2017/12/13

塩浜の謎?の石造物(神奈川県川崎市 塩浜神明神社、出来野嚴島神社)

今日は古墳ではなく、近くの神社にある「謎」(?)の石造物について、である。

仕事が煮詰まってしまったので、気分転換に出掛けることにした。
仕事場を兼ねている自宅から10分も自転車を漕げば大師橋であり、寒風に身を竦めながら多摩川を渡るとそこは川崎市、大師河原である。
幹線道路に沿って工場やら倉庫やらが立ち並び、大型トラックがひっきりなしに行き交う、色で言えばモノトーンに沈んだ感じの、一見、どことなく無機質な印象を受ける街並みであるが、路地に入ればあちこちに神社や小さな祠などが残っている。
今となっては想像もつかないが、明治時代までは製塩の盛んな海浜の集落であったらしく、「塩浜」という地名が今でも残されている。
その塩浜地区に、以前から気になっていた石造物がある。

<塩浜神明神社>
塩浜地区の南に、地区の鎮守である「神明神社」がある。

01 塩浜神明神社

天照大神を祀る神社で、江戸時代にこのあたりで製塩が始まった頃、延宝7年(1679年)に鎮守として勧進されたそうだ。

02 塩浜神明神社

社殿前の狛犬は弘化4年(1847年)の作だそうで、台座には新橋や内神田の塩問屋の名前が見える。

03 塩浜神明神社狛犬

04 塩浜神明神社狛犬台座

05 塩浜神明神社狛犬

06 塩浜神明神社狛犬台座

さて、件の石造物は境内の奥、「稲荷神社」の社の隣の祠の中にある。

07 塩浜神明神社 謎?の石造物

砂岩か何か、柔らかい材質の石材に彫られたものだろうか。
潮風で摩耗してしまったのか、石仏のようにも見えるが、一体これは何なのだろう、と思う。

08 塩浜神明神社 謎?の石造物

これがもし人為的に作られた造形であるとすれば、作者は相当な美術センスを持っていたのだろうと思う。

隣には神像だろうか、穏やかな笑顔の石像が祀られている。

09 塩浜神明神社 神像?


<出来野嚴島神社>
先ほどの石造物が一体何なのか、明確にはわからないのであるが、実はよく似たものが、近くの日の出地区にある嚴島神社にも残されている。

10 塩浜神明神社

この神社の東側の海岸は戦前まで出来野海岸と呼ばれ、遠浅の干潟が遥か沖まで広がっていたそうだ。海沿いには防潮堤が築かれ、松並木が連なっていたそうである。
神社の創建は定かでないようであるが、市杵嶋姫神(イツクシマヒメノカミ)を祀ることから古くは「出来野弁財天」と呼ばれ、境内に聳える銀杏や松の大木が沖を行く船の目印になっていたそうである。

11 出来野厳島神社

境内の片隅にはそうした古の古木であろうか、枯れた巨木の切り株が残されている。

12 出来野厳島神社

この神社の境内にも、先ほどの石造物とそっくりなものが残されている。

13 出来野厳島神社庚申塔

幟旗には「出来野庚申地蔵菩薩」とある。

川崎区のホームページを見ると、「奉納されている力石や塩で溶けた二基の庚申塔に漁業で栄えた往時がしのばれる。」とある。
庚申塔であるならば、これは石材に彫られた一面六臂の青面金剛地蔵像だったのであろう。そう言われて見れば、右側の像は胸の前で両手を合わせて合掌しているようにも見える。

14 出来野厳島神社庚申塔

それにしても、海沿いで潮混じりの強風がいくら強いとは言え、それだけでここまで摩耗するものであろうか。
度重なる高潮で波に洗われるなどして、水の力で摩耗してしまったのだろうか。
もしかすると、海岸の岩を波が侵食して、自然にできた造形美が地蔵の形に似ている、として信仰の対象となったものとは考えられないだろうか。

いや、先ほどの神明神社のものと合わせると3体もある。恐らく、そんな偶然は3回も続けて起きないだろう。


暮れ行く雲を見上げながら、海岸沿いに松並木が立ち並んでいたという、ほんの80年前の風景を思い浮かべてみた。

その頃の庚申塔の金剛地蔵像は、一体どんな表情をしていたのだろうか。

15 出来野厳島神社夕空


(地図)
塩浜地図


(参考資料)
「かわさき区の宝物15-2出来野厳島神社」 川崎市川崎区ホームーページ www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25622/15-2.pdf




2017/12/12

歴史濃い拝島の富士塚(東京都昭島市 日吉神社富士塚)

日頃の行いがよっぽど悪いのだろうか、前回に引き続き、今日もまた仕事の打ち合わせがキャンセルになった。

ここは昭島市拝島町で、すぐ近くには以前から行ってみたいと思っていた日吉神社の富士塚がある。仕方がないので、(と言いつつ何故かうれしそうではあるが・・・)、この富士塚を見に行こうと思う。

旧奥多摩街道は、国道16号線が通る河岸段丘よりも一段下を通っているので、街道の北側には高い崖が見えている。
崖に沿って街道を西へ進むと、拝島大師の大きな楼門が見え、その先の路地を北へ入ると、大日堂の仁王門と日吉神社の鳥居が見えて来る。大日堂と日吉神社は崖の上に建てられている。

01 拝島日吉神社

「大日堂境域及び日吉神社境域」は東京都の史跡に指定されていて、貴重な文化財が数多く保存されている。
大日堂の本尊、「木造大日如来(金剛界)坐像」は藤原時代の作とされ、仁王門に並び立つ金剛力士像も鎌倉期、正和3年から4年(1314年から1315年)の作とされている。
崖下には「おねいの井戸」と呼ばれる室町時代の眼病平癒伝説の伝わる井戸があって今でも清冽な水を湛えているし、境内の藤棚はなんと樹齢800年だそうだ。

02 拝島大日堂、日吉神社

他にも、日吉神社の例祭である山王祭で行われる「榊祭」が都の無形民俗文化財に、三台の人形山車が市の有形民俗文化財に指定されており、拝島という町は何とも歴史の残り香が濃厚な町である。

こうした文化財も是非見ておきたいが、まずは崖上へと続く石段を上り、日吉神社の社殿で神様に手を合わせ、日頃の行いを詫びることにする。

03 拝島日吉神社

さて、目指す富士塚は本殿の左隣、さらに一段高くなった、まさに崖の縁にある。

04 拝島日吉神社富士塚

「あきしまの歴史散歩」という昭島市発行の書籍には境内の見取り図が掲載されていて、それによると富士塚の直径は東西20m、南北25mほどで、西側が道路で削られたような形をしている。

06 拝島日吉神社富士塚

高さは大人の背丈ほどであろうか、富士塚と言っても溶岩が配置されているようには見えず、頂上にも祠などがあるようには見えない。

07 拝島日吉神社富士塚

北側には大きめの河原石のようなものが積み重なっている。

08 拝島日吉神社富士塚

明治時代には富士塚の南側に登山路のようなものがあったようだが、金網で周囲を囲われていて、人が立ち入るような雰囲気でもない。登山路があったと思われる方へ回り込んでみると、南側は崖の斜面となって落ち込んでおり、こちらから見るとだいぶ高さがあるように見える。

09 拝島日吉神社富士塚

大日堂の藤原仏は平成の修復中らしいので崖下に下り、階段脇の「おねいの井戸」に行ってみた。

10 拝島日吉神社おねいの井戸

滝山城主北条氏照の家臣、石川土佐守の娘の眼病平癒を祈願してこの井戸の水で目を洗ったところよくなった、という言い伝えがあるそうだ。井戸には今でも冷たそうな水が湛えられていて、井戸端には蝉の抜け殻をいくつもつけた不動明王が鎮座している。

11 拝島日吉神社おねいの井戸 蝉の抜け殻をつけた不動明王

あたりには公園で遊ぶ小学生の歓声が響いている。
晩秋の日差しを受けて、仁王門の仁王様も池の紅葉も穏やかである。

12 拝島大日堂仁王門

13 拝島大日堂仁王門横の池



なお、最後にひとつ、個人的に気になる話を付け加えておきたい。
(いつもの「これ、古墳では?」的な話なので、興味のない方は読み飛ばして頂いて・・・。)

拝島橋が架けられる以前、戦前までは今よりやや上流に「拝島の渡し」があったらしいが、何とこの拝島の渡し、戦前まで「路線バスが渡し船で川を渡っていた」という。
川越と拝島をバスで結んでいた「多摩湖バス」という会社が昭和13年に路線を八王子まで延長したが、架橋されていなかったので、拝島の渡しを船でバスごと渡っていたそうだ。「あきしまの歴史散歩」には小さなボンネットバスが船で川を渡っている珍しい写真が掲載されている。

ところで、当時の拝島の渡しはどのあたりにあったのだろうかと、いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で昔の地図を見ていたところ、明治時代の地図上に二つ、ちょうど現在の拝島橋で多摩川を渡った右側あたりに「古墳/塚」の記号のようなものがあることに気が付いた。

拝島橋周辺
(右下が拝島の渡し、黄色線が現在の拝島橋と国道16号のルート、赤矢印が塚状地形記号、明治42年測図、大正2年製版「拝島(二万分の一」より該当部分を拡大)

「多摩地区所在古墳確認調査報告書」でも「東京都遺跡地図」でも何ら言及されていないが、ここから西に1kmほどのところには中世、奈良から平安時代の塚(「昭島市No.32遺跡」)があるようだし、東に800mほど行った一段上の段丘上には「浄土古墳群」があるので、ここに古墳や塚の類いがあったとしてもおかしくはないと思うのであるが、どうだろうか。

なお、明治の地図には、現在昭島市内で確認されている浄土古墳、経塚下古墳、大神古墳はいずれも記載されていないが、浄土古墳の発見は昭和50年、経塚下古墳は昭和51年、大神古墳は平成7年のことで、それぞれ発掘によって存在が確認されるまで地下に埋もれていたことになるので、明治時代には認識されていなかったのであろう。

とすると、明治の地図に残されている二箇所の塚状地形の痕跡は、果たして何だったのだろう・・・。
(当然、「古墳!古墳!」と当人は思っているのであるが・・・。)


(地図)
日吉神社富士塚地図



(参考資料)
「あきしまの歴史散歩」 2017年3月 昭島市教育委員会
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#




2017/12/05

小山を転用した新宿の富士塚(東京都新宿区 成子天神社富士塚)

前回に引き続き、中野坂上周辺を訳あって散策している。

前回紹介した「宝仙寺」であるが、江戸名所図会によればここには「馴象の枯骨(じゅんぞうのここつ)」、なるものが伝わっているという。

享保13年(1728年)、ベトナムからの朝貢品として牡牝二頭の象が海を渡り、将軍吉宗の謁見を受けたという話には聞き覚えがあった。鼻の長い象を初めて見た江戸の人々はたいそう仰天したそうだ。
象はそれから暫く浜御殿で飼育された後、この中野村の源助という者に下げ渡され、このあたりに建てられた象小屋(象廐:キサヤ)で飼育されていたらしい。象は寛保2年(1742年)に亡くなったが、その牙が戦災をくぐり抜け、一部が今でも宝仙寺に残っている、という。

残された象牙を見るのは少し忍びないが、象が飼育されていた象廐は、中野坂上の交差点の南西200mほどのところにある幼稚園のあたりにあったそうだ。

01 中野坂上象廐跡

02中野坂上象廐跡

少し前に亡くなった井の頭公園の象の「はな子」は、絵本になるほど多くの人々に愛されたそうであるが、江戸時代、遠い異国に連れて来られた象は一体どんな気持ちで我々日本人を見つめていたのだろうか。

再び坂上の交差点に戻り、青梅街道を新宿方面に下る。

地形図を見ると、中野坂上の交差点は西から細長く伸びる標高差8mほどの舌状台地の先端にあるためか、交差点から四方へ伸びる道は、西へ向かう青梅街道以外は全て下り坂になっている。

東側の崖下を流れるのは神田川で、古くはここが豊島郡と多磨郡の境であったらしい。

神田川にかかる淀橋には、自らの財産の隠し場所を他人に知られまいと、中野長者鈴木九郎が使用人の命を奪った、という伝説が伝わっている。行きに一緒に橋を渡った使用人の姿が帰りには見えなくなったので、「姿見ずの橋」と呼ばれたそうであるが、鷹狩りでこの地を訪れた将軍家光がこの不吉な話を嫌い、淀の流れを思い起こさせるので、以降、淀橋と呼ぶように、と命じて以降、この橋は淀橋と呼ばれるようになったそうだ。

03 淀橋


何となく背後を気にしながら淀橋を渡ると新宿区に入る。青梅街道沿いに立ち並ぶ高層マンションの向こう側へ回ると、成子天神社がある。

<成子天神社富士塚>
成子天神社は学業の神様である菅原道真公を祀る神社で、周辺の再開発に伴い平成26年に再整備されたそうで、境内はすっきりと明るく、清潔な感じの都会的な神社であるが、本殿(拝殿)の向こうにマンションが見えているのは、何だか見慣れない光景ではある。

04 成子天神社

この場所は、神田川が南北に削った幅500mほどの谷に面した高さ5mほどの段丘の縁に位置しており、もともと「大神宮」と呼ばれる神社が古くから祀られていたらしい。
平安時代、菅原道真公が亡くなった際、その生前の姿が彫られた像を都より持ち帰り、この地に祀ったのが神社としての始まりとされるようだ。
本殿でお詣りを済ませた後、目指す富士塚は左奥、境内の北西隅に周囲をすっかり高層ビルに囲まれた状態で残っている。

05 成子天神社富士塚

高さは12m、新宿区では最大の富士塚で、大正9年に境内に残されていた「天神山」という小山を富士塚に転用して築かれた、とある。

06 成子天神社富士塚解説

登山口は解説板の隣にあり、開門時は誰でも上ってよいようだが、いざ上ってみると、下から見上げる以上に高く、そして大きい。

07 成子天神社富士塚

08 成子天神社富士塚


ところで、解説板にもあったように、もともとここにあったという「天神山」は一体どういう性質の「小山」だったのだろうか、と思う。(要は「古墳」だったのではないか、と期待を交えて勘繰っているのである。)

ご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」には、富士塚に転用される前の天神山に関する「豊多摩郡史」の記述が引用されていて、それによると梅の木などが植えられた眺望のよい小山だったようだ。

この「天神山」が自然地形に起因する山であったのか、それとも人為的なものだったのか、決め手となるものは残されていないようであるが、明治42年(富士塚築造前)の地図を眺めると、現在富士塚のあるあたりに古墳/塚を表す記号のようなものが見える。もしかするとその当時、天神山は自然地形ではなく、何等か人為的なマウンドとして認識されていたのかも知れない。(これにはかなり個人的な「期待」が含まれていて、冷静で客観的な判断はついぞしていない。)

ついでに視線を前回の宝仙寺三重塔の「梵塔」記号に移すと、そのすぐ左下(南西)にも、同じように「古墳」記号のようなものが描かれているように見える。(これも同じく全く恣意的な「希望」ではある。)

09 明治42年地図(成子天神社周辺)

10 明治42年地図(中野三重塔周辺)

(著作権の問題などがあるようなので、必要な部分だけを拡大。上が成子天神社富士塚のあたり、下が中野坂上の宝仙寺三重塔周辺。赤矢印が「古墳/塚」記号?いずれも明治42年測図、大正2年製版「中野(二万分の一」より。)

前回も引用した「都心部の遺跡」という調査報告書には、古い時代の地図などに残されている古墳記号に関する調査結果なども掲載されているが、富士塚転用前の天神山については特段言及されていない。
「東京都遺跡地図」でも成子天神社の富士塚については特段の記載は見当たらないところからすると、やはり「天神山」が人為的なマウンド(というか古墳)であった、という可能性はないのかも知れない。

だがしかし、永遠に失われてしまった在りし日の風景を、地形図や古記録から自分勝手に妄想する、こんな想像のひとときが、また、楽しいのである。

11 成子天神社


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/



2017/12/05

中野七塔の痕跡を求めて(東京都中野区 塔山古墳群)

「忙中閑あり」とはこういう時に使う言葉だろうか。

大事な仕事の打ち合わせが、先方の理由で突然キャンセルになった。
早起きして久々の通勤電車に揺られ、中野坂上までやってきたのであるが、午前10時にしてぽっかりと時間が空いてしまった。
さて、この時間、一体どうしたものか。

考えてみると、中野坂上はたいそう久しぶりである。
会社勤めをしていた頃、山手通りはクルマでよく通ったものだが、当時はまだ地下に首都高を通す前で道幅も狭く、確か交差点にもこんなに高いビルは建っていなかった。山手通りと青梅街道の交差点はいつもひどく渋滞していて、遥か彼方まで延々と伸びる赤いブレーキランプの列を見晴るかしては辟易としたものである。

さて、「東京都遺跡地図」を見ると、交差点の北東、中学校の校庭辺りに「塔山古墳群」という名の古墳跡があるようだ。「塔山」と言うのも少し気になる地名であるので、古墳は残っていないようだが行ってみることにした。

<塔山古墳群跡>
山手通りのすぐ東側に区立中学校の校庭が見えている。金網越しに学校の校庭を撮影するのはどうにも後ろめたい感じがするが、昔はここに古墳があったのか、と思うとやはり感慨深い。

01 中野坂上 塔山古墳跡

昭和60年3月に東京都教育委員会から発行された「都心部の遺跡」という調査報告書には、「塔山古墳」として、1号から5号までの古墳が掲載されている。このうち1号墳、2号墳は直径15~20mの円墳とされ、鉄釘や直刀が出土したと書かれている。残念ながら、昭和60年の調査の時点で既に5基とも「湮滅」していたようで、古墳の痕跡は何も残されていないようであるが、学校になる前はどんなところだったのだろうか。

中学校の敷地の西側には小さなお堂があって、中には庚申塔だろうか、キノコのような笠を乗せた石造物が祀られている。

02 中野坂上 庚申塔?

その隣、中学校の敷地の北西隅に「宝仙寺三重塔跡」の碑が建っている。

03 中野坂上 中野宇三重塔跡碑

「中野村の飯塚惣兵衛夫妻が施主となり、寛永13年(1636年)に建立」とあり、どうやら「塔山」の地名はこの塔に由来するもののようであるが、昭和20年の空襲で惜しくも焼失するまで、まさに現在の中学校の校庭に江戸時代の三重塔が建っていたようである。

「今昔マップ on the web」で明治時代のこの場所を見てみると、山手通りがまだないことを除けば、地割は今とほとんど変わらないようであり、一面に針葉樹林の記号が点在する中、中央に「梵塔」の記号が戦前まで描かれている。

そのまま山手通りに沿って北上すると、道は下り坂になっていて、坂道を下った谷底には戦前までは桃園川が流れていたようである。今は暗渠になっているのか、川筋が緑道になっており、先ほどの三重塔を描いた江戸名所図会の挿絵が飾られていた。

04 中野坂上 中野三重塔

今ではすっかり建物が立ち並んでいて見通しが利かないが、昔はこの川筋からも台地上に三重塔が、もっと古くは古墳群が仰ぎ見えたのだろうか。

ところで「宝仙寺」は現在、三重塔跡の石碑より500mほど西にあるが、明治42年の時点でも既に現在と同じ場所、西方に位置している。
宝仙寺と三重塔の関係がいまひとつ腑に落ちないが、江戸名所図会でも「明王山寶仙寺」と「中野の(三重)塔」とは別の項目になっており、挿絵も別々に描かれていて、三重塔については「中野七塔」という見出しで、次のように書かれている。

「いまその所在をしるべからず。ある人いふ、三所ばかりは知れてありとぞ。俚諺に、中野長者昌蓮、高田より大窪までの間に、百八員の塚を築くといひ伝ふ。ここに七塔といへるもその類のものならんか。また中野の通り(青梅街道のことか?)の右側、叢林のうちに三層の塔あり。七塔の一つならんか。伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして・・・(略)。」

改めて江戸名所図会の中野の塔の絵を眺めれば、塔の右奥に小山のようなものが書かれている。注書きもないので、おそらくこれは単なる飾りのような絵の背景の一部なのであろう。

だがしかし、古墳好きの妄想としては、その昔、このあたりに多く点在した古墳や塚の上に後世、それぞれ庚申塔や宝篋印塔の類いが立てられ、誰言うとなく「中野七塔」と呼ばれたものの、戦乱で荒廃するなどしていつしか人々の記憶から忘れられてしまったが、それでもその名残のようなものが三重塔の傍らにあって、書き手もそれがどうにも気になって挿絵に描き込んだのではないか、などと思ってしまう。

区立中学校の西、山手通りを挟んだ反対側には、「白玉稲荷神社」の祠がひっそりと建っている。

05 中野坂上白玉稲荷神社

古くはこの神社も宝仙寺の境内に祀られていたらしい。

06 中野坂上白玉稲荷神社鳥居解説板

舗道に面した場所には空襲で折れてしまったのか、大きな石碑が忙しなく行き交う人々を静かに見守っていた。

07 中野坂上白玉稲荷神社 石碑


(地図)
中野坂上周辺地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「都心部の遺跡」 東京都教育委員会 昭和60年3月



2017/10/03

中世の貝塚遺跡に建つ神社(東京都大田区 甘酒稲荷神社)

大変有難いことに、9月の下旬から「胆力と根気」が要る仕事が重なり、すっかり参ってしまった。
古墳巡りをするどころか、精神的なゆとりもなく、ぐったり日々仕事をこなしながら、年末を迎えてしまった。

そんな中、買い物ついでの気分転換に自転車で近所を散歩する機会があった。
今日はその時のことを書こうと思うが、見に行ったのは古墳ではなくて、貝塚跡に建つ小さな「神社」である。

結婚したての頃、暫く住んでいたマンションの近くに「甘酒稲荷神社」という小さな神社があった。
都心へ向かう京急線が平和島駅を出た直後、高架の東側に見える木立がそれである。

01_不入斗甘酒稲荷神社

平和島駅周辺は、昔は「不入斗(イリヤマズ)」と呼ばれ、人家も疎らな寂しい場所だったそうだ。(前回の「常名(ヒタナ)」も難解であったが、「イリヤマズ」も相当なものだと思う。)

国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」によれば、「不入斗」という地名は
 ●読みは 「イリヤマズ」 または 「イリヤマゼ」で、関東地方に多く、東海地方にも散見される地名
 ●かつての寺社領などで貢納を免ぜられた不入権をもつ免租地であったからという説が有力
とある。
諸説あるようだが、このあたりは海岸地帯であって、中世以前は、近世東海道のルート(現在の第一京浜)は通行することができず、当時の東海道は現在の池上通りに沿って台地上を通過していた。海沿いのこの地域は、塩分混じりの土地で収穫が上がらず、貢納が免除されたことから、不入斗村と呼ばれた、ということのようだ。

そんな旧不入斗村に「甘酒稲荷神社」は建っているが、今では海岸線はだいぶ遠くなってしまって、海の名残と言えば、周辺に海苔を扱う古くからの商店が多いことぐらいだろうか。

神社の境内は公園になっていて、やはりそんな時代の名残は残されていないようだが、神社の由緒書きに、古くは「貝塚稲荷社」と呼ばれた、とある。貝塚の「塚」の字に思わず反応してしまう。

02_不入斗甘酒稲荷神社由来

海沿いだったこの辺りには多くの貝塚があったようだ。
「東京都遺跡地図情報」を見ると、環七の少し南、第一京浜沿いにある「王森稲荷神社」も貝塚遺跡となっているし、都の無形民俗文化財になっている「水止舞」で有名な厳正寺のあたりも平安時代の貝塚遺跡となっている。

甘酒稲荷神社の建つこのあたりも「内川耕地貝塚」という中世の貝塚遺跡だったようである。貝塚と言うと縄文時代の遺跡を連想するが、このあたりの貝塚は、少し時代が下るのかも知れない。

ところで神社の名前だが、このあたりには6年ほど住んでいたが、甘酒で有名、といったような話は耳にしたことがなかったが、由緒書きを見ると、幼児の病気平癒に霊験新たかで、咳の神として広く世に知られ、報賽に甘酒を献じたのが名の由来、とある。
往時は「遠近より参詣者繁しく」だったようであるが、今日のところは境内には自分ともう一人、休憩中か、中年のサラリーマンの姿しか見えない。

事情は存じませんが、ご同輩、お互い大変ですなあ。

(地図)
不入斗甘酒稲荷神社地図

(参考資料)
「レファレンス協同データベース」 国立国会図書館http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000152206
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「学校裏から始まった2」 月刊おとなりさん編 2005年6月