FC2ブログ
2018/04/06

新座市内の古墳痕跡?(埼玉県新座市 夫婦塚跡(No.25遺跡)/稲荷塚(富士塚)跡(No.1遺跡))

新座郡の前身である新羅郡は郡境の閑地に置かれたことから、古墳はあまり多くは築かれず、古墳空白地帯となったのかも知れない、と書いたことがあった。
一方で、いやいや、きっとそんなはずはない、新座市にも古墳は実はたくさんあったに違いない、と思(願)いつつ調べていたところ、「新座市史」にこんな記述を見つけた。 

「No.25遺跡 畑中一丁目 
黒目川左岸の野火止台地、国道254号線の南方約150mに所在
『夫婦塚』と呼ばれる円墳と方墳の存在が伝えられるが、現在は宅地化されて消滅」

 「No.1遺跡 東北二丁目
 野火止台地上、東武東上線志木駅の西南約200mに所在
 県の遺跡台帳では『稲荷塚』(地元では字名から『富士塚』)と呼ばれ、志木駅を中心とする大塚古墳群に含まれている。
 昭和55年9月5日、宅地造成工事に伴い試掘調査を行い、土盛りを分断したところ土層は柔らかい黒色土のみであり、古墳らしい形跡は何ら認められなかった。よって当遺跡は古墳ではなく、時期不詳の塚であった可能性が高い」 

知らなかったのは不勉強な私だけなのであろうが、ほ~れ、見たことか。やっぱり古墳、いっぱいあったんじゃん、と思い、仕事のついでに見に行くことにした。(後者は『古墳ではなかった』というくだりは、もはやこの男の目には入っていないのである。)

 <夫婦塚(No.25遺跡)>
 練馬から川越街道を北上、和光市、朝霞市と進むと、やがて前方に野火止台地へ上る長い上り坂が見えて来る。台地の手前、崖下を縫うように流れているのが黒目川であり、目指す「夫婦塚(No.25遺跡)」はこの黒目川を望む台地上の縁にあったようである。 

川越街道から南に逸れて「畑中」という信号で右折するとすぐに台地上への上り坂が始まる。この道は明治時代の地図にも載っている古くからの道のようである。
 やがて坂の頂上付近に大きなマンションが見えて来る。 

01 新座市夫婦塚跡付近

新座市史に載っている「No.25遺跡」の位置図を見ると、遺跡はこの大きなマンションの敷地から、今通って来た道路を挟んで反対側の住宅地の方まで、およそ100m四方ほどの範囲にわたっていたように書かれているが、「現在は宅地化されて消滅」とあるとおり、あたりを見回してもそれらしい痕跡は見当たらない。
 
02 新座市夫婦塚跡付近
 
03 新座市夫婦塚跡付近

新座市史の他には全く手掛かりがなく、「夫婦塚」と呼ばれた円墳と方墳が一体どこにあったか皆目わからないのであるが、「夫婦塚」と呼ばれたのであれば、円墳と方墳はそれなりに近い距離に並んであったのではないだろうか、と思うし、相応の大きさの墳丘を伴っていたのではないだろうか、と思う。 
いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見ても塚や古墳を示す記号は見当たらなかったが、このあたりに人家の記号が目立ち始めるのは時系列的には昭和51年の地図以降であるので、それ以前の航空写真を見れば墳丘の痕跡などが映っているかも知れないと思い、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」で戦後の航空写真を穴が開くほど凝視してみたが、この一帯は「広葉樹林」だったようで、一面に広がる木立に埋もれてしまっているのか、判然としなかった。 

04 夫婦塚周辺航空写真(昭和22年) 
 (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和22年撮影(M676-106)の現地周辺を拡大 何となく中央やや上に丸い影があるような気もしないでもないが・・・。) 

<稲荷塚(富士塚、No.1遺跡)>
 時間もあまりないので、続いて志木駅の南西200mにあったという時期不詳の塚、「稲荷塚(富士塚)」を見に行こうと思う。 
こちらは新座市史の遺跡位置図の縮尺が大きすぎて、事前に場所が絞り込めていなかったが、志木駅南西にその名も「富士塚公園」という公園があるので、ここがその跡地なのだろうと思い、100mほど北、イオン裏のコインパーキングに運よく空車があったのでクルマを停めた。 
徒歩で富士塚公園に向かう前、もう一度、「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見てみた。 
やはり今、富士塚公園のある場所に塚・古墳マークは見当たらないな、と思った矢先、その100mほど北方に奇妙な記号があることに気が付いた。 
記号はゲンゴロウかミジンコのように見えたが、地形図にそんな絵が描かれているはずもなく、もしかするとこれは「塚・古墳マーク」ではないだろうか、と思う。

 05 今昔マップon the webより明治39年 2万分の1「志木」(部分)  

大正、昭和の地図で見ても同じ場所に「塚・古墳」記号が描かれているので、おそらくこれが昭和55年まであったという「稲荷塚(富士塚)」であろうと思う。国土地理院の航空写真でも、丸い塚の墳丘が確認できる。

06 稲荷塚周辺航空写真(昭和50年)  (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和50年撮影(CKT7415-C16A-14)の現地周辺を拡大 中央上に斜めに志木駅、中央下、丸で囲んだ部分が稲荷塚(富士塚)と思われる場所) 

そうか、ではこの場所は現在のどこにあたるのか、と思ったところでハタ、と気づいた。
今、クルマを停めたばかりのこの駐車場を取り囲む建物の向きがどうもおかしい。敷地がほぼ円形をしているのである。
 07 新座市稲荷塚跡


位置的にもおそらくここが稲荷塚(富士塚)の跡地で間違いないように思う。 

今回訪ねた塚・古墳はいずれも開発で消滅してしまっていて、手掛かりもさほどなく、その痕跡を探すだけに留まったけれど、こういう不完全な探索行も、これはこれでなかなか面白いものだ。 

おっと、いかんいかん、仕事の時間に遅れてしまいそうである。 

夜、帰宅してから少し文献を当たってみたところ、「埼玉の古墳(北足立・入間)」という書籍の「荒川流域右岸の古墳」の項の末尾に、「(伝)大塚古墳群」として以下のような記述があった。

 「(伝)大塚古墳群
  柳瀬川と荒川の沖積地にのぞむ志木市域には、『埼玉縣史』に『志木町古墳群』が登載され・・・『朝霞町の西北に接して柳瀬川・新河岸川に臨める台地に多くの古墳を存し、主として円墳で字大塚の塚ノ山は其の以て地名を来せるものであり、其他田子山の富士、久保の二墳、稲荷山の二墳、二塚の二墳、出口の休塚等其の数可なりに多きを見られる。』・・・しかし志木市史編さんにあたって、文献、古地図、実地調査、聞き取り調査を行ったが古墳と認められる墳丘はなかった。・・・昭和55年段階では古墳群と認められないという結論に達し・・・その後の調査でも、古墳と認識できる資料は発見されていない。・・・野火止塚は・・・台地の奥にあり、古墳の可能性はきわめて薄い。そのほかの『塚』も古墳とは考え難いものである。」 

「稲荷山の二墳」というのは志木駅南西の「稲荷塚」であろうし、「夫婦塚」は言及されているのかよくわからないが、これを読む限り、塚の山古墳も含め、このあたりの塚はいずれも古墳ではない、という文意に読める。
 専門家の方々が「古墳ではない」とするものを、それでも「古墳!」と言い張るつもりはない。
 ないのであるが、それでも遠い昔、誰かが何かしらの意図を以ってこうした塚を築いたことは確かであって、そうした人々は果たしてどのような思いをこれらの塚に込めたのだろうか、また、近世になって削平されるまでの間、そうした古塚は人々からどのように思われていたのだろうか。 
余計なお世話かも知れないが、そんなことをつい、思ってしまうのである。

 (地図) 
夫婦塚跡地図


稲荷塚跡地図



(参考資料) 

「新座市史 第一巻 自然・考古 古代中世 資料編」(新座市立図書館デジタルアーカイブ)http://www.lib.niiza.saitama.jp/das/detail?24&id=1 

「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html 

「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」1994年 埼玉県教育委員会

「埼玉の古墳(北足立・入間)」2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会





2018/03/29

桜吹雪と富士塚(神奈川県川崎市 登戸富士塚/浅間社)

仕事帰り、いつものようにクルマで登戸周辺を通り掛かった。
もう夕方の五時を回っているが、陽が長くなってきてまだまだ当分明るいので、どこか寄り道できるところはないかと「ガイドマップかわさき」の遺跡地図を見ると、向ヶ丘遊園駅近くの神社に古墳マークが付いている。
遺跡番号:「多摩区No.14」、種別:「古墳」とあり、「古墳マップ」で調べてみると、どうやらこれは「登戸富士塚」という名前の、歴とした「古墳」のようである。

府中街道を左折して住宅街に入ると、途端に道幅が狭くなる。生活道路で多くの人々が行き交っているので恐縮しつつ慎重に進むと、ほどなく左手に浅間社の鳥居が見えてきた。神社前は路上駐車できるような道幅はないので、神社の脇道を入ったところにある月極駐車場の端に少しだけ停めさせてもらって、急いで神社の鳥居に戻る。

01 登戸富士塚古墳・浅間社遠景

境内の桜はだいぶ散り始めていて、参道は桜の絨毯のようになっている。

02 登戸富士塚古墳・近景

参道脇では三猿を従えた青面金剛さんが「おい、お前、無断駐車はいかんぞ」と仰っている(ように思える)。

03 登戸富士塚古墳庚申塔青面金剛像

富士塚の土台は古墳をそのまま利用しているらしく、「古墳マップ」によれば直径17m、高さ2.2mの円墳とのことである。墳丘上には清宮伝右エ門なる人物が文化3年(1806年)に祀った、とされる浅間社の祠があって、桜吹雪が西陽を浴びながら、はらはらと舞っている。

04 登戸富士塚古墳墳頂浅間社

祠に手を合わせ、急いで境内を出て西側から全体を見渡してみる。多摩川沿いの沖積低地にあるからだろうか、墳丘の立ち上がりだけでなく、墳丘のある場所は周辺よりも若干高くなっているように見える。

05 登戸富士塚古墳西から

これ以上の無断駐車は忍びないので、東側に停めたクルマに急いで戻り、見上げればここからも古墳がよく見えている。古墳と、墳頂の浅間様にもう一度手を合わせた。

06 登戸富士塚古墳東から

大急ぎで忙しなかったけれど、桜吹雪が印象深い、趣き深い古墳であった。

07 登戸富士塚古墳 墳頂の桜


(地図)
登戸富士塚古墳地図



(参考資料)
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「古墳マップ」 http://kofun.info/





2018/03/28

鎌倉古道と刑場伝説の塚(神奈川県横浜市 泣坂、餅塚)

町田市の木曽富士塚の桜があまりに見事だったので、もう一ケ所、寄り道したい場所がある。
横浜市青葉区に「田奈」という場所がある、と以前書いたが、その田奈と恩田川を挟んだ南岸、横浜市緑区の高台に「餅塚」という塚があり、桜の時期はとてもきれいなのだそうだ。

緑区の「緑区遺産」にも選ばれている「餅塚」は、横浜線十日市場駅の西、東名高速が足元を通る標高60mほどの台地の南端にあり、近くには「泣坂(なきざか)」という名の古い坂道や、「北門(ぼっかど)古墳群」という興味深い名前の古墳もあるらしい。
この「北門古墳群」はまた別の機会に譲ることにして、今日は「泣坂」を上って「餅塚」を見て帰ろうと思う。

横浜線の十日市場駅前の少し西で交差点を右折、高架の東名高速をくぐると道は急な上りに差し掛かる。これが現代の「泣坂」である。旧道は細道で右方向に逸れていくが、右折できないのでそのまま直進すると、ほぼ坂を上り切った「泣坂上」交差点で、右から旧道が再び合流してくる。旧道はそのまま新道を横切って左へと上って行くので、ここから旧道に入ると、道はさらに高台を上へ上へと上っていく。

「泣坂」というのもずいぶんとインパクトのある名前だが、緑区のホームページによると、古くは近くに処刑場があって、罪人が泣きながら上った、あるいは、罪人の泣き叫ぶ声がこの坂道まで聞こえて来たのでその名がついたのだそうだ。泣坂の由来も気になるが、まずは「餅塚」に陽が沈む前に辿り着かねばならない。
塚は旧道南側の一帯に広がる大きなマンション群の向こう側にあるので、住宅地を大きく南側に回り込んで行かねばならない。左折して登り、また左折して登り、を繰り返すと、ようやく高台を上り切ったのか、前方の家並みの向こうに夕焼け空が見え、高台の縁の道をそのまま進むと、公園の一画に大きな小山が見えてきた。

01 餅塚遠望

小山の上に登ると、頂上はもう一段、2mほど高くなっており、これが「餅塚」のようである。

02 餅塚

03 餅塚上の碑

緑区のホームページによると、餅塚の由来は、このあたりで茶屋を営んでいた老婆が餅を売っていたため、とある。
一説には、その老婆と娘さんがある日、山賊に襲われて命を落とした、という何とも悲しい伝承もあるらしい。
無闇に立ち入ると祟りがある、とされ、以前は雑草が生い茂るままになっていたそうだ。
昭和30年頃までは小さな祠があったそうであるが、その祠が朽ち果ててしまったので、塚の供養のため、昭和60年に地元の方々が石碑を建てたのだそうだ。

04 餅塚上の碑

05 餅塚上の碑

石碑に向かって手を合わせ、改めて見渡せば、塚上はひときわ小高く、周囲の眺望は抜群である。

06 餅塚上より北方の眺望

06 餅塚上から南方の眺望

眺望もよいが、周囲の桜もまた見事である。

08 餅塚の桜

09 餅塚の桜

茶屋を営んでいたという老婆やその娘さん、茶屋で一服した旅人たちも、一日の終わりに果たしてこんな光景を見たであろうか。

10 餅塚上の空

沈んでゆく西陽を見ながら、それにしても、何故ここに「茶屋」や「処刑場」などの伝承が残されているのだろう、と思った。

家に帰り、地図を眺めると、旧道は歪んだS字型に大きく蛇行して急斜面を南東から北西へと上っており、そのまま進むと旧大山街道の長津田宿、片町の地蔵堂に至る。調べてみると、どうやらこの道は鎌倉街道の中ノ道から上ノ道への古くからの連絡路であったらしく、南は霧が丘からズーラシアのあたりを通って鶴ヶ峰へと通じていたようである。街道沿いで眺望のよい高台ということであれば、水をどのように確保していたかはともかく、茶屋があった、というのも頷ける話ではある。(一説によれば、さらに古くはS字の旧道は東へもっと大きく蛇行しており、横浜線の向こうまで迂回していたそうである。)

一方で、処刑場と言うと、鈴ヶ森や三田、小塚原といった江戸の刑場が思い浮かぶ。
これらはいずれも江戸市中を出た外側に置かれており、結界としての意味合いを持つ「忌み地」のような場所でもあっただろう。同時に、こうした場所を街道沿いに置くことで、罪人の行く末を往来に「晒す」という意味合いもあっただろう。

恩田川周辺には鎌倉時代、恩田氏という有力武士がいたそうであるし、餅塚から南西に2kmほど離れた高台にある旧城寺の一帯には、室町時代、上杉憲清が築いたとされる「榎下(えのした)城」という山城があったそうである。餅塚近くの古墳群の名前にもなっている「北門(ぼっかど)」という地名はこの榎下城の北門を差すのではないか、という説もあるようだ。いつの時代かわからないが、榎下城の所領地の「結界」として、ここに刑場が置かれた時期があったのかも知れない。

「旧鎌倉街道探索の旅」という、最近復刻版も出た書籍に、次のような記述がある。

「『古道のほとり』(という書籍)には北門(ボクカド)について次のようにある。『ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる』と。」

この牧場の支配者が誰であったのかどうかはともかく、いつの頃か、ここに牧が置かれた時期があったのだろう。
所領地の外れの高台で近くに古墳などもあったため「忌み地」とされ、刑場が設けられた時期もあったのかも知れない。戦乱の世が終わると街道沿いで眺望がよいので茶屋ができ、そこで餅が売られたのだろう。不幸にも茶屋の主が命を落とした悲惨な出来事が、街道を行き交う旅人から巷間へと伝わる中で、古く刑場があった時代の伝承と相俟って、「餅塚」、「泣坂」の伝承となって、今に伝わっている、ということなのかも知れない。


(地図)
餅塚地図



(参考資料)
「緑区遺産(登録番号011)餅塚」 緑区ホームページ http://www.city.yokohama.lg.jp/midori/60guide/midorikuisan/isan011.html
「緑区の泣坂」 はまれぽ.com http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1128
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 1981年1月 芳賀善次郎氏 さきたま出版会





2018/03/28

町田市にある木曽の富士塚(東京都町田市 富士塚(提灯塚)、木曽一里塚)

町田へ行く機会ができた。

20年ほど前まで、町田には30年近く住んでいた。
昭和40年台後半、当時は庶民の「羨望の的」であったという「公団住宅」の抽選に当たり、調布のアパートから一家四人で憧れの「団地」に移り住んだ。
団地には商店街があって、お菓子屋、おもちゃ屋、本屋と、子供の心を釘付けにする魔法のような店ばかりでなく、喫茶店やスーパーマーケット、銀行まで全てが揃っており、なんとまあ便利で快適な街であることか、と子供心に思ったものだ。
近所にはそこかしこに公園や芝生の広場があったし、七国山という里山も近かったので、とにかく遊ぶ場所に事欠くことはなかった。テレビゲームやファミコンなどというものは中学生になるまでお目にかからなかったので、雨でも降らない限り、家で遊ぶなどという発想はなかった。毎日のように、全速力で学校から帰るや否や、玄関でランドセルを放り出しては、陽が落ちて友人の顔が見えなくなるまで外で遊びまわっていた。

かつては羨望の的であったはずのマンモス団地も、平成も30年を過ぎ、築50年を経てすっかり老朽化が進み、住人も高齢化が進んでいると聞く。そりゃそうだろう、子供だった私がとっくに五十路を迎えているのである。
自分が通った小学校、中学校が生徒数の減少で廃校になった、と聞いた時は、普段、ニュースで他人事のように聞いていた「母校が廃校になる」という感覚は、なるほどこういうものか、と妙に納得したものである。

すっかり前置きが長くなってしまったが、町田はそんな思い出深い場所なので、ウキウキしながら「東京都遺跡地図」を眺めていると、「木曽東」という場所に「塚」のマークがあることに気が付いた。
この塚は見覚えがあった。木曽の交差点の東側、周囲にまだ畑の残る中、料金が格安であった小さなクリーニング店の裏にひときわ大きな小山のようなものがあるのを、駅へ向かうバスの車窓から毎日のように目にしていた。当時は「塚」や「古墳」に興味はなかったが、見るともなく毎日のように目にしていたので、潜在的な記憶として覚えていたのであろう。

「東京都遺跡地図」には、塚の名は「富士塚(提灯塚)」とある。例によって「時代:不明」、「種別:その他(塚)」という、何とも曖昧な整理ではあるが、そうか、あの塚は「富士塚」だったのか、と思った。
あれからだいぶ経つので、もはや開発の波に飲み込まれてしまって残っていないかも知れないが、とにかく見に行ってみることにした。

<富士塚(提灯塚)>
すっかり拡幅されて見違えるようになった町田街道を北西に進み、木曽交番前で右折して細い道を北へ向かう。この道筋は、往古、「夷参(イサマ)」と呼ばれた座間から大沼を経て、「富士塚」脇をかすめて北上、小野路から多摩丘陵を越えて府中へと向かう、古代官道の痕跡とされる道でもある。
こんなところに病院なんてあったかしら、お、この銀行は覚えてるぞ、といちいち感動しながら進むと、左前方に見覚えのある大きな木立が見えてきた。

01 木曽富士塚(提灯塚)遠景

クリーニング店は見当たらなかったし、塚の周囲に広がっていたはずの畑もコンビニの駐車場になっていたけれど、幸いなことに、塚はどうやら昔の姿そのままに残っていた。

02 木曽富士塚(提灯塚)全景

塚をこれほど近くでじっくりと見るのは初めてであるが、大きさは直径20mほど、高さは3mほどはあるだろうか、記憶の中の塚よりも大きくて、塚上には祠などが立っているようである。

03 木曽富士塚(提灯塚)麓から頂上

20年振りの再開を祝してくれている訳でもなかろうが、折しも塚上の桜はちょうど満開で、西陽にうっすら赤く染まって風に揺れている。

04 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

南側に回って見ると頂上へは階段が続いており、上まで登ることができる。

05 木曽富士塚(提灯塚)南側塚上への階段

頂上は意外に広く、浅間社の石の祠と、石碑が二つ並んでいる。

06 木曽富士塚(提灯塚)塚上の祠、石碑

由来碑は漢文であろうか、難解だが、おおよその意味は、木曽三家(さんや)には富士塚があって、その高さは1丈5尺、広さは3畝、古より道に迷った旅行者がこの塚に登り、富士を見て方向を確かめたと云う、塚上には一本松と呼ばれた老松があり、梢は雲を凌ぎ、幹には洞があって獣が住んでいたという。樹下には浅間社の小祠があったが、文化4年(1807年)に失火で老松ともども一晩で焼失してしまったが、皆で相談して幼い(稚)松を植え、碑を建てた、といったようなことだろうと思う。富士塚と言っても、中近世に多く築かれた富士講に基づくものではないようだ。

07 木曽富士塚(提灯塚)塚上の由来碑

「今昔マップ on the web」で明治の地図を見ると、「一本松」と書かれた大きな塚/古墳マークが確認できる。

08 「今昔マップ on the web」より木曽周辺
(右上赤矢印が「一本松」こと富士塚、左下赤矢印のT字路西側に後述する木曽一里塚 「今昔マップ on the web」 明治39年測図二万分の一「原町田」より木曽周辺を拡大)

周辺の地形は、塚の東側が200m四方ほどの大きな窪地になっていて、調整池と呼ばれる人口の池があり、窪地周辺は縄文から平安時代にかけての土器や土師器などの包蔵地となっているようであるが、他に大きな高低差もなく、南を流れる境川と、北を流れる鶴見川にはさまれた標高100mほどの平坦地になっている。
南北に走る古奥州街道に隣接していて、以前見た鶴間の一里塚(鶴間大塚)とよく似ているが、こちらは一里塚としてではなく、方角を確認するための物見塚として語り継がれてきたのであろう。

「堅牢地神塔」というのは初めて見るが、元禄期以降に広まったとされる「地神(ジジン)講」、すなはち春分・秋分に最も近い戊の日は田の神と山の神が交代する日であり「土を動かしてはならない」とされ、畑仕事を休み、地神様をお祀りして大地の恵みに感謝する、という民俗信仰であり、大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。

09 木曽富士塚(提灯塚)塚上の堅牢地神塔

見上げれば、西陽に染まった桜と青空しか視界に入らない。

10 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

11 木曽富士塚(提灯塚)塚上の桜

ところで、「木曽」の「三家」というのはこのあたりの字名であって、「三家」というのは近くのバス停の名前にもなっているので馴染みが深いが、その由来については耳にしたことがない。インターネットで検索しても特に見当たらないのだが、うっすらとした記憶では、何で読んだか、誰かに聞いたかも定かでないが、昔、このあたりには人家が3軒しかなかったのでその名がついた、といったことではなかったか、と思う。

一方で、「木曾」という方は「新編武藏風土記稿」にその名が見える。
「矢部八幡」という神社が市内の矢部町にあるが、昔は矢部のあたりも木曾村の一部であって、この神社に昔あった鐘の銘文によると、木曽一族がこの辺りに移り住んだためについた地名だそうだ。
因みにこの「矢部八幡」は別名「箭幹(やがら)八幡」と言い、古くは「木曽八幡」と呼ばれたらしいが、木曾氏(木曾義仲)が滅亡したために木曾の名を憚って「箭幹(やがら)八幡」と呼ぶようになったのだという。

<木曽一里塚>
ところで、富士塚から少し西に行ったところに、「東京都遺跡地図」には載っていないが、「木曽一里塚」という塚があるようなので、そちらにも行って見た。

12 木曽一里塚全景

一里塚と言うからには、塚が面したこの道も街道だったのだろうと思うが、古奥州街道は先ほどの富士塚脇の道であるはずだから、町田街道の旧道の一里塚かと思ったが、塚は町田街道の旧道には面していない。これは江戸初期の元和3年(1617年)に、駿河の久能山に祀られていた徳川家康の遺櫃を日光東照宮に移すために整備され、後に大山詣でにも利用されたルート、「御尊櫃御成道」に設けられた一里塚なのだそうだ。塚上の祠は日本狼を祀る御嶽山の「おいぬ様」こと「大口真神」の祠だそうである。

13 木曽一里塚解説

14 木曽一里塚前の御尊櫃御成道

「御尊櫃御成道」はこの塚の前を通って町田街道の旧道を左折して小野路方面に至ったらしい。ほぼ同じルートを辿りながら、古くからあったであろう三家の富士塚横の古奥州街道を通らずに、わざわざ別ルートを経由した、ということは、江戸初期には既に富士塚横の道は廃れてしまっていたのであろうか。
前述の明治の地図を見ると、確かに富士塚横の道沿いにはほとんど人家は描かれておらず、まさに「三家」状態のようである。大切な「御尊櫃」の御成に際して、何かと便利な木曾村中心部を通るルートが選ばれた、ということなのかも知れない。

今回は懐かしさのあまり、つい長くなってしまった。当時は知る由もなかったが、子供時代を過ごした懐かしい土地に刻み込まれていた、古から積み重ねられてきた歴史の「記憶」をこの年齢になって初めて知った。
出張先で浮かれてばかりおらず、もっと自らの出自の地で研鑚に励むべきかも知れない。


(地図)
木曽富士塚、一里塚地図



(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html




2018/03/12

那珂川を望む台地上の「十三塚」(茨城県那珂市 西木倉古墳群(十三塚)、東木倉古墳群)

一本松古墳を見に行った後、東側の河岸段丘上にある「西木倉(にしきのくら)古墳群」にも立ち寄ってみることにした。

一本松古墳のある「上河内(かみがち)」は段丘下の沖積低地で行政区域は水戸市であったが、東隣の段丘上に位置する「西木倉」は那珂市になるようだ。
昭和30年の町村合併で「那珂町」となる以前、西木倉地区を含む台地上の一帯は「五台(ごだい)村」と呼ばれていたそうである。台地上の五つの村(豊喰新田、東木倉、西木倉、中台、後台)が合併したのでそのように名付けられたのだそうだ。

<西木倉古墳群(十三塚)>
広々とした田圃の中を北東方向に進み、狭い坂道で20mほどの高さの崖線を上る。道の両脇は鬱蒼とした雑木林で、昼なお暗い急な坂道であるが、登り切ったあたりで右手がぽっかりと開け、道路のすぐ脇に一面を笹に覆われたこんもりとした茂みが見えてきた。

01 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

笹で覆われているので一瞬、古墳かどうかわからなかったが、すぐ脇に「西木倉古墳群(十三塚)」の標柱が立っている。

02 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

03 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

「いばらきデジタルまっぷ」で調べると、「円墳9基、円墳(一部破壊)1基」の古墳群で、現況は「山林、墓地」となっている。昇寛さんの「埼群古墳館」を見ると、ここよりも北側、共同墓地の周辺に複数の墳丘があるようだ。

西木倉古墳群については、「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・」というブログに、那珂市歴史民俗資料館に関する記事が載っていて、それによるとこの古墳群は古くは「十三塚」と呼ばれており、往時は13基から成っていたのではないか、とされており、現存する10基のうち1基は前方後円墳の可能性もある、とされているらしい。

十三塚と聞くと、先日見に行った「五所塚」もそうであったように、中世の十三佛思想に基づく、村落同士の境界となる尾根筋や村外れの「忌み地」に築かれたとされる信仰塚が思い浮かぶが、この古墳群はまさに上代の古墳、ということのようである。

今見ているのは「5号墳」のようで、今通って来た道路が平成21年に建設された際、道路にかかる部分の発掘調査が行われたらしい。特段の遺物は出土しなかったようであるが、墳丘を巡る幅4mの周溝が確認され、周溝を含めた古墳の直径は35mと報告されているそうだ。

04 西木倉古墳群(十三塚)5号墳

このほか、「2号墳」、「3号墳」からは埴輪片が出土、特に3号墳は別名「埴輪塚」とも呼ばれているそうだ。ほかにもあるのかな、と思い、あたりを見回してみると、5号墳南側の雑木林の中にもうひとつ、墳丘のようなものが見えている。

05 5号墳南の林中に見えるマウンド(?)

足許が草叢で覆われている上に、おそらく私有地なのであろうから、勝手に立ち入るのは憚られるのでよくわからないが、それではほかにももっと、と思ってさらに周囲を観察して見ると、気のせいかもしれないが、道路の北側、5号墳の向かいの木立のあたりもどことなく円形に盛り上がっているようにも思える。

06 西木倉古墳群(十三塚)周辺

あんまりキョロキョロしていたせいか、向かいのお宅の住人の方が訝しそうにこちらを見ている。仕事もそっちのけで昼間から寄り道ばかりしていて、どことなく後ろめたい、そんな気持ちもある。共同墓地の方まで見に行くのは遠慮して、帰路に着くことにしよう。

この台地上は古墳群がたくさんあるようで、南東方向に少し行った「東木倉」にも古墳群があるようだし、その途中にも「狐塚古墳」という前方後円墳(?)もあるようだ。せっかくなので「東木倉古墳群」の近くまでクルマで行ってみたが、こちらも墳丘はクルマでは入って行けない墓地にあるようなので、残念ながら古墳の方角を車中から遠望するに留めた。

07 東木倉古墳群周辺
(台地上、北側より)

08 台地下から東木倉古墳群の方向を遠望
(台地下から。正面左が古墳群のある段丘)

今日もろくに下調べもせず、行き当たりばったりで来てしまい、古墳はあまり堪能できなかったけれど、考えてみれば、何とも気分のよい、晴天の里山ドライブではあった。


(地図)
西木倉古墳群地図



(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらきデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「taka3の時間つぶし・・・暇つぶし・・・パート2」 https://blogs.yahoo.co.jp/rinrintakasan/10306850.html