2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(2)阿光坊遺跡/天神山遺跡)

青森県おいらせ町にある「おいらせ阿光坊古墳館」の興味深い展示を見学し終えて、いよいよ阿光坊古墳群を見に行こうと思う。
阿光坊古墳群はここから北西に500mほど行った丘陵上にある。

前回紹介したように、阿光坊古墳群は、阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森(2)遺跡の3つのエリアから成っている。まず最初に、最も発掘調査の進んでいる阿光坊遺跡から見て回ろうと思う。

古墳群のすぐ下に新しく作られた駐車場に、他にクルマは見当たらなかった。
古墳群へ向かう階段を上ったところで振り返ると、奥入瀬川の流れる沖積平野の眺望がよい。首長墓は見晴らしのよいところに作るという不文律は、例え種族が異なっても変わらないのであろう。

01 阿光坊古墳群入り口付近から


<阿光坊遺跡>
案内板の指す方向に少し歩くと、前方、森を背にした芝生広場のようなところに、先ほど古墳館で見た写真と同じく、小さな円墳がいくつも並んでいるのが見えてきた。

02 阿光坊遺跡遠景

03 阿光坊古墳群解説

「立入禁止」の文字は見当たらないので、手近な墳丘に近づいてみる。こんもりとした墳丘の周囲を、深さ30cmほどの周溝が巡っている。脇に「A6号墳」と小さく立て札が立っている。

04 阿光坊遺跡 A6号墳

「A6号墳」と言えば、古墳館で見た展示写真では墳丘の土が発掘でそっくり削り取られていたので、今見えている墳丘は調査後に復元されたものであろう。
(展示写真は前回記事で紹介しているのでそちらを参照願いたい。)

古墳は北に向かって緩やかに下る標高35m~40mほどの緩斜面の一画に集中しており、墳丘はいずれも直径5~6mほどで、高さは1mほどのようである。
見学用通路の近くにある「A1号墳」は墳丘全体に草が生えていて、何だか愛嬌がある。

05 阿光坊遺跡 A1号墳

古墳館で買った「阿光坊古墳群発掘調査報告書」によれば、阿光坊遺跡エリアでは18基(古墳館展示ではその後増えて21基)の古墳と7基の土壙墓が確認されており、中でも最も古い時期に作られたのは7世紀前半の築造とされる「A11号墳」(下の写真の左側)で、大きさも阿光坊遺跡エリアで最大の直径(周溝内径)8.6mだそうである。

06 阿光坊遺跡 A11、A12号墳


<天神山遺跡>
阿光坊遺跡の南側、見学用通路を挟んだ緩斜面が天神山遺跡エリアである。
通路から背伸びして斜面の上の方を覗き込んでみると、草叢の中に墳丘がいくつか見えている。

07 天神山遺跡 T2号墳遠望

天神山遺跡エリアには39基の古墳が確認されているようであるが、地中レーダーで存在が確認されたのみ、というものも多く、実際に発掘されているのは「T5号墳」までの5基のようである。
築造年代は現時点では阿光坊遺跡エリアより若干時代が下がった7世紀中葉以降と考えられているようだ。

先ほど見えた墳丘に近寄ってみると、これまた端正な円墳がこんもりと二つ、周溝をほぼ接した状態で並んでいる。手前が「T2号墳」、奥が「T1号墳」だと思われる。

08 天神山遺跡 T2、T1号墳

「T2号墳」は天神山遺跡エリアで最初に発掘調査された古墳で、発掘前に残っていた墳丘の高さは40cmほどであった、と書いてあった。目前の墳丘は1mほどの高さがあるし、展示では墳丘がそっくり削り取られた状態の写真があったので、こちらも墳丘は復元されたものであろう。

30mほど北には「T3号墳」と「T5号墳」が見えている。
「T3号墳」は直径約5mだが、興味深いことに周溝が全周せず、北西側と南東側でそれぞれ途切れているらしい。

09 天神山遺跡 T3号墳

「T5号墳」は直径6~7mで、蕨手刀が出土したことから8世紀後半の築造と考えられているようだ。墳丘は復元されなかったようであるが、植栽の色などで周溝と中央主体部が再現表示されている。

10 天神山遺跡 T5号墳

ここまで見てきた限りでは、あちこちにこんもりと見えている墳丘はいずれも復元されたもののようである。
とは言え、これだけの数の墳丘が辺り一面並んでいると、あたかも平安時代、古墳群が顧みられなくなり、放置された古墳が次第に自然に還りつつあるような、そんな時代の光景を目の当たりにしているかのような錯覚を覚える。俗っぽい言葉でいえば「平安時代へのタイムスリップ」である。

11 天神山遺跡

さらに道沿いに奥の方まで進むと、道の両脇まで木立が迫り、左手に天神山遺跡の解説板が立っている。

12 天神山遺跡解説

さすがに東京ドーム2.5個分の広さだけあり、なかなか書き切れないので、この続きはまた次回にさせて頂く。


(地図)
阿光坊古墳群地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会



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2017/07/07

蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(1)おいらせ阿光坊古墳館)

以前から八戸での仕事が断続的に続いていたが、訳あって暫くの間、八戸に毎月行くことになった。

北東北にある古墳は「末期古墳」と呼ばれ、古墳時代末期から飛鳥時代、平安時代までの長きにわたり、宮城県北部から道南地方に及ぶ北日本各地に築かれた多くの小円墳から成る群集墳である。
北東北に大和政権の支配が及ぶのは9世紀初頭、坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征討により蝦夷のリーダーである阿弖流為(アテルイ)が降伏した延歴21年(802年)以降のことであって、それまで永く蝦夷の土地であった北東北には、倭人ないしは大和政権の文化様式である高塚式の古墳が築造されることはなかった代わりに、蝦夷のリーダー達の墓と言われる群集墳が数多く残されている。

今回はそのうち青森県内では最も北に位置する、国史跡「阿光坊古墳群」に行ってみようと思う。
仕事が終わって時計を見ると午後3時過ぎ、帰りの新幹線までは3時間ほど時間がある。

八戸駅前でレンタカーを借り、国道45号を北上、下田で西に折れて青い森鉄道を越え、なおもしばらく行くと阿光坊の集落に至る。集落は南を流れる奥入瀬川に向かって緩やかに下る標高15mほどの稜線上にあり、古墳群はこの先、国道右手の丘の上にあるようであるが、その前に、町営の「おいらせ阿光坊古墳館」に立ち寄っておこうと思う。

阿光坊の集落に入ってすぐ国道45号を左折、南側の眺望が開けた見晴らしのよい場所に真新しい古墳館の建物が見える。
平日の昼間なので見学者は他におらず、立派な展示に自分一人では何となく申し訳ない。

阿光坊古墳群は「阿光坊遺跡」、「天神山遺跡」、「十三森(2)遺跡」の3ブロックの総称で、古墳時代末期の7世紀初めから平安時代の9世紀末まで造られ続けた合計125基の古墳と8基の土壙墓が確認されている、とある。想像していた以上の規模のようである。

01 おいらせ阿光坊古墳館

古墳の規模は「直径4~8.9m、高さ1m程度の円墳」で「幅1m前後の周溝」を備えており、「低墳丘であるため、開墾等により破壊されるものが多い中、この古墳群は、墳丘が60基以上残っているなど、保存状態が良好」とある。とすると、展示写真に写っている小円墳の群れは復元ではなくて、築造当時のものなのだろうか。

02 おいらせ阿光坊古墳館

展示の中心は125基の古墳のうち、特徴的な古墳の解説と、出土遺物の紹介となっている。これらの展示写真ではいずれの墳丘も調査のため発掘されているように見える。

03 おいらせ阿光坊古墳館

04 おいらせ阿光坊古墳館

05 おいらせ阿光坊古墳館

発掘で見つかった遺物の展示も充実しており、見事な高坏や直刀、錫製の腕輪などが展示されている。

06 おいらせ阿光坊古墳館

07 おいらせ阿光坊古墳館

08 おいらせ阿光坊古墳館

その他、町営の博物館らしく、北東北全域の末期古墳の分布や、律令国家と蝦夷の関係など、日本史に関する興味深い展示が多く、この展示を見ているだけでも十二分に面白い。

09 おいらせ阿光坊古墳館

10 おいらせ阿光坊古墳館

11 おいらせ阿光坊古墳館

中でも個人的に興味深かったのは以下の二つの展示であった。

<十三塚伝説>
阿光坊古墳群一体は、古くから「十三森山」と呼ばれ、70を超える大小の塚が点在することで知られていたらしい。これらの塚には、奥入瀬川の支流である明神川流域の開墾失敗に纏わる伝説が伝わっており、「13人を1基の塚に葬った」とか、「13人の武将を埋葬した」などと言われていたようだ。
なお、かつて付近にウバッコウ塚(?)と呼ばれる近世の塚が存在していたらしく、この塚の存在から十三森山の伝説と混同され、「十三森遺跡」と登録された地点があった(十三森(1)遺跡)ことから、これと区別するために阿光坊古墳群に含まれる十三森遺跡は「十三森(2)遺跡」と命名されたらしい。

12 おいらせ阿光坊古墳館

<聖福寺の聖観世音菩薩像>
古墳群から西に500mほどのところに聖福寺という寺があり、7世紀後半の作とされる金銅製の聖観世音菩薩立像が伝わっているそうだ。
この金銅仏は近畿地方で鋳造されたもののようで、その製作時期は正に阿光坊古墳群が築造されていた時期と重なるが、大和政権と敵対していた地域に何故このような仏像がもたらされたのか、謎なのだそうである。

12 おいらせ阿光坊古墳館

さて、そろそろ古墳群に向かいたいと思うが、だいぶ長くなったので、古墳群の紹介はまた次回。

(地図)
おいらせ阿光坊古墳館地図


(参考資料)
「古墳まっぷ」 http://kofun.info/
「阿光坊古墳群発掘調査報告書」 2007年1月 青森県おいらせ町教育委員会



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2017/07/03

金色の雲を見上げる台地下の塚(埼玉県川越市 がんおい塚?)

前回紹介した「高階村史」に、極めて気になる記述があった。

「藤間の諏訪神社の低地にあるがんおい塚もこの時代の古墳かもしれない」。

砂新田のシベイ塚を見た後、時刻は既に18時半を回っているが、地図を見ると藤間の諏訪神社はここから僅か1kmほどの距離である。やや陽も傾いてきたが、急げば明るいうちに見に行けそうである。

「がんおい塚」とはおそらく「雁追塚」であろうから、何となくイメージ的に、西向きの眺望の頗るよいところではないか、と勝手に想像していたが、藤間の諏訪神社はそんなイメージとは反対向きに、南西から北東に走るシベイ塚と同じ舌状台地のちょうど反対側、南東を向いて崖の際に建っていた。

08 川越藤間諏訪神社

神社自体は古くからこの地に祀られているらしく、見たところ崖の縁に直接建てられているようである。よくある「神社古墳」のように、神社の土台が塚状になっている訳ではなさそうである。

09 川越藤間諏訪神社

境内にもそれらしきマウンドは見当たらないが、忠魂碑の立っているあたりの地面がやや膨らんでいるようにも見えるし、境内の南西の隅の方もやや盛り上がっているようにも思えるが、「高階村史」には「諏訪神社の低地にある」とあるので、境内を探すのではなく、眼前の崖を下りた周辺を探すべきなのかも知れない。

10 川越藤間諏訪神社忠魂碑

11 川越藤間諏訪神社境内奥

とは言え、何となくまだ境内をウロウロしてみる。御神木とされる杉の古木の切り株が大切に保存されている。

12 川越藤間諏訪神社御神木

境内から目前の崖下を望んでみるが、周辺はすっかり住宅が立ち並んでいて、ぱっと見ではそれらしいものは見当たらない。

13 川越藤間諏訪神社より崖下を望む

石段を下りて崖下をウロウロと往復してみたが、やはりそれらしい塚は見つからない。

14 川越藤間諏訪神社下の崖面(南西側)

15 川越藤間諏訪神社下の崖面(北東側)

神社の目前ではなく、どこか離れたところにあるのだろうか、手掛かりが全くなく、お手上げであるが、どうにも諦めがつかないので、崖に沿ってそのまま北東方向に進んでみた。

舌状台地上は末端まで住宅地が続いており、台地が尽きたところは新河岸川の川岸であった。
夕暮れで川面はよく見えなかったが、夕雲が金色に光っていて、思わず息を飲んだ。

16 川越藤間新河岸川夕景

がんおい塚は見つけられなかったが、その代わりに息を飲むような見事な夕陽を見せてもらった。
夕空に雁は飛んでいなかったが、その気になって見れば、金色に光る雲が雁の群れにも見えなくはない。。
今日はこの夕陽で締めくくることにして、家路に着くとしよう。

振り返れば、東の雲まで金色に染まっていた。

17 川越藤間新河岸川夕景

頭上に広がる金色の雲を見上げながら、ふと、がんおい塚からの眺めはこんなだったのかも知れない、と思った。


(地図)
川越藤間がんおい塚?地図



(参考資料)
「埼玉の古墳 [北足立・入間]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会
「川越雑記帳2(川越見て歩き)」 http://blog.goo.ne.jp/kwg1840go



2017/07/03

「古墳のような」神社、再び(埼玉県川越市 シベイ塚)

昨年から続いていた大きな仕事が今日、ようやく一段落した。
時刻はもう夕方であるが、まだ明るいので、以前から気になっていた、もうひとつの「古墳のような神社」を見に行きたいと思う。

川越市砂新田は南西から北東に向けて走る舌状台地を望む崖下にあたり、標高は13~14mほどである。以前、この低地部分にある「古墳のような」神社として「春日神社」を紹介したが、実はその近くにもうひとつ、これこそ「古墳ではないか」と言われている、神社を頂いた塚がある。

「埼玉の古墳」という県内の古墳を網羅した5冊シリーズの書籍の「北足立・入間」編、「新河岸川流域の古墳」の項で、「旧高階村砂新田の古墳」と題して、「次兵衛塚/シベイ塚」という塚が紹介されている。

前述の春日神社から南に800mほど、低地を見下ろす舌状台地上の北の際、高階中学校前の駐車場の奥に、裾をブロック塀で囲まれた大きなマウンドが見えている。

01 川越砂新田シベイ塚遠景

塚の直径は20mくらいあるだろうか、高さは7~8mで、墳頂に吉田神社が祀られている。

02 川越砂新田シベイ塚近景

左手(南)から見ると、赤い倉庫のような建物は宙に浮かぶように建てられている。

03 川越砂新田シベイ塚南から

正面に設けられた急な石段を上ると、頂上には件の倉庫の入り口と、小さな吉田神社の祠が立っていた。

04 川越砂新田シベイ塚墳頂への石段

05 川越砂新田シベイ塚墳頂吉田神社

塚の裏側は民家に接していてよくわからないが、頂上から見回す限りでは、墳丘はほぼ円形をしているようである。

06 川越砂新田シベイ塚墳頂より墳裾

古墳は高さ5mほどの舌状台地の北の際に築かれており、北西側の地盤は低くなっているので、墳頂から西を見ると家々の屋根が目線よりも下になり、見晴らしがよい。

07 川越砂新田シベイ塚墳頂より西を見る

この塚は古くから知られた塚のようで、「埼玉の古墳」によると、「新編武藏國風土記稿」で「次兵衛塚 高サ二丈許」と紹介されているほか、言い伝えでは川越藩主に仕えた吉田次兵衛という人物が、自らの領地に武具を埋めて築いた塚とされる。この吉田次兵衛は、榛名神社の申し子を自らの子として大切に育て、やがてこの地で木喰上人となったことから、榛名湖の竜神もこの地には雷や水害をもたらさなかった、とされているそうだ。

江戸時代に小林一茶が草津への途次、ここを通った際の記録「草津道の記」にも似たような伝承が記されているそうだ。
「川越入口坂を尾頭坂(烏頭坂:ウトウザカ)、爰にシベイ塚といふ有 そのかみ何某どのゝ姫君、従者あまた供して上州ハルナ山に参り玉ひけるに、姫いかに思ひけん、絶頂の沼に身投げてうせぬ かくて守護なせる者ども、魚の水に放れ、鳥の羽うしなひたるやうに思はれて、館へ返るもよしなして、髪反りこばちて、姫の菩提とひける塚となん里人のかたりける しかるに姫は、彼沼の蛇となりて六月氷を降らせけるにも、此村々人々シベイ塚シベイ塚と唱へ、又嘗て田畠に立れば、其災を除とかや」

旧高階村の村史では、「後に治兵衛についての伝説が付け加えられたが、この頃(大昔?)の古墳とみてさしつかえないものであり、藤間の諏訪神社の低地にあるがんおい塚なども、あるいはこの時代の古墳であるかもしれないし、砂新田には他にも古墳の跡でないかとみられるものもある。」とされているそうだ。

時代が下って「川越市史」では、「治兵衛塚と駅近くにもう一基あるが古墳としての確証なく、それぞれ一基ずつぽつんとあるのはおかしいが、所沢街道の砂久保の手前の山林中の二基のうち一基からは円筒埴輪が出土しているので古墳ともみられるが、一、二基ずつ散在するのは了解し難いところである」と古墳説を疑問視しているようであるが、この際、こうした消極的な説は見なかったことにしたいと思う。

何の根拠もないけれど、古墳好きとしては、舌状台地の際に立つシベイ塚はやはり古墳なのではないか、と思いたいのであるが、古墳であろうと、そうでなかろうと、いずれにしても永年の風雪に耐えた貴重な文化財であることは紛れもない事実であるし、それだけでもう、十二分に感服に値することだと思うのである。

(地図)
川越砂新田シベイ塚地図


(参考資料)
「埼玉の古墳 [北足立・入間]」 2004年9月 塩野 博氏 さきたま出版会
「川越雑記帳2(川越見て歩き)」 http://blog.goo.ne.jp/kwg1840go






2017/06/23

アジサイの前方後円墳とアオガシの方墳(茨城県潮来市 天王原古墳/中辻古墳)

久しぶりに古墳巡りの機会に恵まれ、潮来市に来ている。
天気も上々で、全く申し分ないのだが、ひとつだけ。一般的に古墳には樹木が密生しているものだが、この辺りのヤブ蚊はタフで、市販の虫よけ剤をものともせず突撃して来る。古墳好きとしては欠格かも知れないが、蚊が極めて苦手なので、若干辟易としている。先ほどから全身虫よけ剤まみれで、どうでもいいことではあるが、果たしてこれって健康を害することはないのかしら、などと思っている。(幾分顔面がピリピリするのは気のせいか。)

浅間塚古墳を見た後、国道51号を戻り、潮来市役所前を右折して一本南を走る旧道へと入る。道の両側に神社が並ぶ風情ある旧道を県道50号方向に進むと、県道にぶつかる100mほど手前、右側にぽっかりと「天王原古墳」の墳丘が見えて来る。

<天王原古墳>

09 潮来市天王原古墳

この古墳は高台ではなく、南を流れる前川に面した標高4~5mほどの低地に作られているようで、大きさは「埼群古墳館」によれば全長30mほど、後円部径15m、高さ3m、前方部は幅8m、高さ1.5mの前方後円墳で、先ほどの浅間塚古墳に後続する首長墓ではないか、とされているそうだ。

10 潮来市天王原古墳

(パノラマ写真)
11 潮来市天王原古墳

低地だからだろうか、蚊も少なく快適である。
後円部の一部が部分的に高く盛り上がっていて、その上に小さな祠と布袋様(恵比寿様?)が祀られている。

12 潮来市天王原古墳

13 潮来市天王原古墳

周囲にはいろいろな種類の紫陽花がたくさん植えられており、古墳も紫陽花も、地域の人たちに大切にされているのだろう。

14 潮来市天王原古墳


さて、この近くにもうひとつ、「中辻古墳」という方墳があるはずなのだが、どうにも見つからない。仕事に間に合わなくなるので、諦めていったん仕事に向かうことにした。


<中辻古墳>
訪問先の定時は17時なので、仕事は明るいうちに終わった。(端からそのつもりだったフシもあるが、)急げば中辻古墳へのリベンジも可能である。

先ほど探した際はクルマでの進入を躊躇した細い路地に意を決して突入し、しばらく進むと、真面目に仕事をこなしたご褒美、という訳でもなかろうが、今度はあっけなく、目指す中辻古墳に辿り着くことができた。

15 潮来市中辻古墳

「中辻古墳」の標柱と並んで、「辻のアオガシ」という標柱が立っている。すぐ横の大木がこのアオガシのようで、樹齢は推定200年とある。

16 潮来市中辻古墳

17 潮来市中辻古墳

墳丘は「方墳」とされているようだが、見通しが利かないこともあって、方墳のイメージが掴めない。道路沿いに西側に回って見ると、墳裾の左隅がカドのようにも見えなくもない。

18 潮来市中辻古墳

東側は樹木が少なく、墳丘がよく見えるが、やはり四角くは見えない。

19 潮来市中辻古墳

もう少し南側まで回り込んで見ると、墳頂が水平に平坦になっているようにも見える。が、方墳の墳頂って平坦なものだっただろうか・・・。
方墳はこれまであまり見たことがないこともあり、経験値(見る目とセンス)が足りないようである。

20 潮来市中辻古墳


帰路、常陸利根川を渡ってみた。霞ヶ浦と外浪逆浦を繋ぐ水路のような川であるが、川幅いっぱいに水を湛えた川面が夕雲と同じ色に染まっている。

久しぶりに古墳を堪能できた一日だった。

21 潮来市常陸利根川


(地図)
潮来市天王原古墳、中辻古墳地図
(黄色はまだ行ったことのない未探訪古墳)


(参考資料)
「埼群古墳館」 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/
「いばらぎデジタルまっぷ」 http://www2.wagmap.jp/ibaraki/top/select.asp?dtp=34