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2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(3) (茨城県潮来市 大生神社)

大生西部古墳群を見学した後、締めくくりに、白幡八幡塚古墳の東にある「大生神社」を見て帰ろうと思う。
全くの俄か勉強、諸先輩方の単なる受け売りをお許し頂き、今回は少し長くなるが、古代の常陸国に思いを馳せてみたい。

大生神社は老杉の巨木が林立する、鬱蒼とした木立に守られるかのように、西陽を受けながら、静かに佇んでいた。

01 大生神社遠景

神社の名前になっている「大生」は、古くからこの地を治めた「大生(オフ)」氏から来ていて、「大生」はこの辺りの地名にもなっている。

02 大生神社社殿

「大生」氏は、「神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)」を祖とする日本最古の皇別だそうで、「大生」は「オフ」、「オホフ」、「オホ」、「オウ」などと読み、「大」、「太」、「王」、「多」、「意富」、「飯富」、「飫富」、「於保」など様々に表記されるようだ。仲(那珂)国造、伊予国造を始め、有名なところでは太安万侶(オオノヤスマロ、古事記の編者)も大生氏と同族とされているらしく、大生氏は古代日本における一大勢力であったらしい。

境内の解説板によると、神社の創祀年代は詳らかでないそうであるが、大和からこの地に進出してきた飯富(オフ)族の常陸移住の際、彼らの氏神である「健御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)」を御祀したのが始まり、とされている。

03 大生神社本殿解説

「健御雷之男神」は、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と表記される「天つ神」、すなわち天孫降臨伝説の流れを組む神であり、日本書紀によれば「経津主(フツヌシ)神」と共に出雲に降り、大国主命(オオクニヌシノミコト)に「国譲り」を迫った神とされる。

ところで、大生神社は「元鹿島」、「鹿島の本宮」とも言われ、同じく「タケミカヅチ」(表記は『武甕槌大神』)を祭神とする鹿島神宮と特別な縁故を有する、とされている。

大生神社に伝わる「巫女舞神事」は県の指定無形文化財となっていて、古風を遺す貴重な神事だそうであるが、明治に入るまでの永きにわたり、毎年、大生神社の巫女舞神事に合わせて、鹿島神宮から物忌の渡輿があったそうだ。(鹿島神宮の神輿が物忌みで境内を出るのはこの時だけだった、とも言われる。)

04 大生神社巫女舞神事解説

鹿嶋神宮の宮司である東家に伝わる所伝を整理した「鹿嶋大明神御斎宮神系代々」なる書物によると、大生宮は、南都大生邑大明神、つまり現在の奈良にある多(おお)神社、別名「多坐弥志理都比古(オオニマスミシリツヒコ)神社」からの遷座とされているようだ。
この「多坐弥志理都比古神社」は、神八井耳命を祭神とした、大和国十市郡飫富(オフ)郷にある神社で、大生一族の本貫地ともいうべき場所のようである。

一方、大生神社に残る明治7年の棟札裏面由緒書きによれば、神社は太古の昔からこの地に鎮座していて、神護景雲2年(768年)、和州城上郡春日の里(現在の奈良春日大社)に遷幸、大同元年(806年)に藤原氏東征御護としてこの地に遷還、翌大同2年(807年)に鹿島郡に遷幸した、と記されているそうだ。

05 大生神社境内御神木
(文章とはあまり関係ないが境内の巨大なご神木、神代の時代を彷彿とさせる。よく見ると誰が放置したのか、ペットボトルが置かれており残念。)

8世紀半ばから9世紀初めの短い期間にあちこち遷座が繰り返され、罰当たりかもしれないが、タケミカヅチの神様もさぞかしご苦労されたのではないか、と思うけれど、何だか大生氏が何者かと氏神様の奪い合いをしていたようにも思えるのである。

06 大生神社本殿

大生神社は、鹿島神宮のある鹿島郡と北浦を挟んで相対する位置にあり、行方郡内における大生氏一族の根拠地であったとされている。神社周辺に密集する夥しい数の古墳群は、この大生氏一族の墳墓であって、彼らの奥津城であろう、と考えられている。

一方、対岸の鹿島郡には鹿島神宮があり、その祭神は大生神社と同じ、藤原氏の氏神でもある「タケミカヅチ」の神様である。
藤原氏の祖である中臣鎌足の父、「中臣御食子」(ナカトミノミケコ)という人物は鹿島神宮の神官であったとされ、鹿島神宮の西にある「鎌足神社」は、諸説あるようだが、一説には中臣鎌足の出生地ではないか、とも言われているらしい。
このように鹿島神宮は藤原氏と所縁が深く、そんな鹿島神宮の北の台地上には、宮中野古墳群という、大生原の古墳群に匹敵する夥しい数の古墳群が広がっている。

単純な私は、そうか、鹿島神宮(藤原氏)と大生神社(大生氏)の、北浦を挟んで対峙した祭祀氏族間の勢力争いだったのか、と思ったのであるが、事情はもう少し複雑なようである。

鹿島神宮の成立について、常陸国風土記では、海上(ウナカミ、現在の銚子附近)と那賀の国造がそれぞれ国を割いて「香島」という神郡(軍事上、重要な地(例えば伊勢・出雲・宗像など)に祈祷のための大社を置くための場所)を設置、その地に鎮座していた天大神(アメノオオカミ)の社など三社を「香島天大神(カシマノアメノオオカミ)」と呼んだのが始まり、とあるが、この「天大神」は「天の『オホ』の神」、すなわち大生氏一族の氏神の称ではないか、と言われているらしい。

つまり、鹿島神宮も成立当時、祭祀氏族は藤原(中臣)氏ではなく、大生氏だったのではないか、ということであり、大生神社も鹿島神宮(の前身?)も、当初は大生氏が祭祀を司っていたが、いつの頃からか、藤原氏にその地位を取って替わられた、ということなのかも知れない。

そもそもこの地は、常陸国風土記によれば、もともとは「国巣(クズ)」と呼ばれた在地の先住民族が太古から暮らしてきた土地であったが、海岸沿いの松を燃料に砂鉄を精製して得られる「鉄」の利用に目をつけたヤマトの一団が東征と称して侵攻、「建借間命(タケカシマノミコト)」らによる、風土記に描かれたような凄惨な戦いの末、大和朝廷側が征服した土地であって、大生氏は建借間命による東征後、大和朝廷側としてこの地を最初に納めた氏族だったのであろう。大生氏は、自らの氏神を奉斎、これが「香島天大神」と呼ばれたのかも知れない。

一方で、藤原氏の祖、中臣氏が有力になったのは、卜部(ウラベ)としての中臣部に中臣鹿島連の氏姓が与えられた天平18年(746年)前後と言われる。
国家的な祭祀の中心に中臣氏が台頭、東国の神郡祭祀に際しても、東征以降、この地方の政治と祭祀を握っていた大生氏が、その立場を中臣氏に徐々に奪われることとなり、諸説あるようだが、そうした歴史背景が、大生神社の創建由緒の混迷ぶりに断片的に垣間見られるのではないか、ということのようだ。
(同じ時期に、経津主神を祀る香取神宮の祭祀氏族も香取氏から中臣氏に変わった、という説もあるらしい。)

氏神を同じくする中臣(藤原)氏と大生氏はもともと同族だったのではないか、という意見もあるようで、同族内の主権争いが自らの氏神を祀る大生神社と鹿島神宮の度重なる遷幸伝承の礎となり、また、そうした対立が、北浦を挟んで対峙する2つの巨大な古墳群を生んだのではないか、とも思えて来る。

とは言え、真実は遠い歴史の彼方、遥か古代にどのような争いがあったのか、記録の残っていない今となっては知る由もないが、もしそんな出来事が本当にあったとしたならば、知らずに来たとは言え、鹿島神宮へお詣りをしてからここに辿り着いたのは、単なる巡り合わせとは言え、偶然にしては何とも出来過ぎである。

07 鹿島神宮の杜
(今朝がた鹿島神宮の杜で見た光景)

「おい、おまえ、全くひどい話だろ?なあ、聞いてくれよ」とばかりに、遥か古代から、大生氏がここへ呼び寄せたのではないか、などと思えてくる。
(最近、年齢のせいか、こうした思い込みがどうも激しい。)

考え過ぎに違いないが、夕暮れの木立の中、本殿をじっと見つめても、タケミカヅチの神様は黙して語らず。

大生氏と大生神社を巡る古代史の謎は何とも深遠で奥深く、私のような俄か歴史家の想像の域には到底収まり切れない。
収まり切れないからこそ、勝手な想像が広がっていく。

目を閉じれば、大生氏と中臣氏が互いに覇権を競い合う光景がそこに見えているような、そんな気がしてならないのである。

08 大生神社周辺
(八大竜神を指すのだろうか、西陽を浴びて光る石碑)


(地図)
大生神社関連地図


(参考資料)
「常陸大生古墳群」 昭和46年5月 茨城県行方郡潮来町教育委員会
「常陸国風土記 全訳注」 秋本吉徳氏 2015年11月 講談社学術文庫
「まほらにふく風に乗って」 http://mahoranokaze.com/
「大生神社本殿 いばらきの文化財」(茨城県教育委員会HP) www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-3/1-3.html
「鹿島神宮ホームページ」 kashimajingu.jp/
「鹿嶋神宮 一ノ宮巡り」 www.y-tohara.com/kasima.html
「K.K Gallery 鳥見神社&宗像神社 鹿島の神」 http://www14.plala.or.jp/nikorobin/katorikasima.html





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2017/12/13

塩浜の謎?の石造物(神奈川県川崎市 塩浜神明神社、出来野嚴島神社)

今日は古墳ではなく、近くの神社にある「謎」(?)の石造物について、である。

仕事が煮詰まってしまったので、気分転換に出掛けることにした。
仕事場を兼ねている自宅から10分も自転車を漕げば大師橋であり、寒風に身を竦めながら多摩川を渡るとそこは川崎市、大師河原である。
幹線道路に沿って工場やら倉庫やらが立ち並び、大型トラックがひっきりなしに行き交う、色で言えばモノトーンに沈んだ感じの、一見、どことなく無機質な印象を受ける街並みであるが、路地に入ればあちこちに神社や小さな祠などが残っている。
今となっては想像もつかないが、明治時代までは製塩の盛んな海浜の集落であったらしく、「塩浜」という地名が今でも残されている。
その塩浜地区に、以前から気になっていた石造物がある。

<塩浜神明神社>
塩浜地区の南に、地区の鎮守である「神明神社」がある。

01 塩浜神明神社

天照大神を祀る神社で、江戸時代にこのあたりで製塩が始まった頃、延宝7年(1679年)に鎮守として勧進されたそうだ。

02 塩浜神明神社

社殿前の狛犬は弘化4年(1847年)の作だそうで、台座には新橋や内神田の塩問屋の名前が見える。

03 塩浜神明神社狛犬

04 塩浜神明神社狛犬台座

05 塩浜神明神社狛犬

06 塩浜神明神社狛犬台座

さて、件の石造物は境内の奥、「稲荷神社」の社の隣の祠の中にある。

07 塩浜神明神社 謎?の石造物

砂岩か何か、柔らかい材質の石材に彫られたものだろうか。
潮風で摩耗してしまったのか、石仏のようにも見えるが、一体これは何なのだろう、と思う。

08 塩浜神明神社 謎?の石造物

これがもし人為的に作られた造形であるとすれば、作者は相当な美術センスを持っていたのだろうと思う。

隣には神像だろうか、穏やかな笑顔の石像が祀られている。

09 塩浜神明神社 神像?


<出来野嚴島神社>
先ほどの石造物が一体何なのか、明確にはわからないのであるが、実はよく似たものが、近くの日の出地区にある嚴島神社にも残されている。

10 塩浜神明神社

この神社の東側の海岸は戦前まで出来野海岸と呼ばれ、遠浅の干潟が遥か沖まで広がっていたそうだ。海沿いには防潮堤が築かれ、松並木が連なっていたそうである。
神社の創建は定かでないようであるが、市杵嶋姫神(イツクシマヒメノカミ)を祀ることから古くは「出来野弁財天」と呼ばれ、境内に聳える銀杏や松の大木が沖を行く船の目印になっていたそうである。

11 出来野厳島神社

境内の片隅にはそうした古の古木であろうか、枯れた巨木の切り株が残されている。

12 出来野厳島神社

この神社の境内にも、先ほどの石造物とそっくりなものが残されている。

13 出来野厳島神社庚申塔

幟旗には「出来野庚申地蔵菩薩」とある。

川崎区のホームページを見ると、「奉納されている力石や塩で溶けた二基の庚申塔に漁業で栄えた往時がしのばれる。」とある。
庚申塔であるならば、これは石材に彫られた一面六臂の青面金剛地蔵像だったのであろう。そう言われて見れば、右側の像は胸の前で両手を合わせて合掌しているようにも見える。

14 出来野厳島神社庚申塔

それにしても、海沿いで潮混じりの強風がいくら強いとは言え、それだけでここまで摩耗するものであろうか。
度重なる高潮で波に洗われるなどして、水の力で摩耗してしまったのだろうか。
もしかすると、海岸の岩を波が侵食して、自然にできた造形美が地蔵の形に似ている、として信仰の対象となったものとは考えられないだろうか。

いや、先ほどの神明神社のものと合わせると3体もある。恐らく、そんな偶然は3回も続けて起きないだろう。


暮れ行く雲を見上げながら、海岸沿いに松並木が立ち並んでいたという、ほんの80年前の風景を思い浮かべてみた。

その頃の庚申塔の金剛地蔵像は、一体どんな表情をしていたのだろうか。

15 出来野厳島神社夕空


(地図)
塩浜地図


(参考資料)
「かわさき区の宝物15-2出来野厳島神社」 川崎市川崎区ホームーページ www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25622/15-2.pdf




2017/10/03

中世の貝塚遺跡に建つ神社(東京都大田区 甘酒稲荷神社)

大変有難いことに、9月の下旬から「胆力と根気」が要る仕事が重なり、すっかり参ってしまった。
古墳巡りをするどころか、精神的なゆとりもなく、ぐったり日々仕事をこなしながら、年末を迎えてしまった。

そんな中、買い物ついでの気分転換に自転車で近所を散歩する機会があった。
今日はその時のことを書こうと思うが、見に行ったのは古墳ではなくて、貝塚跡に建つ小さな「神社」である。

結婚したての頃、暫く住んでいたマンションの近くに「甘酒稲荷神社」という小さな神社があった。
都心へ向かう京急線が平和島駅を出た直後、高架の東側に見える木立がそれである。

01_不入斗甘酒稲荷神社

平和島駅周辺は、昔は「不入斗(イリヤマズ)」と呼ばれ、人家も疎らな寂しい場所だったそうだ。(前回の「常名(ヒタナ)」も難解であったが、「イリヤマズ」も相当なものだと思う。)

国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」によれば、「不入斗」という地名は
 ●読みは 「イリヤマズ」 または 「イリヤマゼ」で、関東地方に多く、東海地方にも散見される地名
 ●かつての寺社領などで貢納を免ぜられた不入権をもつ免租地であったからという説が有力
とある。
諸説あるようだが、このあたりは海岸地帯であって、中世以前は、近世東海道のルート(現在の第一京浜)は通行することができず、当時の東海道は現在の池上通りに沿って台地上を通過していた。海沿いのこの地域は、塩分混じりの土地で収穫が上がらず、貢納が免除されたことから、不入斗村と呼ばれた、ということのようだ。

そんな旧不入斗村に「甘酒稲荷神社」は建っているが、今では海岸線はだいぶ遠くなってしまって、海の名残と言えば、周辺に海苔を扱う古くからの商店が多いことぐらいだろうか。

神社の境内は公園になっていて、やはりそんな時代の名残は残されていないようだが、神社の由緒書きに、古くは「貝塚稲荷社」と呼ばれた、とある。貝塚の「塚」の字に思わず反応してしまう。

02_不入斗甘酒稲荷神社由来

海沿いだったこの辺りには多くの貝塚があったようだ。
「東京都遺跡地図情報」を見ると、環七の少し南、第一京浜沿いにある「王森稲荷神社」も貝塚遺跡となっているし、都の無形民俗文化財になっている「水止舞」で有名な厳正寺のあたりも平安時代の貝塚遺跡となっている。

甘酒稲荷神社の建つこのあたりも「内川耕地貝塚」という中世の貝塚遺跡だったようである。貝塚と言うと縄文時代の遺跡を連想するが、このあたりの貝塚は、少し時代が下るのかも知れない。

ところで神社の名前だが、このあたりには6年ほど住んでいたが、甘酒で有名、といったような話は耳にしたことがなかったが、由緒書きを見ると、幼児の病気平癒に霊験新たかで、咳の神として広く世に知られ、報賽に甘酒を献じたのが名の由来、とある。
往時は「遠近より参詣者繁しく」だったようであるが、今日のところは境内には自分ともう一人、休憩中か、中年のサラリーマンの姿しか見えない。

事情は存じませんが、ご同輩、お互い大変ですなあ。

(地図)
不入斗甘酒稲荷神社地図

(参考資料)
「レファレンス協同データベース」 国立国会図書館http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000152206
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「学校裏から始まった2」 月刊おとなりさん編 2005年6月





2017/05/02

中世の面影と室町仏の伝わる神社(東京都日野市 日野宮神社)

今回は趣向を変えて神社である。

加賀塚を見た後、まだ少し時間があるので、加賀塚公園のキリンには申し訳ないが、もう一箇所、すぐ近くの日野宮神社に立ち寄ることにした。

日野宮神社は「日野」という地名の起源となった神社とも言われ、創建年代は不明ながら、一説によると武蔵七党のひとつ、西党の祖である日奉(ヒマツリ)氏が承平元年(931年)に武蔵国造として京都より下向し、そのまま土着、日奉氏の子孫が祖先を祀るために創建したと伝わる。天保年間(1830~1844年)の古地図にも描かれており、新編武藏風土記稿にもその名の見える古社である。

01 日野宮古写真

由緒深い神社であるにも関わらず、佇まいはこじんまりとして見えるが、この神社には、室町時代の永正14年(1517年)の作とされるほぼ完全な形の阿弥陀如来像と、江戸時代の作で観音菩薩の像容ながら虚空蔵菩薩と伝わる貴重な仏像が伝わるそうだ。

02 日野宮

虚空蔵菩薩の使いは鰻とされるそうで、なるほど、写真の虚空蔵菩薩の衣は鰻の姿に似ている。多摩川の増水時に堤防の決壊を鰻が防いだという伝承もあるらしく、古くからこのあたりでは鰻は食べないそうである。

03 阿弥陀如来像・虚空蔵菩薩像


日奉氏の伝承との関連はともかく、このあたりには古くから人が住んでいたらしく、平安時代の住居跡なども見つかっているらしい。「栄町遺跡」と呼ばれ、日野宮の南東、都営アパートが建っているあたりから14世紀の遺構が集中して見つかっていることから、当時、集落の中心はこのあたりにあったと推定されているようだ。
その後、16世紀後半、北条氏の時代に宿駅が作られ、江戸になって甲州街道の宿場となるまでの集落の変遷の様子が発掘により解明されているらしい。

04 栄町遺跡


このあたり一帯は今でも中世の面影があちこちに残っている。

青面金剛像[宝暦7年(1757年)]

06 庚申塔解説


鰻を食べないという珍しい風習も含め、東京にもまだこうした「奥行きの深い」土地が残されているのは喜ばしい限りである。古墳以外もたまにはいいものだ。


加賀塚・日野宮地図