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2018/04/06

新座市内の古墳痕跡?(埼玉県新座市 夫婦塚跡(No.25遺跡)/稲荷塚(富士塚)跡(No.1遺跡))

新座郡の前身である新羅郡は郡境の閑地に置かれたことから、古墳はあまり多くは築かれず、古墳空白地帯となったのかも知れない、と書いたことがあった。
一方で、いやいや、きっとそんなはずはない、新座市にも古墳は実はたくさんあったに違いない、と思(願)いつつ調べていたところ、「新座市史」にこんな記述を見つけた。 

「No.25遺跡 畑中一丁目 
黒目川左岸の野火止台地、国道254号線の南方約150mに所在
『夫婦塚』と呼ばれる円墳と方墳の存在が伝えられるが、現在は宅地化されて消滅」

 「No.1遺跡 東北二丁目
 野火止台地上、東武東上線志木駅の西南約200mに所在
 県の遺跡台帳では『稲荷塚』(地元では字名から『富士塚』)と呼ばれ、志木駅を中心とする大塚古墳群に含まれている。
 昭和55年9月5日、宅地造成工事に伴い試掘調査を行い、土盛りを分断したところ土層は柔らかい黒色土のみであり、古墳らしい形跡は何ら認められなかった。よって当遺跡は古墳ではなく、時期不詳の塚であった可能性が高い」 

知らなかったのは不勉強な私だけなのであろうが、ほ~れ、見たことか。やっぱり古墳、いっぱいあったんじゃん、と思い、仕事のついでに見に行くことにした。(後者は『古墳ではなかった』というくだりは、もはやこの男の目には入っていないのである。)

 <夫婦塚(No.25遺跡)>
 練馬から川越街道を北上、和光市、朝霞市と進むと、やがて前方に野火止台地へ上る長い上り坂が見えて来る。台地の手前、崖下を縫うように流れているのが黒目川であり、目指す「夫婦塚(No.25遺跡)」はこの黒目川を望む台地上の縁にあったようである。 

川越街道から南に逸れて「畑中」という信号で右折するとすぐに台地上への上り坂が始まる。この道は明治時代の地図にも載っている古くからの道のようである。
 やがて坂の頂上付近に大きなマンションが見えて来る。 

01 新座市夫婦塚跡付近

新座市史に載っている「No.25遺跡」の位置図を見ると、遺跡はこの大きなマンションの敷地から、今通って来た道路を挟んで反対側の住宅地の方まで、およそ100m四方ほどの範囲にわたっていたように書かれているが、「現在は宅地化されて消滅」とあるとおり、あたりを見回してもそれらしい痕跡は見当たらない。
 
02 新座市夫婦塚跡付近
 
03 新座市夫婦塚跡付近

新座市史の他には全く手掛かりがなく、「夫婦塚」と呼ばれた円墳と方墳が一体どこにあったか皆目わからないのであるが、「夫婦塚」と呼ばれたのであれば、円墳と方墳はそれなりに近い距離に並んであったのではないだろうか、と思うし、相応の大きさの墳丘を伴っていたのではないだろうか、と思う。 
いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見ても塚や古墳を示す記号は見当たらなかったが、このあたりに人家の記号が目立ち始めるのは時系列的には昭和51年の地図以降であるので、それ以前の航空写真を見れば墳丘の痕跡などが映っているかも知れないと思い、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」で戦後の航空写真を穴が開くほど凝視してみたが、この一帯は「広葉樹林」だったようで、一面に広がる木立に埋もれてしまっているのか、判然としなかった。 

04 夫婦塚周辺航空写真(昭和22年) 
 (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和22年撮影(M676-106)の現地周辺を拡大 何となく中央やや上に丸い影があるような気もしないでもないが・・・。) 

<稲荷塚(富士塚、No.1遺跡)>
 時間もあまりないので、続いて志木駅の南西200mにあったという時期不詳の塚、「稲荷塚(富士塚)」を見に行こうと思う。 
こちらは新座市史の遺跡位置図の縮尺が大きすぎて、事前に場所が絞り込めていなかったが、志木駅南西にその名も「富士塚公園」という公園があるので、ここがその跡地なのだろうと思い、100mほど北、イオン裏のコインパーキングに運よく空車があったのでクルマを停めた。 
徒歩で富士塚公園に向かう前、もう一度、「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見てみた。 
やはり今、富士塚公園のある場所に塚・古墳マークは見当たらないな、と思った矢先、その100mほど北方に奇妙な記号があることに気が付いた。 
記号はゲンゴロウかミジンコのように見えたが、地形図にそんな絵が描かれているはずもなく、もしかするとこれは「塚・古墳マーク」ではないだろうか、と思う。

 05 今昔マップon the webより明治39年 2万分の1「志木」(部分)  

大正、昭和の地図で見ても同じ場所に「塚・古墳」記号が描かれているので、おそらくこれが昭和55年まであったという「稲荷塚(富士塚)」であろうと思う。国土地理院の航空写真でも、丸い塚の墳丘が確認できる。

06 稲荷塚周辺航空写真(昭和50年)  (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和50年撮影(CKT7415-C16A-14)の現地周辺を拡大 中央上に斜めに志木駅、中央下、丸で囲んだ部分が稲荷塚(富士塚)と思われる場所) 

そうか、ではこの場所は現在のどこにあたるのか、と思ったところでハタ、と気づいた。
今、クルマを停めたばかりのこの駐車場を取り囲む建物の向きがどうもおかしい。敷地がほぼ円形をしているのである。
 07 新座市稲荷塚跡


位置的にもおそらくここが稲荷塚(富士塚)の跡地で間違いないように思う。 

今回訪ねた塚・古墳はいずれも開発で消滅してしまっていて、手掛かりもさほどなく、その痕跡を探すだけに留まったけれど、こういう不完全な探索行も、これはこれでなかなか面白いものだ。 

おっと、いかんいかん、仕事の時間に遅れてしまいそうである。 

夜、帰宅してから少し文献を当たってみたところ、「埼玉の古墳(北足立・入間)」という書籍の「荒川流域右岸の古墳」の項の末尾に、「(伝)大塚古墳群」として以下のような記述があった。

 「(伝)大塚古墳群
  柳瀬川と荒川の沖積地にのぞむ志木市域には、『埼玉縣史』に『志木町古墳群』が登載され・・・『朝霞町の西北に接して柳瀬川・新河岸川に臨める台地に多くの古墳を存し、主として円墳で字大塚の塚ノ山は其の以て地名を来せるものであり、其他田子山の富士、久保の二墳、稲荷山の二墳、二塚の二墳、出口の休塚等其の数可なりに多きを見られる。』・・・しかし志木市史編さんにあたって、文献、古地図、実地調査、聞き取り調査を行ったが古墳と認められる墳丘はなかった。・・・昭和55年段階では古墳群と認められないという結論に達し・・・その後の調査でも、古墳と認識できる資料は発見されていない。・・・野火止塚は・・・台地の奥にあり、古墳の可能性はきわめて薄い。そのほかの『塚』も古墳とは考え難いものである。」 

「稲荷山の二墳」というのは志木駅南西の「稲荷塚」であろうし、「夫婦塚」は言及されているのかよくわからないが、これを読む限り、塚の山古墳も含め、このあたりの塚はいずれも古墳ではない、という文意に読める。
 専門家の方々が「古墳ではない」とするものを、それでも「古墳!」と言い張るつもりはない。
 ないのであるが、それでも遠い昔、誰かが何かしらの意図を以ってこうした塚を築いたことは確かであって、そうした人々は果たしてどのような思いをこれらの塚に込めたのだろうか、また、近世になって削平されるまでの間、そうした古塚は人々からどのように思われていたのだろうか。 
余計なお世話かも知れないが、そんなことをつい、思ってしまうのである。

 (地図) 
夫婦塚跡地図


稲荷塚跡地図



(参考資料) 

「新座市史 第一巻 自然・考古 古代中世 資料編」(新座市立図書館デジタルアーカイブ)http://www.lib.niiza.saitama.jp/das/detail?24&id=1 

「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html 

「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」1994年 埼玉県教育委員会

「埼玉の古墳(北足立・入間)」2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会





2018/01/14

沖積平野の微高地「神社」巡り(2) (埼玉県吉見町 氷川神社、熊野神社、稲荷神社、氷川神社)

妻のリクエストで埼玉県吉見町の道の駅「いちごの里よしみ」にイチゴを買いに来たついで(?)に、古荒川流域の沖積低地に点在する神社の「土台」を見て回っている。

道の駅でイチゴを買い終わってしまったので、神社や古墳にはさほど興味のない妻にとっては、見知らぬ町の見知らぬ神社巡りは退屈なようで、車内には微妙な空虚感が漂っている。(でもまだやめないのである。)

<氷川神社(北下砂)>
地頭方の頭殿神社から500mほど南に離れたあたりに、もうひとつ別の自然堤防が南北に細長く伸びている。
北側から、微高地の東端を通る道路に入って100mほど進むと、地図には載っていないが、道路から少し離れたところに神社の森が見えた。

01 氷川神社(北下砂)遠景

場所は竜渕寺という寺院の北、地図で見ると今泉地区と北下砂地区の境界線にまたがって建てられているようだ。
西陽が眩しくて見えづらいが、鳥居の扁額は「氷川大明神」と読める。

02 氷川神社(北下砂)鳥居扁額

鳥居をくぐり、東面して建つ小さな社殿に手を合わせる。社殿は1mほどの高まりの上に乗っている。

03 氷川神社(北下砂)本殿

横から見ると、社殿の基壇は円形もしくは方形に盛り上がって見える

04 氷川神社(北下砂)南から

立地する場所の標高は14.8mとやや低めだが、それでも周囲の田圃よりはいくらか高い場所にあるようだ。
マウンドがやや低めな感じは受けるが、ここも雰囲気としては「古墳感満点」と思うのである。

05 氷川神社(北下砂)西から


だが、しかし、いくら「雰囲気」があったとしても、解説板も何もないので、こうした神社の土台が実は古墳である、という確証は一向に得られない。
このままで行くと、ブログのタイトルも「滋味“神社の土台”」か何かに変えねばならないか・・・。


<熊野神社(丸貫)>
先ほどの場所から同じ微高地上を800mほど南に下ると、今度は少し境内の広い神社に着いた。
鳥居に扁額は見当たらないが、地図を見ると「熊野神社」とある。

06 熊野神社(丸貫)遠景

広い境内に比べるとやや小さな本殿は、1.5mほどの高まりの上に祀られている。

07 熊野神社(丸貫)本殿

08 熊野神社(丸貫)南東から

裾がコンクリートブロックで四角く囲まれているので、「雰囲気」はあまり感じないが、立地的にも先ほどの氷川神社と同じく、周辺の田圃より僅かに高い土地に建っている。

神社の社殿横には観音堂があり、その裏手、境内の南西一画には、立派な宝篋印塔がたくさん並んでいる。
よくわからないが、地元の武士の菩提所のようなところだったのだろうか。

09 熊野神社(丸貫)南西の宝筐印塔群


<稲荷神社(谷口)>
さらに南下しつつ、今度は自然堤防の西端に位置する神社を目指した。
西陽が傾いてきて判読がつらくなってきたが、扁額には「正一位稲荷大明神」とある。

10 稲荷神社(谷口)鳥居扁額

小さな社殿は10段ほどの石段のついた、大人の背丈ほどのこんもりとした基壇上に建てられている。

11 稲荷神社(谷口)本殿

何気なく覗くと手水石には、今朝張った氷だろうか、溶けずに張ったままだった。

12 稲荷神社(谷口)手水石

社殿の脇に回らせてもらうと、マウンドには土留めが巡らされていて、表面の土もどことなく新しいように見えるが、よく見ると社殿手前に大きな石材が見えている(ようにも見える)。

13 稲荷神社(谷口)南から

社殿の向こうは一面の田圃が広がる中、住宅が点在している。
西陽はほとんど山の端に隠れてしまい、左前方に小さく富士山のシルエットが黒く浮かんでいた。

14 稲荷神社(谷口)西側夕景


<氷川神社(万光寺)>
さすがに暗くなってしまったので家路に着こうと思い、ナビをセットしようと道路脇に停車したところ、すぐそこにまた神社があった。

15 氷川神社(万光寺)遠景

ここも社殿は1mほどの高まりの上に建てられているが、自然堤防の縁にあるのだろう、社殿の裏はさらに一段高くなっている。

16 氷川神社(万光寺)本殿

17 氷川神社(万光寺)東から


さすがに暗くなって写真のピントも合いづらくなってきた。助手席の妻もげんなりした表情をしている。


恐縮しながら家に帰り、吉見特産のイチゴの御相伴に預かりながら調べてみると、道の駅から最初に向かった高負彦根神社へ道の途中、すっかり素通りしていた「横見神社」はまさに古墳の上に社殿が建っているようだし、そもそも道の駅の西にある「久保田横見神社」や、南にある「とうかん森」なども古墳なのではないか、という説はあるようだが、その一方で、今日見て回った神社が古墳を転用したものだ、という説はいくら探してもついぞ見当たらなかった。

今日一日はすっかり、骨折り損の何とやら、だったようである。
けれど、隣でテレビを見ながらイチゴを食べている妻の顔は何とも嬉しそうなので、まあ、よしとしよう。

(地図)
吉見町地図(南部)


(参考資料)
「埼玉の古墳 [比企・秩父]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会



2018/01/14

沖積平野の微高地「神社」巡り(1) (埼玉県吉見町 高負彦根神社/ポンポン山、天満宮/頭殿神社)

イチゴを買いに行こうと思う。

埼玉県吉見町と言えば「吉見百穴」で有名な町であるが、最近は「イチゴ」の生産にも力を入れているらしい。

今や全国津々浦々に「道の駅」があるが、吉見町の道の駅は「いちごの里よしみ」といって、イチゴ押しである。道の駅好きで、しかも大のイチゴ好きの妻をドライブに連れて(古墳がある町へ)出かけるにはこの上ない。

吉見町は東に荒川、西に吉見丘陵が広がっており、丘陵端の崖面に穿たれた「吉見百穴」を始め、一説には500基以上の古墳が密集する地域らしい。4世紀前葉の築造で古式の前方後方墳とされる「山の根古墳」など、とても魅力的な古墳があるようだが、こうした古墳はいずれも山中にあるらしく、残念ながら妻を連れて行くには不向きなようである。残念だが吉見町の古墳巡りはまたの機会に譲ることにした。

それでも諦めきれずに地図を眺めていると、丘陵下、荒川流域の沖積平野のあちこちに点在する神社の記号が目についた。いずれも標高は周辺の田園地帯より1mほど高くなっているようなので、沖積低地にある自然堤防状の微高地上にいくつもの神社が祀られているようだ。

吉見町は、古くは「横見郡(評)」と呼ばれ、安閑天皇元年(534年)に起こったとされる武蔵国造の乱の勝者である笠原直使主(カサハラノアタイオミ)が朝廷に献上した4ケ所の屯倉(ミヤケ)のひとつ、「横渟(ヨコヌ)屯倉」の比定地とされる。ヤマト朝廷による東国支配の拠点として古くから栄えたためか、町域に延喜式内社が3社もあるほか、神社の数も多いようだ。
こうした神社の中には、自然堤防上に作られた古墳を転用して、その上に社が祀られたものなどもきっとあるに違いない。今回はこうした微高地上の「神社の立地」を観察して回ろうと思う。

(いつものことだが、どこかに出掛ける際、事前に入念な下調べをして行くことは稀で、今回も地図上で適当に目星を付けた神社に行ったのだが、残念ながら訪問しなかった神社のいくつかに、実際に古墳上に祀られた、とされる神社がいくつもあったらしいが、それがわかったのは例によって帰宅した後であった・・・。)

とにかく、まずは道の駅に向かい、昼食を済ませつつ、イチゴをこれでもか、とばかりに買い込んだ。
神社巡りの手始めに、町の北部の丘陵上にある「高負彦根(タカオヒコネ)神社」に向かうことにした。

<高負彦根神社(ポンポン山)>
高負彦根神社は町域に3社ある延喜式内社の1社であり、吉見丘陵が半島状に低地に突き出した「玉鉾山」と呼ばれる高台の頂上にある。

高負彦根神社(遠景)

創建はこの地区の神社の中で最も古いとされ、社記によると何と和銅3年(710年)の創建と伝わるそうだ。天平勝宝7年(755年)には既に官社となっていたというから、相当の古社である。

高負彦根神社(鳥居扁額)

祭神はいずれも出雲系の味鉏高彦根尊(アジスキタカヒコネノミコト)、大己貴尊(オオナムチノミコト)とされるが、解説板によると「素戔嗚尊(スサノオノミコト)とも言われる」とある。

高負彦根神社とポンポン山由来

沖積平野の微高地神社巡りに先立ってまずここを訪れたのは、3社ある延喜式内社のうち最古の創建ということもあるが、社殿の建つ玉鉾山に伝わるという伝説を確かめてみたかったからである。

玉鉾山は別名「ポンポン山」とも呼ばれ、解説板にもあるとおり、地面を強く踏むと「ポンポン」という音がするそうである。
社殿脇に裏の高みへ至る道があり、見上げると解説板にある写真と同じ風景が見えている。

ポンポン山

果たして人間が強く足踏みをしたくらいで本当にそんな音がするのだろうか、半信半疑であったが、周囲に人影がないことを確かめてから、夫婦揃ってその場で地団駄を踏んでみると、確かに鈍い反響音のような音がする(ような気がする)。

吉見町のHPによれば、その昔、財宝の隠し場所を探していたある長者がこの神社に詣でたところ、「この岩山に埋めれば私が守ってやろう」というお告げがあったため安心して財宝を埋めた後、後世になって盗人が山に入って財宝を掘り出そうとしたところ「ポンポン」という山鳴りがしたので恐れて逃げ出した、という言い伝えが残っているらしい。

青面金剛(宝暦六丙子(1756)年)
(宝暦六丙子(1756)年の銘のある青面金剛像)

この「ポンポン」という音については、地下に空洞がある、という説や、ローム層と砂岩の境界で音が反響している、という説などがあるそうだ。
地下の空洞というのはもしや古墳の石室なのではないかしら、と思い訪れてみたが、頂上周辺の地質は土ではなく岩盤のようで、残念ながら古墳が埋もれている、という雰囲気ではないようであった。

山頂部

それはともかく、ポンポン山の頂上からの眺望は頗るよく、青空が目に染みる。

山頂からの眺め


<塚状地形?>
高負彦根神社からそのまま山あいを北東へ進むと、やがて道は緩い下り坂で沖積平野へと降りていく。
前方に広い田畑が広がる間際、道が目前の高みを迂回するように巻いているので停まってみた。

塚状地形?

何かはよくわからないが、高みの上に上がる階段が付いているので、庚申塚か何かだろうか。

塚状地形?


<天満宮/頭殿神社(地頭方)>
沖積平野に出ていくつかの神社を見学した後、南東へ進むと、北吉見郵便局の北、「地頭方」という変わった字名の地域に至る。吉見北小学校の東隣にこじんまりと「天満宮」がある。

地頭方 天満宮(遠景)

向かって右に建つ背の高い方の鳥居に掛かっている扁額に「天満宮」、左側の鳥居の扁額は「頭殿神社」と読める。

地頭方 頭殿神社扁額

左側の鳥居の向こうに高さ2mほどのマウンドが見えている。

地頭方 頭殿神社のマウンド

奥行きは5mほどだろうか、手前側は削られているのか、玉石で巻かれているが、向こう側へ回ると円形の盛土から、何やら石材がところどころ顔を出しているように見えなくもない。

地頭方 頭殿神社のマウンド

地頭方 頭殿神社マウンド

立地としては周辺の標高が14~15m前後であるのに対して、この神社の地盤は標高16mほどで、高負彦根神社の崖下から東に向かって鎌のように湾曲しながら沖積平野に横たわる微高地の北の縁近くに位置している。

見た目、立地とも、個人的には「古墳感十分」と思うのだが、裏付けとなる情報は何もない。


さて、この後も続けていくつかの神社を巡る予定であるが、長くなりそうなので続きはまた次回。


(地図)
吉見町地図(北部)
(茶色マーカーの神社は古墳らしく見えなかったので紹介しなかった。)


(参考資料)
「吉見町HP」 http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_ponponyama.html



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2017/07/03

金色の雲を見上げる台地下の塚(埼玉県川越市 がんおい塚?)

前回紹介した「高階村史」に、極めて気になる記述があった。

「藤間の諏訪神社の低地にあるがんおい塚もこの時代の古墳かもしれない」。

砂新田のシベイ塚を見た後、時刻は既に18時半を回っているが、地図を見ると藤間の諏訪神社はここから僅か1kmほどの距離である。やや陽も傾いてきたが、急げば明るいうちに見に行けそうである。

「がんおい塚」とはおそらく「雁追塚」であろうから、何となくイメージ的に、西向きの眺望の頗るよいところではないか、と勝手に想像していたが、藤間の諏訪神社はそんなイメージとは反対向きに、南西から北東に走るシベイ塚と同じ舌状台地のちょうど反対側、南東を向いて崖の際に建っていた。

08 川越藤間諏訪神社

神社自体は古くからこの地に祀られているらしく、見たところ崖の縁に直接建てられているようである。よくある「神社古墳」のように、神社の土台が塚状になっている訳ではなさそうである。

09 川越藤間諏訪神社

境内にもそれらしきマウンドは見当たらないが、忠魂碑の立っているあたりの地面がやや膨らんでいるようにも見えるし、境内の南西の隅の方もやや盛り上がっているようにも思えるが、「高階村史」には「諏訪神社の低地にある」とあるので、境内を探すのではなく、眼前の崖を下りた周辺を探すべきなのかも知れない。

10 川越藤間諏訪神社忠魂碑

11 川越藤間諏訪神社境内奥

とは言え、何となくまだ境内をウロウロしてみる。御神木とされる杉の古木の切り株が大切に保存されている。

12 川越藤間諏訪神社御神木

境内から目前の崖下を望んでみるが、周辺はすっかり住宅が立ち並んでいて、ぱっと見ではそれらしいものは見当たらない。

13 川越藤間諏訪神社より崖下を望む

石段を下りて崖下をウロウロと往復してみたが、やはりそれらしい塚は見つからない。

14 川越藤間諏訪神社下の崖面(南西側)

15 川越藤間諏訪神社下の崖面(北東側)

神社の目前ではなく、どこか離れたところにあるのだろうか、手掛かりが全くなく、お手上げであるが、どうにも諦めがつかないので、崖に沿ってそのまま北東方向に進んでみた。

舌状台地上は末端まで住宅地が続いており、台地が尽きたところは新河岸川の川岸であった。
夕暮れで川面はよく見えなかったが、夕雲が金色に光っていて、思わず息を飲んだ。

16 川越藤間新河岸川夕景

がんおい塚は見つけられなかったが、その代わりに息を飲むような見事な夕陽を見せてもらった。
夕空に雁は飛んでいなかったが、その気になって見れば、金色に光る雲が雁の群れにも見えなくはない。。
今日はこの夕陽で締めくくることにして、家路に着くとしよう。

振り返れば、東の雲まで金色に染まっていた。

17 川越藤間新河岸川夕景

頭上に広がる金色の雲を見上げながら、ふと、がんおい塚からの眺めはこんなだったのかも知れない、と思った。


(地図)
川越藤間がんおい塚?地図



(参考資料)
「埼玉の古墳 [北足立・入間]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会
「川越雑記帳2(川越見て歩き)」 http://blog.goo.ne.jp/kwg1840go



2017/07/03

「古墳のような」神社、再び(埼玉県川越市 シベイ塚)

昨年から続いていた大きな仕事が今日、ようやく一段落した。
時刻はもう夕方であるが、まだ明るいので、以前から気になっていた、もうひとつの「古墳のような神社」を見に行きたいと思う。

川越市砂新田は南西から北東に向けて走る舌状台地を望む崖下にあたり、標高は13~14mほどである。以前、この低地部分にある「古墳のような」神社として「春日神社」を紹介したが、実はその近くにもうひとつ、これこそ「古墳ではないか」と言われている、神社を頂いた塚がある。

「埼玉の古墳」という県内の古墳を網羅した5冊シリーズの書籍の「北足立・入間」編、「新河岸川流域の古墳」の項で、「旧高階村砂新田の古墳」と題して、「次兵衛塚/シベイ塚」という塚が紹介されている。

前述の春日神社から南に800mほど、低地を見下ろす舌状台地上の北の際、高階中学校前の駐車場の奥に、裾をブロック塀で囲まれた大きなマウンドが見えている。

01 川越砂新田シベイ塚遠景

塚の直径は20mくらいあるだろうか、高さは7~8mで、墳頂に吉田神社が祀られている。

02 川越砂新田シベイ塚近景

左手(南)から見ると、赤い倉庫のような建物は宙に浮かぶように建てられている。

03 川越砂新田シベイ塚南から

正面に設けられた急な石段を上ると、頂上には件の倉庫の入り口と、小さな吉田神社の祠が立っていた。

04 川越砂新田シベイ塚墳頂への石段

05 川越砂新田シベイ塚墳頂吉田神社

塚の裏側は民家に接していてよくわからないが、頂上から見回す限りでは、墳丘はほぼ円形をしているようである。

06 川越砂新田シベイ塚墳頂より墳裾

古墳は高さ5mほどの舌状台地の北の際に築かれており、北西側の地盤は低くなっているので、墳頂から西を見ると家々の屋根が目線よりも下になり、見晴らしがよい。

07 川越砂新田シベイ塚墳頂より西を見る

この塚は古くから知られた塚のようで、「埼玉の古墳」によると、「新編武藏風土記稿」で
「次兵衛塚 高サ二丈許」
と紹介されているほか、言い伝えでは川越藩主に仕えた吉田次兵衛という人物が、自らの領地に武具を埋めて築いた塚とされる。この吉田次兵衛は、榛名神社の申し子を自らの子として大切に育て、やがてこの地で木喰上人となったことから、榛名湖の竜神もこの地には雷や水害をもたらさなかった、とされているそうだ。

江戸時代に小林一茶が草津への途次、ここを通った際の記録「草津道の記」にも似たような伝承が記されているそうだ。

「川越入口坂を尾頭坂(烏頭坂:ウトウザカ)、爰にシベイ塚といふ有 そのかみ何某どのゝ姫君、従者あまた供して上州ハルナ山に参り玉ひけるに、姫いかに思ひけん、絶頂の沼に身投げてうせぬ かくて守護なせる者ども、魚の水に放れ、鳥の羽うしなひたるやうに思はれて、館へ返るもよしなして、髪反りこばちて、姫の菩提とひける塚となん里人のかたりける しかるに姫は、彼沼の蛇となりて六月氷を降らせけるにも、此村々人々シベイ塚シベイ塚と唱へ、又嘗て田畠に立れば、其災を除とかや」

旧高階村の村史では、「後に治兵衛についての伝説が付け加えられたが、この頃(大昔?)の古墳とみてさしつかえないものであり、藤間の諏訪神社の低地にあるがんおい塚なども、あるいはこの時代の古墳であるかもしれないし、砂新田には他にも古墳の跡でないかとみられるものもある。」とされているそうだ。

時代が下って「川越市史」では、「治兵衛塚と駅近くにもう一基あるが古墳としての確証なく、それぞれ一基ずつぽつんとあるのはおかしいが、所沢街道の砂久保の手前の山林中の二基のうち一基からは円筒埴輪が出土しているので古墳ともみられるが、一、二基ずつ散在するのは了解し難いところである」と古墳説を疑問視しているようであるが、この際、こうした消極的な説は見なかったことにしたいと思う。

何の根拠もないけれど、古墳好きとしては、舌状台地の際に立つシベイ塚はやはり古墳なのではないか、と思いたいのであるが、古墳であろうと、そうでなかろうと、いずれにしても永年の風雪に耐えた貴重な文化財であることは紛れもない事実であるし、それだけでもう、十二分に感服に値することだと思うのである。

(地図)
川越砂新田シベイ塚地図


(参考資料)
「埼玉の古墳 [北足立・入間]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会
「川越雑記帳2(川越見て歩き)」 http://blog.goo.ne.jp/kwg1840go