2018/01/14

沖積平野の微高地「神社」巡り(1) (埼玉県吉見町 高負彦根神社/ポンポン山、天満宮/頭殿神社)

イチゴを買いに行こうと思う。

埼玉県吉見町と言えば「吉見百穴」で有名な町であるが、最近は「イチゴ」の生産にも力を入れているらしい。

今や全国津々浦々に「道の駅」があるが、吉見町の道の駅は「いちごの里よしみ」といって、イチゴ押しである。道の駅好きで、しかも大のイチゴ好きの妻をドライブに連れて(古墳がある町へ)出かけるにはこの上ない。

吉見町は東に荒川、西に吉見丘陵が広がっており、丘陵端の崖面に穿たれた「吉見百穴」を始め、一説には500基以上の古墳が密集する地域らしい。4世紀前葉の築造で古式の前方後方墳とされる「山の根古墳」など、とても魅力的な古墳があるようだが、こうした古墳はいずれも山中にあるらしく、残念ながら妻を連れて行くには不向きなようである。残念だが吉見町の古墳巡りはまたの機会に譲ることにした。

それでも諦めきれずに地図を眺めていると、丘陵下、荒川流域の沖積平野のあちこちに点在する神社の記号が目についた。いずれも標高は周辺の田園地帯より1mほど高くなっているようなので、沖積低地にある自然堤防状の微高地上にいくつもの神社が祀られているようだ。

吉見町は、古くは「横見郡(評)」と呼ばれ、安閑天皇元年(534年)に起こったとされる武蔵国造の乱の勝者である笠原直使主(カサハラノアタイオミ)が朝廷に献上した4ケ所の屯倉(ミヤケ)のひとつ、「横渟(ヨコヌ)屯倉」の比定地とされる。ヤマト朝廷による東国支配の拠点として古くから栄えたためか、町域に延喜式内社が3社もあるほか、神社の数も多いようだ。
こうした神社の中には、自然堤防上に作られた古墳を転用して、その上に社が祀られたものなどもきっとあるに違いない。今回はこうした微高地上の「神社の立地」を観察して回ろうと思う。

(いつものことだが、どこかに出掛ける際、事前に入念な下調べをして行くことは稀で、今回も地図上で適当に目星を付けた神社に行ったのだが、残念ながら訪問しなかった神社のいくつかに、実際に古墳上に祀られた、とされる神社がいくつもあったらしいが、それがわかったのは例によって帰宅した後であった・・・。)

とにかく、まずは道の駅に向かい、昼食を済ませつつ、イチゴをこれでもか、とばかりに買い込んだ。
神社巡りの手始めに、町の北部の丘陵上にある「高負彦根(タカオヒコネ)神社」に向かうことにした。

<高負彦根神社(ポンポン山)>
高負彦根神社は町域に3社ある延喜式内社の1社であり、吉見丘陵が半島状に低地に突き出した「玉鉾山」と呼ばれる高台の頂上にある。

高負彦根神社(遠景)

創建はこの地区の神社の中で最も古いとされ、社記によると何と和銅3年(710年)の創建と伝わるそうだ。天平勝宝7年(755年)には既に官社となっていたというから、相当の古社である。

高負彦根神社(鳥居扁額)

祭神はいずれも出雲系の味鉏高彦根尊(アジスキタカヒコネノミコト)、大己貴尊(オオナムチノミコト)とされるが、解説板によると「素戔嗚尊(スサノオノミコト)とも言われる」とある。

高負彦根神社とポンポン山由来

沖積平野の微高地神社巡りに先立ってまずここを訪れたのは、3社ある延喜式内社のうち最古の創建ということもあるが、社殿の建つ玉鉾山に伝わるという伝説を確かめてみたかったからである。

玉鉾山は別名「ポンポン山」とも呼ばれ、解説板にもあるとおり、地面を強く踏むと「ポンポン」という音がするそうである。
社殿脇に裏の高みへ至る道があり、見上げると解説板にある写真と同じ風景が見えている。

ポンポン山

果たして人間が強く足踏みをしたくらいで本当にそんな音がするのだろうか、半信半疑であったが、周囲に人影がないことを確かめてから、夫婦揃ってその場で地団駄を踏んでみると、確かに鈍い反響音のような音がする(ような気がする)。

吉見町のHPによれば、その昔、財宝の隠し場所を探していたある長者がこの神社に詣でたところ、「この岩山に埋めれば私が守ってやろう」というお告げがあったため安心して財宝を埋めた後、後世になって盗人が山に入って財宝を掘り出そうとしたところ「ポンポン」という山鳴りがしたので恐れて逃げ出した、という言い伝えが残っているらしい。

青面金剛(宝暦六丙子(1756)年)
(宝暦六丙子(1756)年の銘のある青面金剛像)

この「ポンポン」という音については、地下に空洞がある、という説や、ローム層と砂岩の境界で音が反響している、という説などがあるそうだ。
地下の空洞というのはもしや古墳の石室なのではないかしら、と思い訪れてみたが、頂上周辺の地質は土ではなく岩盤のようで、残念ながら古墳が埋もれている、という雰囲気ではないようであった。

山頂部

それはともかく、ポンポン山の頂上からの眺望は頗るよく、青空が目に染みる。

山頂からの眺め


<塚状地形?>
高負彦根神社からそのまま山あいを北東へ進むと、やがて道は緩い下り坂で沖積平野へと降りていく。
前方に広い田畑が広がる間際、道が目前の高みを迂回するように巻いているので停まってみた。

塚状地形?

何かはよくわからないが、高みの上に上がる階段が付いているので、庚申塚か何かだろうか。

塚状地形?


<天満宮(頭殿神社)>
沖積平野に出ていくつかの神社を見学した後、南東へ進むと、北吉見郵便局の北、「地頭方」という変わった字名の地域に至る。吉見北小学校の東隣にこじんまりと「天満宮」がある。

地頭方 天満宮(遠景)

向かって右に建つ背の高い方の鳥居に掛かっている扁額に「天満宮」、左側の鳥居の扁額は「頭殿神社」と読める。

地頭方 頭殿神社扁額

左側の鳥居の向こうに高さ2mほどのマウンドが見えている。

地頭方 頭殿神社のマウンド

奥行きは5mほどだろうか、手前側は削られているのか、玉石で巻かれているが、向こう側へ回ると円形の盛土から、何やら石材がところどころ顔を出しているように見えなくもない。

地頭方 頭殿神社のマウンド

地頭方 頭殿神社マウンド

立地としては周辺の標高が14~15m前後であるのに対して、この神社の地盤は標高16mほどで、高負彦根神社の崖下から東に向かって鎌のように湾曲しながら沖積平野に横たわる微高地の北の縁近くに位置している。

見た目、立地とも、個人的には「古墳感十分」と思うのだが、裏付けとなる情報は何もない。


さて、この後も続けていくつかの神社を巡る予定であるが、長くなりそうなので続きはまた次回。


(地図)
吉見町地図(北部)
(茶色マーカーの神社は古墳らしく見えなかったので紹介しなかった。)


(参考資料)
「吉見町HP」 http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_ponponyama.html



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2018/01/07

鹿島大神の神鹿伝説 (東京都江戸川区 鹿見塚/鹿見塚神社、鹿島神社)

前回、潮来市にある大生西部古墳群、大生神社と鹿島神宮を巡る古代史の一端を紹介した際、「元鹿島」と言われる大生神社に祀られていた大生氏、藤原氏双方の氏神である「タケミカヅチ」の神が、神護景雲2年(768年)、常陸から奈良の春日大社に遷幸された、という話を紹介した。

遠く東国の鹿島(香島)から奈良までの鹿島大神の遷幸の途次、大神の杖であったお供の神鹿が病に罹り、里人の看病虚しく亡くなったため、その地に塚を築き手厚く葬られた、という伝承が伝わる地域があるらしい。
東京の江戸川区、「鹿骨(シシボネ)」という地域である。

江戸川区郷土資料室が発行する「解説シート『江戸川区の地名(1)鹿骨』」には、「地名の由来」として前述の伝承が紹介されていて、その際に築かれた塚を「鹿見塚」と呼ぶこと、「鹿骨」の地名はこの伝承に由来すること、そして、「塚は、今も鹿骨三丁目にある鹿見塚神社内に残っています。」ということが書かれている。

神護景雲2年に築かれた塚が、幾星霜、1250年の時を経て、開発著しい東京都内に何と今でも残っている、という記述を見て、アドレナリンが全開となった。居ても立っても居られず、翌日、休暇を取っていた妻を誘って早速見に行ってみることにした。

ところでその「鹿見塚」は、前述の「解説シート」によると、かつては7~8mの高さに土盛りされた塚で、太い老松が植わっていたそうである。いつの頃かその松も枯れ、周囲の木々も悉く伐採、塚も掘り返されたそうである。
「解説シート」には鹿見塚神社と鹿見塚の石碑の写真が掲載されているが、肝心な「鹿見塚」は映っていない。だがしかし、そんなはずはない、「残っている」と書いてあるのだ、現地に行けば必ず痕跡のようなものが残っているに違いないと思いながら現地へと向かった。

「鹿見塚神社」は思っていたよりも小さく、前沼橋という名の交差点の角にこじんまりとあった。

01 鹿骨鹿見塚神社

02 鹿骨鹿見塚神社

鳥居前の解説板には確かに「鹿見塚」と書いてある。
ほーら、やっぱりあるじゃないか、すげーすげー、神護景雲2年、1250年、どれ? どれが塚?
(アドレナリン全開のため暫く取り乱しますが、ご容赦下さい。)

03 鹿骨鹿見塚神社解説

境内には「解説シート」に載っていた「鹿見塚」の碑が建っており、石碑の周囲の地面に塚の痕跡を探す。どこ?どこ?痕跡どこ?

04 鹿骨鹿見塚

碑の後ろには大木の切り株があるので、これぞ老松の切り株に違いないと思いつつ、で、どこ? 鹿見塚、どこ?

05 鹿骨鹿見塚

いくら探しても痕跡らしきものは見つからない。改めて鳥居前の解説板を読み返してみる。
石碑自体は昭和42年に建てられた、とあるが、解説文冒頭の「この鹿見塚」の「この」は、一体「どの」塚を指しているのであろう。もしやこの石碑を指しているのだろうか。

諦めがつかず、なおも境内でうじうじしていると、インターネットを見ていた妻から「近くの鹿島神社にも何かある」旨の啓示を頂いた。「鹿島神社」はここから1kmほど北にある、やや大きな神社である。

06 鹿骨鹿島神社遠景

鹿見塚の伝承は「鹿島神社」前の解説板にも記載されていた。

07 鹿骨鹿島神社解説

鹿島神社は、村人たちが鹿見塚の伝承を奇縁として、武甕槌命、天照大御神ほかの神を勧請して建立された、と伝わるそうであるが、明治以前は「五社神明社」と呼ばれたとおり、戦国時代にこの地に入植した五つの一族の氏神を合祀したのが始まりのようである。

08 鹿骨鹿島神社境内

本殿と拝殿が少し離れているようにも見える上に、本殿の下が少し高くなっているようにも見えるので、この神社が鹿見塚の上に建てられているのではないか、とも思いたくなる。

09 鹿骨鹿島神社本殿

拝殿脇には神鹿の像が建っていて、像の背後には戦争の慰霊碑だろうか、いくつかの大きな石碑が若干高くなった地面の上に建てられているけれど、さすがに神様のお供の神鹿の眠る塚上に碑を建てるようなことはしないだろう。

10 鹿骨鹿島神社神鹿像

11 鹿骨鹿島神社神鹿像背後の碑

よくわからないまま、ふと社殿を見上げれば、明治の社殿改築時のものであろうか、墨文字の由緒書きが掲げられている。旧仮名遣いで読みづらいが、中ほどに「則チ其ノ塚今ニ村位巽之方ニ存セリ」の文字が見える。
12 鹿骨鹿島神社由来書

「巽」と言えば南東であり、ここは鹿骨村の北辺に当たるようなので、やはり鹿見塚があった場所は先ほどの鹿見塚神社の方角のようではある。

「鹿骨」は古くから人々が生活していた地域で、正応3年(1290年)の銘のある板碑を始め多くの板碑が見つかっているらしい。それほど古くから集落が形成された歴史深い土地で、人々の暮らしを見守ってきた神鹿である。私のような不心得者には、そう簡単に姿を見せてはもらえないのだろう。

13 鹿骨鹿島神社から見た夕陽


(地図)
鹿骨周辺地図



(参考資料)
「解説シート 『江戸川区の地名 (1) 鹿骨』 」 江戸川区郷土資料室




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(4)(茨城県潮来市 大生原のその他の塚)

前回まで大生神社周辺の古墳を紹介してきたが、他にもあちこちで塚状のマウンドを見かけた。古墳かどうか自信はないが、まとめて紹介だけしておこうと思う。


<大生の天狗塚>
鹿見塚古墳の東、県道187号の向こう側に県道に面して、地面がうっすらと膨らんだ上に石碑がいくつか建っている一画がある。
01 大生天狗塚遠景

脇に立っている柱には「潮来市大生の天狗塚」とある。
02 大生天狗塚近景

茨城県で「天狗」と言うと、幕末の元治元年(1864年)、尊王攘夷を掲げて反乱の兵を挙げた「天狗党」事件が思い浮かぶ。
この塚が天狗党に関連したものかどうかはよくわからないが、水戸藩内での抗争は明治になってからも続いたそうで、一部の地方では今でも身内争いのことを「天狗」と呼ぶらしい。


<大生原庚申塚>
イタコモーターパークの北側の道沿いの木立の中に、「猿田彦大神」、「大青面金剛」などと書かれた庚申塔が集められた塚があった。
03 大生原庚申塚遠景

04 大生原庚申塚近景

石碑はいずれも庚申信仰の石塔であろうが、それらが建てられている塚は小ぶりな円墳のようにも見える。
05 大生原庚申塚 東から


<水原庚申塚>
潮来カントリークラブの北東側、水原というところの畑地の中にも庚申塔が集められた塚があった。
06 水原庚申塚遠景

07 水原庚申塚近景

庚申供養の信仰は近年まで行われていたらしいので、こうした庚申塚は何も珍しいものではないのかも知れないが、やはり地面が盛り上がっていると、それが何であろうとついつい、近寄ってしまう。
背景に見えている木立の頭が夕焼けに染まっている。


<仲台古墳群?>
先ほどの庚申塚から東へ100mほど、畑の中に、頂上に石碑を乗せた大きなマウンドがあった。
08 仲台古墳群? 南から

西隣は墓地になっており、東側のマウンドは小さな前方部のような形になっている。
ここでもマウンド上の木の枝がところどころ夕陽に染まっている。
09 仲台古墳群? 東から

裏側へ回るとこちらは綺麗な円形に見える。
10 仲台古墳群? 北側から

「いばらぎデジタルまっぷ」で見ると、このあたりには「仲台古墳群」という記号がついているので、もしかするとこれもその一部なのかも知れない。


<松和稲荷神社>
大生神社のすぐ前、鬱蒼とした木立に囲まれて小さな稲荷社の祠が建っている。
11 松和稲荷遠景

「松和稲荷大明神」という名の神社で、祠の脇の石碑には次のようにある。

「和銅4年(711年)、秦之伊呂貝が餅を的にして矢を射った処、その餅が鳥となって稲荷塚「松の梢」に飛んできて村の人々は此処に稲荷の社を建立」

12 松和稲荷碑文

「秦之伊呂貝」と言えば、山城国風土記逸文伊奈利社条に見える「伏見稲荷大社」の起源伝承に出て来る「伊呂巨(具)秦公」(イロコ(グ)ノハタノキミ)のことであろう。伏見稲荷大社の創建伝承は、伊呂巨が餅を的にして矢を射ろうとしたところ餅が白鳥に化身して飛び去り、舞い降りたところに稲が生えたため社を建て「伊奈利(稲成り)」の社とした、というものであるが、松和稲荷の創建伝承はこれによく似ている。

ところで、この松和稲荷は古く明治までは「稲荷塚古墳」の墳上にあった、とされる。稲荷塚古墳は大生東部古墳群の主墳とされる全長61mの前方後円墳で、松和稲荷はその後円部上に南を向いて建っていたらしい。

またいつの日か、ここに来ることがあったら、その時は必ず、墳頂に松和稲荷の社を頂いた当時の面影を探しに、稲荷塚古墳を見に来ることにしよう。


(地図)
大生原地図

水原地図



(参考資料)
「いばらぎデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34




2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(3) (茨城県潮来市 大生神社)

大生西部古墳群を見学した後、締めくくりに、白幡八幡塚古墳の東にある「大生神社」を見て帰ろうと思う。
全くの俄か勉強、諸先輩方の単なる受け売りをお許し頂き、今回は少し長くなるが、古代の常陸国に思いを馳せてみたい。

大生神社は老杉の巨木が林立する、鬱蒼とした木立に守られるかのように、西陽を受けながら、静かに佇んでいた。

01 大生神社遠景

神社の名前になっている「大生」は、古くからこの地を治めた「大生(オフ)」氏から来ていて、「大生」はこの辺りの地名にもなっている。

02 大生神社社殿

「大生」氏は、「神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)」を祖とする日本最古の皇別だそうで、「大生」は「オフ」、「オホフ」、「オホ」、「オウ」などと読み、「大」、「太」、「王」、「多」、「意富」、「飯富」、「飫富」、「於保」など様々に表記されるようだ。仲(那珂)国造、伊予国造を始め、有名なところでは太安万侶(オオノヤスマロ、古事記の編者)も大生氏と同族とされているらしく、大生氏は古代日本における一大勢力であったらしい。

境内の解説板によると、神社の創祀年代は詳らかでないそうであるが、大和からこの地に進出してきた飯富(オフ)族の常陸移住の際、彼らの氏神である「健御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)」を御祀したのが始まり、とされている。

03 大生神社本殿解説

「健御雷之男神」は、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と表記される「天つ神」、すなわち天孫降臨伝説の流れを組む神であり、日本書紀によれば「経津主(フツヌシ)神」と共に出雲に降り、大国主命(オオクニヌシノミコト)に「国譲り」を迫った神とされる。

ところで、大生神社は「元鹿島」、「鹿島の本宮」とも言われ、同じく「タケミカヅチ」(表記は『武甕槌大神』)を祭神とする鹿島神宮と特別な縁故を有する、とされている。

大生神社に伝わる「巫女舞神事」は県の指定無形文化財となっていて、古風を遺す貴重な神事だそうであるが、明治に入るまでの永きにわたり、毎年、大生神社の巫女舞神事に合わせて、鹿島神宮から物忌の渡輿があったそうだ。(鹿島神宮の神輿が物忌みで境内を出るのはこの時だけだった、とも言われる。)

04 大生神社巫女舞神事解説

鹿嶋神宮の宮司である東家に伝わる所伝を整理した「鹿嶋大明神御斎宮神系代々」なる書物によると、大生宮は、南都大生邑大明神、つまり現在の奈良にある多(おお)神社、別名「多坐弥志理都比古(オオニマスミシリツヒコ)神社」からの遷座とされているようだ。
この「多坐弥志理都比古神社」は、神八井耳命を祭神とした、大和国十市郡飫富(オフ)郷にある神社で、大生一族の本貫地ともいうべき場所のようである。

一方、大生神社に残る明治7年の棟札裏面由緒書きによれば、神社は太古の昔からこの地に鎮座していて、神護景雲2年(768年)、和州城上郡春日の里(現在の奈良春日大社)に遷幸、大同元年(806年)に藤原氏東征御護としてこの地に遷還、翌大同2年(807年)に鹿島郡に遷幸した、と記されているそうだ。

05 大生神社境内御神木
(文章とはあまり関係ないが境内の巨大なご神木 神代の時代を彷彿とさせる よく見ると誰が放置したのか、ペットボトルが置かれており残念。)

8世紀半ばから9世紀初めの短い期間にあちこち遷座が繰り返され、罰当たりかもしれないが、タケミカヅチの神様もさぞかしご苦労されたのではないか、と思うけれど、何だか大生氏が何者かと氏神様の奪い合いをしていたようにも思えるのである。

06 大生神社本殿

大生神社は、鹿島神宮のある鹿島郡と北浦を挟んで相対する位置にあり、行方郡内における大生氏一族の根拠地であったとされている。神社周辺に密集する夥しい数の古墳群は、この大生氏一族の墳墓であって、彼らの奥津城であろう、と考えられている。

一方、対岸の鹿島郡には鹿島神宮があり、その祭神は大生神社と同じ、藤原氏の氏神でもある「タケミカヅチ」の神様である。
藤原氏の祖である中臣鎌足の父、「中臣御食子」(ナカトミノミケコ)という人物は鹿島神宮の神官であったとされ、鹿島神宮の西にある「鎌足神社」は、諸説あるようだが、一説には中臣鎌足の出生地ではないか、とも言われているらしい。
このように鹿島神宮は藤原氏と所縁が深く、そんな鹿島神宮の北の台地上には、宮中野古墳群という、大生原の古墳群に匹敵する夥しい数の古墳群が広がっている。

単純な私は、そうか、鹿島神宮(藤原氏)と大生神社(大生氏)の、北浦を挟んで対峙した祭祀氏族間の勢力争いだったのか、と思ったのであるが、事情はもう少し複雑なようである。

鹿島神宮の成立について、常陸国風土記では、海上(ウナカミ、現在の銚子附近)と那賀の国造がそれぞれ国を割いて「香島」という神郡(軍事上、重要な地(例えば伊勢・出雲・宗像など)に祈祷のための大社を置くための場所)を設置、その地に鎮座していた天大神(アメノオオカミ)の社など三社を「香島天大神(カシマノアメノオオカミ)」と呼んだのが始まり、とあるが、この「天大神」は「天の『オホ』の神」、すなわち大生氏一族の氏神の称ではないか、と言われているらしい。

つまり、鹿島神宮も成立当時、祭祀氏族は藤原(中臣)氏ではなく、大生氏だったのではないか、ということであり、大生神社も鹿島神宮(の前身?)も、当初は大生氏が祭祀を司っていたが、いつの頃からか、藤原氏にその地位を取って替わられた、ということなのかも知れない。

そもそもこの地は、常陸国風土記によれば、もともとは「国巣(クズ)」と呼ばれた在地の先住民族が太古から暮らしてきた土地であったが、海岸沿いの松を燃料に砂鉄を精製して得られる「鉄」の利用に目をつけたヤマトの一団が東征と称して侵攻、「建借間命(タケカシマノミコト)」らによる、風土記に描かれたような凄惨な戦いの末、大和朝廷側が征服した土地であって、大生氏は建借間命による東征後、大和朝廷側としてこの地を最初に納めた氏族だったのであろう。大生氏は、自らの氏神を奉斎、これが「香島天大神」と呼ばれたのかも知れない。

一方で、藤原氏の祖、中臣氏が有力になったのは、卜部(ウラベ)としての中臣部に中臣鹿島連の氏姓が与えられた天平18年(746年)前後と言われる。
国家的な祭祀の中心に中臣氏が台頭、東国の神郡祭祀に際しても、東征以降、この地方の政治と祭祀を握っていた大生氏が、その立場を中臣氏に徐々に奪われることとなり、諸説あるようだが、そうした歴史背景が、大生神社の創建由緒の混迷ぶりに断片的に垣間見られるのではないか、ということのようだ。
(同じ時期に、経津主神を祀る香取神宮の祭祀氏族も香取氏から中臣氏に変わった、という説もあるらしい。)

氏神を同じくする中臣(藤原)氏と大生氏はもともと同族だったのではないか、という意見もあるようで、同族内の主権争いが自らの氏神を祀る大生神社と鹿島神宮の度重なる遷幸伝承の礎となり、また、そうした対立が、北浦を挟んで対峙する2つの巨大な古墳群を生んだのではないか、とも思えて来る。

とは言え、真実は遠い歴史の彼方、遥か古代にどのような争いがあったのか、記録の残っていない今となっては知る由もないが、もしそんな出来事が本当にあったとしたならば、知らずに来たとは言え、鹿島神宮へお詣りをしてからここに辿り着いたのは、単なる巡り合わせとは言え、偶然にしては何とも出来過ぎである。

07 鹿島神宮の杜
(今朝がた鹿島神宮の杜で見た光景)

「おい、おまえ、全くひどい話だろ?なあ、聞いてくれよ」とばかりに、遥か古代から、大生氏がここへ呼び寄せたのではないか、などと思えてくる。
(最近、年齢のせいか、こうした思い込みがどうも激しい。)

考え過ぎに違いないが、夕暮れの木立の中、本殿をじっと見つめても、タケミカヅチの神様は黙して語らず。

大生氏と大生神社を巡る古代史の謎は何とも深遠で奥深く、私のような俄か歴史家の想像の域には到底収まり切れない。
収まり切れないからこそ、勝手な想像が広がっていく。

目を閉じれば、大生氏と中臣氏が互いに覇権を競い合う光景がそこに見えているような、そんな気がしてならないのである。

08 大生神社周辺
(八大竜神を指すのだろうか、西陽を浴びて光る石碑)


(地図)
大生神社関連地図


(参考資料)
「常陸大生古墳群」 昭和46年5月 茨城県行方郡潮来町教育委員会
「常陸国風土記 全訳注」 秋本吉徳氏 2015年11月 講談社学術文庫
「まほらにふく風に乗って」 http://mahoranokaze.com/
「大生神社本殿 いばらぎの文化財」(茨城県教育委員会HP) www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-3/1-3.html
「鹿島神宮ホームページ」 kashimajingu.jp/
「鹿嶋神宮 一ノ宮巡り」 www.y-tohara.com/kasima.html
「K.K Gallery 鳥見神社&宗像神社 鹿島の神」 http://www14.plala.or.jp/nikorobin/katorikasima.html





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2018/01/06

古代「大生」氏の奥津城(2) (茨城県潮来市 大生西部8号墳、天神塚古墳、白幡八幡塚古墳(大生西部古墳群))

妻と鹿島神宮に初詣に行った後、日没までの時間を利用して、12月に来た時には暗くなって見ることができなかった大生西部古墳を見に来ている。

西部古墳群は、茨城県教育委員会のHPによると総数20数基、昭和46年発行の「大生古墳群」という報告書では「37基、うち前方後円墳5基」から成る古墳群で、その双璧は、前回紹介した鹿見塚古墳、子子舞塚古墳のようであるが、この周辺だけでもまだ35基もの古墳が点在していることになる。暗くなるまでにあと幾つ見ることができるだろうか。

<大生西部8号墳>
子子舞塚古墳跡から雑木林をさらに西に進むと、地形は緩やかな谷状になっていて、いったん落ち込んだ後、西へ向かって再び高くなっている。
その最も高くなったあたり、西陽が眩しいが、明るい雑木林の中に大きなマウンドが見えている。
01 大生西部8号墳

高さは2~3m、大きさは20mほどはあるだろうか、西陽を浴びたこの墳丘がおそらく8号墳であろうと思う。
02 大生西部8号墳

雑木林を抜けて墳丘の西側に出て見ると、そこは広い芝生広場のようになっていて、遠くには何か公共の建物のようなものが見えている。
芝生の広場側から見ると、墳丘の高まりが南東側に長く伸びているようにも見えるので、これも前方後円墳のようにも見えるが、発掘調査報告書の古墳配置図では円墳となっている。
03 大生西部8号墳

墳丘の北東側の地面が一段低くなっていて、そこだけを見ると周溝か何か、人為的な痕跡のようにも見えるのは気のせいだろうか。
04 大生西部8号墳


<天神塚古墳(大生西部4号墳)>
続いて、いったん県道187号線に戻り、鹿見塚古墳の100mほど北にある天神山古墳という前方後円墳に向かう。県道から西側の木立越しに墳丘が見えていて、手前側は下草も手入れされているようで見学し易い。
05 天神塚古墳

昇寛さんの「埼群古墳館」によると、長さ63m、後円部直径40m、高さ6mの前方後円墳で、この位置から見ると左が後円部、右が前方部になるらしい。
06 天神塚古墳

先ほどの鹿見塚古墳よりも天神塚古墳の方が幾分大きいようであるが、こちらには耳のような造出分は附属していない。後円部と前方部の比高差がそれほどなく、前方部が高く発達しているような印象を受ける。
07 天神塚古墳

昇寛さんも書かれているとおり、子子舞塚や鹿見塚などに後続して築造されたもののように思えるが、天神塚古墳はこれまで発掘調査などは行われていないようで、築造年代などはわかっていないらしい。

墳丘の向こう側、さらに西に50mも進めば、もう1基、全長60mの前方後円墳(大生西部5号墳)があるはずだが、向こう側は草叢が鬱蒼としていて、接近するのが躊躇われる。クルマに妻を乗せたまま路肩に停めてきてしまったので、残念だが辞めておくことにしよう。


<白幡八幡塚古墳>
天神塚古墳から200mほど県道を北へ進むと、今度は右手の畑の真ん中に、さほど高さはないようであるが白幡八幡塚古墳の墳丘が見えてくる。
08 白幡八幡塚古墳

南側の畑を通って農道があり、墳丘の近くまで接近することができる。地割りは四角くなっていて、一見、方墳のようにも見えるが、「埼群古墳館」さんによれば「大型の円墳」だそうだ。
だいぶ西陽が傾いて、長く伸びた影が遠く離れた古墳まで続いている。
09 白幡八幡塚古墳

墳丘脇には簡単な説明書きのある柱が立っていて「古墳時代中期の築造」とある。
少し傾きかけた柱だが、得も言われぬ存在感を醸し出している。
10 白幡八幡塚古墳

墳丘の向こうに見えている木立は大生神社の樹叢である。もうじき陽が沈んでしまいそうだが、最後に大生神社に詣でて今回の古墳巡りを締めくくりたいと思う。
「元鹿島」と言われる大生大神の歴史と鹿島神宮との関係や、大生氏と藤原(中臣)氏を巡る古代史の謎についても触れてみたいと思うが、続きはまた、次回。

(地図)
大生西部古墳地図


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「墳丘からの眺め」 http://massneko.hatenablog.com/
「いばらぎデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34
「常陸大生古墳群」 茨城県行方郡潮来町教育委員会 昭和46年5月