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2016/12/16

多賀城の小円墳(宮城県多賀城市 稲荷殿古墳)

仙台港に出張することになり、少し早く現地に到着したので、多賀城駅から徒歩10分ほどの稲荷殿古墳を見に行った。

多賀城駅の北、多賀城市役所を西に入ってすぐの瀟洒な住宅街の一角、三方を住宅に囲まれているが、古墳は文化財としてきちんと保存されていた。朝陽を浴びて、電柱の長い影が墳丘まで伸びていた。

20161215 DSC_4775s多賀城稲荷殿古墳

直径13.5m、高さ約2mの円墳で、7世紀前半の築造、横穴式石室から銀環(耳飾り)や石製小玉などが出土したらしい。

20161215 DSC_4779s多賀城稲荷殿古墳

20161215 DSC_4778s多賀城稲荷殿古墳

墳丘を眺めながら、墳頂が窪んで見えるのは盗掘にあったのか、それとも埋葬施設が陥没した跡だろうか、などと考えていると、幼稚園に子供を連れていく途中か、自転車に乗った女性が怪訝そうにこちらを見ている。近頃は物騒な事件が多いので、古墳見学も気楽でない。

周囲は一面、有名な多賀城遺跡が点在するエリアであるが、遺跡地図を見ても古墳はこの稲荷殿古墳だけのようである。
土地勘が利かず周辺の立地がよくわからないが、古墳はここから数百mほど南を流れる砂押川に面した河岸段丘に作られているのであろう。そういえば市役所からここまでは緩やかな上り斜面になっている。

20161215 DSC_4782s多賀城稲荷殿古墳近く

市役所近くまで下ったところの公園内に、さきほどの古墳よりも大きな盛土の山があった。
最初、これが古墳か、と思ったが、遺跡地図を見ても何も記載がないことからすると、こちらは人口の盛土なのだろう。

さて、ミチクサはこのぐらいにして、仕事に向かうとしよう。今日も空が青い。

多賀城 稲荷殿古墳 地図

2016/03/17

最北の前方後方墳(宮城県美里町 京銭塚古墳)

大崎市での出張仕事を少し早めに切り上げて、美里町(旧小牛田町)にある京銭塚古墳を見に行ってみた。

京銭塚古墳(南から)

小牛田駅の南西、ファミリーマートにほど近い住宅地の中に周囲よりも一段高くなった場所があり、何となくそれとわかる。

古墳時代中期(5世紀末~6世紀)築造の前方後方墳で、全長66m、高さ4m、後方部をほぼ北に向けている。前方後方墳としては日本最北端に位置しているらしい。墳丘は概ねよく残っているように見える。前方部は後方部に比べて低く、古様を呈しているように思える。

写真は南側前方部から後方部を見上げたところ。右手に旧小牛田町が平成4年に設置した説明板が立っている。

20160317 DSC_3960s小牛田京銭塚古墳


後方部墳丘上は孝勝寺別院という寺院の敷地になっているが、一見すると個人宅のような雰囲気でやや後ろめたい。

20160317 DSC_3963s小牛田京銭塚古墳


震災から5年、早春の東北はまだ風が冷たいけれど、心なしか少しだけ春の香り。
古墳の上の青空はキレイに澄んでいた。

小牛田 京銭塚古墳 地図

2016/03/17

東北最大の前方後円墳(宮城県名取市 雷神山古墳/小塚古墳)

今日は午後から古川で仕事があるのだが、午前中を使って名取市にある雷神山古墳を見に行こうと思う。名取にはこれまでも仕事で何度も通っているが、古墳が多く「古墳の里」とも呼ばれるらしい。名取から古川まではだいぶ距離があるが、好きこそものの何とやらで、早起きが苦にならない

<雷神山古墳>
雷神山古墳は、標高40mの愛島丘陵の東端に築造された三段築盛の前方後円墳で、主軸長168m、後円部径96m、高さ12m、前方部長72m、前端幅96m、高さ6mと東北最大の巨大古墳で、立地や墳丘の形態、出土遺物などに前期古墳の要素が見られることから、築造年代は4世紀末から5世紀初め頃と考えられている。

古墳の北西側、駐車場のある正面入り口から上っていくと、詳細な解説板と市内の主な古墳の案内がある。

雷神山古墳解説板

雷神山古墳解説板

市内古墳解説板

解説板のあるところからさらに上っていくと、後円部と小塚古墳に挟まれたところに出る。突然の大きさに思わず息を飲む

雷神山古墳

墳頂には今でも雷神様が祀られている

墳頂の雷神様

後円部から前方部を見る。後円部に比べ前方部は低く、盛り上がりもないためのっぺりとした感じである

雷神山古墳後円部より前方部

平坦な前方部の端から後円部を望む

雷神山古墳

明瞭な段築が見事に残っている

雷神山古墳

雷神山古墳

その大きさや占地の状況等から、仙台平野一帯を支配した一大首長の墳墓と考えられている。スケールが大きすぎて、スマホでは全体がうまく撮影できない

雷神山古墳

昭和5年に報告された際は、小塚古墳と合わせて「植松丘上主古墳・副古墳」と呼ばれた、とあったが、当時、この高台は植松丘と呼ばれていたのだろうか。東方、遥かに海を望む。何事もなかったかのように穏やかな景色に胸が詰まる。

雷神山古墳眺望


<小塚古墳>
雷神山古墳の北側にあり、直径54m・高さ6mで、こちらも三段築成、周湟を有する円墳である

小塚古墳

周湟、段築ともはっきりと残っており、墳丘と青空のコントラストが美しい

小塚古墳

正面入り口から上がるとまず先に小塚古墳があるので、衛兵が亡き主を守っているようにも思えるし、雷神山の墳頂から見ると、妃が亡き夫の枕元に寄り添っているようにも見える

雷神山古墳後円部より小塚古墳

参考までに、名取市教育委員会による名取市内の主な古墳の分布図

名取市古墳分布図(名取市教育委員会)


(参考資料)
「第13回ふるさと名取の歴史展 近年の発掘調査―見えてきた新たな歴史」名取市教育委員会

雷神山古墳地図

2016/03/17

中世の風習を伝えるなだらかな柄鏡式前方後円墳(宮城県岩沼市 かめ塚古墳/温南山古墳)

名取の雷神山古墳を見に行く機会があったので、ついでという訳ではないが、岩沼市で気になっている前方後円墳を見にいってみた。

<かめ塚古墳>
市境を越えて岩沼市に入ったあたり、東北本線の線路の向こう側、広い畑の真ん中に、解説板も何もないが、それらしいマウンドが見えている。

かめ塚古墳

かめ塚古墳

宮城県の指定史跡となっていて、県のホームページによると全長39.5m、後円部直径16.3m、高さ2.45m、前方部幅10.3m、高さ2.05mで、細長い柄鏡型の墳丘は「非常に保存が良い」とされるが、古墳というにはやや高さが低いように思う。変な例えだが、有名なネス湖のネッシーの写真で見たようなふたこぶの恐竜が身を横たえているように見えるのは、段築がなく、表面がなだらかなカーブを描いているからかも知れない。

かめ塚古墳望遠

上の写真で言うと左側が後円部、右側が前方部のようだが、前方部、後円部とも後世に削平されており、本来は全長約50mの古墳であったと推定されている。かつては後円部に見事な松の木があったそうだ。

かめ塚古墳には古くから「サッペ講」という風習が伝わっていて、旧暦10月25日に新米で餅をつき、夕方に藁でかめ塚に小屋を建てて藁人形を供養した後、一切のものを焼いたそうだ。「サッペ講」の謂われは、岩沼館主が藩公から側室を賜ったが気に入らず、遠ざけて暮らしていたが、ある時側室の言いつけで土蔵に書類を探しに入った三平というお付きの侍が火事に巻かれ、割腹した自らの体に大切な書類を納めて火事から守りぬいて焼死したのを人々が憐れみ、三平に似せた藁人形を供養したのが始まりだそうで、かめ塚を掘ると火事が起こるという伝承とともに伝えられているらしい。

近づくには、田畑の畦道を通る以外になさそうでもあり、残念だが遠望するに留めた。

なお、すぐ近くには温南山古墳という帆立貝式の前方後円墳が残っているが、時間がなく見に行けなかった。以下はGoogleストリートビューの画像。

<温南山古墳(名取市)>
温南山古墳(Googleストリートビュー)

(参考資料)
「宮城県の指定文化財」 宮城県 http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/ken-siseki01.html
「岩沼市指定文化財一覧」 岩沼市 http://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kakuka/050300/050302/sitei-itiran.html
「いわぬま歴史散歩道」 岩沼市商工会http://www.iwanuma.miyagi-fsci.or.jp/rekisi01.htm

かめ塚古墳地図

2015/12/25

海岸砂丘上の円墳群(宮城県名取市 下増田飯塚古墳群(雷神塚古墳/毘沙門堂古墳))

仙台空港アクセス線美田園駅の東200mほどのところに微高地(浜堤列)が南北に走っており、その微高地上に、いくつかの古墳が残っている。震災前の名取市教育委員会の資料には、北から兵糧塚古墳、雷神塚古墳、塚根塚古墳、毘沙門堂古墳という4つの円墳が残っているとあるが、塚根塚古墳は削平されて残っていないようだ。古くは南東に少し離れてもう一つ、経の塚古墳という円墳があったらしく、さらに大正時代には「下増田七塚」と呼ばれ、七つの古墳があったようだ。
こうしたことは帰宅してからわかったことで、この日は雷神塚古墳と毘沙門堂古墳の二つを見学したに留まった。

<雷神塚古墳>
震災後に建て替えられたのだろうか、新しい住宅地の一画が公園になっていて、古墳が保存されている。

雷神塚古墳

雷神塚古墳

名取市ホームページによれば直径30m(現地の説明では40m)、高さ5mと大型の円墳であるが、墳頂は削平されているのか平らにならされているように見える。墳頂には大きな石碑が建てられている。

雷神塚古墳

公園として整備される以前は、周囲に周溝の痕跡が見られたそうである。

雷神塚古墳

墳丘上の松の木のコントラストが鈍色の空に映える。


<毘沙門堂古墳>
雷神塚古墳から南へ、増田川を渡る橋の上から右手を見ると、毘沙門堂古墳の木立が黒々と見えている。増田川のまっすぐな流路は人為的なものだろうか、古墳のすぐ脇をかすめるように滔々と流れている。

毘沙門堂古墳遠望

古墳入口の看板はあれど、古墳そのものの解説などはないようで、宮司さんのお住まいだろうか、建物の合い間を通って、墳頂の毘沙門堂へ上がる。思いのほか石段は長い。

毘沙門堂古墳

毘沙門堂への石段

手を合わせて古墳を見に来た旨を毘沙門様に述べ、境内を見回してみる。狛犬が一対、風雨で摩耗しながらも、時ならぬ闖入者を睨みつける。

毘沙門堂

毘沙門堂狛犬

毘沙門堂狛犬

毘沙門堂を辞し、石段を下りると、宮司さんが飼われているのであろうか、子供の山羊がじっとこちらを見つめている。先ほどの狛犬の表情といい、どことなく不思議な感覚を覚える。夢の中の出来事のように思えてくる。

毘沙門堂古墳

名取市のホームページによれば、古墳は直径50m、高さ8mの円墳だそうであるが、南側に造出部の痕跡のような遺構が残っていることから帆立貝式ではないかという説もあるようだ。崩れて堆積した墳裾か判然としないが、確かに低いテラス状の高まりがあるのがわかる。

毘沙門堂古墳南側テラス状遺構

毘沙門堂古墳南側テラス状遺構

毘沙門堂古墳南側テラス状遺構

垂れ込めていた鉛色の雲が切れて、少しだけ青空が覗いたが、風は弱まるどころかますます強く、冷たくなった。

毘沙門堂古墳

毘沙門堂古墳

以下、現地へは行っていないが、参考までに。

<兵糧塚古墳>
雷神塚古墳の700mほど北、Googleストリートビューで見ると民家の裏に墳丘が残っているようだ。

兵糧塚古墳(Googleストリートビュー)

<塚根塚古墳>
平成19年に調査が行われた際は墳丘が残っていたようだが、その時既に東側の半分以上が失われていたらしい。調査の結果、直径28m、高さ4mの円墳で、幅9mの周溝があったことが判明、さらに古墳の下から直径7.5mの小型円墳の痕跡が見つかったらしい。墳丘はこの時に削平されてしまったようだ。

塚根塚古墳(名取市教育委員会)名取市教育委員会の資料より


<経の塚古墳跡>
毘沙門堂古墳から南東へ1km、八間堀を越えた西経塚というところにあった直径36m、高さ7mの円墳で、重文指定の家形、鎧型の埴輪や、被葬者の人骨を伴った長持型の組み合わせ石棺などが出土、これらの遺物から機内政権との関係が想定されるらしい。出土した石棺は東北大学片平キャンパス内に保存されている。道路工事や病棟建設などのため墳丘は削平されてしまったようだが、現地には若干のマウンドと経塚観世音の祠が残されているようだ。毘沙門堂古墳といい、高さのある古墳である。

経の塚古墳(雷神山古墳現地解説板より)

これらの古墳は何故、台地の縁などの高台でなく、海岸に近い低地に築かれたのであろうか。大田区にも同じように高台でなく低地に古墳が築かれた時期があったようだが、気候変動で海岸線が退いてできた新しい土地に進出してきた新たな勢力が、高台の勢力と同じように、自らの領地内の最も高い場所に墓を築いたのだろうか。だから台地上の古墳よりも高さのある古墳になったのだろうか。新興勢力だとすると、高台の勢力や機内政権との関係はどのようなものだったのだろうか。興味は尽きない。


(参考資料)
「第13回ふるさと名取の歴史展 近年の発掘調査~見えてきた新たな歴史」名取市教育委員会
「名取の里デジタル歴史館」 名取市http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/kyouiku/node_28152/node_1952