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2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(3)(岐阜県富加町 池下1号墳/閏田古墳(2号墳)/中障子2号墳)

今日は「夕田茶臼山古墳」など、富加町に残る3世紀前半築造の古墳を満喫したが、まだ少し時間がある。古墳に興味のない妻はもうすっかり飽き飽きしてしまったようなので、あちこち寄り道はできないが、親戚宅へ向かう道すがら、遠回りにならずに立ち寄れる範囲で、3世紀前半の築造ではないが、富加町内の他の古墳を見て行こうと思う。

「井高1号墳」のすぐ西の丘陵斜面には、墳形不明の「井高2号~4号墳」が分布していたようだが、古墳分布図では「滅失または損壊」となっている。少し北西には「大山車塚古墳」(円墳)が現存しているようだが、さらに北西には前方後円墳がもう1基、現存しているようである。少し遠回りになるが、ここに寄って行こう。

<池下1号墳>
井高1号墳のある滝田地区から山沿いに北西へ暫く走ると大山地区に至る。すぐ西には先ほど渡った川浦川が川下で合流する津保川が流れている。
地区のほぼ中央、大きな溜め池の北側に西公民館があり、公民館の駐車場と溜め池の境にひときわ小高い築山がある。これが「池下1号墳」である。
築造時期などは不明であるが、見たところ墳丘の長さは30mほどであろうか。駐車場の造成に際して、墳丘の北側は削平されたのだろう、築山の麓は玉石で壁が作られている。

01 富加町池下1号墳

西側の道路に近いところに古墳名が書かれた標柱が立てられている。

02 富加町池下1号墳

03 富加町池下1号墳

墳丘の南側には石段があり、上ってみると墳裾に三面多臂の馬頭観音像が数体、祀られている。

04 富加町池下1号墳

石仏の祀られているあたりから墳丘を見上げてみると、奥の方がやや高くなっているようである。

05 富加町池下1号墳

標柱が立っているあたりに踏み跡があったので、心の中で手を合わせつつ踏み跡から墳丘上に上らせてもらい、高くなっていた奥の方まで進むと、根元から何本かに枝分かれした、根っこの見事な巨木の根元に石塔が祀られていたので、合掌して非礼を詫びた。

06 富加町池下1号墳

巨木の前から西の方を見ると、段のようになった墳丘がやや細長く伸びている。
富加町教育委員会の古墳分布図では池下1号墳の主軸はほぼ東西を向いており、前方部は西向きに描かれているので、この巨木の生えている部分が後円部に当たるのかも知れない。

07 富加町池下1号墳

池下1号墳の道路を隔てた西隣、グラウンドがある辺りには「池下2号墳」があったようだが、古墳分布図では「消滅または損壊」となっている。


<閏田1号墳、中障子2号墳>
津保川を渡った向こう、西岸は大平賀地区であり、藤平神社という神社の周辺に「禰宜屋(ねぎや)古墳群」という群集墳があるようだが、方角が違うので諦めることにして、最後に津保川沿いの田圃の中にある「閏田古墳」を見て行こうと思う。

大平賀交差点の南に広がる、津保川と丘陵に挟まれた南北に細長い田圃の真ん中に、遠くから見てもすぐにそれとわかるような、こんもりとした墳丘が見えている。

08 富加町閏田1号墳

「閏田古墳」は直径20mの円墳で、以前は横穴式石室を持つ5~6基の古墳から成る古墳群で、「手をつけた者には祟りが起こる」という言い伝えがあったそうであるが開発で姿を消し、今ではこの1号墳のみ(2号墳?、郷土資料館展示ではもうひとつ現存?)となっているようだ。

09 富加町閏田1号墳

畦道を進み、山側まで行って振り返ると、こんもりとした墳丘の向こうにもうひとつ、小さな木立が見えているが、これはおそらく「中障子2号墳」ではないか、と思う。

10 富加町閏田1号墳、中障子2号墳

11 富加町中障子2号墳


見上げれば強い日差しを厚い雲が遮り、田圃を渡る風に秋の気配を感じた。

12 富加町閏田古墳上空

遠くで蜩(ひぐらし)が鳴いている。蜩の声を聞いたのは、いったい何年ぶりだろうか。

ここまで一日、古墳巡りに付き合って来た妻は、すっかり「電池切れ」の様子である。親戚宅に向かう前に、道の駅にでも寄って、冷たい甘味で「充電」していくことにしよう。


(地図)
富加町地図③


(参考資料)
「富加町詳細分布調査報告書」 2005年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/



2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(2)(岐阜県富加町 夕田茶臼山古墳/井高1号墳(火塚))

岐阜県富加町には3世紀前半に築造されたとされる前方後円墳が複数あるという。

2世紀半ばに起こった「倭国大乱」を治めるために女王として立った卑弥呼は、その後半世紀にわたって邪馬台国を統治、248年に亡くなったとされる。
「3世紀前半に作られた古墳」と言えば、卑弥呼が統治していた時代に邪馬台国を構成していた国々か、若しくはこれに敵対していたとされる狗奴国(くなこく)の首長の墳墓、という可能性があると言えるだろう。

(ちょっとそれって凄くない??)と朝、自宅を出てから今まで、ずーっと心の中で思っているのであるが、どういう訳か、ここまでは何となく悶々としている。

今日は郷土資料館とその近隣にある2基の古墳を回ってきたが、いずれも山林の中にあり、案内板などが整備されている訳ではないので、1基はすぐ近くまで接近できたものの、果たして「これがそれ?」といった感じであったし、もう1基は近づく方法すらわからなかった。
結果としてここまでは、大変遺憾ながら、正直、「あんまり面白くなーい」のであるが、いよいよ次は「夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳」である。こちらはだいぶ整備されているらしいので、これまでとは違うはずである。(いや、絶対に違うに違いない。)


<夕田茶臼山古墳>
蓮野古墳の南側の道を東へ向かい、山あいの道を北東へ進み、式内社である佐久太神社前を通る。
佐久太神社の周辺には3基の後期古墳(北野若しくは北洞1号~3号墳)が確認されているらしいが、悶々としていることもあり、脇目も振らず、まっすぐ夕田茶臼山古墳を目指す。

古墳への登り口前には広い駐車場が整備されており、古墳の解説板も設置されている。内容は郷土資料館の展示などと重複したものだが、やはり現地に解説板があると、高揚感が違う。

01 夕田茶臼山古墳現地解説板①

02 夕田茶臼山古墳現地解説板②

見学用に整備された急な階段で標高差27mを上っていくと、北向きに迫り出した丘の頂上いっぱいに、前方部をこちらに向けた墳丘が見えてきた。

03 夕田茶臼山古墳前方部より後円部

墳丘には、墳裾から墳頂まで緑色のシートのようなものが続いているので、この上を通って墳頂まで登っていい、ということだろう。墳頂にはベンチも設置されており、西側の眺望は清々しかった。

04 夕田茶臼山古墳後円部墳頂より西側眺望

発掘調査の結果、この古墳は、もともとの丘陵地形を生かしているが、築造に際していったん地山を削平した後、岩盤上に再び盛土で造成されたものと考えられているらしい。

05 夕田茶臼山古墳後円部より前方部

古墳の築造年代については、弥生時代末期の方形周溝墓から出土するのと同じタイプである、有孔短頸の赤彩直口壺が後円部から出土しているほか、高坏やS字状の口縁台の付いた甕の破片なども多数出土しており、後円部外縁に墓壙を作るため周堤状の盛土で土手を作っている点や、木棺を直葬している点など、弥生時代の方形周溝墓に見られる特徴が数多く認められることに加え、墳頂の底部から見つかった炭化した樹木と焼けた土を用いた炭素の年代測定結果(211年~255年若しくは137年~258年)から総合的に判断して、「3世紀前半」と判断されたそうである。
古墳時代前期の前方後円墳、というよりは、前方後円形の弥生周溝墓に近く、弥生から古墳時代への過渡期の前方後円墳ではないか、とされているようだ。

06 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

発掘調査以前は前方後方墳の可能性も考えられていたようだが、発掘調査の結果、歪な後円部と未発達で歪んだ前方部から成る前方後円墳であることが確認されたそうだ。

07 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

全長は39.5m、後円部直径24.5m、前方部長15m、前方部幅15.1m、前方部と後円部の比高差2.4m、葺石などはなく、主軸を南東に向けており、墳丘の高さが西側の方が1mほど低く作られていることなどから、西側から見ることを意識して築造されているのではないか、と考えられているらしい。

ようやく3基目で、「3世紀前半の古墳=それってやっぱり凄い!」を満喫することができ、朝からの悶々とした気分はすっかり解消された。
ただし、できればもうひとつだけ見ておきたい古墳がある。


<井高1号墳(火塚)>
来た道を戻り、再び蓮野古墳の前を通り過ぎる。役場前を北上し、川浦川を渡ると、正面に丘陵が迫って来る。
「井高1号墳」は、古くから「井高の火塚」と呼ばれ、滝田地区の田園地帯を望む丘陵裾にほぼ完全な形で残る一辺20m、高さ5mの方墳である。

08 富加町井高1号墳(火塚)遠景

09 富加町井高1号墳(火塚)解説板


言い伝えでは、大昔、この辺りに「火」が降って来た際、人々が身を隠したことから「火塚」と呼ばれているそうで、見事な横穴式の石室が開口している。

10 富加町井高1号墳(火塚)近景

11 富加町井高1号墳(火塚)石室近景

「火が降る」というのは火山の噴火か、若しくは中世の戦乱を指すのかも知れないが、いずれにしても大きな横穴式石室が生み出した伝承、ということであろう。

墳形については従来、上円下方墳とされていたらしいが、平成15年に南側道路に面したコーナー部分の墳裾が崩落、修景作業が行われた際の測量で、墳丘にいくつかのテラス状の段のような痕跡は認められたものの、上円形とされた上部にもコーナーと認められる部分が確認されたことから、現在は方墳と判定されている。

12 富加町井高1号墳(火塚)近景

なお、墳裾が崩落した際、内部から円形の礫が露出、表土を除去したところ列石が発見されたことから、築造当時は石葺きであったものと推察されているそうだ。


見学したいと思っていた古墳はこれで全て回れたが、まだ時刻は16時、まだ1時間ほど時間がある。
古墳にあまり興味のない妻は「いい加減グロッキー」な感じで助手席に座っている。さて、どうしたものか。

続きはまた次回。


(地図)
富加町地図②


(参考資料)
「古墳探訪」 富加町ホームページ http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/rekishi/kohun_tanbou.html
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳埋蔵文化財周知パンフレット」 富加町教育委員会
「富加町内遺跡発掘調査報告書(平成14~17年度)」 2006年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/


2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓群(1)(岐阜県富加町 杉洞1号墳/2号墳、蓮野古墳)

週末に岐阜へ行くことになった。

夕方までに可児市の親戚宅へ着けばよいので、それまでの間、思う存分、好きなだけ古墳を見てもよい旨の寛大なるお許しを妻から頂いた。

岐阜県内には古墳がたくさんあって、見たい古墳が目白押しであるが、今回は下記の新聞記事が決め手となり、富加町というところに行ってみることにした。

「富加町に3世紀古墳群か 前方後円で東海最古」(岐阜新聞Web 2017.2.7)
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20170207/201702070902_28969.shtml

以下、記事を一部引用
「3世紀前半に造られたと推定される岐阜県内最古の前方後円墳『夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳』の近くにある前方後円墳『杉洞(すぎほら)1号古墳』が、茶臼山古墳と同時期に築造された可能性が高いことが、6日までに同町教育委員会の調査で分かった。町教委は『3世紀の墳墓が同じ地区で複数存在するのは全国的にも珍しい』としている。夕田地区には前方後円墳『蓮野(はすの)古墳』もあり、3墳墓がいずれも古墳時代前の弥生時代に当たる3世紀前半と確認されれば、前方後円形の墳墓群としては東海地方では最古となる。」
「茶臼山、杉洞1号の両古墳は墳丘の土の盛り方や棺を設置する穴の構築方法などに類似点が多く、いずれも弥生時代末期の土器片が多く出土した。有識者による調査検討委員会は『夕田地区は、非常に稀な前方後円形の墳墓が一つの谷に複数存在するという極めて重要な地域。(古墳時代に)定型化した前方後円墳が成立する前の美濃の社会状況を示す貴重な発見』としている。」

3世紀前半と言えば、下手(?)をすると卑弥呼の生きていた時代まさにそのものである。最も古い時代のものとされる纒向石塚古墳や、それこそ卑弥呼の墓とも言われる、有名な箸墓古墳でさえ、3世紀初頭から中葉にかけての築造とされるのに対して、まさか岐阜県にそうした古墳と相前後して築造された古墳があるとは思いもよらなかった。

前置きが長くなったが、百聞は一見にしかず、これを見ずして、一体どうすると言うのだ。

名古屋駅前でレンタカーを借り、各務原市の鵜沼にある「うな神」という店で昼食を済ませ、準備万端、富加町に向かった。

まず最初に訪れたのは「富加町郷土資料館」である。

富加町は、奈良正倉院に現存する最古の戸籍と言われる「御野(みの)国 加毛(かも)郡 半布里(はにゅうり)戸籍」という、大宝二年(702年)に作られた戸籍の「半布里」に当たるとされ、半布里戸籍に関する展示も興味深いものであったが、他にも夕田茶臼山古墳のミニチュア模型やパンフレットなどがあり、発掘調査報告書などの書籍も販売されていたので、まずはここで情報収集である。

00 富加町郷土資料館 夕田茶臼山古墳ミニチュア


<杉洞1号墳、2号墳>
資料館の建物を出ると正面に木立が見えている。この木立の中に、新聞記事に出ていた杉洞1号墳がある。
全身に虫よけ剤を振りかけて、意を決して突入すると、右手(北西)の方向の地面がこんもりと大きく盛り上がっていて、前方後円墳の後円部のようにも見える。最初はこれが古墳かと思ったが、どうやらこれは自然地形のようである。

01 富加町杉洞1号墳北の自然地形

案内板などが見当たらないのでよくわからないが、木立の正面奥、南西方向に見えているマウンドが杉洞1号墳だろうか。

02 富加町杉洞1号墳?

03 富加町杉洞1号墳?

近寄ってみると、中央部が陥没したように大きく沈みこんでいる。

04 富加町杉洞1号墳?

左側面に回り込むと大きな円形のマウンドに見えるが、どうも前方後円形には見えない。

05 富加町杉洞1号墳?

新聞記事によれば古墳の大きさは全長30m、後円部の直径は18m、郷土資料館で販売していた「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」に掲載されている古墳分布図では、前方部を南東(郷土資料館の展示では南西)に向けて描かれているので、今見ているマウンドが杉洞1号墳なのであれば、弥生時代末期の高坏が出土した前方部前面というのは上の写真の手前右側、下草が生えていないあたりがそうであろうか。
墳丘の下からは、古墳築造に際して廃棄されたと思われる弥生時代の住居跡が見つかったらしい。

折角の希少古墳なのであるから、解説板などを設置してもらえれば、もう少し実感が湧くのだが、数か月前に発掘調査をしたばかりのようなので、整備はこれからなのであろう。

なお、木立を100mほど西に行ったあたりの斜面中腹にはもうひとつ、墳形不明の杉洞2号墳があるらしいが、こちらも案内板などがなく、アクセス方法がわからなかったので、その方向を遠望するに留めた。

06 富加町杉洞2号墳のある木立?を遠望


<蓮野古墳>
郷土資料館の南300mほどのところにある木立の中に、新聞記事で2017年秋に調査予定とされている蓮野古墳がある。
Googleアースで見ると、木立の一部が切り拓かれて畑地になっているようで、古墳はこの畑地の西側にあるようであるが、北側の民家を通らねば辿り着けなさそうである。
仕方がないので、古墳からの距離は遠くなりそうであるが、南側の道路に回って木立越しに覗き込んでみた。

07 富加町蓮野古墳のある木立を南から

木立の中、地面が盛り上がっているようにも見えるが、古墳はもっと斜面の上の方にあるはずなので、これは古墳の盛り上がりではなく自然地形であろう。

ここまでで3世紀前半の可能性のある古墳3基のうち2基を見た(?)が、いずれも整備保存の手は入っておらず、自然な形で残されていることは大変に喜ばしいことであるが、現状では双方とも、見学にはそれなりの覚悟が必要であり、容易ではない。
今後、相応の整備が進められるのであろうが、現地への案内板や見学路の整備、現地解説板の設置などは、折角の希少古墳なのであるから、是非検討頂きたいと思う。

長くなったので続きは次回。

(地図)
富加町地図①


(参考資料)
「富加町に3世紀古墳群か 前方後円で東海最古」 岐阜新聞Web 2017年2月7日版
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/




2017/07/08

東濃最大の前方後円墳、前波の三ツ塚(岐阜県可児市 長塚古墳/野中古墳)

昨年暮れに法事のため可児市に行った際、思いがけず「西寺山古墳」という、4世紀中頃に作られた前方後方墳を見る機会があった。
「西寺山古墳」の近くには他にも「野中古墳」、「長塚古墳」という大型の前方後円墳があり、3つの古墳を総称して「前波の三ツ塚」として古くから知られていたようだ。

先日も訳あって再び可児市まで行くことになった。

早朝に自宅を出発、新東名高速から豊田東ジャンクションで東海環状道に入って可児御嵩インターで下り、ほんの少し寄り道させてもらい、二つの古墳に立ち寄った。

<長塚古墳>
前波の三ツ塚の中では最も新しく、5世紀前半(岐阜県のホームページでは4世紀後半)に築造された前方後円墳で、前方部をほぼ西に向けた東濃地方最大の古墳だそうだ。

01 可児市長塚古墳解説板

02 可児市長塚古墳括れ部

大きさは現地解説板によれば、全長72m、後円部直径38.4m、高さ6.9m、括れ部の幅18.5m、前方部長35.8m、幅28.5m、高さ4.7mで、周囲に幅25mほどの周濠が巡っていたらしい。南側には周濠の名残だろうか、広い空き地が残っている。

03 可児市長塚古墳南東より全景

その空き地の中央付近に、周溝を渡る陸橋部の名残か、細い道路が今でも残っている。

長塚古墳測量図(現地解説板より)

さらに、南東側には幅5mほどの外堤の一部が残っているそうである。

04 可児市長塚古墳南西より

西側前方部の裾部は崩壊によるものか、墳丘の傾斜が緩やかに見える。

05 可児市長塚古墳西より前方部裾

括れ部に墳丘に登れる踏み跡があり、心の中で手を合わせながら静かに上らせてもらう。

06 可児市長塚古墳括れ部より後円部

前方部を見ると、墳丘は二段築成のようで、何となく段築のような雰囲気が見て取れる。

07 可児市長塚古墳後円部上より前方部


<野中古墳>
長塚古墳の150mほど西、公民館のような建物の北側に墳丘が残されているが、破壊が著しく、解説板などもないので、一見したところ古墳のようには見えないが、古墳好きには古墳以外の何か、というようにも見えない。

08 可児市野中古墳西より

「古墳マップ」によると大きさは推定で、全長62.4m、後円部径38.4m、前方部幅36.5mの前方後円墳で、西寺山古墳に後続する首長墓と考えられているそうである。

09 可児市野中古墳北西より全景

長塚古墳の解説板に書かれていた図によると、現在残っているのは北側の括れ部周辺のみのようであるが、西側と北西側以外からは見ることができず、全体がどうなっているのかはよくわからなかった。

野中古墳測量図(長塚古墳現地解説板より)

10 可児市野中古墳北より後円部

過去、竪穴式石槨が発見されたらしく、刀剣や国産の三角縁三神三獣鏡が出土したという。

11 可児市野中古墳南西より

12 可児市野中古墳北西より


隣接する御嵩町伏見地区にも美濃地方最古級と言われる前方後方墳(高倉山古墳)があるほか、葺石で覆われた二段築成の方墳(次郎兵衛塚古墳)など、可児市は古墳の宝庫のようであるので、是非、時間を作ってゆっくりと訪れてみたいものである。


(地図)
長塚古墳、野中古墳地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「可児市ホームページ」 http://www.city.kani.lg.jp/4233.htm


2016/12/22

濃尾平野の前方後方墳(岐阜県可児市 西寺山古墳)

親戚に不幸があり、法事のため可児市を訪れた。法要を依頼した弘福寺の敷地内に思いがけず古墳があった。

西寺山古墳

4世紀築造の前方後方墳で、全長60m、前方部長26m、後方部長34m、二段築盛の墳丘は葺石でおおわれていたそうだ。墳頂には今でも埋葬施設が残っているようである。

西寺山古墳解説板

法要を済ませた後、便乗させてもらった車に皆が乗り込むまでの僅かな間、ご住職に許可を頂き、手を合わせつつ、墳丘に上らせて頂いた。

西寺山古墳

西寺山古墳墳頂付近

西寺山古墳墳丘

葺石の名残か、墳丘上にはこぶし大の川原石が今でも多く見られる。


すぐ近くには、西寺山古墳を含め、古くから「前波の三ツ塚」と呼ばれる前方後円墳2基があり、隣接する伏見地区にも前方後方墳が3基あるという。時間もなく、不謹慎な行動は憚られるので、是非またの機会に訪れたい。

西寺山古墳地図