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2018/06/09

国引き神話と見返りの鹿(島根県松江市 八雲立つ風土記の丘展示学習館/岡田山古墳群)

西谷の丘周辺の四隅突出型墳丘墓を見学した後、出雲市を後に宍道湖南岸を40kmほど西へ移動して松江市に入った。次の目的地は意宇(オウ)平野にある「八雲立つ風土記の丘」である。

弥生時代後期、出雲地方には東西に二つのクニがあったことは前回触れたとおりである。東西のクニはそれぞれ島根県内で最も大きな平野部に発展し、西のクニは出雲平野の西谷の丘、東のクニは安来平野の荒島周辺を中心として、相互に自立した状態で併存していたと考えられている。
ところが、倭国大乱と言われる激動の時代を経て古墳時代に入ると、東西それぞれの政治的な中心地は移動することになる。西の出雲平野では西谷の丘から2kmほど北西、中央から派遣された日置氏の墓とされる今市大念寺古墳の周辺が中心となった一方、東は安来平野ではなく、この意宇(オウ)平野に勢力の中心が移ったようだ。

出雲国風土記には、記紀には見えない独特の神話として「国引き神話」があり、意宇の地名の由来が語られている。登場するのは「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコト)」で、一説には大国主命はこの神の孫だそうであるが、この神が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と新羅や隠岐、越の国などから余った土地を手繰り寄せた後、持っていた御杖を衝き立てて「意恵(オヱ)」と仰ったことから「意宇(オウ)」と名付けられた、とされる。「オヱ」は感動詞だそうだが、「終えた」という意味であろうか。平野のほぼ中央、国府跡の北東に御杖を衝き立てた址とされる「意宇の杜」の伝承地が今でもあるらしい。

ところで八雲立つ風土記の丘の展示資料館であるが、「見返りの鹿」という芸術的な埴輪や、「額田部臣」の銘文の入った大刀などが展示されていて見ごたえがある。

01_八雲立つ風土記の丘「見返りの鹿」

展示も充実しているが、敷地内には他にも竪穴式住居が何棟か復元されているほか、岡田山1号墳、2号墳があり、これらは岡田山古墳群と呼ばれている。
展示資料館を出て北方に進むと、右手前方に岡田山2号墳の大きな墳丘が見えてくる。

02_岡田山2号墳遠景

直径43m、高さ6.5mの円墳で、発掘調査はされていないらしいが、段築・葺石の痕跡や円筒埴輪が認められる、とある。

03_岡田山2号墳解説板

04 岡田山2号墳近景

さらに進むと、一段高くなったうえに、岡田山1号墳の前方部が見えて来る。

05_岡田山1号墳遠景

全長24m、葺石・二段築成の前方後方墳であるが、築造は6世紀後半とされている。

p6 岡田山1号墳解説板

07_岡田山1号墳近景

右側が前方部、左が後方部で、前方部と後方部の高さはほとんど同じぐらいに見える。
後方部には横穴式の石室があり、ちょうど解説員の方がいらっしゃったので幸いなことに石室の中に案内してもらえたが、私は古墳好きのくせに石室内へ入るのはできれば遠慮したいタチである。少し拝見しただけで早々に退散してしまったが、石室内には家形石棺も残り、石室側壁は斜めに立ち上がる持ち送り式、柱石を持つ両袖式であることから、九州地方の古墳石室との類似性が見られるのだそうだ。

08_岡田山1号墳石室

09_岡田山1号墳石室解説板

意宇平野は奈良時代になると出雲国府が置かれ、名実ともに出雲地方の政治的な中心となったが、実はそれよりも以前、5世紀頃、既に意宇川の流路が人為的に付け替えられる等、灌漑による水田開発が行われていた可能性があるのだそうだ。
出雲国府跡の発掘調査では、奈良時代の建物群跡の下から5世紀代の大規模な方形区画が発見されていて、これは当時の首長の居館跡ではないか、考えられている。

ところで、日本書紀では仁徳天皇の即位前記に、出雲臣の祖であるとされる淤宇宿禰(オウノスクネ)が天皇の命により朝鮮半島を往来する伝承が記載されている。

当時、この地を治めていた淤宇氏が、半島との交流から関係を深め、半島勢力から伝えられた水利・土木技術を利用して意宇平野の灌漑事業を行うことで力を蓄え、やがては出雲全体の掌握に至ったのではないか、とも考えられるらしい。

そして、それとほぼ時を同じくするかのように、意宇平野周辺の丘陵上には小型方墳の古式群集墳が多数出現することになる。意宇平野南部の大草丘陵には、東百塚山古墳群、西百塚山古墳群を始めとする200基以上の群集墳が密集しているのだそうだ。
これらは、灌漑事業による急激な人口増加に加えて、支配首長層の階層分化が進んだことで、この時代になると有力な農民層でも自らの墳墓として古墳を造ることができるようになったことを物語っているのだそうだ。

次回は意宇平野北部の山代地区に、日本最大級の前方後方墳を見に行こうと思う。

<投稿 2019.11.10>

(参考資料)
「出雲国風土記 全訳注」 2018年3月 荻原千鶴氏 講談社学術文庫
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「前方後方墳の謎」 2007年10月 植田文雄氏 学生社






2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(3)(島根県出雲市 西谷9号墓)

前回に引き続き、出雲市の西谷墳墓群を見学している。

丘上の史跡公園を見学し終えてクルマに戻り、2~3分走って300mほど離れた三谷神社へ向かう。墳墓群最大の四隅突出型墳丘墓とされる9号墓は、そっくりそのまま三谷神社の境内になっている。

01 三谷神社

神社のある丘の麓の駐車場にクルマを停めて、石段を上がると、いったん石段が切れてテラスのようなところに鳥居が立っている。丘の斜面の傾斜がここから変わっているように見えるので、どうやらここから上が墳丘墓のようだ。

02 神社石段途中の鳥居

9号墓は4代目、弥生時代最後の出雲王墓とされ、東西62m、南北55m、高さ5mと、墳丘規模が西谷の丘上にある先代の3基よりも大きいだけでなく、墳裾を取り巻く石列が3列になっていることに加え、先代3基とは離れた別の丘に築造されている等、歴代の王墓とは何らか異なる意図、例えば従来よりも強大な権力の誇示等、これまでとは異なる「別格」の王墓として築かれたのではないか、とされている。

史跡に指定されているとは言え、ここは神社の境内であるから、史蹟としての整備は特段なされていないようで、墳丘は周囲をぐるりと生い茂った木々に囲まれているので、全容を眺めることはなかなか難しそうである。

03 神社境内

04 墳丘(上から)

境内の由緒書によれば、三谷神社の祭神は健磐龍命(タケイワタツノミコト、別名「阿蘇都彦命」(アソツヒコノミコト)=阿蘇神社の祭神とされる神)だそうだ。南北朝・室町時代に紀州熊野から奉遷され、当初は現在地より1kmほど南の「元権現」という場所に祀られたが、戦国時代、さらに南の「三谷山」に遷座、昭和36年に大雨で社地が崩れたため、翌年この地に再び遷座されたのだという。
当時はまだこの丘が弥生時代の墳丘墓であることは知られていなかったが、西谷の丘の調査が進むにつれて、この地も重要な遺跡であることが判明したものの、民有地であったことから西側斜面に社務所が新設される等、遺跡としての景観維持が必要となり、平成12年に新たに史跡指定に組み入れられたそうだ。

05 墳丘(下から)

06 9号墓遠望

出雲地方には東西二つの「クニ」があった、とされており、西の「クニ」はここ、西谷の丘周辺に、東の「クニ」は安来市の荒島周辺にあったものと考えられているようだ。
東にあったもうひとつの「クニ」の中心、安来市の荒島墳墓群でも、弥生時代後期後葉の築造とされる大型の四隅突出型墳丘墓が複数確認されており、西谷の丘と同一の(あるいは類似した)墳墓祭祀の文化を有していたと考えられる一方、墳丘規模と墳裾配石列の関係に相違が見られること等から、東西二つの「クニ」はそれぞれ別個の「クニ」として、相互に自立した状態で並存していたのではないか、と考えられているようだ。

出雲地方で四隅突出型墳丘墓が作られたのと同じ時期、吉備地方南部では「楯築(たてつき)墳丘墓」という双方中円型(円形の墳丘墓の前後二方向に長方形の突出部を持つ)で全長72mもある巨大墳丘墓が築造され、他方、丹後地方では「赤坂今井墳丘墓」という長径が40m以上もある長方形の方形台状墳丘墓が築かれ、さらに東海地方では前方後方形の弥生墳丘墓が複数確認されていることなどから、弥生時代後期後半という時代は、列島各地でそれぞれ独特な形状の墳丘墓を築く祭祀文化を有する「クニ」が存在していたと考えることもできるらしい。
これらの巨大墳丘墓に葬られたのは各地の「王」であって、所謂「魏志倭人伝」に記述された「倭国大いに乱れる」という状態は、諸説あるようだが、こうした「クニグニ」が、何らかの理由で頻繁に衝突を繰り返さざるを得ない緊張状態に陥った、ということのようである。

この時代、西谷の丘だけでなく、安来市の荒島墳墓群でも墳丘墓の急激な巨大化が見られるほか、吉備や丹後地方でも確認されている墳丘墓の規模は弥生時代後期後半、突如として巨大化しているようだ。
外敵との対外的な緊張関係が高まった結果、それぞれの「クニ」では結束力が強まり、強力なリーダーシップを持つ強大な「王」が出現、王墓も巨大化した、と考えられるようである。
何か現代に通じるものがあるような気がするのは気のせいか。

いずれにせよ、弥生時代後期に各地で独自の発展を見せ、弥生時代末期に突如巨大化した出雲王や吉備、丹後の王たちの墳墓は、時代が弥生から古墳時代に移ると同時に何故か急速に独自性を失い、各地とも次第に定型化された「古墳」祭祀に収斂していく。出雲地方でも独特の造形を持った四隅突出型墳丘墓は、三谷神社の9号墓を最後に姿を消してしまう。

出雲の覇権を握っていた弥生出雲王たちに一体何が起こり、その後、彼らはどのような運命を辿ったのだろう。

西谷墳墓群の周辺は、前回も触れたように古墳時代末期まで連綿と墓域として使用され、多くの古墳が築造されているが、それらの古墳はいずれも20m前後の小型の古墳であって、しかも墳形は方墳が大半を占めている。このことから、弥生時代末期、一辺が60mにも及ぶような大型の四隅突出型墳丘墓を築いた出雲西部の「クニ」はその後、古墳時代に入る前に断絶ないしは没落してしまったのではないか、と考えられるようだ。
出雲西部ではその後、斐伊川を遡った中流域に神原神社古墳(方墳)や松本1号・3号墳(前方後方墳)などが築造されるようになることから、政治的な中心は西谷の丘周辺から斐伊川中流域に移動したのではないか、と考えられるようだ。
(一説には、出雲王朝はヤマト王権による倭国統一に北九州や吉備の勢力とともに参画した、ともされるようであるが。)

他方、出雲東部の荒島墳墓群の周辺では、大成古墳、造山1号墳など、立派な竪穴式石槨を有する上に三角縁神獣鏡が副葬された初期古墳の築造が見られることから、出雲東部の「クニ」は弥生時代末期の動乱を乗り切り、古墳時代になってもなお、その勢力を維持していたとも考えられるようだ。ただし、出雲東部の初期/前期古墳は、大型ではあるがいずれも方墳であることから、「クニ」としての統治権は維持したものの、その地位は前方後円墳の築造が許されるような身分としてではなかったようだ。

古事記には斐伊川のほとりで出雲タケルがヤマトタケルに誅殺される、という話があるが、日本書紀にも崇神天皇60年(紀元前38年)、出雲振根(イズモフリネ)が筑紫を訪れている間に、天皇から神宝を見せるよう要求された弟の飯入根(イイイリネ)がこれを朝廷に献上してしまったため、怒った出雲振根が飯入根を「止屋(ヤムヤ)の淵」(=現在の「塩谷(エンヤ)」)で誅殺、これを受けた朝廷側が吉備津彦(キビツヒコ)らを差し向けて出雲振根を征討した、というよく似た話が載っている。「塩谷」は西谷の丘からわずか2~3kmほどのところであり、これらの伝承は西谷の出雲王権がヤマト王権によって滅ぼされたという遠い時代の記憶を今に伝えるものではないか、と考える説があるようだ。

ふむふむ、なるほど、そうかそうか、と思っていたが、記事を書いている最中、Amazonからのお薦めを頂き、梅原猛という作家の「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」という本を買って読んでみた。
そこでは出雲弥生王権の最期は、古事記に見える大国主命の「国譲り神話」である、とされていた。
天照大神の直系で日向国から南九州一帯を支配し、次第に勢力を蓄えた天孫族が大軍を従えて東征、西日本全体を戦乱状態に陥れた結果、各地の豪族たちは拠点集落を高地に移して防御を固めたが抗い切れず、徐々に天孫勢力に降伏、やがて、天照大神の弟であるスサノオの娘婿で、いわば親族に当たる出雲の大国主命に国譲りを迫ったものと考えられる、という見解であった。
一方で、時代の下る出雲タケル(大国主命の17代後の子孫)の伝承は、越(高志=北陸)など広域にわたる支配権を国譲りで返上したものの、その後も出雲西部に限って支配権を維持した大国主命の末裔が、後年になって再びヤマトと対立し、滅ぼされたものではないか、と書かれていた。

事の真偽は専門家の皆さんの議論にお任せする以外にないけれど、出雲の地を旅してみて、素人なりに色々と感じるところもあった。
ここから先は私の勝手な妄想、根拠も何もない戯言である。

遥か昔、稲佐の浜で国譲りを迫られた大国主命は、その判断を二人の息子に委ねたが、聡明で思慮深く、恐らくは平和主義者だったであろう大国主命は、稲佐の浜を埋め尽くす夥しい天孫族の大軍を目前に、数多の犠牲を出さざるを得ない無益な戦いを避け、自らは神となってこの国の行く末を永遠に見守る、そういう選択をせざるを得なかったのではないだろうか。
事代主命(コトシロヌシノミコト)はそうした父の判断に従い、同じく出雲国の安泰を祈りながら自ら青柴垣に隠れたが、勇猛果敢だった建御名方命(タケミナカタノミコト)は諦め切れず最後まで抵抗を続け、遠く諏訪湖まで転戦、敗退した後、同じく諏訪大社に祀られることを条件に降伏したのではなかったか。諏訪大社の万治の石仏はもしかすると後世になって、諏訪の民衆が建御名方命の姿を刻んだものではないか。
親族関係にあった大国主命から力ずくで国を奪い取ったヤマト王権側は、覇権を争った大国主命一族の祟りを大いに恐れ、巨大な神殿を建て、大国主命の御霊を永遠に祀ったのではなかったか。

昨日訪れた稲佐の浜は梅雨時で鉛色の厚い雲に覆われ、湿った海風が時折強く吹いていた。
遠い昔、大国主命が国譲りを迫られたその日、空はやはり厚い雲で覆われていたのだろうか。その時、遥か神話の時代、天孫族が下りてきたというその空を、大国主命は一体どのような気持ちで見上げたのだろうか。

昨日見た稲佐の浜の風景を起こい起こしながら、そんなことを思った。

<投稿 2019.10.10>

(参考資料)
「市民の考古学5 倭国大乱と日本海」 2008年10月 甘粕健氏編 同成社
「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」 2019年4月 梅原猛氏著 新潮文庫
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版
「シリーズ遺跡を学ぶ123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」 2018年2月 渡辺貞幸氏 新泉社
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社




2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(2)(島根県出雲市 西谷墳墓群史跡公園)

出雲弥生の森博物館の展示を見た後は、いよいよ四隅突出型墳丘墓の実物を見に行こうと思う。

四隅突出型墳丘墓は博物館のすぐ西側、西谷の丘の上にある。
西谷の丘は比高差20mほどの高台で、東に斐伊川を望む眺望のよい場所である。台地の西側は切り拓かれて学校などになっているが、墳丘墓群の見つかった東側一帯は史跡公園として整備されている。
墳丘墓は丘上に南北に並んでおり、北から順に1号墓、2号墓・・・となっている。

01 墳丘墓分布図(博物館パンフレットより)
墳丘墓分布図(博物館パンフレットより拝借)

この丘上には、大型の四隅突出型墳丘墓が3基、小型のものが2基と、少し離れた神社境内に大型のものが1基確認されており、これら大型の墳丘墓は歴代の弥生出雲王の墳墓とされている。行ったことはないので勝手な妄想ではあるが、どことなくエジプトの王家の谷を連想してしまう。
この一帯は、弥生時代末期に四隅突出型墳丘墓が作られた後も、引き続き墓域として連綿と使用され続けたらしく、周辺では古墳時代の円墳や方墳なども数多く確認されているようだ。

02 現地解説板

博物館横には古墳時代末期の横穴墓も見えている。

03 横穴墓群 第3支群

できれば全てをつぶさに見て回りたいけれど、残念だがそこまでの時間はないので、四隅突出型墳丘墓に絞って順番に見て回ろうと思う。

博物館前の坂道から丘陵上に上ると、木立の向こうに最南端、小型の6号墓が見えてきた。

04 6号墓(北から)

柵が載っているマウンドがそうであろうか。

05 6号墓解説板

06 6号墓(南から)
南側から。手前左の赤土部分が残存する突出部?

四隅のうち一隅だけが残っているようだが、墳墓脇の解説板と見比べてもどうも判然としない。築造されてから幾星霜、1800年以上経っているのだから、部分的に残っているだけでも、もはや奇跡ではある。6号墓の墳丘は東西16m、南北は8m以上、高さ2.5mで墳裾の配石は1列、弥生時代終末期の築造とされている。

丘上を北に向かうと5号墳がある。
5号墳はパンフレットでは「墳」とされていて、弥生時代の墳丘墓でなく古墳時代の古墳のようだが、現地の解説板の表示は「5号墓」で、「築造時期は不明」となっている。かつては前方後方形と考えられた時期もあったようだが、22m × 17m前後の長方形墳墓だった可能性が高いとされている。

07 5号墓解説板

5号墓
北側から振り返って。手前左側が「土壙」の見つかった「北西平坦部」?その奥、中央の最も高く見えているところが5号墓

5号墓のすぐ北側に聳える小山が4号墓、大型の四隅突出型墳丘墓である。
4号墓は大型墳丘墓の中で3号墓、2号墓に続いて築造された3代目の王墓(築造順は3号墓→2号墓→4号墓→9号墓)とされており、弥生時代後期後半(2世紀末頃)の築造とされている。
現地解説板によれば方丘部は東西32m、南北26m、突出部を含めると約40m(パンフレットでは『47m × 45m、高さ3.5m』)で、壺や鼓型器台のほか、吉備地方の特殊土器も出土している。

09 4号墓解説板

墳丘は山道で破壊されていた突出部を復元、遺存していた方丘部に若干盛土をし、表面に芝を貼った状態で保存されているそうだ。

4号墓北西突出部

4号墓の北隣には「17号墓」がある。
墳丘は調査時点で既に原形を留めておらず、解説板に「現状では高さ70cm以上、直径または一辺が8m以上の円形または方形」とあるが、あいにく草叢で所在が定かでない。

17号墓解説板

正面にあるこの茂みがそうであろうか。

17号墓?

その北側に隣接する3号墓も大型の四隅突出型墳丘墓で、西谷の丘では最も古く、初代出雲王墓と考えられており、築造は弥生時代後期後半、2世紀後半頃と推定されている。発掘以前、墳頂にはお堂があって、斜面にはお堂へ至る石段が残っていたそうだ。
墳丘は墳裾周りに石列(2列)が復元されており、独特な形状がよくわかる。大きさは東西40m、南北30m、高さ4.5mで、突出部を含めると約50m(パンフ記載は『52m × 42m × 4.5m』)もあり、博物館の展示にあったとおり、墳頂の主体部からは祭祀目的と思われる柱穴の跡や厚く敷き詰められた朱、ガラス製の勾玉などのほか、吉備や越(高志=北陸地方)の土器も出土している。

3号墓南西突出部

つくづく、突出部は見れば見るほど面白い形状である。何やら巨大なカモノハシが腹ばいに寝そべっているようにも見える。

北側2号墓墳頂から見た3号墓

墳頂へは階段で上ることができ、発掘された主体部や柱穴の位置がカラー表示されている。

3号墓墳頂主体部と柱穴跡の表示

墳頂から北を見ると、墳丘全体の張り石まで再現された2号墓がすぐ隣に見えている。

3号墓墳頂から見た2号墓

2号墓は3号墓に続いて築かれた2代目の王墓で、弥生時代後期後葉、規模は南北36m、東西24m、高さ4m(パンフ記載は『46m × 29m × 3.5m』)、墳裾の配石は2列あったそうだ。戦前まで陶土採取の対象とされてきたため、墳丘は南側の一部を残して大きく削平されていたらしい。残存墳丘に2mほどの盛土をして墳丘全体を復元、墳裾配石や貼り石まで再現され、築造当時の威容を目の当たりにすることができる。墳丘内部には発掘調査の過程を紹介した展示施設まで設けられている。

2号墓解説板

2号墓北西突出部

さらに史跡公園の北端ギリギリ、高校のグラウンドを見下ろす場所に、この地で最初に四隅突出型墳丘墓として発見された1号墓がある。

1号墓

発掘当時、既に北西側が大きく崩されて半壊状態だったようだが、残存部分から大きさは10m四方ほどと推定されている。南東側墳裾から大きく弧を描いた石列(1列)が発見され、当時は古墳時代初期の「発生期の古墳」と考えられていたことから、「西谷1号墳」若しくは当時の地名から「来原1号墳」と呼ばれたらしい。

1号墓解説板

さて、史跡公園として整備されているのはここまでのようだが、もう1基、国内最大の四隅突出型墳丘墓である9号墓が300mほど離れた丘の上に残っているようだ。

が、しかし、だいぶ長くなってしまったので続きはまた次回、西谷墳墓群を築いた弥生王たちの時代を妄想してみたいと思う。

<投稿 2019.09.02>

(参考資料)
「出雲弥生の森博物館ホームページ」
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html
「シリーズ遺跡を学ぶ123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」 2018年2月 渡辺貞幸氏 新泉社
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版



2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(1)(島根県出雲市 出雲弥生の森博物館)

長い間ブログの更新ができずにいるうちに、出雲を旅してから1年が経過してしまった。
以下は平成30年6月の出来事である。

出雲大社から稲佐の浜、日御碕神社と回った後は、「日本三美人の湯」と言われる湯の川温泉に投宿した。
御馳走や温泉の紹介はこのブログの本旨ではないので、料理や湯舟などの詳細は割愛するけれど、宿泊と風呂、食事がそれぞれ別棟で、なかなかよい宿だった。

翌朝、目が覚めると雨は降っておらず、出発する頃には薄日が差してきた。今日は西谷墳墓群と呼ばれる弥生時代の四隅突出型墳丘墓を見に行くので、雨が降っていると何かと都合が悪い。

<出雲弥生の森博物館>
10kmほど西へレンタカーを走らせ、水量の少ない斐伊川を渡ると墳墓群への入り口が見えてきた。
まずは隣接する「出雲弥生の森博物館」で「四隅突出型墳丘墓」の何たるかを理解して行こうと思う。

1_四隅突出型墳丘墓模型

「四隅突出型墳丘墓」は写真のように四隅が長く張り出した弥生時代の墳丘墓で、斜面には貼石が葺かれていて、墳丘の周囲は配石で区切られており、この配石列の数が埋葬者の身分の違いを表しているのではないか、とされるらしい。「古墳時代」でなく弥生時代の墳丘墓であるから、「古墳」ではなく「墳丘墓」なのだそうだ。

こうした独特の造形を持つ墳丘墓は、山陰地方から北陸、最も遠くは福島県にかけて分布するとされ、これまでに91基ほどが確認されているのだそうだ。
築造は古いものは弥生時代中期後半まで遡るとされ、弥生時代後半になるとこの出雲地方で墳丘の大型化が一気に進むことから、当時、分布域にまたがる広域連合のような勢力があって、その中心勢力が出雲地方にあった、と考えられているようである。

四隅の張り出しは前方後円墳のように均整の取れた形ではなく、やや歪な形をしている。当初は方形墳丘の隅が崩れないよう留め石のように石を並べて四隅を保護する役割であったものが、時代が下るに連れて長く大きくなっていったようだ。この張り出し部分の用途はわかっていないようであるが、張り出し部分に貼られた石が踏み石状になっていることに加え、周囲を巡る配石列がこの張り出し部分で途切れている例があることなどから、墳丘上に上る通路としての役割があったのではないか、とされているようだ。

西谷墳墓群は四隅突出型墳丘墓の中でも傑出した規模の墳丘墓で、その規模や出土品などから弥生時代の王墓であるとされている。ガラス製の腕輪や管玉、当時は最先端の素材であった鉄剣のほか、出雲地方の土器のみならず、吉備・北陸系の土器も発見されており、広域連合内で交流があったことを示すものらしい。

1_ガラス製管玉と鉄剣

3_ガラス腕輪

こうした四隅突出型墳丘墓は弥生時代の終わりとともに突如として築造されなくなることから、この頃を境として、山陰地方の支配勢力に大きな変化があったのではないか、と考えられているようだ。

4_「最後の出雲王」

調べてみると、この西谷丘陵に四隅突出型墳丘墓を築いた人々は、おそらく前回見た大量の銅剣を荒神谷遺跡に埋めた人々とごく近い集団であった、と考えてもよいようだ。
ほぼ同時期に大量の銅鐸を加茂岩倉遺跡に埋めた人々は、斐伊川支流の赤川流域に勢力を有した集団であって、彼らの首長の王墓は神原正面北遺跡から発見された4基の方形周溝墓であると考えられているようである。この二つの勢力は、いずれも弥生時代の半ば以降、何らかの意図を以って大量の青銅器を埋納しているが、それはもしかすると大きな社会情勢の変化、例えば他の強力な集団との接触による極度の緊張状態に起因するのではないか、とも考えられているようだ。
松江市内の田和山遺跡という弥生時代中期に廃絶したと考えられている丘上の砦のような遺跡からは、大量の礫石(つぶていし)や石鏃が散乱した状態で発掘され、ここで大規模な攻防戦が行われたのではないか、とされており、さらに伯耆にある妻木晩田遺跡では突如として高地に大規模集落が出現していることから、それまでの居住地域を何者かに追われたか、何者からか身の安全を図る必要が生じたのではないか、と考えられているらしい。

そうした「極度の緊張状態」を齎す「他の強力な集団との接触」というと、稲佐の浜で起こった「国譲り」神話が思い浮かぶ。

「国譲り」神話は初代神武天皇の治世(紀元前660年!)よりも古い時代、まさに神話の時代の話であるからまさに、弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀)に起こった話であると言えなくもないであろう。
さもなくば、「日本書紀」の崇神天皇60年(紀元前38年)に止屋(ヤムヤ)の淵で起こったとされる兄、出雲振根(イズモフリネ)による弟、飯入根(イイイリネ)の誅殺、若しくはヤマトタケルによる出雲タケルの誅殺(紀元後1世紀末頃?)も、大和朝廷側に反抗した出雲の勢力を朝廷側が滅ぼすという意味では同じである。

全くのお門違いかも知れないが、それまで断片的であった出雲の風景が、少しづつ、折り重なって見え始めてきたような気がしてきた。

今回はここまで、四隅突出型墳丘墓の実物は、また次回。

<投稿 2019.07.14>

(参考資料)
「出雲弥生の森博物館ホームページ」
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html
「出雲国風土記(全訳注)」 2018年3月 荻原千鶴氏 講談社学術文庫
「新訂 古事記 付現代語訳」 1987年7月 武田祐吉氏 角川文庫
「日本書紀 全現代語訳(上)」1988年9月 宇治谷孟氏講談社学術文庫
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲繁栄の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版




2018/06/08

大国主命の国譲りの舞台(島根県出雲市 出雲大社、稲佐の浜、日御碕神社)

出雲を旅行することになった。
空港へ降りたつと、折しも山陰地方はちょうど梅雨入りしたらしく、あいにくの雨模様である。

富士には月見草がよく似合うそうだが、出雲は雨がよく似合う、と思う。

20年ほど前、鳥取へ出張で何度か来たことがあり、一度、足を延ばして出雲大社まで来たことがあった。
どうやら私は雨男であるらしく、その時も天気は雨まじりであったが、靄が山を覆うさまや、谷間を霧が流れるさまはまさに「八雲立つ出雲」であると思ったものである。
そう言えば、(鳥取は出雲ではないが)投入堂に上った時も前日までの雨で岩肌は濡れていたし、雨で湿った鳥取砂丘の馬の背に初めて上った時も、低く垂れこめた雨雲の切れ間から眼下に広がる鉛色の海面を照らす一条の陽光を見て、神々しいとはこういうことを言うのかも知れないな、と思ったものだ。

<出雲大社>
出雲大社は、記紀に見える国譲り神話で建御雷神(タケミカヅチノカミ、日本書紀では武甕槌神)に国を譲った大国主命(オオクニヌシノミコト、日本書紀では大己貴神(オオナムチノカミ))を祀り、明治以前は「杵築(キツキ)大社」と呼ばれたそうである。

門前に車を停めて、翠雨に煙る長い参道を進む。平日の午前中で、しかも雨模様にも関わらず、参拝者の姿が多く、濡れた玉砂利を踏む音がそこかしこから響いてくる。

大国主命は、国を譲る条件として、自らを祀る社を「底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽高しりて」としたとされ、見上げるほどの高さの本殿は往古、今日の倍の高さ(16丈=48m)があったとされており、平安時代は「雲太、和二、京三」(出雲の社の大きさは大和東大寺、京の大極殿をも凌ぐ)と言われたそうである。
(出雲大社には上古の本殿の高さはなんとさらに倍の32丈=96mあった、と伝わるそうである。)

01 出雲大社 本殿

境内からは当時の本殿の宇豆柱(うずばしら=棟持柱)の根太が近年発掘され、隣接する「古代出雲歴史博物館」で保存展示されている。その巨大さには驚嘆してしまうが、出雲大社の宝物殿である「神祜殿」には博物館のものよりもさらに一回り太い心御柱(しんのみはしら)の根太が展示されており、その巨大さたるや、まさに度肝を抜かれる。

02 心御柱ポスター
(根太は撮影禁止のためポスターの写真を撮影。百聞は一見に如かず、残念ながら写真では巨大さが伝わらない。)

<古代出雲歴史博物館>
出雲大社に隣接する「古代出雲歴史博物館」は島根県立の施設で、県内各地から出土した膨大な考古遺物が展示されている。限られた時間で出雲地方の遺跡をダイジェストで理解するには打って付けの施設である。
さすがに出雲、展示はとても充実しており、雲南市神原神社古墳から出土した卑弥呼が中国魏から賜った100枚のうちの1枚とされる「景初三年(239年)」の銘の入った三角縁神獣鏡(重文)や、入れ子状態で発見されたものやウミガメの絵が見られるもの(国宝)など膨大な銅鐸群、そして大正14年の発見当時、木製の鞘から刀身をスルっと引き抜くことができたと伝わる金銅装双龍環頭太刀(重文)など、興味深い遺物が所狭しと並んでいる。

03 古代出雲歴史博物館 三角縁神獣鏡

04 古代出雲歴史博物館 銅鐸群

05 古代出雲歴史博物館 刀剣
(暗がり(腕前?)で写真がボケてしまっているが、歴史解説のボランティアさんによると、この刀は発見後、愛好家によって私蔵されている間に錆びてしまったらしく、県で譲り受けて展示する際に研磨したところ、刀身部分がだいぶ短くなってしまったらしい。)

とりわけ個人的に圧巻だったのは、斐川町の荒神谷遺跡から出土したという358本の弥生時代の銅剣群である。

06 古代出雲歴史博物館 銅剣

壁面を埋め尽くす夥しい数の銅剣はいずれも「中細形」と呼ばれ、銅剣の中でも古い時代区分のものとされるそうである。農道予定地の丘陵斜面にびっしりと並べられた状態で発見された銅剣の数は、それまでに国内で発見されていた銅剣の数(300本ほど)を遥かに超えていたそうである。

<稲佐の浜>
出雲大社のすぐ西にある海岸は「稲佐の浜」と呼ばれ、国譲り神話で建御雷神と天の鳥船神(鳥の石楠船神、日本書紀では経津主神(フツヌシノカミ))がこの浜で大国主命に国譲りを迫った、とされる。

07 稲佐の浜弁天島 遠景

二柱の神は十掬剣(とつかのつるぎ)の柄を浜に突き立て、刃の切っ先に胡坐をかいて、「屏風岩」を背に国を譲るよう迫ったという。
浜に聳える大岩は「弁天島」と呼ばれ、岩上には鳥居と社があり、古くは弁財天を祀っていたそうであるが、明治以降は豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)を祀っているそうだ。てっきりこの岩が国譲りの屏風岩かと思い、なるほど確かにこの岩そのものが十掬剣を表象しているのかも知れないな、などと独り言ちたものの、よくよく調べれば屏風岩は弁天島から300mほど離れた場所にあるらしい。

08 稲佐の浜弁天島 近景

<日御碕神社>
だいぶ陽が傾いてきたが、せっかくなので古くからの夕陽の崇拝地とされる日御碕神社へ行ってみたい。
出雲市のホームページによると、この日御碕神社は、「日ノ本の昼を護る伊勢大神宮」と並び「日ノ本の夜を護る」とされる古社で、出雲国風土記では「美佐伎社」としてその名が見える。
社殿は上の宮、下の宮とに分かれており、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る上の宮は「神の宮」、天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る下の宮は「日沉宮(ヒシズミノミヤ)」と呼ばれる。権現造の社殿は徳川家光の命によって寛永21年(1644年)に建てられたもので重要文化財となっている。

09 日御碕神社

上の宮(「神の宮」)はもともとは背後に聳える標高45mほどの「隠ヶ丘(かくれがおか)」の上に祀られていた社を、安寧天皇13年(紀元前536年!)に現在地に遷座したものだそうだ。
「上の宮」というだけあって、境内の一段高くなった場所に社殿が建っている。

10 日御碕神社 上の宮(神の宮)

「隠ヶ丘」は、出雲国を作り終えた素戔嗚尊が柏の葉を投げて自らが鎮まる場所を占った際、柏の葉が止まった場所として、日御碕神社の宮司の祖先である天葺根命(アメノフキネノミコト)が社を祀ったと伝わるらしい。丘の上からは柏の葉の化石が出土しているそうだ。

下の宮(「日沉宮」)は開化天皇2年(紀元前156年!)に清江の海と呼ばれたすぐ西の海岸線に浮かぶ日置島に祀られていた社(出雲国風土記に言う「百枝槐(ももえのえにす)社」)を天暦2年(948年)に村上天皇の命により現在地へ遷座したものだそうだ。

11 日御碕神社 日置島(経島)

「百枝槐社」がもとあったとされる日置島に行ってみた。この島は「経島」とも呼ばれ、島の百枝の松に瑞光が輝いているのを見た天葺根命が天照大神を祀ったのが日沉宮の始まりと伝わるらしいが、現在では草木は全く見当たらない代わりに、ウミネコのコロニーになっている。

「槐」という文字は恥ずかしながら初めてお目にかかる漢字であるが、「サイカチ」とも読むらしい。意味は「エニス」が転じて「エンジュ」と呼ばれるマメ亜科の植物の名前であるらしく、木質は硬く、蕾を乾燥させたものは止血作用のある生薬として用いられるそうである。

硬い木材としての利用価値だけでなく、止血効果のある薬でもある木が島上に群生していたことから、怪我への効用に対する謝意が祈りの対象へと変容していったのであろうか。現在も島上には鳥居と社が見えているが、神域のため神職以外の立ち入りは禁じられているのだそうだ。

だいぶ長くなったので、続きはまた次回。明日は四隅突出型墳丘墓を見に行きたいと思う。

<投稿 2019.03.03>

(参考資料)
出雲市ホームページ http://www.city.izumo.shimane.jp/
「出雲観光ガイド」 出雲観光協会ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/
出雲大社ホームページ http://www.izumooyashiro.or.jp/
島根県立古代出雲歴史博物館ホームページ http://www.izm.ed.jp/