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2018/03/28

鎌倉古道と刑場伝説の塚(神奈川県横浜市 泣坂、餅塚)

町田市の木曽富士塚の桜があまりに見事だったので、もう一ケ所、寄り道したい場所がある。
横浜市青葉区に「田奈」という場所がある、と以前書いたが、その田奈と恩田川を挟んだ南岸、横浜市緑区の高台に「餅塚」という塚があり、桜の時期はとてもきれいなのだそうだ。

緑区の「緑区遺産」にも選ばれている「餅塚」は、横浜線十日市場駅の西、東名高速が足元を通る標高60mほどの台地の南端にあり、近くには「泣坂(なきざか)」という名の古い坂道や、「北門(ぼっかど)古墳群」という興味深い名前の古墳もあるらしい。
この「北門古墳群」はまた別の機会に譲ることにして、今日は「泣坂」を上って「餅塚」を見て帰ろうと思う。

横浜線の十日市場駅前の少し西で交差点を右折、高架の東名高速をくぐると道は急な上りに差し掛かる。これが現代の「泣坂」である。旧道は細道で右方向に逸れていくが、右折できないのでそのまま直進すると、ほぼ坂を上り切った「泣坂上」交差点で、右から旧道が再び合流してくる。旧道はそのまま新道を横切って左へと上って行くので、ここから旧道に入ると、道はさらに高台を上へ上へと上っていく。

「泣坂」というのもずいぶんとインパクトのある名前だが、緑区のホームページによると、古くは近くに処刑場があって、罪人が泣きながら上った、あるいは、罪人の泣き叫ぶ声がこの坂道まで聞こえて来たのでその名がついたのだそうだ。泣坂の由来も気になるが、まずは「餅塚」に陽が沈む前に辿り着かねばならない。
塚は旧道南側の一帯に広がる大きなマンション群の向こう側にあるので、住宅地を大きく南側に回り込んで行かねばならない。左折して登り、また左折して登り、を繰り返すと、ようやく高台を上り切ったのか、前方の家並みの向こうに夕焼け空が見え、高台の縁の道をそのまま進むと、公園の一画に大きな小山が見えてきた。

01 餅塚遠望

小山の上に登ると、頂上はもう一段、2mほど高くなっており、これが「餅塚」のようである。

02 餅塚

03 餅塚上の碑

緑区のホームページによると、餅塚の由来は、このあたりで茶屋を営んでいた老婆が餅を売っていたため、とあり、一説には老婆とその娘はある日、山賊に襲われて命を落とした、という伝承もあるらしい。無闇に立ち入ると祟りがある、とされ、雑草が生い茂っていたそうだ。昭和30年頃までは小さな祠があったそうであるが、その祠が朽ち果ててしまったので、塚の供養のため、昭和60年に地元の方々が石碑を建てたのだそうだ。

04 餅塚上の碑

05 餅塚上の碑

石碑に向かって手を合わせ、改めて見渡せば、塚上はひときわ小高く、周囲の眺望は抜群である。

06 餅塚上より北方の眺望

06 餅塚上から南方の眺望

眺望もよいが、周囲の桜もまた見事である。

08 餅塚の桜

09 餅塚の桜

茶屋を営んでいたという老婆やその娘さん、茶屋で一服した旅人たちも、一日の終わりに果たしてこんな光景を見たであろうか。

10 餅塚上の空

沈んでゆく西陽を見ながら、それにしても、何故ここに「茶屋」や「処刑場」などの伝承が残されているのだろう、と思った。

家に帰り、地図を眺めると、旧道は歪んだS字型に大きく蛇行して急斜面を南東から北西へと上っており、そのまま進むと旧大山街道の長津田宿、片町の地蔵堂に至る。調べてみると、どうやらこの道は鎌倉街道の中ノ道から上ノ道への古くからの連絡路であったらしく、南は霧が丘からズーラシアのあたりを通って鶴ヶ峰へと通じていたようである。街道沿いで眺望のよい高台ということであれば、水をどのように確保していたかはともかく、茶屋があった、というのも頷ける話ではある。(一説によれば、さらに古くはS字の旧道は東へもっと大きく蛇行しており、横浜線の向こうまで迂回していたそうである。)

一方で、処刑場と言うと、鈴ヶ森や三田、小塚原といった江戸の刑場が思い浮かぶ。
これらはいずれも江戸市中を出た外側に置かれており、結界としての意味合いを持つ「忌み地」のような場所でもあっただろう。同時に、こうした場所を街道沿いに置くことで、罪人の行く末を往来に「晒す」という意味合いもあっただろう。

恩田川周辺には鎌倉時代、恩田氏という有力武士がいたそうであるし、餅塚から南西に2kmほど離れた高台にある旧城寺の一帯には、室町時代、上杉憲清が築いたとされる「榎下(えのした)城」という山城があったそうである。餅塚近くの古墳群の名前にもなっている「北門(ぼっかど)」という地名はこの榎下城の北門を差すのではないか、という説もあるようだ。いつの時代かわからないが、榎下城の所領地の「結界」として、ここに刑場が置かれた時期があったのかも知れない。

「旧鎌倉街道探索の旅」という、最近復刻版も出た書籍に、次のような記述がある。

「『古道のほとり』(という書籍)には北門(ボクカド)について次のようにある。『ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる』と。」

この牧場の支配者が誰であったのかどうかはともかく、いつの頃か、ここに牧が置かれた時期があったのだろう。
所領地の外れの高台で近くに古墳などもあったため「忌み地」とされ、刑場が設けられた時期もあったのかも知れない。戦乱の世が終わると街道沿いで眺望がよいので茶屋ができ、そこで餅が売られたのだろう。不幸にも茶屋の主が命を落とした悲惨な出来事が、街道を行き交う旅人から巷間へと伝わる中で、古く刑場があった時代の伝承と相俟って、「餅塚」、「泣坂」の伝承となって、今に伝わっている、ということなのかも知れない。


(地図)
餅塚地図



(参考資料)
「緑区遺産(登録番号011)餅塚」 緑区ホームページ http://www.city.yokohama.lg.jp/midori/60guide/midorikuisan/isan011.html
「緑区の泣坂」 はまれぽ.com http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1128
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 1981年1月 芳賀善次郎氏 さきたま出版会





2018/03/28

町田市にある木曽の富士塚(東京都町田市 富士塚(提灯塚)、木曽一里塚)

町田へ行く機会ができた。

20年ほど前まで、町田には30年近く住んでいた。
昭和40年台後半、当時は庶民の「羨望の的」であったという「公団住宅」の抽選に当たり、調布のアパートから一家四人で憧れの「団地」に移り住んだ。
団地には商店街があって、お菓子屋、おもちゃ屋、本屋と、子供の心を釘付けにする魔法のような店ばかりでなく、喫茶店やスーパーマーケット、銀行まで全てが揃っており、なんとまあ便利で快適な街であることか、と子供心に思ったものだ。
近所にはそこかしこに公園や芝生の広場があったし、七国山という里山も近かったので、とにかく遊ぶ場所に事欠くことはなかった。テレビゲームやファミコンなどというものは中学生になるまでお目にかからなかったので、雨でも降らない限り、家で遊ぶなどという発想はなかった。毎日のように、全速力で学校から帰るや否や、玄関でランドセルを放り出しては、陽が落ちて友人の顔が見えなくなるまで外で遊びまわっていた。

かつては羨望の的であったはずのマンモス団地も、平成も30年を過ぎ、築50年を経てすっかり老朽化が進み、住人も高齢化が進んでいると聞く。そりゃそうだろう、子供だった私がとっくに五十路を迎えているのである。
自分が通った小学校、中学校が生徒数の減少で廃校になった、と聞いた時は、普段、ニュースで他人事のように聞いていた「母校が廃校になる」という感覚は、なるほどこういうものか、と妙に納得したものである。

すっかり前置きが長くなってしまったが、町田はそんな思い出深い場所なので、ウキウキしながら「東京都遺跡地図」を眺めていると、「木曽東」という場所に「塚」のマークがあることに気が付いた。
この塚は見覚えがあった。木曽の交差点の東側、周囲にまだ畑の残る中、料金が格安であった小さなクリーニング店の裏にひときわ大きな小山のようなものがあるのを、駅へ向かうバスの車窓から毎日のように目にしていた。当時は「塚」や「古墳」に興味はなかったが、見るともなく毎日のように目にしていたので、潜在的な記憶として覚えていたのであろう。

「東京都遺跡地図」には、塚の名は「富士塚(提灯塚)」とある。例によって「時代:不明」、「種別:その他(塚)」という、何とも曖昧な整理ではあるが、そうか、あの塚は「富士塚」だったのか、と思った。
あれからだいぶ経つので、もはや開発の波に飲み込まれてしまって残っていないかも知れないが、とにかく見に行ってみることにした。

<富士塚(提灯塚)>
すっかり拡幅されて見違えるようになった町田街道を北西に進み、木曽交番前で右折して細い道を北へ向かう。この道筋は、往古、「夷参(イサマ)」と呼ばれた座間から大沼を経て、「富士塚」脇をかすめて北上、小野路から多摩丘陵を越えて府中へと向かう、古代官道の痕跡とされる道でもある。
こんなところに病院なんてあったかしら、お、この銀行は覚えてるぞ、といちいち感動しながら進むと、左前方に見覚えのある大きな木立が見えてきた。

01 木曽富士塚(提灯塚)遠景

クリーニング店は見当たらなかったし、塚の周囲に広がっていたはずの畑もコンビニの駐車場になっていたけれど、幸いなことに、塚はどうやら昔の姿そのままに残っていた。

02 木曽富士塚(提灯塚)全景

塚をこれほど近くでじっくりと見るのは初めてであるが、大きさは直径20mほど、高さは3mほどはあるだろうか、記憶の中の塚よりも大きくて、塚上には祠などが立っているようである。

03 木曽富士塚(提灯塚)麓から頂上

20年振りの再開を祝してくれている訳でもなかろうが、折しも塚上の桜はちょうど満開で、西陽にうっすら赤く染まって風に揺れている。

04 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

南側に回って見ると頂上へは階段が続いており、上まで登ることができる。

05 木曽富士塚(提灯塚)南側塚上への階段

頂上は意外に広く、浅間社の石の祠と、石碑が二つ並んでいる。

06 木曽富士塚(提灯塚)塚上の祠、石碑

由来碑は漢文であろうか、難解だが、おおよその意味は、木曽三家(さんや)には富士塚があって、その高さは1丈5尺、広さは3畝、古より道に迷った旅行者がこの塚に登り、富士を見て方向を確かめたと云う、塚上には一本松と呼ばれた老松があり、梢は雲を凌ぎ、幹には洞があって獣が住んでいたという。樹下には浅間社の小祠があったが、文化4年(1807年)に失火で老松ともども一晩で焼失してしまったが、皆で相談して幼い(稚)松を植え、碑を建てた、といったようなことだろうと思う。富士塚と言っても、中近世に多く築かれた富士講に基づくものではないようだ。

07 木曽富士塚(提灯塚)塚上の由来碑

「今昔マップ on the web」で明治の地図を見ると、「一本松」と書かれた大きな塚/古墳マークが確認できる。

08 「今昔マップ on the web」より木曽周辺
(右上赤矢印が「一本松」こと富士塚、左下赤矢印のT字路西側に後述する木曽一里塚 「今昔マップ on the web」 明治39年測図二万分の一「原町田」より木曽周辺を拡大)

周辺の地形は、塚の東側が200m四方ほどの大きな窪地になっていて、調整池と呼ばれる人口の池があり、窪地周辺は縄文から平安時代にかけての土器や土師器などの包蔵地となっているようであるが、他に大きな高低差もなく、南を流れる境川と、北を流れる鶴見川にはさまれた標高100mほどの平坦地になっている。
南北に走る古奥州街道に隣接していて、以前見た鶴間の一里塚(鶴間大塚)とよく似ているが、こちらは一里塚としてではなく、方角を確認するための物見塚として語り継がれてきたのであろう。

「堅牢地神塔」というのは初めて見るが、元禄期以降に広まったとされる「地神(ジジン)講」、すなはち春分・秋分に最も近い戊の日は田の神と山の神が交代する日であり「土を動かしてはならない」とされ、畑仕事を休み、地神様をお祀りして大地の恵みに感謝する、という民俗信仰であり、大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。

09 木曽富士塚(提灯塚)塚上の堅牢地神塔

見上げれば、西陽に染まった桜と青空しか視界に入らない。

10 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

11 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

ところで、「木曽」の「三家」というのはこのあたりの字名であって、「三家」というのは近くのバス停の名前にもなっているので馴染みが深いが、その由来については耳にしたことがない。インターネットで検索しても特に見当たらないのだが、うっすらとした記憶では、何で読んだか、誰かに聞いたかも定かでないが、昔、このあたりには人家が3軒しかなかったのでその名がついた、といったことではなかったか、と思う。

一方で、「木曾」という方は「新編武藏風土記稿」にその名が見える。
「矢部八幡」という神社が市内の矢部町にあるが、昔は矢部のあたりも木曾村の一部であって、この神社に昔あった鐘の銘文によると、木曽一族がこの辺りに移り住んだためについた地名だそうだ。
因みにこの「矢部八幡」は別名「箭幹(やがら)八幡」と言い、古くは「木曽八幡」と呼ばれたらしいが、木曾氏(木曾義仲)が滅亡したために木曾の名を憚って「箭幹(やがら)八幡」と呼ぶようになったのだという。

<木曽一里塚>
ところで、富士塚から少し西に行ったところに、「東京都遺跡地図」には載っていないが、「木曽一里塚」という塚があるようなので、そちらにも行って見た。

12 木曽一里塚全景

一里塚と言うからには、塚が面したこの道も街道だったのだろうと思うが、古奥州街道は先ほどの富士塚脇の道であるはずだから、町田街道の旧道の一里塚かと思ったが、塚は町田街道の旧道には面していない。これは江戸初期の元和3年(1617年)に、駿河の久能山に祀られていた徳川家康の遺櫃を日光東照宮に移すために整備され、後に大山詣でにも利用されたルート、「御尊櫃御成道」に設けられた一里塚なのだそうだ。塚上の祠は日本狼を祀る御嶽山の「おいぬ様」こと「大口真神」の祠だそうである。

13 木曽一里塚解説

14 木曽一里塚前の御尊櫃御成道

「御尊櫃御成道」はこの塚の前を通って町田街道の旧道を左折して小野路方面に至ったらしい。ほぼ同じルートを辿りながら、古くからあったであろう三家の富士塚横の古奥州街道を通らずに、わざわざ別ルートを経由した、ということは、江戸初期には既に富士塚横の道は廃れてしまっていたのであろうか。
前述の明治の地図を見ると、確かに富士塚横の道沿いにはほとんど人家は描かれておらず、まさに「三家」状態のようである。大切な「御尊櫃」の御成に際して、何かと便利な木曾村中心部を通るルートが選ばれた、ということなのかも知れない。

今回は懐かしさのあまり、つい長くなってしまった。当時は知る由もなかったが、子供時代を過ごした懐かしい土地に刻み込まれていた、古から積み重ねられてきた歴史の「記憶」をこの年齢になって初めて知った。
出張先で浮かれてばかりおらず、もっと自らの出自の地で研鑚に励むべきかも知れない。


(地図)
木曽富士塚、一里塚地図



(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html




2018/03/12

那珂川を望む台地上の「十三塚」(茨城県那珂市 西木倉古墳群(十三塚)、東木倉古墳群)

一本松古墳を見に行った後、東側の河岸段丘上にある「西木倉(にしきのくら)古墳群」にも立ち寄ってみることにした。

一本松古墳のある「上河内(かみがち)」は段丘下の沖積低地で行政区域は水戸市であったが、東隣の段丘上に位置する「西木倉」は那珂市になるようだ。
昭和30年の町村合併で「那珂町」となる以前、西木倉地区を含む台地上の一帯は「五台(ごだい)村」と呼ばれていたそうである。台地上の五つの村(豊喰新田、東木倉、西木倉、中台、後台)が合併したのでそのように名付けられたのだそうだ。

<西木倉古墳群(十三塚)>
広々とした田圃の中を北東方向に進み、狭い坂道で20mほどの高さの崖線を上る。道の両脇は鬱蒼とした雑木林で、昼なお暗い急な坂道であるが、登り切ったあたりで右手がぽっかりと開け、道路のすぐ脇に一面を笹に覆われたこんもりとした茂みが見えてきた。

01 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

笹で覆われているので一瞬、古墳かどうかわからなかったが、すぐ脇に「西木倉古墳群(十三塚)」の標柱が立っている。

02 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

03 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

「いばらきデジタルまっぷ」で調べると、「円墳9基、円墳(一部破壊)1基」の古墳群で、現況は「山林、墓地」となっている。昇寛さんの「埼群古墳館」を見ると、ここよりも北側、共同墓地の周辺に複数の墳丘があるようだ。

西木倉古墳群については、「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・」というブログに、那珂市歴史民俗資料館に関する記事が載っていて、それによるとこの古墳群は古くは「十三塚」と呼ばれており、往時は13基から成っていたのではないか、とされており、現存する10基のうち1基は前方後円墳の可能性もある、とされているらしい。

十三塚と聞くと、先日見に行った「五所塚」もそうであったように、中世の十三佛思想に基づく、村落同士の境界となる尾根筋や村外れの「忌み地」に築かれたとされる信仰塚が思い浮かぶが、この古墳群はまさに上代の古墳、ということのようである。

今見ているのは「5号墳」のようで、今通って来た道路が平成21年に建設された際、道路にかかる部分の発掘調査が行われたらしい。特段の遺物は出土しなかったようであるが、墳丘を巡る幅4mの周溝が確認され、周溝を含めた古墳の直径は35mと報告されているそうだ。

04 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

このほか、「2号墳」、「3号墳」からは埴輪片が出土、特に3号墳は別名「埴輪塚」とも呼ばれているそうだ。ほかにもあるのかな、と思い、あたりを見回してみると、5号墳南側の雑木林の中にもうひとつ、墳丘のようなものが見えている。

05 5号墳南の林中に見えるマウンド(?)

足許が草叢で覆われている上に、おそらく私有地なのであろうから、勝手に立ち入るのは憚られるのでよくわからないが、それではほかにももっと、と思ってさらに周囲を観察して見ると、気のせいかもしれないが、道路の北側、5号墳の向かいの木立のあたりもどことなく円形に盛り上がっているようにも思える。

06 西木倉古墳群(十三塚)周辺

あんまりキョロキョロしていたせいか、向かいのお宅の住人の方が訝しそうにこちらを見ている。仕事もそっちのけで昼間から寄り道ばかりしていて、どことなく後ろめたい、そんな気持ちもある。共同墓地の方まで見に行くのは遠慮して、帰路に着くことにしよう。

この台地上は古墳群がたくさんあるようで、南東方向に少し行った「東木倉」にも古墳群があるようだし、その途中にも「狐塚古墳」という前方後円墳(?)もあるようだ。せっかくなので「東木倉古墳群」の近くまでクルマで行ってみたが、こちらも墳丘はクルマでは入って行けない墓地にあるようなので、残念ながら古墳の方角を車中から遠望するに留めた。

07 東木倉古墳群周辺
(台地上、北側より)

08 台地下から東木倉古墳群の方向を遠望
(台地下から。正面左が古墳群のある段丘)

今日もろくに下調べもせず、行き当たりばったりで来てしまい、古墳はあまり堪能できなかったけれど、考えてみれば、何とも気分のよい、晴天の里山ドライブではあった。


(地図)
西木倉古墳群地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・パート2」 https://blogs.yahoo.co.jp/rinrintakasan/10306850.html



2018/03/12

水戸市郊外の小円墳2景(茨城県水戸市 福沢古墳群2号墳、一本松古墳跡)

また、水戸へ行くことになった。

いつものように渋滞する首都高を抜け、常磐道から北関東道へ入り、水戸南インターで一般道に下りる。
寄り道は仕事を済ませてから、と思っていたが、予定よりも30分ほど早いので、これなら行きがけにも少し道草できそうだ。
右折しようと思っていた水戸工業高校東をそのまま直進、一つ先の米沢町交差点で右折して、水戸米沢郵便局を目指す。

<福沢古墳群2号墳(七塚)>
水戸米沢郵便局の西、200mほどのところを逆川が南北に流れており、幅100m、高さ20mほどの細長い谷が2kmほど続いている。「いばらきデジタルまっぷ」の遺跡分布図を見ると、このあたりにはこの逆川の崖に沿って、東岸に福沢古墳群(円墳4基、一部湮滅)、払沢古墳群(円墳2基、湮滅)、逆川を挟んだ西岸に笠原古墳群(前方後円墳1基、円墳1基)などの古墳群が点在していたらしい。
昇寛さんの「埼群古墳館」を見てみると、これらのうち福沢古墳群の「2号墳」とされる古墳が、水戸米沢郵便局の北、凡そ50mほどのところに現存しているらしいので、ここに立ち寄ってみることにした。

01 福沢古墳群2号墳遠景

02 福沢古墳群2号墳南から


墳丘上の祠は「綿引稲荷神社」というらしい。

03 福沢古墳群2号墳南東から

六一書房の「常陸の古墳群」という書籍によると、福沢古墳群は払沢古墳群と合わせて「米沢町古墳群」と呼ばれていたらしい。
かつてはこの周辺の古墳を総称して「七塚」と呼ばれていたようなので、福沢古墳群の4基と払沢古墳群の2基以外にも、往時は古墳があった、ということなのだろう。「常陸の古墳群」ではこの他、「大鋸町(おがまち)古墳」という直径8m、高さ1.5mの円墳があった(現在は削平)、ともある。
これらの古墳について、「常陸の古墳群」では、「最も大きい第1号墳は、直径約10.0m、高さ約0.8mの規模」とあり、「現存長約7.0m、高さ約1.0m」とされているので、古墳群のうち「最も大きい1号墳」も「現存」している、と読める。
今見ているのは「福沢古墳群」の「2号墳」であるから、これよりももっと大きな古墳がどこかに現存しているのかも知れない。

04 福沢古墳群2号墳北から

「いずれの古墳からも埴輪は採集できない」ことに加え、低墳丘の円墳であることなどから、これらの古墳群は古墳時代後期~終末期にかけて築造されたものと考えられているようだ。

05 福沢古墳群2号墳北西から


<一本松古墳跡>
頑張って仕事を午前中のうちに済ませたので、まだまだ陽は高い。この後は、那珂川北岸の、前回場所と名前を間違った「一本松古墳」という名の低地古墳を見て帰ろうと思う。
一本松古墳は那珂川北岸の沖積低地の自然堤防上にあったらしい。前回間違って見に行った「上河内大塚古墳」と同じく自然堤防上に築かれた低地古墳である。
「いばらきデジタルまっぷ」では「円墳1、湮滅」、「現況 宅地」となっており、墳丘は残っていないようであるが、今日は天気もいいので、ドライブがてら痕跡を眺めに行ってみよう。

万代橋で那珂川を渡り、青柳町交差点を左折、那珂川の堤防沿いに県道を北上すると、やがて上河内町に至る。「河内」というだけに、このあたりは那珂川の旧流路にあたる沖積低地のようで、県道の右手遠くには一段高い河岸段丘が見えている。
県道が堤防から離れ始め、川沿いに広がる田畑の見晴らしがよくなったあたりに一本松古墳はあったようだ。

06 上河内一本松古墳周辺からの眺望

「いばらきデジタルまっぷ」では、県道沿いの民家の敷地に古墳マークが付されている。

07 上河内一本松古墳周辺

道路から他人様のお宅をじろじろと覗き込むのは忍びないので、畦道を田圃の方まで降りて行き、少し離れたところから振り返って眺めてみた。

08 上河内一本松古墳周辺遠景

遠くから見てもどうもよくわからないが、民家の敷地は周囲の田畑よりは1~2mほど高くなっているので、確信はないが、この高まりが古墳の基部若しくは土台で、削平前の古墳はこの上にあったのではないのかしら、と思う。

09 上河内一本松古墳周辺遠景

畦道を戻りつつ、敷地をチラチラ観察していると、敷地の南の方で少し大きめの石材が地面から顔を出していたが、まさかこれが古墳の石材、ということでもなかろう。

10上河内一本松古墳周辺

ふと、何となく誰かに見られているような気がしてあたりを見渡したが、誰もいない。時折、県道を自動車が通り過ぎて行くだけである。
それにしても今日は春というのに汗ばむくらいの陽気だ。

11 上河内一本松古墳周辺

なるほど、お天道様が不心得者の行動の一部始終を見ていたのかも知れない。


(地図)
福沢古墳群2号墳地図
(福沢古墳群地図)

上河内一本松古墳地図(上河内一本松古墳地図)


(参考資料)
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2018/03/05

雨の合い間の大塚跡(東京都八王子市 日向古墳、大塚八幡神社)

午後からの所用を早めに切り上げ、いつものようにクルマで帰路に着いた。
今日は朝からあいにくの雨模様であるが、少しだけ道草をして帰ろうと思う。

八王子市鑓水から始まる都道20号線の通称は「野猿街道」である。何と野趣に富んだ名であろうか、と以前から思っていた。
今日でもまさか野猿が出る訳でもあるまいが、大栗川が削った幅500mほどの谷あいを北東に向けて伸びている。谷と言っても左右の尾根との比高差は30~40mほどであるのに加え、街道沿いには瀟洒な住宅が立ち並んでいるので、クルマで走っていると、およそ「猿」や「山」、「谷」といったイメージとは程遠いのであるが、それでも柚木、堀之内を過ぎると街道の北側にはなだらかな丘陵が迫ってくる。
やがて突然、多摩モノレールの白く太い鋼鉄の軌道が頭上を横切る。街道の南側に見える駅の名前は「大塚・帝京大学」であり、このあたり一帯の字名は「大塚」となっている。

1995年に多摩地区の古墳を網羅的に調査した「多摩地区所在古墳確認調査報告書」という書籍に、この「大塚」という字名の由来と思しき古墳が載っている。
「日向(ひゅうが)古墳」という名のその古墳は、「大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部」に占地する、「直径13m、高さ2.5m」の「円墳」とある。
ただし残念なことに墳丘は「消滅」、主体部も「消滅?」となっていて、痕跡は残っていないのかも知れない。
インターネット版の「東京都遺跡地図情報」によると、日向古墳のマークは野猿街道の南側、「大塚八幡神社」の境内に付されていて、雨は止みそうにないが、古墳のあった跡地だけでも眺めて行こうと思った。

地図で見ると、神社のある一帯は、直径100mほど、高さ10mほどの円形の独立丘のような地形になっていて、神社はその最も高い場所に建てられているようだ。まさかこの丘全体が古墳、などということはなさそうだが、字名の「大塚」はこの独立丘を指すのではないだろうか。地形図で見てもほぼきれいな円形をしていて、まるで大きな塚のようにも見える地形である。

東側から丘を登って神社の駐車場にクルマを停める。

雨の中、あちこち古墳の痕跡を探すのも少し億劫なので、昇寛さんの「埼群古墳館」や挂甲の武人さんの「週末は古墳巡り」などを見てみると、本殿脇にある稲荷社の土台が往時の墳丘の痕跡ではないか、とされているようだ。

そうか、と思いもう一度外を見ると、ちょうど折しも運よく雨が止んでいるではないか。
日頃の行いを天の神様が見守って下さっていたのか(いや、多分そうではないと思うが)、絶好の好機である。

鳥居の向こう、一段高くなっているところに見えているのが大塚八幡神社の社殿で、その左脇に見えている赤い祠が稲荷社のようである。

01 大塚八幡神社遠景

まずは八幡様に、雨を止ませてもらったお礼と、古墳の痕跡を写真に撮らせてもらえるよう、両手を合わせる。

02 大塚八幡神社社殿

社殿脇の稲荷社は、基壇を石垣で四角く囲まれていて、大きさはそれなりに見えるのだが、高さの方はどうも2.5mもあるようには見えない。

03 大塚八幡神社稲荷社


駐車場に戻って南側から回り込むと、左手から盛り上がった土台がそのまま稲荷社の土台へと続いているようにも見える。

04 大塚八幡神社

左手には階段があり、稲荷社背後の寺院の墓所へと続いている。

05 日向古墳の墳丘痕跡?

06 日向古墳の墳丘痕跡?

階段を上って見ると、墓所にはたくさんの石仏や石碑が草々の合い間に静かに立ち並んでいて、何だかあれこれ詮索するのはどうにも憚られるような気がしてきた。

07 日向古墳の墳丘痕跡?

そう思った途端、今まで止んでいた雨が突然、再びパラパラと降り出してきた。
もうそこまででよかろう、と八幡様が仰っているのだろうか。

雨の中、墓所に向かって一礼し、続いて稲荷社、八幡神社にも頭を下げて、クルマに戻った。

少し雨脚が強くなり始めたようだ。夕方になって道路が渋滞し始める前に帰るとしよう。


(地図)
日向古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「週末は古墳巡り」 https://kofunmeguri.hatenablog.com/