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2017/07/27

人身御供伝説を伝える橋の跡と信仰の塚(大阪府大阪市 槲の橋跡/塚本如来塚)

今回は古い伝承にまつわる文化財を紹介したいと思う。古墳ではないので、興味のない方は読み飛ばして頂いた方がよいかも知れない。

久しぶりに大阪に行くことになった。
大阪と言っても、淀川の北岸の「歌島」という地区である。

ここには以前にも来たことがある。
島でもないのに「歌島」とはどういう云われがあるのだろう、と思っていた。

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2年半ほど以前、当時はまだ会社勤めを辞するか決めかねていた。
仕事を終え、最寄りの塚本駅へと向かいながら、ぼんやりと将来のことを考えていたが、気が付くと正面に夕焼けが見えていた。東に向かって歩いていたはずなので、考え事をしていて方角を間違えたらしい。

01 大阪歌島夕景


<槲(かしわ)の橋跡>
小さな四つ角で、一体駅はどっちだろうと見渡すと、傍らにポツンと「槲の橋 野里の渡し跡」という石碑を見つけた。

02 大阪野里槲の橋跡碑

季節は2月、道に迷って身体が冷えてしまったので、駅前の古めかしい喫茶店で暖を取りつつ「槲の橋」について調べてみた。
先ほどの四つ角は、明治時代に流路を現在の新淀川として直線に付け替える以前、このあたりで大きく蛇行していた旧淀川(中津川?)に明治9年に架けられた橋の袂にあたる場所だったようだ。
その後、中津川の旧流路は埋め立てられ、そこに「歌島」という町名がつけられたのか、と思いきや、西淀川区のHPによると、「旧村名による。一説によれば「加島(かしま)」の古称を転化して「歌島(うたじま)」と訓じたと言う。」とあるので、やはり古くからの呼び名のようであった。
「槲」というのは「神功皇后がこの地を訪れた時、土地の人が餅を柏の葉に載せ、野咲きの花束を添えて歓迎の意を表したのに対し、この地を「鼻川の里」、渡しを「かしは」と命名したことに由来する」そうである。

ところで、槲の橋跡の石碑のある野里地区には、「一夜官女祭」という神事が今でも残っているという。

03 大阪歌島一夜官女祭

その昔、野里村では、疫病や水害を鎮めるため、毎年、白矢の当たった家の娘を人身御供として荒ぶる神に差し出していたが、ある年、ここを通りがかった侍が、神が民を苦しめるのを不審に思い、娘の身代わりとして唐櫃に身を潜めたところ、現れたのは神ではなく大きな狒々(ヒヒ)で、侍は狒々を退治してそのまま立ち去った、という伝承があるそうだ。(その侍はその後、大阪夏の陣で討ち死にしたそうである。)
今でも毎年、人身御供の一夜官女(氏子の女児七名)を、正装した村人が皆で迎えに行く神事として祭礼が行われており、大阪府の指定文化財に指定されているそうだ。

04 大阪歌島夕景

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あれからあっという間に2年半が経った。縁あって、その当時関わっていた仕事を今でも続けているので、今日、こうして再び歌島に来ている。
仕事が早く終わったので、記憶をたどり、再び野里の「槲の橋跡」碑までやってきた。季節は打って変わって7月、じっとしていても全身から汗が噴き出してくる。

ところで最寄りのJRの駅名は「塚本」である。「塚」とつくからには、古墳か塚かはともかく、何か云われのあるものがありそうなので、駅前の2年半前と全く変わらない古めかしい喫茶店に入り、今度は全身の汗が引くのを待ちつつ、塚本地名の由来を調べてみた。

西淀川区のHPでは、「『和名抄』に記された旧郷名『槻本郷』に由来する。『槻本』はツキノモト、またはツカノモトと読む。」とある。なんだ、「塚」は「槻」の詠みが変化したもので、残念ながら「塚」や「古墳」の類いではないようである。

ただし、別の方のホームページによると、旧中津川堤防近くにある「塚本如来塚」は古くは別の場所にあって、昔はその場所を「塚ノ本」と呼んでいた、とある。地図で見ると、現在の「塚本如来塚」はここから10分も歩けば行けそうな距離である。まだ全身の汗は引いていないが、もしかしたらそこに行けば「塚」だった頃の痕跡が何か見つかるかも知れない。

<塚本如来塚>
塚本駅の東側を北上、淀川通りを渡って300mほど歩くと、旧中津川の自然堤防に沿っていると思われる湾曲した細い道が交差するあたりにお堂があり、中に数体の石仏が皆、赤い前掛けをかけて並んでいる。

05 大阪塚本如来塚

06 大阪塚本如来塚

堂内には塚の由来を記した解説がある。古くは南の方、現在は新淀川の流路となっているあたりに、「建武年間」(14世紀)に作られた「東西3m、南北1.8mの盛土」の塚があり、その上に「三体の石造物があった」とある。

07 大阪塚本如来塚

自然堤防上に塚状の高まりを作る、となると、俄然、もともと古墳があったところにさらに盛土を高く積み上げたのではないか、と思いたいところであるが、全く根拠はなく、もはやこれは妄想に過ぎない。
新淀川開削に伴い、塚は明治30年に「旧中津川の南岸堤防敷」である現在地に移されたようであるが、石造物はその当時からのものが今でも大切に保存されているそうである。摩耗でほとんど表情がわからない石仏(うっすらと憤怒の相が見える気がするので馬頭観音か不動明王?)も大切に祀られている。

08 大阪塚本如来塚

お堂の脇を西に向かって湾曲した細い路地が続いており、奥に墓地が見えている。墓地には六地蔵が祀られている、というので、心の中で非礼を詫びつつ、見学させてもらう。

09 大阪塚本六地蔵

塚本という地域は戦災を免れた古い建物が多く残る地域でもあるようだ。
そこかしこの路地に、少し懐かしいような風景が隠れていた。

10 大阪塚本界隈

11 大阪塚本界隈

12 大阪塚本自販機のひやしあめ

13 大阪塚本夏草と煙突


(地図)
塚本如来塚地図


(参考資料)
西淀川区ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/index.html
「十三のいま昔を歩こう」
『消えた中津川 2 塚本編』 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-59.html?sp
『塚本の名前の由来』 http://atamatote.blog119.fc2.com/category2-6.html



2017/01/11

高級住宅街の前方後円墳(大阪市住吉区 帝塚山古墳)

久々に大阪に行くことになった。
関東の古墳でさえ、まだまだ見たいものがたくさんある中、著名な古墳が目白押しの近畿地方に私のような素人が手を出すのは失礼にあたるのではないか、と思っていたが、どうせ行くのであれば、せっかくなのでやはり見たい。
宅地化の進んだ大阪市内にもいくつか古墳が残っており、中でも帝塚山古墳は難波からも近く、しかもほぼ完全な形の前方後円墳だそうだ。

難波には仕事で何度も来ているはずだが、難波駅には見覚えがなかった。行き止まり式の櫛型ホームは「これぞターミナル」という感じがする。
帝塚山方面行きの各駅停車は中央改札から離れた1番線にひっそりと停まっていた。南海電車を見て、小学生時代、級友の誰もがジャイアンツの帽子を被る中、天邪鬼な自分は南海の野球帽を被っていたことを思い出した。

今宮戎の賑わいを車窓に見ながら、南海電車はやがて帝塚山に到着した。ホームも駅舎もえらくこじんまりとしていて、初めてなのにどことなく懐かしい。見れば踏切の向こうに帝塚山古墳が見えている。

帝塚山古墳遠景

帝塚山古墳は大阪城の付近から南に細く伸びる上町台地にある国指定史跡であるが、「住吉村常盤会」という一般財団法人が所有する民有地で、年に何回か一般開放されるようであるが、通常は施錠されていて、門外漢は塀の外からのぞき込むぐらいしかできない。

帝塚山古墳

塀の外からでも見事な墳丘がよく見える。

帝塚山古墳

帝塚山古墳

門扉横の解説板によると、4世紀末から5世紀初めの築造とされ、当初の規模は全長120m、後円部直径57m、高さ10m、前方部幅50m、高さ8m、二段築盛で墳丘上には円筒埴輪や葺石、周囲には周濠も確認された、とある。

帝塚山古墳解説板

「住吉村常盤会」のHPを見ると、このあたりは古くは「玉出岡」、古墳は「玉手塚」と呼ばれたことが「帝塚山」の語源、とある。古墳の被葬者は住吉に居宅のあった大伴金村とも言われるが、摂津名所図会では鷲住王の墓とされるほか、地元では浦島太郎の墓である、という伝承もあるらしい。

北側住宅街の間から

周囲を一周してみたが、東側以外は住宅が密集していて、墳丘はあまり見えないようだ。括部あたりであろうか、北側のお宅の間から失礼して撮影させてもらう。きっと不審者に見えているのだろうなあ・・・。

帝塚山古墳の周囲は古来、多くの古墳が群集していたらしく、古墳の東側、南海電車の線路のあたりには「大帝塚」という字名の地域があり、以前は「大玉手塚」あるいは「大帝塚」と呼ばれる、一回り大きな前方後円墳があったらしい。「大阪市遺跡地図」を見ると後円部が南を向いた、今の帝塚山古墳とは反対向きだったようだ。
さらに、古墳の南側、現在の住吉中学校付近にも別の古墳があったようで、こちらは「小玉手塚」あるいは「小帝塚」と呼ばれたらしい。

さらにもうひとつ、「大帝塚」のさらの東側、同じく住吉村常盤会が所有する万代池公園の北側からも、墳丘は失われていたが、帆立貝式古墳の痕跡が発見されているらしい。帝塚山東一丁目で平成16年に発見されたもので、後円部直径29m、前方部長6m、同幅17mで、万代古墳と名付けられたそうだ。

帝塚山の南方向を望む

周辺を一周しつつ、いにしえの風景に思いを馳せていると、あっという間に仕事の時間が近づいてきた。

帝塚山住宅街


(参考資料)
「一般財団法人住吉村常盤会」 http://sumiyoshimuratokiwakai.or.jp/index.html
「大阪市遺跡地図」 公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所http://www.occpa.or.jp/ikou/isekiinfo/isekiinfo.html

帝塚山古墳地図