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2018/10/19

川崎市内に残る中世の十三坊塚(2) (神奈川県川崎市 野川の十三坊塚?)

非常事態宣言は解除されたけれど、東京などでは一時期よりも感染した方の数は増えている。南米やロシアなどでは深刻な状況になりつつあるらしい。当分の間、こうした未知のウィルスとの闘いは続くのだという人もいるし、傲慢になった人類に神様が罰を与えているのだ、という人もいるけれど、雨はいつかは上がるものだし、夜明けの来ない夜はない、という歌だってある。
夜明けを信じて、今はとにかく謙虚に、前を向いていようと思う。

前回に引き続き、今回も川崎市宮前区内の十三塚伝承地である。

長尾の十三塚から南東に5㎞ほど、現在は開発されて野川南台団地が立ち並んでいる台地上の一帯も、古くは「十三本堂」と呼ばれた土地だそうだ。
団地の南側を画する台地上の道は「南の横大道」と呼ばれた古道で、中原街道から分岐して標高差30mほどの台地上に上り、野川を通ってそのまま西へ進み、打越でいったん台地を下りた後、再び上り直して有馬古墳の目前を通り、有馬9丁目で矢倉沢往還へと至る、尾根上を行く見晴らしのよい道で、鎌倉街道中ツ道の支路ではないか、とされる道でもある。

この台地上は中世、鎌倉幕府の有力御家人であった和田一族が支配していたとされるらしく、台地下を東西に流れる有馬川に面した南向きの崖地には和田八幡宮が鎮座している。このあたりは現在でも和田一族の末裔の方々が多く暮らしているのだそうだ。
和田八幡宮の300mほど東、南から台地に向かって、「篭場谷(ろうばや)」と呼ばれる深い浸食谷が食い込んでおり、この浸食谷を望む台地の縁、南の横大道のすぐ南側に、15m四方ほどの大きな土のマウンドがある。

01 十三坊塚とされるマウンド

宮前区の発行する「歴史ガイドまち歩き」では、この大きなマウンドが「十三坊塚」となっていて、解説文でも「以前、13の塚が並んでいたと伝わるが、現存する塚は一つである」とされている。

02 十三坊塚とされるマウンド

これを読むと、まさしく目前のこのマウンドがかつての十三塚の名残、「現存する一つ」であって、おそらくは東西に走る南の横大道に沿って、往年は十三基の塚が並んでいたのだろう、と思っていた。
しかしながら、何となく腑に落ちない気もしていた。

天保5年(1834年)に発刊された「江戸名所図会」には、まさにここ、野川村の十三塚が挿絵付きで次のように紹介されている。
「十三塚 土人は十三本墓と呼べり 野川村の耕地の中ここかしこに散在せり 雑樹茅草茂れり 相伝ふ新田左兵衛介(新田義興)江戸遠江守のために伐たれて矢口の渡しにて亡びたまひしとき随ふところの家臣の墳墓なりといへども詳らかならず」

03 江戸名所図会「十三塚」
(「江戸名所図会 巻之三」、「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館より)

十三塚は「ここかしこに散在」とあり、挿絵でも、広い野原のあちらこちらにポツン、ポツンと、樹々を頂いた塚が点在している様が描かれている。
前回紹介した「長尾の十三塚」は、典型的とされる十三塚の配列、すなわち村境の街道沿いに一列に並んでいた、とされるし、また、ここから東に第三京浜をわたった久末神社の南方、同じ読みの「籠場谷(ろうばや)」やその東の「伊ノ木」にあったとされる十三塚も同様に、整然と一直線に並んでいた、とされるのだが、ここ、野川の十三塚はそうではなく、「名所図会」によればここにあったのは整然と一列に並んだ十三塚ではなかったようである。

さらに、文政13年(1830年)に完成したとされる「新編武藏風土記稿」では、次のように書かれている。
「十三本堂 中程なり 又十三菩提とも十三本塚とも呼り 古は古塚十三ありしと云 今は其状のみ残れり 中古此所より甲冑の朽しものを堀出せしと云」

「風土記稿」では「昔は十三の古塚があったというが、今ではその名残しか残っていない」とあるので、当時既に十三塚は僅かな名残しか残っていなかったのかも知れず、そうだとすると、「名所図会」の挿絵のように明確に塚が点在していた、といった光景は、もしかすると「名所図会」では観光案内として幾分かの脚色が加わっているのかも知れないな、などと思わないでもない。

なんとなく腑に落ちないまま現地を訪ねてみたのだが、折しも地主の方が丹念に落ち葉を清掃していて、写真を撮りたいのだが、と尋ねると無言で小さく頷かれた。見ると、マウンドの脇では小さな石の仏様が合掌していらっしゃる。

04 十三坊塚脇の仏様

これを見れば、このマウンドが、点在した十三塚の名残であろうと、整然と並んだ十三塚の名残であろうと、もしかするとこの方も和田一族の末裔かも知れないが、とにかく大切なことは、今なおこうして念入りに手入れがなされていて、小さいながらも仏様も祀られている、という事実であろう。少なくとも私のような赤の他人がとやかく詮索すべきことでないことだけは確かである。

ここで話を終わらせておけばよかったのだが、帰宅してから、以下、無粋な詮索をしてしまった。

このマウンドのことが気になって、前回も参考にした、日本常民文化研究所が昭和54年に発行した十三塚に関する報告書を読んでいると、次のような記述があった。
すなわち、ここ、野川の十三塚は、地元では古くから「十三ボディ(菩提)」と呼ばれていたが、調査を行った昭和54年時点では既に「塚は確認できない」とある。
さらに、この地域の文化財調査に精通していたとされる新井清氏が昭和29年に十三塚を撮影しており、その場所は下図①の場所であった、という。さらに新井氏は下図②にも十三塚の名残があった、とし、さらにもう一人、地元在住の古老 金子氏も、下図③、④に十三塚の名残の塚があった、と証言したという。

新井氏が撮影したという①の塚の写真は、白黒で、こんもりとした草叢が写っており、その大きさは比較するものが写っていないので判別し難いが、少なくとも、歴史ガイドが「十三坊塚」としている今日見たマウンドとは別のもののように見える。また、金子氏が証言した③の塚は、高さ3m、面積にして25㎡(ということは5m四方ぐらい?)ほどあったそうで、これも「十三坊塚」のマウンドとは規模感が違う気がしないでもない。

05 野川南耕地 十三坊塚周辺の十三塚跡

①~④の4基の塚は一列に並んでいる、という感じではなく、むしろ「名所図会」のように点在しているように見えるし、なおかつ、昭和54年の時点でこれらの塚は既に確認できなくなっていた、というのである。
位置的に見ても、今日見た「十三坊塚」とされるマウンドは上記①~④とは場所が違っていて、最も近い④からでも南西方向に100mほど離れている。

調査報告書では、文末になお書きで、「④の西、約120mぐらいのところに、径16.7×12.6メートル、高さ1.85メートルほどの盛り土《塚》がある。私は、ながいことこれが十三塚の一つであるとばかり信じてきたが、新井・金子両氏ともその点については明確に否定された。」と付記している。
もしこの「盛り土《塚》」が、「十三坊塚」とされるこのマウンドを指しているのだとすれば、少なくとも前述の調査では、このマウンドは十三塚の名残ではない、と結論付けられたことになる。
ただし、報告書では上記に続けて、「発掘調査したわけでもないので、古墳であるとも断言できない。」と結んでおり、この「盛り土《塚》」の正体が何であるかについてまでは言及していない。

もしこの「十三坊塚」とされるマウンドが、古くからある「盛り土《塚》」なのであれば、①~④の塚と同様、前述の新井氏、金子氏ともに、それが何であるか知っていてもおかしくなかったのではないか、と思う。①~④の塚、しかもおそらくは「十三坊塚」とされるこのマウンドより小ぶりであったであろう塚に興味を持っていた二人が、それよりも大きなこのマウンドを認識していなかった、としたら、それは一体何故なのだろう。
報告書でも、わざわざ「盛り土《塚》」と表記している点や、①~④の塚とは別に、文末になお書きで付記してあるところなどからすると、調査の結果、残念な結論となってしまったが、筆者としても、永い間、十三塚の名残と信じてきたこのマウンドを軽んじることができず、そうした特別な思いを後世の研究に託したかった、ということなのかも知れない。

ところでこのマウンドは、グーグルマップでは、「野川南台和田古墳」として登録されているので、もしかすると上記昭和54年の調査後、発掘調査などがあってこれが古墳であることが確認されたのかと思い、「川崎市地図情報システム」でこの地点の遺跡登録の有無を調べてみたのだが、この場所には特段、古墳・塚としての登録は見当たらなかった。

万策尽きたかな、と思いながら川崎市市民ミュージアムの調査報告書にある「橘樹郡内の古墳一覧表」を見ると、そこには「野川古墳群」としていくつかの古墳が掲載されており、その中に「十三菩提古墳」という古墳が挙げられていて、やっぱりここがそうか!と全身の毛穴から一瞬、アドレナリンが噴き出しかけたが、よく見ると墳形・規模は「-」となっていて「不明」とも書かれておらず、存否は「×」(おそらく「現存せず」の意)となっていることからすると、やはり「十三菩提古墳」は「十三坊塚」とされるこのマウンドを指している訳ではないのかも知れない。(ではその『十三菩提古墳』というのはどこにあったのだろう・・・。)

何とも諦めきれないので、最後に、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」でこの周辺の航空写真を確認してみることにした。夜更かしして、充血した目を皿のようにして古い写真を凝視していたところ、昭和38年(1963年)に撮影された白黒写真に、そうだ、と言われればそのようにも見える(?)影を見つけた。

06 航空写真(1963年6月)MKT636C16-6(部分)

一番左の大きな円内が「十三坊塚」とされるマウンドで、ここはこれより古い戦後すぐの航空写真で見ても同じように樹々が密生していたようであり、木立の中に何があったのか、航空写真からは判別できないが、周囲に人家が立ち並ぶ中、この一画だけは宅地化の波から大切に守られてきているのだから、やはり何か特別な意味を持ったマウンドなのであろう。
ちなみに、その少し右上の円が④塚、一番右上が①塚、その下が②塚と思われる位置であるが、それぞれ、塚のような気がしないでもない、小さな影?が見える気がするのだが、さて、これって一体・・・。


<投稿 2020.6.1>

(参考資料)
「宮前区歴史ガイドまち歩き その9 南の横大道」 川崎市宮前区役所地域振興課 宮前区歴史文化調査委員会 平成27年3月
「十三塚 実測調査・考察編」 神奈川大学日本常民分化研究所報告 第10集 1984年 平凡社
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ-加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1





2018/10/19

川崎市内に残る中世の十三坊塚(1) (神奈川県川崎市 長尾十三坊塚)

国内の感染拡大は一見、一段落してきたようにも思える。一部地域を除いて非常事態宣言も解除され、巷では「アフターコロナ」という言葉も耳にするようになった。
だがしかし、ひとたび目を海外に向ければ、アフリカなどでは経済の封鎖で生活の糧を得る術を奪われた多くの人々が、コロナではない普通の病気でさえも治療を受けることができず、通常であれば失われるはずもない多くの命が犠牲になっているのだという。しかも、そうした犠牲者の数はコロナ禍の犠牲者としてはカウントされず、顧みられることがないのだ、と、海外で人道支援に当たっている方がラジオで話していた。抑揚を抑えた静かな語り口に、心の琴線をかき鳴らされた。
今、我々がすべきことは何なのだろう。せめて、目を閉じて、世界の平穏を祈る気持ちだけは忘れないようにしたいと思う。

今回も2018年10月、中世の「十三塚」を見に行った時の話である。

十三塚というのは中国・四国の一部地域以外、東北北部から九州南部まで広く全国に見られた塚で、読んで字の如く、多くの場合、13基(中には15基とか、2列21基などというものもあるらしい)の塚が、街道や郡境などに沿ってほぼ一直線に並んでいるのが典型的な形態とされる。
その多くは、戦乱で命を落とした十三人の武士を葬ったもの、といった伝承が伝わり、13基のうち中央、7番目の塚が一回り大きく、「親塚」とか「大将塚」、「将軍塚」などと呼ばれることも多いのだそうだ。

十三塚については過去、あまり研究の対象とはされて来なかったらしく、塚の性格もよくわかっていないようであるが、境界を示す境塚であると同時に、中世の十三仏信仰とも関連していたのではないか、と考えられているようだ。塚は祈祷のための祭壇であって、それぞれの塚上には十三仏を示す梵字を記した塔婆が立てられ、村に疫病や災いが入って来るのを防ぐため、そうした塚が村境に築かれたのではないか、ということらしい。

十三塚は「十三仏塚」、「十三壇」、「十三坊」などとも呼ばれ、民俗/民族文化の調査・研究団体である日本常民文化研究所という団体が1984年に出版した調査報告書によれば、「十三塚」に関連すると考えられる伝承が残る場所が300箇所以上あったそうであるが、文化財としての価値が認識されていなかったことから、開発で次々と姿を消してしまい、残念なことに今日まで完全な形で残っているものは、もはや数えるほどしかないのだそうだ。
関東では、柏市の藤ヶ谷十三塚や、川崎市麻生区と稲城市との境にある平尾十三塚、寒川町にある「おこり塚」などは比較的往時に近い形で残っているようであり、いずれ訪ねてみたいと思うけれど、今回は川崎市宮前区内に残る十三塚の伝承地を訪ねてみようと思う。

宮前区に「長尾の十三坊塚」と呼ばれる場所がある。グーグルマップでは「十三坊塚の道標」という名の史跡として表記される場所である。
国道246号の梶ヶ谷交差点から西へ向かうと、すぐに二股の分岐に差し掛かる。二股を左の馬絹方面へ向かえば宮崎大塚古墳はすぐそこであるが、今日は二股を登戸方面へと進む。道は標高50mほどの舌状台地上を行き、途中右手に百日咳に霊験あらたかという「しばられ松」の伝承の残る聖社の祠の前を通り、やがて緩やかな下り坂となって、平瀬川の流れる谷底に向かって下り始める。
下り坂の途中、ローソン手前を斜めに左へ別れていく細い路地が、台地の縁を王禅寺方面へと続く古くからの街道で、王禅寺道、別名「十三坊道」と呼ばれる古道である。台地の縁を東西に走るこの古道を少し進むと小さな十字路があって、その十字路脇の高まりに「十三坊塚の道標」が立っている。

01 長尾十三坊塚道標

道標は文化12年(1815年)に建てられた庚申供養塔で、側面右に「庚申供養塔」、正面に「西 王せんし道」、側面左側に「北 ふちう道」、裏側はのぞき込めないが「東 二子道」と書かれているそうである。

02 長尾十三坊塚道標

03 長尾十三坊塚道標

この辺りは古くは「十三坊原(十三坊塚/十三本原)」と呼ばれ、現在では東西に走る十三坊道を境に、南側は「神木(しぼく)」、北側は「神木本町」となっているが、古くは南側は馬絹村、北側は南北に交差する道を境に東側が上作延村、西側が長尾村と呼ばれたそうで、この十字路は中世以来、ちょうど三ケ村の境界だったのだそうだ。

04 十三坊道(王禅寺道) 王禅寺方面を望む
(十字路から西、王禅寺方面を望む。道の右が旧長尾村、左が旧馬絹村)

その名の示す通り、ここにはかつて十三塚があったとされており、「新編武蔵風土記稿」には上作延村と長尾村の項に地名の由来に関する記述がある。
「(上作延村)十三坊原 村の西南 丘上の平地を云 此邊長尾村の續きにして かの村にても此地名を唱へぬれど 文字を十三本原と書て唱へもおのづから異なり 名義は二村とも傳へを失ひて詳ならず 或は十三佛を供養せし跡なりと 是によれば十三坊と記す方ましならんか されど巨樹十三本ありし地と云傳説もあれば今何れを是なるべしとも定めがたし」
「(長尾村)十三本原 村の東南 上作延村地續の原野を云事は上作延村に出せり」
十三坊原は上作延村の項に詳しいのでそちらにあるようにも見えるが、所在地は長尾村の「続き」とあるのは、おそらくその一画だけ上作延村に突き出していた、というような意味合いであろうか。

宮前区の発行している歴史マップを見ると、「十三坊塚」、「庚申塔(道標)」はいずれも地図上にプロットされており、「道標」については解説されているが、十三塚については言及されていない。そこで前述の日本常民文化研究所の調査報告書を調べてみたところ、昭和54年に実施したという現地調査について、詳細に記述されていた。それによると、どうやら道標が建てられている高まり、つまり十三坊道に沿った東西に細長い土手状の敷地全体がまさに十三塚の名残、ということのようである。
当時、道沿いの土手状の敷地は既に竹や草が群生していて、明確に確認はできなかったようだが、地元の文化財調査に精通した新井清氏の言によると、かつては確かに塚状の小さな突起が数個あり、しかも十字路の角、道標の建っている高まりは「一つだけ大きく、中央の塚かと思われる」とあった。
報告書には新井氏が撮影した、という塚の白黒写真と周辺の公図の写しが掲載されており、写真は茂みが丸く盛り上がっていて、塚と言われれば確かにそのようにも見える。
公図の方は現在道標の建っている細長い土地だけでなく、そこから西の長尾村方面にも、十三坊道に沿って東西に細長いやや不自然とも思える地割が描かれており、かつてはこちら側にも十三塚が続いていたであろうことがこの地割からも裏付けられるようだ。

地元ではこの塚を「神戸谷戸(ごうどやと)の十三坊」と呼んでいたらしい。「神戸」というのは街道南側の馬絹村の字名だったようで、人家が疎らだったことから「神戸の三軒屋」とも言われていたらしい。明治39年の地図を見ると、「神戸」には「ゴード」と振り仮名が振ってある。「神戸」と言えば伊勢神宮に使える人々の住まう土地を指すものと思うが、ここも中世、伊勢神宮の神領であったのかも知れない、と新編武蔵風土記稿に見えるようだ。

最後に意外?な伝承がもう一つ。
ここから北西に1.5kmほどの高台にある「五所塚」という名の塚について以前、書いたことがあって、そちらには平将門との戦いで命を落とした京都(御所)方の武将5人が葬られた塚である、という伝承があったが、この五所塚はここ、長尾の十三塚と同じ旧長尾村内にある。ここ十三坊塚には、五所塚とは逆に、御所方との戦いで討ち死にした将門方の家来十三人を葬ったもの、という伝承も伝わっているのだそうだ。

まさか平将門の伝説にたどり着くとは思いもよらなかったけれど、五十路をとうに過ぎた大の大人が一人、住宅地の道端に突っ立って、十三基の塚が街道沿いに整然と並んでいたであろう、往時の姿を妄想しながら遠い目をしていると、それまで持ち堪えていた空から不意にポツリポツリと雨が落ちてきた。もう1ケ所、別の十三塚を見に行きたいと思うのだが、長くなったので続きはまた次回。

<投稿 2020.05.22>

(参考資料)
「十三塚 実測調査・考察編」 神奈川大学日本常民分化研究所報告 第10集 1984年 平凡社
「宮前区歴史ガイドまち歩き その10 王禅寺道」 川崎市宮前区役所地域振興課 宮前区歴史文化調査委員会 平成30年10月



2018/09/23

北を見晴るかす高台の塚(神奈川県横浜市緑区 ごはん塚)

外出自粛の折、さすがに仕事も急ぎの用件以外は延期せざるを得なくなり、すっかり遅れていたブログの更新が少しづつ進むようになった。とは言え、医療現場の方など、大変な思いをされている方々に感謝の気持ちを示す意味でも、できることから少しづつ、せめて「ステイホーム」ぐらいは心がけたいと思う。

更新が進んだとは言っても、以下はまだ2018年9月の出来事である。

忙しさにかまけて(?)仕事のついでに古墳探索、というブログ創設の趣旨をすっかり忘れたまま、いつの間にか9月も中旬を過ぎてしまったことにハタと気付いた週末、妻を乗せて鴨居のららぽーと横浜までクルマを走らせた。用事は明るいうちに済んだので、日没まであまり間がないが、3kmほど南にある中世の塚を見て帰ることにした。

「緑区遺産」にも登録されているというその塚は「ごはん塚」と呼ばれ、1205年(元久2年)、鶴ヶ峰の合戦で敗走する畠山重忠の郎従が北条氏の追撃により討ち取られて葬られたものとされ、古くは周辺に5つの塚があったから、とか、食事中に追手に討たれたから、とか、ご飯を茶碗に盛ったような形だから等々、由来についても諸説あるらしい。
鴨居という土地にはあまり土地勘がないが、一体どんなところだろうか、と思う。

ららぽーとを出て南へ鶴見川を渡り、しばらく走って鴨居5丁目の信号で県道109号線を右折、上り坂で徐々に高みへと上っていく。調べてみると鶴見川周辺の標高は8mほどであるが、ごはん塚のあるあたりは標高80mほどもあり、意外と高低差がある。
上るにつれて周辺の緑が濃くなり、人家も疎らになってくる。鴨居にもまだこんな自然の濃いところがあるのだな、と思いながらヘアピンのような大きなカーブをぐるりと曲がると左手の眺望が開け、なだらかな斜面に畑が広がっている。ごはん塚はこの畑地の中にあるらしい。
脇道にクルマを停めて、妻を車中に残し、カメラ片手に農道を上っていく。西日がだいぶ傾いてきたが、「ごはん塚入り口」という案内板はすぐに見つかった。

01 傾いてきた夕陽

が、肝心の塚の場所が皆目わからない。
農道をひとしきり右往左往し、「入り口」の標識からはだいぶ見当はずれの方向、小高い高みに記念碑のようなものが見える気もするが、でも多分あそこではないな、と思いながら、近くで農作業をなさっていた男性に尋ねてみると、「ああ、あっちだ」といま来た方角を指す。「一般人が見に行って構わないものか」と問うと、「今日はもう帰っちまっただろうが、農具やら作物に触れなければよかろう」という。ぶっきらぼうだがいい人のようだ。丁重に礼を言い、このあたりかな、というあたりで目をこらすと、ようやく遠くに土のマウンドのようなものが見えた。

02 ごはん塚遠景

ぐるりと迂回して畑の畦道から接近すると、周囲をコンクリートで固められた一画がみえてきた。

03 ごはん塚近景

茶碗に盛ったご飯だとするとやや少なめに見えるが、塚の傍らには「蓮性寺」と書かれた由来碑のほか、墓碑や卒塔婆、石の香炉などが並んでいるので、このお寺さんや地元の方々が今でも弔いの花を手向けているのだろう。

04 塚の由来を記した石碑

05 ごはん塚近景

「鎌倉Today」というHPの「鎌倉好き集まれ!」というコーナーの「もちださんの鎌倉リポート No.303」の回を見ると、この蓮性寺は既に廃寺となっていて、現在はここから800mほど北にある善徳院というお寺に合併(合祀?)されているのだそうだ。

あまり詳しくないので受け売りだが、畠山重忠という武将は武勇の人で、武士の鑑とも称された清廉潔白の人であったらしい。鎌倉幕府を支える有力御家人として重んじられたが、頼朝の死後、北条一族によって力のある御家人が次々と滅ぼされていく過程で、畠山重忠にも謀略の災禍が降りかかり、理由あって手勢130余騎で鎌倉に向かう途上、自らに謀反の嫌疑がかけられていることを知ったものの、逃げも隠れもせずそのまま進み、鶴ヶ峰まで来たところで雲霞の如き北条方の大軍を発見(これが『万騎が原』の由来だそうであるが)、一説には数万ともいわれる幕府軍と4時間もの激闘の末、壮絶な最期を迎えたのだそうだ。
鶴ヶ峰周辺には、重忠の首塚や首洗い井戸、一族郎党134騎を供養したと伝わる六つ塚などがあり、地元では今でも大変手篤く供養されているのだそうだ。

ごはん塚は、激戦のあった鶴ヶ峰から3kmほど北にあり、戦場からは1時間足らずの距離、ということになるのだろう。畠山氏の本貫地である深谷を目指して北へ向かおうとしていたのか、それとも「もちださんの鎌倉リポート」にもあるとおり、重忠と同じく秩父平氏の血を引く近隣の小机氏や中山氏の領地を目指したのか、命の危機に晒されていた5人の郎従が、こんなに見晴らしのよい場所で、こんなタイミングで腹ごしらえをするとも思われないが、いずれにしても、余りにも短い逃避行と、その無念を思うと、こんな私でも胸が痛む。

06 ごはん塚越しの夕陽

もしかすると彼らは自らの最期を悟り、ここから遥か北方、せめて我が家のある深谷の方向を見晴るかすことができるこの場所で、心の中で静かに家族に別れを告げていたのかも知れない。

そう思いながら見上げた夕陽は何だか少しぼやけて見えた。

07 夕陽


<投稿2020.4.30>

(参考資料)
「ごはん塚」緑区ホームページhttps://www.city.yokohama.lg.jp/midori/shokai/midorikuisan/isan_ichiran/isan006.html
「鎌倉Today 鎌倉好き集まれ!もちださんの鎌倉リポート No.303」 https://www.kamakuratoday.com/suki/mochida/303.html
「旭区ふるさとの歴史発見 鎌倉武将 畠山重忠」 平成22年3月 旭区観光協会


2018/04/20

義経の財宝伝説と富士塚(神奈川県大和市 公所浅間神社)

(世の中では年が変わって2019年になったが、このブログはまだ2018年の春である・・・。)

以前、町田市の「鶴間」の語源について、「義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた」という伝承がある、と書いた。
今回はこの、義経の財宝が埋められている、という伝説の地を訪ねてみようと思う。
今回は、まかり間違えれば俄か億万長者も決して夢ではない(かも知れない)。

国道246号の目黒交差点から国道16号の旧道を八王子方面に右折、境川を渡って緩斜面を緩やかに上った先は大和市の「下鶴間」である。
「鶴間」は平安時代の文献にもその名が見える古くからの地名で、今日でこそ相模原市(上鶴間)、大和市(下鶴間、鶴間)、町田市(鶴間)と幾つもの行政区域に分断されているが、中世の頃は全て合わせて「鶴間(紘間)郷」と呼ばれていたようだ。

現在、「下鶴間」と呼ばれる地域は国道16号の旧道の両側に広がっているが、このうち16号の東側、眼下に境川を望む高台上に「公所(ぐぞ)」という地域がある。

「公所」と書いて「ぐぞ」と読むのはかなり難解な部類ではないか、と思うが、「公所自治会ホームページ」によると、正確なことはわからないまでも、県内には他にも同様の地名が見られ、頼朝の時代に各地に置かれた関所の所在地を意味するのではないか、とされているらしい。このあたりには鎌倉古道や滝山街道などの古街道が今でも残っており、古くは「仕置場」、「牢場」などという字名もあったのだそうだ。

この「公所」のほぼ中央に鎮座するのが鶴間郷の総鎮守とされる「公所浅間神社」で、冒頭述べた義経の財宝伝説はこの公所浅間神社に伝わる伝承とされる。

01 公所浅間神社

神社の北側一帯からは古墳時代後期の集落遺跡が見つかっており、「下鶴間甲一号遺跡」と呼ばれているそうである。

02 下鶴間甲一号遺跡

ただ、この公所浅間神社は国道16号のバイパス建設工事に際して、昭和50年に現在地に移転しており、義経の財宝に関わる伝承は移転前の旧地に関わるものらしい。
神社の旧地は現在地よりも500mほど西、台地上を掘割状の切通しで通過するバイパスを見下ろす小さな丘として残っている。

03 下鶴間浅間神社遺跡

バイパス工事で削られる以前、神社の境内となっていた丘は現在よりもかなり大きかったようで、大和市が設置した解説板に載っている往時の白黒写真を見ると、木々が疎らに生えた南北に細長く小高い丘が映っている。

04 下鶴間浅間神社遺跡解説板(全景)

さて、義経が埋めた伝説の財宝はどこにあるのかしら、写真にある小高い丘はバイパス工事でどのくらい削られて、今残っているのは写真のどの部分なのかしら、そもそもバイパス工事の際、財宝は発見されなかったのかしら、などと考えながら、再び解説板に目をやると、思いがけず「塚」の古写真が二枚、掲載されているではないか。

05 下鶴間浅間神社遺跡解説板(塚)

解説板の後ろには丘の上に続く小路があり、登ってみると、丘の上には塚が一つ、残されていた。

06 下鶴間浅間神社遺跡塚遠景

近づいて見ると「富士塚(浅間の森)」と書かれた標柱が立っている。

07 下鶴間浅間神社遺跡塚富士塚標柱

この塚が解説板のいずれの塚かはわからないが、現在の地形図と照らし合わせて見ると、どうやらこれは丘の全景写真の中央付近に移っている方の塚ではないか、と思う。
よく見ると、全景写真の中央右手には社殿の屋根のようなものも見えているようなので、「旧社殿裏手の塚(1号塚)」が残されているのではないか、と思う。

08 下鶴間浅間神社遺跡塚近景

09 下鶴間浅間神社遺跡塚(南から)

おっと、いかんいかん、つい「塚」に目が眩んで、肝心の「財宝」を忘れるところであった。(目が眩むのは普通、「財宝」の方ではないかと思うが。)
鶴間一帯には冒頭の伝承とともに、一節の古い歌が伝えられているそうである。

「朝日があたって夕陽が映え、雀がチュンチュン鳴く所、大釜いっぱい鍋いっぱい」
「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆満杯」

これらはいずれも義経が密かに埋めた財宝のありかについて謡った歌である、とされる。

義経がこの地に財宝を埋めたのは、鎌倉入りを許されず失意のうちに京都へ戻る途上、という状況であるが、しかしながら何故、腰越から京都へ向かおうとしていた義経が鶴間に立ち寄ったのであろうか。
確かに鶴間には古くから、「矢倉沢往還」と呼ばれた街道が通っており、鎌倉時代には宿場機能も成立していたのかも知れない。東国から京都を目指すのであれば、この矢倉沢往還を通ることは当然のようにも思えるが、鎌倉から京都を目指すのであれば、鶴間を経由するのは些か遠回りな感が否めない。

考えて見れば、公所浅間神社の旧地周辺には崖地も多く、そうした崖には横穴墓も多く見つかっているそうである。こうした上代の横穴墓から副葬品が見つかったという話に加えて、もう一つの鶴間の由来伝承、鷹狩りの際、源頼朝がここで鶴が舞うのを見た、という伝承が融合されて、いつしか「義経の財宝伝説」が形成されていったのかも知れない。

いやいや、そんな「夢のない」話をしてしまっては、せっかくの歴史ロマンが台無しである。
あくまでも義経はきっと、弁慶を従えてここ、鶴間に至り、茜空に鶴が舞うのを見たに違いない。
きっとそうに違いない。


(地図)
公所浅間神社地図


(参考資料)
「公所自治会ホームページ」 http://guzo.d2.r-cms.jp/topics_detail4/id=51
「公所浅間神社鶴舞伝説」 http://sengenjinja.web.fc2.com/0densetu/densetu.html



2018/03/29

桜吹雪と富士塚(神奈川県川崎市 登戸富士塚/浅間社)

仕事帰り、いつものようにクルマで登戸周辺を通り掛かった。
もう夕方の五時を回っているが、陽が長くなってきてまだまだ当分明るいので、どこか寄り道できるところはないかと「ガイドマップかわさき」の遺跡地図を見ると、向ヶ丘遊園駅近くの神社に古墳マークが付いている。
遺跡番号:「多摩区No.14」、種別:「古墳」とあり、「古墳マップ」で調べてみると、どうやらこれは「登戸富士塚」という名前の、歴とした「古墳」のようである。

府中街道を左折して住宅街に入ると、途端に道幅が狭くなる。生活道路で多くの人々が行き交っているので恐縮しつつ慎重に進むと、ほどなく左手に浅間社の鳥居が見えてきた。神社前は路上駐車できるような道幅はないので、神社の脇道を入ったところにある月極駐車場の端に少しだけ停めさせてもらって、急いで神社の鳥居に戻る。

01 登戸富士塚古墳・浅間社遠景

境内の桜はだいぶ散り始めていて、参道は桜の絨毯のようになっている。

02 登戸富士塚古墳・近景

参道脇では三猿を従えた青面金剛さんが「おい、お前、無断駐車はいかんぞ」と仰っている(ように思える)。

03 登戸富士塚古墳庚申塔青面金剛像

富士塚の土台は古墳をそのまま利用しているらしく、「古墳マップ」によれば直径17m、高さ2.2mの円墳とのことである。墳丘上には清宮伝右エ門なる人物が文化3年(1806年)に祀った、とされる浅間社の祠があって、桜吹雪が西陽を浴びながら、はらはらと舞っている。

04 登戸富士塚古墳墳頂浅間社

祠に手を合わせ、急いで境内を出て西側から全体を見渡してみる。多摩川沿いの沖積低地にあるからだろうか、墳丘の立ち上がりだけでなく、墳丘のある場所は周辺よりも若干高くなっているように見える。

05 登戸富士塚古墳西から

これ以上の無断駐車は忍びないので、東側に停めたクルマに急いで戻り、見上げればここからも古墳がよく見えている。古墳と、墳頂の浅間様にもう一度手を合わせた。

06 登戸富士塚古墳東から

大急ぎで忙しなかったけれど、桜吹雪が印象深い、趣き深い古墳であった。

07 登戸富士塚古墳 墳頂の桜


(地図)
登戸富士塚古墳地図



(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/





2018/03/28

鎌倉古道と刑場伝説の塚(神奈川県横浜市 泣坂、餅塚)

町田市の木曽富士塚の桜があまりに見事だったので、もう一ケ所、寄り道したい場所がある。
横浜市青葉区に「田奈」という場所がある、と以前書いたが、その田奈と恩田川を挟んだ南岸、横浜市緑区の高台に「餅塚」という塚があり、桜の時期はとてもきれいなのだそうだ。

緑区の「緑区遺産」にも選ばれている「餅塚」は、横浜線十日市場駅の西、東名高速が足元を通る標高60mほどの台地の南端にあり、近くには「泣坂(なきざか)」という名の古い坂道や、「北門(ぼっかど)古墳群」という興味深い名前の古墳もあるらしい。
この「北門古墳群」はまた別の機会に譲ることにして、今日は「泣坂」を上って「餅塚」を見て帰ろうと思う。

横浜線の十日市場駅前の少し西で交差点を右折、高架の東名高速をくぐると道は急な上りに差し掛かる。これが現代の「泣坂」である。旧道は細道で右方向に逸れていくが、右折できないのでそのまま直進すると、ほぼ坂を上り切った「泣坂上」交差点で、右から旧道が再び合流してくる。旧道はそのまま新道を横切って左へと上って行くので、ここから旧道に入ると、道はさらに高台を上へ上へと上っていく。

「泣坂」というのもずいぶんとインパクトのある名前だが、緑区のホームページによると、古くは近くに処刑場があって、罪人が泣きながら上った、あるいは、罪人の泣き叫ぶ声がこの坂道まで聞こえて来たのでその名がついたのだそうだ。泣坂の由来も気になるが、まずは「餅塚」に陽が沈む前に辿り着かねばならない。
塚は旧道南側の一帯に広がる大きなマンション群の向こう側にあるので、住宅地を大きく南側に回り込んで行かねばならない。左折して登り、また左折して登り、を繰り返すと、ようやく高台を上り切ったのか、前方の家並みの向こうに夕焼け空が見え、高台の縁の道をそのまま進むと、公園の一画に大きな小山が見えてきた。

01 餅塚遠望

小山の上に登ると、頂上はもう一段、2mほど高くなっており、これが「餅塚」のようである。

02 餅塚

03 餅塚上の碑

緑区のホームページによると、餅塚の由来は、このあたりで茶屋を営んでいた老婆が餅を売っていたため、とある。
一説には、その老婆と娘さんがある日、山賊に襲われて命を落とした、という何とも悲しい伝承もあるらしい。
無闇に立ち入ると祟りがある、とされ、以前は雑草が生い茂るままになっていたそうだ。
昭和30年頃までは小さな祠があったそうであるが、その祠が朽ち果ててしまったので、塚の供養のため、昭和60年に地元の方々が石碑を建てたのだそうだ。

04 餅塚上の碑

05 餅塚上の碑

石碑に向かって手を合わせ、改めて見渡せば、塚上はひときわ小高く、周囲の眺望は抜群である。

06 餅塚上より北方の眺望

06 餅塚上から南方の眺望

眺望もよいが、周囲の桜もまた見事である。

08 餅塚の桜

09 餅塚の桜

茶屋を営んでいたという老婆やその娘さん、茶屋で一服した旅人たちも、一日の終わりに果たしてこんな光景を見たであろうか。

10 餅塚上の空

沈んでゆく西陽を見ながら、それにしても、何故ここに「茶屋」や「処刑場」などの伝承が残されているのだろう、と思った。

家に帰り、地図を眺めると、旧道は歪んだS字型に大きく蛇行して急斜面を南東から北西へと上っており、そのまま進むと旧大山街道の長津田宿、片町の地蔵堂に至る。調べてみると、どうやらこの道は鎌倉街道の中ノ道から上ノ道への古くからの連絡路であったらしく、南は霧が丘からズーラシアのあたりを通って鶴ヶ峰へと通じていたようである。街道沿いで眺望のよい高台ということであれば、水をどのように確保していたかはともかく、茶屋があった、というのも頷ける話ではある。(一説によれば、さらに古くはS字の旧道は東へもっと大きく蛇行しており、横浜線の向こうまで迂回していたそうである。)

一方で、処刑場と言うと、鈴ヶ森や三田、小塚原といった江戸の刑場が思い浮かぶ。
これらはいずれも江戸市中を出た外側に置かれており、結界としての意味合いを持つ「忌み地」のような場所でもあっただろう。同時に、こうした場所を街道沿いに置くことで、罪人の行く末を往来に「晒す」という意味合いもあっただろう。

恩田川周辺には鎌倉時代、恩田氏という有力武士がいたそうであるし、餅塚から南西に2kmほど離れた高台にある旧城寺の一帯には、室町時代、上杉憲清が築いたとされる「榎下(えのした)城」という山城があったそうである。餅塚近くの古墳群の名前にもなっている「北門(ぼっかど)」という地名はこの榎下城の北門を差すのではないか、という説もあるようだ。いつの時代かわからないが、榎下城の所領地の「結界」として、ここに刑場が置かれた時期があったのかも知れない。

「旧鎌倉街道探索の旅」という、最近復刻版も出た書籍に、次のような記述がある。

「『古道のほとり』(という書籍)には北門(ボクカド)について次のようにある。『ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる』と。」

この牧場の支配者が誰であったのかどうかはともかく、いつの頃か、ここに牧が置かれた時期があったのだろう。
所領地の外れの高台で近くに古墳などもあったため「忌み地」とされ、刑場が設けられた時期もあったのかも知れない。戦乱の世が終わると街道沿いで眺望がよいので茶屋ができ、そこで餅が売られたのだろう。不幸にも茶屋の主が命を落とした悲惨な出来事が、街道を行き交う旅人から巷間へと伝わる中で、古く刑場があった時代の伝承と相俟って、「餅塚」、「泣坂」の伝承となって、今に伝わっている、ということなのかも知れない。


(地図)
餅塚地図



(参考資料)
「緑区遺産(登録番号011)餅塚」 緑区ホームページ http://www.city.yokohama.lg.jp/midori/60guide/midorikuisan/isan011.html
「緑区の泣坂」 はまれぽ.com http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1128
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 1981年1月 芳賀善次郎氏 さきたま出版会





2018/03/01

高台に並ぶ五つの信仰塚(神奈川県川崎市 五所塚、長尾神社)

最近、昔話をする機会が増えたのは、年を取ったせいだろうか。

学生の頃、学習塾でアルバイトをしていた。
塾は小田急線の登戸駅近くにあった。
世田谷通り(登戸周辺の呼び名は「津久井道」)はいつもひどく混んでいたので、遠回りだがぐるりと迂回して通うことが多かった。そんな迂回路の途中に「五所塚」という地名が、確か、あった。
平成14年に閉園した向ケ丘遊園もその頃はまだ営業しており、遊園地のある生田緑地の丘陵を府中街道から急な切通しの坂で上っていくと、当時はほとんど気に留めることもなかったが、「五所塚」という町があり、そこから塾に通っている生徒もいたのを覚えている。
30年近い歳月を経て、再び仕事の行き帰りに近くを通る機会が増えたので、周辺の古墳や塚の所在を調べていると、ふと、あの頃よく通った「五所塚」の名前が蘇ってきた。どうやら近くに名前の由来となった塚があるようである。

八王子の北大谷古墳を見た後、天気もよいので高速に乗らず、府中街道で多摩川沿いに走り、まだ明るいうちに、生田緑地の丘陵下に至った。
いつ頃できたのであろう、「藤子・F・不二雄ミュージアム」の先の信号を曲がると、切通しの急坂はあの頃と変わっていなかった。
坂を上り詰めたところで脇道に入り、細くくねるような狭く急な上り坂でさらに高みを登って行くと、頂上に古く由緒ありそうな神社と、その右手にこじんまりとした公園が見えてくる。府中街道からの標高差は50mほど、切通しからでも30mほどはありそうな、丘陵の最も高い場所にあるこの公園に、町名の由来となったであろう五つの塚が並んでいる。

01 五所塚遠景

塚は南北に細長い公園に整然とほぼ等間隔で一列に並んでいる。

02 五所塚遠景2

五つの塚はいずれもフェンスで囲まれており、大きさはどれも大体同じぐらいで、直径4m、高さ2mほど、古くは「墳墓」という伝承があったそうであるが、現在では「中・近世に村境や尾根筋に築かれた十三塚などと同様の民俗信仰に基づく塚」と考えられているそうだ。

03 五所塚解説板

マウンドはどれも同じような形に見えるが、北側から南側に行くにつれて少し大きくなっていくように見える。

04 五所塚近景(北側の塚)

上の写真が最も北側、下の写真が南側の塚であるが、マウンドの高さと周囲のフェンスの高さを比べると、少し大きさが違うようにも見える。

05 五所塚近景(南側の塚)

加えて、南側の二つはマウンド上に太い樹木が生えていて、風格がある。枝打ちされた感じが鹿の角のようにも見える。
全く関係はないが、「ウルトラの父」には角があり、「ウルトラの母」にも角のようなものがあった・・・。五つあるので、手の指と同じく、端からお父さん、お母さん、お兄さん・・・、という訳でもあるまいが。

06 五所塚近景(南側の塚上の木々)

公園の南側は眺望が開けていて、遠く霞んで見える山並みは丹沢、左端のピークは大山であろう。

07 五所塚南側眺望

解説板にもあったとおり、この高台では「権現台遺跡」と呼ばれる縄文時代の集落跡が見つかっているらしい。発掘された竪穴式住居跡の平面形は「隅丸方形」でなく「五角形」をしていたそうで、同じく見つかった配石遺構には石棒が据えられていたらしく、こちらは狩猟に関連した祭祀遺構と考えられているらしい。

来る時に見た公園北側の神社は「長尾神社」という名前だそうだ。

08 長尾神社遠景

古くは「五所塚神社」、「五所権現社」と呼ばれ、毎年正月七日に行われる「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事は五穀豊穣と村内安全を祈る古くからの行事だそうで、馬に乗らずに矢を射る「歩射(ぶしゃ)」神事であるらしい。地区の7歳未満の長男二人と介添え役の父親が正座したまま的を射って、矢が「鬼」の字を貫けばその年は豊作になるのだそうだ。

「長尾」の由来はこの地区が昔、「長尾村」であったことによるようだが、そもそも「長尾」の地名は、史実がどうであったかは定かでないが、上杉謙信こと「長尾景虎」と所縁がある、ともされるらしい。
神社はもともと「神木(しぼく)長尾(谷長尾)」と「河内長尾(多摩川流路変更で新たに開墾された河川沿いの低地)」という二つの地区に分かれていた長尾村のそれぞれの地区の鎮守、「赤城社」と「五所権現社」を、明治42年、五所権現社に合祀したそうだ。

09 長尾神社境内

「五所権現社」というのは五柱の神様(権現様)を祀る社、という意味合いであろうが、確か以前、「五所宮」というものの由来は、統治を代理人に委ねていた国司が任地に赴く際、一之宮から五之宮まで全てにお詣りしたことになるよう一ケ所に合祀したもの、という記事を読んだ記憶がある。
合祀前の五所権現社も同じように、五つの塚の上にそれぞれ五柱の神様を祀っていたのではないか、とも思ったが、100年ほど前までそのような状態だったのであれば、合祀前の神社の姿が伝承として伝わっているであろうし、文化・文政期に編纂された「新編武藏風土記稿」でも、五所塚と五所権現社とは全く別個のものとして紹介されている。

「墳墓五ケ塚 小名神木谷ニアリ五ツナカラ並ヘリ 長尾景虎及従者ノ墳墓ナリト云傳フレトモ 景虎ハ天正六年越州春日山ノ城ニテ没セシコト世ニシル所 別ニユヘアル人ノ塚ナルヘシ 相傳フ昔此邉ヨリ石ノ匣ヲ堀出セシコトアリ 大サハ大抵一尺四五寸四方ニテ蓋ニ高印ノ二字ヲ彫リ其中ニ・・・(略)」

この五所塚には「五所塚」の「ゴショ」を「御所」と解釈する別の伝承もあるようである。
gannyan1953さんのブログで紹介されているが、昔、この地で平将門の軍勢と京都(御所)からの軍勢が戦となって御所軍が敗走、討死した五人の将兵を埋めたもの、との伝承もあるそうだ。
また、将兵と運命を共にしたと伝わる童子を供養した場所には「稚児松」と言われる松があったそうだが、松はその後、枯れてしまったという。

塚と社のいずれが先にあったのかはわからないが、もしかすると古くからあった五つの塚の傍らに祀られた鎮守の社がいつしか「五所権現」と呼ばれるようになったのかも知れない。(古墳好きの発想はあくまで「塚」が先、なのである。)

早春の日差しは穏やかで、森の梢のあちこちから時折ヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。何とも爽やかで気持ちのいいところである。神社の樹叢は川崎市の保存樹林に指定されているそうだ。
社殿裏は高台北東側の眺望がまた素晴らしい。

10 長尾神社北東側眺望

できることならこのままずっとここにいたい気もするが、現実逃避もここまでである。
やれやれ、いい加減帰らねば、仕事がたんとお待ちかね、である。


(地図)
五所塚 地図


(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「五所塚と権現台遺跡」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000089.html
「長尾神社の歩射」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000112.html
「歴史と素敵なおつきあい」 https://rekisisuki.exblog.jp/18487761/




2018/01/02

馬の背の宿場に伝わる塚と伝説(神奈川県海老名市/綾瀬市 相模大塚跡)

前回に引き続き、今回も相模国の大塚シリーズ、今日は「相模大塚」を訪ねてみようと思う。

鶴間大塚を見た後、暗くなるまではまだ少し時間があるので、再び246の旧道に戻って南西方向に向かう。
この246の旧道も、古くは大山街道若しくは矢倉沢往還という昔からの街道であり、延喜式に見える旧官道東海道のルートを踏襲したものとされていて、下鶴間から相鉄線のさがみ野駅前まで、南西方向に一直線に進路を取っている。

ところで、そのさがみ野駅であるが、相鉄線が開通した当時、この近くにあった駅は「相模大塚」という名前であった。

(現在、さがみ野駅の東隣にある「相模大塚」駅は昭和18年に新設された別の駅らしい。しかも戦後の一時期、「さがみ野」駅はなく、今のかしわ台駅近くに「大塚本町」駅があったそうで・・・、この辺りは複雑なので深追いするのは止めておこう。)

このあたりには矢倉沢往還の宿場町、「大塚宿」があり、大山詣でが流行した江戸後期はたいそうな賑わいだったらしい。
明治以降、大正時代までは旅籠や商店が建ち並んでいたそうだ。
大塚本町の周辺は、現在でも狭い街道に沿って民家が密集していて、往時の雰囲気をよく残している。

さて、この「大塚宿」、古くは宿場の外れに大きな円墳があったためにその名が付いたらしい。
鶴間大塚以上に、こちらの大塚についても極めて情報が少ないが、「ホントに歩く大山街道」という書籍に以下のように記載されている。

「大塚宿は大塚本町交差点の近くにあった。・・・中略・・・宿場の西南端辺りに大塚があった。頼朝の時代、早川村と上今泉村がここで戦い、戦死者が出たため、ここに塚を作り、埋めたと伝えられている。当初、大きな円墳があったらしいが、今はない。」

宿場は現在の大塚本町交差点を挟んだ200mほどの範囲にあったようであるので、「宿場の西南端」と言うと、大塚本町交差点の南西あたりではなかったか、と思う。
このあたりは座間市、海老名市、綾瀬市の市境が複雑に交差している。大塚本町の交差点は海老名市域にあるが、交差点の南西は、街道よりも南は綾瀬市域、北は海老名市域になっているが、宿場名の由来となった大塚は一体どこにあったのであろうか。

交差点の南側には幼稚園などがあり、そのすぐ向こうは崖状に落ち込んだ標高差10mほどの谷状地形になっている。そちらの方向は周囲では最も標高が高く、街道から見ても一段高くなっているのがわかる。

01 相模大塚 交差点より南西方向

塚を築く場所としては持ってこいのように思えるが、南に広がるV字谷が狭く、どことなく視界に広がりが足りない感じもする。亡くなった方々を弔う場所として、南向きの高台を選ぶ、ということもないだろうし、谷底も緑地帯などがあっていい雰囲気ではあるが、川と言うほどの流れも見当たらない。

一方、街道の北側は、こちらも50mほど行ったところで高さ15mほどの崖に面した高台になっている。

02 相模大塚 北西方向の眺望

03 相模大塚 北西方向の眺望

家々が立ち並ぶ以前はさぞかし見事な眺望だったのだろうと思う。今となっては見通しは利かないが、地図で見ると崖下は幅300mほどの谷になっており、谷底には目久尻川が流れている。この目久尻川(メクジリガワ)にも興味深い伝承が多く残されている。

目久尻川は今でも夏になれば蛍が飛び交う自然の豊かな川である。そんな谷を見下ろす北向きの斜面でもあり、崖沿いの高台には雰囲気のある雑木林も残っている。

04 相模大塚 大山街道北側の斜面

近くに墓地もあり、戦で亡くなった方々を弔う場所としてもふさわしいようにも思われたが、手がかりとなるようなものは見当たらなかった。

もう一点、「早川村と上今泉村が戦って出た死者を埋葬した」という由来についても少し気になっている。
時代はともかく、集落同士で死者が出るほど争う、というのは、一体どのような紛争だったのだろう。
古く、早川村は「渋谷荘」と呼ばれる渋谷氏(河崎氏)の支配地であり、早川城山には渋谷氏の城も築かれていたようである。一方で、上今泉村は、早川からの距離は僅か4kmほどで、早川城の渋谷氏と対峙するような勢力がいたというような情報は見当たらない。
宿場の労役負担や境界などを巡って、死者が出るほどの争いが起こったのだろうか。

05 相模大塚 北西の空

結局、塚のあった場所も、由来も、わからないことだらけ、ということがわかったに過ぎないが、最後にひとつ、色々調べた副産物、という訳ではないが、海老名市のホームページで見つけた、大塚宿に伝わる伝承を紹介しておこうと思う。

南北に谷が迫り、馬の背のような土地にある大塚宿は昔から風に無防備であった。
殊に冬の吹雪の晩はたいそう寒く、吹き溜まりで難儀する旅人も多かったそうだ。
江戸の頃、この宿場にあった大塚屋という旅籠に、とある吹雪の晩、道に迷った若い男女が一夜の宿を求めてきた。男は青白く、折り目正しい武家の青年で、連れの女はぞっとするほど美しかったそうだ。
さぞかし寒かろうと、宿の主人が火鉢を勧めても、二人とも手をかざすこともせず、そのまま布団に入って寝てしまったそうだ。
吹雪は夜通し荒れ狂い、地鳴りのように一晩中吹き荒れたが、夜明けとともに収まった。
朝になって、女中が二人を起こしに行くと、部屋に女の姿はなく、男は布団の中で冷たくなっていた。
昨晩、女中が片付けた草履は何故か一足しかなく、宿の戸口も内側から留め金が架けられたままだったという。
役人の検視が済んだ後、女中が部屋の布団を片付けようとすると、女の方の布団は人の形にずっしりと濡れていたそうである。
(海老名むかしばなし 第5集 「大塚っ原の雪女郎」より)


雪女が旅人の命を奪う、という伝説は、冬の寒さと旅の困難さを伝えるものだと思うが、この話は大塚宿が立地する土地柄も織り込まれていて、興味深い、と思う。

相模大塚の痕跡はわからなかったが、大塚宿が辿ってきた歴史の香りを少しだけ嗅がせてもらったような気がした。


(地図)
相模大塚地図


(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎氏 2007年7月 風人社
「戦国武将列伝Ω 『早川城と渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華』」 https://senjp.com/haya/
「海老名むかしばなし 第5集 『大塚っ原の雪女郎』」 海老名市ホームページ www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/tankyusha/minwa/index.html




2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(3)(神奈川県川崎市 諏訪神社/諏訪古墳?(二子・諏訪古墳群))

前回に引き続き、高津区の諏訪地区で古墳を探している。

前回見た二つの現存古墳のほかに、新編武藏風土記稿にはもうひとつ、3基目の塚として以下のような記述がある。

「今一つも同じ辺(字塚田通)にあり 古は広さ百坪許ありて高き塚なり 一年土人掘くつせしに武器財宝の類出せしか その人大に煩ひなやみけり 恐れて其のまま埋(?)めをけりと 今は僅の塚なり」

古くはかなりの広さの塚で、土地の人が武器財宝の類いを掘り出したらしいが、発掘した人は塚の祟りか大いに煩い悩んで、恐ろしくなってそのまま埋め戻してしまったそうだ、といった意味だろうか。

今となっては塚の名前も、所在もわからなくなってしまったようであるが、およそ二つの古墳とほぼ同じ地域にあったようで、川崎市市民ミュージアムの「加瀬台古墳群の研究」では「諏訪古墳」という名称で記載されている。


ところで、この塚とはあまり関係なさそうではあるが、すぐ近くに諏訪神社という神社がある。

前回紹介した、諏訪浅間塚に関する新編武藏風土記稿の記述に「諏訪左近」の名が出て来る。
「諏訪左近」とは、この地を開墾したとされる諏訪左近頼久のことであろう。
諏訪頼久という人は、その名のとおり信濃国の出身で、天正18年(1590年)、秀吉に滅ぼされた小田原北条氏、北条氏直の許を離れ、この地に定住したそうで、慶長年間(1596~1615年)になって、故郷の諏訪から諏訪大社の分霊を勧請し、諏訪神社を創建した、とのことである。

この諏訪神社は、諏訪浅間塚古墳の北100mほどのところにある。

諏訪浅間塚古墳の北側の道を北西に進むと、現存する古墳の土地を江戸時代に管理(所有?)していたとされる明王院という寺院の裏手に出る。墓地に面して道は急に細くなる。そのまま右に円を描くような狭いカーブを抜けると、すぐ右手、円弧の内側に諏訪神社の弐の鳥居が立っていた。

01 高津区諏訪神社

本殿で手を合わせ、写真を撮る許しを請う。

02 高津区諏訪神社

さて、見たところ、社殿の建てられている地盤は石段3段分ほど高くなっているが、境内には古墳のような盛り上がりは見当たらない。そりゃそうだ。そんなに簡単な話なら、とっくに諏訪古墳の痕跡として認識されていて然るべきであろう。

03 高津区諏訪神社

少し離れて眺めると、社殿の周囲は縁石のようなもので丸く縁取りされている。

04 高津区諏訪神社

縁石に沿ってそのまま社殿の裏の方へ回って見ると、社殿裏側は石段で囲われていないものの、やはり地盤が周囲よりも高くなっているように見える。

05 高津区諏訪神社

(つける薬のない「何か」のスイッチが入ったようであるが、)たかだか社殿の下の地面が少し盛り上がって見えるだけである。
神様の住まいである社殿を人間の住む地面よりも高い位置に祀る、というのは人間の心情であろうし、さほど珍しいことでもなかろう。

だがしかし、この状況を極めて恣意的に、古墳好きの都合だけで解釈すると、この盛り上がりは何となく「それ」っぽく見えなくもない。
しかも、神社前の道路の形状も何故か鳥居の南で円弧を描いており、あたかも「何か」を避けているようにも見えるではないか!

動悸が若干激しくなってきた。

とは言え、残念だが、やはりそんなうまい話はあるはずがなかろう。

新編武藏風土記稿では、この諏訪神社について、
「諏訪社 村の北の方にあり」
として、塚と何らかの関係があるような書き方はしていないし、3基の塚のある「塚田通」は村の南の方を指すのに対して、諏訪社のある村の北の方は「諏訪前通」という名の別の地区とされている。

諏訪社や塚について、断片的とは言え、これだけの伝承が伝わっているのだから、もし3基の塚のひとつに諏訪社が祀られたのであれば、その部分についての伝承だけが伝わっていない、というのも考えづらい。

そもそも私のような素人が考えつくようなことがこれまで誰にも検証されずに看過されてきた、などということもなかろう。
阿形の狛犬が、そんな私を見て大笑いしている。

06 高津区諏訪神社狛犬

それにしても、武器財宝の類が出土したのは、一体いつの時代だったのであろうか。
諏訪左近がこの地に定住・開墾するよりも以前の話であるならば、「大いに煩い悩んだ」祟りを鎮めるために、その地に故郷から諏訪神を勧請して祀った、と考えることもできそうであるが、全ては遥か数百年の時の彼方、今となっては確かめる術はなさそうである。

07 高津区諏訪神社


そんなことを考えながら、神社前の道をもと来た方へ歩いていると、北側の畑の中に小さな祠が祀られているのが見えた。

08 高津区諏訪の小祠

09 高津区諏訪の小祠

どことなく「僅かになってしまった塚の祟りを鎮める祠」のように見えたのは、きっとそればかり考えながら歩いていたからかも知れない。思い込みにも些か限度というものがあろう。

でも、これってもしかして・・・💛(いい加減にせぃ。)


(地図)
高津区地図③


(参考資料)
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/




2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(2)(神奈川県川崎市 諏訪浅間塚古墳/諏訪天神塚古墳(二子・諏訪古墳群))

新編武藏風土記稿によれば、川崎市高津区の諏訪地区には古くは3基の塚があったとされる。
そのうち現存しているものは2基、「諏訪浅間塚古墳」と「諏訪天神塚古墳」とされ、それらは、前回訪ねた二子古墳跡から500mほど東、川崎市出身の詩人で童謡作家の小黒恵子氏の童謡記念館の近く、現在の多摩川流路から500mほどのところに、100mほどの距離を置いて近接して残っている。

<諏訪浅間塚古墳>
小黒恵子童謡記念館の敷地の塀に沿って裏に回ると、北側に隣接する木立の中に小高い墳丘が見えてくる。

01 高津区諏訪浅間塚古墳

墳丘は思いのほか高く、よくお世話になっている「古墳マップ」によれば、高さ3.8m、直径19.5mの円墳だそうである。東側(写真で言えば向こう側)はかなり削平されており、遺存している部分は楕円形に近い、とある。

古墳はあいにく民家の敷地内にあるようで、立ち入りはできないようだ。隣の童謡記念館の裏庭からは手が届きそうな距離であるが、あいにく童謡記念館の閉館時刻も過ぎてしまったので、記念館の塀越しに背伸びしながら覗き込むしかない。塀の上から覗き込むのは、我ながらどうにも心苦しい。

02 高津区諏訪浅間塚古墳

こちらを睨んでいる犬は先ほどから動かないので、きっと置物に違いないが、心苦しいのもあって、つい、目を合わせるのが躊躇われる。とか言いながら、結局写真まで撮っている自分に少し呆れてしまう。「おまえ、いい歳して、そこまでするのか」と心の中では、思っている。
思っちゃいるけど、ヤメラレナイのである。

諏訪浅間塚古墳については、1830年頃に編纂された新編武藏風土記稿では次のように書かれている。
「(三つのうち)一つは字塚田通にあり百姓傳八と云うものの住居の後にて高さ三四丈ばかりの塚なり 上に富士浅間を勧請し石の祠を立て裏に諏訪左近七世の孫小黒傳八と彫(?)れり 宝暦(1751~1764年)の頃造立せしものなり 故に土人、浅間塚と云う」

高さ3~4丈と言えば9~12mであり、もはやちょっとした小山である。さすがにそれは若干誇張されているようにも思えるが、削平される以前はそれくらい大きな古墳だったのかも知れない。

03 高津区諏訪浅間塚古墳

多摩川沿いの微高地に屹立する高さ12mの古墳・・・。できることならタイムマシンにでも乗って、是非この目で実際に見てみたいものである。


<諏訪天神塚古墳>
諏訪天神塚古墳は先ほどの諏訪浅間塚古墳から100mほど南にある。

この古墳については、新編武藏風土記稿では次のように記されている。
「(三つの塚のうち)今一つも同じ辺(字塚田通)にあり四五十坪許にてさまて(?)高からざる塚なり 上に天神の社あるゆえ土人天神塚とよべり」

諏訪天神塚古墳は平成17年に測量調査、平成18年~20年にかけて発掘調査され、川崎市市民ミュージアムから調査報告書「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」が発行されている。それによると、古墳は直径16.4mの円墳と考えられているが、墳丘は大きく削平されており、高さ1.5mほどの低い高まりが畑の中に残されているに過ぎない状態となっている。

04 高津区諏訪天神塚古墳

墳頂部には「渡唐天神」の石造が祀られており、そのすぐ脇の地中には破壊された石室の壁面が残されていたらしい。

05 高津区諏訪天神塚古墳

06 高津区諏訪天神塚古墳 墳頂の渡唐天神

周溝部分は戦後暫くの間は水田として利用されており、現在の畑地に転用するに際して埋め戻されているらしく、墳裾は削平・埋め戻しの結果、著しく損壊しているようである。

07 高津区諏訪天神塚古墳

発掘の結果、埋め戻された周溝の底部からの高さは3.9m以上あると推定されているようであり、削平された部分を加味すると、削平前の墳丘の高さは6m近くと推定され、「至近に残る諏訪浅間塚古墳同様、墳丘高の顕著な円墳が往時には存在したのであろう。」とされている。

至近距離に2基、小高い円墳が並んでいる光景があたかも目に浮かぶようである。

08 高津区諏訪地区の夕暮れ

気が付けば、住宅地でおっさんがひとり、遠い目をして道端にボーっと突っ立っている。
西に陽が傾いてきた。

(地図)
高津区地図②


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/