか、と思い、何枚か穴の開くほど観察してみたが、いくら探しても、これだ!というものは見当たらなかった。

ウィキペディアには「物見塚」の名前の由来も載っていて、中世、この地を支配した今井氏の支族の居城であった今井城がこの塚の北方2㎞ほどを流れる霞川を渡った向こうの丘陵地帯にあって、少し距離がありすぎるものの、塚は今井城の防衛のための物見塚ではなかったか、と言われているようだ。

04 塚から北方 今井城の方向

このあたりは狭山茶の産地でもあるようで、周囲には茶畑が広がっている。
少し離れて振り返ってみると、敵の襲来を見張る物見塚としては高さが足りず、何だか頼りない感じもする。

05 茶畑から見た塚

ところで、中世、この地を巡る覇権は目まぐるしく移り変わったらしい。
今井氏は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で没落、代わりに東青梅の勝沼城を居城とする三田氏が台頭するが、永禄年間(1558~1570年)、三田氏も関東の覇権を狙う北条氏に滅ぼされ、その後は北条の家臣である平山氏が今井城から2㎞ほど西の藤橋城を居城としたそうである。
戦国時代に支配者が目まぐるしく変わることは殊更珍しいことでもないかも知れないが、油断すれば攻め滅ぼされてしまうような乱世であれば、城から離れた崖上に築かれた物見塚は、南から攻め来る敵をいち早く捕捉するためのものとして、有意義だったに違いない。

今あるこの塚はその当時のものではないのかも知れないが、そんな争いの絶えなかった時代の空気を僅かながらでも今に伝える貴重な史跡であることには間違いなかろう。

できればこのまま茶畑の中でずっと空を眺めていたいが、現実逃避はこれくらいにして、全く気は進まないが、そろそろ仕事に向かうとしよう。

<投稿 2020.5.11>

(参考資料)
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会
http://tokyo-iseki.jp/map.html#
青梅市郷土博物館HP
「今井城跡」 https://www.city.ome.tokyo.jp/site/provincial-history-museum/2825.html
「勝沼城跡」 https://www.city.ome.tokyo.jp/site/provincial-history-museum/2956.html
「日本の城巡り MARO参上 藤橋城」 http://maro32.com/藤橋城/





2018/03/28

町田市にある木曽の富士塚(東京都町田市 富士塚(提灯塚)、木曽一里塚)

町田へ行く機会ができた。

20年ほど前まで、町田には30年近く住んでいた。
昭和40年台後半、当時は庶民の「羨望の的」であったという「公団住宅」の抽選に当たり、調布のアパートから一家四人で憧れの「団地」に移り住んだ。
団地には商店街があって、お菓子屋、おもちゃ屋、本屋と、子供の心を釘付けにする魔法のような店ばかりでなく、喫茶店やスーパーマーケット、銀行まで全てが揃っており、なんとまあ便利で快適な街であることか、と子供心に思ったものだ。
近所にはそこかしこに公園や芝生の広場があったし、七国山という里山も近かったので、とにかく遊ぶ場所に事欠くことはなかった。テレビゲームやファミコンなどというものは中学生になるまでお目にかからなかったので、雨でも降らない限り、家で遊ぶなどという発想はなかった。毎日のように、全速力で学校から帰るや否や、玄関でランドセルを放り出しては、陽が落ちて友人の顔が見えなくなるまで外で遊びまわっていた。

かつては羨望の的であったはずのマンモス団地も、平成も30年を過ぎ、築50年を経てすっかり老朽化が進み、住人も高齢化が進んでいると聞く。そりゃそうだろう、子供だった私がとっくに五十路を迎えているのである。
自分が通った小学校、中学校が生徒数の減少で廃校になった、と聞いた時は、普段、ニュースで他人事のように聞いていた「母校が廃校になる」という感覚は、なるほどこういうものか、と妙に納得したものである。

すっかり前置きが長くなってしまったが、町田はそんな思い出深い場所なので、ウキウキしながら「東京都遺跡地図」を眺めていると、「木曽東」という場所に「塚」のマークがあることに気が付いた。
この塚は見覚えがあった。木曽の交差点の東側、周囲にまだ畑の残る中、料金が格安であった小さなクリーニング店の裏にひときわ大きな小山のようなものがあるのを、駅へ向かうバスの車窓から毎日のように目にしていた。当時は「塚」や「古墳」に興味はなかったが、見るともなく毎日のように目にしていたので、潜在的な記憶として覚えていたのであろう。

「東京都遺跡地図」には、塚の名は「富士塚(提灯塚)」とある。例によって「時代:不明」、「種別:その他(塚)」という、何とも曖昧な整理ではあるが、そうか、あの塚は「富士塚」だったのか、と思った。
あれからだいぶ経つので、もはや開発の波に飲み込まれてしまって残っていないかも知れないが、とにかく見に行ってみることにした。

<富士塚(提灯塚)>
すっかり拡幅されて見違えるようになった町田街道を北西に進み、木曽交番前で右折して細い道を北へ向かう。この道筋は、往古、「夷参(イサマ)」と呼ばれた座間から大沼を経て、「富士塚」脇をかすめて北上、小野路から多摩丘陵を越えて府中へと向かう、古代官道の痕跡とされる道でもある。
こんなところに病院なんてあったかしら、お、この銀行は覚えてるぞ、といちいち感動しながら進むと、左前方に見覚えのある大きな木立が見えてきた。

01 木曽富士塚(提灯塚)遠景

クリーニング店は見当たらなかったし、塚の周囲に広がっていたはずの畑もコンビニの駐車場になっていたけれど、幸いなことに、塚はどうやら昔の姿そのままに残っていた。

02 木曽富士塚(提灯塚)全景

塚をこれほど近くでじっくりと見るのは初めてであるが、大きさは直径20mほど、高さは3mほどはあるだろうか、記憶の中の塚よりも大きくて、塚上には祠などが立っているようである。

03 木曽富士塚(提灯塚)麓から頂上

20年振りの再開を祝してくれている訳でもなかろうが、折しも塚上の桜はちょうど満開で、西陽にうっすら赤く染まって風に揺れている。

04 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

南側に回って見ると頂上へは階段が続いており、上まで登ることができる。

05 木曽富士塚(提灯塚)南側塚上への階段

頂上は意外に広く、浅間社の石の祠と、石碑が二つ並んでいる。

06 木曽富士塚(提灯塚)塚上の祠、石碑

由来碑は漢文であろうか、難解だが、おおよその意味は、木曽三家(さんや)には富士塚があって、その高さは1丈5尺、広さは3畝、古より道に迷った旅行者がこの塚に登り、富士を見て方向を確かめたと云う、塚上には一本松と呼ばれた老松があり、梢は雲を凌ぎ、幹には洞があって獣が住んでいたという。樹下には浅間社の小祠があったが、文化4年(1807年)に失火で老松ともども一晩で焼失してしまったが、皆で相談して幼い(稚)松を植え、碑を建てた、といったようなことだろうと思う。富士塚と言っても、中近世に多く築かれた富士講に基づくものではないようだ。

07 木曽富士塚(提灯塚)塚上の由来碑

「今昔マップ on the web」で明治の地図を見ると、「一本松」と書かれた大きな塚/古墳マークが確認できる。

08 「今昔マップ on the web」より木曽周辺
(右上赤矢印が「一本松」こと富士塚、左下赤矢印のT字路西側に後述する木曽一里塚 「今昔マップ on the web」 明治39年測図二万分の一「原町田」より木曽周辺を拡大)

周辺の地形は、塚の東側が200m四方ほどの大きな窪地になっていて、調整池と呼ばれる人口の池があり、窪地周辺は縄文から平安時代にかけての土器や土師器などの包蔵地となっているようであるが、他に大きな高低差もなく、南を流れる境川と、北を流れる鶴見川にはさまれた標高100mほどの平坦地になっている。
南北に走る古奥州街道に隣接していて、以前見た鶴間の一里塚(鶴間大塚)とよく似ているが、こちらは一里塚としてではなく、方角を確認するための物見塚として語り継がれてきたのであろう。

「堅牢地神塔」というのは初めて見るが、元禄期以降に広まったとされる「地神(ジジン)講」、すなはち春分・秋分に最も近い戊の日は田の神と山の神が交代する日であり「土を動かしてはならない」とされ、畑仕事を休み、地神様をお祀りして大地の恵みに感謝する、という民俗信仰であり、大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。

09 木曽富士塚(提灯塚)塚上の堅牢地神塔

見上げれば、西陽に染まった桜と青空しか視界に入らない。

10 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

11 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

ところで、「木曽」の「三家」というのはこのあたりの字名であって、「三家」というのは近くのバス停の名前にもなっているので馴染みが深いが、その由来については耳にしたことがない。インターネットで検索しても特に見当たらないのだが、うっすらとした記憶では、何で読んだか、誰かに聞いたかも定かでないが、昔、このあたりには人家が3軒しかなかったのでその名がついた、といったことではなかったか、と思う。

一方で、「木曾」という方は「新編武藏風土記稿」にその名が見える。
「矢部八幡」という神社が市内の矢部町にあるが、昔は矢部のあたりも木曾村の一部であって、この神社に昔あった鐘の銘文によると、木曽一族がこの辺りに移り住んだためについた地名だそうだ。
因みにこの「矢部八幡」は別名「箭幹(やがら)八幡」と言い、古くは「木曽八幡」と呼ばれたらしいが、木曾氏(木曾義仲)が滅亡したために木曾の名を憚って「箭幹(やがら)八幡」と呼ぶようになったのだという。

<木曽一里塚>
ところで、富士塚から少し西に行ったところに、「東京都遺跡地図」には載っていないが、「木曽一里塚」という塚があるようなので、そちらにも行って見た。

12 木曽一里塚全景

一里塚と言うからには、塚が面したこの道も街道だったのだろうと思うが、古奥州街道は先ほどの富士塚脇の道であるはずだから、町田街道の旧道の一里塚かと思ったが、塚は町田街道の旧道には面していない。これは江戸初期の元和3年(1617年)に、駿河の久能山に祀られていた徳川家康の遺櫃を日光東照宮に移すために整備され、後に大山詣でにも利用されたルート、「御尊櫃御成道」に設けられた一里塚なのだそうだ。塚上の祠は日本狼を祀る御嶽山の「おいぬ様」こと「大口真神」の祠だそうである。

13 木曽一里塚解説

14 木曽一里塚前の御尊櫃御成道

「御尊櫃御成道」はこの塚の前を通って町田街道の旧道を左折して小野路方面に至ったらしい。ほぼ同じルートを辿りながら、古くからあったであろう三家の富士塚横の古奥州街道を通らずに、わざわざ別ルートを経由した、ということは、江戸初期には既に富士塚横の道は廃れてしまっていたのであろうか。
前述の明治の地図を見ると、確かに富士塚横の道沿いにはほとんど人家は描かれておらず、まさに「三家」状態のようである。大切な「御尊櫃」の御成に際して、何かと便利な木曾村中心部を通るルートが選ばれた、ということなのかも知れない。

今回は懐かしさのあまり、つい長くなってしまった。当時は知る由もなかったが、子供時代を過ごした懐かしい土地に刻み込まれていた、古から積み重ねられてきた歴史の「記憶」をこの年齢になって初めて知った。
出張先で浮かれてばかりおらず、もっと自らの出自の地で研鑚に励むべきかも知れない。


(地図)
木曽富士塚、一里塚地図



(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html




2018/03/05

雨の合い間の大塚跡(東京都八王子市 日向古墳、大塚八幡神社)

午後からの所用を早めに切り上げ、いつものようにクルマで帰路に着いた。
今日は朝からあいにくの雨模様であるが、少しだけ道草をして帰ろうと思う。

八王子市鑓水から始まる都道20号線の通称は「野猿街道」である。何と野趣に富んだ名であろうか、と以前から思っていた。
今日でもまさか野猿が出る訳でもあるまいが、大栗川が削った幅500mほどの谷あいを北東に向けて伸びている。谷と言っても左右の尾根との比高差は30~40mほどであるのに加え、街道沿いには瀟洒な住宅が立ち並んでいるので、クルマで走っていると、およそ「猿」や「山」、「谷」といったイメージとは程遠いのであるが、それでも柚木、堀之内を過ぎると街道の北側にはなだらかな丘陵が迫ってくる。
やがて突然、多摩モノレールの白く太い鋼鉄の軌道が頭上を横切る。街道の南側に見える駅の名前は「大塚・帝京大学」であり、このあたり一帯の字名は「大塚」となっている。

1995年に多摩地区の古墳を網羅的に調査した「多摩地区所在古墳確認調査報告書」という書籍に、この「大塚」という字名の由来と思しき古墳が載っている。
「日向(ひゅうが)古墳」という名のその古墳は、「大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部」に占地する、「直径13m、高さ2.5m」の「円墳」とある。
ただし残念なことに墳丘は「消滅」、主体部も「消滅?」となっていて、痕跡は残っていないのかも知れない。
インターネット版の「東京都遺跡地図情報」によると、日向古墳のマークは野猿街道の南側、「大塚八幡神社」の境内に付されていて、雨は止みそうにないが、古墳のあった跡地だけでも眺めて行こうと思った。

地図で見ると、神社のある一帯は、直径100mほど、高さ10mほどの円形の独立丘のような地形になっていて、神社はその最も高い場所に建てられているようだ。まさかこの丘全体が古墳、などということはなさそうだが、字名の「大塚」はこの独立丘を指すのではないだろうか。地形図で見てもほぼきれいな円形をしていて、まるで大きな塚のようにも見える地形である。

東側から丘を登って神社の駐車場にクルマを停める。

雨の中、あちこち古墳の痕跡を探すのも少し億劫なので、昇寛さんの「埼群古墳館」や挂甲の武人さんの「週末は古墳巡り」などを見てみると、本殿脇にある稲荷社の土台が往時の墳丘の痕跡ではないか、とされているようだ。

そうか、と思いもう一度外を見ると、ちょうど折しも運よく雨が止んでいるではないか。
日頃の行いを天の神様が見守って下さっていたのか(いや、多分そうではないと思うが)、絶好の好機である。

鳥居の向こう、一段高くなっているところに見えているのが大塚八幡神社の社殿で、その左脇に見えている赤い祠が稲荷社のようである。

01 大塚八幡神社遠景

まずは八幡様に、雨を止ませてもらったお礼と、古墳の痕跡を写真に撮らせてもらえるよう、両手を合わせる。

02 大塚八幡神社社殿

社殿脇の稲荷社は、基壇を石垣で四角く囲まれていて、大きさはそれなりに見えるのだが、高さの方はどうも2.5mもあるようには見えない。

03 大塚八幡神社稲荷社


駐車場に戻って南側から回り込むと、左手から盛り上がった土台がそのまま稲荷社の土台へと続いているようにも見える。

04 大塚八幡神社

左手には階段があり、稲荷社背後の寺院の墓所へと続いている。

05 日向古墳の墳丘痕跡?

06 日向古墳の墳丘痕跡?

階段を上って見ると、墓所にはたくさんの石仏や石碑が草々の合い間に静かに立ち並んでいて、何だかあれこれ詮索するのはどうにも憚られるような気がしてきた。

07 日向古墳の墳丘痕跡?

そう思った途端、今まで止んでいた雨が突然、再びパラパラと降り出してきた。
もうそこまででよかろう、と八幡様が仰っているのだろうか。

雨の中、墓所に向かって一礼し、続いて稲荷社、八幡神社にも頭を下げて、クルマに戻った。

少し雨脚が強くなり始めたようだ。夕方になって道路が渋滞し始める前に帰るとしよう。


(地図)
日向古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「週末は古墳巡り」 https://kofunmeguri.hatenablog.com/




2018/03/01

多摩川上流、丘陵上の首長墓墳(東京都八王子市 北大谷古墳)

昨年夏の夕暮れ、仕事が終わってまだ明るかったので、以前から気になっていた古墳を探しに行ったことがある。
ブログを始めて暫く経った頃、「古墳なう」さんから推奨頂いた「北大谷古墳」である。

「北大谷古墳」は多摩川上流域左岸の加住南丘陵上に築かれた古墳時代末期、7世紀前半の首長墓墳で、府中熊野神社古墳のそれをも凌ぐ傑出した規模の切石積み三室構造の横穴式石室を持ち、古く明治時代からその存在を知られた古墳だそうである。

八王子インターの南、小高い丘の上は農地になっていて、夕暮れの中、土の農道を進むと、遠くの農地ではあと片付けだろうか、男性の駆るトラクターのエンジン音が黄昏の丘陵上に響いていた。

見上げると、西の空は夕暮れの中、低く黒い雲が流れ、立体的で何とも奥行きを感じる光景だった。

01 丘陵上 昨年の夏、農地で見た夕景

1400年前の夕暮れも、果たしてこんな荘厳な光景だっただろうか。

流れる雲を見ながら、ふと思い出していた。
あれはいつのことだっただろう、だいぶ以前、ある温泉ホテルに仕事で単身、長期間泊まり込む機会があった。
あの時も季節は夏だった。
朝から晩まで、精神的にもハードな仕事だったが、仕事を終えた後は毎晩、営業終了間際の屋上大露天風呂に浸かった。
終了間際の露天風呂は人影も疎らで、毎晩のように「貸し切り」の大きな湯舟で星空を見上げながら、明日の仕事の進め方をあれこれ考えたものである。
とある晩、いつものように一人、風呂から夜空を眺めていると、向こうの山の端から見事な満月が、音もなく、静かに昇ってきたことがあった。
中空に明るく輝く月を見ていると、柄にもないが、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の旋律が聞こえてくるような気がした。


そんな、半ば忘れかけていたような出来事を思い起こしながら、「タンホイザー」を口ずさみつつ、その日はそこで暫くの間、流れて行く雲と沈む夕陽を眺めていた。

気が付くと周囲はすっかり薄暗くなっており、古墳探索はまたの機会、ということにした。


あれから季節は巡って今日は2018年の早春、だいぶ日差しが春めいてきたな、と思っているところに、八王子での仕事が午前中で片付いた。ちょうどよいので、帰りがけに北大谷古墳に寄ってみようと思う。

前回夕陽を眺めた農道を再び辿り、丘陵上を行くと、畑の向こう、地面が盛り上がって見えているのが墳丘のようである。

02 北大谷古墳遠望(北から)

以前は石室がむき出しになっていたらしいが、石材の傷みが激しいことから、現在は埋め戻されているらしい。
墳丘の周囲にはフェンスが巡らされており、立ち入りはできないように見えるが、オヤコフンさんのブログにもあるとおり、斜面を少し下ると解説板があり、さらに進むとフェンスが途切れ、墳丘に近づくことができる。

03 北大谷古墳現地解説

04 北大谷古墳墳丘 南西から

05 北大谷古墳墳丘 南から


近寄って見ると、墳丘のほぼ中央が縦に少し窪んで見えている。あのあたりが埋め戻された石室であろうか。

06 北大谷古墳墳丘 近景

07 北大谷古墳墳丘 近景

この古墳は古く明治32年に発掘が行われたが、発掘される以前は南側に石室が開口していたそうである。
発掘以前に盗掘を受けていたらしく、遺物は発見されなかったようだ。
その後、昭和8年、平成4年にも調査が行われた結果、墳形は直径39m、高さ2.1mの円墳若しくは方墳とされているらしい。

墳丘脇の斜面を登り、東側に回り込むと、墳丘は丘陵の頂が緩斜面となって下り出すギリギリのところを利用して築かれているのがわかる。墳丘はこちらから見るとそれほど高さを感じない。

08 北大谷古墳墳丘 北東から

この古墳の特徴は何と言っても周辺で同時期に築造された古墳を凌駕する規模の切石積みの横穴式石室を持つ、という点にあるそうだ。
石室の構造は前室・中室・玄室(羨道・前室・玄室)の三室構造で全長は10.01m、玄室は胴張り型で最大幅3.16mもあり、同じく複室構造で胴張り型の切石積み玄室を持つ武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳、多摩市稲荷塚古墳や白井塚古墳よりも全長、玄室幅とも遥かに大きいのだそうだ。

築造時期は稲荷塚古墳よりは僅かに新しいものの、熊野神社古墳などには先行するものと考えられているらしく、稲荷塚古墳が八角形墳、熊野神社古墳や天文台構内古墳が上円下方墳と特徴的な墳形であるところからすると、この北大谷古墳の墳形も単なる円墳・方墳ではないのではないか、などと思ってしまう。

熊野神社古墳のような葺石の痕跡は見つかっていない一方で、丘陵の北側は丘陵と墳丘を画するように周溝の痕跡が発見されているらしい。

7世紀前半と言えば、推古天皇の摂政であった聖徳太子が遣隋使を派遣、太子亡き後、朝廷内で蘇我氏が権勢を奮っていた、そんな時期である。
畿内では飛鳥寺や法隆寺などが相次いで建立され、古墳祭祀から寺院祭祀へと埋葬・祭祀の方法が移り変わろうとする過渡期にあたり、日本で古墳というものが造られた最期の時期でもあるようだ。
古くからの風習が新しく伝えられた文化に置き換えられようとしていた、そんな時期に、この地にこれだけの規模の石室を持つ伝統的な「古墳」を作った人物は、一体どんな人物だったのだろう。

古墳の規模からすれば、被葬者は多摩川上流域でもかなりの勢力を持った首長であったであろう、とされるものの、墳形や葺石の有無などの相違から、特殊な墳形で葺石を有する熊野神社古墳の被葬者とは身分が異なる人物、と考えられているらしい。

想像を逞しくすると、多摩川上流域を代々支配してきた首長(国造若しくは郡司?)として傑出した勢力を永らく維持しており、武蔵国府に中央から赴任している国司との関係も相応に有していて、中央の最新の情報が得られる立場にありつつ、仏教というものには警戒感を抱きながら、国司を凌駕する豊富な資金力を有するものの、残念ながら国司ほどの官位は有していないことから、上円下方墳や八角形墳などの築造が認められない、旧来からの伝統を重んじる在地豪族、といったイメージを抱くのであるが、いかがであろう。(古墳の主に怒られてしまうだろうか。)

それにしてもここは東京近郊であるにも関わらず、どこか懐かしい里山の雰囲気が色濃く感じられる場所である。
古墳の南西側は木立が途切れて眺望が開けていて、遠く八王子の市街地だろうか、人家が密集しているのが見えている。
木々の芽はまだ固いようだけれど、好天の高台の雑木林は陽だまりで暖かく、墓所というよりは桃源郷のように穏やかである。

09 丘陵上からの眺望

もしかすると、ここに古墳を築いた人物は、ここが後世、開発の手の及ばない、1400年経っても変わらず穏やかであり続ける、そんな場所であることが実はわかっていたのではないだろうか。

桃源郷のような丘の斜面で、少し春の気配のする風に吹かれながら、唐突に、そんなことを思った。


(地図)
北大谷古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「多摩のあゆみ 第137号 多摩川流域の七世紀代古墳」 2010年2月 財団法人たましん地域文化財団
「墳丘からの眺め 北大谷古墳」 http://massneko.hatenablog.com/entry/2017/10/01/000000





2018/01/07

鹿島大神の神鹿伝説 (東京都江戸川区 鹿見塚/鹿見塚神社、鹿島神社)

前回、潮来市にある大生西部古墳群、大生神社と鹿島神宮を巡る古代史の一端を紹介した際、「元鹿島」と言われる大生神社に祀られていた大生氏、藤原氏双方の氏神である「タケミカヅチ」の神が、神護景雲2年(768年)、常陸から奈良の春日大社に遷幸された、という話を紹介した。

遠く東国の鹿島(香島)から奈良までの鹿島大神の遷幸の途次、大神の杖であったお供の神鹿が病に罹り、里人の看病虚しく亡くなったため、その地に塚を築き手厚く葬られた、という伝承が伝わる地域があるらしい。
東京の江戸川区、「鹿骨(シシボネ)」という地域である。

江戸川区郷土資料室が発行する「解説シート『江戸川区の地名(1)鹿骨』」には、「地名の由来」として前述の伝承が紹介されていて、その際に築かれた塚を「鹿見塚」と呼ぶこと、「鹿骨」の地名はこの伝承に由来すること、そして、「塚は、今も鹿骨三丁目にある鹿見塚神社内に残っています。」ということが書かれている。

神護景雲2年に築かれた塚が、幾星霜、1250年の時を経て、開発著しい東京都内に何と今でも残っている、という記述を見て、アドレナリンが全開となった。居ても立っても居られず、翌日、休暇を取っていた妻を誘って早速見に行ってみることにした。

ところでその「鹿見塚」は、前述の「解説シート」によると、かつては7~8mの高さに土盛りされた塚で、太い老松が植わっていたそうである。いつの頃かその松も枯れ、周囲の木々も悉く伐採、塚も掘り返されたそうである。
「解説シート」には鹿見塚神社と鹿見塚の石碑の写真が掲載されているが、肝心な「鹿見塚」は映っていない。だがしかし、そんなはずはない、「残っている」と書いてあるのだ、現地に行けば必ず痕跡のようなものが残っているに違いないと思いながら現地へと向かった。

「鹿見塚神社」は思っていたよりも小さく、前沼橋という名の交差点の角にこじんまりとあった。

01 鹿骨鹿見塚神社

02 鹿骨鹿見塚神社

鳥居前の解説板には確かに「鹿見塚」と書いてある。
ほーら、やっぱりあるじゃないか、すげーすげー、神護景雲2年、1250年、どれ? どれが塚?
(アドレナリン全開のため暫く取り乱しますが、ご容赦下さい。)

03 鹿骨鹿見塚神社解説

境内には「解説シート」に載っていた「鹿見塚」の碑が建っており、石碑の周囲の地面に塚の痕跡を探す。どこ?どこ?痕跡どこ?

04 鹿骨鹿見塚

碑の後ろには大木の切り株があるので、これぞ老松の切り株に違いないと思いつつ、で、どこ? 鹿見塚、どこ?

05 鹿骨鹿見塚

いくら探しても痕跡らしきものは見つからない。改めて鳥居前の解説板を読み返してみる。
石碑自体は昭和42年に建てられた、とあるが、解説文冒頭の「この鹿見塚」の「この」は、一体「どの」塚を指しているのであろう。もしやこの石碑を指しているのだろうか。

諦めがつかず、なおも境内でうじうじしていると、インターネットを見ていた妻から「近くの鹿島神社にも何かある」旨の啓示を頂いた。「鹿島神社」はここから1kmほど北にある、やや大きな神社である。

06 鹿骨鹿島神社遠景

鹿見塚の伝承は「鹿島神社」前の解説板にも記載されていた。

07 鹿骨鹿島神社解説

鹿島神社は、村人たちが鹿見塚の伝承を奇縁として、武甕槌命、天照大御神ほかの神を勧請して建立された、と伝わるそうであるが、明治以前は「五社神明社」と呼ばれたとおり、戦国時代にこの地に入植した五つの一族の氏神を合祀したのが始まりのようである。

08 鹿骨鹿島神社境内

本殿と拝殿が少し離れているようにも見える上に、本殿の下が少し高くなっているようにも見えるので、この神社が鹿見塚の上に建てられているのではないか、とも思いたくなる。

09 鹿骨鹿島神社本殿

拝殿脇には神鹿の像が建っていて、像の背後には戦争の慰霊碑だろうか、いくつかの大きな石碑が若干高くなった地面の上に建てられているけれど、さすがに神様のお供の神鹿の眠る塚上に碑を建てるようなことはしないだろう。

10 鹿骨鹿島神社神鹿像

11 鹿骨鹿島神社神鹿像背後の碑

よくわからないまま、ふと社殿を見上げれば、明治の社殿改築時のものであろうか、墨文字の由緒書きが掲げられている。旧仮名遣いで読みづらいが、中ほどに「則チ其ノ塚今ニ村位巽之方ニ存セリ」の文字が見える。
12 鹿骨鹿島神社由来書

「巽」と言えば南東であり、ここは鹿骨村の北辺に当たるようなので、やはり鹿見塚があった場所は先ほどの鹿見塚神社の方角のようではある。

「鹿骨」は古くから人々が生活していた地域で、正応3年(1290年)の銘のある板碑を始め多くの板碑が見つかっているらしい。それほど古くから集落が形成された歴史深い土地で、人々の暮らしを見守ってきた神鹿である。私のような不心得者には、そう簡単に姿を見せてはもらえないのだろう。

13 鹿骨鹿島神社から見た夕陽


(地図)
鹿骨周辺地図



(参考資料)
「解説シート 『江戸川区の地名 (1) 鹿骨』 」 江戸川区郷土資料室




2018/01/02

「鶴舞う里」の大きな一里塚(東京都町田市 鶴間大塚)

正月休みに座間の実家へ顔を出そうと思うが、少し早めに自宅を出て、寄り道をしてから行こうと思う。

首都高から保土ヶ谷バイパスで横浜町田インターを過ぎ、国道246号のバイパス手前の交差点を左折して246の旧道に入る。高校生でバイクの免許を取った頃はまだバイパスは開通しておらず、「246」と言えばこの片側一車線の道しかなかった。今でもこちらを通ることが多いのは、旧道が好きなこともあるが、年を取って「郷愁」が年々強くなっているせいもあるのだろう。
武蔵と相模の国境とされる境川に向かって、緩やかな南向きの斜面をゆっくりと下っていく景色は、空が広くて気持ちが落ち着く眺めだ。
赴きのある大谷戸の集落で246の旧道と南北に交わる古い道との交差点に立つ庚申塔なども風情があってよい。

この南北に真っすぐに走る道は「戸塚道」と呼ばれ、瀬谷を経て泉区の飯田から戸塚方面へと至る古くからの道で、飯田までのルートは鎌倉街道上道とも言われているようだ。
大谷戸からこの「戸塚道」を少し北上したところに、「鶴間大塚」もしくは単に「大塚」と呼ばれる大きな塚が現存している。

戸塚道は今では住宅地の中のごく普通の生活道路になっており、大塚はその道路に面した東側に残っている。

02 鶴間大塚

「鶴間」は町田市であるが、隣接して相模原市に「上鶴間」、大和市に「下鶴間」という地名がある。分割・編入が行われる以前はいずれも相模国高座郡だったそうだ。
「ツルマ」の語源はいくつかあるようだが、源頼朝が富士に鷹狩りに行くために通りがかったときに鶴が舞うのを見た、というもの、あるいは義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた、という伝説もあるらしい。

さて、塚であるが、とても大きくて立派な塚であるが、この塚についての情報は意外と少ない。

「東京都遺跡地図情報」では時代は「[中世]」、種類は「その他(塚)」となっているので、時代不明の塚の一種という、何だかよくわからない整理になっている。
塚の所在する鶴間町内会のホームページによれば、塚の高さは5mほどで、地元では「一里塚」とされているようだ。直径は10mほどはあるだろうか。

01 鶴間大塚


塚の頂には、火難及び盗難除けを祈願して祀られた奥多摩の御嶽信仰に由来する小さな石祠が建っている。

03 鶴間大塚

04 鶴間大塚 頂上の御嶽社祠


塚の中腹には「一里塚 鶴間」と彫られた新しい石碑が建っている。

05 鶴間大塚 中腹の一里塚碑

周囲はすっかり開発が進み、住宅や企業が立ち並んでいるが、少し以前までは、あたり一面、畑が広がっていたようである。「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」という40年ほど前に発行された書籍には、畑の向こうに鬱蒼とした木立を背負って聳える大塚の写真が掲載されている。
「今昔マップ on the web」で見ると、一面に桑畑の記号が広がる中、南北に真っすぐ伸びた街道に面して、塚のマークが見えている。

06 明治39年 2万分の1「長津田」より(今昔マップon the webより)
(中央赤矢印が鶴間大塚、その左脇を南北に通るのが戸塚道こと旧鎌倉街道上道、画面右上から斜めに横切っているのが大山街道こと国道246号の旧道、画面左下に黒く境川 今昔マップon the web 明治39年測図、42年製版「長津田(二万分の一)」より該当部分を拡大)


このあたりの地形は、500mほど西を境川が南北に流れる高さ15mほどの高台の上であるが、塚がある場所から高台の縁までは300mほど離れている。一里塚にしては大きくて背も高いので、もとは古墳だった可能性も・・・と思っていたが、立地からするとやはりこれは一里塚なのであろう。

とは言え、少し合点が行かないのであるが、これが一里塚であるならば、道の反対側にもあったようにも思うが、「今昔マップ on the web」で見ても、明治39年の地図には道の反対側には何も描かれていない。道路拡幅に伴い、一里塚の片方が削平された、という例も多いように思うので、不思議なことではないのかも知れないが、この道はどうも拡幅されたようには見えない。
桑畑への開墾で削平されたのであれば、両方とも削られてしまうようにも思う。
さらに、これが一里塚なのであれば、地図上を街道沿いに南北へ辿れば、隣の一里塚も残っているのではないか、と思い、いろいろ探してみたのだが、周辺には一里塚やその跡地、伝承などもさっぱり見当たらない。

一里おきに道の両側に一里塚がある、というのは江戸時代に整備された街道の特徴なのであろうから、鎌倉時代までに自然発生的(?)に成立した鎌倉街道の一里塚は、一定間隔にある訳でも、道の両脇に必ず塚がある、という訳でもないのかも知れない。

そうだとすると、こうした一里塚は、たまたま誰かが、何かの目的で、街道沿いに築いた塚、ということなのだろうか。
(そうではなく、昔からそこにあった古墳だったんじゃないの?と、ノドまで出かかっているのであるが・・・。)

いずれにしても、果たして、この塚の正体は一体・・・。


(地図)
鶴間大塚地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「鶴間町内会ホームページ」 http://www.tsuruma.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」 芳賀善次郎著1978年10月 さきたま出版会
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎著 2007年7月 風人社




2017/12/12

歴史濃い拝島の富士塚(東京都昭島市 日吉神社富士塚)

日頃の行いがよっぽど悪いのだろうか、前回に引き続き、今日もまた仕事の打ち合わせがキャンセルになった。

ここは昭島市拝島町で、すぐ近くには以前から行ってみたいと思っていた日吉神社の富士塚がある。仕方がないので、(と言いつつ何故かうれしそうではあるが・・・)、この富士塚を見に行こうと思う。

旧奥多摩街道は、国道16号線が通る河岸段丘よりも一段下を通っているので、街道の北側には高い崖が見えている。
崖に沿って街道を西へ進むと、拝島大師の大きな楼門が見え、その先の路地を北へ入ると、大日堂の仁王門と日吉神社の鳥居が見えて来る。大日堂と日吉神社は崖の上に建てられている。

01 拝島日吉神社

「大日堂境域及び日吉神社境域」は東京都の史跡に指定されていて、貴重な文化財が数多く保存されている。
大日堂の本尊、「木造大日如来(金剛界)坐像」は藤原時代の作とされ、仁王門に並び立つ金剛力士像も鎌倉期、正和3年から4年(1314年から1315年)の作とされている。
崖下には「おねいの井戸」と呼ばれる室町時代の眼病平癒伝説の伝わる井戸があって今でも清冽な水を湛えているし、境内の藤棚はなんと樹齢800年だそうだ。

02 拝島大日堂、日吉神社

他にも、日吉神社の例祭である山王祭で行われる「榊祭」が都の無形民俗文化財に、三台の人形山車が市の有形民俗文化財に指定されており、拝島という町は何とも歴史の残り香が濃厚な町である。

こうした文化財も是非見ておきたいが、まずは崖上へと続く石段を上り、日吉神社の社殿で神様に手を合わせ、日頃の行いを詫びることにする。

03 拝島日吉神社

さて、目指す富士塚は本殿の左隣、さらに一段高くなった、まさに崖の縁にある。

04 拝島日吉神社富士塚

「あきしまの歴史散歩」という昭島市発行の書籍には境内の見取り図が掲載されていて、それによると富士塚の直径は東西20m、南北25mほどで、西側が道路で削られたような形をしている。

06 拝島日吉神社富士塚

高さは大人の背丈ほどであろうか、富士塚と言っても溶岩が配置されているようには見えず、頂上にも祠などがあるようには見えない。

07 拝島日吉神社富士塚

北側には大きめの河原石のようなものが積み重なっている。

08 拝島日吉神社富士塚

明治時代には富士塚の南側に登山路のようなものがあったようだが、金網で周囲を囲われていて、人が立ち入るような雰囲気でもない。登山路があったと思われる方へ回り込んでみると、南側は崖の斜面となって落ち込んでおり、こちらから見るとだいぶ高さがあるように見える。

09 拝島日吉神社富士塚

大日堂の藤原仏は平成の修復中らしいので崖下に下り、階段脇の「おねいの井戸」に行ってみた。

10 拝島日吉神社おねいの井戸

滝山城主北条氏照の家臣、石川土佐守の娘の眼病平癒を祈願してこの井戸の水で目を洗ったところよくなった、という言い伝えがあるそうだ。井戸には今でも冷たそうな水が湛えられていて、井戸端には蝉の抜け殻をいくつもつけた不動明王が鎮座している。

11 拝島日吉神社おねいの井戸 蝉の抜け殻をつけた不動明王

あたりには公園で遊ぶ小学生の歓声が響いている。
晩秋の日差しを受けて、仁王門の仁王様も池の紅葉も穏やかである。

12 拝島大日堂仁王門

13 拝島大日堂仁王門横の池



なお、最後にひとつ、個人的に気になる話を付け加えておきたい。
(いつもの「これ、古墳では?」的な話なので、興味のない方は読み飛ばして頂いて・・・。)

拝島橋が架けられる以前、戦前までは今よりやや上流に「拝島の渡し」があったらしいが、何とこの拝島の渡し、戦前まで「路線バスが渡し船で川を渡っていた」という。
川越と拝島をバスで結んでいた「多摩湖バス」という会社が昭和13年に路線を八王子まで延長したが、架橋されていなかったので、拝島の渡しを船でバスごと渡っていたそうだ。「あきしまの歴史散歩」には小さなボンネットバスが船で川を渡っている珍しい写真が掲載されている。

ところで、当時の拝島の渡しはどのあたりにあったのだろうかと、いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で昔の地図を見ていたところ、明治時代の地図上に二つ、ちょうど現在の拝島橋で多摩川を渡った右側あたりに「古墳/塚」の記号のようなものがあることに気が付いた。

拝島橋周辺
(右下が拝島の渡し、黄色線が現在の拝島橋と国道16号のルート、赤矢印が塚状地形記号、明治42年測図、大正2年製版「拝島(二万分の一」より該当部分を拡大)

「多摩地区所在古墳確認調査報告書」でも「東京都遺跡地図」でも何ら言及されていないが、ここから西に1kmほどのところには中世、奈良から平安時代の塚(「昭島市No.32遺跡」)があるようだし、東に800mほど行った一段上の段丘上には「浄土古墳群」があるので、ここに古墳や塚の類いがあったとしてもおかしくはないと思うのであるが、どうだろうか。

なお、明治の地図には、現在昭島市内で確認されている浄土古墳、経塚下古墳、大神古墳はいずれも記載されていないが、浄土古墳の発見は昭和50年、経塚下古墳は昭和51年、大神古墳は平成7年のことで、それぞれ発掘によって存在が確認されるまで地下に埋もれていたことになるので、明治時代には認識されていなかったのであろう。

とすると、明治の地図に残されている二箇所の塚状地形の痕跡は、果たして何だったのだろう・・・。
(当然、「古墳!古墳!」と当人は思っているのであるが・・・。)


(地図)
日吉神社富士塚地図



(参考資料)
「あきしまの歴史散歩」 2017年3月 昭島市教育委員会
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#




2017/12/05

小山を転用した新宿の富士塚(東京都新宿区 成子天神社富士塚)

前回に引き続き、中野坂上周辺を訳あって散策している。

前回紹介した「宝仙寺」であるが、江戸名所図会によればここには「馴象の枯骨(じゅんぞうのここつ)」、なるものが伝わっているという。

享保13年(1728年)、ベトナムからの朝貢品として牡牝二頭の象が海を渡り、将軍吉宗の謁見を受けたという話には聞き覚えがあった。鼻の長い象を初めて見た江戸の人々はたいそう仰天したそうだ。
象はそれから暫く浜御殿で飼育された後、この中野村の源助という者に下げ渡され、このあたりに建てられた象小屋(象廐:キサヤ)で飼育されていたらしい。象は寛保2年(1742年)に亡くなったが、その牙が戦災をくぐり抜け、一部が今でも宝仙寺に残っている、という。

残された象牙を見るのは少し忍びないが、象が飼育されていた象廐は、中野坂上の交差点の南西200mほどのところにある幼稚園のあたりにあったそうだ。

01 中野坂上象廐跡

02中野坂上象廐跡

少し前に亡くなった井の頭公園の象の「はな子」は、絵本になるほど多くの人々に愛されたそうであるが、江戸時代、遠い異国に連れて来られた象は一体どんな気持ちで我々日本人を見つめていたのだろうか。

再び坂上の交差点に戻り、青梅街道を新宿方面に下る。

地形図を見ると、中野坂上の交差点は西から細長く伸びる標高差8mほどの舌状台地の先端にあるためか、交差点から四方へ伸びる道は、西へ向かう青梅街道以外は全て下り坂になっている。

東側の崖下を流れるのは神田川で、古くはここが豊島郡と多磨郡の境であったらしい。

神田川にかかる淀橋には、自らの財産の隠し場所を他人に知られまいと、中野長者鈴木九郎が使用人の命を奪った、という伝説が伝わっている。行きに一緒に橋を渡った使用人の姿が帰りには見えなくなったので、「姿見ずの橋」と呼ばれたそうであるが、鷹狩りでこの地を訪れた将軍家光がこの不吉な話を嫌い、淀の流れを思い起こさせるので、以降、淀橋と呼ぶように、と命じて以降、この橋は淀橋と呼ばれるようになったそうだ。

03 淀橋


何となく背後を気にしながら淀橋を渡ると新宿区に入る。青梅街道沿いに立ち並ぶ高層マンションの向こう側へ回ると、成子天神社がある。

<成子天神社富士塚>
成子天神社は学業の神様である菅原道真公を祀る神社で、周辺の再開発に伴い平成26年に再整備されたそうで、境内はすっきりと明るく、清潔な感じの都会的な神社であるが、本殿(拝殿)の向こうにマンションが見えているのは、何だか見慣れない光景ではある。

04 成子天神社

この場所は、神田川が南北に削った幅500mほどの谷に面した高さ5mほどの段丘の縁に位置しており、もともと「大神宮」と呼ばれる神社が古くから祀られていたらしい。
平安時代、菅原道真公が亡くなった際、その生前の姿が彫られた像を都より持ち帰り、この地に祀ったのが神社としての始まりとされるようだ。
本殿でお詣りを済ませた後、目指す富士塚は左奥、境内の北西隅に周囲をすっかり高層ビルに囲まれた状態で残っている。

05 成子天神社富士塚

高さは12m、新宿区では最大の富士塚で、大正9年に境内に残されていた「天神山」という小山を富士塚に転用して築かれた、とある。

06 成子天神社富士塚解説

登山口は解説板の隣にあり、開門時は誰でも上ってよいようだが、いざ上ってみると、下から見上げる以上に高く、そして大きい。

07 成子天神社富士塚

08 成子天神社富士塚


ところで、解説板にもあったように、もともとここにあったという「天神山」は一体どういう性質の「小山」だったのだろうか、と思う。(要は「古墳」だったのではないか、と期待を交えて勘繰っているのである。)

ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」には、富士塚に転用される前の天神山に関する「豊多摩郡史」の記述が引用されていて、それによると梅の木などが植えられた眺望のよい小山だったようだ。

この「天神山」が自然地形に起因する山であったのか、それとも人為的なものだったのか、決め手となるものは残されていないようであるが、明治42年(富士塚築造前)の地図を眺めると、現在富士塚のあるあたりに古墳/塚を表す記号のようなものが見える。もしかするとその当時、天神山は自然地形ではなく、何等か人為的なマウンドとして認識されていたのかも知れない。(これにはかなり個人的な「期待」が含まれていて、冷静で客観的な判断はついぞしていない。)

ついでに視線を前回の宝仙寺三重塔の「梵塔」記号に移すと、そのすぐ左下(南西)にも、同じように「古墳」記号のようなものが描かれているように見える。(これも同じく全く恣意的な「希望」ではある。)

09 明治42年地図(成子天神社周辺)

10 明治42年地図(中野三重塔周辺)

(著作権の問題などがあるようなので、必要な部分だけを拡大。上が成子天神社富士塚のあたり、下が中野坂上の宝仙寺三重塔周辺。赤矢印が「古墳/塚」記号?いずれも明治42年測図、大正2年製版「中野(二万分の一」より。)

前回も引用した「都心部の遺跡」という調査報告書には、古い時代の地図などに残されている古墳記号に関する調査結果なども掲載されているが、富士塚転用前の天神山については特段言及されていない。
「東京都遺跡地図」でも成子天神社の富士塚については特段の記載は見当たらないところからすると、やはり「天神山」が人為的なマウンド(というか古墳)であった、という可能性はないのかも知れない。

だがしかし、永遠に失われてしまった在りし日の風景を、地形図や古記録から自分勝手に妄想する、こんな想像のひとときが、また、楽しいのである。

11 成子天神社


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/



2017/12/05

中野七塔の痕跡を求めて(東京都中野区 塔山古墳群)

「忙中閑あり」とはこういう時に使う言葉だろうか。

大事な仕事の打ち合わせが、先方の理由で突然キャンセルになった。
早起きして久々の通勤電車に揺られ、中野坂上までやってきたのであるが、午前10時にしてぽっかりと時間が空いてしまった。
さて、この時間、一体どうしたものか。

考えてみると、中野坂上はたいそう久しぶりである。
会社勤めをしていた頃、山手通りはクルマでよく通ったものだが、当時はまだ地下に首都高を通す前で道幅も狭く、確か交差点にもこんなに高いビルは建っていなかった。山手通りと青梅街道の交差点はいつもひどく渋滞していて、遥か彼方まで延々と伸びる赤いブレーキランプの列を見晴るかしては辟易としたものである。

さて、「東京都遺跡地図」を見ると、交差点の北東、中学校の校庭辺りに「塔山古墳群」という名の古墳跡があるようだ。「塔山」と言うのも少し気になる地名であるので、古墳は残っていないようだが行ってみることにした。

<塔山古墳群跡>
山手通りのすぐ東側に区立中学校の校庭が見えている。金網越しに学校の校庭を撮影するのはどうにも後ろめたい感じがするが、昔はここに古墳があったのか、と思うとやはり感慨深い。

01 中野坂上 塔山古墳跡

昭和60年3月に東京都教育委員会から発行された「都心部の遺跡」という調査報告書には、「塔山古墳」として、1号から5号までの古墳が掲載されている。このうち1号墳、2号墳は直径15~20mの円墳とされ、鉄釘や直刀が出土したと書かれている。残念ながら、昭和60年の調査の時点で既に5基とも「湮滅」していたようで、古墳の痕跡は何も残されていないようであるが、学校になる前はどんなところだったのだろうか。

中学校の敷地の西側には小さなお堂があって、中には庚申塔だろうか、キノコのような笠を乗せた石造物が祀られている。

02 中野坂上 庚申塔?

その隣、中学校の敷地の北西隅に「宝仙寺三重塔跡」の碑が建っている。

03 中野坂上 中野宇三重塔跡碑

「中野村の飯塚惣兵衛夫妻が施主となり、寛永13年(1636年)に建立」とあり、どうやら「塔山」の地名はこの塔に由来するもののようであるが、昭和20年の空襲で惜しくも焼失するまで、まさに現在の中学校の校庭に江戸時代の三重塔が建っていたようである。

「今昔マップ on the web」で明治時代のこの場所を見てみると、山手通りがまだないことを除けば、地割は今とほとんど変わらないようであり、一面に針葉樹林の記号が点在する中、中央に「梵塔」の記号が戦前まで描かれている。

そのまま山手通りに沿って北上すると、道は下り坂になっていて、坂道を下った谷底には戦前までは桃園川が流れていたようである。今は暗渠になっているのか、川筋が緑道になっており、先ほどの三重塔を描いた江戸名所図会の挿絵が飾られていた。

04 中野坂上 中野三重塔

今ではすっかり建物が立ち並んでいて見通しが利かないが、昔はこの川筋からも台地上に三重塔が、もっと古くは古墳群が仰ぎ見えたのだろうか。

ところで「宝仙寺」は現在、三重塔跡の石碑より500mほど西にあるが、明治42年の時点でも既に現在と同じ場所、西方に位置している。
宝仙寺と三重塔の関係がいまひとつ腑に落ちないが、江戸名所図会でも「明王山寶仙寺」と「中野の(三重)塔」とは別の項目になっており、挿絵も別々に描かれていて、三重塔については「中野七塔」という見出しで、次のように書かれている。

「いまその所在をしるべからず。ある人いふ、三所ばかりは知れてありとぞ。俚諺に、中野長者昌蓮、高田より大窪までの間に、百八員の塚を築くといひ伝ふ。ここに七塔といへるもその類のものならんか。また中野の通り(青梅街道のことか?)の右側、叢林のうちに三層の塔あり。七塔の一つならんか。伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして・・・(略)。」

改めて江戸名所図会の中野の塔の絵を眺めれば、塔の右奥に小山のようなものが書かれている。注書きもないので、おそらくこれは単なる飾りのような絵の背景の一部なのであろう。

だがしかし、古墳好きの妄想としては、その昔、このあたりに多く点在した古墳や塚の上に後世、それぞれ庚申塔や宝篋印塔の類いが立てられ、誰言うとなく「中野七塔」と呼ばれたものの、戦乱で荒廃するなどしていつしか人々の記憶から忘れられてしまったが、それでもその名残のようなものが三重塔の傍らにあって、書き手もそれがどうにも気になって挿絵に描き込んだのではないか、などと思ってしまう。

区立中学校の西、山手通りを挟んだ反対側には、「白玉稲荷神社」の祠がひっそりと建っている。

05 中野坂上白玉稲荷神社

古くはこの神社も宝仙寺の境内に祀られていたらしい。

06 中野坂上白玉稲荷神社鳥居解説板

舗道に面した場所には空襲で折れてしまったのか、大きな石碑が忙しなく行き交う人々を静かに見守っていた。

07 中野坂上白玉稲荷神社 石碑


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月