2017/04/27

江戸名所図会に見える「胴塚」を探して(高倉20号墳/山王塚跡(4-C)/浅間神社(4-H))

「江戸名所図会」の「分倍河原 陣街道」の挿絵に描かれている3つ目の塚、「胴塚」は、その所在がわからなくなっているようである。位置的に可能性がありそうな6基の古墳のうち、今回は「高倉20号墳」と「山王塚」を実際に見に行ってみようと思う。

<高倉20号墳>
30基ほどの古墳から成る高倉古墳群の中で最も北に位置する古墳で、府中崖線から300mほど離れたところに墳丘が現存している。
南側のマンション建設の際に内径18.8m、溝幅4.3mの周溝の南側の一部が確認されており、調査時の写真を見る限り、現在遺存している墳丘は全体の中央部分であると思われ、地下に主体部が残されている可能性も考えられているようだ。

01 高倉20号墳 南から

残存している墳丘は物流会社の敷地内にあるが、会社の方に許可を頂き、近くから見学させて頂いた。

02 高倉20号墳 北から

「多摩地区所在古墳確認調査報告書」によると高さは1.4m、直径は不明だが7~8mほどあるだろうか、南側はフェンスで切断されるように区切られており、墳丘は半円状になっている。
墳丘上には河原石が円形に並べられていて、石碑なども建てられている。以前は鳥居があったのか、鳥居の基礎のようなものも残されている。よく見ると地表に注連縄が見えている。

03 高倉20号墳 墳丘

もともとの大きさからするとかなり小さくなってしまっているようではあるが、それでも千数百年の風雪や開発の波に耐え、辛うじてその姿を留めている。すぐ南にあったはずの高倉21号墳は消滅してしまったが、二つ並んだ古墳の命運を分けたものは、一体何だったのだろうか。


<山王塚跡(遺跡番号4-C)>
「東京都遺跡地図情報」では南武線の線路よりも南、府中崖線ギリギリのところに「遺跡番号4-C」として古墳マークがあり、1995年出版の「多摩地区所在古墳確認調査報告書」でも「墳丘:残存」とされていて、「長方形に柵で囲われた土地の中に径約13m(東西8.9m×南北15.0m)、高さ約1.5mの墳丘があり、その東側墳丘上に祠が祀られている。」とあるが、現地には墳丘らしいものは見当たらない。

04 府中山王塚(4-C)跡

「日枝神社」の祠が祀られている敷地が30cmほど高くなっているので、ここが墳丘の名残なのではないか、と思う。

05 府中山王塚(4-C)跡

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で少し昔の航空写真を見てみたところ、1979年12月に撮影されたものでは、写真のちょうど真ん中が現在の日枝神社の祠があるあたりであるが、丸く墳丘のようなものが見えている。

1979年12月撮影(CKT791-C26-29の該当部分を拡大)
06 CKT791-C26-29(拡大)


<浅間神社(遺跡番号4-H)>
最後に、陣街道から高倉20号墳への入り口、浅間横丁の南にある浅間神社に立ち寄ってみた。

07 府中春日神社(4-H)

「東京都遺跡地図情報」によれば、ここにも「遺跡番号4-H」と呼ばれる古墳があったとされる。確かに社殿の基壇が階段3段分ほど高くなっており、それらしい雰囲気は残っている。

08 府中春日神社(4-H)

09 府中春日神社(4-H)

この辺りは古くは「屋敷分」と呼ばれた集落であったようで、府中市内で最も古い延宝2年(1674年)の庚申塔が保存されている。

10 府中屋敷分庚申塔

他にも、明治時代の市内の古い字名を記した案内板などもあって、「大道北」、「大道南」など、古代官道の痕跡とされる地名なども見えて非常に興味深い。

11 府中春日神社 明治時代の字名


結局、「胴塚」の所在に繋がる手がかりを見つけるには至らなかった。が、それはそれでいいのである。あれやこれやと思いを巡らせ(ぶつぶつ呟き?)ながら、気ままに歩き回るのが楽しいのである。
積み重なった歴史の重みというか、余韻というか、そういった空気を味わえることが楽しいのである。

とは言え、改めて考えてみると、「ドウヅカ」は、最初の子音を省くと「オウヅカ」となるではないか。
「大塚(遺跡番号4-K)」はだいぶ大きな円墳だったようだし、「江戸名所図会」の挿絵の位置関係からしても「大塚」が「胴塚」なのではなかったか、と思ったりする。
素人の思い付き、妄想に過ぎないのであるが、この妄想の時間が、また楽しいのである。


(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
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2017/04/27

中世の戦の伝承の残る塚(東京 首塚/胴塚)

前回に引き続き、今回も「江戸名所図会」に見える府中市の古墳を巡ろうと思う。

「江戸名所図会」の「分倍河原」の項では、このあたりの古墳について、「正慶二年の夏 新田義貞朝臣 鎌倉勢と合戦ありし地にして 其時討死せし人の墓あり 土人 首塚 胴塚など称へて今猶此処の田間に存す」として、鎌倉攻めの戦死者を葬った塚という伝承が紹介されている。

日本では戦の論功行賞を討ち取った相手の身体の一部で行っていたためだろう、こうした伝承を持つ塚や古墳は全国に数多く、著名なものでは東京にある将門塚、京都にある秀吉の耳塚などがある。
「分倍河原 陣街道」の挿絵に描かれている「首塚」、「胴塚」も、こうした伝承を持つ塚のひとつである。

02_江戸名所図会(首塚 部分)

<首塚>
陣街道の東側、八雲神社から北東に300mほどの住宅街、周囲の道路より腰の高さほど高くなった場所に稲荷社が祀られている。

03_府中首塚(東から)

墳丘は「多摩地区所在古墳確認調査報告書」では直径10m、高さ2mの円墳とされているが、現状の大きさは東西10m、南北4.5mで、高さ80cmほどのコンクリートブロックで周囲を巻かれている。

04_府中首塚(南東から)

墳丘にあった大きな欅の木は伐採されてしまったようだが、欅の木の根元に見られる50cmほどの高まりはそのまま残されている。

05_府中首塚墳丘

「江戸名所図会」に描かれた、樹々の生い茂るこんもりと大きな墳丘は大半が失われ、ごく一部が残されているのみであるが、貴重な文化財であるのだから、もっとその存在を主張してもよかろうに、と思うけれど、所有者の方からするとそれはそれで色々と大変なのかも知れない。

06_府中首塚南西から


<胴塚>
「江戸名所図会」では、天王塚、首塚と、もうひとつ「胴塚」という名の塚が描かれている。

07_江戸名所図会(胴塚部分拡大)

形や大きさは「耳塚」と同じくらいだろうか、位置は天王塚の左(西)に描かれているが、この「胴塚」は現在、所在がわからなくなっているようである。
天王塚から西の方向にある古墳としては、「東京都遺跡地図情報」では6基ある。北から順に、「高倉20号墳」、「高倉21号墳」、「耳塚(2基、遺跡番号4-I)」、「大塚(遺跡番号4-K)」、「山王塚(遺跡番号4-C)」である。

このうち、「高倉21号墳」は開発に先立つ調査で周溝の一部が発見されたが墳丘は削平され残っていない。

「耳塚」はかつてこの辺りに2基並んで存在したという伝承のあるもので、正確な所在地は不明のようだ。
浅間神社の北側を東西に走る浅間横丁と呼ばれる道の案内版に「道筋は耳塚辺りまでだったが、昭和41年に清水坂道(七生道)まで延長」とあり、「東京都遺跡地図情報」では「耳塚」はこの道を挟んで北と南にあったとされているが、「古墳なう」さんのブログによると、高倉20号墳と21号墳がこの「耳塚」ではないか、とされているらしい。

08_府中浅間横丁現地解説

「大塚」は、「多摩地区所在古墳確認調査報告書」の出版された1995年当時は「墳丘:一部残存」とされているものの、現在では痕跡が確認できなくなっているようだ。
国土地理院のウェブサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で昔の航空写真を見て見ると、戦後、米軍が撮影した写真に、建物のようにも見えるが、もしかすると大塚ではないかと思われる影が映っている。

1948年3月撮影(USA-M871-23の該当部分を拡大)
09_USA-M871-23(拡大)
中央下の大きな森が天王塚の森、中央が浅間神社、上右に首塚、上左に高倉20号墳、その下の天王塚からの道がカーブした先に写っている黒い部分が大塚? どことなく目、鼻、口で顔のようにも見える。


ということで、残る2つ、高倉20号墳と、山王塚(4-C)を見に行こうと思うが、長くなったので続きは次回。


(参考資料)
「名所江戸図会」 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559049?tocOpened=1
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
2017/04/27

江戸名所図会の天王森と元応の板碑(東京 天王塚(高倉29号墳))

天保年間に刊行された「江戸名所図会」に「分倍河原 陣街道」という挿絵がある。府中市西部、多摩川左岸の「分倍河原」は元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めの際、迎え撃つ北条方との間で激しい戦いが行われた場所で、古来、戦で亡くなった戦死者の墓と伝わる塚が多く残されていた土地であったらしい。

01 江戸名所図会 「分倍河原 陣街道」


中央に描かれているのは旧鎌倉街道上道、別名「陣街道」で、今日では中河原駅前から「分倍河原古戦場碑」横を通り、分梅駐在所前で府中崖線(このあたりでは「ハケ」と呼ぶ)に突き当たっている。現在の道路はハケを避けるように、崖下を府中本町方面へ向かうが、旧道はそのまま光明院横の急な上り坂で府中崖線をまっすぐ北に登っていく。
崖を登った先、立川段丘上には約30基から成る高倉古墳群が街道の東西に密集している。今日はこのうち「江戸名所図会」にも描かれている古墳をいくつか回ってみようと思う。

<天王塚(高倉29号墳)>
名所図会のほぼ中央に描かれているのが、牛頭天王を祀る天王宮八雲神社の杜で、図会では「天王森」と書かれている。社は描かれておらず、小山のように盛り上がった丘の上に紙垂のついた注連縄の張られた石碑が描かれている。

02 江戸名所図会 「分倍河原 陣街道」(天王森部分拡大)

この石碑は現在でも神社脇にあり、元応元年(1319年)に建てられたことから「元応の板碑」と呼ばれている。

03 元応板碑(複製)

平成24年に道路の拡幅工事で板碑の根元の土地を削る必要が生じ、風化による痛みも見られていたため、板碑は保護のため郷土の森博物館に移設されており、現在ここにあるものは複製だそうだ。以前は傍らの樫の木に抱き込まれるように立っていたそうだ。樫の木は既に枯れて上部を失っていたものの、木が抱き込んだそのままの形で保存できないか議論されたようだが、石碑を外す際に残念ながら木は壊さざるを得なかったそうだ。
700年という歳月の迫力を是非、実物で見てみたかったものである。(樫の木の樹齢は150年ほどであったそうだが。)

04 元応板碑(写真)

歴史が濃い地域だけに、なかなか古墳に辿り着かないが、八雲神社の社殿後方にひっそりと残されているのが高倉29号墳、天王塚である。

05 天王宮八雲神社

06 府中天王塚遠景

神社の解説板によると築造は「6世紀後期」とのことであるが、これまでに調査はされていないようである。

07 府中天王塚近景

「多摩地区所在古墳調査報告書」によると、墳丘は東西14.5m、南北14mで高さは2m、墳形は円墳か方墳か確認できていないようだ。

08 府中天王塚墳丘

09 府中天王塚(北から)

天王の森には深遠とした空気が満ちていた。

10 天王森


(参考資料)
「新訂 江戸名所図会 巻之三 天璣之部」 1996年11月 ちくま学芸文庫
「江戸名所図会 分倍河原 陣街道」 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559049?tocOpened=1
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
2017/04/25

「神の庭」の前方後円墳(神奈川 蟹ヶ谷古墳群)

明津水塚の跡地から南の方角を見ると小高い丘が目に入る。古多摩川によって削られた多摩丘陵の最西端部の段丘で、丘の上は神庭緑地と呼ばれる緑地公園になっている。

01 神庭緑地

02 神庭緑地

30mほど標高差のある崖には階段がつけられていて、頂上の神庭緑地まで上っていける。途中、多摩川低地を見下ろす眺望は遮るものもなく、絶景だ。

03 神庭緑地へ上る階段より

頂上は雑木林に囲まれた広場のようになっていて、北側の崖の縁に沿って3基の古墳が並んでいる。

04 神庭緑地


<2号墳>
台地の突端寄り、最も北西にあるのが2号墳で、現存している墳丘は直径13mの円墳である。

05 蟹ヶ谷古墳群2号墳

調査の結果、現在の墳裾から3m外側で築造時の墳裾が確認されたことから、もともとの規模は直径20mほどあったものと推定されている。

06 蟹ヶ谷古墳群2号墳


<1号墳>
2号墳から40mほど東にある前方後円墳で、墳丘が現存する前方後円墳としては川崎市内で唯一のものとされる。

07 蟹ヶ谷古墳群1号墳

神庭緑地の案内板には円墳と記載されているとおり、当初は1号墳も円墳だと思われていたが、東側の草叢から墳丘が発見され話題となったそうだ。現存する墳長は27mであるが、後円部西側は墳裾が削平されていると思われることから、当初は30m以上あったものとされている。
下草でやや見づらいが、下の写真では左側が後円部、右に続く墳丘が前方部である。

09 蟹ヶ谷古墳群1号墳


前方部側面に沿って直線的に続く溝が一条発掘されたが、幅が狭いことから「周溝」とは断定されていないらしく、「墳丘を区画する溝?」とされている。

10 蟹ヶ谷古墳群1号墳


<3号墳>
最も東側、3基の中では最も標高の高い場所に築かれており、現存墳丘は東西11m、南北9mの円墳とされる。

11 蟹ヶ谷古墳群3号墳

2号墳同様、離れた場所から「溝」が見つかったことから、築造時は直径18mほどあったものと推定されている。

12 蟹ヶ谷古墳群3号墳


このあたりは古くは「神庭(カニワ)村」と呼ばれたらしく、古墳名にもなっている地名の「蟹ヶ谷(カニガヤ)」は、この「カニワ」が転訛したものと言われているらしい。「谷戸めぐり」というベリリウム榊さんのブログによれば、「カニ」には「曲がった谷」や「崩落地」の意味もあるそうだ。
「蟹ヶ谷」も「神庭」も、谷と台地が複雑に入り組んだこのあたりの地形を表す、とても趣深い地名だと思う。


(参考資料)
「蟹ヶ谷古墳群現地見学会資料」 平成28年3月/平成27年3月 蟹ヶ谷古墳群発掘調査委員会/川崎市教育委員会
「谷戸めぐり」 http://yato.no-mania.com/
2017/04/25

多摩川右岸 微高地の低地古墳(6)(神奈川 明津水塚跡)

「川崎誌考」という本は昭和2年に出版されたもので、古多摩川の流路の変遷を貝塚の分布や地名、伝承などから読み解いていて大変に興味深い。著者はハリストス正教会の伝教者から新聞記者となった山田蔵太郎という人物であるが、彼は考古学にも造詣が深かったらしく、今日では消滅してしまった川崎市内の貝塚や古墳などの状況に関する観察記録や現地写真などが残されており、とても貴重な記録であるといえよう。

最近はあまり遠出する時間がなかったので、専らこの本に載っている川崎市内の微高地古墳を回ってきたが、今日もやはりこの本に載っている「明津の水塚」という古墳を探してみたい。

明津の水塚について、「川崎誌考」には1枚の不鮮明な写真と、以下のような記述がある。
「明津の土地は多摩川の南流路と矢上川とが落合ふ洲先に當り(略)、新編武藏風土記の傳ふるところに依ると、此の塚は如何なる出水にも水に浸さるること無きが故に、土民之を水塚と唱ふとある。此の塚も或る部分は既に崩されて原形よりは小さくなったと思はれる。(略)」

「ガイドマップかわさき」では、「明津の水塚」と思われる古墳マークが橘公園の南、矢上川右岸の住宅地についている。明治時代の地図を見ると、戦後、直線状に改修される以前の矢上川は現在よりも少し南寄り、今の蟹ヶ谷保育園の南側の崖下を流れていたようである。よく見ると、「ガイドマップかわさき」とちょうど同じと思われる地点に塚のマークがあるのがわかる。戦後の航空写真で見ても、1960年代初頭までは、丸い墳丘状の地形が確認できるが、その後は宅地となってしまったようで、残念ながら墳丘は残されていないようであった。

現地へ行って見たが、現在は駐車場になっていて、古墳の痕跡は全く残っていないようであった。ただ、地盤が50cmほど高くなっているのは微高地の名残だろうか。

明津水塚古墳跡

河川改修で水害の危険も減り、水塚としての役割も終えた古墳は削平されてしまったようである。昔ここに「明津の水塚」という名前の古墳があったことも、だんだんと忘れられていくのだろう。

明津付近の矢上川


(参考資料)
「川崎誌考」 山田蔵太郎著 国書刊行会
「ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム」 川崎市 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

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