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2018/04/20

義経の財宝伝説と富士塚(神奈川県大和市 公所浅間神社)

(世の中では年が変わって2019年になったが、このブログはまだ2018年の春である・・・。)

以前、町田市の「鶴間」の語源について、「義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた」という伝承がある、と書いた。
今回はこの、義経の財宝が埋められている、という伝説の地を訪ねてみようと思う。
今回は、まかり間違えれば俄か億万長者も決して夢ではない(かも知れない)。

国道246号の目黒交差点から国道16号の旧道を八王子方面に右折、境川を渡って緩斜面を緩やかに上った先は大和市の「下鶴間」である。
「鶴間」は平安時代の文献にもその名が見える古くからの地名で、今日でこそ相模原市(上鶴間)、大和市(下鶴間、鶴間)、町田市(鶴間)と幾つもの行政区域に分断されているが、中世の頃は全て合わせて「鶴間(紘間)郷」と呼ばれていたようだ。

現在、「下鶴間」と呼ばれる地域は国道16号の旧道の両側に広がっているが、このうち16号の東側、眼下に境川を望む高台上に「公所(ぐぞ)」という地域がある。

「公所」と書いて「ぐぞ」と読むのはかなり難解な部類ではないか、と思うが、「公所自治会ホームページ」によると、正確なことはわからないまでも、県内には他にも同様の地名が見られ、頼朝の時代に各地に置かれた関所の所在地を意味するのではないか、とされているらしい。このあたりには鎌倉古道や滝山街道などの古街道が今でも残っており、古くは「仕置場」、「牢場」などという字名もあったのだそうだ。

この「公所」のほぼ中央に鎮座するのが鶴間郷の総鎮守とされる「公所浅間神社」で、冒頭述べた義経の財宝伝説はこの公所浅間神社に伝わる伝承とされる。

01 公所浅間神社

神社の北側一帯からは古墳時代後期の集落遺跡が見つかっており、「下鶴間甲一号遺跡」と呼ばれているそうである。

02 下鶴間甲一号遺跡

ただ、この公所浅間神社は国道16号のバイパス建設工事に際して、昭和50年に現在地に移転しており、義経の財宝に関わる伝承は移転前の旧地に関わるものらしい。
神社の旧地は現在地よりも500mほど西、台地上を掘割状の切通しで通過するバイパスを見下ろす小さな丘として残っている。

03 下鶴間浅間神社遺跡

バイパス工事で削られる以前、神社の境内となっていた丘は現在よりもかなり大きかったようで、大和市が設置した解説板に載っている往時の白黒写真を見ると、木々が疎らに生えた南北に細長く小高い丘が映っている。

04 下鶴間浅間神社遺跡解説板(全景)

さて、義経が埋めた伝説の財宝はどこにあるのかしら、写真にある小高い丘はバイパス工事でどのくらい削られて、今残っているのは写真のどの部分なのかしら、そもそもバイパス工事の際、財宝は発見されなかったのかしら、などと考えながら、再び解説板に目をやると、思いがけず「塚」の古写真が二枚、掲載されているではないか。

05 下鶴間浅間神社遺跡解説板(塚)

解説板の後ろには丘の上に続く小路があり、登ってみると、丘の上には塚が一つ、残されていた。

06 下鶴間浅間神社遺跡塚遠景

近づいて見ると「富士塚(浅間の森)」と書かれた標柱が立っている。

07 下鶴間浅間神社遺跡塚富士塚標柱

この塚が解説板のいずれの塚かはわからないが、現在の地形図と照らし合わせて見ると、どうやらこれは丘の全景写真の中央付近に移っている方の塚ではないか、と思う。
よく見ると、全景写真の中央右手には社殿の屋根のようなものも見えているようなので、「旧社殿裏手の塚(1号塚)」が残されているのではないか、と思う。

08 下鶴間浅間神社遺跡塚近景

09 下鶴間浅間神社遺跡塚(南から)

おっと、いかんいかん、つい「塚」に目が眩んで、肝心の「財宝」を忘れるところであった。(目が眩むのは普通、「財宝」の方ではないかと思うが。)
鶴間一帯には冒頭の伝承とともに、一節の古い歌が伝えられているそうである。

「朝日があたって夕陽が映え、雀がチュンチュン鳴く所、大釜いっぱい鍋いっぱい」
「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆満杯」

これらはいずれも義経が密かに埋めた財宝のありかについて謡った歌である、とされる。

義経がこの地に財宝を埋めたのは、鎌倉入りを許されず失意のうちに京都へ戻る途上、という状況であるが、しかしながら何故、腰越から京都へ向かおうとしていた義経が鶴間に立ち寄ったのであろうか。
確かに鶴間には古くから、「矢倉沢往還」と呼ばれた街道が通っており、鎌倉時代には宿場機能も成立していたのかも知れない。東国から京都を目指すのであれば、この矢倉沢往還を通ることは当然のようにも思えるが、鎌倉から京都を目指すのであれば、鶴間を経由するのは些か遠回りな感が否めない。

考えて見れば、公所浅間神社の旧地周辺には崖地も多く、そうした崖には横穴墓も多く見つかっているそうである。こうした上代の横穴墓から副葬品が見つかったという話に加えて、もう一つの鶴間の由来伝承、鷹狩りの際、源頼朝がここで鶴が舞うのを見た、という伝承が融合されて、いつしか「義経の財宝伝説」が形成されていったのかも知れない。

いやいや、そんな「夢のない」話をしてしまっては、せっかくの歴史ロマンが台無しである。
あくまでも義経はきっと、弁慶を従えてここ、鶴間に至り、茜空に鶴が舞うのを見たに違いない。
きっとそうに違いない。


(地図)
公所浅間神社地図


(参考資料)
「公所自治会ホームページ」 http://guzo.d2.r-cms.jp/topics_detail4/id=51
「公所浅間神社鶴舞伝説」 http://sengenjinja.web.fc2.com/0densetu/densetu.html



2018/03/29

桜吹雪と富士塚(神奈川県川崎市 登戸富士塚/浅間社)

仕事帰り、いつものようにクルマで登戸周辺を通り掛かった。
もう夕方の五時を回っているが、陽が長くなってきてまだまだ当分明るいので、どこか寄り道できるところはないかと「ガイドマップかわさき」の遺跡地図を見ると、向ヶ丘遊園駅近くの神社に古墳マークが付いている。
遺跡番号:「多摩区No.14」、種別:「古墳」とあり、「古墳マップ」で調べてみると、どうやらこれは「登戸富士塚」という名前の、歴とした「古墳」のようである。

府中街道を左折して住宅街に入ると、途端に道幅が狭くなる。生活道路で多くの人々が行き交っているので恐縮しつつ慎重に進むと、ほどなく左手に浅間社の鳥居が見えてきた。神社前は路上駐車できるような道幅はないので、神社の脇道を入ったところにある月極駐車場の端に少しだけ停めさせてもらって、急いで神社の鳥居に戻る。

01 登戸富士塚古墳・浅間社遠景

境内の桜はだいぶ散り始めていて、参道は桜の絨毯のようになっている。

02 登戸富士塚古墳・近景

参道脇では三猿を従えた青面金剛さんが「おい、お前、無断駐車はいかんぞ」と仰っている(ように思える)。

03 登戸富士塚古墳庚申塔青面金剛像

富士塚の土台は古墳をそのまま利用しているらしく、「古墳マップ」によれば直径17m、高さ2.2mの円墳とのことである。墳丘上には清宮伝右エ門なる人物が文化3年(1806年)に祀った、とされる浅間社の祠があって、桜吹雪が西陽を浴びながら、はらはらと舞っている。

04 登戸富士塚古墳墳頂浅間社

祠に手を合わせ、急いで境内を出て西側から全体を見渡してみる。多摩川沿いの沖積低地にあるからだろうか、墳丘の立ち上がりだけでなく、墳丘のある場所は周辺よりも若干高くなっているように見える。

05 登戸富士塚古墳西から

これ以上の無断駐車は忍びないので、東側に停めたクルマに急いで戻り、見上げればここからも古墳がよく見えている。古墳と、墳頂の浅間様にもう一度手を合わせた。

06 登戸富士塚古墳東から

大急ぎで忙しなかったけれど、桜吹雪が印象深い、趣き深い古墳であった。

07 登戸富士塚古墳 墳頂の桜


(地図)
登戸富士塚古墳地図



(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/





2018/03/28

鎌倉古道と刑場伝説の塚(神奈川県横浜市 泣坂、餅塚)

町田市の木曽富士塚の桜があまりに見事だったので、もう一ケ所、寄り道したい場所がある。
横浜市青葉区に「田奈」という場所がある、と以前書いたが、その田奈と恩田川を挟んだ南岸、横浜市緑区の高台に「餅塚」という塚があり、桜の時期はとてもきれいなのだそうだ。

緑区の「緑区遺産」にも選ばれている「餅塚」は、横浜線十日市場駅の西、東名高速が足元を通る標高60mほどの台地の南端にあり、近くには「泣坂(なきざか)」という名の古い坂道や、「北門(ぼっかど)古墳群」という興味深い名前の古墳もあるらしい。
この「北門古墳群」はまた別の機会に譲ることにして、今日は「泣坂」を上って「餅塚」を見て帰ろうと思う。

横浜線の十日市場駅前の少し西で交差点を右折、高架の東名高速をくぐると道は急な上りに差し掛かる。これが現代の「泣坂」である。旧道は細道で右方向に逸れていくが、右折できないのでそのまま直進すると、ほぼ坂を上り切った「泣坂上」交差点で、右から旧道が再び合流してくる。旧道はそのまま新道を横切って左へと上って行くので、ここから旧道に入ると、道はさらに高台を上へ上へと上っていく。

「泣坂」というのもずいぶんとインパクトのある名前だが、緑区のホームページによると、古くは近くに処刑場があって、罪人が泣きながら上った、あるいは、罪人の泣き叫ぶ声がこの坂道まで聞こえて来たのでその名がついたのだそうだ。泣坂の由来も気になるが、まずは「餅塚」に陽が沈む前に辿り着かねばならない。
塚は旧道南側の一帯に広がる大きなマンション群の向こう側にあるので、住宅地を大きく南側に回り込んで行かねばならない。左折して登り、また左折して登り、を繰り返すと、ようやく高台を上り切ったのか、前方の家並みの向こうに夕焼け空が見え、高台の縁の道をそのまま進むと、公園の一画に大きな小山が見えてきた。

01 餅塚遠望

小山の上に登ると、頂上はもう一段、2mほど高くなっており、これが「餅塚」のようである。

02 餅塚

03 餅塚上の碑

緑区のホームページによると、餅塚の由来は、このあたりで茶屋を営んでいた老婆が餅を売っていたため、とある。
一説には、その老婆と娘さんがある日、山賊に襲われて命を落とした、という何とも悲しい伝承もあるらしい。
無闇に立ち入ると祟りがある、とされ、以前は雑草が生い茂るままになっていたそうだ。
昭和30年頃までは小さな祠があったそうであるが、その祠が朽ち果ててしまったので、塚の供養のため、昭和60年に地元の方々が石碑を建てたのだそうだ。

04 餅塚上の碑

05 餅塚上の碑

石碑に向かって手を合わせ、改めて見渡せば、塚上はひときわ小高く、周囲の眺望は抜群である。

06 餅塚上より北方の眺望

06 餅塚上から南方の眺望

眺望もよいが、周囲の桜もまた見事である。

08 餅塚の桜

09 餅塚の桜

茶屋を営んでいたという老婆やその娘さん、茶屋で一服した旅人たちも、一日の終わりに果たしてこんな光景を見たであろうか。

10 餅塚上の空

沈んでゆく西陽を見ながら、それにしても、何故ここに「茶屋」や「処刑場」などの伝承が残されているのだろう、と思った。

家に帰り、地図を眺めると、旧道は歪んだS字型に大きく蛇行して急斜面を南東から北西へと上っており、そのまま進むと旧大山街道の長津田宿、片町の地蔵堂に至る。調べてみると、どうやらこの道は鎌倉街道の中ノ道から上ノ道への古くからの連絡路であったらしく、南は霧が丘からズーラシアのあたりを通って鶴ヶ峰へと通じていたようである。街道沿いで眺望のよい高台ということであれば、水をどのように確保していたかはともかく、茶屋があった、というのも頷ける話ではある。(一説によれば、さらに古くはS字の旧道は東へもっと大きく蛇行しており、横浜線の向こうまで迂回していたそうである。)

一方で、処刑場と言うと、鈴ヶ森や三田、小塚原といった江戸の刑場が思い浮かぶ。
これらはいずれも江戸市中を出た外側に置かれており、結界としての意味合いを持つ「忌み地」のような場所でもあっただろう。同時に、こうした場所を街道沿いに置くことで、罪人の行く末を往来に「晒す」という意味合いもあっただろう。

恩田川周辺には鎌倉時代、恩田氏という有力武士がいたそうであるし、餅塚から南西に2kmほど離れた高台にある旧城寺の一帯には、室町時代、上杉憲清が築いたとされる「榎下(えのした)城」という山城があったそうである。餅塚近くの古墳群の名前にもなっている「北門(ぼっかど)」という地名はこの榎下城の北門を差すのではないか、という説もあるようだ。いつの時代かわからないが、榎下城の所領地の「結界」として、ここに刑場が置かれた時期があったのかも知れない。

「旧鎌倉街道探索の旅」という、最近復刻版も出た書籍に、次のような記述がある。

「『古道のほとり』(という書籍)には北門(ボクカド)について次のようにある。『ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる』と。」

この牧場の支配者が誰であったのかどうかはともかく、いつの頃か、ここに牧が置かれた時期があったのだろう。
所領地の外れの高台で近くに古墳などもあったため「忌み地」とされ、刑場が設けられた時期もあったのかも知れない。戦乱の世が終わると街道沿いで眺望がよいので茶屋ができ、そこで餅が売られたのだろう。不幸にも茶屋の主が命を落とした悲惨な出来事が、街道を行き交う旅人から巷間へと伝わる中で、古く刑場があった時代の伝承と相俟って、「餅塚」、「泣坂」の伝承となって、今に伝わっている、ということなのかも知れない。


(地図)
餅塚地図



(参考資料)
「緑区遺産(登録番号011)餅塚」 緑区ホームページ http://www.city.yokohama.lg.jp/midori/60guide/midorikuisan/isan011.html
「緑区の泣坂」 はまれぽ.com http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1128
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 1981年1月 芳賀善次郎氏 さきたま出版会





2018/03/01

高台に並ぶ五つの信仰塚(神奈川県川崎市 五所塚、長尾神社)

最近、昔話をする機会が増えたのは、年を取ったせいだろうか。

学生の頃、学習塾でアルバイトをしていた。
塾は小田急線の登戸駅近くにあった。
世田谷通り(登戸周辺の呼び名は「津久井道」)はいつもひどく混んでいたので、遠回りだがぐるりと迂回して通うことが多かった。そんな迂回路の途中に「五所塚」という地名が、確か、あった。
平成14年に閉園した向ケ丘遊園もその頃はまだ営業しており、遊園地のある生田緑地の丘陵を府中街道から急な切通しの坂で上っていくと、当時はほとんど気に留めることもなかったが、「五所塚」という町があり、そこから塾に通っている生徒もいたのを覚えている。
30年近い歳月を経て、再び仕事の行き帰りに近くを通る機会が増えたので、周辺の古墳や塚の所在を調べていると、ふと、あの頃よく通った「五所塚」の名前が蘇ってきた。どうやら近くに名前の由来となった塚があるようである。

八王子の北大谷古墳を見た後、天気もよいので高速に乗らず、府中街道で多摩川沿いに走り、まだ明るいうちに、生田緑地の丘陵下に至った。
いつ頃できたのであろう、「藤子・F・不二雄ミュージアム」の先の信号を曲がると、切通しの急坂はあの頃と変わっていなかった。
坂を上り詰めたところで脇道に入り、細くくねるような狭く急な上り坂でさらに高みを登って行くと、頂上に古く由緒ありそうな神社と、その右手にこじんまりとした公園が見えてくる。府中街道からの標高差は50mほど、切通しからでも30mほどはありそうな、丘陵の最も高い場所にあるこの公園に、町名の由来となったであろう五つの塚が並んでいる。

01 五所塚遠景

塚は南北に細長い公園に整然とほぼ等間隔で一列に並んでいる。

02 五所塚遠景2

五つの塚はいずれもフェンスで囲まれており、大きさはどれも大体同じぐらいで、直径4m、高さ2mほど、古くは「墳墓」という伝承があったそうであるが、現在では「中・近世に村境や尾根筋に築かれた十三塚などと同様の民俗信仰に基づく塚」と考えられているそうだ。

03 五所塚解説板

マウンドはどれも同じような形に見えるが、北側から南側に行くにつれて少し大きくなっていくように見える。

04 五所塚近景(北側の塚)

上の写真が最も北側、下の写真が南側の塚であるが、マウンドの高さと周囲のフェンスの高さを比べると、少し大きさが違うようにも見える。

05 五所塚近景(南側の塚)

加えて、南側の二つはマウンド上に太い樹木が生えていて、風格がある。枝打ちされた感じが鹿の角のようにも見える。
全く関係はないが、「ウルトラの父」には角があり、「ウルトラの母」にも角のようなものがあった・・・。五つあるので、手の指と同じく、端からお父さん、お母さん、お兄さん・・・、という訳でもあるまいが。

06 五所塚近景(南側の塚上の木々)

公園の南側は眺望が開けていて、遠く霞んで見える山並みは丹沢、左端のピークは大山であろう。

07 五所塚南側眺望

解説板にもあったとおり、この高台では「権現台遺跡」と呼ばれる縄文時代の集落跡が見つかっているらしい。発掘された竪穴式住居跡の平面形は「隅丸方形」でなく「五角形」をしていたそうで、同じく見つかった配石遺構には石棒が据えられていたらしく、こちらは狩猟に関連した祭祀遺構と考えられているらしい。

来る時に見た公園北側の神社は「長尾神社」という名前だそうだ。

08 長尾神社遠景

古くは「五所塚神社」、「五所権現社」と呼ばれ、毎年正月七日に行われる「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事は五穀豊穣と村内安全を祈る古くからの行事だそうで、馬に乗らずに矢を射る「歩射(ぶしゃ)」神事であるらしい。地区の7歳未満の長男二人と介添え役の父親が正座したまま的を射って、矢が「鬼」の字を貫けばその年は豊作になるのだそうだ。

「長尾」の由来はこの地区が昔、「長尾村」であったことによるようだが、そもそも「長尾」の地名は、史実がどうであったかは定かでないが、上杉謙信こと「長尾景虎」と所縁がある、ともされるらしい。
神社はもともと「神木(しぼく)長尾(谷長尾)」と「河内長尾(多摩川流路変更で新たに開墾された河川沿いの低地)」という二つの地区に分かれていた長尾村のそれぞれの地区の鎮守、「赤城社」と「五所権現社」を、明治42年、五所権現社に合祀したそうだ。

09 長尾神社境内

「五所権現社」というのは五柱の神様(権現様)を祀る社、という意味合いであろうが、確か以前、「五所宮」というものの由来は、統治を代理人に委ねていた国司が任地に赴く際、一之宮から五之宮まで全てにお詣りしたことになるよう一ケ所に合祀したもの、という記事を読んだ記憶がある。
合祀前の五所権現社も同じように、五つの塚の上にそれぞれ五柱の神様を祀っていたのではないか、とも思ったが、100年ほど前までそのような状態だったのであれば、合祀前の神社の姿が伝承として伝わっているであろうし、文化・文政期に編纂された「新編武藏風土記稿」でも、五所塚と五所権現社とは全く別個のものとして紹介されている。

「墳墓五ケ塚 小名神木谷ニアリ五ツナカラ並ヘリ 長尾景虎及従者ノ墳墓ナリト云傳フレトモ 景虎ハ天正六年越州春日山ノ城ニテ没セシコト世ニシル所 別ニユヘアル人ノ塚ナルヘシ 相傳フ昔此邉ヨリ石ノ匣ヲ堀出セシコトアリ 大サハ大抵一尺四五寸四方ニテ蓋ニ高印ノ二字ヲ彫リ其中ニ・・・(略)」

この五所塚には「五所塚」の「ゴショ」を「御所」と解釈する別の伝承もあるようである。
gannyan1953さんのブログで紹介されているが、昔、この地で平将門の軍勢と京都(御所)からの軍勢が戦となって御所軍が敗走、討死した五人の将兵を埋めたもの、との伝承もあるそうだ。
また、将兵と運命を共にしたと伝わる童子を供養した場所には「稚児松」と言われる松があったそうだが、松はその後、枯れてしまったという。

塚と社のいずれが先にあったのかはわからないが、もしかすると古くからあった五つの塚の傍らに祀られた鎮守の社がいつしか「五所権現」と呼ばれるようになったのかも知れない。(古墳好きの発想はあくまで「塚」が先、なのである。)

早春の日差しは穏やかで、森の梢のあちこちから時折ヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。何とも爽やかで気持ちのいいところである。神社の樹叢は川崎市の保存樹林に指定されているそうだ。
社殿裏は高台北東側の眺望がまた素晴らしい。

10 長尾神社北東側眺望

できることならこのままずっとここにいたい気もするが、現実逃避もここまでである。
やれやれ、いい加減帰らねば、仕事がたんとお待ちかね、である。


(地図)
五所塚 地図


(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「五所塚と権現台遺跡」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000089.html
「長尾神社の歩射」 川崎誌教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000112.html
「歴史と素敵なおつきあい」 https://rekisisuki.exblog.jp/18487761/




2018/01/02

馬の背の宿場に伝わる塚と伝説(神奈川県海老名市/綾瀬市 相模大塚跡)

前回に引き続き、今回も相模国の大塚シリーズ、今日は「相模大塚」を訪ねてみようと思う。

鶴間大塚を見た後、暗くなるまではまだ少し時間があるので、再び246の旧道に戻って南西方向に向かう。
この246の旧道も、古くは大山街道若しくは矢倉沢往還という昔からの街道であり、延喜式に見える旧官道東海道のルートを踏襲したものとされていて、下鶴間から相鉄線のさがみ野駅前まで、南西方向に一直線に進路を取っている。

ところで、そのさがみ野駅であるが、相鉄線が開通した当時、この近くにあった駅は「相模大塚」という名前であった。

(現在、さがみ野駅の東隣にある「相模大塚」駅は昭和18年に新設された別の駅らしい。しかも戦後の一時期、「さがみ野」駅はなく、今のかしわ台駅近くに「大塚本町」駅があったそうで・・・、この辺りは複雑なので深追いするのは止めておこう。)

このあたりには矢倉沢往還の宿場町、「大塚宿」があり、大山詣でが流行した江戸後期はたいそうな賑わいだったらしい。
明治以降、大正時代までは旅籠や商店が建ち並んでいたそうだ。
大塚本町の周辺は、現在でも狭い街道に沿って民家が密集していて、往時の雰囲気をよく残している。

さて、この「大塚宿」、古くは宿場の外れに大きな円墳があったためにその名が付いたらしい。
鶴間大塚以上に、こちらの大塚についても極めて情報が少ないが、「ホントに歩く大山街道」という書籍に以下のように記載されている。

「大塚宿は大塚本町交差点の近くにあった。・・・中略・・・宿場の西南端辺りに大塚があった。頼朝の時代、早川村と上今泉村がここで戦い、戦死者が出たため、ここに塚を作り、埋めたと伝えられている。当初、大きな円墳があったらしいが、今はない。」

宿場は現在の大塚本町交差点を挟んだ200mほどの範囲にあったようであるので、「宿場の西南端」と言うと、大塚本町交差点の南西あたりではなかったか、と思う。
このあたりは座間市、海老名市、綾瀬市の市境が複雑に交差している。大塚本町の交差点は海老名市域にあるが、交差点の南西は、街道よりも南は綾瀬市域、北は海老名市域になっているが、宿場名の由来となった大塚は一体どこにあったのであろうか。

交差点の南側には幼稚園などがあり、そのすぐ向こうは崖状に落ち込んだ標高差10mほどの谷状地形になっている。そちらの方向は周囲では最も標高が高く、街道から見ても一段高くなっているのがわかる。

01 相模大塚 交差点より南西方向

塚を築く場所としては持ってこいのように思えるが、南に広がるV字谷が狭く、どことなく視界に広がりが足りない感じもする。亡くなった方々を弔う場所として、南向きの高台を選ぶ、ということもないだろうし、谷底も緑地帯などがあっていい雰囲気ではあるが、川と言うほどの流れも見当たらない。

一方、街道の北側は、こちらも50mほど行ったところで高さ15mほどの崖に面した高台になっている。

02 相模大塚 北西方向の眺望

03 相模大塚 北西方向の眺望

家々が立ち並ぶ以前はさぞかし見事な眺望だったのだろうと思う。今となっては見通しは利かないが、地図で見ると崖下は幅300mほどの谷になっており、谷底には目久尻川が流れている。この目久尻川(メクジリガワ)にも興味深い伝承が多く残されている。

目久尻川は今でも夏になれば蛍が飛び交う自然の豊かな川である。そんな谷を見下ろす北向きの斜面でもあり、崖沿いの高台には雰囲気のある雑木林も残っている。

04 相模大塚 大山街道北側の斜面

近くに墓地もあり、戦で亡くなった方々を弔う場所としてもふさわしいようにも思われたが、手がかりとなるようなものは見当たらなかった。

もう一点、「早川村と上今泉村が戦って出た死者を埋葬した」という由来についても少し気になっている。
時代はともかく、集落同士で死者が出るほど争う、というのは、一体どのような紛争だったのだろう。
古く、早川村は「渋谷荘」と呼ばれる渋谷氏(河崎氏)の支配地であり、早川城山には渋谷氏の城も築かれていたようである。一方で、上今泉村は、早川からの距離は僅か4kmほどで、早川城の渋谷氏と対峙するような勢力がいたというような情報は見当たらない。
宿場の労役負担や境界などを巡って、死者が出るほどの争いが起こったのだろうか。

05 相模大塚 北西の空

結局、塚のあった場所も、由来も、わからないことだらけ、ということがわかったに過ぎないが、最後にひとつ、色々調べた副産物、という訳ではないが、海老名市のホームページで見つけた、大塚宿に伝わる伝承を紹介しておこうと思う。

南北に谷が迫り、馬の背のような土地にある大塚宿は昔から風に無防備であった。
殊に冬の吹雪の晩はたいそう寒く、吹き溜まりで難儀する旅人も多かったそうだ。
江戸の頃、この宿場にあった大塚屋という旅籠に、とある吹雪の晩、道に迷った若い男女が一夜の宿を求めてきた。男は青白く、折り目正しい武家の青年で、連れの女はぞっとするほど美しかったそうだ。
さぞかし寒かろうと、宿の主人が火鉢を勧めても、二人とも手をかざすこともせず、そのまま布団に入って寝てしまったそうだ。
吹雪は夜通し荒れ狂い、地鳴りのように一晩中吹き荒れたが、夜明けとともに収まった。
朝になって、女中が二人を起こしに行くと、部屋に女の姿はなく、男は布団の中で冷たくなっていた。
昨晩、女中が片付けた草履は何故か一足しかなく、宿の戸口も内側から留め金が架けられたままだったという。
役人の検視が済んだ後、女中が部屋の布団を片付けようとすると、女の方の布団は人の形にずっしりと濡れていたそうである。
(海老名むかしばなし 第5集 「大塚っ原の雪女郎」より)


雪女が旅人の命を奪う、という伝説は、冬の寒さと旅の困難さを伝えるものだと思うが、この話は大塚宿が立地する土地柄も織り込まれていて、興味深い、と思う。

相模大塚の痕跡はわからなかったが、大塚宿が辿ってきた歴史の香りを少しだけ嗅がせてもらったような気がした。


(地図)
相模大塚地図


(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎氏 2007年7月 風人社
「戦国武将列伝Ω 『早川城と渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華』」 https://senjp.com/haya/
「海老名むかしばなし 第5集 『大塚っ原の雪女郎』」 海老名市ホームページ www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/tankyusha/minwa/index.html