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2018/06/09

弥生出雲王の墳丘墓(1)(島根県出雲市 出雲弥生の森博物館)

長い間ブログの更新ができずにいるうちに、出雲を旅してから1年が経過してしまった。
以下は平成30年6月の出来事である。

出雲大社から稲佐の浜、日御碕神社と回った後は、「日本三美人の湯」と言われる湯の川温泉に投宿した。
御馳走や温泉の紹介はこのブログの本旨ではないので、料理や湯舟などの詳細は割愛するけれど、宿泊と風呂、食事がそれぞれ別棟で、なかなかよい宿だった。

翌朝、目が覚めると雨は降っておらず、出発する頃には薄日が差してきた。今日は西谷墳墓群と呼ばれる弥生時代の四隅突出型墳丘墓を見に行くので、雨が降っていると何かと都合が悪い。

<出雲弥生の森博物館>
10kmほど西へレンタカーを走らせ、水量の少ない斐伊川を渡ると墳墓群への入り口が見えてきた。
まずは隣接する「出雲弥生の森博物館」で「四隅突出型墳丘墓」の何たるかを理解して行こうと思う。

1_四隅突出型墳丘墓模型

「四隅突出型墳丘墓」は写真のように四隅が長く張り出した弥生時代の墳丘墓で、斜面には貼石が葺かれていて、墳丘の周囲は配石で区切られており、この配石列の数が埋葬者の身分の違いを表しているのではないか、とされるらしい。「古墳時代」でなく弥生時代の墳丘墓であるから、「古墳」ではなく「墳丘墓」なのだそうだ。

こうした独特の造形を持つ墳丘墓は、山陰地方から北陸、最も遠くは福島県にかけて分布するとされ、これまでに91基ほどが確認されているのだそうだ。
築造は古いものは弥生時代中期後半まで遡るとされ、弥生時代後半になるとこの出雲地方で墳丘の大型化が一気に進むことから、当時、分布域にまたがる広域連合のような勢力があって、その中心勢力が出雲地方にあった、と考えられているようである。

四隅の張り出しは前方後円墳のように均整の取れた形ではなく、やや歪な形をしている。当初は方形墳丘の隅が崩れないよう留め石のように石を並べて四隅を保護する役割であったものが、時代が下るに連れて長く大きくなっていったようだ。この張り出し部分の用途はわかっていないようであるが、張り出し部分に貼られた石が踏み石状になっていることに加え、周囲を巡る配石列がこの張り出し部分で途切れている例があることなどから、墳丘上に上る通路としての役割があったのではないか、とされているようだ。

西谷墳墓群は四隅突出型墳丘墓の中でも傑出した規模の墳丘墓で、その規模や出土品などから弥生時代の王墓であるとされている。ガラス製の腕輪や管玉、当時は最先端の素材であった鉄剣のほか、出雲地方の土器のみならず、吉備・北陸系の土器も発見されており、広域連合内で交流があったことを示すものらしい。

1_ガラス製管玉と鉄剣

3_ガラス腕輪

こうした四隅突出型墳丘墓は弥生時代の終わりとともに突如として築造されなくなることから、この頃を境として、山陰地方の支配勢力に大きな変化があったのではないか、と考えられているようだ。

4_「最後の出雲王」

調べてみると、この西谷丘陵に四隅突出型墳丘墓を築いた人々は、おそらく前回見た大量の銅剣を荒神谷遺跡に埋めた人々とごく近い集団であった、と考えてもよいようだ。
ほぼ同時期に大量の銅鐸を加茂岩倉遺跡に埋めた人々は、斐伊川支流の赤川流域に勢力を有した集団であって、彼らの首長の王墓は神原正面北遺跡から発見された4基の方形周溝墓であると考えられているようである。この二つの勢力は、いずれも弥生時代の半ば以降、何らかの意図を以って大量の青銅器を埋納しているが、それはもしかすると大きな社会情勢の変化、例えば他の強力な集団との接触による極度の緊張状態に起因するのではないか、とも考えられているようだ。
松江市内の田和山遺跡という弥生時代中期に廃絶したと考えられている丘上の砦のような遺跡からは、大量の礫石(つぶていし)や石鏃が散乱した状態で発掘され、ここで大規模な攻防戦が行われたのではないか、とされており、さらに伯耆にある妻木晩田遺跡では突如として高地に大規模集落が出現していることから、それまでの居住地域を何者かに追われたか、何者からか身の安全を図る必要が生じたのではないか、と考えられているらしい。

そうした「極度の緊張状態」を齎す「他の強力な集団との接触」というと、稲佐の浜で起こった「国譲り」神話が思い浮かぶ。

「国譲り」神話は初代神武天皇の治世(紀元前660年!)よりも古い時代、まさに神話の時代の話であるからまさに、弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀)に起こった話であると言えなくもないであろう。
さもなくば、「日本書紀」の崇神天皇60年(紀元前38年)に止屋(ヤムヤ)の淵で起こったとされる兄、出雲振根(イズモフリネ)による弟、飯入根(イイイリネ)の誅殺、若しくはヤマトタケルによる出雲タケルの誅殺(紀元後1世紀末頃?)も、大和朝廷側に反抗した出雲の勢力を朝廷側が滅ぼすという意味では同じである。

全くのお門違いかも知れないが、それまで断片的であった出雲の風景が、少しづつ、折り重なって見え始めてきたような気がしてきた。

今回はここまで、四隅突出型墳丘墓の実物は、また次回。

<投稿 2019.07.14>

(参考資料)
「出雲弥生の森博物館ホームページ」
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html
「出雲国風土記(全訳注)」 2018年3月 荻原千鶴氏 講談社学術文庫
「新訂 古事記 付現代語訳」 1987年7月 武田祐吉氏 角川文庫
「日本書紀 全現代語訳(上)」1988年9月 宇治谷孟氏講談社学術文庫
「日本史リブレット13 出雲国風土記と古代遺跡」 2014年11月 勝部昭氏 山川出版社
「山陰文化ライブラリー12 古代出雲反映の謎」 2017年9月 河原和人氏 ハーベスト出版




2018/06/08

大国主命の国譲りの舞台(島根県出雲市 出雲大社、稲佐の浜、日御碕神社)

出雲を旅行することになった。
空港へ降りたつと、折しも山陰地方はちょうど梅雨入りしたらしく、あいにくの雨模様である。

富士には月見草がよく似合うそうだが、出雲は雨がよく似合う、と思う。

20年ほど前、鳥取へ出張で何度か来たことがあり、一度、足を延ばして出雲大社まで来たことがあった。
どうやら私は雨男であるらしく、その時も天気は雨まじりであったが、靄が山を覆うさまや、谷間を霧が流れるさまはまさに「八雲立つ出雲」であると思ったものである。
そう言えば、(鳥取は出雲ではないが)投入堂に上った時も前日までの雨で岩肌は濡れていたし、雨で湿った鳥取砂丘の馬の背に初めて上った時も、低く垂れこめた雨雲の切れ間から眼下に広がる鉛色の海面を照らす一条の陽光を見て、神々しいとはこういうことを言うのかも知れないな、と思ったものだ。

<出雲大社>
出雲大社は、記紀に見える国譲り神話で建御雷神(タケミカヅチノカミ、日本書紀では武甕槌神)に国を譲った大国主命(オオクニヌシノミコト、日本書紀では大己貴神(オオナムチノカミ))を祀り、明治以前は「杵築(キツキ)大社」と呼ばれたそうである。

門前に車を停めて、翠雨に煙る長い参道を進む。平日の午前中で、しかも雨模様にも関わらず、参拝者の姿が多く、濡れた玉砂利を踏む音がそこかしこから響いてくる。

大国主命は、国を譲る条件として、自らを祀る社を「底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽高しりて」としたとされ、見上げるほどの高さの本殿は往古、今日の倍の高さ(16丈=48m)があったとされており、平安時代は「雲太、和二、京三」(出雲の社の大きさは大和東大寺、京の大極殿をも凌ぐ)と言われたそうである。
(出雲大社には上古の本殿の高さはなんとさらに倍の32丈=96mあった、と伝わるそうである。)

01 出雲大社 本殿

境内からは当時の本殿の宇豆柱(うずばしら=棟持柱)の根太が近年発掘され、隣接する「古代出雲歴史博物館」で保存展示されている。その巨大さには驚嘆してしまうが、出雲大社の宝物殿である「神祜殿」には博物館のものよりもさらに一回り太い心御柱(しんのみはしら)の根太が展示されており、その巨大さたるや、まさに度肝を抜かれる。

02 心御柱ポスター
(根太は撮影禁止のためポスターの写真を撮影。百聞は一見に如かず、残念ながら写真では巨大さが伝わらない。)

<古代出雲歴史博物館>
出雲大社に隣接する「古代出雲歴史博物館」は島根県立の施設で、県内各地から出土した膨大な考古遺物が展示されている。限られた時間で出雲地方の遺跡をダイジェストで理解するには打って付けの施設である。
さすがに出雲、展示はとても充実しており、雲南市神原神社古墳から出土した卑弥呼が中国魏から賜った100枚のうちの1枚とされる「景初三年(239年)」の銘の入った三角縁神獣鏡(重文)や、入れ子状態で発見されたものやウミガメの絵が見られるもの(国宝)など膨大な銅鐸群、そして大正14年の発見当時、木製の鞘から刀身をスルっと引き抜くことができたと伝わる金銅装双龍環頭太刀(重文)など、興味深い遺物が所狭しと並んでいる。

03 古代出雲歴史博物館 三角縁神獣鏡

04 古代出雲歴史博物館 銅鐸群

05 古代出雲歴史博物館 刀剣
(暗がり(腕前?)で写真がボケてしまっているが、歴史解説のボランティアさんによると、この刀は発見後、愛好家によって私蔵されている間に錆びてしまったらしく、県で譲り受けて展示する際に研磨したところ、刀身部分がだいぶ短くなってしまったらしい。)

とりわけ個人的に圧巻だったのは、斐川町の荒神谷遺跡から出土したという358本の弥生時代の銅剣群である。

06 古代出雲歴史博物館 銅剣

壁面を埋め尽くす夥しい数の銅剣はいずれも「中細形」と呼ばれ、銅剣の中でも古い時代区分のものとされるそうである。農道予定地の丘陵斜面にびっしりと並べられた状態で発見された銅剣の数は、それまでに国内で発見されていた銅剣の数(300本ほど)を遥かに超えていたそうである。

<稲佐の浜>
出雲大社のすぐ西にある海岸は「稲佐の浜」と呼ばれ、国譲り神話で建御雷神と天の鳥船神(鳥の石楠船神、日本書紀では経津主神(フツヌシノカミ))がこの浜で大国主命に国譲りを迫った、とされる。

07 稲佐の浜弁天島 遠景

二柱の神は十掬剣(とつかのつるぎ)の柄を浜に突き立て、刃の切っ先に胡坐をかいて、「屏風岩」を背に国を譲るよう迫ったという。
浜に聳える大岩は「弁天島」と呼ばれ、岩上には鳥居と社があり、古くは弁財天を祀っていたそうであるが、明治以降は豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)を祀っているそうだ。てっきりこの岩が国譲りの屏風岩かと思い、なるほど確かにこの岩そのものが十掬剣を表象しているのかも知れないな、などと独り言ちたものの、よくよく調べれば屏風岩は弁天島から300mほど離れた場所にあるらしい。

08 稲佐の浜弁天島 近景

<日御碕神社>
だいぶ陽が傾いてきたが、せっかくなので古くからの夕陽の崇拝地とされる日御碕神社へ行ってみたい。
出雲市のホームページによると、この日御碕神社は、「日ノ本の昼を護る伊勢大神宮」と並び「日ノ本の夜を護る」とされる古社で、出雲国風土記では「美佐伎社」としてその名が見える。
社殿は上の宮、下の宮とに分かれており、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る上の宮は「神の宮」、天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る下の宮は「日沉宮(ヒシズミノミヤ)」と呼ばれる。権現造の社殿は徳川家光の命によって寛永21年(1644年)に建てられたもので重要文化財となっている。

09 日御碕神社

上の宮(「神の宮」)はもともとは背後に聳える標高45mほどの「隠ヶ丘(かくれがおか)」の上に祀られていた社を、安寧天皇13年(紀元前536年!)に現在地に遷座したものだそうだ。
「上の宮」というだけあって、境内の一段高くなった場所に社殿が建っている。

10 日御碕神社 上の宮(神の宮)

「隠ヶ丘」は、出雲国を作り終えた素戔嗚尊が柏の葉を投げて自らが鎮まる場所を占った際、柏の葉が止まった場所として、日御碕神社の宮司の祖先である天葺根命(アメノフキネノミコト)が社を祀ったと伝わるらしい。丘の上からは柏の葉の化石が出土しているそうだ。

下の宮(「日沉宮」)は開化天皇2年(紀元前156年!)に清江の海と呼ばれたすぐ西の海岸線に浮かぶ日置島に祀られていた社(出雲国風土記に言う「百枝槐(ももえのえにす)社」)を天暦2年(948年)に村上天皇の命により現在地へ遷座したものだそうだ。

11 日御碕神社 日置島(経島)

「百枝槐社」がもとあったとされる日置島に行ってみた。この島は「経島」とも呼ばれ、島の百枝の松に瑞光が輝いているのを見た天葺根命が天照大神を祀ったのが日沉宮の始まりと伝わるらしいが、現在では草木は全く見当たらない代わりに、ウミネコのコロニーになっている。

「槐」という文字は恥ずかしながら初めてお目にかかる漢字であるが、「サイカチ」とも読むらしい。意味は「エニス」が転じて「エンジュ」と呼ばれるマメ亜科の植物の名前であるらしく、木質は硬く、蕾を乾燥させたものは止血作用のある生薬として用いられるそうである。

硬い木材としての利用価値だけでなく、止血効果のある薬でもある木が島上に群生していたことから、怪我への効用に対する謝意が祈りの対象へと変容していったのであろうか。現在も島上には鳥居と社が見えているが、神域のため神職以外の立ち入りは禁じられているのだそうだ。

だいぶ長くなったので、続きはまた次回。明日は四隅突出型墳丘墓を見に行きたいと思う。

<投稿 2019.03.03>

(参考資料)
出雲市ホームページ http://www.city.izumo.shimane.jp/
「出雲観光ガイド」 出雲観光協会ホームページ https://www.izumo-kankou.gr.jp/
出雲大社ホームページ http://www.izumooyashiro.or.jp/
島根県立古代出雲歴史博物館ホームページ http://www.izm.ed.jp/



2018/05/29

高台の2つの末期古墳(青森県八戸市 鹿島沢古墳群、丹後平古墳群)

青森県にある古墳は「末期古墳」と呼ばれる直径数m程度の小円墳の群集墳で、古墳時代ではなく飛鳥時代から平安時代にかけて築造され、同じ様式の群集墳が宮城県北から南北海道にかけて広く分布しているそうだ。

01 末期古墳の分布域
(2017年7月、おいらせ阿光坊古墳館にて)

青森県内には3箇所、末期古墳の群集墳が確認されており、これらはいずれも八戸市の周辺に点在している。
仕事で毎月行っている八戸だが、大抵はとんぼ返りで帰って来てしまうので、昨夏、阿光坊古墳群を見て以降、どこかに寄り道するようなことはなかった。
今回は仕事をやり繰りして、半日時間を空けることができたので、仕事の後、まだ見ていない鹿島沢古墳群と丹後平古墳群に行ってみたいと思う。

<鹿島沢古墳群>
会議を午前中のうちに終え、いそいそと本数の少ない路線バスに乗って鹿島沢を目指す。
鹿島沢は、八戸の市街地南に迫る山塊の中腹、標高90mほどのところにある。八戸ニュータウン行きのバスに乗って羽仁もと子記念館前で下車、ここはまだ鹿島沢の一段下のような場所であるが、既に標高70mほどあるので、市街地の眺めが良い。

02 鹿島沢下からの眺め

バス通りの西側にはさらに20mほど比高差のある高台が南北に走っていて、古墳はこの見上げるような高台の上にある。

03 鹿島沢古墳群遠望

解説板によると古墳が発見されたのは昭和33年で、それまで青森県で古墳は知られておらず、発見当時は岩手県二戸市の堀野古墳群が古墳分布の北限と考えられていたようである。
盛土はほとんど失われていたようだが、7世紀頃のものと思われる10基ほどの古墳が10mほどの間隔で確認され、川原石敷きの埋葬部から土師器甕や直刀、鉄鏃、ガラス玉などの副葬品が発見されたそうだ。
青森県のホームページによると直径1.2m、高さ1.3m(『直径<高さ』というのも不思議な感じがするが。)の盛土を削平したところ木炭層が発見され、さらに下層から川原石の埋葬部、副葬品が出土した、とある。

04 鹿島沢古墳群解説板

古墳跡は埋め戻されて草地になっており、薫風が草を揺らして吹き抜けていく。
気配を感じたのか、草叢から雉が鋭く一声鳴きながら木立の中へ走り去って行った。

05 鹿島沢古墳群近景

06 鹿島沢古墳群現況

Wikipediaによると古墳は根城(ねじょう)古墳群とも呼ばれ、鹿島沢からは3基、隣接する大久保地区からも5基が見つかっているようだ。大久保地区の5基はその後、宅地造成で消滅してしまったらしいが、大久保地区から出土した銅製の杏葉や帯金具、勾玉などの出土品は青森県重宝に指定され、根城にある八戸市博物館で見ることができるそうである。

蛇足になるが、「根城」は鹿島沢の1.5kmほど北にある、建武元年(1334年)、南部師行によって馬淵川を望む高台に築城された城で、江戸時代に岩手県の遠野に国替えされるまでの300年間、南部氏の居城であった場所である。

07 史跡根城の広場
(2015年9月 史跡根城の広場にて。隣接の博物館にある鹿島沢古墳群の出土品は見忘れてしまった。)


もう一ケ所、丹後平(たんごたい)古墳群は鹿島沢古墳群から2kmほど南、八戸ニュータウンという新興住宅街にある。次のバスまではだいぶ時間があるので、このまま高台上の道を歩いて行こうと思う。
「風薫る」とはよく言ったもので、木立を抜けて来る風のなんと爽やかなことか。微かに漂うよい香りは一体何だろうかと思っていると、香りの主は頭上のニセアカシアの花のようである。

08 ニセアカシアの花

爽やかな香りで気分もよいが、ニセアカシアは明治になって輸入された外来種であり、しかも日本固有の生態系に被害を及ぼすとされる「生態系被害防止外来種」だそうである。

暫く行くと瀟洒な住宅街に入る。
近くに小学校があるのだろう、下校途中の小学生が多く、町内会の掲示板には「連れ去り注意!知らない大人に声をかけられてもついて行ってはいけません!」の文字。最近は物騒な事件も多いので、古墳見学にも気を遣う。
ふと見れば、前方からランドセルを背負った女子児童が一人、歩いて来る。
勘違いされても困るので、視線を合わさないよう、俯きながらすれ違おうとしたまさにその時。
すれ違いざま、小さいがはっきりとした声で、おそらく彼女は「コンニチワ」と言った。
不意な出来事に慌てつつ、遠ざかる彼女の背中を見送りながら、子供には善人と悪人の区別がつくのかしら、などと思った瞬間、別のポスターが目に入った。
「不審な人には、こちらから『コンニチワ』と声をかけましょう!」
なるほど、「コンニチワ」作戦は確かに効果覿面である。

<丹後平(たんごたい)古墳群>
丹後平古墳群はニュータウンの一画、白山台保育園の向かい側に埋め戻された状態で「保存」されていた。

09 丹後平古墳群遠望

古墳群の総数は100基前後とされており、7世紀後半に南側から築造が始まり、北に移動しながら9世紀後半まで継続した、と考えられているようだ。
埋葬施設は長方形の木棺直葬のほか、土壙墓や地下式横穴なども混在しているらしい。

10 丹後平古墳群解説板

確認された中で最大規模の15号墳は直径(周溝内径)9mで、ここから発見された獅噛式三累環頭太刀柄頭(しがみしき さんるいかんとうたち つかがしら)は国内に他に類例を見ない見事なもので、新羅で製作されたものと考えられているそうだ。(これも実物は八戸市博物館で展示されているらしい・・・。)

周囲をぐるりと一周してみたが、宅地造成で周辺の土地は削平されているらしく、特に南側と東側はコンクリートブロックが高い壁のようになっている。

11 丹後平古墳群遠望(南から)

12 丹後平古墳群南側

比高差の少ない北西隅に一ケ所だけ階段があるが、黄色いチェーンがかけられており、自由に見学していいような雰囲気ではなかった。

13 丹後平古墳群北西隅

14 丹後平古墳群現況

遺跡は保存されている一画だけに留まらず広範にわたっていたようであり、南東側には木立の茂る緩斜面が僅かに残っている。

15 丹後平古墳群南方の窪地地形
(軽トラックの左、コンクリートブロックの塀の上の草地が古墳群の保存区域)

緩斜面の先はすり鉢状に落ち込んでいるようで、見晴らしがよい。地形図を見るとこの先は歪な楕円形の窪地になっているようで、窪地の向こうにはまだ鬱蒼とした木立がところどころ見えている。古墳を造った人々が暮らしていた時代は一体どんな光景だっただろうか。

バス停で帰りのバスを待ちながら考えた。新羅から見事な太刀を輸入するほどの力を持っていたこの地の人々はその後、一体どのような運命を辿ったのだろう。

大和朝廷による蝦夷侵攻は延暦2年(802年)、阿弖流為(アテルイ)の降伏を以って事実上収束し、概ね岩手県中部の志波城(若しくは徳丹城)から秋田県中部の雄勝城までを北限とするラインで一旦停止したようである。
今日見て回った鹿島沢古墳群、丹後平古墳群と、昨夏に見た阿光坊古墳群はいずれもこの侵攻停止ラインよりも北に位置しているので、これらの地域の人々は、もしかすると大和朝廷側による直接的な侵攻は受けずに済んだのかも知れない。
しかしながら、蝦夷の地ではその後、大和朝廷の俘囚となった部族を中心とした部族間紛争が頻発したそうである。
少なくとも蝦夷の人々から見れば、蝦夷の地に災いを齎した大和民族こそ、ニセアカシアの比ではない「外来種」であったに違いない。

彼方からバスが近づいて来た。
目を凝らすと、そのバスは行きに乗って来たのと同じバスのようであった。

<投稿 2019.01.13>

(地図)
鹿島沢・丹後平古墳群地図


(参考資料)
「oh! 史跡探訪 八戸市の古墳」 http://oobuta.fc2web.com/rekisi/kofun/si/hatinohe.html
「鹿島沢古墳群出土品」 https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/juho_kouko_26.html
「鹿島沢古墳群(ウィキペディア)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島沢古墳群
「丹後平古墳群」 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,3241,129,153,html
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,69662,129,63,html



2018/04/20

義経の財宝伝説と富士塚(神奈川県大和市 公所浅間神社)

(世の中では年が変わって2019年になったが、このブログはまだ2018年の春である・・・。)

以前、町田市の「鶴間」の語源について、「義経が頼朝の怒りを買い、失意のうちに京都へ戻る際、この地で鶴が舞うのを見て、持参した財宝をこの地に埋めた」という伝承がある、と書いた。
今回はこの、義経の財宝が埋められている、という伝説の地を訪ねてみようと思う。
今回は、まかり間違えれば俄か億万長者も決して夢ではない(かも知れない)。

国道246号の目黒交差点から国道16号の旧道を八王子方面に右折、境川を渡って緩斜面を緩やかに上った先は大和市の「下鶴間」である。
「鶴間」は平安時代の文献にもその名が見える古くからの地名で、今日でこそ相模原市(上鶴間)、大和市(下鶴間、鶴間)、町田市(鶴間)と幾つもの行政区域に分断されているが、中世の頃は全て合わせて「鶴間(紘間)郷」と呼ばれていたようだ。

現在、「下鶴間」と呼ばれる地域は国道16号の旧道の両側に広がっているが、このうち16号の東側、眼下に境川を望む高台上に「公所(ぐぞ)」という地域がある。

「公所」と書いて「ぐぞ」と読むのはかなり難解な部類ではないか、と思うが、「公所自治会ホームページ」によると、正確なことはわからないまでも、県内には他にも同様の地名が見られ、頼朝の時代に各地に置かれた関所の所在地を意味するのではないか、とされているらしい。このあたりには鎌倉古道や滝山街道などの古街道が今でも残っており、古くは「仕置場」、「牢場」などという字名もあったのだそうだ。

この「公所」のほぼ中央に鎮座するのが鶴間郷の総鎮守とされる「公所浅間神社」で、冒頭述べた義経の財宝伝説はこの公所浅間神社に伝わる伝承とされる。

01 公所浅間神社

神社の北側一帯からは古墳時代後期の集落遺跡が見つかっており、「下鶴間甲一号遺跡」と呼ばれているそうである。

02 下鶴間甲一号遺跡

ただ、この公所浅間神社は国道16号のバイパス建設工事に際して、昭和50年に現在地に移転しており、義経の財宝に関わる伝承は移転前の旧地に関わるものらしい。
神社の旧地は現在地よりも500mほど西、台地上を掘割状の切通しで通過するバイパスを見下ろす小さな丘として残っている。

03 下鶴間浅間神社遺跡

バイパス工事で削られる以前、神社の境内となっていた丘は現在よりもかなり大きかったようで、大和市が設置した解説板に載っている往時の白黒写真を見ると、木々が疎らに生えた南北に細長く小高い丘が映っている。

04 下鶴間浅間神社遺跡解説板(全景)

さて、義経が埋めた伝説の財宝はどこにあるのかしら、写真にある小高い丘はバイパス工事でどのくらい削られて、今残っているのは写真のどの部分なのかしら、そもそもバイパス工事の際、財宝は発見されなかったのかしら、などと考えながら、再び解説板に目をやると、思いがけず「塚」の古写真が二枚、掲載されているではないか。

05 下鶴間浅間神社遺跡解説板(塚)

解説板の後ろには丘の上に続く小路があり、登ってみると、丘の上には塚が一つ、残されていた。

06 下鶴間浅間神社遺跡塚遠景

近づいて見ると「富士塚(浅間の森)」と書かれた標柱が立っている。

07 下鶴間浅間神社遺跡塚富士塚標柱

この塚が解説板のいずれの塚かはわからないが、現在の地形図と照らし合わせて見ると、どうやらこれは丘の全景写真の中央付近に移っている方の塚ではないか、と思う。
よく見ると、全景写真の中央右手には社殿の屋根のようなものも見えているようなので、「旧社殿裏手の塚(1号塚)」が残されているのではないか、と思う。

08 下鶴間浅間神社遺跡塚近景

09 下鶴間浅間神社遺跡塚(南から)

おっと、いかんいかん、つい「塚」に目が眩んで、肝心の「財宝」を忘れるところであった。(目が眩むのは普通、「財宝」の方ではないかと思うが。)
鶴間一帯には冒頭の伝承とともに、一節の古い歌が伝えられているそうである。

「朝日があたって夕陽が映え、雀がチュンチュン鳴く所、大釜いっぱい鍋いっぱい」
「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆満杯」

これらはいずれも義経が密かに埋めた財宝のありかについて謡った歌である、とされる。

義経がこの地に財宝を埋めたのは、鎌倉入りを許されず失意のうちに京都へ戻る途上、という状況であるが、しかしながら何故、腰越から京都へ向かおうとしていた義経が鶴間に立ち寄ったのであろうか。
確かに鶴間には古くから、「矢倉沢往還」と呼ばれた街道が通っており、鎌倉時代には宿場機能も成立していたのかも知れない。東国から京都を目指すのであれば、この矢倉沢往還を通ることは当然のようにも思えるが、鎌倉から京都を目指すのであれば、鶴間を経由するのは些か遠回りな感が否めない。

考えて見れば、公所浅間神社の旧地周辺には崖地も多く、そうした崖には横穴墓も多く見つかっているそうである。こうした上代の横穴墓から副葬品が見つかったという話に加えて、もう一つの鶴間の由来伝承、鷹狩りの際、源頼朝がここで鶴が舞うのを見た、という伝承が融合されて、いつしか「義経の財宝伝説」が形成されていったのかも知れない。

いやいや、そんな「夢のない」話をしてしまっては、せっかくの歴史ロマンが台無しである。
あくまでも義経はきっと、弁慶を従えてここ、鶴間に至り、茜空に鶴が舞うのを見たに違いない。
きっとそうに違いない。


(地図)
公所浅間神社地図


(参考資料)
「公所自治会ホームページ」 http://guzo.d2.r-cms.jp/topics_detail4/id=51
「公所浅間神社鶴舞伝説」 http://sengenjinja.web.fc2.com/0densetu/densetu.html



2018/04/06

新座市内の古墳痕跡?(埼玉県新座市 夫婦塚跡(No.25遺跡)/稲荷塚(富士塚)跡(No.1遺跡))

新座郡の前身である新羅郡は郡境の閑地に置かれたことから、古墳はあまり多くは築かれず、古墳空白地帯となったのかも知れない、と書いたことがあった。
一方で、いやいや、きっとそんなはずはない、新座市にも古墳は実はたくさんあったに違いない、と思(願)いつつ調べていたところ、「新座市史」にこんな記述を見つけた。 

「No.25遺跡 畑中一丁目 
黒目川左岸の野火止台地、国道254号線の南方約150mに所在
『夫婦塚』と呼ばれる円墳と方墳の存在が伝えられるが、現在は宅地化されて消滅」

 「No.1遺跡 東北二丁目
 野火止台地上、東武東上線志木駅の西南約200mに所在
 県の遺跡台帳では『稲荷塚』(地元では字名から『富士塚』)と呼ばれ、志木駅を中心とする大塚古墳群に含まれている。
 昭和55年9月5日、宅地造成工事に伴い試掘調査を行い、土盛りを分断したところ土層は柔らかい黒色土のみであり、古墳らしい形跡は何ら認められなかった。よって当遺跡は古墳ではなく、時期不詳の塚であった可能性が高い」 

知らなかったのは不勉強な私だけなのであろうが、ほ~れ、見たことか。やっぱり古墳、いっぱいあったんじゃん、と思い、仕事のついでに見に行くことにした。(後者は『古墳ではなかった』というくだりは、もはやこの男の目には入っていないのである。)

 <夫婦塚(No.25遺跡)>
 練馬から川越街道を北上、和光市、朝霞市と進むと、やがて前方に野火止台地へ上る長い上り坂が見えて来る。台地の手前、崖下を縫うように流れているのが黒目川であり、目指す「夫婦塚(No.25遺跡)」はこの黒目川を望む台地上の縁にあったようである。 

川越街道から南に逸れて「畑中」という信号で右折するとすぐに台地上への上り坂が始まる。この道は明治時代の地図にも載っている古くからの道のようである。
 やがて坂の頂上付近に大きなマンションが見えて来る。 

01 新座市夫婦塚跡付近

新座市史に載っている「No.25遺跡」の位置図を見ると、遺跡はこの大きなマンションの敷地から、今通って来た道路を挟んで反対側の住宅地の方まで、およそ100m四方ほどの範囲にわたっていたように書かれているが、「現在は宅地化されて消滅」とあるとおり、あたりを見回してもそれらしい痕跡は見当たらない。
 
02 新座市夫婦塚跡付近
 
03 新座市夫婦塚跡付近

新座市史の他には全く手掛かりがなく、「夫婦塚」と呼ばれた円墳と方墳が一体どこにあったか皆目わからないのであるが、「夫婦塚」と呼ばれたのであれば、円墳と方墳はそれなりに近い距離に並んであったのではないだろうか、と思うし、相応の大きさの墳丘を伴っていたのではないだろうか、と思う。 
いつもお世話になっている「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見ても塚や古墳を示す記号は見当たらなかったが、このあたりに人家の記号が目立ち始めるのは時系列的には昭和51年の地図以降であるので、それ以前の航空写真を見れば墳丘の痕跡などが映っているかも知れないと思い、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」で戦後の航空写真を穴が開くほど凝視してみたが、この一帯は「広葉樹林」だったようで、一面に広がる木立に埋もれてしまっているのか、判然としなかった。 

04 夫婦塚周辺航空写真(昭和22年) 
 (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和22年撮影(M676-106)の現地周辺を拡大 何となく中央やや上に丸い影があるような気もしないでもないが・・・。) 

<稲荷塚(富士塚、No.1遺跡)>
 時間もあまりないので、続いて志木駅の南西200mにあったという時期不詳の塚、「稲荷塚(富士塚)」を見に行こうと思う。 
こちらは新座市史の遺跡位置図の縮尺が大きすぎて、事前に場所が絞り込めていなかったが、志木駅南西にその名も「富士塚公園」という公園があるので、ここがその跡地なのだろうと思い、100mほど北、イオン裏のコインパーキングに運よく空車があったのでクルマを停めた。 
徒歩で富士塚公園に向かう前、もう一度、「今昔マップ on the web」で明治時代の地形図を見てみた。 
やはり今、富士塚公園のある場所に塚・古墳マークは見当たらないな、と思った矢先、その100mほど北方に奇妙な記号があることに気が付いた。 
記号はゲンゴロウかミジンコのように見えたが、地形図にそんな絵が描かれているはずもなく、もしかするとこれは「塚・古墳マーク」ではないだろうか、と思う。

 05 今昔マップon the webより明治39年 2万分の1「志木」(部分)  

大正、昭和の地図で見ても同じ場所に「塚・古墳」記号が描かれているので、おそらくこれが昭和55年まであったという「稲荷塚(富士塚)」であろうと思う。国土地理院の航空写真でも、丸い塚の墳丘が確認できる。

06 稲荷塚周辺航空写真(昭和50年)  (国土地理院「空中写真閲覧サービス」より、昭和50年撮影(CKT7415-C16A-14)の現地周辺を拡大 中央上に斜めに志木駅、中央下、丸で囲んだ部分が稲荷塚(富士塚)と思われる場所) 

そうか、ではこの場所は現在のどこにあたるのか、と思ったところでハタ、と気づいた。
今、クルマを停めたばかりのこの駐車場を取り囲む建物の向きがどうもおかしい。敷地がほぼ円形をしているのである。
 07 新座市稲荷塚跡


位置的にもおそらくここが稲荷塚(富士塚)の跡地で間違いないように思う。 

今回訪ねた塚・古墳はいずれも開発で消滅してしまっていて、手掛かりもさほどなく、その痕跡を探すだけに留まったけれど、こういう不完全な探索行も、これはこれでなかなか面白いものだ。 

おっと、いかんいかん、仕事の時間に遅れてしまいそうである。 

夜、帰宅してから少し文献を当たってみたところ、「埼玉の古墳(北足立・入間)」という書籍の「荒川流域右岸の古墳」の項の末尾に、「(伝)大塚古墳群」として以下のような記述があった。

 「(伝)大塚古墳群
  柳瀬川と荒川の沖積地にのぞむ志木市域には、『埼玉縣史』に『志木町古墳群』が登載され・・・『朝霞町の西北に接して柳瀬川・新河岸川に臨める台地に多くの古墳を存し、主として円墳で字大塚の塚ノ山は其の以て地名を来せるものであり、其他田子山の富士、久保の二墳、稲荷山の二墳、二塚の二墳、出口の休塚等其の数可なりに多きを見られる。』・・・しかし志木市史編さんにあたって、文献、古地図、実地調査、聞き取り調査を行ったが古墳と認められる墳丘はなかった。・・・昭和55年段階では古墳群と認められないという結論に達し・・・その後の調査でも、古墳と認識できる資料は発見されていない。・・・野火止塚は・・・台地の奥にあり、古墳の可能性はきわめて薄い。そのほかの『塚』も古墳とは考え難いものである。」 

「稲荷山の二墳」というのは志木駅南西の「稲荷塚」であろうし、「夫婦塚」は言及されているのかよくわからないが、これを読む限り、塚の山古墳も含め、このあたりの塚はいずれも古墳ではない、という文意に読める。
 専門家の方々が「古墳ではない」とするものを、それでも「古墳!」と言い張るつもりはない。
 ないのであるが、それでも遠い昔、誰かが何かしらの意図を以ってこうした塚を築いたことは確かであって、そうした人々は果たしてどのような思いをこれらの塚に込めたのだろうか、また、近世になって削平されるまでの間、そうした古塚は人々からどのように思われていたのだろうか。 
余計なお世話かも知れないが、そんなことをつい、思ってしまうのである。

 (地図) 
夫婦塚跡地図


稲荷塚跡地図



(参考資料) 

「新座市史 第一巻 自然・考古 古代中世 資料編」(新座市立図書館デジタルアーカイブ)http://www.lib.niiza.saitama.jp/das/detail?24&id=1 

「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html 

「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」1994年 埼玉県教育委員会

「埼玉の古墳(北足立・入間)」2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会