2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(3)(神奈川県川崎市 諏訪神社/諏訪古墳?(二子・諏訪古墳群))

前回に引き続き、高津区の諏訪地区で古墳を探している。

前回見た二つの現存古墳のほかに、新編武藏風土記稿にはもうひとつ、3基目の塚として以下のような記述がある。

「今一つも同じ辺(字塚田通)にあり 古は広さ百坪許ありて高き塚なり 一年土人掘くつせしに武器財宝の類出せしか その人大に煩ひなやみけり 恐れて其のまま埋(?)めをけりと 今は僅の塚なり」

古くはかなりの広さの塚で、土地の人が武器財宝の類いを掘り出したらしいが、発掘した人は塚の祟りか大いに煩い悩んで、恐ろしくなってそのまま埋め戻してしまったそうだ、といった意味だろうか。

今となっては塚の名前も、所在もわからなくなってしまったようであるが、およそ二つの古墳とほぼ同じ地域にあったようで、川崎市市民ミュージアムの「加瀬台古墳群の研究」では「諏訪古墳」という名称で記載されている。


ところで、この塚とはあまり関係なさそうではあるが、すぐ近くに諏訪神社という神社がある。

前回紹介した、諏訪浅間塚に関する新編武藏風土記稿の記述に「諏訪左近」の名が出て来る。
「諏訪左近」とは、この地を開墾したとされる諏訪左近頼久のことであろう。
諏訪頼久という人は、その名のとおり信濃国の出身で、天正18年(1590年)、秀吉に滅ぼされた小田原北条氏、北条氏直の許を離れ、この地に定住したそうで、慶長年間(1596~1615年)になって、故郷の諏訪から諏訪大社の分霊を勧請し、諏訪神社を創建した、とのことである。

この諏訪神社は、諏訪浅間塚古墳の北100mほどのところにある。

諏訪浅間塚古墳の北側の道を北西に進むと、現存する古墳の土地を江戸時代に管理(所有?)していたとされる明王院という寺院の裏手に出る。墓地に面して道は急に細くなる。そのまま右に円を描くような狭いカーブを抜けると、すぐ右手、円弧の内側に諏訪神社の弐の鳥居が立っていた。

01 高津区諏訪神社

本殿で手を合わせ、写真を撮る許しを請う。

02 高津区諏訪神社

さて、見たところ、社殿の建てられている地盤は石段3段分ほど高くなっているが、境内には古墳のような盛り上がりは見当たらない。そりゃそうだ。そんなに簡単な話なら、とっくに諏訪古墳の痕跡として認識されていて然るべきであろう。

03 高津区諏訪神社

少し離れて眺めると、社殿の周囲は縁石のようなもので丸く縁取りされている。

04 高津区諏訪神社

縁石に沿ってそのまま社殿の裏の方へ回って見ると、社殿裏側は石段で囲われていないものの、やはり地盤が周囲よりも高くなっているように見える。

05 高津区諏訪神社

(つける薬のない「何か」のスイッチが入ったようであるが、)たかだか社殿の下の地面が少し盛り上がって見えるだけである。
神様の住まいである社殿を人間の住む地面よりも高い位置に祀る、というのは人間の心情であろうし、さほど珍しいことでもなかろう。

だがしかし、この状況を極めて恣意的に、古墳好きの都合だけで解釈すると、この盛り上がりは何となく「それ」っぽく見えなくもない。
しかも、神社前の道路の形状も何故か鳥居の南で円弧を描いており、あたかも「何か」を避けているようにも見えるではないか!

動悸が若干激しくなってきた。

とは言え、残念だが、やはりそんなうまい話はあるはずがなかろう。

新編武藏風土記稿では、この諏訪神社について、
「諏訪社 村の北の方にあり」
として、塚と何らかの関係があるような書き方はしていないし、3基の塚のある「塚田通」は村の南の方を指すのに対して、諏訪社のある村の北の方は「諏訪前通」という名の別の地区とされている。

諏訪社や塚について、断片的とは言え、これだけの伝承が伝わっているのだから、もし3基の塚のひとつに諏訪社が祀られたのであれば、その部分についての伝承だけが伝わっていない、というのも考えづらい。

そもそも私のような素人が考えつくようなことがこれまで誰にも検証されずに看過されてきた、などということもなかろう。
阿形の狛犬が、そんな私を見て大笑いしている。

06 高津区諏訪神社狛犬

それにしても、武器財宝の類が出土したのは、一体いつの時代だったのであろうか。
諏訪左近がこの地に定住・開墾するよりも以前の話であるならば、「大いに煩い悩んだ」祟りを鎮めるために、その地に故郷から諏訪神を勧請して祀った、と考えることもできそうであるが、全ては遥か数百年の時の彼方、今となっては確かめる術はなさそうである。

07 高津区諏訪神社


そんなことを考えながら、神社前の道をもと来た方へ歩いていると、北側の畑の中に小さな祠が祀られているのが見えた。

08 高津区諏訪の小祠

09 高津区諏訪の小祠

どことなく「僅かになってしまった塚の祟りを鎮める祠」のように見えたのは、きっとそればかり考えながら歩いていたからかも知れない。思い込みにも些か限度というものがあろう。

でも、これってもしかして・・・💛(いい加減にせぃ。)


(地図)
高津区地図③


(参考資料)
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/




スポンサーサイト
2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(2)(神奈川県川崎市 諏訪浅間塚古墳/諏訪天神塚古墳(二子・諏訪古墳群))

新編武藏風土記稿によれば、川崎市高津区の諏訪地区には古くは3基の塚があったとされる。
そのうち現存しているものは2基、「諏訪浅間塚古墳」と「諏訪天神塚古墳」とされ、それらは、前回訪ねた二子古墳跡から500mほど東、川崎市出身の詩人で童謡作家の小黒恵子氏の童謡記念館の近く、現在の多摩川流路から500mほどのところに、100mほどの距離を置いて近接して残っている。

<諏訪浅間塚古墳>
小黒恵子童謡記念館の敷地の塀に沿って裏に回ると、北側に隣接する木立の中に小高い墳丘が見えてくる。

01 高津区諏訪浅間塚古墳

墳丘は思いのほか高く、よくお世話になっている「古墳マップ」によれば、高さ3.8m、直径19.5mの円墳だそうである。東側(写真で言えば向こう側)はかなり削平されており、遺存している部分は楕円形に近い、とある。

古墳はあいにく民家の敷地内にあるようで、立ち入りはできないようだ。隣の童謡記念館の裏庭からは手が届きそうな距離であるが、あいにく童謡記念館の閉館時刻も過ぎてしまったので、記念館の塀越しに背伸びしながら覗き込むしかない。塀の上から覗き込むのは、我ながらどうにも心苦しい。

02 高津区諏訪浅間塚古墳

こちらを睨んでいる犬は先ほどから動かないので、きっと置物に違いないが、心苦しいのもあって、つい、目を合わせるのが躊躇われる。とか言いながら、結局写真まで撮っている自分に少し呆れてしまう。「おまえ、いい歳して、そこまでするのか」と心の中では、思っている。
思っちゃいるけど、ヤメラレナイのである。

諏訪浅間塚古墳については、1830年頃に編纂された新編武藏風土記稿では次のように書かれている。
「(三つのうち)一つは字塚田通にあり百姓傳八と云うものの住居の後にて高さ三四丈ばかりの塚なり 上に富士浅間を勧請し石の祠を立て裏に諏訪左近七世の孫小黒傳八と彫(?)れり 宝暦(1751~1764年)の頃造立せしものなり 故に土人、浅間塚と云う」

高さ3~4丈と言えば9~12mであり、もはやちょっとした小山である。さすがにそれは若干誇張されているようにも思えるが、削平される以前はそれくらい大きな古墳だったのかも知れない。

03 高津区諏訪浅間塚古墳

多摩川沿いの微高地に屹立する高さ12mの古墳・・・。できることならタイムマシンにでも乗って、是非この目で実際に見てみたいものである。


<諏訪天神塚古墳>
諏訪天神塚古墳は先ほどの諏訪浅間塚古墳から100mほど南にある。

この古墳については、新編武藏風土記稿では次のように記されている。
「(三つの塚のうち)今一つも同じ辺(字塚田通)にあり四五十坪許にてさまて(?)高からざる塚なり 上に天神の社あるゆえ土人天神塚とよべり」

諏訪天神塚古墳は平成17年に測量調査、平成18年~20年にかけて発掘調査され、川崎市市民ミュージアムから調査報告書「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」が発行されている。それによると、古墳は直径16.4mの円墳と考えられているが、墳丘は大きく削平されており、高さ1.5mほどの低い高まりが畑の中に残されているに過ぎない状態となっている。

04 高津区諏訪天神塚古墳

墳頂部には「渡唐天神」の石造が祀られており、そのすぐ脇の地中には破壊された石室の壁面が残されていたらしい。

05 高津区諏訪天神塚古墳

06 高津区諏訪天神塚古墳 墳頂の渡唐天神

周溝部分は戦後暫くの間は水田として利用されており、現在の畑地に転用するに際して埋め戻されているらしく、墳裾は削平・埋め戻しの結果、著しく損壊しているようである。

07 高津区諏訪天神塚古墳

発掘の結果、埋め戻された周溝の底部からの高さは3.9m以上あると推定されているようであり、削平された部分を加味すると、削平前の墳丘の高さは6m近くと推定され、「至近に残る諏訪浅間塚古墳同様、墳丘高の顕著な円墳が往時には存在したのであろう。」とされている。

至近距離に2基、小高い円墳が並んでいる光景があたかも目に浮かぶようである。

08 高津区諏訪地区の夕暮れ

気が付けば、住宅地でおっさんがひとり、遠い目をして道端にボーっと突っ立っている。
西に陽が傾いてきた。

(地図)
高津区地図②


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「諏訪天神塚古墳 多摩川低地の遺跡群研究」 2011年3月 川崎市市民ミュージアム
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ 加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/




2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(1)(神奈川県川崎市 二子塚古墳跡/北見方古墳跡(二子・諏訪古墳群))

低地古墳とか、微高地古墳という言葉は一般用語ではないかも知れないが、以前、川崎市中原区に点在する多摩川下流域の自然堤防上に残る古墳の痕跡を見て回った。
市街化の著しい多摩川下流域の平野部にあって今なお、往時の痕跡を留めている古墳はとても面白かった。
今日はその続編、という訳ではないが、幸い雨も降らなさそうなので、気分転換に中原区の上流に隣接する高津区の低地古墳を見に行きたいと思う。

高津区の北東部は多摩川に面しており、そのちょうど中ほど、厚木街道(大山街道)が二子橋で多摩川を渡っているあたりが二子地区、そこから下流に向かって諏訪地区、北見方地区と続く。この3地区にはいくつか現存するものを含め多くの古墳があり、それらは総称して「二子・諏訪古墳群」と呼ばれている。
まず最初に、二子地区にあった古墳跡から見に行ってみようと思う。


<二子塚古墳跡>
二子塚古墳は「二子」の地名の由来となった古墳で、大正時代までに削平されてしまったらしく、今となっては見ることはできないが、在りし日の姿が以下のとおり、新編武藏風土記稿に残されている。

「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり 其の一は塚の敷一段二十歩の徐地にて高さ五丈許 形丸く芝山にて樹木なし 故に土人坊主塚などいへり ・・・(中略)・・・一は少しく東の方ヘ寄てあり 徐地六畝廿九歩高さ二丈五尺あり 南の方少し欠けて上に若木の雑木生立り」

二つの塚が少し離れて並んでいたことから「二子塚」と呼ばれていて、塚の間を奥州古道が通っていた、とされる。明治39年の地図でも二つの塚が表記されており、塚の間ではないが、塚の脇をかすめて北方へと続く小路が描かれている。(明治39年の地図は今昔マップ on the webでも確認できる。)
これらの情報からすると、古墳は長さ60mほどの前方後円墳ではなかったか、と言われているらしく、川崎市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」では、昭和8年の地割図上で墳形を推定復元して掲載している。

01 二子塚古墳墳丘復元イメージ

絵心がないのでお寒い図で大変恐縮であるが、概ね上図のような位置関係であったようである。

後円部の輪郭を残していると思われる北側の小路(上図ではグレー表示となっている)は、唯一残る古墳の痕跡と言っていいのだろう、現在でも円弧を描いていて、円弧の内側、後円部があったと思われる部分は一部、空き地となっている。
無理をすれば、古墳があった頃を妄想できないこともないが、あいにく住宅地で人通りが多く、空き地を眺めて遠い目をしている不審なオッサンを皆、チラチラと横目で見ながら通り過ぎて行く。

02 二子塚古墳跡

二子塚古墳は消滅してしまったが、古墳があった場所のやや西(左)、細長い公園に「史蹟二子塚之碑」が立っている。

03 史蹟二子塚之碑

昭和43年に立てられた碑で、公園内にはこの他にもう一つ、見たところ見当たらないのだが、大正4年に立てられた「二子塚舊蹟」碑があるらしく、この碑の存在によって、少なくとも大正4年には既に「舊(旧)蹟」となっており、墳丘は姿を消していたことがわかるらしい。

古墳は大正の中頃に発掘されたと伝わり、勾玉や耳環、鈴釧(すずくしろ:周囲に複数の鈴のついた腕輪)などが出土、神奈川県庁に納められたとされるが、それらの所在は不明となっているようだ。ただし、鈴釧については写真が残っているらしく、周辺の古墳からの出土遺物との比較から、二子塚古墳の築造時期は6世紀前半頃と考えられているようである。

「史蹟二子塚之碑」の立つ公園の片隅では、川崎市内で昭和42年まで活躍していたトロリーバス(ポールで電線から電気を取り込んで走った電気バス)の実物が静かに余生を送っている。

04 史蹟二子塚之碑とトロリーバス

こういう余生の送り方は何だか羨ましい。

直感的で分かりやすい方向指示器の造形は現在でも十分、印象的である。

05 トロリーバス


<北見方古墳跡>
二子塚から府中街道を東へ350mほど進むと、右方向に旧道が直進で分岐していく。旧道を進むと、左手から道が再び合流してくる。合流してきた道は今通った旧道に代わってできた新道のようだが、現在の府中街道はさらに北方を通っている。
この古い新道と旧道との合流地点の北側に、明治39年の地図には塚のマークが見えており、川崎市市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」ではこれが「北見方古墳」であろう、としている。下の写真の瀟洒なマンションが建っているあたり、がそうだと思われる。

06 北見方古墳跡?(1)

直径16mほどの円墳であったようだが、現在では古墳の痕跡を感じるものは残されていない。
だが、そう思って見れば、考えすぎかも知れないが、道路が少し湾曲しているように見えなくも、ない。

07 北見方古墳跡?(1)

おそらく無関係なはずだと、心で思っているのだが、道路脇に大きな石が埋まっていて、気になる。

08 北見方古墳跡?(1)道路脇の石

この古墳は正確な位置はわかっていないようで、川崎市の遺跡地図 「ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム」では、ここから200mほど北にあるマンションの駐車場(下の写真中央付近)に古墳マーク(高津区遺跡No.145)が付してある。

09 北見方古墳跡?(2)

一部解読不能な文字があり恐縮だが、新編武藏風土記稿では以下のように記されている。

「古塚 村の北の方にあり田間に突出せり高さ七尺餘 敷の径六間許 何塚と云うことも傳へず中古里正掘りて平田を発(?)んとせしに古陶器井(?)に壺など出しかさま〇(?)証となすべき物なし古へ故ある人の葬地などにてもあるが今は上に石の地蔵を建」

当時、既に名前も伝わっておらず、開墾のため削平・縮小していたようであるから、正確な場所がわからなくなっているのも仕方がないことかも知れないが、塚上に石のお地蔵様が建っていたというのであれば、塚はなくなっても、お地蔵様は依然としてどこかに祀られているかも知れない。

そう思って周辺を歩いてみたが、平日の住宅街、カメラ片手にウロウロするのはどうにも憚られる。
仕方がないが、諦めて次なる古墳を見に行こうと思う。次は墳丘の現存する古墳であるが、長くなったので続きはまた次回。


(地図)
高津区地図①


(参考資料)
「新編武藏風土記稿」 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年 川崎市民ミュージアム
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21




2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(3)(岐阜県富加町 池下1号墳/閏田古墳(2号墳)/中障子2号墳)

今日は「夕田茶臼山古墳」など、富加町に残る3世紀前半築造の古墳を満喫したが、まだ少し時間がある。古墳に興味のない妻はもうすっかり飽き飽きしてしまったようなので、あちこち寄り道はできないが、親戚宅へ向かう道すがら、遠回りにならずに立ち寄れる範囲で、3世紀前半の築造ではないが、富加町内の他の古墳を見て行こうと思う。

「井高1号墳」のすぐ西の丘陵斜面には、墳形不明の「井高2号~4号墳」が分布していたようだが、古墳分布図では「滅失または損壊」となっている。少し北西には「大山車塚古墳」(円墳)が現存しているようだが、さらに北西には前方後円墳がもう1基、現存しているようである。少し遠回りになるが、ここに寄って行こう。

<池下1号墳>
井高1号墳のある滝田地区から山沿いに北西へ暫く走ると大山地区に至る。すぐ西には先ほど渡った川浦川が川下で合流する津保川が流れている。
地区のほぼ中央、大きな溜め池の北側に西公民館があり、公民館の駐車場と溜め池の境にひときわ小高い築山がある。これが「池下1号墳」である。
築造時期などは不明であるが、見たところ墳丘の長さは30mほどであろうか。駐車場の造成に際して、墳丘の北側は削平されたのだろう、築山の麓は玉石で壁が作られている。

01 富加町池下1号墳

西側の道路に近いところに古墳名が書かれた標柱が立てられている。

02 富加町池下1号墳

03 富加町池下1号墳

墳丘の南側には石段があり、上ってみると墳裾に三面多臂の馬頭観音像が数体、祀られている。

04 富加町池下1号墳

石仏の祀られているあたりから墳丘を見上げてみると、奥の方がやや高くなっているようである。

05 富加町池下1号墳

標柱が立っているあたりに踏み跡があったので、心の中で手を合わせつつ踏み跡から墳丘上に上らせてもらい、高くなっていた奥の方まで進むと、根元から何本かに枝分かれした、根っこの見事な巨木の根元に石塔が祀られていたので、合掌して非礼を詫びた。

06 富加町池下1号墳

巨木の前から西の方を見ると、段のようになった墳丘がやや細長く伸びている。
富加町教育委員会の古墳分布図では池下1号墳の主軸はほぼ東西を向いており、前方部は西向きに描かれているので、この巨木の生えている部分が後円部に当たるのかも知れない。

07 富加町池下1号墳

池下1号墳の道路を隔てた西隣、グラウンドがある辺りには「池下2号墳」があったようだが、古墳分布図では「消滅または損壊」となっている。


<閏田1号墳、中障子2号墳>
津保川を渡った向こう、西岸は大平賀地区であり、藤平神社という神社の周辺に「禰宜屋(ねぎや)古墳群」という群集墳があるようだが、方角が違うので諦めることにして、最後に津保川沿いの田圃の中にある「閏田古墳」を見て行こうと思う。

大平賀交差点の南に広がる、津保川と丘陵に挟まれた南北に細長い田圃の真ん中に、遠くから見てもすぐにそれとわかるような、こんもりとした墳丘が見えている。

08 富加町閏田1号墳

「閏田古墳」は直径20mの円墳で、以前は横穴式石室を持つ5~6基の古墳から成る古墳群で、「手をつけた者には祟りが起こる」という言い伝えがあったそうであるが開発で姿を消し、今ではこの1号墳のみ(2号墳?、郷土資料館展示ではもうひとつ現存?)となっているようだ。

09 富加町閏田1号墳

畦道を進み、山側まで行って振り返ると、こんもりとした墳丘の向こうにもうひとつ、小さな木立が見えているが、これはおそらく「中障子2号墳」ではないか、と思う。

10 富加町閏田1号墳、中障子2号墳

11 富加町中障子2号墳


見上げれば強い日差しを厚い雲が遮り、田圃を渡る風に秋の気配を感じた。

12 富加町閏田古墳上空

遠くで蜩(ひぐらし)が鳴いている。蜩の声を聞いたのは、いったい何年ぶりだろうか。

ここまで一日、古墳巡りに付き合って来た妻は、すっかり「電池切れ」の様子である。親戚宅に向かう前に、道の駅にでも寄って、冷たい甘味で「充電」していくことにしよう。


(地図)
富加町地図③


(参考資料)
「富加町詳細分布調査報告書」 2005年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/



2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(2)(岐阜県富加町 夕田茶臼山古墳/井高1号墳(火塚))

岐阜県富加町には3世紀前半に築造されたとされる前方後円墳が複数あるという。

2世紀半ばに起こった「倭国大乱」を治めるために女王として立った卑弥呼は、その後半世紀にわたって邪馬台国を統治、248年に亡くなったとされる。
「3世紀前半に作られた古墳」と言えば、卑弥呼が統治していた時代に邪馬台国を構成していた国々か、若しくはこれに敵対していたとされる狗奴国(くなこく)の首長の墳墓、という可能性があると言えるだろう。

(ちょっとそれって凄くない??)と朝、自宅を出てから今まで、ずーっと心の中で思っているのであるが、どういう訳か、ここまでは何となく悶々としている。

今日は郷土資料館とその近隣にある2基の古墳を回ってきたが、いずれも山林の中にあり、案内板などが整備されている訳ではないので、1基はすぐ近くまで接近できたものの、果たして「これがそれ?」といった感じであったし、もう1基は近づく方法すらわからなかった。
結果としてここまでは、大変遺憾ながら、正直、「あんまり面白くなーい」のであるが、いよいよ次は「夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳」である。こちらはだいぶ整備されているらしいので、これまでとは違うはずである。(いや、絶対に違うに違いない。)


<夕田茶臼山古墳>
蓮野古墳の南側の道を東へ向かい、山あいの道を北東へ進み、式内社である佐久太神社前を通る。
佐久太神社の周辺には3基の後期古墳(北野若しくは北洞1号~3号墳)が確認されているらしいが、悶々としていることもあり、脇目も振らず、まっすぐ夕田茶臼山古墳を目指す。

古墳への登り口前には広い駐車場が整備されており、古墳の解説板も設置されている。内容は郷土資料館の展示などと重複したものだが、やはり現地に解説板があると、高揚感が違う。

01 夕田茶臼山古墳現地解説板①

02 夕田茶臼山古墳現地解説板②

見学用に整備された急な階段で標高差27mを上っていくと、北向きに迫り出した丘の頂上いっぱいに、前方部をこちらに向けた墳丘が見えてきた。

03 夕田茶臼山古墳前方部より後円部

墳丘には、墳裾から墳頂まで緑色のシートのようなものが続いているので、この上を通って墳頂まで登っていい、ということだろう。墳頂にはベンチも設置されており、西側の眺望は清々しかった。

04 夕田茶臼山古墳後円部墳頂より西側眺望

発掘調査の結果、この古墳は、もともとの丘陵地形を生かしているが、築造に際していったん地山を削平した後、岩盤上に再び盛土で造成されたものと考えられているらしい。

05 夕田茶臼山古墳後円部より前方部

古墳の築造年代については、弥生時代末期の方形周溝墓から出土するのと同じタイプである、有孔短頸の赤彩直口壺が後円部から出土しているほか、高坏やS字状の口縁台の付いた甕の破片なども多数出土しており、後円部外縁に墓壙を作るため周堤状の盛土で土手を作っている点や、木棺を直葬している点など、弥生時代の方形周溝墓に見られる特徴が数多く認められることに加え、墳頂の底部から見つかった炭化した樹木と焼けた土を用いた炭素の年代測定結果(211年~255年若しくは137年~258年)から総合的に判断して、「3世紀前半」と判断されたそうである。
古墳時代前期の前方後円墳、というよりは、前方後円形の弥生周溝墓に近く、弥生から古墳時代への過渡期の前方後円墳ではないか、とされているようだ。

06 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

発掘調査以前は前方後方墳の可能性も考えられていたようだが、発掘調査の結果、歪な後円部と未発達で歪んだ前方部から成る前方後円墳であることが確認されたそうだ。

07 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

全長は39.5m、後円部直径24.5m、前方部長15m、前方部幅15.1m、前方部と後円部の比高差2.4m、葺石などはなく、主軸を南東に向けており、墳丘の高さが西側の方が1mほど低く作られていることなどから、西側から見ることを意識して築造されているのではないか、と考えられているらしい。

ようやく3基目で、「3世紀前半の古墳=それってやっぱり凄い!」を満喫することができ、朝からの悶々とした気分はすっかり解消された。
ただし、できればもうひとつだけ見ておきたい古墳がある。


<井高1号墳(火塚)>
来た道を戻り、再び蓮野古墳の前を通り過ぎる。役場前を北上し、川浦川を渡ると、正面に丘陵が迫って来る。
「井高1号墳」は、古くから「井高の火塚」と呼ばれ、滝田地区の田園地帯を望む丘陵裾にほぼ完全な形で残る一辺20m、高さ5mの方墳である。

08 富加町井高1号墳(火塚)遠景

09 富加町井高1号墳(火塚)解説板


言い伝えでは、大昔、この辺りに「火」が降って来た際、人々が身を隠したことから「火塚」と呼ばれているそうで、見事な横穴式の石室が開口している。

10 富加町井高1号墳(火塚)近景

11 富加町井高1号墳(火塚)石室近景

「火が降る」というのは火山の噴火か、若しくは中世の戦乱を指すのかも知れないが、いずれにしても大きな横穴式石室が生み出した伝承、ということであろう。

墳形については従来、上円下方墳とされていたらしいが、平成15年に南側道路に面したコーナー部分の墳裾が崩落、修景作業が行われた際の測量で、墳丘にいくつかのテラス状の段のような痕跡は認められたものの、上円形とされた上部にもコーナーと認められる部分が確認されたことから、現在は方墳と判定されている。

12 富加町井高1号墳(火塚)近景

なお、墳裾が崩落した際、内部から円形の礫が露出、表土を除去したところ列石が発見されたことから、築造当時は石葺きであったものと推察されているそうだ。


見学したいと思っていた古墳はこれで全て回れたが、まだ時刻は16時、まだ1時間ほど時間がある。
古墳にあまり興味のない妻は「いい加減グロッキー」な感じで助手席に座っている。さて、どうしたものか。

続きはまた次回。


(地図)
富加町地図②


(参考資料)
「古墳探訪」 富加町ホームページ http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/rekishi/kohun_tanbou.html
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳埋蔵文化財周知パンフレット」 富加町教育委員会
「富加町内遺跡発掘調査報告書(平成14~17年度)」 2006年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。