FC2ブログ
2018/03/12

那珂川を望む台地上の「十三塚」(茨城県那珂市 西木倉古墳群(十三塚)、東木倉古墳群)

一本松古墳を見に行った後、東側の河岸段丘上にある「西木倉(にしきのくら)古墳群」にも立ち寄ってみることにした。

一本松古墳のある「上河内(かみがち)」は段丘下の沖積低地で行政区域は水戸市であったが、東隣の段丘上に位置する「西木倉」は那珂市になるようだ。
昭和30年の町村合併で「那珂町」となる以前、西木倉地区を含む台地上の一帯は「五台(ごだい)村」と呼ばれていたそうである。台地上の五つの村(豊喰新田、東木倉、西木倉、中台、後台)が合併したのでそのように名付けられたのだそうだ。

<西木倉古墳群(十三塚)>
広々とした田圃の中を北東方向に進み、狭い坂道で20mほどの高さの崖線を上る。道の両脇は鬱蒼とした雑木林で、昼なお暗い急な坂道であるが、登り切ったあたりで右手がぽっかりと開け、道路のすぐ脇に一面を笹に覆われたこんもりとした茂みが見えてきた。

01 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

笹で覆われているので一瞬、古墳かどうかわからなかったが、すぐ脇に「西木倉古墳群(十三塚)」の標柱が立っている。

02 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

03 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

「いばらきデジタルまっぷ」で調べると、「円墳9基、円墳(一部破壊)1基」の古墳群で、現況は「山林、墓地」となっている。昇寛さんの「埼群古墳館」を見ると、ここよりも北側、共同墓地の周辺に複数の墳丘があるようだ。

西木倉古墳群については、「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・」というブログに、那珂市歴史民俗資料館に関する記事が載っていて、それによるとこの古墳群は古くは「十三塚」と呼ばれており、往時は13基から成っていたのではないか、とされており、現存する10基のうち1基は前方後円墳の可能性もある、とされているらしい。

十三塚と聞くと、先日見に行った「五所塚」もそうであったように、中世の十三佛思想に基づく、村落同士の境界となる尾根筋や村外れの「忌み地」に築かれたとされる信仰塚が思い浮かぶが、この古墳群はまさに上代の古墳、ということのようである。

今見ているのは「5号墳」のようで、今通って来た道路が平成21年に建設された際、道路にかかる部分の発掘調査が行われたらしい。特段の遺物は出土しなかったようであるが、墳丘を巡る幅4mの周溝が確認され、周溝を含めた古墳の直径は35mと報告されているそうだ。

04 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

このほか、「2号墳」、「3号墳」からは埴輪片が出土、特に3号墳は別名「埴輪塚」とも呼ばれているそうだ。ほかにもあるのかな、と思い、あたりを見回してみると、5号墳南側の雑木林の中にもうひとつ、墳丘のようなものが見えている。

05 5号墳南の林中に見えるマウンド(?)

足許が草叢で覆われている上に、おそらく私有地なのであろうから、勝手に立ち入るのは憚られるのでよくわからないが、それではほかにももっと、と思ってさらに周囲を観察して見ると、気のせいかもしれないが、道路の北側、5号墳の向かいの木立のあたりもどことなく円形に盛り上がっているようにも思える。

06 西木倉古墳群(十三塚)周辺

あんまりキョロキョロしていたせいか、向かいのお宅の住人の方が訝しそうにこちらを見ている。仕事もそっちのけで昼間から寄り道ばかりしていて、どことなく後ろめたい、そんな気持ちもある。共同墓地の方まで見に行くのは遠慮して、帰路に着くことにしよう。

この台地上は古墳群がたくさんあるようで、南東方向に少し行った「東木倉」にも古墳群があるようだし、その途中にも「狐塚古墳」という前方後円墳(?)もあるようだ。せっかくなので「東木倉古墳群」の近くまでクルマで行ってみたが、こちらも墳丘はクルマでは入って行けない墓地にあるようなので、残念ながら古墳の方角を車中から遠望するに留めた。

07 東木倉古墳群周辺
(台地上、北側より)

08 台地下から東木倉古墳群の方向を遠望
(台地下から。正面左が古墳群のある段丘)

今日もろくに下調べもせず、行き当たりばったりで来てしまい、古墳はあまり堪能できなかったけれど、考えてみれば、何とも気分のよい、晴天の里山ドライブではあった。


(地図)
西木倉古墳群地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・パート2」 https://blogs.yahoo.co.jp/rinrintakasan/10306850.html



2018/03/12

水戸市郊外の小円墳2景(茨城県水戸市 福沢古墳群2号墳、一本松古墳跡)

また、水戸へ行くことになった。

いつものように渋滞する首都高を抜け、常磐道から北関東道へ入り、水戸南インターで一般道に下りる。
寄り道は仕事を済ませてから、と思っていたが、予定よりも30分ほど早いので、これなら行きがけにも少し道草できそうだ。
右折しようと思っていた水戸工業高校東をそのまま直進、一つ先の米沢町交差点で右折して、水戸米沢郵便局を目指す。

<福沢古墳群2号墳(七塚)>
水戸米沢郵便局の西、200mほどのところを逆川が南北に流れており、幅100m、高さ20mほどの細長い谷が2kmほど続いている。「いばらきデジタルまっぷ」の遺跡分布図を見ると、このあたりにはこの逆川の崖に沿って、東岸に福沢古墳群(円墳4基、一部湮滅)、払沢古墳群(円墳2基、湮滅)、逆川を挟んだ西岸に笠原古墳群(前方後円墳1基、円墳1基)などの古墳群が点在していたらしい。
昇寛さんの「埼群古墳館」を見てみると、これらのうち福沢古墳群の「2号墳」とされる古墳が、水戸米沢郵便局の北、凡そ50mほどのところに現存しているらしいので、ここに立ち寄ってみることにした。

01 福沢古墳群2号墳遠景

02 福沢古墳群2号墳南から


墳丘上の祠は「綿引稲荷神社」というらしい。

03 福沢古墳群2号墳南東から

六一書房の「常陸の古墳群」という書籍によると、福沢古墳群は払沢古墳群と合わせて「米沢町古墳群」と呼ばれていたらしい。
かつてはこの周辺の古墳を総称して「七塚」と呼ばれていたようなので、福沢古墳群の4基と払沢古墳群の2基以外にも、往時は古墳があった、ということなのだろう。「常陸の古墳群」ではこの他、「大鋸町(おがまち)古墳」という直径8m、高さ1.5mの円墳があった(現在は削平)、ともある。
これらの古墳について、「常陸の古墳群」では、「最も大きい第1号墳は、直径約10.0m、高さ約0.8mの規模」とあり、「現存長約7.0m、高さ約1.0m」とされているので、古墳群のうち「最も大きい1号墳」も「現存」している、と読める。
今見ているのは「福沢古墳群」の「2号墳」であるから、これよりももっと大きな古墳がどこかに現存しているのかも知れない。

04 福沢古墳群2号墳北から

「いずれの古墳からも埴輪は採集できない」ことに加え、低墳丘の円墳であることなどから、これらの古墳群は古墳時代後期~終末期にかけて築造されたものと考えられているようだ。

05 福沢古墳群2号墳北西から


<一本松古墳跡>
頑張って仕事を午前中のうちに済ませたので、まだまだ陽は高い。この後は、那珂川北岸の、前回場所と名前を間違った「一本松古墳」という名の低地古墳を見て帰ろうと思う。
一本松古墳は那珂川北岸の沖積低地の自然堤防上にあったらしい。前回間違って見に行った「上河内大塚古墳」と同じく自然堤防上に築かれた低地古墳である。
「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳1、湮滅」、「現況 宅地」となっており、墳丘は残っていないようであるが、今日は天気もいいので、ドライブがてら痕跡を眺めに行ってみよう。

万代橋で那珂川を渡り、青柳町交差点を左折、那珂川の堤防沿いに県道を北上すると、やがて上河内町に至る。「河内」というだけに、このあたりは那珂川の旧流路にあたる沖積低地のようで、県道の右手遠くには一段高い河岸段丘が見えている。
県道が堤防から離れ始め、川沿いに広がる田畑の見晴らしがよくなったあたりに一本松古墳はあったようだ。

06 上河内一本松古墳周辺からの眺望

「いばらきデジタルまっぷ」では、県道沿いの民家の敷地に古墳マークが付されている。

07 上河内一本松古墳周辺

道路から他人様のお宅をじろじろと覗き込むのは忍びないので、畦道を田圃の方まで降りて行き、少し離れたところから振り返って眺めてみた。

08 上河内一本松古墳周辺遠景

遠くから見てもどうもよくわからないが、民家の敷地は周囲の田畑よりは1~2mほど高くなっているので、確信はないが、この高まりが古墳の基部若しくは土台で、削平前の古墳はこの上にあったのではないのかしら、と思う。

09 上河内一本松古墳周辺遠景

畦道を戻りつつ、敷地をチラチラ観察していると、敷地の南の方で少し大きめの石材が地面から顔を出していたが、まさかこれが古墳の石材、ということでもなかろう。

10上河内一本松古墳周辺

ふと、何となく誰かに見られているような気がしてあたりを見渡したが、誰もいない。時折、県道を自動車が通り過ぎて行くだけである。
それにしても今日は春というのに汗ばむくらいの陽気だ。

11 上河内一本松古墳周辺

なるほど、お天道様が不心得者の行動の一部始終を見ていたのかも知れない。


(地図)
福沢古墳群2号墳地図
(福沢古墳群地図)

上河内一本松古墳地図(上河内一本松古墳地図)


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2018/01/30

銀杏坂周辺の古墳跡(茨城県水戸市 水戸東照宮境内古墳群、三の丸古墳跡)

これまで水戸へはクルマで行くことが多かったが、あいにく昨夜から雪になったので今回は電車で行くことにした。
運よく1本早めの電車に乗れたので、今日は水戸駅から歩いて行ける古墳跡を見に行こうと思う。

水戸駅周辺の地形は思いのほか起伏に富んでいて、駅の北側には高さ20mほどの舌状台地が西側から張り出しており、駅前から北西へと続く大通りはこの台地を切り通しながら緩やかに上っている。
坂の名前は「銀杏坂(いちょうざか)」で、登り口には名前の由来となった、昭和20年の大空襲をくぐり抜けた大銀杏が聳えている。

01 水戸大銀杏

銀杏坂の南側、台地の末端が独立丘のように小高く突き出た高台に「水戸東照宮」がある。

02 水戸東照宮前景

水戸東照宮は徳川家康を祀る神社として、初代水戸藩主徳川頼房により元和7年(1621年)に創建され、創建当時の社殿が昭和20年まで残っていたが、残念ながら空襲で焼失してしまったそうである。

03 水戸東照宮遠景

拝殿で合掌し、境内を見せて頂く許しを請う。境内には何とあの「黄門様」が造らせたという、時を知らせる銅鐘「常葉山時鐘」や、九代藩主斉昭が造らせたという鉄製の戦車「安神車」などが残されていて、思いのほか楽しい。

04 水戸東照宮安神車

<東照宮境内古墳群>
ところで古墳であるが、江戸時代に「常葉山(ときわやま)」と呼ばれたこの見晴らしのいい高台は、「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、弥生時代の住居跡遺跡のほか、「東照宮境内古墳群」という古墳群があった、とされている。
この古墳群については、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳3、湮滅」、「現況:境内」とある以外、ネットで検索しても特段の情報が見当たらず、詳しいことはわからないが、近年の宅地開発ならまだしも、江戸時代の神社造営の際、古くからそこにあった古墳を完全に破壊してしまうようには、(期待も込めて)思えないのである。
境内にそれらしい痕跡のようなものはないか、と探していると、摂末社のひとつだろうか、「稲荷神社」の祠の土台が円墳状に見えなくもない。(やれやれ、また神社の「土台」を見ている。)

05 水戸東照宮稲荷神社

そういう目で見ると、すぐ脇にある「常葉山時鐘」の鐘楼の土台も一段高くなっているように見える。

06 水戸東照宮常葉山時鐘

神社の境内にある周囲より一段高い場所は須らく古墳の痕跡である、とは思わないが、本人は既にこれで「何か」を「2箇所」見つけたつもりでいる。
さらにもう一箇所・・・・と改めて境内を見渡すと、本殿の後方にひときわ大きな樹叢が見えている。

07 水戸東照宮本殿遠景

近寄ってみると、そこは柵で囲まれていて、立ち入ることはできないようであるが、奥の方、大きな木の根元が石で巻かれているのが見える。高さは1mほど、奥行きはわからないが、幅は7~8mほどあるだろうか。

08 水戸東照宮本殿北側

これが古墳の痕跡かどうか、全く定かでないが、本人は「3箇所目」を見つけたつもりでいるようで、しかも何故か満足しているようである。

約束の時間までまだ少しあるので、東照宮を辞し、アーケードの商店街を通って再び大銀杏まで戻ってきた。
ネットで検索すると、目前の銀杏坂は明治20年に新しく拓かれた道で、古くは大銀杏から北東方向、三の丸小学校へと続く急坂が元々の銀杏坂であったようである。
「いばらきデジタルまっぷ」を見ると、この旧銀杏坂を上った先にも古墳マークが付いている。

<三の丸古墳跡>
マークが付された場所は、目前に聳える水戸京成ホテルの向こう側、現在は広い駐車場になっているあたりのようだ。

09 水戸旧銀杏坂

こちらも情報が見当たらず詳細はわからないが、「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳、湮滅」、「現況:宅地」となっている。

10 水戸三の丸古墳跡

約束の時間が近づいたので水戸駅へ戻ろうと、再び旧銀杏坂を下る。ふと見ると、坂の南側に廃墟のような広大な空き地が広がっている。

11 水戸西武跡地


そう言えばここには昔、西武デパートがあったはずである。

20年以上昔、駆け出しの私が珍しく一人で水戸出張の大役を仰せつかり、出張に不慣れだった若造が自分で選んで予約した前泊の宿が見つからず、このあたりを彷徨った記憶が不意に蘇った。
確かあれはまだ寒い春先だった。上野から特急にひたすら揺られてすっかり陽の暮れた水戸駅に着いたまではよかったが、肝心のホテルが見つからず、何度も西武デパートの前を通った。通るたびに、また同じ場所か、という焦りと同時に、知らない街でもここには人の気配がある、という妙な安堵感のようなものを覚えた記憶がある。

散々歩き回ってようやく探し当てたその宿は「ビジネスホテル」のはずであったが、個人経営のような佇まいで、そろそろと中に入って行くと、無人のフロントの前には大きな白い犬が2匹、悠然と寝そべっていた。
あの時のホテルは一体どこにあって、今でも果たして営業しているのだろうか。白い犬はどうしているだろうか。

感傷に浸っている時間もなく、駅に向かって歩を早めながら、そう言えば最近、「旅情」というものをあまり感じなくなったのは、こんな自分でもいつの間にか出張に慣れてしまったせいかも知れないな、と思った。

「旅情」は薄れてしまったようだけれど、歳を重ねると「郷愁」や「感傷」は強まるようである。

(地図)
水戸銀杏坂周辺地図


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「目的地までが目的地~坂と峠 銀杏坂」 http://satoshi.quu.cc/moku/nippn.files/touge/icyozaka.htm




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(4)(茨城県潮来市 大生原のその他の塚)

前回まで大生神社周辺の古墳を紹介してきたが、他にもあちこちで塚状のマウンドを見かけた。古墳かどうか自信はないが、まとめて紹介だけしておこうと思う。


<大生の天狗塚>
鹿見塚古墳の東、県道187号の向こう側に県道に面して、地面がうっすらと膨らんだ上に石碑がいくつか建っている一画がある。
01 大生天狗塚遠景

脇に立っている柱には「潮来市大生の天狗塚」とある。
02 大生天狗塚近景

茨城県で「天狗」と言うと、幕末の元治元年(1864年)、尊王攘夷を掲げて反乱の兵を挙げた「天狗党」事件が思い浮かぶ。
この塚が天狗党に関連したものかどうかはよくわからないが、水戸藩内での抗争は明治になってからも続いたそうで、一部の地方では今でも身内争いのことを「天狗」と呼ぶらしい。


<大生原庚申塚>
イタコモーターパークの北側の道沿いの木立の中に、「猿田彦大神」、「大青面金剛」などと書かれた庚申塔が集められた塚があった。
03 大生原庚申塚遠景

04 大生原庚申塚近景

石碑はいずれも庚申信仰の石塔であろうが、それらが建てられている塚は小ぶりな円墳のようにも見える。
05 大生原庚申塚 東から


<水原庚申塚>
潮来カントリークラブの北東側、水原というところの畑地の中にも庚申塔が集められた塚があった。
06 水原庚申塚遠景

07 水原庚申塚近景

庚申供養の信仰は近年まで行われていたらしいので、こうした庚申塚は珍しいものではないのかも知れないが、やはり地面が盛り上がっていると、それが何であろうとついつい、近寄ってしまう。
背景に見えている木立の頭が夕焼けに染まっている。


<仲台古墳群?>
先ほどの庚申塚から東へ100mほど、畑の中に、頂上に石碑を乗せた大きなマウンドがあった。
08 仲台古墳群? 南から

西隣は墓地になっており、東側のマウンドは小さな前方部のような形になっている。
ここでもマウンド上の木の枝がところどころ夕陽に染まっている。
09 仲台古墳群? 東から

裏側へ回るとこちらは綺麗な円形に見える。
10 仲台古墳群? 北側から

「いばらきデジタルまっぷ」で見ると、このあたりには「仲台古墳群」という記号がついているので、もしかするとこれもその一部なのかも知れない。


<松和稲荷神社>
大生神社のすぐ前、鬱蒼とした木立に囲まれて小さな稲荷社の祠が建っている。
11 松和稲荷遠景

「松和稲荷大明神」という名の神社で、祠の脇の石碑には次のようにある。

「和銅4年(711年)、秦之伊呂貝が餅を的にして矢を射った処、その餅が鳥となって稲荷塚「松の梢」に飛んできて村の人々は此処に稲荷の社を建立」

12 松和稲荷碑文

「秦之伊呂貝」と言えば、山城国風土記逸文伊奈利社条に見える「伏見稲荷大社」の起源伝承に出て来る「伊呂巨(具)秦公」(イロコ(グ)ノハタノキミ)のことであろう。伏見稲荷大社の創建伝承は、伊呂巨が餅を的にして矢を射ろうとしたところ餅が白鳥に化身して飛び去り、舞い降りたところに稲が生えたため社を建て「伊奈利(稲成り)」の社とした、というものであるが、松和稲荷の創建伝承はこれによく似ている。

ところで、この松和稲荷は古く明治までは「稲荷塚古墳」の墳上にあった、とされる。稲荷塚古墳は大生東部古墳群の主墳とされる全長61mの前方後円墳で、松和稲荷はその後円部上に南を向いて建っていたらしい。

またいつの日か、ここに来ることがあったら、その時は必ず、墳頂に松和稲荷の社を頂いた当時の面影を探しに、稲荷塚古墳を見に来ることにしよう。


(地図)
大生原地図

水原地図



(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(2) (茨城県潮来市 大生西部8号墳、天神塚古墳、白幡八幡塚古墳(大生西部古墳群))

妻と鹿島神宮に初詣に行った後、日没までの時間を利用して、12月に来た時には暗くなって見ることができなかった大生西部古墳を見に来ている。

西部古墳群は、茨城県教育委員会のHPによると総数20数基、昭和46年発行の「大生古墳群」という報告書では「37基、うち前方後円墳5基」から成る古墳群で、その双璧は、前回紹介した鹿見塚古墳、子子舞塚古墳のようであるが、この周辺だけでもまだ35基もの古墳が点在していることになる。暗くなるまでにあと幾つ見ることができるだろうか。

<大生西部8号墳>
子子舞塚古墳跡から雑木林をさらに西に進むと、地形は緩やかな谷状になっていて、いったん落ち込んだ後、西へ向かって再び高くなっている。
その最も高くなったあたり、西陽が眩しいが、明るい雑木林の中に大きなマウンドが見えている。
01 大生西部8号墳

高さは2~3m、大きさは20mほどはあるだろうか、西陽を浴びたこの墳丘がおそらく8号墳であろうと思う。
02 大生西部8号墳

雑木林を抜けて墳丘の西側に出て見ると、そこは広い芝生広場のようになっていて、遠くには何か公共の建物のようなものが見えている。
芝生の広場側から見ると、墳丘の高まりが南東側に長く伸びているようにも見えるので、これも前方後円墳のようにも見えるが、発掘調査報告書の古墳配置図では円墳となっている。
03 大生西部8号墳

墳丘の北東側の地面が一段低くなっていて、そこだけを見ると周溝か何か、人為的な痕跡のようにも見えるのは気のせいだろうか。
04 大生西部8号墳


<天神塚古墳(大生西部4号墳)>
続いて、いったん県道187号線に戻り、鹿見塚古墳の100mほど北にある天神山古墳という前方後円墳に向かう。県道から西側の木立越しに墳丘が見えていて、手前側は下草も手入れされているようで見学し易い。
05 天神塚古墳

昇寛さんの「埼群古墳館」によると、長さ63m、後円部直径40m、高さ6mの前方後円墳で、この位置から見ると左が後円部、右が前方部になるらしい。
06 天神塚古墳

先ほどの鹿見塚古墳よりも天神塚古墳の方が幾分大きいようであるが、こちらには耳のような造出分は附属していない。後円部と前方部の比高差がそれほどなく、前方部が高く発達しているような印象を受ける。
07 天神塚古墳

昇寛さんも書かれているとおり、子子舞塚や鹿見塚などに後続して築造されたもののように思えるが、天神塚古墳はこれまで発掘調査などは行われていないようで、築造年代などはわかっていないらしい。

墳丘の向こう側、さらに西に50mも進めば、もう1基、全長60mの前方後円墳(大生西部5号墳)があるはずだが、向こう側は草叢が鬱蒼としていて、接近するのが躊躇われる。クルマに妻を乗せたまま路肩に停めてきてしまったので、残念だが辞めておくことにしよう。


<白幡八幡塚古墳>
天神塚古墳から200mほど県道を北へ進むと、今度は右手の畑の真ん中に、さほど高さはないようであるが白幡八幡塚古墳の墳丘が見えてくる。
08 白幡八幡塚古墳

南側の畑を通って農道があり、墳丘の近くまで接近することができる。地割りは四角くなっていて、一見、方墳のようにも見えるが、「埼群古墳館」さんによれば「大型の円墳」だそうだ。
だいぶ西陽が傾いて、長く伸びた影が遠く離れた古墳まで続いている。
09 白幡八幡塚古墳

墳丘脇には簡単な説明書きのある柱が立っていて「古墳時代中期の築造」とある。
少し傾きかけた柱だが、得も言われぬ存在感を醸し出している。
10 白幡八幡塚古墳

墳丘の向こうに見えている木立は大生神社の樹叢である。もうじき陽が沈んでしまいそうだが、最後に大生神社に詣でて今回の古墳巡りを締めくくりたいと思う。
「元鹿島」と言われる大生大神の歴史と鹿島神宮との関係や、大生氏と藤原(中臣)氏を巡る古代史の謎についても触れてみたいと思うが、続きはまた、次回。

(地図)
大生西部古墳地図


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「墳丘からの眺め」 http://massneko.hatenablog.com/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸大生古墳群」 茨城県行方郡潮来町教育委員会 昭和46年5月