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2018/03/01

多摩川上流、丘陵上の首長墓墳(東京都八王子市 北大谷古墳)

昨年夏の夕暮れ、仕事が終わってまだ明るかったので、以前から気になっていた古墳を探しに行ったことがある。
ブログを始めて暫く経った頃、「古墳なう」さんから推奨頂いた「北大谷古墳」である。

「北大谷古墳」は多摩川上流域左岸の加住南丘陵上に築かれた古墳時代末期、7世紀前半の首長墓墳で、府中熊野神社古墳のそれをも凌ぐ傑出した規模の切石積み三室構造の横穴式石室を持ち、古く明治時代からその存在を知られた古墳だそうである。

八王子インターの南、小高い丘の上は農地になっていて、夕暮れの中、土の農道を進むと、遠くの農地ではあと片付けだろうか、男性の駆るトラクターのエンジン音が黄昏の丘陵上に響いていた。

見上げると、西の空は夕暮れの中、低く黒い雲が流れ、立体的で何とも奥行きを感じる光景だった。

01 丘陵上 昨年の夏、農地で見た夕景

1400年前の夕暮れも、果たしてこんな荘厳な光景だっただろうか。

流れる雲を見ながら、ふと思い出していた。
あれはいつのことだっただろう、だいぶ以前、ある温泉ホテルに仕事で単身、長期間泊まり込む機会があった。
あの時も季節は夏だった。
朝から晩まで、精神的にもハードな仕事だったが、仕事を終えた後は毎晩、営業終了間際の屋上大露天風呂に浸かった。
終了間際の露天風呂は人影も疎らで、毎晩のように「貸し切り」の大きな湯舟で星空を見上げながら、明日の仕事の進め方をあれこれ考えたものである。
とある晩、いつものように一人、風呂から夜空を眺めていると、向こうの山の端から見事な満月が、音もなく、静かに昇ってきたことがあった。
中空に明るく輝く月を見ていると、柄にもないが、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の旋律が聞こえてくるような気がした。


そんな、半ば忘れかけていたような出来事を思い起こしながら、「タンホイザー」を口ずさみつつ、その日はそこで暫くの間、流れて行く雲と沈む夕陽を眺めていた。

気が付くと周囲はすっかり薄暗くなっており、古墳探索はまたの機会、ということにした。


あれから季節は巡って今日は2018年の早春、だいぶ日差しが春めいてきたな、と思っているところに、八王子での仕事が午前中で片付いた。ちょうどよいので、帰りがけに北大谷古墳に寄ってみようと思う。

前回夕陽を眺めた農道を再び辿り、丘陵上を行くと、畑の向こう、地面が盛り上がって見えているのが墳丘のようである。

02 北大谷古墳遠望(北から)

以前は石室がむき出しになっていたらしいが、石材の傷みが激しいことから、現在は埋め戻されているらしい。
墳丘の周囲にはフェンスが巡らされており、立ち入りはできないように見えるが、オヤコフンさんのブログにもあるとおり、斜面を少し下ると解説板があり、さらに進むとフェンスが途切れ、墳丘に近づくことができる。

03 北大谷古墳現地解説

04 北大谷古墳墳丘 南西から

05 北大谷古墳墳丘 南から


近寄って見ると、墳丘のほぼ中央が縦に少し窪んで見えている。あのあたりが埋め戻された石室であろうか。

06 北大谷古墳墳丘 近景

07 北大谷古墳墳丘 近景

この古墳は古く明治32年に発掘が行われたが、発掘される以前は南側に石室が開口していたそうである。
発掘以前に盗掘を受けていたらしく、遺物は発見されなかったようだ。
その後、昭和8年、平成4年にも調査が行われた結果、墳形は直径39m、高さ2.1mの円墳若しくは方墳とされているらしい。

墳丘脇の斜面を登り、東側に回り込むと、墳丘は丘陵の頂が緩斜面となって下り出すギリギリのところを利用して築かれているのがわかる。墳丘はこちらから見るとそれほど高さを感じない。

08 北大谷古墳墳丘 北東から

この古墳の特徴は何と言っても周辺で同時期に築造された古墳を凌駕する規模の切石積みの横穴式石室を持つ、という点にあるそうだ。
石室の構造は前室・中室・玄室(羨道・前室・玄室)の三室構造で全長は10.01m、玄室は胴張り型で最大幅3.16mもあり、同じく複室構造で胴張り型の切石積み玄室を持つ武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳、多摩市稲荷塚古墳や白井塚古墳よりも全長、玄室幅とも遥かに大きいのだそうだ。

築造時期は稲荷塚古墳よりは僅かに新しいものの、熊野神社古墳などには先行するものと考えられているらしく、稲荷塚古墳が八角形墳、熊野神社古墳や天文台構内古墳が上円下方墳と特徴的な墳形であるところからすると、この北大谷古墳の墳形も単なる円墳・方墳ではないのではないか、などと思ってしまう。

熊野神社古墳のような葺石の痕跡は見つかっていない一方で、丘陵の北側は丘陵と墳丘を画するように周溝の痕跡が発見されているらしい。

7世紀前半と言えば、推古天皇の摂政であった聖徳太子が遣隋使を派遣、太子亡き後、朝廷内で蘇我氏が権勢を奮っていた、そんな時期である。
畿内では飛鳥寺や法隆寺などが相次いで建立され、古墳祭祀から寺院祭祀へと埋葬・祭祀の方法が移り変わろうとする過渡期にあたり、日本で古墳というものが造られた最期の時期でもあるようだ。
古くからの風習が新しく伝えられた文化に置き換えられようとしていた、そんな時期に、この地にこれだけの規模の石室を持つ伝統的な「古墳」を作った人物は、一体どんな人物だったのだろう。

古墳の規模からすれば、被葬者は多摩川上流域でもかなりの勢力を持った首長であったであろう、とされるものの、墳形や葺石の有無などの相違から、特殊な墳形で葺石を有する熊野神社古墳の被葬者とは身分が異なる人物、と考えられているらしい。

想像を逞しくすると、多摩川上流域を代々支配してきた首長(国造若しくは郡司?)として傑出した勢力を永らく維持しており、武蔵国府に中央から赴任している国司との関係も相応に有していて、中央の最新の情報が得られる立場にありつつ、仏教というものには警戒感を抱きながら、国司を凌駕する豊富な資金力を有するものの、残念ながら国司ほどの官位は有していないことから、上円下方墳や八角形墳などの築造が認められない、旧来からの伝統を重んじる在地豪族、といったイメージを抱くのであるが、いかがであろう。(古墳の主に怒られてしまうだろうか。)

それにしてもここは東京近郊であるにも関わらず、どこか懐かしい里山の雰囲気が色濃く感じられる場所である。
古墳の南西側は木立が途切れて眺望が開けていて、遠く八王子の市街地だろうか、人家が密集しているのが見えている。
木々の芽はまだ固いようだけれど、好天の高台の雑木林は陽だまりで暖かく、墓所というよりは桃源郷のように穏やかである。

09 丘陵上からの眺望

もしかすると、ここに古墳を築いた人物は、ここが後世、開発の手の及ばない、1400年経っても変わらず穏やかであり続ける、そんな場所であることが実はわかっていたのではないだろうか。

桃源郷のような丘の斜面で、少し春の気配のする風に吹かれながら、唐突に、そんなことを思った。


(地図)
北大谷古墳地図



(参考資料)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 1995年3月 多摩地区所在古墳確認調査団
「多摩のあゆみ 第137号 多摩川流域の七世紀代古墳」 2010年2月 財団法人たましん地域文化財団
「墳丘からの眺め 北大谷古墳」 http://massneko.hatenablog.com/entry/2017/10/01/000000





2018/02/20

名古屋の「繁華街」に残った古墳(2)(愛知県名古屋市 日出神社古墳、大須二子山古墳跡(大須古墳群)、白山神社古墳)

尾張一宮からの帰途、新幹線の時間を遅らせて、名古屋市中区大須周辺の古墳を見に来ている。

那古野山古墳から北に300mほど、台地上を東西に走る若宮大通という大きな道路がある。
日出神社はその若宮大通の南側に鎮座している。

<日出神社古墳>
日出神社の社殿も古墳の墳丘上に建てられている、とされていて、那古野山古墳にあった解説板にもあったとおり、この日出神社古墳も、もともとは5世紀頃に築造された前方後円墳であった、とされているようだ。

01 日出神社遠景

社殿は東を向いて建てられており、鳥居をくぐった先、野菜の露店が出ている駐車場の向こうに参拝者のための賽銭箱があるけれど、社殿への扉には鍵が掛けられている。

02 日出神社近景

社殿に向かって手を合わせ、写真を撮らせて頂きたい旨、お願いしてみたものの、さて、周囲は建物が立ち並んでいて、どちらへ回り込んでみても、社殿の建っている墳丘はよくは見えない。
仕方がないので周囲の石柵の隙間から写真を撮ってみたが、神様のお許しが頂けなかったのだろう、ピントがうまく合わず何だかよくわからない写真になってしまった。

03 日出神社拝殿

墳丘を見るのは諦め、いったん境内を出て、もと来た道から南側へ回ってみると、こちらの一画はビルか何かの基礎工事をしているようで、少し距離はあるが、日出神社の杜が見えている。

04 日出神社古墳遠望

工事関係のクルマが駐車している場所に入らせてもらい、カメラを頭上高く掲げながら1枚撮影させてもらった。気が急いて水平に撮れなかったが、社殿は人の背丈の倍くらいの高さに建っているようで、ずいぶんと高さがあるようである。

05 日出神社古墳遠景

目的の大須古墳群のうち、墳丘が残っていると思われる古墳は以上であるが、那古野山古墳のマウンド以外はほとんど見えなかったせいか、些か物足りない。もう一つだけ、どこか近くの古墳を見に行きたい。

「古墳マップ」で調べると、東に2kmほど行けば、さらに古墳があるようだ。やや南東方向の鶴舞には八幡山古墳と一本松古墳、北東方向には白山神社古墳というものがあるらしい。
八幡山古墳は「東海最大の円墳」で直径82m、国の指定史跡で魅力的であるが、そうなるとすぐ近くの一本松古墳も見たくなってしまい、キリがなくなってしまうので、周辺に別の古墳マークの見当たらない白山神社古墳に行ってみることにした。

白山神社に行くには、バスや地下鉄を使っても、結局最後は徒歩で行くしかないようである。ここから歩いても30分ほどなので、直接徒歩で向かうことにした。

若宮大通を東へ向かうと、久屋大通に向かって緩やかな下り坂となる。同じ熱田台地上でも、西端の熱田面と中央の大曾根面とでは3mほどの高低差があるようだ。
大通り公園から北上して瓦通りを東に進み、栄の繁華街を抜け、西白山まで来ると、白山神社はもうすぐそこである。

<白山神社古墳>
住宅やマンションが立ち並ぶ一画に突然、見上げるほどの高さの小高い丘が姿を現す。
頂上の神社へと階段が続いている。

06 白山神社(古墳後円部)

07 白山神社(古墳後円部)

墳頂の社殿で手を合わせた後、南の方向を見ると、境内が細長く続いている。

08 白山神社(後円部から前方部)

白山神社古墳も前方後円墳とされ、北側の社殿の建っている部分が後円部、細長く伸びている境内が前方部のようだ。

09 白山神社(前方部から後円部社殿)

下へ降りて今度は下から境内を見上げてみた。高さも結構あるようだ。この独立丘全体が古墳の墳丘なのだろうか。もしそうだとすると、墳丘は相当の高さになる。

10 白山神社(古墳括れ部)

「古墳:探訪」というブログによると、古墳は全長85m、後円部直径47m、高さ6m、前方部幅50mで、名古屋市教育委員会が平成19年に行った試掘調査で墳丘の周囲に盾形周濠が確認されたほか、円筒埴輪の破片が採取されたことから、5世紀中頃の築造と考えられるそうだ。
伝承によると古墳の主は「尾張氏」若しくは「物部氏」であるという。

今日は朝から4基の古墳を見て来たが、選んだわけではないものの、いずれも墳形は前方後円墳で、それらが歩いて30分ほどの範囲に分布している。

関東を中心に古墳を見ていると、昨日の一宮今伊勢古墳群もそうであったように、前方後円墳は古墳群の主墳として稀有な存在であって、周辺には複数の円墳群を従えて(?)いる、といったパターンが多いように思う。
多くの前方後円墳が立ち並んでいる、という構図は、それほど多くの古墳を見ている訳ではないので偉そうなことは言えないけれど、見た範囲の狭い知識からすると、さきたま古墳群や多摩川台(荏原台)古墳群といったような、国造の支配拠点だったであろう地域を除くと、さほど多くはないのではないだろうか。

この白山神社古墳と鶴舞にある古墳、大須古墳群とは少し距離があるので一括りにしてしまっていいのかわからないけれど、鶴舞の古墳も、八幡山古墳は円墳であるが(ただし巨大)、一本松古墳もやはり前方後円墳であるし、追記で後述する大須二子山古墳も前方後円墳であったとされる。
さほど広くない範囲にこれだけ前方後円墳ばかり多く築かれた背景は、一体どういったものなのだろう。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)は東征の途次、尾張国造の祖とされる乎止与命(オトヨノミコト)の元を訪ね、娘の美夜受比売(ミヤズヒメ、日本書紀では「宮簀媛」)と婚姻の約束をしたとされる。東征後、倭建命はこの地へ戻り美夜受比売と結婚、草薙劔を置いたまま伊吹山の荒ぶる神の征討に向かい、戦いの末、深手を負って亡くなったとされる。
この、乎止与命は天火明命(アメノホアカリノミコト)を祖神とする一族で、物部氏と同系とされるようだ。
前方後円墳がヤマト政権の象徴、政権から統治を正式に認められた地方豪族のみが築造を許されたものであるならば、倭建命と外戚関係を結ぶほど関係が深く、ヤマト政権中枢との距離が近いことを以って、前方後円墳の築造が許可され、支配が長期にわたったことから国造家代々の墓所として数多くの前方後円墳が累々と築かれていった、ということなのだろうか。

さあ、あまり気は進まないが、東京へ帰るとしよう。やらねばならぬ仕事が山積している。
どうせなら、仕事も前方後円墳の形にでも積みあがれば多少、モチベーションが上がるのだが。


(地図)
大須~白山・鶴舞地図



(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「古墳:探訪」 https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/c20e2711bef5700cab01dc96c2c2a2bb







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2018/02/20

名古屋の「繁華街」に残った古墳(1)(愛知県名古屋市 浅間神社古墳、那古野山古墳(大須古墳群))

愛知県一宮市で旧知の知人と会い、昨夜は名古屋駅前のホテルに泊まった。
翌朝、折角なので東京へ戻る新幹線の時間を遅らせて、名古屋市内の古墳を見てから帰ることにした。

名古屋で古墳と言えば、熱田神宮近くの断夫山古墳や白鳥古墳、守山区の志段味古墳群などが有名なのであろうが、そこまで足を延ばす時間はなさそうである。「古墳マップ」で物色したところ、地下鉄で二駅ほどの大須観音周辺にいくつか古墳が残っていて、「大須古墳群」と呼ばれているらしい。
今日はこれを見て帰ろうと思う。

名古屋駅の東には、比高差10mほどの台地(熱田台地の熱田層)が南北に細長く伸びており、台地の北端に名古屋城、南端には熱田神宮がそれぞれ占地している。大須観音は台地のちょうど中ほどにあるが、西側すぐ近くまで、台地に細長く食い込んだ侵食谷が伸びてきている。
朝の通勤時間帯は既に過ぎており、いつも混んでいる印象のある地下鉄も乗客は疎らであった。
大須観音駅で下車して地上へ出ると、すぐに前方に大須観音が見えて来た。

<大須観音>
目的は「コフン」であるが、観音様の目前を素通りするのもあまりに失礼かと思い、大きな拝殿の階段を上って手を合わせた。
境内は思いのほか広く、2月にしては穏やかな朝陽を浴びて、ハトたちも平和そうである。

01 大須観音

大須観音は元々、岐阜県の大須(羽島市、昨日行った石刀神社もそうであった。)にあったものを、名古屋の城下町建設に際して、徳川家康がこの地に遷座したのが始まりだそうだ。国内最古の古事記写本を始め、貴重な文献を多数所蔵しているらしい。
意外なことに、江戸から明治、大正、戦前までの永きにわたり、この一帯は名古屋で一番の繁華街として大変賑わったそうである。大須観音、万松寺、若宮八幡社などの境内では芝居や相撲、曲芸などの興行が連日のように行われ、戦前までは文句なく名古屋随一といわれた盛り場であったそうである。
そうした土地柄ゆえ、上代の古墳など残っていそうにないのであるが、幸い、いくつかその痕跡を残しているようである。観音様には畏れ多いけれど、先を急がせて頂くとしよう。

<浅間神社古墳>
大須観音から東へ伸びる商店街のアーケードを100mほど進み、一つ目の十字路を右折すると、すぐそこに「富士浅間神社」の鳥居と御社が見える。

02 富士浅間神社

明応4年(1495年)に後土御門院の勅令で駿河本宮富士浅間神社より分霊を勧請したそうで、社殿は古墳の墳丘上に建てられている、とされる。

03 富士浅間神社近景

見たところ拝殿の基壇は盛り上がっているようには見えないので、拝殿脇から後方を見せて頂くと、石で法面が覆われているが、確かに後方にある本殿の基盤は2~3mほど高さがある。墳形や規模、築造年代などはいずれも不明であるが、おそらくこれが墳丘の名残、とされる部分であろう。

04 富士浅間神社古墳


<那古野山古墳>
浅間神社から商店街のアーケードへ戻り、そのまま北に進むと、周囲をビルに囲まれた一画に小高い小山のようなマウンドが姿を現す。

05 那古野山古墳遠望

遊具などはないが小さな公園として整備されており、マウンド中央には頂上へ至る階段が設けられている。

06 那古野山古墳墳丘

先ほどの浅間神社の境内も含め、この一帯は明治の廃仏毀釈で廃寺となるまで「清寿院(富士山観音寺)」という修験道の寺院の境内であったそうで、那古野山古墳は「浪越山」とも呼ばれたこの寺院の境内の築山若しくは富士塚の一部が残存したものと考えられているようだ。

07 浪越公園案内

現存するマウンドの大きさは直径22m、高さ3m余りで、前方後円墳の前方部が削平され、後円部が遺存したものと考えられていたようだが、名古屋市教育委員会が平成7年に行った墳丘確認調査の結果、「古墳の墳丘と考えられた土の多くは、中世以降の盛土」であるとされた。とは言え、埴輪などの遺物も多く出土したことから、「中世盛土の下、若しくは近くに古墳があることも確実」なようだ。

08 那古野山古墳墳頂

現在残っているマウンドは、「5世紀中~後半の古墳を大幅に改変盛土したものが、近世の「浪越山」であり、現状の那古野山古墳でもある」ということのようである。

この調査で墳形に関する確認が行われたのかどうかわからないが、鶴舞中央図書館の発行した「浪越山盛衰記」という資料によれば、古墳はやはり「前方後円墳」であったとされ、元治2年(1865年)に出土した高さ48cmの須恵器(「有蓋脚付短頸壺」)は先ほどの浅間神社で保管されているそうである。

江戸時代の浪越山と浅間神社の姿は、天保15年(1844年)に発行された「尾張名所図会」の「清寿院 善篤寺 大須大門前」の挿絵に見ることができる。

09 尾張名所図会 大須 清寿院(部分)

(右上赤矢印が浪越山(「庚申山」?)、左下赤矢印が浅間神社(「富士権現」?)。浪越山前方には細長い尾根のようなもの(前方部?)が続いており、浅間神社は高いマウンドの上に描かれている。)

明治24年の地図でも、一面が市街地として黒く塗り潰された中、大須観音の東に旧清寿院の境内と思われる一画があり、そこに大小二つの「塚/古墳記号」のようなものが見えている。

10 明治24年「名古屋(二万分の一)」(部分)

(上下に並んだ上が「浪越山」、下は判別しづらいが「浅間神社古墳」か? 「今昔マップ on the web」 明治24年測図、明治26年7月発行 「名古屋(二万分の一)」より。)

名古屋随一の繁華街として都市化が急速に進む中、幸運にも寺社の境内に取り込まれたことで開発の波に飲み込まれることなく、今日までその姿を留め得たのであろう。

長くなったので、続きはまた次回。

(地図)
名古屋大須地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「名古屋の幻の富士山 浪越山盛衰記」 2011年12月 名古屋市鶴舞中央図書館
https://www.library.city.nagoya.jp/img/kensaku/osusume/adult2011/hoshi2_201112.pdf
「大須二子山古墳の画文帯仏獣鏡」 名古屋市博物館 http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_02/index.html
2018/02/19

尾張一宮の平地古墳(2)(愛知県一宮市 西宮社古墳、上町屋古墳、野見神社古墳、でんやま古墳(今伊勢古墳群))

愛知県一宮市在住の旧知の知人宅に呼ばれたので、それまでの時間を使って、旧中島郡今伊勢村界隈の古墳を回っている。
見たい古墳はまだたくさんあるのだが、人生についてしみじみ考えだしたりしているうちに、だいぶ時間が押してきてしまった。

<西宮社古墳>
石刀神社から南西方向、石刀駅に向かって800mほど戻ると、西更屋敷地区の住宅街の中ほどに、裾をコンクリートで巻かれた一画が見えてくる。

01 今伊勢西宮社古墳遠景(北から)

「大和國古墳墓取調室」というHPによると、現状の大きさは25m×9mほど、かなり変形しており、古くは西宮社(サグチシャ)という祠が建てられていたそうである。

02 今伊勢西宮社古墳近景(北から)

「今昔マップ on the web」でこの周辺を見てみると、明治24年の地図ではこの場所に神社マークは見当たらないので、祠はそれよりも以前、相当古くに移設されたのかも知れない。

「西宮社」と言えば「えびす様」を祀る神社であろうが、ここにあった「西宮社」との関連はわからないが、800mほど北東に「西宮社」という神社が今でもあるようだ。ただし、こちらの詠みは「ニシミヤシャ」のようである。

03 今伊勢西宮社古墳近景(南から)

古墳は明治41年に調査されたらしいので、その時点では祠は既になかったのではないか、とも思える。調査の際、須恵器が出土したことから、古墳の築造時期は7世紀とされているらしい。
解説板などもなく、ただの空き地にしか見えないのが残念であるが、想像を膨らませれば墳丘上に祠が建っていた頃の光景が・・浮かばない、でもない。

04 今伊勢西宮社古墳墳丘


<上町屋古墳>
西宮社古墳前の道を西へ100mほど進むと、細い道が交差する小さな五差路に至る。五差路の右前方に見えている秋葉社のお堂の向こうに上町屋古墳の低い墳丘が見えている。

05 今伊勢上町屋古墳前の秋葉社

06 今伊勢上町屋古墳遠景

先ほどの西宮社古墳以上に、単なる空き地のようにしか見えず、知らされなければとてもこれが「古墳」だとは思わないだろう。

07 今伊勢上町屋古墳近景(南から)

手前の路地を左の方(西)に進んで振り返って見ると、円形(?)の墳裾と1.5mほどの高まりがわかる。

08 今伊勢上町屋古墳近景(西から)

「大和國古墳墓取調室」によると直径12m以上の円墳ではないか、とのことで、昭和14年の調査で川原石積みの石室が発見されたらしい。墳頂には石材が露出しているらしいが、いくら見た目は空き地でも、土足で立ち入るのは躊躇される。

09 今伊勢上町屋古墳墳丘

こちらも「今昔マップ on the web」で明治24年の地図を見比べて見ると、祠のマークは現在の秋葉社のあたりではなく、この墳丘のあるあたりに付されているように見える。「秋葉社」は「火除け」の神様とされる「秋葉大権現」を祀る社で、どうりで、少し西側一帯の字名は今でも「権現西」である。

昭和14年発行の「一宮市史」を見ると、今伊勢村馬寄には「富士塚」、「展望塚」などがある、とされている。
いずれも高さは残っていないので、「富士」にも「展望」にもとても所縁はなさそうに思えるが、西宮社古墳と上町屋古墳のいずれかが、この「富士塚」、「展望塚」に当たるのかも知れない。


さて、時計は既に15時を回っており、一宮へ戻る名鉄電車の時刻を調べると、残念ながらここでタイムアップとなった。
以降はネット上の情報だけになるが、見に行き損ねた残りの古墳についても紹介だけしておくことにしよう。

<野見神社(野見神社古墳)>
●名鉄今伊勢駅から西に400mほどの宮後地区にある。
●神社拝殿西南の竹藪の中にあり、墳丘の規模は直径20m高さ1m、周囲には周濠跡らしき低地がある。
●出土品に勾玉、石製模造品の刀子、埴輪等がある。
(出所:「延喜式神社の調査」 阜嵐健氏)

<でんやま古墳>
●野見神社から北東に300mほど。
●直径22m、高さ3.8mの円墳で、半分ほど残存していた墳丘を昭和36年に発掘調査し、管玉が出土。
●5世紀前半(前Ⅲ期)の築造と推定。
(出所:「今伊勢古墳群」 東海工務設計事務、Kon氏)
●1992年の発掘調査で竪穴式石槨が見つかり、墳丘も約40mの帆立貝形前方後円墳、築造も4世紀代の所属が推定されている。
(出所:西上免遺跡 愛知県埋蔵文化財センター調査報告書)

でんやま古墳については場所も墳丘の存否もよくわからなかったが、「今昔マップ on the web」で明治24年の地図を見ていて、でんやま古墳ではないか、と思われる塚/古墳記号のようなものを見つけた。

10 でんやま古墳?(今昔マップon the webより)

(赤矢印が「塚/古墳」記号? 「宮後」の文字の少し上が現在の今伊勢中学校のあたりで、左下の鳥居が野見神社。「今昔マップ on the web」明治24年測図、明治26年9月発行「竹鼻町(二万分の一)」より。)


石刀駅から名鉄電車に乗り、一宮に戻る車窓から遠めに見えはしないか、と思っていたが、見えたのか見えなかったのかもわからないうちに、電車は滑るように一宮駅の高架ホームに着いた。
いつの日か必ずやリベンジを心に誓いつつ、この後、旧知の知人との「飲んだくれ」の夜は静かに更けていくのであった。


(地図)
今伊勢古墳群地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「大和國古墳墓取調室」 馬見古墳群調査委員会 http://obito1.web.fc2.com/
「今伊勢古墳群」 東海工務設計事務、Kon氏 http://akon.sakura.ne.jp/owari/imais-ko.html
「延喜式神社の調査」 阜嵐健氏 http://www.geocities.jp/engisiki/index.html
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html





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2018/02/19

尾張一宮の平地古墳(1)(愛知県一宮市 車塚古墳、石刀神社古墳(今伊勢古墳群))

旧知の知人から誘いを受け、愛知県一宮市へ行くことになった。
仕事を遣り繰りして昼前の新幹線に乗り、一宮駅前には13時半に着いた。
知人宅へ行くまで2時間ほどあるので、それまで古墳を見ようと思う。

一宮市は濃尾平野の中ほどにあって、尾張国一宮の「真清田神社」が鎮座している。
地盤は概ね平坦で、標高20mの北東部から、南西にむかってなだらかに下っている。市域のほぼ中央を南北に縦断する東海道線のあたりの標高は8m、西端を流れる木曽川のあたりは標高4mほどで、目立った山や丘は見当たらない。
平坦な土地でも、やはり古墳はあるもので、特に北東部には浅井古墳群など、多くの古墳が残っている。
だが、浅井地区は一宮駅から距離があり、古墳の数も2時間で見て回るには多すぎる。
そこで今回は、名鉄電車で一駅、隣駅から徒歩で回れそうな「今伊勢古墳群」に行くことにした。

<車塚古墳(見当山古墳/目久井古墳)>
名鉄今伊勢駅から東へ向かう。
岐阜街道を越え、今伊勢郵便局の先を左折した一画の字名は「目久井(ムクイ)」で、どういった謂われがあるのだろうか、と思う。そんな住宅街の路地を曲がると、不意に「車塚古墳」の標柱が目に入った。

01 今伊勢車塚古墳遠景

標柱の横には解説板が立っているが、入り口には鍵が掛かっており、今日は中には入れないようだ。

02 今伊勢車塚古墳近景

03 今伊勢車塚古墳解説板

古墳は全長70mの前方後円墳とされるが、前方部は昭和43年に削平されてしまったらしい。
現存しているのは後円部のようであり、直径34m、高さは4m、5世紀前半の築造とされている。

04 今伊勢車塚古墳近景

墳丘の規模から今伊勢古墳群の盟主墳とされ、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)がこの地を訪れた際、「大神宮御鎮座伊勢之見当を御覧の山」との故事から「見当山古墳」とも、また字名から「目久井古墳」とも呼ばれるそうである。
昭和14年に発行された「一宮市史」によれば、「見當山古墳は最も完備せる前方後圓墳」であって、寛政元年(1789年)六月に大雨で墳丘が崩れた際、「鏡四面及多數の玉類刀劔、鐵製の武具・馬具等」が出土、「尾張中島宮式内郷社酒見神社に關聯するかに思はれ」る、とされている。

05 今伊勢車塚古墳東側墳丘


<石刀神社(岩戸古墳)>
車塚古墳から800mほど北上したところに「石刀(いわと)神社」という神社がある。

06 今伊勢石刀神社遠景

この神社には、「石刀祭」という祭礼に使用される江戸初期製の山車が大切に残されているそうだ。一部は戦災で焼失してしまったらしいが、それでも3台の山車が残っており、今でも祭礼では現役で使用されているそうだ。

神社の創建は崇神天皇の時代というから紀元前で、現在の羽島市付近に創建された後、平安時代(一説には南北朝時代)に現在地に遷座したそうだ。本殿は西を向いており、これは旧社地を向いているのだそうだ。
まずは拝殿で手を合わせ、写真を撮って周る許しを請う。

07 今伊勢石刀神社社殿

ところでこの社殿は「岩戸古墳」という古墳の上に鎮座している、とされ、社殿の裏に回ると墳丘の痕跡を見ることができるそうだ。

08 今伊勢石刀神社社殿下の土台

「大和國古墳墓取調室」というHPによれば「径20m以上の円墳」とのことであり、裏へ回らせてもらうと、社殿の下の地盤が50cmほど段になっており、円形になっている。これが「わずかに残された円形の高まり」のようである。

09 今伊勢岩戸古墳

10 今伊勢岩戸古墳


ところで、古墳群の名前になっている「今伊勢(イマイセ)」という地名も興味深い地名だと思う。

「伊勢神宮」(内宮)の祭神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が現在の伊勢の地に祀られるまでの間、倭姫命が遷座地を求めて各地を転々とした、という故事は「古事記」、「日本書紀」にも載っており、その、転々とした地は「元伊勢」と呼ばれる。
その「元伊勢」の第15番目、「中島宮」の候補地の一つが車塚古墳近くの「酒見神社」とされており、車塚古墳に伝わる倭姫命の伝承も、(年代が整合するかどうかはともかく)こうした伊勢神宮に関連した故事ということになる。
それにしても、「元伊勢」の地に、「今伊勢」の名が冠されているのは、一体どういった謂われによるのだろう。

一説にはここ、石刀神社のある「馬寄(ウマヨセ)」という地名の詠みが「イマイセ」に転じた、とされているようであるが、石刀神社境内の由緒書きには、「当地馬寄は往古、今寄の庄と云い」とある。

11 今伊勢石刀神社由緒書き

加えて、酒見神社の由緒書きによれば、平安時代の延久元年(1069年)、酒見神社の神主が伊勢神宮神主を兼任することになり、二百石を賜った際、「本神戸」、「新神戸」、「新加神戸」、「馬寄」を合わせて「今伊勢の庄」の名を(伊勢神宮から?)賜った、とあるようなので、これらを単純に合わせれば、

「今寄(イマヨセ)」→(転訛)「馬寄(ウマヨセ)」→(下賜/恩賜)「今伊勢(イマイセ)」

ということだろうか。

ところで「神戸(カンベ)」というのは「神社に附属して租税・課役を神社に納めた民」であるから、いずれにしてもこの一帯は相当古くから伊勢神宮と深いつながりを持っていたことになる。

古墳も、地名も、神社も、いずれもそこに伝わる由来を調べると、その土地がこれまで脈々と辿ってきた長い歴史の奥深さの一端が垣間見えて、非常に感慨深いものを感じる。
同時につくづく、一介の人間の人生の何と短いことか、とも思う。自分は一体、後世に何を遺せるだろう。

長く(重く?)なったので、続きはまた次回。

(地図)
今伊勢古墳群地図


(参考資料)
「古墳マップ」 http://kofun.info/
「大和國古墳墓取調室」 馬見古墳群調査委員会 http://obito1.web.fc2.com/
「今伊勢古墳群」 東海工務設計事務所Kon氏 http://akon.sakura.ne.jp/owari/imais-ko.html
「延喜式神社の調査」 阜嵐健氏 http://www.geocities.jp/engisiki/index.html