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2018/05/29

高台の2つの末期古墳(青森県八戸市 鹿島沢古墳群、丹後平古墳群)

青森県にある古墳は「末期古墳」と呼ばれる直径数m程度の小円墳の群集墳で、古墳時代ではなく飛鳥時代から平安時代にかけて築造され、同じ様式の群集墳が宮城県北から南北海道にかけて広く分布しているそうだ。

01 末期古墳の分布域
(2017年7月、おいらせ阿光坊古墳館にて)

青森県内には3箇所、末期古墳の群集墳が確認されており、これらはいずれも八戸市の周辺に点在している。
仕事で毎月行っている八戸だが、大抵はとんぼ返りで帰って来てしまうので、昨夏、阿光坊古墳群を見て以降、どこかに寄り道するようなことはなかった。
今回は仕事をやり繰りして、半日時間を空けることができたので、仕事の後、まだ見ていない鹿島沢古墳群と丹後平古墳群に行ってみたいと思う。

<鹿島沢古墳群>
会議を午前中のうちに終え、いそいそと本数の少ない路線バスに乗って鹿島沢を目指す。
鹿島沢は、八戸の市街地南に迫る山塊の中腹、標高90mほどのところにある。八戸ニュータウン行きのバスに乗って羽仁もと子記念館前で下車、ここはまだ鹿島沢の一段下のような場所であるが、既に標高70mほどあるので、市街地の眺めが良い。

02 鹿島沢下からの眺め

バス通りの西側にはさらに20mほど比高差のある高台が南北に走っていて、古墳はこの見上げるような高台の上にある。

03 鹿島沢古墳群遠望

解説板によると古墳が発見されたのは昭和33年で、それまで青森県で古墳は知られておらず、発見当時は岩手県二戸市の堀野古墳群が古墳分布の北限と考えられていたようである。
盛土はほとんど失われていたようだが、7世紀頃のものと思われる10基ほどの古墳が10mほどの間隔で確認され、川原石敷きの埋葬部から土師器甕や直刀、鉄鏃、ガラス玉などの副葬品が発見されたそうだ。
青森県のホームページによると直径1.2m、高さ1.3m(『直径<高さ』というのも不思議な感じがするが。)の盛土を削平したところ木炭層が発見され、さらに下層から川原石の埋葬部、副葬品が出土した、とある。

04 鹿島沢古墳群解説板

古墳跡は埋め戻されて草地になっており、薫風が草を揺らして吹き抜けていく。
気配を感じたのか、草叢から雉が鋭く一声鳴きながら木立の中へ走り去って行った。

05 鹿島沢古墳群近景

06 鹿島沢古墳群現況

Wikipediaによると古墳は根城(ねじょう)古墳群とも呼ばれ、鹿島沢からは3基、隣接する大久保地区からも5基が見つかっているようだ。大久保地区の5基はその後、宅地造成で消滅してしまったらしいが、大久保地区から出土した銅製の杏葉や帯金具、勾玉などの出土品は青森県重宝に指定され、根城にある八戸市博物館で見ることができるそうである。

蛇足になるが、「根城」は鹿島沢の1.5kmほど北にある、建武元年(1334年)、南部師行によって馬淵川を望む高台に築城された城で、江戸時代に岩手県の遠野に国替えされるまでの300年間、南部氏の居城であった場所である。

07 史跡根城の広場
(2015年9月 史跡根城の広場にて。隣接の博物館にある鹿島沢古墳群の出土品は見忘れてしまった。)


もう一ケ所、丹後平(たんごたい)古墳群は鹿島沢古墳群から2kmほど南、八戸ニュータウンという新興住宅街にある。次のバスまではだいぶ時間があるので、このまま高台上の道を歩いて行こうと思う。
「風薫る」とはよく言ったもので、木立を抜けて来る風のなんと爽やかなことか。微かに漂うよい香りは一体何だろうかと思っていると、香りの主は頭上のニセアカシアの花のようである。

08 ニセアカシアの花

爽やかな香りで気分もよいが、ニセアカシアは明治になって輸入された外来種であり、しかも日本固有の生態系に被害を及ぼすとされる「生態系被害防止外来種」だそうである。

暫く行くと瀟洒な住宅街に入る。
近くに小学校があるのだろう、下校途中の小学生が多く、町内会の掲示板には「連れ去り注意!知らない大人に声をかけられてもついて行ってはいけません!」の文字。最近は物騒な事件も多いので、古墳見学にも気を遣う。
ふと見れば、前方からランドセルを背負った女子児童が一人、歩いて来る。
勘違いされても困るので、視線を合わさないよう、俯きながらすれ違おうとしたまさにその時。
すれ違いざま、小さいがはっきりとした声で、おそらく彼女は「コンニチワ」と言った。
不意な出来事に慌てつつ、遠ざかる彼女の背中を見送りながら、子供には善人と悪人の区別がつくのかしら、などと思った瞬間、別のポスターが目に入った。
「不審な人には、こちらから『コンニチワ』と声をかけましょう!」
なるほど、「コンニチワ」作戦は確かに効果覿面である。

<丹後平(たんごたい)古墳群>
丹後平古墳群はニュータウンの一画、白山台保育園の向かい側に埋め戻された状態で「保存」されていた。

09 丹後平古墳群遠望

古墳群の総数は100基前後とされており、7世紀後半に南側から築造が始まり、北に移動しながら9世紀後半まで継続した、と考えられているようだ。
埋葬施設は長方形の木棺直葬のほか、土壙墓や地下式横穴なども混在しているらしい。

10 丹後平古墳群解説板

確認された中で最大規模の15号墳は直径(周溝内径)9mで、ここから発見された獅噛式三累環頭太刀柄頭(しがみしき さんるいかんとうたち つかがしら)は国内に他に類例を見ない見事なもので、新羅で製作されたものと考えられているそうだ。(これも実物は八戸市博物館で展示されているらしい・・・。)

周囲をぐるりと一周してみたが、宅地造成で周辺の土地は削平されているらしく、特に南側と東側はコンクリートブロックが高い壁のようになっている。

11 丹後平古墳群遠望(南から)

12 丹後平古墳群南側

比高差の少ない北西隅に一ケ所だけ階段があるが、黄色いチェーンがかけられており、自由に見学していいような雰囲気ではなかった。

13 丹後平古墳群北西隅

14 丹後平古墳群現況

遺跡は保存されている一画だけに留まらず広範にわたっていたようであり、南東側には木立の茂る緩斜面が僅かに残っている。

15 丹後平古墳群南方の窪地地形
(軽トラックの左、コンクリートブロックの塀の上の草地が古墳群の保存区域)

緩斜面の先はすり鉢状に落ち込んでいるようで、見晴らしがよい。地形図を見るとこの先は歪な楕円形の窪地になっているようで、窪地の向こうにはまだ鬱蒼とした木立がところどころ見えている。古墳を造った人々が暮らしていた時代は一体どんな光景だっただろうか。

バス停で帰りのバスを待ちながら考えた。新羅から見事な太刀を輸入するほどの力を持っていたこの地の人々はその後、一体どのような運命を辿ったのだろう。

大和朝廷による蝦夷侵攻は延暦2年(802年)、阿弖流為(アテルイ)の降伏を以って事実上収束し、概ね岩手県中部の志波城(若しくは徳丹城)から秋田県中部の雄勝城までを北限とするラインで一旦停止したようである。
今日見て回った鹿島沢古墳群、丹後平古墳群と、昨夏に見た阿光坊古墳群はいずれもこの侵攻停止ラインよりも北に位置しているので、これらの地域の人々は、もしかすると大和朝廷側による直接的な侵攻は受けずに済んだのかも知れない。
しかしながら、蝦夷の地ではその後、大和朝廷の俘囚となった部族を中心とした部族間紛争が頻発したそうである。
少なくとも蝦夷の人々から見れば、蝦夷の地に災いを齎した大和民族こそ、ニセアカシアの比ではない「外来種」であったに違いない。

彼方からバスが近づいて来た。
目を凝らすと、そのバスは行きに乗って来たのと同じバスのようであった。

<公開日 2019.01.13>

(地図)
鹿島沢・丹後平古墳群地図


(参考資料)
「oh! 史跡探訪 八戸市の古墳」 http://oobuta.fc2web.com/rekisi/kofun/si/hatinohe.html
「鹿島沢古墳群出土品」 https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/juho_kouko_26.html
「鹿島沢古墳群(ウィキペディア)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島沢古墳群
「丹後平古墳群」 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,3241,129,153,html
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,69662,129,63,html



2018/04/20

義経の財宝伝説と富士塚(神奈川県大和市 公所浅間神社)

(世の中では年が変わって2019年になったが、このブログはまだ2018年の春である・・・。)

以前、町田市の「鶴間」の語源について、「義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた」という伝承がある、と書いた。
今回はこの、義経の財宝が埋められている、という伝説の地を訪ねてみようと思う。
今回は、まかり間違えれば俄か億万長者も決して夢ではない(かも知れない)。

国道246号の目黒交差点から国道16号の旧道を八王子方面に右折、境川を渡って緩斜面を緩やかに上った先は大和市の「下鶴間」である。
「鶴間」は平安時代の文献にもその名が見える古くからの地名で、今日でこそ相模原市(上鶴間)、大和市(下鶴間、鶴間)、町田市(鶴間)と幾つもの行政区域に分断されているが、中世の頃は全て合わせて「鶴間(紘間)郷」と呼ばれていたようだ。

現在、「下鶴間」と呼ばれる地域は国道16号の旧道の両側に広がっているが、このうち16号の東側、眼下に境川を望む高台上に「公所(ぐぞ)」という地域がある。

「公所」と書いて「ぐぞ」と読むのはかなり難解な部類ではないか、と思うが、「公所自治会ホームページ」によると、正確なことはわからないまでも、県内には他にも同様の地名が見られ、頼朝の時代に各地に置かれた関所の所在地を意味するのではないか、とされているらしい。このあたりには鎌倉古道や滝山街道などの古街道が今でも残っており、古くは「仕置場」、「牢場」などという字名もあったのだそうだ。

この「公所」のほぼ中央に鎮座するのが鶴間郷の総鎮守とされる「公所浅間神社」で、冒頭述べた義経の財宝伝説はこの公所浅間神社に伝わる伝承とされる。

01 公所浅間神社

神社の北側一帯からは古墳時代後期の集落遺跡が見つかっており、「下鶴間甲一号遺跡」と呼ばれているそうである。

02 下鶴間甲一号遺跡

ただ、この公所浅間神社は国道16号のバイパス建設工事に際して、昭和50年に現在地に移転しており、義経の財宝に関わる伝承は移転前の旧地に関わるものらしい。
神社の旧地は現在地よりも500mほど西、台地上を掘割状の切通しで通過するバイパスを見下ろす小さな丘として残っている。

03 下鶴間浅間神社遺跡

バイパス工事で削られる以前、神社の境内となっていた丘は現在よりもかなり大きかったようで、大和市が設置した解説板に載っている往時の白黒写真を見ると、木々が疎らに生えた南北に細長く小高い丘が映っている。

04 下鶴間浅間神社遺跡解説板(全景)

さて、義経が埋めた伝説の財宝はどこにあるのかしら、写真にある小高い丘はバイパス工事でどのくらい削られて、今残っているのは写真のどの部分なのかしら、そもそもバイパス工事の際、財宝は発見されなかったのかしら、などと考えながら、再び解説板に目をやると、思いがけず「塚」の古写真が二枚、掲載されているではないか。

05 下鶴間浅間神社遺跡解説板(塚)

解説板の後ろには丘の上に続く小路があり、登ってみると、丘の上には塚が一つ、残されていた。

06 下鶴間浅間神社遺跡塚遠景

近づいて見ると「富士塚(浅間の森)」と書かれた標柱が立っている。

07 下鶴間浅間神社遺跡塚富士塚標柱

この塚が解説板のいずれの塚かはわからないが、現在の地形図と照らし合わせて見ると、どうやらこれは丘の全景写真の中央付近に移っている方の塚ではないか、と思う。
よく見ると、全景写真の中央右手には社殿の屋根のようなものも見えているようなので、「旧社殿裏手の塚(1号塚)」が残されているのではないか、と思う。

08 下鶴間浅間神社遺跡塚近景

09 下鶴間浅間神社遺跡塚(南から)

おっと、いかんいかん、つい「塚」に目が眩んで、肝心の「財宝」を忘れるところであった。(目が眩むのは普通、「財宝」の方ではないかと思うが。)
鶴間一帯には冒頭の伝承とともに、一節の古い歌が伝えられているそうである。

「朝日があたって夕陽が映え、雀がチュンチュン鳴く所、大釜いっぱい鍋いっぱい」
「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆満杯」

これらはいずれも義経が密かに埋めた財宝のありかについて謡った歌である、とされる。

義経がこの地に財宝を埋めたのは、鎌倉入りを許されず失意のうちに京都へ戻る途上、という状況であるが、しかしながら何故、腰越から京都へ向かおうとしていた義経が鶴間に立ち寄ったのであろうか。
確かに鶴間には古くから、「矢倉沢往還」と呼ばれた街道が通っており、鎌倉時代には宿場機能も成立していたのかも知れない。東国から京都を目指すのであれば、この矢倉沢往還を通ることは当然のようにも思えるが、鎌倉から京都を目指すのであれば、鶴間を経由するのは些か遠回りな感が否めない。

考えて見れば、公所浅間神社の旧地周辺には崖地も多く、そうした崖には横穴墓も多く見つかっているそうである。こうした上代の横穴墓から副葬品が見つかったという話に加えて、もう一つの鶴間の由来伝承、鷹狩りの際、源頼朝がここで鶴が舞うのを見た、という伝承が融合されて、いつしか「義経の財宝伝説」が形成されていったのかも知れない。

いやいや、そんな「夢のない」話をしてしまっては、せっかくの歴史ロマンが台無しである。
あくまでも義経はきっと、弁慶を従えてここ、鶴間に至り、茜空に鶴が舞うのを見たに違いない。
きっとそうに違いない。


(地図)
公所浅間神社地図


(参考資料)
「公所自治会ホームページ」 http://guzo.d2.r-cms.jp/topics_detail4/id=51
「公所浅間神社鶴舞伝説」 http://sengenjinja.web.fc2.com/0densetu/densetu.html



2018/04/06

新座市内の古墳痕跡?(埼玉県新座市 夫婦塚跡(No.25遺跡)/稲荷塚(富士塚)跡(No.1遺跡))

新座郡の前身である新羅郡は郡境の閑地に置かれたことから、古墳はあまり多くは築かれず、古墳空白地帯となったのかも知れない、と書いたことがあった。
一方で、いやいや、きっとそんなはずはない、新座市にも古墳は実はたくさんあったに違いない、と思(願)いつつ調べていたところ、「新座市史」にこんな記述を見つけた。 

「No.25遺跡 畑中一丁目 
黒目川左岸の野火止台地、国道254号線の南方約150mに所在
『夫婦塚』と呼ばれる円墳と方墳の存在が伝えられるが、現在は宅地化されて消滅」

 「No.1遺跡 東北二丁目
 野火止台地上、東武東上線志木駅の西南約200mに所在
 県の遺跡台帳では『稲荷塚』(地元では字名から『富士塚』)と呼ばれ、志木駅を中心とする大塚古墳群に含まれている。
 昭和55年9月5日、宅地造成工事に伴い試掘調査を行い、土盛りを分断したところ土層は柔らかい黒色土のみであり、古墳らしい形跡は何ら認められなかった。よって当遺跡は古墳ではなく、時期不詳の塚であった可能性が高い」 

知らなかったのは不勉強な私だけなのであろうが、ほ~れ、見たことか。やっぱり古墳、いっぱいあったんじゃん、と思い、仕事のついでに見に行くことにした。(後者は『古墳ではなかった』というくだりは、もはやこの男の目には入っていないのである。)

 <夫婦塚(No.25遺跡)>
 練馬から川越街道を北上、和光市、朝霞市と進むと、やがて前方に野火止台地へ上る長い上り坂が見えて来る。台地の手前、崖下を縫うように流れているのが黒目川であり、目指す「夫婦塚(No.25遺跡)」はこの黒目川を望む台地上の縁にあったようである。 

川越街道から南に逸れて「畑中」という信号で右折するとすぐに台地上への上り坂が始まる。この道は明治時代の地図にも載っている古くからの道のようである。
 やがて坂の頂上付近に大きなマンションが見えて来る。 

01 新座市夫婦塚跡付近

新座市史に載っている「No.25遺跡」の位置図を見ると、遺跡はこの大きなマンションの敷地から、今通って来た道路を挟んで反対側の住宅地の方まで、およそ100m四方ほどの範囲にわたっていたように書かれているが、「現在は宅地化されて消滅」とあるとおり、あたりを見回してもそれらしい痕跡は見当たらない。
 
02 新座市夫婦塚跡付近
 
03 新座市夫婦塚跡付近

新座市史の他には全く手掛かりがなく、「夫婦塚」と呼ばれた円墳と方墳が一体どこにあったか皆目わからないのであるが、「夫婦塚」と呼ばれたのであれば、円墳と方墳はそれなりに近い距離に並んであったのではないだろうか、と思うし、相応の大きさの墳丘を伴っていたのではないだろうか、と思う。 
いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見ても塚や古墳を示す記号は見当たらなかったが、このあたりに人家の記号が目立ち始めるのは時系列的には昭和51年の地図以降であるので、それ以前の航空写真を見れば墳丘の痕跡などが映っているかも知れないと思い、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」で戦後の航空写真を穴が開くほど凝視してみたが、この一帯は「広葉樹林」だったようで、一面に広がる木立に埋もれてしまっているのか、判然としなかった。 

04 夫婦塚周辺航空写真(昭和22年) 
 (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和22年撮影(M676-106)の現地周辺を拡大 何となく中央やや上に丸い影があるような気もしないでもないが・・・。) 

<稲荷塚(富士塚、No.1遺跡)>
 時間もあまりないので、続いて志木駅の南西200mにあったという時期不詳の塚、「稲荷塚(富士塚)」を見に行こうと思う。 
こちらは新座市史の遺跡位置図の縮尺が大きすぎて、事前に場所が絞り込めていなかったが、志木駅南西にその名も「富士塚公園」という公園があるので、ここがその跡地なのだろうと思い、100mほど北、イオン裏のコインパーキングに運よく空車があったのでクルマを停めた。 
徒歩で富士塚公園に向かう前、もう一度、「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見てみた。 
やはり今、富士塚公園のある場所に塚・古墳マークは見当たらないな、と思った矢先、その100mほど北方に奇妙な記号があることに気が付いた。 
記号はゲンゴロウかミジンコのように見えたが、地形図にそんな絵が描かれているはずもなく、もしかするとこれは「塚・古墳マーク」ではないだろうか、と思う。

 05 今昔マップon the webより明治39年 2万分の1「志木」(部分)  

大正、昭和の地図で見ても同じ場所に「塚・古墳」記号が描かれているので、おそらくこれが昭和55年まであったという「稲荷塚(富士塚)」であろうと思う。国土地理院の航空写真でも、丸い塚の墳丘が確認できる。

06 稲荷塚周辺航空写真(昭和50年)  (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和50年撮影(CKT7415-C16A-14)の現地周辺を拡大 中央上に斜めに志木駅、中央下、丸で囲んだ部分が稲荷塚(富士塚)と思われる場所) 

そうか、ではこの場所は現在のどこにあたるのか、と思ったところでハタ、と気づいた。
今、クルマを停めたばかりのこの駐車場を取り囲む建物の向きがどうもおかしい。敷地がほぼ円形をしているのである。
 07 新座市稲荷塚跡


位置的にもおそらくここが稲荷塚(富士塚)の跡地で間違いないように思う。 

今回訪ねた塚・古墳はいずれも開発で消滅してしまっていて、手掛かりもさほどなく、その痕跡を探すだけに留まったけれど、こういう不完全な探索行も、これはこれでなかなか面白いものだ。 

おっと、いかんいかん、仕事の時間に遅れてしまいそうである。 

夜、帰宅してから少し文献を当たってみたところ、「埼玉の古墳(北足立・入間)」という書籍の「荒川流域右岸の古墳」の項の末尾に、「(伝)大塚古墳群」として以下のような記述があった。

 「(伝)大塚古墳群
  柳瀬川と荒川の沖積地にのぞむ志木市域には、『埼玉縣史』に『志木町古墳群』が登載され・・・『朝霞町の西北に接して柳瀬川・新河岸川に臨める台地に多くの古墳を存し、主として円墳で字大塚の塚ノ山は其の以て地名を来せるものであり、其他田子山の富士、久保の二墳、稲荷山の二墳、二塚の二墳、出口の休塚等其の数可なりに多きを見られる。』・・・しかし志木市史編さんにあたって、文献、古地図、実地調査、聞き取り調査を行ったが古墳と認められる墳丘はなかった。・・・昭和55年段階では古墳群と認められないという結論に達し・・・その後の調査でも、古墳と認識できる資料は発見されていない。・・・野火止塚は・・・台地の奥にあり、古墳の可能性はきわめて薄い。そのほかの『塚』も古墳とは考え難いものである。」 

「稲荷山の二墳」というのは志木駅南西の「稲荷塚」であろうし、「夫婦塚」は言及されているのかよくわからないが、これを読む限り、塚の山古墳も含め、このあたりの塚はいずれも古墳ではない、という文意に読める。
 専門家の方々が「古墳ではない」とするものを、それでも「古墳!」と言い張るつもりはない。
 ないのであるが、それでも遠い昔、誰かが何かしらの意図を以ってこうした塚を築いたことは確かであって、そうした人々は果たしてどのような思いをこれらの塚に込めたのだろうか、また、近世になって削平されるまでの間、そうした古塚は人々からどのように思われていたのだろうか。 
余計なお世話かも知れないが、そんなことをつい、思ってしまうのである。

 (地図) 
夫婦塚跡地図


稲荷塚跡地図



(参考資料) 

「新座市史 第一巻 自然・考古 古代中世 資料編」(新座市立図書館デジタルアーカイブ)http://www.lib.niiza.saitama.jp/das/detail?24&id=1 

「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html 

「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」1994年 埼玉県教育委員会

「埼玉の古墳(北足立・入間)」2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会





2018/03/29

桜吹雪と富士塚(神奈川県川崎市 登戸富士塚/浅間社)

仕事帰り、いつものようにクルマで登戸周辺を通り掛かった。
もう夕方の五時を回っているが、陽が長くなってきてまだまだ当分明るいので、どこか寄り道できるところはないかと「ガイドマップかわさき」の遺跡地図を見ると、向ヶ丘遊園駅近くの神社に古墳マークが付いている。
遺跡番号:「多摩区No.14」、種別:「古墳」とあり、「古墳マップ」で調べてみると、どうやらこれは「登戸富士塚」という名前の、歴とした「古墳」のようである。

府中街道を左折して住宅街に入ると、途端に道幅が狭くなる。生活道路で多くの人々が行き交っているので恐縮しつつ慎重に進むと、ほどなく左手に浅間社の鳥居が見えてきた。神社前は路上駐車できるような道幅はないので、神社の脇道を入ったところにある月極駐車場の端に少しだけ停めさせてもらって、急いで神社の鳥居に戻る。

01 登戸富士塚古墳・浅間社遠景

境内の桜はだいぶ散り始めていて、参道は桜の絨毯のようになっている。

02 登戸富士塚古墳・近景

参道脇では三猿を従えた青面金剛さんが「おい、お前、無断駐車はいかんぞ」と仰っている(ように思える)。

03 登戸富士塚古墳庚申塔青面金剛像

富士塚の土台は古墳をそのまま利用しているらしく、「古墳マップ」によれば直径17m、高さ2.2mの円墳とのことである。墳丘上には清宮伝右エ門なる人物が文化3年(1806年)に祀った、とされる浅間社の祠があって、桜吹雪が西陽を浴びながら、はらはらと舞っている。

04 登戸富士塚古墳墳頂浅間社

祠に手を合わせ、急いで境内を出て西側から全体を見渡してみる。多摩川沿いの沖積低地にあるからだろうか、墳丘の立ち上がりだけでなく、墳丘のある場所は周辺よりも若干高くなっているように見える。

05 登戸富士塚古墳西から

これ以上の無断駐車は忍びないので、東側に停めたクルマに急いで戻り、見上げればここからも古墳がよく見えている。古墳と、墳頂の浅間様にもう一度手を合わせた。

06 登戸富士塚古墳東から

大急ぎで忙しなかったけれど、桜吹雪が印象深い、趣き深い古墳であった。

07 登戸富士塚古墳 墳頂の桜


(地図)
登戸富士塚古墳地図



(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/





2018/03/28

鎌倉古道と刑場伝説の塚(神奈川県横浜市 泣坂、餅塚)

町田市の木曽富士塚の桜があまりに見事だったので、もう一ケ所、寄り道したい場所がある。
横浜市青葉区に「田奈」という場所がある、と以前書いたが、その田奈と恩田川を挟んだ南岸、横浜市緑区の高台に「餅塚」という塚があり、桜の時期はとてもきれいなのだそうだ。

緑区の「緑区遺産」にも選ばれている「餅塚」は、横浜線十日市場駅の西、東名高速が足元を通る標高60mほどの台地の南端にあり、近くには「泣坂(なきざか)」という名の古い坂道や、「北門(ぼっかど)古墳群」という興味深い名前の古墳もあるらしい。
この「北門古墳群」はまた別の機会に譲ることにして、今日は「泣坂」を上って「餅塚」を見て帰ろうと思う。

横浜線の十日市場駅前の少し西で交差点を右折、高架の東名高速をくぐると道は急な上りに差し掛かる。これが現代の「泣坂」である。旧道は細道で右方向に逸れていくが、右折できないのでそのまま直進すると、ほぼ坂を上り切った「泣坂上」交差点で、右から旧道が再び合流してくる。旧道はそのまま新道を横切って左へと上って行くので、ここから旧道に入ると、道はさらに高台を上へ上へと上っていく。

「泣坂」というのもずいぶんとインパクトのある名前だが、緑区のホームページによると、古くは近くに処刑場があって、罪人が泣きながら上った、あるいは、罪人の泣き叫ぶ声がこの坂道まで聞こえて来たのでその名がついたのだそうだ。泣坂の由来も気になるが、まずは「餅塚」に陽が沈む前に辿り着かねばならない。
塚は旧道南側の一帯に広がる大きなマンション群の向こう側にあるので、住宅地を大きく南側に回り込んで行かねばならない。左折して登り、また左折して登り、を繰り返すと、ようやく高台を上り切ったのか、前方の家並みの向こうに夕焼け空が見え、高台の縁の道をそのまま進むと、公園の一画に大きな小山が見えてきた。

01 餅塚遠望

小山の上に登ると、頂上はもう一段、2mほど高くなっており、これが「餅塚」のようである。

02 餅塚

03 餅塚上の碑

緑区のホームページによると、餅塚の由来は、このあたりで茶屋を営んでいた老婆が餅を売っていたため、とある。
一説には、その老婆と娘さんがある日、山賊に襲われて命を落とした、という何とも悲しい伝承もあるらしい。
無闇に立ち入ると祟りがある、とされ、以前は雑草が生い茂るままになっていたそうだ。
昭和30年頃までは小さな祠があったそうであるが、その祠が朽ち果ててしまったので、塚の供養のため、昭和60年に地元の方々が石碑を建てたのだそうだ。

04 餅塚上の碑

05 餅塚上の碑

石碑に向かって手を合わせ、改めて見渡せば、塚上はひときわ小高く、周囲の眺望は抜群である。

06 餅塚上より北方の眺望

06 餅塚上から南方の眺望

眺望もよいが、周囲の桜もまた見事である。

08 餅塚の桜

09 餅塚の桜

茶屋を営んでいたという老婆やその娘さん、茶屋で一服した旅人たちも、一日の終わりに果たしてこんな光景を見たであろうか。

10 餅塚上の空

沈んでゆく西陽を見ながら、それにしても、何故ここに「茶屋」や「処刑場」などの伝承が残されているのだろう、と思った。

家に帰り、地図を眺めると、旧道は歪んだS字型に大きく蛇行して急斜面を南東から北西へと上っており、そのまま進むと旧大山街道の長津田宿、片町の地蔵堂に至る。調べてみると、どうやらこの道は鎌倉街道の中ノ道から上ノ道への古くからの連絡路であったらしく、南は霧が丘からズーラシアのあたりを通って鶴ヶ峰へと通じていたようである。街道沿いで眺望のよい高台ということであれば、水をどのように確保していたかはともかく、茶屋があった、というのも頷ける話ではある。(一説によれば、さらに古くはS字の旧道は東へもっと大きく蛇行しており、横浜線の向こうまで迂回していたそうである。)

一方で、処刑場と言うと、鈴ヶ森や三田、小塚原といった江戸の刑場が思い浮かぶ。
これらはいずれも江戸市中を出た外側に置かれており、結界としての意味合いを持つ「忌み地」のような場所でもあっただろう。同時に、こうした場所を街道沿いに置くことで、罪人の行く末を往来に「晒す」という意味合いもあっただろう。

恩田川周辺には鎌倉時代、恩田氏という有力武士がいたそうであるし、餅塚から南西に2kmほど離れた高台にある旧城寺の一帯には、室町時代、上杉憲清が築いたとされる「榎下(えのした)城」という山城があったそうである。餅塚近くの古墳群の名前にもなっている「北門(ぼっかど)」という地名はこの榎下城の北門を差すのではないか、という説もあるようだ。いつの時代かわからないが、榎下城の所領地の「結界」として、ここに刑場が置かれた時期があったのかも知れない。

「旧鎌倉街道探索の旅」という、最近復刻版も出た書籍に、次のような記述がある。

「『古道のほとり』(という書籍)には北門(ボクカド)について次のようにある。『ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる』と。」

この牧場の支配者が誰であったのかどうかはともかく、いつの頃か、ここに牧が置かれた時期があったのだろう。
所領地の外れの高台で近くに古墳などもあったため「忌み地」とされ、刑場が設けられた時期もあったのかも知れない。戦乱の世が終わると街道沿いで眺望がよいので茶屋ができ、そこで餅が売られたのだろう。不幸にも茶屋の主が命を落とした悲惨な出来事が、街道を行き交う旅人から巷間へと伝わる中で、古く刑場があった時代の伝承と相俟って、「餅塚」、「泣坂」の伝承となって、今に伝わっている、ということなのかも知れない。


(地図)
餅塚地図



(参考資料)
「緑区遺産(登録番号011)餅塚」 緑区ホームページ http://www.city.yokohama.lg.jp/midori/60guide/midorikuisan/isan011.html
「緑区の泣坂」 はまれぽ.com http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1128
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 1981年1月 芳賀善次郎氏 さきたま出版会