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2018/05/29

高台の2つの末期古墳(青森県八戸市 鹿島沢古墳群、丹後平古墳群)

青森県にある古墳は「末期古墳」と呼ばれる直径数m程度の小円墳の群集墳で、古墳時代ではなく飛鳥時代から平安時代にかけて築造され、同じ様式の群集墳が宮城県北から南北海道にかけて広く分布しているそうだ。

01 末期古墳の分布域
(2017年7月、おいらせ阿光坊古墳館にて)

青森県内には3箇所、末期古墳の群集墳が確認されており、これらはいずれも八戸市の周辺に点在している。
仕事で毎月行っている八戸だが、大抵はとんぼ返りで帰って来てしまうので、昨夏、阿光坊古墳群を見て以降、どこかに寄り道するようなことはなかった。
今回は仕事をやり繰りして、半日時間を空けることができたので、仕事の後、まだ見ていない鹿島沢古墳群と丹後平古墳群に行ってみたいと思う。

<鹿島沢古墳群>
会議を午前中のうちに終え、いそいそと本数の少ない路線バスに乗って鹿島沢を目指す。
鹿島沢は、八戸の市街地南に迫る山塊の中腹、標高90mほどのところにある。八戸ニュータウン行きのバスに乗って羽仁もと子記念館前で下車、ここはまだ鹿島沢の一段下のような場所であるが、既に標高70mほどあるので、市街地の眺めが良い。

02 鹿島沢下からの眺め

バス通りの西側にはさらに20mほど比高差のある高台が南北に走っていて、古墳はこの見上げるような高台の上にある。

03 鹿島沢古墳群遠望

解説板によると古墳が発見されたのは昭和33年で、それまで青森県で古墳は知られておらず、発見当時は岩手県二戸市の堀野古墳群が古墳分布の北限と考えられていたようである。
盛土はほとんど失われていたようだが、7世紀頃のものと思われる10基ほどの古墳が10mほどの間隔で確認され、川原石敷きの埋葬部から土師器甕や直刀、鉄鏃、ガラス玉などの副葬品が発見されたそうだ。
青森県のホームページによると直径1.2m、高さ1.3m(『直径<高さ』というのも不思議な感じがするが。)の盛土を削平したところ木炭層が発見され、さらに下層から川原石の埋葬部、副葬品が出土した、とある。

04 鹿島沢古墳群解説板

古墳跡は埋め戻されて草地になっており、薫風が草を揺らして吹き抜けていく。
気配を感じたのか、草叢から雉が鋭く一声鳴きながら木立の中へ走り去って行った。

05 鹿島沢古墳群近景

06 鹿島沢古墳群現況

Wikipediaによると古墳は根城(ねじょう)古墳群とも呼ばれ、鹿島沢からは3基、隣接する大久保地区からも5基が見つかっているようだ。大久保地区の5基はその後、宅地造成で消滅してしまったらしいが、大久保地区から出土した銅製の杏葉や帯金具、勾玉などの出土品は青森県重宝に指定され、根城にある八戸市博物館で見ることができるそうである。

蛇足になるが、「根城」は鹿島沢の1.5kmほど北にある、建武元年(1334年)、南部師行によって馬淵川を望む高台に築城された城で、江戸時代に岩手県の遠野に国替えされるまでの300年間、南部氏の居城であった場所である。

07 史跡根城の広場
(2015年9月 史跡根城の広場にて。隣接の博物館にある鹿島沢古墳群の出土品は見忘れてしまった。)


もう一ケ所、丹後平(たんごたい)古墳群は鹿島沢古墳群から2kmほど南、八戸ニュータウンという新興住宅街にある。次のバスまではだいぶ時間があるので、このまま高台上の道を歩いて行こうと思う。
「風薫る」とはよく言ったもので、木立を抜けて来る風のなんと爽やかなことか。微かに漂うよい香りは一体何だろうかと思っていると、香りの主は頭上のニセアカシアの花のようである。

08 ニセアカシアの花

爽やかな香りで気分もよいが、ニセアカシアは明治になって輸入された外来種であり、しかも日本固有の生態系に被害を及ぼすとされる「生態系被害防止外来種」だそうである。

暫く行くと瀟洒な住宅街に入る。
近くに小学校があるのだろう、下校途中の小学生が多く、町内会の掲示板には「連れ去り注意!知らない大人に声をかけられてもついて行ってはいけません!」の文字。最近は物騒な事件も多いので、古墳見学にも気を遣う。
ふと見れば、前方からランドセルを背負った女子児童が一人、歩いて来る。
勘違いされても困るので、視線を合わさないよう、俯きながらすれ違おうとしたまさにその時。
すれ違いざま、小さいがはっきりとした声で、おそらく彼女は「コンニチワ」と言った。
不意な出来事に慌てつつ、遠ざかる彼女の背中を見送りながら、子供には善人と悪人の区別がつくのかしら、などと思った瞬間、別のポスターが目に入った。
「不審な人には、こちらから『コンニチワ』と声をかけましょう!」
なるほど、「コンニチワ」作戦は確かに効果覿面である。

<丹後平(たんごたい)古墳群>
丹後平古墳群はニュータウンの一画、白山台保育園の向かい側に埋め戻された状態で「保存」されていた。

09 丹後平古墳群遠望

古墳群の総数は100基前後とされており、7世紀後半に南側から築造が始まり、北に移動しながら9世紀後半まで継続した、と考えられているようだ。
埋葬施設は長方形の木棺直葬のほか、土壙墓や地下式横穴なども混在しているらしい。

10 丹後平古墳群解説板

確認された中で最大規模の15号墳は直径(周溝内径)9mで、ここから発見された獅噛式三累環頭太刀柄頭(しがみしき さんるいかんとうたち つかがしら)は国内に他に類例を見ない見事なもので、新羅で製作されたものと考えられているそうだ。(これも実物は八戸市博物館で展示されているらしい・・・。)

周囲をぐるりと一周してみたが、宅地造成で周辺の土地は削平されているらしく、特に南側と東側はコンクリートブロックが高い壁のようになっている。

11 丹後平古墳群遠望(南から)

12 丹後平古墳群南側

比高差の少ない北西隅に一ケ所だけ階段があるが、黄色いチェーンがかけられており、自由に見学していいような雰囲気ではなかった。

13 丹後平古墳群北西隅

14 丹後平古墳群現況

遺跡は保存されている一画だけに留まらず広範にわたっていたようであり、南東側には木立の茂る緩斜面が僅かに残っている。

15 丹後平古墳群南方の窪地地形
(軽トラックの左、コンクリートブロックの塀の上の草地が古墳群の保存区域)

緩斜面の先はすり鉢状に落ち込んでいるようで、見晴らしがよい。地形図を見るとこの先は歪な楕円形の窪地になっているようで、窪地の向こうにはまだ鬱蒼とした木立がところどころ見えている。古墳を造った人々が暮らしていた時代は一体どんな光景だっただろうか。

バス停で帰りのバスを待ちながら考えた。新羅から見事な太刀を輸入するほどの力を持っていたこの地の人々はその後、一体どのような運命を辿ったのだろう。

大和朝廷による蝦夷侵攻は延暦2年(802年)、阿弖流為(アテルイ)の降伏を以って事実上収束し、概ね岩手県中部の志波城(若しくは徳丹城)から秋田県中部の雄勝城までを北限とするラインで一旦停止したようである。
今日見て回った鹿島沢古墳群、丹後平古墳群と、昨夏に見た阿光坊古墳群はいずれもこの侵攻停止ラインよりも北に位置しているので、これらの地域の人々は、もしかすると大和朝廷側による直接的な侵攻は受けずに済んだのかも知れない。
しかしながら、蝦夷の地ではその後、大和朝廷の俘囚となった部族を中心とした部族間紛争が頻発したそうである。
少なくとも蝦夷の人々から見れば、蝦夷の地に災いを齎した大和民族こそ、ニセアカシアの比ではない「外来種」であったに違いない。

彼方からバスが近づいて来た。
目を凝らすと、そのバスは行きに乗って来たのと同じバスのようであった。

<公開日 2019.01.13>

(地図)
鹿島沢・丹後平古墳群地図


(参考資料)
「oh! 史跡探訪 八戸市の古墳」 http://oobuta.fc2web.com/rekisi/kofun/si/hatinohe.html
「鹿島沢古墳群出土品」 https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/juho_kouko_26.html
「鹿島沢古墳群(ウィキペディア)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島沢古墳群
「丹後平古墳群」 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,3241,129,153,html
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,69662,129,63,html



2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(3)十三森(2)遺跡)

青森県おいらせ町の「阿光坊古墳群」に来ている。
町営の「おいらせ阿光坊古墳館」の展示は想像以上に面白かったし、古墳群そのものも濃密に分布していて、復元された墳丘に夏草が茂った光景はあたかも平安時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。
3つのエリアのうち、阿光坊遺跡、天神山遺跡は見終えたので、残るは最も奥まったところに広がる「十三森(2)遺跡」である。

<十三森(2)遺跡>
「十三森(2)遺跡」の「(2)」については前々回にも書いたとおり、近くに「十三森遺跡」として古くに指定された遺跡があることから、これと区別するために付けられたようであるが、本家「十三森遺跡」は、近くにあった近世の塚と混同されたようで、本来、昔から「十三森山」と呼ばれたのはこのあたりだったようである。
古墳館の展示によれば、ここ、十三森(2)遺跡には9世紀に入ってから築造されたと考えられる65基の古墳の存在が確認され、そのうちのいくつかは現在でも築造当時からの墳丘がそのまま遺存しているようである。

古墳群の入り口からほぼ真っすぐに遺跡内を通る見学用の道路を進むと、十三森(2)遺跡エリアが目前の木立の向こうの方に見えてくるが、まだそれなりに距離がありそうである。古墳館で思いのほか時間を使ってしまったこともあり、帰りの新幹線の時間が少し気になってきた。
改めて辺りを見渡せば、見渡す限り人影はない。今日は青森にしては珍しく日差しが強く、汗だくでもある。まさかクマなど出やしないだろうが、元来「ヘタレ人間」なので、つい心が折れそうになる。

と、その時、森の中からホトトギスの見事な鳴き声があたりにこだました。耳を澄ますと、あちこちで鳴いている鳥のさえずりと、森を吹き抜ける風の音以外は何も聞こえない。人工的な音が一切聞こえない状態というのは久しぶりであるが、ともかく気を取り直して、木立の間の道を進む。
ふと脇を見ると、子供の背丈と同じくらいの立派なシダが密生している。葉が広がらず立ち上がっているので「クサソテツ」ではないかと思う。芽吹く頃は「コゴミ」と呼ばれ、食料となる植物である。遥か遠い昔、この辺りに住んでいた人々が見た風景もこうだっただろうか。

13 十三森(2)遺跡へ至る木立

頑張ったご褒美、というほどの距離でもないが、ようやく十三森(2)遺跡エリアに至り、解説板が出迎えてくれた。

14 十三森(2)遺跡解説

背後の斜面には調査後、再現された「J10号墳」の墳丘がこんもりと見えている。

15 十三森(2)遺跡 J10号墳

「J10号墳」は調査以前も地面に円形の塚状の高まりが確認されていたようである。構造は、周溝を掘り下げた土を埋葬部に盛土したものと考えられ、もともと墳丘はそれほど高くなかったものと考えられている。周溝は全周しておらず、南側が途切れて通路状になっている。

16 十三森(2)遺跡 J10号墳周溝

周辺には他にもたくさんの古墳が散在しているはずであるが、このエリアで復元されているのはこのひとつだけのようである。

築造当時の墳丘の痕跡はないものか、と辺りを見回すと、やけに木の切り株が多いのに気が付いた。

17 十三森(2)遺跡遠望

改めて見渡せば、あちこちに数えきれないほどの木の切り株が見えている。

18 十三森(2)遺跡遠望

古墳の見学が目的であれば、林立する樹々が伐採されて見通しがよい方が、地形を含めた全貌が把握しやすいので助かるが、それにしても一体、どれほどの木を伐ったのだろう。

林を抜けてくる風に吹かれつつ、一人、考えた。

永く住み慣れた土地を奪われた人々の、怒りや悲しみがたくさん沁み込んでいるであろう大地に育った木々を伐り倒すのも、日本の林業の現状からすると仕方のないことなのかも知れない。手入れの行き届かない状態で放置するよりは、木を伐ってでも観光資源として活用する方が得策、ということかも知れないし、そうして開発された場所にわざわざやってきた自分が偉そうなことを言えた義理ではないが、解説板にあるとおり、1000年以上残り続けた貴重な遺産を守り伝えていくためとは言え、やはり何か、どことなくやり切れないものを感じる。

19 十三森(2)遺跡解説

そんなことを考えながら改めて見渡せば、辺り一面に累々と広がる夥しい数の切り株が、遠い昔、ここで平和な暮らしを送っていたであろう蝦夷の人々の墓標のようにも思えてきた。

20 十三森(2)遺跡


複雑な思いのまま阿光坊遺跡エリアの方に戻ると、エリアの境界となっている谷底を一筋の川が流れていた。
この水は蝦夷の人々の生活を支えた水だったのだろうか。傍らにはやはり大きな切り株がひとつ。。。

21 阿光坊古墳群内を流れる小川

この細い流れに沿うように当時の道路跡が見つかっているらしく、見学路からはだいぶ離れたところに解説板が立っていた。

22 古代道路遺構解説

古墳群の入り口まで戻ると、来た時は気付かなかったが看板があり、いままさに古墳群は2017年10月のオープンを目指して公園として整備中のようである。

23 阿光坊古墳群

24 阿光坊古墳群

平安時代へのタイムスリップ感覚だけでなく、思い込みに過ぎないかも知れないが、蝦夷の人々の鎮魂の念のような感覚を味わうことができたのは、広い遺跡でついぞ他に人を見かけなかった、という点もあったであろうが、それだけではなく、数本の解説板以外に、人工の工作物がほとんど設置されていなかったという点も大きかったと思う。これからアズマヤやベンチが設置されれば、地域の活性化にも繋がるであろうし、より多くの人々が見学に来やすくなることは間違いないのだろうけれど、その一方で、もしかすると今日味わうことのできた非日常的な感覚は、それらと引き換えに失われてしまうのかも知れない、と思った。

帰宅してからいろいろ調べていると、発掘調査前の古墳群の写真を紹介したサイトを見つけた。
「Oh!古墳探訪」 http://oobuta3.web.fc2.com/kofunn/s-frem.html

以前、古墳は鬱蒼とした木立の中にあって、確かにこれでは、本当に興味のある者以外は近づくことさえ難しかっただろう。しかも、墳丘はほとんど判別できなかったようなので、整備・復元された今の方が遥かに見学はしやすくなっているようである。

もしかすると、文化財保護の本質は、人間が過去、人為的に改変した自然の一部を、自然が元に戻そうとする、その営みを、再び人為的に阻害する、そんな側面を持ち合わせたものなのかも知れない。


(地図)
阿光坊古墳群地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「Oh!古墳探訪」 http://oobuta3.web.fc2.com/kofunn/s-frem.html
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会


2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(2)阿光坊遺跡/天神山遺跡)

青森県おいらせ町にある「おいらせ阿光坊古墳館」の興味深い展示を見学し終えて、いよいよ阿光坊古墳群を見に行こうと思う。
阿光坊古墳群はここから北西に500mほど行った丘陵上にある。

前回紹介したように、阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森(2)遺跡の3つのエリアから成っている。まず最初に、最も発掘調査の進んでいる阿光坊遺跡から見て回ろうと思う。

古墳群のすぐ下に新しく作られた駐車場に、他にクルマは見当たらなかった。
古墳群へ向かう階段を上ったところで振り返ると、奥入瀬川の流れる沖積平野の眺望がよい。首長墓は見晴らしのよいところに作るという不文律は、例え種族が異なっても変わらないのであろう。

01 阿光坊古墳群入り口付近から


<阿光坊遺跡>
案内板の指す方向に少し歩くと、前方、森を背にした芝生広場のようなところに、先ほど古墳館で見た写真と同じく、小さな円墳がいくつも並んでいるのが見えてきた。

02 阿光坊遺跡遠景

03 阿光坊古墳群解説

「立入禁止」の文字は見当たらないので、手近な墳丘に近づいてみる。こんもりとした墳丘の周囲を、深さ30cmほどの周溝が巡っている。脇に「A6号墳」と小さく立て札が立っている。

04 阿光坊遺跡 A6号墳

「A6号墳」と言えば、古墳館で見た展示写真では墳丘の土が発掘でそっくり削り取られていたので、今見えている墳丘は調査後に復元されたものであろう。
(展示写真は前回記事で紹介しているのでそちらを参照願いたい。)

古墳は北に向かって緩やかに下る標高35m~40mほどの緩斜面の一画に集中しており、墳丘はいずれも直径5~6mほどで、高さは1mほどのようである。
見学用通路の近くにある「A1号墳」は墳丘全体に草が生えていて、何だか愛嬌がある。

05 阿光坊遺跡 A1号墳

古墳館で買った「阿光坊古墳群発掘調査報告書」によれば、阿光坊遺跡エリアでは18基(古墳館展示ではその後増えて21基)の古墳と7基の土壙墓が確認されており、中でも最も古い時期に作られたのは7世紀前半の築造とされる「A11号墳」(下の写真の左側)で、大きさも阿光坊遺跡エリアで最大の直径(周溝内径)8.6mだそうである。

06 阿光坊遺跡 A11、A12号墳


<天神山遺跡>
阿光坊遺跡の南側、見学用通路を挟んだ緩斜面が天神山遺跡エリアである。
通路から背伸びして斜面の上の方を覗き込んでみると、草叢の中に墳丘がいくつか見えている。

07 天神山遺跡 T2号墳遠望

天神山遺跡エリアには39基の古墳が確認されているようであるが、地中レーダーで存在が確認されたのみ、というものも多く、実際に発掘されているのは「T5号墳」までの5基のようである。
築造年代は現時点では阿光坊遺跡エリアより若干時代が下がった7世紀中葉以降と考えられているようだ。

先ほど見えた墳丘に近寄ってみると、これまた端正な円墳がこんもりと二つ、周溝をほぼ接した状態で並んでいる。手前が「T2号墳」、奥が「T1号墳」だと思われる。

08 天神山遺跡 T2、T1号墳

「T2号墳」は天神山遺跡エリアで最初に発掘調査された古墳で、発掘前に残っていた墳丘の高さは40cmほどであった、と書いてあった。目前の墳丘は1mほどの高さがあるし、展示では墳丘がそっくり削り取られた状態の写真があったので、こちらも墳丘は復元されたものであろう。

30mほど北には「T3号墳」と「T5号墳」が見えている。
「T3号墳」は直径約5mだが、興味深いことに周溝が全周せず、北西側と南東側でそれぞれ途切れているらしい。

09 天神山遺跡 T3号墳

「T5号墳」は直径6~7mで、蕨手刀が出土したことから8世紀後半の築造と考えられているようだ。墳丘は復元されなかったようであるが、植栽の色などで周溝と中央主体部が再現表示されている。

10 天神山遺跡 T5号墳

ここまで見てきた限りでは、あちこちにこんもりと見えている墳丘はいずれも復元されたもののようである。
とは言え、これだけの数の墳丘が辺り一面並んでいると、あたかも平安時代、古墳群が顧みられなくなり、放置された古墳が次第に自然に還りつつあるような、そんな時代の光景を目の当たりにしているかのような錯覚を覚える。俗っぽい言葉でいえば「平安時代へのタイムスリップ」である。

11 天神山遺跡

さらに道沿いに奥の方まで進むと、道の両脇まで木立が迫り、左手に天神山遺跡の解説板が立っている。

12 天神山遺跡解説

さすがに東京ドーム2.5個分の広さだけあり、なかなか書き切れないので、この続きはまた次回にさせて頂く。


(地図)
阿光坊古墳群地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会



2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(1)おいらせ阿光坊古墳館)

以前から八戸での仕事が断続的に続いていたが、訳あって暫くの間、八戸に毎月行くことになった。

北東北にある古墳は「末期古墳」と呼ばれ、古墳時代末期から飛鳥時代、平安時代までの長きにわたり、宮城県北部から道南地方に及ぶ北日本各地に築かれた多くの小円墳から成る群集墳である。
北東北に大和政権の支配が及ぶのは9世紀初頭、坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征討により蝦夷のリーダーである阿弖流為(アテルイ)が降伏した延歴21年(802年)以降のことであって、それまで永く蝦夷の土地であった北東北には、倭人ないしは大和政権の文化様式である高塚式の古墳が築造されることはなかった代わりに、蝦夷のリーダー達の墓と言われる群集墳が数多く残されている。

今回はそのうち青森県内では最も北に位置する、国史跡「阿光坊古墳群」に行ってみようと思う。
仕事が終わって時計を見ると午後3時過ぎ、帰りの新幹線までは3時間ほど時間がある。

八戸駅前でレンタカーを借り、国道45号を北上、下田で西に折れて青い森鉄道を越え、なおもしばらく行くと阿光坊の集落に至る。集落は南を流れる奥入瀬川に向かって緩やかに下る標高15mほどの稜線上にあり、古墳群はこの先、国道右手の丘の上にあるようであるが、その前に、町営の「おいらせ阿光坊古墳館」に立ち寄っておこうと思う。

阿光坊の集落に入ってすぐ国道45号を左折、南側の眺望が開けた見晴らしのよい場所に真新しい古墳館の建物が見える。
平日の昼間なので見学者は他におらず、立派な展示に自分一人では何となく申し訳ない。

阿光坊古墳群は「阿光坊遺跡」、「天神山遺跡」、「十三森(2)遺跡」の3ブロックの総称で、古墳時代末期の7世紀初めから平安時代の9世紀末まで造られ続けた合計125基の古墳と8基の土壙墓が確認されている、とある。想像していた以上の規模のようである。

01 おいらせ阿光坊古墳館

古墳の規模は「直径4~8.9m、高さ1m程度の円墳」で「幅1m前後の周溝」を備えており、「低墳丘であるため、開墾等により破壊されるものが多い中、この古墳群は、墳丘が60基以上残っているなど、保存状態が良好」とある。とすると、展示写真に写っている小円墳の群れは復元ではなくて、築造当時のものなのだろうか。

02 おいらせ阿光坊古墳館

展示の中心は125基の古墳のうち、特徴的な古墳の解説と、出土遺物の紹介となっている。これらの展示写真ではいずれの墳丘も調査のため発掘されているように見える。

03 おいらせ阿光坊古墳館

04 おいらせ阿光坊古墳館

05 おいらせ阿光坊古墳館

発掘で見つかった遺物の展示も充実しており、見事な高坏や直刀、錫製の腕輪などが展示されている。

06 おいらせ阿光坊古墳館

07 おいらせ阿光坊古墳館

08 おいらせ阿光坊古墳館

その他、町営の博物館らしく、北東北全域の末期古墳の分布や、律令国家と蝦夷の関係など、日本史に関する興味深い展示が多く、この展示を見ているだけでも十二分に面白い。

09 おいらせ阿光坊古墳館

10 おいらせ阿光坊古墳館

11 おいらせ阿光坊古墳館

中でも個人的に興味深かったのは以下の二つの展示であった。

<十三塚伝説>
阿光坊古墳群一体は、古くから「十三森山」と呼ばれ、70を超える大小の塚が点在することで知られていたらしい。これらの塚には、奥入瀬川の支流である明神川流域の開墾失敗に纏わる伝説が伝わっており、「13人を1基の塚に葬った」とか、「13人の武将を埋葬した」などと言われていたようだ。
なお、かつて付近にウバッコウ塚(?)と呼ばれる近世の塚が存在していたらしく、この塚の存在から十三森山の伝説と混同され、「十三森遺跡」と登録された地点があった(十三森(1)遺跡)ことから、これと区別するために阿光坊古墳群に含まれる十三森遺跡は「十三森(2)遺跡」と命名されたらしい。

12 おいらせ阿光坊古墳館

<聖福寺の聖観世音菩薩像>
古墳群から西に500mほどのところに聖福寺という寺があり、7世紀後半の作とされる金銅製の聖観世音菩薩立像が伝わっているそうだ。
この金銅仏は近畿地方で鋳造されたもののようで、その製作時期は正に阿光坊古墳群が築造されていた時期と重なるが、大和政権と敵対していた地域に何故このような仏像がもたらされたのか、謎なのだそうである。

12 おいらせ阿光坊古墳館

さて、そろそろ古墳群に向かいたいと思うが、だいぶ長くなったので、古墳群の紹介はまた次回。

(地図)
おいらせ阿光坊古墳館地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会



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