2017/03/10

「古墳のような」神社(埼玉 砂新田春日神社)

川越市の南部、東武東上線の新河岸駅の周辺は古くは「高階村(たかしなむら)」、字名は「砂」と呼ばれたらしい。このあたりは北東の荒川低地に向かって流れる不老川が台地を削ってできた広い谷が東西に走っており、川越街道は台地上に上ったり、谷間に下りたりを繰り返す

南から川越街道の旧道を川越市内に向かってクルマで進んでいると、不老川を渡る少し手前、高階郵便局を通り過ぎたあたりで、小高い土台の上に社殿の乗った神社が視界を通り過ぎて行った。小高いと言っても2mほどであろうか。形も古墳のようには見えなかったが、少し気になったので引き返してみた

川越砂新田春日神社01

「春日神社」とあり、1mほどの石垣の上に、さらに盛土のような部分が1.5mほどあり、その上に社殿が建っている

川越砂新田春日神社02

道路の反対側は、稲荷社の祠が建てられており、石垣も低くなっている

川越砂新田春日神社03

北東側は盛土が残っており、石垣のカドも丸くカーブしているので、古墳の雰囲気は濃厚である

川越砂新田春日神社04

立地としても、すぐ北を不老川が流れており、谷底の自然堤防のような場所なのであろうか。不老川を渡った向こうの台地斜面には岸町横穴墓群、台地上には八雲神社古墳などが近い

帰宅後、調べてみると、「埼玉古墳軍」さんのホームページに「古墳の疑いのある神社、どう見ても立派な神社古墳」として紹介されていた。「川越の観光と地域情報WEB カワゴエール」にも「明確な資料はないものの古墳の疑いがある」とある

社殿内に保管されている江戸彫彫刻の本殿は川越市の有形文化財に指定されているそうだ

川越砂新田春日神社05

川越砂新田春日神社06

それにしても「砂」とは面白い地名だ。由来はわからないが、小田原北条家と足利・上杉連合軍の戦いを描いた「河越夜戦」に、北条方の家臣として「岩本太郎左衛門須奈(すな)」という名が出てくるらしい。中世、砦などの建設に必要な砂を河川敷から採取するような場所だったのだろうか


(出所)
「埼玉古墳軍」http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/saitama/19_kwge/yakumo.html
「カワゴエール」 ㈱十吉 http://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/sunasinden-kasuga/
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2017/03/08

多摩川中流域 右岸の首長墳~(2)(東京 庚申塚古墳/塚原古墳群1号墳(和田古墳群))

稲荷塚古墳・臼井塚古墳がある舌状台地は800mほど北を流れる大栗川に向かって徐々に標高が下がっていく。稲荷塚古墳がある場所の標高は約80m、大栗川が流れているあたりの標高は60mほどなので、20mほどの標高差があることになる
この緩やかに下っていく緩斜面のちょうど中央あたりに庚申塚古墳、さらに下がって丘陵の末端近く、大栗川を望む高台に塚原古墳群がそれぞれ残されている。稲荷塚古墳・臼井塚古墳から、大栗川を挟んだ対岸の丘陵上にある万蔵院台古墳群までを総称して「和田古墳群」と呼んでおり、稲荷塚古墳のわきに解説が設置されている

多摩市稲荷塚古墳わき和田古墳群解説00

<庚申塚古墳>
稲荷塚古墳から距離にして北に300mほど、丘陵上を南北に貫く道の三叉路の少し北側に、庚申塚古墳と書かれた案内版の立つ一画がある。標高は70mほどと、稲荷塚古墳と塚原古墳群のちょうど中間ぐらいの場所にあたる

多摩市庚申塚古墳01

道路よりも一段高くなっており、かろうじて古墳の名残りを感じるが、南側と西側を住宅と道路で大きく削られて三角形になってしまっている

多摩市庚申塚古墳02

航空写真などで見ると西側は丸みが残っているようだが、まるで8等分したピザの1ピースのような形になっている
現在の墳丘の高さは1mほど、直径は10mほどで、墳丘には川原石のような石があちこちに残っている

多摩市庚申塚古墳03

墳頂にはコンクリートの小屋の中に、赤い前掛けをかけたお地蔵様と庚申供養塔が並んで立っている
お地蔵様は風雨で摩耗してしまったのだろうか、表情は定かでないが、こうした石仏こそ、見る人の心持ちによって表情は違って見えるのかも知れない

多摩市庚申塚古墳04



<塚原古墳群1号墳>
庚申塚古墳からさらに大栗川に向かって丘陵を下ると、舌状台地の末端を横切る幹線道路に行き当たる。道路の南側に広がる瀟洒な住宅地の一画、個人宅の敷地内に見えている形のよい墳丘が塚原古墳1号墳である

多摩市塚原1号墳05

塚原古墳群は古くから多くの古墳が密集した群集墳として知られ、「武蔵名勝図会」にも記述がある

「塚原というところは古塚数ケ所ありて、山谷にあり。大なる塚もなく、いまは十四、五ケ所なり。もとは四、五十ケ所ありて、大抵列をなせりと云。或は元弘の合戦のとき、鎌倉の軍勢の屯したる旗塚なるべしとも云。」

元々は40~50基が列を成していたという古墳群であるが、今日、墳丘が現存するのはこの個人宅内の1基だけのようだ。現存する1号墳の墳丘は直径10m、高さ2mとなっている

多摩市塚原1号墳06

この古墳群では昭和38年以降、現在までに9基が確認されている。いずれも直径10m台の円墳で、築造は最も古いもので6世紀中葉、新しいもので7世紀中葉とされている。主体部が検出された4基はいずれも自然石をそのまま使用した横穴式石室であるが、うち2基は胴張り型の複室構造とされ、4基はいずれも基準尺度として「晋尺」が使用されているらしい

多摩市塚原1号墳07

稲荷塚古墳、臼井塚古墳は基準尺度が「高麗尺」と相違があることに加えて、石室の構造材が人為的に加工された切石でなく自然石であること、築造場所が相対的に低いこと、墳丘の規模や墳形の相違などから、塚原古墳群は数世代にわたって営まれた在地の豪族層の群集墓ではないか、と言われている

丘陵の中腹に50基もの円墳が列をなして累々と広がる光景は、それだけでも迫力あるものだっただろうが、その向こうの高台に、一回りも二回りも大きい八角形の古墳が周囲を睥睨するかのように聳えている光景はさぞかし圧巻だったことだろう。残念ながら全ては想像の彼方、遥か昔の光景である

多摩市夕景(桜が丘公園)08

(出所)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 多摩地区所在古墳確認調査団(1995年3月)
「多摩のあゆみ137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳」 財団法人たましん地域文化財団
2017/03/08

多摩川中流域 右岸の首長墳~(1)(東京 稲荷塚古墳/臼井塚古墳(和田古墳群))

多摩川の河岸段丘上には数多くの古墳が築かれているが、古墳時代前期から中期にかけての有力首長墳は下流域に集中して築造され、中流域に古墳群が出現するのは5世紀末以降、古墳時代の後期になってからとされている。今日はそうした中流域の古墳をいくつか見て回ろうと思う

<稲荷塚古墳>
多摩丘陵の北辺、多摩川の河岸段丘が支流の大栗川と乞田川に削り出された舌状台地上、北向きの広い緩斜面の一段高い高台に明治時代に祀られた恋路稲荷神社がある
南側の道路から1mほど盛り上がった敷地に、さらに2mほどの高まりがあって、神社の社殿はその上に建っている

多摩市稲荷塚古墳01

多摩市稲荷塚古墳02


稲荷塚古墳はこれまでに何度か調査が行われており、昭和27年の調査では、神社の建設に際して墳丘上部が削平された際に天井部分が失われていたものの、切石造りの胴張り型、複室構造の横穴式石室が発見された

多摩市稲荷塚古墳03

平成2年の調査では周溝が検出され、その形状から古墳の形状が国内でも稀な八角形墳であることが判明したそうだ。築造は7世紀前半、全長7.7mで切石造りという傑出した石室構造もさることながら、八角形墳という国内でも稀な墳形から、在地の豪族とは系統の異なる人物の墓である可能性があるとされている

多摩市稲荷塚古墳04

現在見えている2mほどの高まりが2段築盛の上段で直径22m、神社建設で削平される以前は4mほどの高さがあったものとされている。下段は直径34mで、幅2mの周溝で周囲と区切られていたらしい

多摩市稲荷塚古墳05

石室はその後、覆屋で覆われた状態で一般公開されていたようだが、もともと石材が脆かったことから風雨で劣化が進み、平成9年に保存のために埋め戻されている。現在はコンクリートブロックで石室の形状と地中の位置がわかるようになっている

多摩市稲荷塚古墳06

椿だろうか、満開のまま落ちた花が墳丘を飾っている

多摩市稲荷塚古墳07

古墳の北側には江戸時代、資福院という黄檗宗の寺院があったらしく、墳丘脇には二代目の住職の墓が残されている

多摩市稲荷塚古墳08

周辺は公園になっていて、今日は平日で人気がないが、綺麗に並べられた椿の花からすると、普段はさぞかし賑やかに違いない

多摩市稲荷塚古墳09

多摩市稲荷塚古墳10


この地に赴任して在地の豪族を治めたであろう古墳の主も、資福院のご住職も、揃って目を細めているだろうか

<臼井塚古墳>
稲荷塚古墳の西50mほどのところに、切石造りの胴張り型、複室構造を持つ古墳がもうひとつ見つかっている
昭和27年に稲荷塚古墳と共に調査された臼井塚古墳で、墳丘は既に失われていたが、こちらも全長5mの石室を持つ傑出した古墳だったそうだ。現在は埋め戻されて畑の下に眠っている

多摩市臼井塚古墳跡11

臼井塚古墳はその後、調査はされておらず、墳形や規模等は不明であるが、二つの古墳の石室は、尺度の基準(高麗尺)や使用石材の種類(凝灰岩)など、構造上の類似点が多いらしい。築造順は臼井塚古墳の方が新しいとされるようだが、両者はごく近くに隣接して埋葬されているので、近親者同士の墳墓ではないかとも言われているらしい
想像を豊かに膨らませれば(これを『妄想』というのかも知れないが)、二つの古墳の被葬者は遠く離れたこの地へ赴任してきた支配者とその妃だったのかも知れない

多摩市臼井塚古墳跡12

もしそうだとしたら、二人はもう1400年も隣り合わせて眠りについていることになる
西の空を見上げながら、できれば自分の人生もそのように穏やかでありたいと思う

多摩市臼井塚古墳跡13


(出所)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 多摩地区所在古墳確認調査団(1995年3月)
「多摩のあゆみ137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳」 財団法人たましん地域文化財団
2017/03/07

住宅地に残る「前方円墳」?(東京 高倉塚古墳(高倉古墳群))

10年ほど前、会社勤めをしていた頃に仕事で分倍河原へ暫く通っていたので、高倉塚古墳という名は以前から目にしていたが、実際に訪れる機会はこれまでなかった
熊野神社古墳を見た後、陽が沈むまでまだ時間があったので、急いで行って見ることにした。春めいてきてだいぶ陽も長くなったので、古墳巡りもなかなか効率がよい

高倉塚古墳は、南向きのなだらかな斜面に広がる高台の住宅地にあった。思いがけず大きな墳丘だ

府中高倉塚古墳(北から)

国府に近いことから、古くから国造、国司の墳墓であるという言い伝えがあり、信仰の対象とされてきたらしく、武蔵名勝図会や新編武蔵風土記稿にも「高座塚」、「高倉塚」としてその名が見えるそうだ

府中高倉塚古墳解説板

このあたりでは府中崖線を「ハケ」と呼ぶそうで、高倉古墳群はこの「ハケ」上の斜面に30基ほどの古墳が確認されているようだが、墳丘が残るのはこの高倉塚古墳を含め数えるほどしかないようだ

府中高倉塚古墳周辺図

墳形は直径20m、高さ2.5mの円墳とされているが、1995年に出版された「多摩地区所在古墳確認調査報告書」によると、以前は墳丘一面、笹や木々で覆われており、北側墳裾は削平されていて今よりも傾斜が急だったらしい。東西の長さ21.7mに対して南北は15.9mと細長く、墳頂から西に向かって墳丘が尾根状に張り出ていたことから、50年ほど以前は「前方円墳」と呼ばれていたらしい

府中高倉塚古墳(南から)

その後、復元整備されたのか、墳丘はほぼ円錐状に見えるが、西側(上の写真では向かって左側)は住宅敷地が墳丘に食い込んでいる。それでも墳丘が保存されたのは貴重なことだと思う

そう思って見ると、墳丘からの眺めはやはり一味違う感じがする

府中高倉塚古墳(墳頂から北方向)

子供の頃、滑り台の上から周囲を見下ろした時の高揚感のような不思議な感覚が、何故だか急に蘇った。今も昔も、人間の発想というものは案外、こんな単純なものなのかも知れない

(出所)
「多摩地区所在古墳確認調査報告書」 多摩地区所在古墳確認調査団(1995年3月)
2017/03/07

全面石葺きの巨大な上円下方墳(東京 武蔵府中熊野神社古墳)

個人的に、古墳の魅力のひとつは、古墳が辿ってきた「時の経過」にある、と思っていた
1500年もの長きにわたり、風雪に耐え、そしてその風雪とは比べものにならないほど凄まじい近年の開発の嵐にも耐えてきた、その表情というか、周囲の風景に溶け込んだ風情に心惹かれるのだと。

そんな理由で、昨年の夏以降、毎週のように目の前を通過していながら、熊野神社古墳に立ち寄ることはなかったのであるが、百聞は一見に如かず、とはまさにこのことであった

武蔵府中熊野神社古墳全景(南から)

初めて見る石葺きの墳丘は圧倒的な威圧感を周囲に放っていた

武蔵府中熊野神社古墳(南西から)

築造当時の写真がある訳ではないだろうから細部は想像なのだとしても、この大きさの人工的な構造物を目前にすると、とにかく圧倒される

武蔵府中熊野神社古墳(北)

武蔵府中熊野神社古墳(北西)

この存在感、威圧感こそが、当時の人々が抱いた感覚なのだろう

武蔵府中熊野神社古墳(南東)

武蔵府中熊野神社古墳(南東から逆光)

古墳は7世紀中頃、つまり飛鳥時代に入ってから築造された3段築盛の上円下方墳で、高さは復元後で6m、表面に石が葺かれているものの中では最大・最古のものらしい
1段目は基壇のような茶色い部分で、一辺32mの正方形、葺石は見られないが、周囲を四角い縁石が一周している
2段目は一辺23mの正方形、葺石・貼石で全面が覆われており、南面を切り込む形で石室への入り口が設けられている
一番上、3段目は直径16mの円形をしており、全面が石で葺かれている
墳丘のそれぞれのサイズは1:2:√2の関係にあり、中心線もほぼ磁北の方向を向いているらしく、当時の文化的な完成度の高さにも驚かされる

武蔵府中熊野神社古墳展示館内

熊野神社古墳は、墳形も特殊であるだけではなく、周辺の古墳群からも独立した場所に立地している。他の古墳群が府中崖線に近いところに作られているのに対して、熊野神社古墳はそれらから500mほど北に離れており、西府駅前の御嶽塚古墳などよりも4mほど標高が高いところに位置している
築造時期から見ても、畿内政権が律令体制による全国支配を開始した時期で、各地で自由に古墳が作られなくなる時期でもあることから、そうした律令体制の規制下にあってなお、これほど大型の古墳を築造することができるほど卓越した権力を維持していた人物だったのではないか、とされている
後年、近くの大国魂神社には武蔵国の国府も置かれ、東山道武蔵路も通る古代政治の要衝の地となったことからも、かなりの有力者が統治していたに違いない

ついつい古墳にばかり目が行くが、熊野神社の本殿、拝殿も江戸時代の神社建築を今に伝える貴重なものだ

熊野神社拝殿

熊野神社解説板

見上げれば今日は空が青い

熊野神社青空

神社敷地の南側には古墳展示館と石室の復元展示室があり、発掘調査の様子や、「七曜文」という古い様式の文様の刻まれた刀の鞘尻金具、ガラス玉などの出土遺物が紹介されている。何より古墳の詳しい解説パンフレットなどが無料で配布されているのが素人考古学者にはうれしい

神社近くでは早咲きの桜だろうか、満開の花が西陽を受けて風に揺れている

熊野神社あたり早咲きの桜

熊野神社あたり早咲きの桜

復元整備前の古墳の様子はご~ご~ひでりんさんの「古墳なう」に貴重な写真が掲載されている。風雪に耐えた素朴な墳丘の姿は、やはりこれはこれで趣深く、この目で見てみたかった。
他にも「古墳なう」には、ライトアップされた古墳や雪化粧して鏡餅のような古墳の様子も紹介されている。

(出所)
「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳」 府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課
「古墳なう」 http://gogohiderin.blog.fc2.com/
「多摩のあゆみ137号 特集 多摩川流域の七世紀代古墳」財団法人たましん地域文化財団