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2018/06/19

「水戸の始まり」の前方後方墳(茨城県水戸市 安土星古墳群跡/大井神社)

趣味で古墳を見に行くことは、間違いなく「不要不急の外出」であろうから、自粛すべしと心得ている。
けれど、止むを得ず仕事で外出せねばならない日もある。出来れば出かけたくはないのだが、仕事なので仕方がない。
そんな仕事への行き返り、時間の許す範囲で、移動経路から大きく外れずに行ける範囲の古墳であれば、必ずマスクを着用した上で、できるだけ誰にも会わないよう、手短かに写真を撮ってすぐに帰る程度なら許容範囲かしら、と思っているけれど、果たしてどうなのだろう。
もとより古墳を見に行って、誰かに会うようなことは滅多にないのだが・・・。

これはまだ、世の中がこんなことになろうとは微塵も思っていなかった、2018年6月の夕方の話である。

水戸での仕事が終わり、時計は17時を回っているけれど、帰りがけにもう一カ所、寄り道したい場所がある。以前から是非見たい、と思っていた「安土星(あどぼし)古墳」である。

「安土星古墳群」は水戸市飯富(いいとみ)町の安土星という地域にあった古墳で、県北地域最古級の前方後方墳であったそうだが、国道バイパス工事の採土作業のため発掘調査が行われた後、残念ながら保存されることなく削平されてしまい、今は駐車場になっている、という。

水戸駅前の市街地から国道123号を北西に走り、水戸北インターを横目に常磐道をくぐって左折すると、田園風景の向こうに古墳のある細長い台地が横たわって見えている。時刻は18時半を回って、西の空がだいぶ茜色に染まってきた。暗くなってしまうので急がねばならない。

01 夕景の舌状台地

台地に向かって真っすぐ進むとほどなく「飯富特別支援学校入口」の信号に差し掛かる。信号右上に見えている駐車場が「安土星古墳」のあった場所であるらしい。

02 特別支援学校入口信号

03 飯富特別支援学校校門前

駐車場は学校敷地内で勝手に立ち入るわけにも行かず、一言断ろうにも時間が遅いためか人影がない。
仕方がないので、学校入口の信号近くの公園から駐車場を見上げて空想に耽るほかない。

04 台地下公園から見上げた古墳跡地

こうして見上げている高台は、西を那賀川本流、東を田野川で細長く削られた舌状台地が南に向かって突き出した末端部分で、高台と麓の比高差は10~15mほどある。
肝心の古墳群については、インターネットなどで調べてもなかなか詳しいことはわからなかったが、水戸市教育委員会他から成る調査団が1981年に発掘調査した記録を纏めた調査報告書、「常陸安土星古墳」によると、古墳群はもともと13基の古墳から成る古墳群であったらしく、分布域の最南端、目前の台地上の前方後方墳が1号墳と名付けられ、古墳群中の盟主墳であっただろう、とされたようだ。
1号墳は自然地形を利用した地山削り出しによる全長約40mの前方後方墳であったが、南東方向、尾根の先端に向かって検出された前方部はやや歪んでおり、長さもごく短く、しかも盛土は全くなかったらしい。括れ部西側には造出状の突出部があり、後方部はやや縦長、長方形の二段築成で高さは2mほどあったらしい。主体部は検出されなかったようだが、埴輪を持たないことから古い時代の築造と考えられ、出土した土器片などから判断して5世紀前半頃の築造であろう、とされたそうだ。

なお、後方部北西に隣接して東西10m、南北9mの方墳が確認され、こちらは2号墳とされたが、周溝の形状などから築造順は1号墳が先行するものとされたようだ。

この辺りは那賀国の中心地として古くから開けた場所であったらしく、1kmほど北方には、延喜式内社で常陸国那賀郡七座の筆頭社としてその名の見える大井神社がある。

05 大井神社鳥居

露出の加減で写真からはそうは見えないかも知れないが、だいぶ日が傾いて辺りが薄暗くなった。薄暮の無人の境内を一人で歩く根性はあいにく備わっていないので、参詣はまたの機会にしようと思う。

この神社の祭神は建借間命(タケカシマノミコト)で、大和朝廷から派遣された建借間命がこの地域を平定、那賀(仲)国造に任命された際はこのあたりを根拠地としたと考えられるらしく、水戸市商工会議所のホームページには、この地が「水戸の始まり」とある。
そう聞くと、安土星古墳が建借間命の墳墓か、とも思ってしまうが、建借間命の墳墓と伝わるのはここから那賀川沿いに5kmほど南東に行ったところにある巨大な前方後円墳「愛宕山古墳」であって、ここは昨年の冬に訪れたことがある。

06 愛宕山古墳(2017年11月)

愛宕山古墳は6世紀初頭の築造で、考古学上は安土星古墳の2代後の首長墓とされ、両者の間には首長墓がもう1代、かつて愛宕山古墳に隣接して存在していた「姫塚古墳」が挟まると考えられるようだ。

大井神社は江戸時代の初期、寛永年間(1624~1645年)までは安土星古墳のすぐ近くにあったそうで、古墳近くには当時の御手洗池の跡が残っていたようである。明治6年まで大井神社の社地は現在よりもずっと広く、安土星古墳も境内地内にあって別名「大井御立山」と呼ばれ、神社に残る寛政期(1789~1801年)の絵図には前方後円墳としてその姿が描かれているのだそうだ。

ところで、鳥居横の由緒書きには「建借間命はもと肥の国の意富臣(おふのおみ)」とある。

07 大井神社由緒書き

以前、潮来市の大生西部古墳群と大生神社について調べた際、「多(オオ/オウ)氏/大生(オフ)氏」についてもいろいろと調べた。オオ/オウ/オフ氏は、建借間命と同じく神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)を祖とし、鹿島神宮を奉斎した中臣氏もオオ臣族としての那珂臣族で、オオ氏とは同祖同族とする説もある。
この大井神社ももとは「意冨比(おほひ)神社」若しくは「鹿島明神」と呼ばれていたようであるが、この「カシマ」は「建借間命」の「カシマ」を表す、という説もあるようだ。
鹿島神宮も元々はオオ氏の奉斎した神社であるという説もあるようで、時代が下るにつれ、国家的な祭祀の中心に中臣氏が台頭、東国の神郡祭祀に際しても、東征以降、この地方の政治/祭祀権を握っていたオオ氏が、その立場を中臣氏に徐々に奪われたのではないか、と素人なりに考えたが、それと同じことがここ、祭祀権をオオ氏が握っていた大井神社と、これに代わって那賀国の政治/祭祀権を掌握するようになった新勢力(吉美侯部(キミコベ)氏?)とその本拠地である水戸駅南の台地上にある吉田神社/吉田古墳群でも起こったのではないか、という解釈が前述の調査報告書には紹介されていて、興味深かった。

大井神社の宮司である松本氏は意富(オフ)臣の一族であるそうだし、そもそも「飯富」という地名も「飫富(オフ)」の誤記であろう、とされているのだそうだ。

最後に、そもそも「安土星」とは惑星の「土星」の古い和名で、読みは「あどほし」、「あとぼし」、「あづちのほし」、「安曇星」、「梓星」などとも表記されたらしい。(「あどほし」と聞くと、年代的には水森亜土さんと小林亜星氏を連想してしまうが・・・。)
何故、この地域の字名に土星の名前がつけられているのか皆目わからないけれど、自分が生まれ育った土地に星の名がついていたとしたら、ロマンがあってさぞかし素敵だっただろう。
ただし、もしそうであったなら、趣味は古墳巡りではなく、きっと天体観測に嵌っていたに違いない。

外出自粛もあることだし、天体望遠鏡、買ってみるかなあ。

<投稿 2020.4.10>

(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸安土星古墳」 1982年 常陸安土星古墳調査団
「水戸の始まりの史跡と信仰」 郷土いいとこ再発見 水戸商工会議所 https://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shinkou/




2018/06/19

東海十二景の前方後円墳(茨城県東海村 富士神社/二軒茶屋古墳群)

久しぶりに水戸へ行くことになった。
加えて今回は水戸へ行く前に、少し足を延ばして東海村で別の用事を済ませる必要があった。東海村に行くのは初めてである。

いつものように、どこかで道草ができるよう1時間ほど早めに出発したが、これまたいつものように、首都高の渋滞に阻まれ、東海村で用件を済ませた頃には残り時間は30分を切っていた。
あわよくば前方後方墳や六角形墳などが集中するという真崎古墳群や、その近くにある権現山古墳などを見たいと思っていたが、残念ながら間に合いそうにない。
水戸へ向かう道すがら立ち寄れそうな古墳はGoogleマップでは見当たらなかったが、(当時はまだ閉館していなかった)昇寛さんのブログ「埼群古墳館」で見たところ、国道6号線へ戻る途中に「二軒茶屋古墳群1号墳」という古墳があるようなので、ここに立ち寄ることにした。

6号線の二軒茶屋交差点の100mほど手前を左折、住宅地を抜けると前方にこんもりとした木立が見えてきた。南側の空き地にクルマを停めると、目前に小ぶりな鳥居と真新しい看板が立っている。

01 富士神社東側鳥居

02 東海十二景解説版

「東海十二景」というのは、1991年に東海村が公募によって選定した村内12カ所の景勝地で、ここ「冨士神社」は、「森林に覆われ、古墳の墳頂に祀られた神社の風景と周囲の田園との調和が素晴らしい」ことから十二景に選ばれたという。神社の祭神は木花開那姫命で、冨士浅間神社を1610年(慶長15年)に勧請して創建された、とある。

03 富士神社/二軒茶屋古墳群遠景(南東より)

神社は古墳の墳丘、おそらく後円部上に立っていて、思いのほか小高いところに社殿が見えている。

04 二軒茶屋古墳1号墳後円部上の富士神社社殿

地図で見ると、この場所は標高25mほどの台地上を「つ」の字状に走る浅い谷に向かって北から突き出した比高差2mほどの半島状の高まりに位置しているようである。古墳の墳丘は全長40m、後円部径25mの前方後円墳とされ、調査などは行われていないらしく、築造時期など詳細はわからないようだ。
墳丘は「若干切り崩されて」いるためか、前方部はどうも判然としない。

05 二軒茶屋古墳1号墳前方部

解説版にもあったとおり、ここは「二軒茶屋古墳群」で、他にも円墳などがいくつかあるようだ。
そう思って西に向かって伸びる参道に沿って歩くと、どうやらそれらしくも見える高まりもある。

06 参道脇の高まり

さらに一の鳥居を出て少し脇に行ったあたりの道路沿いもどことなく膨らんでいるようにも見える。

07 西側鳥居横の高まり

周辺をもう少しじっくりと観察したいところだが、今日のところは残念ながら時間切れである。

冨士社晩霞の碑文には、「人声稀れに想いは悠久の神の代に遡る」とあるけれど、悠久の時の流れを遡るのは、さすがに30分では難しかったようである。

<投稿 2020.3.19>

(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/ (残念ながら閉館中)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「東海十二景」 東海村ホームページ https://www.vill.tokai.ibaraki.jp/sangyo_business/shoko_kankogyo/2551.html
「冨士社晩霞」 東海村Wai-Waiにぎわい情報局 http://tokai-mura.info/fujisyabanka/





2018/03/12

那珂川を望む台地上の「十三塚」(茨城県那珂市 西木倉古墳群(十三塚)、東木倉古墳群)

一本松古墳を見に行った後、東側の河岸段丘上にある「西木倉(にしきのくら)古墳群」にも立ち寄ってみることにした。

一本松古墳のある「上河内(かみがち)」は段丘下の沖積低地で行政区域は水戸市であったが、東隣の段丘上に位置する「西木倉」は那珂市になるようだ。
昭和30年の町村合併で「那珂町」となる以前、西木倉地区を含む台地上の一帯は「五台(ごだい)村」と呼ばれていたそうである。台地上の五つの村(豊喰新田、東木倉、西木倉、中台、後台)が合併したのでそのように名付けられたのだそうだ。

<西木倉古墳群(十三塚)>
広々とした田圃の中を北東方向に進み、狭い坂道で20mほどの高さの崖線を上る。道の両脇は鬱蒼とした雑木林で、昼なお暗い急な坂道であるが、登り切ったあたりで右手がぽっかりと開け、道路のすぐ脇に一面を笹に覆われたこんもりとした茂みが見えてきた。

01 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

笹で覆われているので一瞬、古墳かどうかわからなかったが、すぐ脇に「西木倉古墳群(十三塚)」の標柱が立っている。

02 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

03 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

「いばらきデジタルまっぷ」で調べると、「円墳9基、円墳(一部破壊)1基」の古墳群で、現況は「山林、墓地」となっている。昇寛さんの「埼群古墳館」を見ると、ここよりも北側、共同墓地の周辺に複数の墳丘があるようだ。

西木倉古墳群については、「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・」というブログに、那珂市歴史民俗資料館に関する記事が載っていて、それによるとこの古墳群は古くは「十三塚」と呼ばれており、往時は13基から成っていたのではないか、とされており、現存する10基のうち1基は前方後円墳の可能性もある、とされているらしい。

十三塚と聞くと、先日見に行った「五所塚」もそうであったように、中世の十三佛思想に基づく、村落同士の境界となる尾根筋や村外れの「忌み地」に築かれたとされる信仰塚が思い浮かぶが、この古墳群はまさに上代の古墳、ということのようである。

今見ているのは「5号墳」のようで、今通って来た道路が平成21年に建設された際、道路にかかる部分の発掘調査が行われたらしい。特段の遺物は出土しなかったようであるが、墳丘を巡る幅4mの周溝が確認され、周溝を含めた古墳の直径は35mと報告されているそうだ。

04 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

このほか、「2号墳」、「3号墳」からは埴輪片が出土、特に3号墳は別名「埴輪塚」とも呼ばれているそうだ。ほかにもあるのかな、と思い、あたりを見回してみると、5号墳南側の雑木林の中にもうひとつ、墳丘のようなものが見えている。

05 5号墳南の林中に見えるマウンド(?)

足許が草叢で覆われている上に、おそらく私有地なのであろうから、勝手に立ち入るのは憚られるのでよくわからないが、それではほかにももっと、と思ってさらに周囲を観察して見ると、気のせいかもしれないが、道路の北側、5号墳の向かいの木立のあたりもどことなく円形に盛り上がっているようにも思える。

06 西木倉古墳群(十三塚)周辺

あんまりキョロキョロしていたせいか、向かいのお宅の住人の方が訝しそうにこちらを見ている。仕事もそっちのけで昼間から寄り道ばかりしていて、どことなく後ろめたい、そんな気持ちもある。共同墓地の方まで見に行くのは遠慮して、帰路に着くことにしよう。

この台地上は古墳群がたくさんあるようで、南東方向に少し行った「東木倉」にも古墳群があるようだし、その途中にも「狐塚古墳」という前方後円墳(?)もあるようだ。せっかくなので「東木倉古墳群」の近くまでクルマで行ってみたが、こちらも墳丘はクルマでは入って行けない墓地にあるようなので、残念ながら古墳の方角を車中から遠望するに留めた。

07 東木倉古墳群周辺
(台地上、北側より)

08 台地下から東木倉古墳群の方向を遠望
(台地下から。正面左が古墳群のある段丘)

今日もろくに下調べもせず、行き当たりばったりで来てしまい、古墳はあまり堪能できなかったけれど、考えてみれば、何とも気分のよい、晴天の里山ドライブではあった。


(地図)
西木倉古墳群地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・パート2」 https://blogs.yahoo.co.jp/rinrintakasan/10306850.html



2018/03/12

水戸市郊外の小円墳2景(茨城県水戸市 福沢古墳群2号墳、一本松古墳跡)

また、水戸へ行くことになった。

いつものように渋滞する首都高を抜け、常磐道から北関東道へ入り、水戸南インターで一般道に下りる。
寄り道は仕事を済ませてから、と思っていたが、予定よりも30分ほど早いので、これなら行きがけにも少し道草できそうだ。
右折しようと思っていた水戸工業高校東をそのまま直進、一つ先の米沢町交差点で右折して、水戸米沢郵便局を目指す。

<福沢古墳群2号墳(七塚)>
水戸米沢郵便局の西、200mほどのところを逆川が南北に流れており、幅100m、高さ20mほどの細長い谷が2kmほど続いている。「いばらきデジタルまっぷ」の遺跡分布図を見ると、このあたりにはこの逆川の崖に沿って、東岸に福沢古墳群(円墳4基、一部湮滅)、払沢古墳群(円墳2基、湮滅)、逆川を挟んだ西岸に笠原古墳群(前方後円墳1基、円墳1基)などの古墳群が点在していたらしい。
昇寛さんの「埼群古墳館」を見てみると、これらのうち福沢古墳群の「2号墳」とされる古墳が、水戸米沢郵便局の北、凡そ50mほどのところに現存しているらしいので、ここに立ち寄ってみることにした。

01 福沢古墳群2号墳遠景

02 福沢古墳群2号墳南から


墳丘上の祠は「綿引稲荷神社」というらしい。

03 福沢古墳群2号墳南東から

六一書房の「常陸の古墳群」という書籍によると、福沢古墳群は払沢古墳群と合わせて「米沢町古墳群」と呼ばれていたらしい。
かつてはこの周辺の古墳を総称して「七塚」と呼ばれていたようなので、福沢古墳群の4基と払沢古墳群の2基以外にも、往時は古墳があった、ということなのだろう。「常陸の古墳群」ではこの他、「大鋸町(おがまち)古墳」という直径8m、高さ1.5mの円墳があった(現在は削平)、ともある。
これらの古墳について、「常陸の古墳群」では、「最も大きい第1号墳は、直径約10.0m、高さ約0.8mの規模」とあり、「現存長約7.0m、高さ約1.0m」とされているので、古墳群のうち「最も大きい1号墳」も「現存」している、と読める。
今見ているのは「福沢古墳群」の「2号墳」であるから、これよりももっと大きな古墳がどこかに現存しているのかも知れない。

04 福沢古墳群2号墳北から

「いずれの古墳からも埴輪は採集できない」ことに加え、低墳丘の円墳であることなどから、これらの古墳群は古墳時代後期~終末期にかけて築造されたものと考えられているようだ。

05 福沢古墳群2号墳北西から


<一本松古墳跡>
頑張って仕事を午前中のうちに済ませたので、まだまだ陽は高い。この後は、那珂川北岸の、前回場所と名前を間違った「一本松古墳」という名の低地古墳を見て帰ろうと思う。
一本松古墳は那珂川北岸の沖積低地の自然堤防上にあったらしい。前回間違って見に行った「上河内大塚古墳」と同じく自然堤防上に築かれた低地古墳である。
「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳1、湮滅」、「現況 宅地」となっており、墳丘は残っていないようであるが、今日は天気もいいので、ドライブがてら痕跡を眺めに行ってみよう。

万代橋で那珂川を渡り、青柳町交差点を左折、那珂川の堤防沿いに県道を北上すると、やがて上河内町に至る。「河内」というだけに、このあたりは那珂川の旧流路にあたる沖積低地のようで、県道の右手遠くには一段高い河岸段丘が見えている。
県道が堤防から離れ始め、川沿いに広がる田畑の見晴らしがよくなったあたりに一本松古墳はあったようだ。

06 上河内一本松古墳周辺からの眺望

「いばらきデジタルまっぷ」では、県道沿いの民家の敷地に古墳マークが付されている。

07 上河内一本松古墳周辺

道路から他人様のお宅をじろじろと覗き込むのは忍びないので、畦道を田圃の方まで降りて行き、少し離れたところから振り返って眺めてみた。

08 上河内一本松古墳周辺遠景

遠くから見てもどうもよくわからないが、民家の敷地は周囲の田畑よりは1~2mほど高くなっているので、確信はないが、この高まりが古墳の基部若しくは土台で、削平前の古墳はこの上にあったのではないのかしら、と思う。

09 上河内一本松古墳周辺遠景

畦道を戻りつつ、敷地をチラチラ観察していると、敷地の南の方で少し大きめの石材が地面から顔を出していたが、まさかこれが古墳の石材、ということでもなかろう。

10上河内一本松古墳周辺

ふと、何となく誰かに見られているような気がしてあたりを見渡したが、誰もいない。時折、県道を自動車が通り過ぎて行くだけである。
それにしても今日は春というのに汗ばむくらいの陽気だ。

11 上河内一本松古墳周辺

なるほど、お天道様が不心得者の行動の一部始終を見ていたのかも知れない。


(地図)
福沢古墳群2号墳地図
(福沢古墳群地図)

上河内一本松古墳地図(上河内一本松古墳地図)


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2018/01/30

銀杏坂周辺の古墳跡(茨城県水戸市 水戸東照宮境内古墳群、三の丸古墳跡)

これまで水戸へはクルマで行くことが多かったが、あいにく昨夜から雪になったので今回は電車で行くことにした。
運よく1本早めの電車に乗れたので、今日は水戸駅から歩いて行ける古墳跡を見に行こうと思う。

水戸駅周辺の地形は思いのほか起伏に富んでいて、駅の北側には高さ20mほどの舌状台地が西側から張り出しており、駅前から北西へと続く大通りはこの台地を切り通しながら緩やかに上っている。
坂の名前は「銀杏坂(いちょうざか)」で、登り口には名前の由来となった、昭和20年の大空襲をくぐり抜けた大銀杏が聳えている。

01 水戸大銀杏

銀杏坂の南側、台地の末端が独立丘のように小高く突き出た高台に「水戸東照宮」がある。

02 水戸東照宮前景

水戸東照宮は徳川家康を祀る神社として、初代水戸藩主徳川頼房により元和7年(1621年)に創建され、創建当時の社殿が昭和20年まで残っていたが、残念ながら空襲で焼失してしまったそうである。

03 水戸東照宮遠景

拝殿で合掌し、境内を見せて頂く許しを請う。境内には何とあの「黄門様」が造らせたという、時を知らせる銅鐘「常葉山時鐘」や、九代藩主斉昭が造らせたという鉄製の戦車「安神車」などが残されていて、思いのほか楽しい。

04 水戸東照宮安神車

<東照宮境内古墳群>
ところで古墳であるが、江戸時代に「常葉山(ときわやま)」と呼ばれたこの見晴らしのいい高台は、「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、弥生時代の住居跡遺跡のほか、「東照宮境内古墳群」という古墳群があった、とされている。
この古墳群については、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳3、湮滅」、「現況:境内」とある以外、ネットで検索しても特段の情報が見当たらず、詳しいことはわからないが、近年の宅地開発ならまだしも、江戸時代の神社造営の際、古くからそこにあった古墳を完全に破壊してしまうようには、(期待も込めて)思えないのである。
境内にそれらしい痕跡のようなものはないか、と探していると、摂末社のひとつだろうか、「稲荷神社」の祠の土台が円墳状に見えなくもない。(やれやれ、また神社の「土台」を見ている。)

05 水戸東照宮稲荷神社

そういう目で見ると、すぐ脇にある「常葉山時鐘」の鐘楼の土台も一段高くなっているように見える。

06 水戸東照宮常葉山時鐘

神社の境内にある周囲より一段高い場所は須らく古墳の痕跡である、とは思わないが、本人は既にこれで「何か」を「2箇所」見つけたつもりでいる。
さらにもう一箇所・・・・と改めて境内を見渡すと、本殿の後方にひときわ大きな樹叢が見えている。

07 水戸東照宮本殿遠景

近寄ってみると、そこは柵で囲まれていて、立ち入ることはできないようであるが、奥の方、大きな木の根元が石で巻かれているのが見える。高さは1mほど、奥行きはわからないが、幅は7~8mほどあるだろうか。

08 水戸東照宮本殿北側

これが古墳の痕跡かどうか、全く定かでないが、本人は「3箇所目」を見つけたつもりでいるようで、しかも何故か満足しているようである。

約束の時間までまだ少しあるので、東照宮を辞し、アーケードの商店街を通って再び大銀杏まで戻ってきた。
ネットで検索すると、目前の銀杏坂は明治20年に新しく拓かれた道で、古くは大銀杏から北東方向、三の丸小学校へと続く急坂が元々の銀杏坂であったようである。
「いばらきデジタルまっぷ」を見ると、この旧銀杏坂を上った先にも古墳マークが付いている。

<三の丸古墳跡>
マークが付された場所は、目前に聳える水戸京成ホテルの向こう側、現在は広い駐車場になっているあたりのようだ。

09 水戸旧銀杏坂

こちらも情報が見当たらず詳細はわからないが、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳、湮滅」、「現況:宅地」となっている。

10 水戸三の丸古墳跡

約束の時間が近づいたので水戸駅へ戻ろうと、再び旧銀杏坂を下る。ふと見ると、坂の南側に廃墟のような広大な空き地が広がっている。

11 水戸西武跡地


そう言えばここには昔、西武デパートがあったはずである。

20年以上昔、駆け出しの私が珍しく一人で水戸出張の大役を仰せつかり、出張に不慣れだった若造が自分で選んで予約した前泊の宿が見つからず、このあたりを彷徨った記憶が不意に蘇った。
確かあれはまだ寒い春先だった。上野から特急にひたすら揺られてすっかり陽の暮れた水戸駅に着いたまではよかったが、肝心のホテルが見つからず、何度も西武デパートの前を通った。通るたびに、また同じ場所か、という焦りと同時に、知らない街でもここには人の気配がある、という妙な安堵感のようなものを覚えた記憶がある。

散々歩き回ってようやく探し当てたその宿は「ビジネスホテル」のはずであったが、個人経営のような佇まいで、そろそろと中に入って行くと、無人のフロントの前には大きな白い犬が2匹、悠然と寝そべっていた。
あの時のホテルは一体どこにあって、今でも果たして営業しているのだろうか。白い犬はどうしているだろうか。

感傷に浸っている時間もなく、駅に向かって歩を早めながら、そう言えば最近、「旅情」というものをあまり感じなくなったのは、こんな自分でもいつの間にか出張に慣れてしまったせいかも知れないな、と思った。

「旅情」は薄れてしまったようだけれど、歳を重ねると「郷愁」や「感傷」は強まるようである。

(地図)
水戸銀杏坂周辺地図


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「目的地までが目的地~坂と峠 銀杏坂」 http://satoshi.quu.cc/moku/nippn.files/touge/icyozaka.htm




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(4)(茨城県潮来市 大生原のその他の塚)

前回まで大生神社周辺の古墳を紹介してきたが、他にもあちこちで塚状のマウンドを見かけた。古墳かどうか自信はないが、まとめて紹介だけしておこうと思う。


<大生の天狗塚>
鹿見塚古墳の東、県道187号の向こう側に県道に面して、地面がうっすらと膨らんだ上に石碑がいくつか建っている一画がある。
01 大生天狗塚遠景

脇に立っている柱には「潮来市大生の天狗塚」とある。
02 大生天狗塚近景

茨城県で「天狗」と言うと、幕末の元治元年(1864年)、尊王攘夷を掲げて反乱の兵を挙げた「天狗党」事件が思い浮かぶ。
この塚が天狗党に関連したものかどうかはよくわからないが、水戸藩内での抗争は明治になってからも続いたそうで、一部の地方では今でも身内争いのことを「天狗」と呼ぶらしい。


<大生原庚申塚>
イタコモーターパークの北側の道沿いの木立の中に、「猿田彦大神」、「大青面金剛」などと書かれた庚申塔が集められた塚があった。
03 大生原庚申塚遠景

04 大生原庚申塚近景

石碑はいずれも庚申信仰の石塔であろうが、それらが建てられている塚は小ぶりな円墳のようにも見える。
05 大生原庚申塚 東から


<水原庚申塚>
潮来カントリークラブの北東側、水原というところの畑地の中にも庚申塔が集められた塚があった。
06 水原庚申塚遠景

07 水原庚申塚近景

庚申供養の信仰は近年まで行われていたらしいので、こうした庚申塚は珍しいものではないのかも知れないが、やはり地面が盛り上がっていると、それが何であろうとついつい、近寄ってしまう。
背景に見えている木立の頭が夕焼けに染まっている。


<仲台古墳群?>
先ほどの庚申塚から東へ100mほど、畑の中に、頂上に石碑を乗せた大きなマウンドがあった。
08 仲台古墳群? 南から

西隣は墓地になっており、東側のマウンドは小さな前方部のような形になっている。
ここでもマウンド上の木の枝がところどころ夕陽に染まっている。
09 仲台古墳群? 東から

裏側へ回るとこちらは綺麗な円形に見える。
10 仲台古墳群? 北側から

「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、このあたりには「仲台古墳群」という記号がついているので、もしかするとこれもその一部なのかも知れない。


<松和稲荷神社>
大生神社のすぐ前、鬱蒼とした木立に囲まれて小さな稲荷社の祠が建っている。
11 松和稲荷遠景

「松和稲荷大明神」という名の神社で、祠の脇の石碑には次のようにある。

「和銅4年(711年)、秦之伊呂貝が餅を的にして矢を射った処、その餅が鳥となって稲荷塚「松の梢」に飛んできて村の人々は此処に稲荷の社を建立」

12 松和稲荷碑文

「秦之伊呂貝」と言えば、山城国風土記逸文伊奈利社条に見える「伏見稲荷大社」の起源伝承に出て来る「伊呂巨(具)秦公」(イロコ(グ)ノハタノキミ)のことであろう。伏見稲荷大社の創建伝承は、伊呂巨が餅を的にして矢を射ろうとしたところ餅が白鳥に化身して飛び去り、舞い降りたところに稲が生えたため社を建て「伊奈利(稲成り)」の社とした、というものであるが、松和稲荷の創建伝承はこれによく似ている。

ところで、この松和稲荷は古く明治までは「稲荷塚古墳」の墳上にあった、とされる。稲荷塚古墳は大生東部古墳群の主墳とされる全長61mの前方後円墳で、松和稲荷はその後円部上に南を向いて建っていたらしい。

またいつの日か、ここに来ることがあったら、その時は必ず、墳頂に松和稲荷の社を頂いた当時の面影を探しに、稲荷塚古墳を見に来ることにしよう。


(地図)
大生原地図

水原地図



(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(2) (茨城県潮来市 大生西部8号墳、天神塚古墳、白幡八幡塚古墳(大生西部古墳群))

妻と鹿島神宮に初詣に行った後、日没までの時間を利用して、12月に来た時には暗くなって見ることができなかった大生西部古墳を見に来ている。

西部古墳群は、茨城県教育委員会のHPによると総数20数基、昭和46年発行の「大生古墳群」という報告書では「37基、うち前方後円墳5基」から成る古墳群で、その双璧は、前回紹介した鹿見塚古墳、子子舞塚古墳のようであるが、この周辺だけでもまだ35基もの古墳が点在していることになる。暗くなるまでにあと幾つ見ることができるだろうか。

<大生西部8号墳>
子子舞塚古墳跡から雑木林をさらに西に進むと、地形は緩やかな谷状になっていて、いったん落ち込んだ後、西へ向かって再び高くなっている。
その最も高くなったあたり、西陽が眩しいが、明るい雑木林の中に大きなマウンドが見えている。
01 大生西部8号墳

高さは2~3m、大きさは20mほどはあるだろうか、西陽を浴びたこの墳丘がおそらく8号墳であろうと思う。
02 大生西部8号墳

雑木林を抜けて墳丘の西側に出て見ると、そこは広い芝生広場のようになっていて、遠くには何か公共の建物のようなものが見えている。
芝生の広場側から見ると、墳丘の高まりが南東側に長く伸びているようにも見えるので、これも前方後円墳のようにも見えるが、発掘調査報告書の古墳配置図では円墳となっている。
03 大生西部8号墳

墳丘の北東側の地面が一段低くなっていて、そこだけを見ると周溝か何か、人為的な痕跡のようにも見えるのは気のせいだろうか。
04 大生西部8号墳


<天神塚古墳(大生西部4号墳)>
続いて、いったん県道187号線に戻り、鹿見塚古墳の100mほど北にある天神山古墳という前方後円墳に向かう。県道から西側の木立越しに墳丘が見えていて、手前側は下草も手入れされているようで見学し易い。
05 天神塚古墳

昇寛さんの「埼群古墳館」によると、長さ63m、後円部直径40m、高さ6mの前方後円墳で、この位置から見ると左が後円部、右が前方部になるらしい。
06 天神塚古墳

先ほどの鹿見塚古墳よりも天神塚古墳の方が幾分大きいようであるが、こちらには耳のような造出分は附属していない。後円部と前方部の比高差がそれほどなく、前方部が高く発達しているような印象を受ける。
07 天神塚古墳

昇寛さんも書かれているとおり、子子舞塚や鹿見塚などに後続して築造されたもののように思えるが、天神塚古墳はこれまで発掘調査などは行われていないようで、築造年代などはわかっていないらしい。

墳丘の向こう側、さらに西に50mも進めば、もう1基、全長60mの前方後円墳(大生西部5号墳)があるはずだが、向こう側は草叢が鬱蒼としていて、接近するのが躊躇われる。クルマに妻を乗せたまま路肩に停めてきてしまったので、残念だが辞めておくことにしよう。


<白幡八幡塚古墳>
天神塚古墳から200mほど県道を北へ進むと、今度は右手の畑の真ん中に、さほど高さはないようであるが白幡八幡塚古墳の墳丘が見えてくる。
08 白幡八幡塚古墳

南側の畑を通って農道があり、墳丘の近くまで接近することができる。地割りは四角くなっていて、一見、方墳のようにも見えるが、「埼群古墳館」さんによれば「大型の円墳」だそうだ。
だいぶ西陽が傾いて、長く伸びた影が遠く離れた古墳まで続いている。
09 白幡八幡塚古墳

墳丘脇には簡単な説明書きのある柱が立っていて「古墳時代中期の築造」とある。
少し傾きかけた柱だが、得も言われぬ存在感を醸し出している。
10 白幡八幡塚古墳

墳丘の向こうに見えている木立は大生神社の樹叢である。もうじき陽が沈んでしまいそうだが、最後に大生神社に詣でて今回の古墳巡りを締めくくりたいと思う。
「元鹿島」と言われる大生大神の歴史と鹿島神宮との関係や、大生氏と藤原(中臣)氏を巡る古代史の謎についても触れてみたいと思うが、続きはまた、次回。

(地図)
大生西部古墳地図


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「墳丘からの眺め」 http://massneko.hatenablog.com/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸大生古墳群」 茨城県行方郡潮来町教育委員会 昭和46年5月



2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(1) (茨城県潮来市 鹿見塚古墳、子子舞塚古墳址(大生西部古墳群))

(すっかり桜も散ってしまい、世間は何やら初夏の陽気であるが、ブログは更新が遅れているので、まだ1月初旬である。)

初詣に行っていなかったので、急遽、妻と鹿島神宮に行くことになり、先日、暗くなってしまって見学できなかった大生古墳群にも立ち寄ることになった。
「次回訪問時には念入りに下調べをして・・・」という目論見はまたも外れ、前回同様、何ら予備知識のないまま家を出て現地に向かった。

いつも渋滞する都心もスムーズに流れており、順調に鹿島インターまで到達、鹿島神宮の周辺はさすがに初詣客で渋滞していたが、神社手前の商店街の駐車場は比較的空いていた。

鹿島神宮は初めてであったので、奥宮や要石なども時間をかけてお詣りした後、つい2週間ほど前に辿った県道187号線を通り、再び大生原までやって来た。

この大生原は、東に北浦を望む標高40mほどの台地で、110余基から成る一大古墳群があり、大生神社を中心として、古墳群は大生西部、大生東部、カメ森、田ノ森古墳群などに大別されているそうである。
前回、クリスマス前に見学に来た「大生殿塚古墳」は大生神社の東に位置しており、東部古墳群に含まれるらしい。
今回は大生神社の西側に点在する、大生西部古墳群を見て回りたいと思う。


<鹿見塚古墳(大生西部2号墳)>
県道187号線からそう遠くない位置に、鹿見塚古墳がある。
02 鹿見塚古墳遠景

03 鹿見塚古墳近景

鹿見塚古墳は大生西古墳群にほぼ完形で残る前方後円墳の一つで、全長は58.1m、前方部幅32m、後円部は直径34m、高さ6mで、県教育委員会のHPでは古墳時代中期の築造とされている。
04 鹿見塚古墳近景

後円部は二段築成の上段部分、という訳でもないのだろうが、頂上部分が一段高く突出している。
06 鹿見塚古墳後円部近景

潮来町教育委員会が昭和46年に発行した「常陸大生古墳群」という調査報告書によれば、昭和28年の現地実測調査の際、既にこの形だったそうであるが、築造当初からのものであるか否かは「なお検討を要する」そうだ。古墳の名前となっている「鹿見塚」の由来はわかっていないようであるが、個人的にはこの高まりが「鹿見塚」の由来と関係しているのではないだろうか、と思う。

墳形でもう一つ興味深い点は、西側括れ部のやや南に、幅14m、高さ1m、長さ5mの造出部が附属している点であろう。
07 鹿見塚古墳北側造出部

造出が片側だけについているためか、「片耳式前方後円墳」と呼ばれているらしい。
08 鹿見塚古墳造出部南西から

墳丘は綺麗な前方後円形をしているが、墳裾がなだらかに広がっているので、一見したところその大きさをあまり感じないが、前方部から後円部方向を見ると墳丘の量感がよくわかる。
09 鹿見塚古墳前方部裾から後円部を望む

05 「常陸大生古墳群」p.44 2号墳実測図より抜粋
(大生西2号墳実測図 「常陸大生古墳群」より、北を上に修正)



<子子舞塚古墳跡(大生西部1号墳)>
鹿見塚古墳から200mほど南西へ進んだところに、「古墳子子前塚址」と書かれた石碑が建っている。(石碑は「前」の文字を充てている。)
10 子子舞塚古墳址碑

子子舞塚古墳は西部古墳群の主墳とされた前方後円墳で、調査当時、ほぼ完全な形で残る「最も完備した前方後円墳」であったそうだ。全長71.5m、均整の取れた前方後円墳で、墳形から5世紀後半から6世紀前半の築造と考えられたらしいが、現在は前方部の一部を残して削平されてしまっている。
11 子子舞塚古墳跡 南から後円部北側附近

周囲は明るく開けた雑木林で、一見したところ古墳跡のようなものは見当たらないが、よく見ると、少し奥の地面が1mほど盛り上がっているのが見える。ただし、これは古墳の痕跡ではなく、周溝の周囲を囲んでいたとされる「土塁」の痕跡のようである。
12 子子舞塚古墳跡 南から後円部北側附近

土塁跡は丸く弧を描いて、そのまま西の方へ回り込んでいる。
13 子子舞塚古墳跡 北側括れ部跡附近

土盛が回り込む先、北に浅い谷を望む一帯に、僅かながら高まりが残されている。
Romanさんの「まほらにふく風に乗って」や、昇寛さんの「埼群古墳館」などでも紹介されているとおり、この高まりがどうやら部分的に残された「前方部の一部」のようである。
14 子子舞塚古墳跡 前方部付近

15 子子舞塚古墳跡 前方部付近

古墳の跡地は現在、木々が疎らに植えられてはいるが、畑になっている訳でもないようである。一体どのような理由で墳丘を削平したのだろうか、と思う。

「常陸大生古墳群」によれば、昭和27年から35年にかけて行われた発掘調査で墳丘全体に埴輪が配されていた痕跡が見つかったほか、造出部から箱型石棺と人骨、碧玉や大刀などが発見されたそうだ。

鹿見塚と同様、南側の括れ部に幅16m、奥行12m、高さ3mの片耳式の造出を持ち、造出部以外の周囲に幅3m、深さ60cmほどの周溝が巡っていたらしい。周溝は規模が小さいことから、水を湛える機能ではなく墳丘や造出部を画する目的だったのではないか、と考えられたようだ。
16 「常陸大生古墳群」p.18 1号墳実測図抜粋
(大生西1号墳実測図 「常陸大生古墳群」より、北を上に修正)


17 「常陸大生古墳群」図版第三1号墳遠景(西方より)

(大生西1号墳全景(西方より) 「常陸大生古墳群」より)

さて、冬の陽が沈むのは早いので先を急がねばならないが、長くなったので続きはまた、次回。

(地図)
大生西部古墳群地図


(参考資料)
「常陸大生古墳群」 茨城県行方郡潮来町教育委員会 昭和46年5月
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「まほらにふく風に乗って」 http://mahoranokaze.com/
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2017/12/19

桜に囲まれた静かな神社と方墳(茨城県 潮来市 大生殿神社/大生殿塚古墳、釜谷古墳群?)

前回は偶然見かけた貝塚古墳群と思しき塚を紹介したが、仕事まではまだ時間があるので、もう少し先の「大生殿塚古墳」まで行ってみようと思う。

再び県道187号線を北に向かうと、ひっそりと静かな築地の集落に差し掛かる。
腰を深く曲げた野良着の老婦人が一人、道路脇に立っている。少し速度を落として通り過ぎてから、バックミラーを見ると、クルマが通り過ぎるのを見届けた彼女はゆっくりと車道を横切り、畑の中へと歩いていく、その姿がバックミラー越しにゆっくりと遠ざかっていく。
時間に追われながら古墳巡りをしているような自分とは、何と言うか、人生の深みの度合いのようなものが全く違うなあ、と思う。

集落を抜けると、左右に畑が広がって見晴らしがよい中を、道は北北西に向かって真っすぐに伸びている。
このあたりは「大生原」という場所らしい。

<追記>
恥ずかしながら、この時点では事前に何の予備知識も持たずに現地を訪れたが、帰ってから調べると、「大生」は「オフ」もしくは「オウ」、「オホウ」と読み、ヤマトタケルの神話にもその名の見える歴史ある場所であるだけでなく、古代、この地を治めたとされる「大生氏」を巡る古代史上の「謎」を秘めた場所であるらしい。大生氏を巡る謎は非常に奥深いようなので、また回を改めて紹介したい。

<大生殿塚古墳>
小さなタクシー会社のある十字路を右折して、老人ホームの前を東へ進むと、カーナビでは雑木林の中を北へ道が分岐していることになっているが、どうにも見当たらない。仕方なく北側から迂回すると、今度は道は見つかったものの、この道、果たして、この前クルマが通ったのは一体いつだったのだろう、といった感じの心細い未舗装の道である。意を決して進むと、右手の木立の向こう、高く大きな小山の上に神社の社殿が見えて来た。

神社の名は「大生殿神社」と言い、社殿は「大生殿塚古墳」の大きくて高い墳丘上に建てられている。

01 大生殿塚古墳

社殿へ上る石段脇には神社の由緒などが記載された石碑が建っており、それによるとこの神社は中世にこの地方を治めた大生弾正平定守を祀っているらしい。

02 大生殿塚古墳

大生弾正平定守は、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣へ向かう途上、駿州藤枝で病気に罹り、没する際に「後世この病に罹る者は必ず救う」と言い残したため、大生の領民が大生殿霊神としてこの地に祀ったのだそうだ。神前で杉の葉をもらい受け、その杉の葉と葭(ヨシ)を使って門口に徳利を下げておくと家内に病魔が入って来ない、と伝わるそうだ。

03 大生殿神社由来

社殿に手を合わせ、写真を撮る許しを請う。墳丘上の社殿から見ると、下から見上げるよりも高さを感じる。

04 大生殿塚古墳 墳頂より

古墳の墳丘は、古くは上円下方墳と考えられていたらしいが、調査の結果、現在では全長23m、高さ3.5m、周溝を持つ二段築成の方墳で、7世紀中頃の築造と考えられているようだ。

05 大生殿塚古墳

拝殿の後ろに回るのは何だか少し畏れ多いが、墳裾は周囲をぐるっと一周することができる。

06 大生殿塚古墳

周囲は三方を鬱蒼とした木立に囲まれており、他に人の気配は全くない。
そろそろ時間も迫ってきたので、最後に社殿に向かって一礼し、東側、クルマで入ってきた一画に戻った。

植えられているのは桜の木だろうか、今日は人の気配がなく寂しげな雰囲気だが、春になれば地元の氏子の方々が花見にやってくるのだろうか。

07 大生殿神社の桜

大生弾正殿の末裔の人々は一体どんな人々なのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、桜の木々の向こうに見え隠れしている社殿にもう一度目をやった。
きっと大生弾正殿もそんな賑やかな季節を心待ちにしていることだろう。

08 大生殿神社と桜


<釜谷古墳群?>
大生殿塚古墳を見た後、来た道とは違う道から戻ろうと、ゴルフ場の東側を通る道へ出たところ、畑の向こうに大きな木がこんもりと見えており、その木の根元が膨らんでいるように見えた。

09 釜谷古墳群?

近くまで行ってみると、木の根元の地面は畑に半円状に突き出している。

10 釜谷古墳群?

単なる木の根太かも知れないが、石碑のようなものも建っていて、定かではないが、これも古墳か塚のひとつなのではないか、と思う。(この男には、丸い地面の盛り上がりはもはや何もかも古墳に見えるのである。)

11 釜谷古墳群?

後日調べてみると、このあたりにも「釜谷古墳群」という古墳群があるようだ。
どうやら大生原の台地上には、かなりの密度で塚や古墳があるようだが、残念ながらもはやタイムアップ、仕事に向かう時間である。次回、いつ来ることができるかわからないが、今度来る時はきちんと下調べをした上で、じっくりと巡ってみたいものである。


(地図)
大生殿塚古墳地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




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2017/12/19

竹林に囲まれた静かな墓域(茨城県 潮来市 貝塚古墳群?)

久しぶりに鹿島へ行くことになった。
仕事は午後からなので、あまり遠くへは行けそうもないが、その前に少し寄り道ができそうだ。

事前に下調べができなかったが、「埼群古墳館」さんの古墳地図を見ると、潮来市の北部、北浦を東に望む台地上に古墳群がいくつかあるようなので、そちらに向かってみようと思う。

潮来インターから県道50号を北上し、鹿島線の高架をくぐる。オーバーパスのようなちょっと複雑な交差点で県道187号線へ入り、標高30mほどの台地の上へと上っていく。

この辺りは「築地」という字名のようで、台地に深く入り込んだ開析谷を挟んで、東側には大きなゴルフ場が広がっている。道は複雑な地形の高みを縫うようにうねりながら台地上を通っている。

大きなカーブに差し掛かったところで、窓外を過ぎていく竹林の向こうに何気なく目をやると、頂上に石塔を乗せた大きな塚のようなものが目に入った。

車を路肩に停めて近づいて見ると、竹林の一画が切り拓かれて墓地になっているようで、そこかしこに点在する墓石や石仏などの向こうに、石塔を頂いた大きな塚状のマウンドが聳えている。

01 潮来 築地 貝塚古墳群?遠景

興味本位で墓域に立ち入るのは心苦しいが、心の中で手を合わせつつ、少しだけ見学させてもらうことにした。
不規則に点在する墓石に頭を下げつつ、そっと進むと、近くで見る塚は思いのほか大きく、直径は7~8m、高さは2mほどありそうである。

02 潮来 築地 貝塚古墳群?近景

墳頂の石塔には何か文字が彫られているようだが、ここからはよく読めない。塚はそれ自体が墓所になっているのだろう、頂上の石塔に上がるための階段が付けられており、新しい花が手向けられている。さすがに土足で上るのは心が咎められるので辞めておこうと思う。

03 潮来 築地 貝塚古墳群?墳頂

塚の向こう側は地盤が崖状に落ち込んでいるので、塚の背景は青空になっている。
墳丘の木々が伐採されている上に、下草も刈られているので、もしかすると近々、発掘調査か何かが行われるのだろうか、それとも墓地として綺麗に整地されるのだろうか。

04 潮来 築地 貝塚古墳群?東側面

あたりはひっそりとしていて、風の音だけが聞こえている。

眠りについている方々の平穏を邪魔するのもご迷惑だろう、余所者は早々に退散しようと、車に戻ろうと思い、振り返って、あっ、と思った。

今まで気付かなかったのだが、よく見ると、墓域のあちこちの地面も、小さく塚状に盛り上がっている。
崖の際にある大きな塚の周囲に、これを取り囲むかのように、小さな塚がいくつも点在している。

05 潮来 築地 貝塚古墳群?周辺の地面

06 潮来 築地 貝塚古墳群?入り口付近

そうか、と思った。

やはりここは古くからの神聖な墓域なのだろう。
ひときわ大きな墓を囲むように、そこかしこに小さな墓が立ち並ぶ、そんな光景は、眠りについた盟主を、死してなお、その一族が永遠に守り続けている、そんな光景にも見える。何と言ったらよいのだろう、「墓所」というものの、何か「本来の姿」のようなものを見た気がした。

07 潮来 築地 貝塚古墳群?竹林

これらが古墳なのか、中世の塚なのか、もはやそれは本質的な違いではないのだろう、と思った。
改めて心から合掌し、早々にこの場を立ち去ることにした。

家に帰って「いばらきデジタルまっぷ」でこのあたりを見ると、「貝塚古墳群」という名の古墳群があるようだ。

偶然見つけたこれらの塚が貝塚古墳群かどうかはわからないが、思わぬ場所でふいに、何か、忘れかけていた大切なものを見せてもらった気がした。


(地図)
潮来 築地 貝塚古墳群?地図


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34