2017/08/22

高津区の多摩川微高地古墳(1)(神奈川県川崎市 二子塚古墳跡、北見方古墳跡(二子・諏訪古墳群))

低地古墳とか、微高地古墳という言葉は一般用語ではないかも知れないが、以前、川崎市中原区に点在する多摩川下流域の自然堤防上に残る古墳の痕跡を見て回った。
市街化の著しい多摩川下流域の平野部にあって今なお、往時の痕跡を留めている古墳はとても面白かった。
今日はその続編、という訳ではないが、幸い雨も降らなさそうなので、気分転換に中原区の上流に隣接する高津区の低地古墳を見に行きたいと思う。

高津区の北東部は多摩川に面しており、そのちょうど中ほど、厚木街道(大山街道)が二子橋で多摩川を渡っているあたりが二子地区、そこから下流に向かって諏訪地区、北見方地区と続く。この3地区にはいくつか現存するものを含め多くの古墳があり、それらは総称して「二子・諏訪古墳群」と呼ばれている。
まず最初に、二子地区にあった古墳跡から見に行ってみようと思う。


<二子塚古墳跡>
二子塚古墳は「二子」の地名の由来となった古墳で、大正時代までに削平されてしまったらしく、今となっては見ることはできないが、在りし日の姿が以下のとおり、新編武藏風土記稿に残されている。

「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり 其の一は塚の敷一段二十歩の徐地にて高さ五丈許 形丸く芝山にて樹木なし 故に土人坊主塚などいへり ・・・(中略)・・・一は少しく東の方ヘ寄てあり 徐地六畝廿九歩高さ二丈五尺あり 南の方少し欠けて上に若木の雑木生立り」

二つの塚が少し離れて並んでいたことから「二子塚」と呼ばれていて、塚の間を奥州古道が通っていた、とされる。明治39年の地図でも二つの塚が表記されており、塚の間ではないが、塚の脇をかすめて北方へと続く小路が描かれている。(明治39年の地図は今昔マップ on the webでも確認できる。)
これらの情報からすると、古墳は長さ60mほどの前方後円墳ではなかったか、と言われているらしく、川崎市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」では、昭和8年の地割図上で墳形を推定復元して掲載している。

01 二子塚古墳墳丘復元イメージ

絵心がないのでお寒い図で大変恐縮であるが、概ね上図のような位置関係であったようである。

後円部の輪郭を残していると思われる北側の小路(上図ではグレー表示となっている)は、唯一残る古墳の痕跡と言っていいのだろう、現在でも円弧を描いていて、円弧の内側、後円部があったと思われる部分は一部、空き地となっている。
無理をすれば、古墳があった頃を妄想できないこともないが、あいにく住宅地で人通りが多く、空き地を眺めて遠い目をしている不審なオッサンを皆、チラチラと横目で見ながら通り過ぎて行く。

02 二子塚古墳跡

二子塚古墳は消滅してしまったが、古墳があった場所のやや西(左)、細長い公園に「史蹟二子塚之碑」が立っている。

03 史蹟二子塚之碑

昭和43年に立てられた碑で、公園内にはこの他にもう一つ、見たところ見当たらないのだが、大正4年に立てられた「二子塚舊蹟」碑があるらしく、この碑の存在によって、少なくとも大正4年には既に「舊(旧)蹟」となっており、墳丘は姿を消していたことがわかるらしい。

古墳は大正の中頃に発掘されたと伝わり、勾玉や耳環、鈴釧(すずくしろ:周囲に複数の鈴のついた腕輪)などが出土、神奈川県庁に納められたとされるが、それらの所在は不明となっているようだ。ただし、鈴釧については写真が残っているらしく、周辺の古墳からの出土遺物との比較から、二子塚古墳の築造時期は6世紀前半頃と考えられているようである。

「史蹟二子塚之碑」の立つ公園の片隅では、川崎市内で昭和42年まで活躍していたトロリーバス(ポールで電線から電気を取り込んで走った電気バス)の実物が静かに余生を送っている。

04 史蹟二子塚之碑とトロリーバス

こういう余生の送り方は何だか羨ましい。

直感的で分かりやすい方向指示器の造形は現在でも十分、印象的である。

05 トロリーバス


<北見方古墳跡>
二子塚から府中街道を東へ350mほど進むと、右方向に旧道が直進で分岐していく。旧道を進むと、左手から道が再び合流してくる。合流してきた道は今通った旧道に代わってできた新道のようだが、現在の府中街道はさらに北方を通っている。
この古い新道と旧道との合流地点の北側に、明治39年の地図には塚のマークが見えており、川崎市市民ミュージアム発行の「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」ではこれが「北見方古墳」であろう、としている。下の写真の瀟洒なマンションが建っているあたり、がそうだと思われる。

06 北見方古墳跡?(1)

直径16mほどの円墳であったようだが、現在では古墳の痕跡を感じるものは残されていない。
だが、そう思って見れば、考えすぎかも知れないが、道路が少し湾曲しているように見えなくも、ない。

07 北見方古墳跡?(1)

おそらく無関係なはずだと、心で思っているのだが、道路脇に大きな石が埋まっていて、気になる。

08 北見方古墳跡?(1)道路脇の石

この古墳は正確な位置はわかっていないようで、川崎市の遺跡地図 「ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム」では、ここから200mほど北にあるマンションの駐車場(下の写真中央付近)に古墳マーク(高津区遺跡No.145)が付してある。

09 北見方古墳跡?(2)

一部解読不能な文字があり恐縮だが、新編武藏風土記稿では以下のように記されている。

「古塚 村の北の方にあり田間に突出せり高さ七尺餘 敷の径六間許 何塚と云うことも傳へず中古里正掘りて平田を発(?)んとせしに古陶器井(?)に壺など出しかさま〇(?)証となすべき物なし古へ故ある人の葬地などにてもあるが今は上に石の地蔵を建」

当時、既に名前も伝わっておらず、開墾のため削平・縮小していたようであるから、正確な場所がわからなくなっているのも仕方がないことかも知れないが、塚上に石のお地蔵様が建っていたというのであれば、塚はなくなっても、お地蔵様は依然としてどこかに祀られているかも知れない。

そう思って周辺を歩いてみたが、平日の住宅街、カメラ片手にウロウロするのはどうにも憚られる。
仕方がないが、諦めて次なる古墳を見に行こうと思う。次は墳丘の現存する古墳であるが、長くなったので続きはまた次回。


(地図)
高津区地図①


(参考資料)
「新編武藏風土記稿(国立国会図書館デジタルコレクション)」 国立国会図書館 http://dl.ndl.go.jp/
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ~加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年 川崎市民ミュージアム
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21




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2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(3)(岐阜県富加町 池下1号墳/閏田古墳(2号墳)/中障子2号墳)

今日は「夕田茶臼山古墳」など、富加町に残る3世紀前半築造の古墳を満喫したが、まだ少し時間がある。古墳に興味のない妻はもうすっかり飽き飽きしてしまったようなので、あちこち寄り道はできないが、親戚宅へ向かう道すがら、遠回りにならずに立ち寄れる範囲で、3世紀前半の築造ではないが、富加町内の他の古墳を見て行こうと思う。

「井高1号墳」のすぐ西の丘陵斜面には、墳形不明の「井高2号~4号墳」が分布していたようだが、古墳分布図では「滅失または損壊」となっている。少し北西には「大山車塚古墳」(円墳)が現存しているようだが、さらに北西には前方後円墳がもう1基、現存しているようである。少し遠回りになるが、ここに寄って行こう。

<池下1号墳>
井高1号墳のある滝田地区から山沿いに北西へ暫く走ると大山地区に至る。すぐ西には先ほど渡った川浦川が川下で合流する津保川が流れている。
地区のほぼ中央、大きな溜め池の北側に西公民館があり、公民館の駐車場と溜め池の境にひときわ小高い築山がある。これが「池下1号墳」である。
築造時期などは不明であるが、見たところ墳丘の長さは30mほどであろうか。駐車場の造成に際して、墳丘の北側は削平されたのだろう、築山の麓は玉石で壁が作られている。

01 富加町池下1号墳

西側の道路に近いところに古墳名が書かれた標柱が立てられている。

02 富加町池下1号墳

03 富加町池下1号墳

墳丘の南側には石段があり、上ってみると墳裾に三面多臂の馬頭観音像が数体、祀られている。

04 富加町池下1号墳

石仏の祀られているあたりから墳丘を見上げてみると、奥の方がやや高くなっているようである。

05 富加町池下1号墳

標柱が立っているあたりに踏み跡があったので、心の中で手を合わせつつ踏み跡から墳丘上に上らせてもらい、高くなっていた奥の方まで進むと、根元から何本かに枝分かれした、根っこの見事な巨木の根元に石塔が祀られていたので、合掌して非礼を詫びた。

06 富加町池下1号墳

巨木の前から西の方を見ると、段のようになった墳丘がやや細長く伸びている。
富加町教育委員会の古墳分布図では池下1号墳の主軸はほぼ東西を向いており、前方部は西向きに描かれているので、この巨木の生えている部分が後円部に当たるのかも知れない。

07 富加町池下1号墳

池下1号墳の道路を隔てた西隣、グラウンドがある辺りには「池下2号墳」があったようだが、古墳分布図では「消滅または損壊」となっている。


<閏田1号墳、中障子2号墳>
津保川を渡った向こう、西岸は大平賀地区であり、藤平神社という神社の周辺に「禰宜屋(ねぎや)古墳群」という群集墳があるようだが、方角が違うので諦めることにして、最後に津保川沿いの田圃の中にある「閏田古墳」を見て行こうと思う。

大平賀交差点の南に広がる、津保川と丘陵に挟まれた南北に細長い田圃の真ん中に、遠くから見てもすぐにそれとわかるような、こんもりとした墳丘が見えている。

08 富加町閏田1号墳

「閏田古墳」は直径20mの円墳で、以前は横穴式石室を持つ5~6基の古墳から成る古墳群で、「手をつけた者には祟りが起こる」という言い伝えがあったそうであるが開発で姿を消し、今ではこの1号墳のみ(2号墳?、郷土資料館展示ではもうひとつ現存?)となっているようだ。

09 富加町閏田1号墳

畦道を進み、山側まで行って振り返ると、こんもりとした墳丘の向こうにもうひとつ、小さな木立が見えているが、これはおそらく「中障子2号墳」ではないか、と思う。

10 富加町閏田1号墳、中障子2号墳

11 富加町中障子2号墳


見上げれば強い日差しを厚い雲が遮り、田圃を渡る風に秋の気配を感じた。

12 富加町閏田古墳上空

遠くで蜩(ひぐらし)が鳴いている。蜩の声を聞いたのは、いったい何年ぶりだろうか。

ここまで一日、古墳巡りに付き合って来た妻は、すっかり「電池切れ」の様子である。親戚宅に向かう前に、道の駅にでも寄って、冷たい甘味で「充電」していくことにしよう。


(地図)
富加町地図③


(参考資料)
「富加町詳細分布調査報告書」 2005年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/



2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓(2)(岐阜県富加町 夕田茶臼山古墳/井高1号墳(火塚))

岐阜県富加町には3世紀前半に築造されたとされる前方後円墳が複数あるという。

2世紀半ばに起こった「倭国大乱」を治めるために女王として立った卑弥呼は、その後半世紀にわたって邪馬台国を統治、248年に亡くなったとされる。
「3世紀前半に作られた古墳」と言えば、卑弥呼が統治していた時代に邪馬台国を構成していた国々か、若しくはこれに敵対していたとされる狗奴国(くなこく)の首長の墳墓、という可能性があると言えるだろう。

(ちょっとそれって凄くない??)と朝、自宅を出てから今まで、ずーっと心の中で思っているのであるが、どういう訳か、ここまでは何となく悶々としている。

今日は郷土資料館とその近隣にある2基の古墳を回ってきたが、いずれも山林の中にあり、案内板などが整備されている訳ではないので、1基はすぐ近くまで接近できたものの、果たして「これがそれ?」といった感じであったし、もう1基は近づく方法すらわからなかった。
結果としてここまでは、大変遺憾ながら、正直、「あんまり面白くなーい」のであるが、いよいよ次は「夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳」である。こちらはだいぶ整備されているらしいので、これまでとは違うはずである。(いや、絶対に違うに違いない。)


<夕田茶臼山古墳>
蓮野古墳の南側の道を東へ向かい、山あいの道を北東へ進み、式内社である佐久太神社前を通る。
佐久太神社の周辺には3基の後期古墳(北野若しくは北洞1号~3号墳)が確認されているらしいが、悶々としていることもあり、脇目も振らず、まっすぐ夕田茶臼山古墳を目指す。

古墳への登り口前には広い駐車場が整備されており、古墳の解説板も設置されている。内容は郷土資料館の展示などと重複したものだが、やはり現地に解説板があると、高揚感が違う。

01 夕田茶臼山古墳現地解説板①

02 夕田茶臼山古墳現地解説板②

見学用に整備された急な階段で標高差27mを上っていくと、北向きに迫り出した丘の頂上いっぱいに、後方部をこちらに向けた墳丘が見えてきた。

03 夕田茶臼山古墳前方部より後円部

墳丘には、墳裾から墳頂まで緑色のシートのようなものが続いているので、この上を通って墳頂まで登っていい、ということだろう。墳頂にはベンチも設置されており、西側の眺望は清々しかった。

04 夕田茶臼山古墳後円部墳頂より西側眺望

発掘調査の結果、この古墳は、もともとの丘陵地形を生かしているが、築造に際していったん地山を削平した後、岩盤上に再び盛土で造成されたものと考えられているらしい。

05 夕田茶臼山古墳後円部より前方部

古墳の築造年代については、弥生時代末期の方形周溝墓から出土するのと同じタイプである、有孔短頸の赤彩直口壺が後円部から出土しているほか、高坏やS字状の口縁台の付いた甕の破片なども多数出土しており、後円部外縁に墓壙を作るため周堤状の盛土で土手を作っている点や、木棺を直葬している点など、弥生時代の方形周溝墓に見られる特徴が数多く認められることに加え、墳頂の底部から見つかった炭化した樹木と焼けた土を用いた炭素の年代測定結果(211年~255年若しくは137年~258年)から総合的に判断して、「3世紀前半」と判断されたそうである。
古墳時代前期の前方後円墳、というよりは、前方後円形の弥生周溝墓に近く、弥生から古墳時代への過渡期の前方後円墳ではないか、とされているようだ。

06 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

発掘調査以前は前方後方墳の可能性も考えられていたようだが、発掘調査の結果、歪な後円部と未発達で歪んだ前方部から成る前方後円墳であることが確認されたそうだ。

07 夕田茶臼山古墳解説(富加町郷土資料館展示)

全長は39.5m、後円部直径24.5m、前方部長15m、前方部幅15.1m、前方部と後円部の比高差2.4m、葺石などはなく、主軸を南東に向けており、墳丘の高さが西側の方が1mほど低く作られていることなどから、西側から見ることを意識して築造されているのではないか、と考えられているらしい。

ようやく3基目で、「3世紀前半の古墳=それってやっぱり凄い!」を満喫することができ、朝からの悶々とした気分はすっかり解消された。
ただし、できればもうひとつだけ見ておきたい古墳がある。


<井高1号墳(火塚)>
来た道を戻り、再び蓮野古墳の前を通り過ぎる。役場前を北上し、川浦川を渡ると、正面に丘陵が迫って来る。
「井高1号墳」は、古くから「井高の火塚」と呼ばれ、滝田地区の田園地帯を望む丘陵裾にほぼ完全な形で残る一辺20m、高さ5mの方墳である。

08 富加町井高1号墳(火塚)遠景

09 富加町井高1号墳(火塚)解説板


言い伝えでは、大昔、この辺りに「火」が降って来た際、人々が身を隠したことから「火塚」と呼ばれているそうで、見事な横穴式の石室が開口している。

10 富加町井高1号墳(火塚)近景

11 富加町井高1号墳(火塚)石室近景

「火が降る」というのは火山の噴火か、若しくは中世の戦乱を指すのかも知れないが、いずれにしても大きな横穴式石室が生み出した伝承、ということであろう。

墳形については従来、上円下方墳とされていたらしいが、平成15年に南側道路に面したコーナー部分の墳裾が崩落、修景作業が行われた際の測量で、墳丘にいくつかのテラス状の段のような痕跡は認められたものの、上円形とされた上部にもコーナーと認められる部分が確認されたことから、現在は方墳と判定されている。

12 富加町井高1号墳(火塚)近景

なお、墳裾が崩落した際、内部から円形の礫が露出、表土を除去したところ列石が発見されたことから、築造当時は石葺きであったものと推察されているそうだ。


見学したいと思っていた古墳はこれで全て回れたが、まだ時刻は16時、まだ1時間ほど時間がある。
古墳にあまり興味のない妻は「いい加減グロッキー」な感じで助手席に座っている。さて、どうしたものか。

続きはまた次回。


(地図)
富加町地図②


(参考資料)
「古墳探訪」 富加町ホームページ http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/rekishi/kohun_tanbou.html
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「夕田茶臼山古墳埋蔵文化財周知パンフレット」 富加町教育委員会
「富加町内遺跡発掘調査報告書(平成14~17年度)」 2006年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/


2017/08/19

3世紀前半の前方後円形墳丘墓群(1)(岐阜県富加町 杉洞1号墳/2号墳、蓮野古墳)

週末に岐阜へ行くことになった。

夕方までに可児市の親戚宅へ着けばよいので、それまでの間、思う存分、好きなだけ古墳を見てもよい旨の寛大なるお許しを妻から頂いた。

岐阜県内には古墳がたくさんあって、見たい古墳が目白押しであるが、今回は下記の新聞記事が決め手となり、富加町というところに行ってみることにした。

「富加町に3世紀古墳群か 前方後円で東海最古」(岐阜新聞Web 2017.2.7)
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20170207/201702070902_28969.shtml

以下、記事を一部引用
「3世紀前半に造られたと推定される岐阜県内最古の前方後円墳『夕田茶臼山(ゆうだちゃうすやま)古墳』の近くにある前方後円墳『杉洞(すぎほら)1号古墳』が、茶臼山古墳と同時期に築造された可能性が高いことが、6日までに同町教育委員会の調査で分かった。町教委は『3世紀の墳墓が同じ地区で複数存在するのは全国的にも珍しい』としている。夕田地区には前方後円墳『蓮野(はすの)古墳』もあり、3墳墓がいずれも古墳時代前の弥生時代に当たる3世紀前半と確認されれば、前方後円形の墳墓群としては東海地方では最古となる。」
「茶臼山、杉洞1号の両古墳は墳丘の土の盛り方や棺を設置する穴の構築方法などに類似点が多く、いずれも弥生時代末期の土器片が多く出土した。有識者による調査検討委員会は『夕田地区は、非常に稀な前方後円形の墳墓が一つの谷に複数存在するという極めて重要な地域。(古墳時代に)定型化した前方後円墳が成立する前の美濃の社会状況を示す貴重な発見』としている。」

3世紀前半と言えば、下手(?)をすると卑弥呼の生きていた時代まさにそのものである。最も古い時代のものとされる纒向石塚古墳や、それこそ卑弥呼の墓とも言われる、有名な箸墓古墳でさえ、3世紀初頭から中葉にかけての築造とされるのに対して、まさか岐阜県にそうした古墳と相前後して築造された古墳があるとは思いもよらなかった。

前置きが長くなったが、百聞は一見にしかず、これを見ずして、一体どうすると言うのだ。

名古屋駅前でレンタカーを借り、各務原市の鵜沼にある「うな神」という店で昼食を済ませ、準備万端、富加町に向かった。

まず最初に訪れたのは「富加町郷土資料館」である。

富加町は、奈良正倉院に現存する最古の戸籍と言われる「御野(みの)国 加毛(かも)郡 半布里(はにゅうり)戸籍」という、大宝二年(702年)に作られた戸籍の「半布里」に当たるとされ、半布里戸籍に関する展示も興味深いものであったが、他にも夕田茶臼山古墳のミニチュア模型やパンフレットなどがあり、発掘調査報告書などの書籍も販売されていたので、まずはここで情報収集である。

00 富加町郷土資料館 夕田茶臼山古墳ミニチュア


<杉洞1号墳、2号墳>
資料館の建物を出ると正面に木立が見えている。この木立の中に、新聞記事に出ていた杉洞1号墳がある。
全身に虫よけ剤を振りかけて、意を決して突入すると、右手(北西)の方向の地面がこんもりと大きく盛り上がっていて、前方後円墳の後円部のようにも見える。最初はこれが古墳かと思ったが、どうやらこれは自然地形のようである。

01 富加町杉洞1号墳北の自然地形

案内板などが見当たらないのでよくわからないが、木立の正面奥、南西方向に見えているマウンドが杉洞1号墳だろうか。

02 富加町杉洞1号墳?

03 富加町杉洞1号墳?

近寄ってみると、中央部が陥没したように大きく沈みこんでいる。

04 富加町杉洞1号墳?

左側面に回り込むと大きな円形のマウンドに見えるが、どうも前方後円形には見えない。

05 富加町杉洞1号墳?

新聞記事によれば古墳の大きさは全長30m、後円部の直径は18m、郷土資料館で販売していた「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」に掲載されている古墳分布図では、前方部を南東(郷土資料館の展示では南西)に向けて描かれているので、今見ているマウンドが杉洞1号墳なのであれば、弥生時代末期の高坏が出土した前方部前面というのは上の写真の手前右側、下草が生えていないあたりがそうであろうか。
墳丘の下からは、古墳築造に際して廃棄されたと思われる弥生時代の住居跡が見つかったらしい。

折角の希少古墳なのであるから、解説板などを設置してもらえれば、もう少し実感が湧くのだが、数か月前に発掘調査をしたばかりのようなので、整備はこれからなのであろう。

なお、木立を100mほど西に行ったあたりの斜面中腹にはもうひとつ、墳形不明の杉洞2号墳があるらしいが、こちらも案内板などがなく、アクセス方法がわからなかったので、その方向を遠望するに留めた。

06 富加町杉洞2号墳のある木立?を遠望


<蓮野古墳>
郷土資料館の南300mほどのところにある木立の中に、新聞記事で2017年秋に調査予定とされている蓮野古墳がある。
Googleアースで見ると、木立の一部が切り拓かれて畑地になっているようで、古墳はこの畑地の西側にあるようであるが、北側の民家を通らねば辿り着けなさそうである。
仕方がないので、古墳からの距離は遠くなりそうであるが、南側の道路に回って木立越しに覗き込んでみた。

07 富加町蓮野古墳のある木立を南から

木立の中、地面が盛り上がっているようにも見えるが、古墳はもっと斜面の上の方にあるはずなので、これは古墳の盛り上がりではなく自然地形であろう。

ここまでで3世紀前半の可能性のある古墳3基のうち2基を見た(?)が、いずれも整備保存の手は入っておらず、自然な形で残されていることは大変に喜ばしいことであるが、現状では双方とも、見学にはそれなりの覚悟が必要であり、容易ではない。
今後、相応の整備が進められるのであろうが、現地への案内板や見学路の整備、現地解説板の設置などは、折角の希少古墳なのであるから、是非検討頂きたいと思う。

長くなったので続きは次回。

(地図)
富加町地図①


(参考資料)
「富加町に3世紀古墳群か 前方後円で東海最古」 岐阜新聞Web 2017年2月7日版
「夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書」 2014年 岐阜県富加町教育委員会
「古墳マップ」 http://kofun.info/




2017/08/10

縄文中期 隅丸方形の環状集落跡(東京都杉並区 下高井戸塚山遺跡)

今回は古墳ではなく、縄文時代の住居跡である。

急ぎの仕事で急に忙しくなってしまったのと、このところ関東地方は天候が不順で、出掛けてもなかなか寄り道ができずにいた。

立川からの帰り道、今日はどうやら雨は降らないようなので、久々にどこか寄り道したいが、もう夕方に近く、あまり時間もないので、近場で探したいと思う。

杉並区に「塚山公園」という場所がある。名前からすると古墳か塚のある公園なのではないか、と思い、いつも近くを通りつつ気になっていた。なかなか立ち寄る機会がなかったが、今日はちょうど都合がよい。
一体どんな公園なのだろう、と思い、ウィキペディアを見ると、縄文時代の竪穴式住居跡が公園として保存されているらしく、「古墳のミニチュアを展示」とある。古墳のミニチュアとはどんなものかイメージが湧かないが、もしかしたら、と淡い期待を持ちつつ、向かってみた。

人見街道を東へ。

話は逸れるが、人見街道は変わった道だ、と学生時代から思っていた。
東京の道路なのに、都心から放射状に延びておらず、東進すればするほど都心から逸れていく。全くおかしな道だ、と思っていたが、それも道理で、この道は東京などまだ影も形もない遠い時代からの道だそうで、府中国府から、以前紹介した上中里の豊島郡衙へと至る古代道路の名残りであるようだ。

浜田山で人見街道を離れて南下すると、ほどなく神田川を渡る。川の向こう右側に見える、緑に覆われた高台が「塚山公園」である。

01 杉並塚山公園遠景

入り口を入ったところに案内図が出ている。「古墳のミニチュア」は「管理棟」にあるらしいので、まずは管理棟を目指す。

02 杉並下高井戸塚山遺跡

公園は近所の方々が思い思いにウォーキングをしたり、犬の散歩をしたり、憩いの場として生活にすっかり溶け込んでいる感じである。
途中、案内図に「住居跡」と書いてある場所を通る。竪穴式住居跡の柱穴などのレプリカが展示してある。

03 杉並下高井戸塚山遺跡住居跡(復元)

木立の中の遊歩道を通り過ぎると、目指す管理棟が見えてきた。ベンチでは散歩中の男性とイヌくんが仲良く休憩中である。

04 杉並塚山公園

管理棟前には復元された縄文時代の住居があり、中では縄文時代のご家族が夕食準備の最中だった。

05 杉並下高井戸塚山遺跡復元住居

06 杉並下高井戸塚山遺跡復元住居内

縄文時代の住居は、時代が下ると円形から方形に変化していくらしく、ここで発見された住居跡は四隅がラウンドした「隅丸」の方形住居だそうである。

いよいよ管理棟に入る。他に見学者の姿はなかったが、入ると係の方がすぐに電気を点けてくれた。
「古墳のミニチュア」は見当たらなかったが、発掘された土器などの複製品とともに、遺跡全体のミニチュアが展示されていた。

07 杉並下高井戸塚山遺跡ミニチュア

遺跡の中央部分は祭祀用のスペースで、住居跡が祭祀址を中心に環状に並ぶ「環状集落」だそうである。そればかりでなく、地中からは武蔵野台地で最古の旧石器時代のナイフ型石器が発見されているようである。

08 杉並下高井戸塚山遺跡解説

木立の切り株にはキノコが生えているし、少し崖を下れば神田川があり、飲料水にも事欠かない。確かにここは生活するにはもってこいの場所だったのだろう、と思う。

09 杉並塚山公園内

10 杉並下高井戸塚山遺跡遠景


公園を出てふと見れば、公園前の道は鎌倉街道であった。

11 杉並塚山公園前鎌倉街道

12 杉並塚山公園前鎌倉街道解説

古えの鎌倉街道も、今ではすっかり地元の生活道路となっている。

13 杉並塚山公園前鎌倉街道

結局、「塚山公園」には古墳も塚もなかったけれど、すっきりしない天気が続く中、縄文時代からの永い歴史が現代の生活にすっかり溶け込んだ心地よさのようなものを見せてもらった気がした。

さあ、こちらも帰って仕事の続きを仕上げてしまうとしよう。

(地図)
杉並下高井戸塚山遺跡地図


(参考資料)
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」 東京都教育委員会 http://tokyo-iseki.jp/map.html#
「杉並区立塚山公園」(案内パンフレット)



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