2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(1) (茨城県潮来市 鹿見塚古墳、子子舞塚古墳址(大生西部古墳群))

(すっかり桜も散ってしまい、世間は何やら初夏の陽気であるが、ブログは更新が遅れているので、まだ1月初旬である。)

初詣に行っていなかったので、急遽、妻と鹿島神宮に行くことになり、先日、暗くなってしまって見学できなかった大生古墳群にも立ち寄ることになった。
「次回訪問時には念入りに下調べをして・・・」という目論見はまたも外れ、前回同様、何ら予備知識のないまま家を出て現地に向かった。

いつも渋滞する都心もスムーズに流れており、順調に鹿島インターまで到達、鹿島神宮の周辺はさすがに初詣客で渋滞していたが、神社手前の商店街の駐車場は比較的空いていた。

鹿島神宮は初めてであったので、奥宮や要石なども時間をかけてお詣りした後、つい2週間ほど前に辿った県道187号線を通り、再び大生原までやって来た。

この大生原は、東に北浦を望む標高40mほどの台地で、110余基から成る一大古墳群があり、大生神社を中心として、古墳群は大生西部、大生東部、カメ森、田ノ森古墳群などに大別されているそうである。
前回、クリスマス前に見学に来た「大生殿塚古墳」は大生神社の東に位置しており、東部古墳群に含まれるらしい。
今回は大生神社の西側に点在する、大生西部古墳群を見て回りたいと思う。


<鹿見塚古墳(大生西部2号墳)>
県道187号線からそう遠くない位置に、鹿見塚古墳がある。
02 鹿見塚古墳遠景

03 鹿見塚古墳近景

鹿見塚古墳は大生西古墳群にほぼ完形で残る前方後円墳の一つで、全長は58.1m、前方部幅32m、後円部は直径34m、高さ6mで、県教育委員会のHPでは古墳時代中期の築造とされている。
04 鹿見塚古墳近景

後円部は二段築成の上段部分、という訳でもないのだろうが、頂上部分が一段高く突出している。
06 鹿見塚古墳後円部近景

潮来町教育委員会が昭和46年に発行した「常陸大生古墳群」という調査報告書によれば、昭和28年の現地実測調査の際、既にこの形だったそうであるが、築造当初からのものであるか否かは「なお検討を要する」そうだ。古墳の名前となっている「鹿見塚」の由来はわかっていないようであるが、個人的にはこの高まりが「鹿見塚」の由来と関係しているのではないだろうか、と思う。

墳形でもう一つ興味深い点は、西側括れ部のやや南に、幅14m、高さ1m、長さ5mの造出部が附属している点であろう。
07 鹿見塚古墳北側造出部

造出が片側だけについているためか、「片耳式前方後円墳」と呼ばれているらしい。
08 鹿見塚古墳造出部南西から

墳丘は綺麗な前方後円形をしているが、墳裾がなだらかに広がっているので、一見したところその大きさをあまり感じないが、前方部から後円部方向を見ると墳丘の量感がよくわかる。
09 鹿見塚古墳前方部裾から後円部を望む

05 「常陸大生古墳群」p.44 2号墳実測図より抜粋
(大生西2号墳実測図 「常陸大生古墳群」より、北を上に修正)



<子子舞塚古墳跡(大生西部1号墳)>
鹿見塚古墳から200mほど南西へ進んだところに、「古墳子子前塚址」と書かれた石碑が建っている。(石碑は「前」の文字を充てている。)
10 子子舞塚古墳址碑

子子舞塚古墳は西部古墳群の主墳とされた前方後円墳で、調査当時、ほぼ完全な形で残る「最も完備した前方後円墳」であったそうだ。全長71.5m、均整の取れた前方後円墳で、墳形から5世紀後半から6世紀前半の築造と考えられたらしいが、現在は前方部の一部を残して削平されてしまっている。
11 子子舞塚古墳跡 南から後円部北側附近

周囲は明るく開けた雑木林で、一見したところ古墳跡のようなものは見当たらないが、よく見ると、少し奥の地面が1mほど盛り上がっているのが見える。ただし、これは古墳の痕跡ではなく、周溝の周囲を囲んでいたとされる「土塁」の痕跡のようである。
12 子子舞塚古墳跡 南から後円部北側附近

土塁跡は丸く弧を描いて、そのまま西の方へ回り込んでいる。
13 子子舞塚古墳跡 北側括れ部跡附近

土盛が回り込む先、北に浅い谷を望む一帯に、僅かながら高まりが残されている。
Romanさんの「まほらにふく風に乗って」や、昇寛さんの「埼群古墳館」などでも紹介されているとおり、この高まりがどうやら部分的に残された「前方部の一部」のようである。
14 子子舞塚古墳跡 前方部付近

15 子子舞塚古墳跡 前方部付近

古墳の跡地は現在、木々が疎らに植えられてはいるが、畑になっている訳でもないようである。一体どのような理由で墳丘を削平したのだろうか、と思う。

「常陸大生古墳群」によれば、昭和27年から35年にかけて行われた発掘調査で墳丘全体に埴輪が配されていた痕跡が見つかったほか、造出部から箱型石棺と人骨、碧玉や大刀などが発見されたそうだ。

鹿見塚と同様、南側の括れ部に幅16m、奥行12m、高さ3mの片耳式の造出を持ち、造出部以外の周囲に幅3m、深さ60cmほどの周溝が巡っていたらしい。周溝は規模が小さいことから、水を湛える機能ではなく墳丘や造出部を画する目的だったのではないか、と考えられたようだ。
16 「常陸大生古墳群」p.18 1号墳実測図抜粋
(大生西1号墳実測図 「常陸大生古墳群」より、北を上に修正)


17 「常陸大生古墳群」図版第三1号墳遠景(西方より)

(大生西1号墳全景(西方より) 「常陸大生古墳群」より)

さて、冬の陽が沈むのは早いので先を急がねばならないが、長くなったので続きはまた、次回。

(地図)
大生西部古墳群地図


(参考資料)
「常陸大生古墳群」 茨城県行方郡潮来町教育委員会 昭和46年5月
「いばらぎデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「まほらにふく風に乗って」 http://mahoranokaze.com/
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/




2018/01/05

庚塚の名残り(?)の見晴らし台

今日は言わば空振りの三振、古墳でも、塚でもない、「金塚」という広場の単なる盛土である。

昭島で新年早々の仕事を終え、今日はこの後、急ぎの用もないので、ドライブを兼ねてのんびり帰ろうと思う。

立川から南下して、関戸橋の手前から多摩川沿いに裏道を是政橋の近くまで来た時である。窓外を通り過ぎて行く看板に「塚」の文字を見たかな、と思った次の瞬間、目前に、大きな塚状の盛土が目に入った。

01 是政金塚桜広場

周囲と同じく芝生が貼られている上に、頂上に構造物が乗っているところを見ると、これは公園の見晴らし台のような人工の盛土だろう。ちょうど赤信号で停止したこともあるので、道路脇にクルマを寄せてちょっとだけ見に行ってみよう。

見る位置によっては古墳のようにも見えなくも・・・。いや、やはりちょっと、さすがにそうは見えない。

02 是政金塚桜広場

最初に「塚」の文字を見た看板はこの広場の植物を紹介しているもので、広場の名前は「金塚桜広場」という名前のようだ。

03 是政金塚桜広場

広場のすぐ前は多摩川の堤防道路で、塚状の盛土の上に上がってみると、多摩川の歴史を伝える府中市の設置した看板があった。

04 是政金塚桜広場

広場の名前にもなっている「金塚」はこのあたりの地名のようで、看板には「是政金塚(昭和4年頃)」という白黒写真が掲載されている。

05 是政金塚

昔ここにあった金塚という塚が映ってるのかな?と思い、近寄ってよくよく見たが、どう見ても塚のようなものが映っているようには見えない。

やはりここに「金塚」という塚があった訳ではないのか、と思い、そのまま帰路についた。

それにしても何故、「金塚」なのだろう。

自宅に着くまで悶々と気になっていたので、調べてみると、府中市が設置した由来碑を紹介しているホームページで「金塚橋」の由来、というものを見つけた。

府中用水に架かっていた橋の名にもなっているようだが、「金塚」の由来は「かのえづか(庚塚)」にあり、「かのえづか」がなまって(?)「かねづか」になったもの、と書かれている。いつの頃かわからないが、ある時期、ここには庚申塚のようなものがあったのだろう。

今日見たあの盛土は、いずれにしても古墳でも塚でもないようだけれど、「塚」の字が付くには、やはりそれなりの理由があるようだ。


(地図)
是政金塚桜広場地図


(参考資料)
「がいどまっぷ府中」 由来碑 https://fugis.city.fuchu.tokyo.jp/FuchuInternet/portal/yuraihi.html




2018/01/02

馬の背の宿場に伝わる塚と伝説(神奈川県海老名市/綾瀬市 相模大塚跡)

前回に引き続き、今回も相模国の大塚シリーズ、今日は「相模大塚」を訪ねてみようと思う。

鶴間大塚を見た後、暗くなるまではまだ少し時間があるので、再び246の旧道に戻って南西方向に向かう。
この246の旧道も、古くは大山街道若しくは矢倉沢往還という昔からの街道であり、延喜式に見える旧官道東海道のルートを踏襲したものとされていて、下鶴間から相鉄線のさがみ野駅前まで、南西方向に一直線に進路を取っている。

ところで、そのさがみ野駅であるが、相鉄線が開通した当時、この近くにあった駅は「相模大塚」という名前であった。

(現在、さがみ野駅の東隣にある「相模大塚」駅は昭和18年に新設された別の駅らしい。しかも戦後の一時期、「さがみ野」駅はなく、今のかしわ台駅近くに「大塚本町」駅があったそうで・・・、この辺りは複雑なので深追いするのは止めておこう。)

このあたりには矢倉沢往還の宿場町、「大塚宿」があり、大山詣でが流行した江戸後期はたいそうな賑わいだったらしい。
明治以降、大正時代までは旅籠や商店が建ち並んでいたそうだ。
大塚本町の周辺は、現在でも狭い街道に沿って民家が密集していて、往時の雰囲気をよく残している。

さて、この「大塚宿」、古くは宿場の外れに大きな円墳があったためにその名が付いたらしい。
鶴間大塚以上に、こちらの大塚についても極めて情報が少ないが、「ホントに歩く大山街道」という書籍に以下のように記載されている。

「大塚宿は大塚本町交差点の近くにあった。・・・中略・・・宿場の西南端辺りに大塚があった。頼朝の時代、早川村と上今泉村がここで戦い、戦死者が出たため、ここに塚を作り、埋めたと伝えられている。当初、大きな円墳があったらしいが、今はない。」

宿場は現在の大塚本町交差点を挟んだ200mほどの範囲にあったようであるので、「宿場の西南端」と言うと、大塚本町交差点の南西あたりではなかったか、と思う。
このあたりは座間市、海老名市、綾瀬市の市境が複雑に交差している。大塚本町の交差点は海老名市域にあるが、交差点の南西は、街道よりも南は綾瀬市域、北は海老名市域になっているが、宿場名の由来となった大塚は一体どこにあったのであろうか。

交差点の南側には幼稚園などがあり、そのすぐ向こうは崖状に落ち込んだ標高差10mほどの谷状地形になっている。そちらの方向は周囲では最も標高が高く、街道から見ても一段高くなっているのがわかる。

01 相模大塚 交差点より南西方向

塚を築く場所としては持ってこいのように思えるが、南に広がるV字谷が狭く、どことなく視界に広がりが足りない感じもする。亡くなった方々を弔う場所として、南向きの高台を選ぶ、ということもないだろうし、谷底も緑地帯などがあっていい雰囲気ではあるが、川と言うほどの流れも見当たらない。

一方、街道の北側は、こちらも50mほど行ったところで高さ15mほどの崖に面した高台になっている。

02 相模大塚 北西方向の眺望

03 相模大塚 北西方向の眺望

家々が立ち並ぶ以前はさぞかし見事な眺望だったのだろうと思う。今となっては見通しは利かないが、地図で見ると崖下は幅300mほどの谷になっており、谷底には目久尻川が流れている。この目久尻川(メクジリガワ)にも興味深い伝承が多く残されている。

目久尻川は今でも夏になれば蛍が飛び交う自然の豊かな川である。そんな谷を見下ろす北向きの斜面でもあり、崖沿いの高台には雰囲気のある雑木林も残っている。

04 相模大塚 大山街道北側の斜面

近くに墓地もあり、戦で亡くなった方々を弔う場所としてもふさわしいようにも思われたが、手がかりとなるようなものは見当たらなかった。

もう一点、「早川村と上今泉村が戦って出た死者を埋葬した」という由来についても少し気になっている。
時代はともかく、集落同士で死者が出るほど争う、というのは、一体どのような紛争だったのだろう。
古く、早川村は「渋谷荘」と呼ばれる渋谷氏(河崎氏)の支配地であり、早川城山には渋谷氏の城も築かれていたようである。一方で、上今泉村は、早川からの距離は僅か4kmほどで、早川城の渋谷氏と対峙するような勢力がいたというような情報は見当たらない。
宿場の労役負担や境界などを巡って、死者が出るほどの争いが起こったのだろうか。

05 相模大塚 北西の空

結局、塚のあった場所も、由来も、わからないことだらけ、ということがわかったに過ぎないが、最後にひとつ、色々調べた副産物、という訳ではないが、海老名市のホームページで見つけた、大塚宿に伝わる伝承を紹介しておこうと思う。

南北に谷が迫り、馬の背のような土地にある大塚宿は昔から風に無防備であった。
殊に冬の吹雪の晩はたいそう寒く、吹き溜まりで難儀する旅人も多かったそうだ。
江戸の頃、この宿場にあった大塚屋という旅籠に、とある吹雪の晩、道に迷った若い男女が一夜の宿を求めてきた。男は青白く、折り目正しい武家の青年で、連れの女はぞっとするほど美しかったそうだ。
さぞかし寒かろうと、宿の主人が火鉢を勧めても、二人とも手をかざすこともせず、そのまま布団に入って寝てしまったそうだ。
吹雪は夜通し荒れ狂い、地鳴りのように一晩中吹き荒れたが、夜明けとともに収まった。
朝になって、女中が二人を起こしに行くと、部屋に女の姿はなく、男は布団の中で冷たくなっていた。
昨晩、女中が片付けた草履は何故か一足しかなく、宿の戸口も内側から留め金が架けられたままだったという。
役人の検視が済んだ後、女中が部屋の布団を片付けようとすると、女の方の布団は人の形にずっしりと濡れていたそうである。
(海老名むかしばなし 第5集 「大塚っ原の雪女郎」より)


雪女が旅人の命を奪う、という伝説は、冬の寒さと旅の困難さを伝えるものだと思うが、この話は大塚宿が立地する土地柄も織り込まれていて、興味深い、と思う。

相模大塚の痕跡はわからなかったが、大塚宿が辿ってきた歴史の香りを少しだけ嗅がせてもらったような気がした。


(地図)
相模大塚地図


(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎氏 2007年7月 風人社
「戦国武将列伝Ω 『早川城と渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華』」 https://senjp.com/haya/
「海老名むかしばなし 第5集 『大塚っ原の雪女郎』」 海老名市ホームページ www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/tankyusha/minwa/index.html




2018/01/02

「鶴舞う里」の大きな一里塚(東京都町田市 鶴間大塚)

正月休みに座間の実家へ顔を出そうと思うが、少し早めに自宅を出て、寄り道をしてから行こうと思う。

首都高から保土ヶ谷バイパスで横浜町田インターを過ぎ、国道246号のバイパス手前の交差点を左折して246の旧道に入る。高校生でバイクの免許を取った頃はまだバイパスは開通しておらず、「246」と言えばこの片側一車線の道しかなかった。今でもこちらを通ることが多いのは、旧道が好きなこともあるが、年を取って「郷愁」が年々強くなっているせいもあるのだろう。
武蔵と相模の国境とされる境川に向かって、緩やかな南向きの斜面をゆっくりと下っていく景色は、空が広くて気持ちが落ち着く眺めだ。
赴きのある大谷戸の集落で246の旧道と南北に交わる古い道との交差点に立つ庚申塔なども風情があってよい。

この南北に真っすぐに走る道は「戸塚道」と呼ばれ、瀬谷を経て泉区の飯田から戸塚方面へと至る古くからの道で、飯田までのルートは鎌倉街道上道とも言われているようだ。
大谷戸からこの「戸塚道」を少し北上したところに、「鶴間大塚」もしくは単に「大塚」と呼ばれる大きな塚が現存している。

戸塚道は今では住宅地の中のごく普通の生活道路になっており、大塚はその道路に面した東側に残っている。

02 鶴間大塚

「鶴間」は町田市であるが、隣接して相模原市に「上鶴間」、大和市に「下鶴間」という地名がある。分割・編入が行われる以前はいずれも相模国高座郡だったそうだ。
「ツルマ」の語源はいくつかあるようだが、源頼朝が富士に鷹狩りに行くために通りがかったときに鶴が舞うのを見た、というもの、あるいは義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた、という伝説もあるらしい。

さて、塚であるが、とても大きくて立派な塚であるが、この塚についての情報は意外と少ない。

「東京都遺跡地図情報」では時代は「[中世]」、種類は「その他(塚)」となっているので、時代不明の塚の一種という、何だかよくわからない整理になっている。
塚の所在する鶴間町内会のホームページによれば、塚の高さは5mほどで、地元では「一里塚」とされているようだ。直径は10mほどはあるだろうか。

01 鶴間大塚


塚の頂には、火難及び盗難除けを祈願して祀られた奥多摩の御嶽信仰に由来する小さな石祠が建っている。

03 鶴間大塚

04 鶴間大塚 頂上の御嶽社祠


塚の中腹には「一里塚 鶴間」と彫られた新しい石碑が建っている。

05 鶴間大塚 中腹の一里塚碑

周囲はすっかり開発が進み、住宅や企業が立ち並んでいるが、少し以前までは、あたり一面、畑が広がっていたようである。「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」という40年ほど前に発行された書籍には、畑の向こうに鬱蒼とした木立を背負って聳える大塚の写真が掲載されている。
「今昔マップ on the web」で見ると、一面に桑畑の記号が広がる中、南北に真っすぐ伸びた街道に面して、塚のマークが見えている。

06 明治39年 2万分の1「長津田」より(今昔マップon the webより)
(中央赤矢印が鶴間大塚、その左脇を南北に通るのが戸塚道こと旧鎌倉街道上道、画面右上から斜めに横切っているのが大山街道こと国道246号の旧道、画面左下に黒く境川 今昔マップon the web 明治39年測図、42年製版「長津田(二万分の一)」より該当部分を拡大)


このあたりの地形は、500mほど西を境川が南北に流れる高さ15mほどの高台の上であるが、塚がある場所から高台の縁までは300mほど離れている。一里塚にしては大きくて背も高いので、もとは古墳だった可能性も・・・と思っていたが、立地からするとやはりこれは一里塚なのであろう。

とは言え、少し合点が行かないのであるが、これが一里塚であるならば、道の反対側にもあったようにも思うが、「今昔マップ on the web」で見ても、明治39年の地図には道の反対側には何も描かれていない。道路拡幅に伴い、一里塚の片方が削平された、という例も多いように思うので、不思議なことではないのかも知れないが、この道はどうも拡幅されたようには見えない。
桑畑への開墾で削平されたのであれば、両方とも削られてしまうようにも思う。
さらに、これが一里塚なのであれば、地図上を街道沿いに南北へ辿れば、隣の一里塚も残っているのではないか、と思い、いろいろ探してみたのだが、周辺には一里塚やその跡地、伝承などもさっぱり見当たらない。

一里おきに道の両側に一里塚がある、というのは江戸時代に整備された街道の特徴なのであろうから、鎌倉時代までに自然発生的(?)に成立した鎌倉街道の一里塚は、一定間隔にある訳でも、道の両脇に必ず塚がある、という訳でもないのかも知れない。

そうだとすると、こうした一里塚は、たまたま誰かが、何かの目的で、街道沿いに築いた塚、ということなのだろうか。
(そうではなく、昔からそこにあった古墳だったんじゃないの?と、ノドまで出かかっているのであるが・・・。)

いずれにしても、果たして、この塚の正体は一体・・・。


(地図)
鶴間大塚地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「鶴間町内会ホームページ」 http://www.tsuruma.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「旧鎌倉街道探索の旅 上道編」 芳賀善次郎著1978年10月 さきたま出版会
「ホントに歩く大山街道」 中平龍二郎著 2007年7月 風人社




2017/12/19

桜に囲まれた静かな神社と方墳(茨城県 潮来市 大生殿神社/大生殿塚古墳、釜谷古墳群?)

前回は偶然見かけた貝塚古墳群と思しき塚を紹介したが、仕事まではまだ時間があるので、もう少し先の「大生殿塚古墳」まで行ってみようと思う。

再び県道187号線を北に向かうと、ひっそりと静かな築地の集落に差し掛かる。
腰を深く曲げた野良着の老婦人が一人、道路脇に立っている。少し速度を落として通り過ぎてから、バックミラーを見ると、クルマが通り過ぎるのを見届けた彼女はゆっくりと車道を横切り、畑の中へと歩いていく、その姿がバックミラー越しにゆっくりと遠ざかっていく。
時間に追われながら古墳巡りをしているような自分とは、何と言うか、人生の深みの度合いのようなものが全く違うなあ、と思う。

集落を抜けると、左右に畑が広がって見晴らしがよい中を、道は北北西に向かって真っすぐに伸びている。
このあたりは「大生原」という場所らしい。

<追記>
恥ずかしながら、この時点では事前に何の予備知識も持たずに現地を訪れたが、帰ってから調べると、「大生」は「オフ」もしくは「オウ」、「オホウ」と読み、ヤマトタケルの神話にもその名の見える歴史ある場所であるだけでなく、古代、この地を治めたとされる「大生氏」を巡る古代史上の「謎」を秘めた場所であるらしい。大生氏を巡る謎は非常に奥深いようなので、また回を改めて紹介したい。

<大生殿塚古墳>
小さなタクシー会社のある十字路を右折して、老人ホームの前を東へ進むと、カーナビでは雑木林の中を北へ道が分岐していることになっているが、どうにも見当たらない。仕方なく北側から迂回すると、今度は道は見つかったものの、この道、果たして、この前クルマが通ったのは一体いつだったのだろう、といった感じの心細い未舗装の道である。意を決して進むと、右手の木立の向こう、高く大きな小山の上に神社の社殿が見えて来た。

神社の名は「大生殿神社」と言い、社殿は「大生殿塚古墳」の大きくて高い墳丘上に建てられている。

01 大生殿塚古墳

社殿へ上る石段脇には神社の由緒などが記載された石碑が建っており、それによるとこの神社は中世にこの地方を治めた大生弾正平定守を祀っているらしい。

02 大生殿塚古墳

大生弾正平定守は、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣へ向かう途上、駿州藤枝で病気に罹り、没する際に「後世この病に罹る者は必ず救う」と言い残したため、大生の領民が大生殿霊神としてこの地に祀ったのだそうだ。神前で杉の葉をもらい受け、その杉の葉と葭(ヨシ)を使って門口に徳利を下げておくと家内に病魔が入って来ない、と伝わるそうだ。

03 大生殿神社由来

社殿に手を合わせ、写真を撮る許しを請う。墳丘上の社殿から見ると、下から見上げるよりも高さを感じる。

04 大生殿塚古墳 墳頂より

古墳の墳丘は、古くは上円下方墳と考えられていたらしいが、調査の結果、現在では全長23m、高さ3.5m、周溝を持つ二段築成の方墳で、7世紀中頃の築造と考えられているようだ。

05 大生殿塚古墳

拝殿の後ろに回るのは何だか少し畏れ多いが、墳裾は周囲をぐるっと一周することができる。

06 大生殿塚古墳

周囲は三方を鬱蒼とした木立に囲まれており、他に人の気配は全くない。
そろそろ時間も迫ってきたので、最後に社殿に向かって一礼し、東側、クルマで入ってきた一画に戻った。

植えられているのは桜の木だろうか、今日は人の気配がなく寂しげな雰囲気だが、春になれば地元の氏子の方々が花見にやってくるのだろうか。

07 大生殿神社の桜

大生弾正殿の末裔の人々は一体どんな人々なのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、桜の木々の向こうに見え隠れしている社殿にもう一度目をやった。
きっと大生弾正殿もそんな賑やかな季節を心待ちにしていることだろう。

08 大生殿神社と桜


<釜谷古墳群?>
大生殿塚古墳を見た後、来た道とは違う道から戻ろうと、ゴルフ場の東側を通る道へ出たところ、畑の向こうに大きな木がこんもりと見えており、その木の根元が膨らんでいるように見えた。

09 釜谷古墳群?

近くまで行ってみると、木の根元の地面は畑に半円状に突き出している。

10 釜谷古墳群?

単なる木の根太かも知れないが、石碑のようなものも建っていて、定かではないが、これも古墳か塚のひとつなのではないか、と思う。(この男には、丸い地面の盛り上がりはもはや何もかも古墳に見えるのである。)

11 釜谷古墳群?

後日調べてみると、このあたりにも「釜谷古墳群」という古墳群があるようだ。
どうやら大生原の台地上には、かなりの密度で塚や古墳があるようだが、残念ながらもはやタイムアップ、仕事に向かう時間である。次回、いつ来ることができるかわからないが、今度来る時はきちんと下調べをした上で、じっくりと巡ってみたいものである。


(地図)
大生殿塚古墳地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらぎデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




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