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2018/11/01

秋の陽と原木田の「君ヶ塚」(福島県いわき市 君ヶ塚古墳)

「君ヶ塚」という地名が目に留まった。
だいぶ以前から「塚」の字にはめっぽう敏感になっている。
2018年11月、泊りで小名浜で行くことになったので、寄り道できそうな場所を物色していたところ、市内に「君ヶ塚」という地名表記を見つけた。
きっと昔、そういう名前の塚があったのかしら、と思い検索してみると、またもや埼玉古墳軍さんの「古墳軍ニュース」がヒットした。
「恒例古墳軍夏の東北遠征・第7回福島県古墳探索(2009.10.21)」という記事に、「君ヶ塚古墳」という古墳が君ヶ塚域内に神社として残っている、とあった。
詳しい場所までは掲載されていなかったが、「今昔マップ on the web」で明治時代の地図を見ると、小名浜中央公園のやや北に当たる場所に、塚/古墳マークを見つけた。

01 今昔マップ on the webより「五万分の一 小名浜」 明治41年


金冠塚古墳を見た後、陽が沈む前に現地に行ってみた。周辺はすっかり瀟洒な住宅が立ち並んでいて、そんな路地を入った一画、遠くからでもそれとわかる場所に大きなイチョウの木立があって、近寄って行くと少し小ぶりな鳥居が立っていた。

02 君ケ塚古墳 入口 小ぶりな鳥居

一礼して身をかがめ石の鳥居をくぐると、手作りだろうか、親しみを感じる赤い鳥居が墳丘上へと続いている。

03 君ケ塚古墳 墳丘へと続く赤い鳥居

墳丘の形は、見たところ判然としないが、「ふくしまの遺跡」という書籍によると「墳径約20m、高さ3mの円墳」となっている。現存している墳丘の高さはそれほど高くはないように見える。

04 君ケ塚古墳 墳丘の様子

墳頂はやや窪むように削平されていて、時節柄、あたり一面は銀杏と落ち葉で埋め尽くされており、そんな中、稲荷神社の祠が夕陽に染まって建っている。

05 君ケ塚古墳 墳頂 稲荷神社の祠

現在は閲覧できなくなっているようだけれど、当時は福島県の遺跡情報データベースが閲覧でき、県内の古墳はその所在地と名称、標高や水系、調査歴などが検索・表示できるようになっていた。「君ヶ塚古墳」の頁は幸い印刷しておいたので手許に残っていて、それによると所在地は「小名浜岡小名字君ヶ塚」(現在の表記は 小名浜君ヶ塚町14)、水系は1.5kmほど西を流れる「藤原川」水系、所在地の標高は「5m」、調査歴は「無」となっていた。

06 君ケ塚古墳 横から見た墳丘

平安時代に成立したとされる「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると、このあたりを境にして、北を「石城(いわき)郡」、南を「菊多郡」と呼んだらしく、両郡の境は一説には藤原川水系とも、もう少し南の小浜町あたりであるとも言われているようである。いずれにしても石城郡の南端、菊多郡との境にほど近い地域であるが、太古から人々が暮らしていたらしく、貝塚遺跡や弥生時代から古墳時代の集落跡なども見つかっているらしい。

ところで古墳の名前であるが、そういう伝承が残る塚があったから「君ヶ塚」という地名がついたのか、それとも「君ヶ塚」という地区にあるから塚の名前もそうなったのか、どちらが先かよくわからないけれど、明治の地図をよく見ると、このあたりの字名は「君ヶ塚」ではなく「原木田」と表記されている。これは昭和57年の地図でも変わっていなかったので、町名が「君ヶ塚」になったのは昭和58年以降になってからなのかも知れない。
そうだとすれば塚の名前が先にあったのだろうが、普通、原木田にあった塚であれば、塚の名も「原木田塚」となりそうなものである。
「君」の語は通常は高貴な人物に付される敬称であろうから、全くの妄想に過ぎないが、もしかするとこの古墳は身分の高い人物の墳墓である、という伝承とともに「君ヶ塚」という名前が古くから伝わっていて、そうした由緒ある塚の名を町名に冠した、ということなのかも知れない。

そんなことを考えながら少し離れた場所に停めたクルマに戻ろうと歩いていると、まさに秋の陽は釣瓶落とし、太陽が西に傾き出した。ふと見ると、広々とした公園の芝生広場の真ん中、もうじき沈まんとする西陽の中にお椀型の遊具が見えている。

07 公園の遊具まで「古墳?」

町名にもなったわが町自慢の古墳なのだから、わが町の公園の遊具のモチーフにも古墳を・・・というのは些か勘繰りすぎかも知れないが、この角度から見る薄暮に沈みゆくあれは、どう見ても葺石を施された円墳にしか見えなかった。
仕事のし(古墳の見)過ぎか、目(と頭?)がおかしくなっているのかも知れない。

今夜は宴席であるが、ハシゴは遠慮して、早めに寝た方がよさそうではある。

<投稿 2020.7.31>

(参考資料)
「埼玉古墳軍」 http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tobira.html
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「みんなで学ぼう いわきの歴史」 平成29年度版 いわき市教育委員会




2018/11/01

中田七曜塚 名残りの古墳(2)(福島県いわき市 曲田古墳?/糠塚?/重殿古墳?)

小名浜へ向かう道すがら、寄り道をした金冠塚古墳は「中田七曜塚」と呼ばれたものの一つであったそうで、残りの塚/古墳は壊滅状態にあるそうだが、果たしてそれらは一体どこにあったのだろうか、と思う。

現地での探訪はここまでにして、その日はこの後、小名浜へ向かったが、何とも気になったので帰宅してからいろいろと調べてみた。

<曲田古墳?>
それらしいところはないものか、とまずは明治時代の古い地図を眺めていると、金冠塚古墳から線路に沿って1kmほど北上したあたり、現在で言うと釈迦堂という字名の少し北、曲田というあたりにひとつ、塚/古墳マークのようなものがあることに気づいた。多分これこそ中田七曜塚の1基に違いない(是非そう思いたい)と思うけれど、これは一体何だろうか。

01 五万分の一「小名浜」明治41年測図より
(左下矢印が金冠塚古墳のあるあたり、中央上が曲田古墳? 今昔マップ on the web 五万分の一「小名浜」 明治41年測図より)

インターネットであれこれ探してみたが、いわき市を含め、福島県の遺跡などの調査報告書はネット上では閲覧できず、さっぱりわからない。これはお手上げか、と思っていたところ、幸い、福島大学が2017年に実施したいわき市内の別の古墳の測量調査報告書に、いわき市内の遺跡/古墳がプロットされている地図を見つけることができた。
これによれば、明治の地図に載っていたのは「曲田古墳」という古墳のようであるが、詳しいことはわからなかった。グーグルマップで見る限り、現在はすっかり畑になっていて、塚/古墳の痕跡のようなものは残されていないようであった。

<糠塚?>
さらに、埼玉古墳軍さんの「古墳軍ニュース 第6回福島県古墳探索(2008/11/16)」では、金冠塚古墳の北、錦町の中田原遺跡域内にあるという塚の写真が掲載されており、「七曜塚の名残であろうか」とあった。
この塚と神社は現在でも残っているようで、グーグルマップでも金冠塚と同じ「大山祇神社」として登録されている。所在地の字名は「糠塚」となっているので、もしかするとこの塚の名を糠塚というのだろうか、と思ったが、中田原遺跡について調べたところ、平成18年の調査で、隣接する病院敷地(地番は糠塚ではなく落合1-1)から古墳痕跡が発見されているようである。「糠塚」という語は、古墳や塚に付けられる汎用的な名称であるが、さらにここから少し北の「中田遺跡」(糠塚6-21)からも、平成24年に古墳の痕跡が見つかっているようであるので、糠塚の字名はこれらの古墳に由来しているのかも知れない。

02 糠塚の大山祇神社(Googleストリートビューより)
(糠塚の大山祇神社 Googleストリートビューより)

ちなみに、ここ糠塚の北、常磐線をはさんだ反対側に稲荷神社があり、カシミール3Dの地形データを見ると、この稲荷神社のすぐ西に直径10mほどの塚状の高まりのような地形が見えるのだが、グーグルマップで見るとそこはクレハの工場敷地内で、重機が土木工事などをしているようであるが、いずれにしても塚状の高まりは見当たらなかった。

<重殿古墳?>
最後にもう一カ所、古い航空写真でこの周辺を見ていると、米軍が昭和21年に撮影した写真で、金冠塚の南東、「重殿」(ジュウドノ)という変わった字名のあたりにひとつ、怪しい樹叢が写っていた。

03 19461010_USA M283-A-10米軍航空写真(「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院より)
(左が金冠塚古墳のあるあたり、中央下が重殿の怪しい樹叢 1946年米軍撮影 「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院より)

グーグルマップでもちょうどこの地点の360°画像を個人の方が投稿されていて、鳥居と祠を頂いたマウンドのようなものが写っている。ここには今でも塚状のマウンドが残っているらしい。

04 重殿の神社祠とマウンド(Googleストリートビュー加戸淳一さんという方の投稿写真より)
(重殿の神社祠とマウンド? Googleストリートビュー加戸淳一さんという方の投稿写真より)

このあたりには、福島大学の報告書地図では「伊賀屋敷遺跡」という遺跡名がプロットされている。
伊賀屋敷という字名は、2kmほど西、菊多郡の郡衙跡とされる郡遺跡や菊多国造の創祀によるとされる國魂神社の西隣あたりを指すはずなので、おかしいな、と思いよく見ると、逆にそちらの方には「重殿古墳」があると書かれている。どうやら名称が入れ替わっているのかも知れない。

ところで「重殿」と書いて「じゅうどの」と読む、重箱読みの字名も変わっているが、どんな謂われがあるのだろうか。
以前、埼玉県吉見町の「頭殿(ヅウドノ)神社」について調べた際、「頭殿」とは中世の地頭領に関連した地名であるらしい、と書いた。「重殿」の由来もこれに通じたものか、と思ったが、どうやらそれとは違うようである。
「重殿」は「通殿」(ツウドノ)や「水殿」(スウドノ)に通じ、水を司る神、川を鎮める神を指すらしい。
波乗りうさぎさんという方のブログでもこの地名について紹介されていて、それによると「重殿」という地名は茨城県北部に多く見られるそうで、「目一つの神」、すなわち「一目連」(ヒトツメノムラジ)という天候を司る神に纏わる伝説が伝わっているそうだ。上述のグーグルマップに写っている祠も「重殿神社」の祠であるらしい。

さらに線路沿いに南の方へ眼をやると、「塚田」、「長塚」という字名が目に入った。
もしかするとこっちの方にも塚があったのかも知れないが、ここまで行くと既に旧錦村から出てしまう。そもそも中田七曜塚の最南端は金冠塚古墳であったようなので、重殿古墳などは少なくとも中田七曜塚とは別の古墳群だったのだろう。

結局のところ、「中田七曜塚」の所在は皆目わからなかった。
けれど、このあたりに残る古くからの地名/字名はいずれも奥深く、こうした地名には過去の記憶の片鱗が見え隠れしていることに、改めて感銘を受けた。

それにしても七曜塚、どこにあったんだろう・・・。

<追記>
誰かの歌ではないが、探し物というものは探すのを止めないと見つからないらしく、その後、偶然にも「中田七曜塚」ではないかと思われる七つの塚の名前を見つけた。

錦町宮ノ前の八坂神社に「なこそ中田地域づくり協議会」が設置した「江戸期中田村絵図」という看板の写真を「けんぼう」さんという方がグーグルマップに投稿されており、それによると、中田村に伝わる「遺跡」として以下の七つが挙げられている。

①砂塚、②二ツ塚、③糠塚、④飯森塚、⑤六部塚、⑥山神(金冠塚)、⑦唖塚

①~⑦はいずれも「塚」であって、中田村の七つの塚であるから、これらを称して「中田七曜塚」と呼んだのではないのだろうか、と思う。
これらの塚の位置は、曲田古墳のあたりに①砂塚が、糠塚の大山祇神社のあたりに⑦唖塚、そのやや北東に③糠塚が描かれている。やはり糠塚という字名は塚の名前から来ているようだ。また②二ツ塚は、⑥山神(金冠塚)の北を流れる川が西進、流れを北へ変えた後、再び西へ向きを変えるあたりに二基描かれているので、現在の錦変電所あたりに当たるのだろうか。さらに④飯森塚は現在の飯森町、錦中学校のあたりにマークされており、⑤の六部塚は海の近く、現在の馬場のあたりになるだろうか、蛭田川が菊田浦に達する手前で大きな沼のようになっていたらしく、そのほとりにマークされている。
上記のほか、重殿古墳の場所には「十殿(権現)」と記されており、また、上記①~⑦には含まれていないが、①砂塚のすぐ南、釈迦堂のあたりにもひとつ、塚のようなものが描かれている。

上記の①~⑦と「中田七曜塚」との関係はよくわからないが、少なくとも上記の七塚は「常磐線沿いに並んでいる」という訳ではなさそうなので、やはりこの七基が「中田七曜塚」という訳ではないのかも知れない。

古くからの文化財が後世に残されたとしても、自治体の史跡に指定されない地域に根ざした素朴なものについては、それらが有する歴史的意義や伝承など、後世に伝えようという地元の人々の思いがなければ、口伝はいつしか途絶え、やがて人々の記憶から消えていってしまう。
「過去の記憶」というものは、須らく完全な形で後世に伝えて行けるものではないにしても、もしそうであるならば、及ばずながら私のような不心得者でも、こうしてネット上の情報の聞き齧りを如何ばかりかでも文字に残すことで、地域の素朴な「記憶」の保存に僅かでもお役に立てているとよいのであるが・・・。

<投稿 2020.06.30>

(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html
「福島大学考古学研究報告 第11集 塚前古墳1 福島県いわき市塚前古墳測量調査報告書」
2018年3月 福島大学行政政策学類考古学研究室
「埼玉古墳軍」 http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/tobira.html
「全国遺跡報告総覧」 奈良文化財研究所 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
「ジュウドノという地名」 波乗りうさぎの日記 http://blog.livedoor.jp/naminoriusagi/archives/51381970.html





2018/11/01

中田七曜塚 名残りの古墳(1)(福島県いわき市 金冠塚古墳)

都道府県を跨いでの移動も自粛が解除されて、観光地への行き来などもそれなりに許容されるようになったようだけれど、それでも皆、心の奥底にはまだ不安が影を落としているのだろうか、すれ違う人たちの表情は目だけしか見えないけれど、皆、どことなく不安そうに見える。ほんの数か月前までは当たり前だった「日常」を手探りで怖々と確かめている、そんな風に見える。
とにかく第二波とやらがひどくならないことを古墳や神社で祈りたいと思う。

2018年の晩秋、宴席に呼ばれ、久しぶりに小名浜まで泊りで行くことになった。

いわき勿来インターで高速を降りて国道289号を右折、「菊多(きくた)浦」と呼ばれる海へ向かって徐々に下っていく。勿来と言えば「勿来の関」が有名であるが、このあたりは遠く律令時代、「国造本紀」によると「菊多郡」と呼ばれていたそうで、関の名も古くは「菊多関」であったそうだ。
丘陵地帯から平野部へ下り、クレハや日本製紙の広大な工場の間を抜けると、常磐線をオーバーパスで跨ぐ陸橋に差し掛かる。この陸橋の南脇に「金冠塚古墳」がある。

この古墳には何年か前にも来たことがあるが、昭和20年代後半に発掘調査され、金冠の飾金具などが発見されたことから、一躍、話題を集めたらしい。これらの遺物は国立博物館に展示され、古墳も県の史跡に指定されているようである。私のような素人が取り上げる余地などないのだが、時間に余裕があるので立ち寄ってみることにした。
常磐線を跨ぐ陸橋への上り口の信号を左にそれて、立ち上がっていく陸橋に沿って側道を少し進むと、陸橋下に解説版と古墳への入り口が見えてくる。

01 金冠塚古墳入口と解説版

陸橋をくぐって反対側へ抜けると、直径28m、高さ3mの段築のある見事なマウンドが見えてくる。

02 金冠塚古墳(南から)

築造時期は古墳時代末期、現地の解説版には「7世紀前半」とあるが、いわき市教育委員会が出版している「いわき市の文化財」では「6世紀後半」の築造とされていて、古くは「山の上(山神)古墳」と呼ばれていたらしい。
発掘調査の結果、何層かに分かれて追葬されており、下層から冠の一部とされる透彫された金銅製の飾金具など豊富な副葬品が出土したことから金冠塚古墳と呼ばれるようになったそうである。出土遺物の豊富さから、被葬者は中央政権と強固な結びつきを有する勿来低地の支配者層と考えられているらしい。
往時、菊多郡の郡衙はここからすぐ西、郡という字名が残る標高20mほどの高台の一画にあったとされていて、現在も高台に鎮座している國魂神社は菊多国造の創祀による、とされているらしい。金冠塚古墳からの距離は1.5kmほどで、まさに目と鼻の先ほどの距離であるから、この古墳の主は、菊多国造とも相当所縁の深い一族だったのだろう。
一礼して鳥居をくぐり、墳頂へ登らせてもらうと、木陰に小さな祠が鎮座している。グーグルマップの書き込みによればこれは大山祇(オオヤマツミ)神社の祠だそうである。

祠に手を合わせ、墳丘の反対側に回ると、石室の天井石が見えている。

03 金冠塚古墳(北東側石室開口部)

石室の規模は前掲の書籍によれば全長7.5mもあるそうで、石室内の鮮明な写真も掲載されているが、狭い開口部から中を覗く勇気はヘタレの私には毛頭ない。

周囲には他に古墳などは見えず、孤立して築造された単独墳のようにも思えるが、実は十数基から成る「中田古墳群」のうちの1基で、常磐線に沿うように複数の塚/古墳が並んでいたことから「中田七曜塚」とも呼ばれたそうだが、他の古墳はいずれも開発で「壊滅状態」で、往時の姿を留めているのはこの金冠塚古墳のみとされているらしい。

04 金冠塚古墳(東から)

そう思いながら周囲を見ると、古墳脇の陸橋は墳丘を避けるためだろうか、微妙に北寄りに迂回しているようにも見える。ここまでしてよくぞ残してくれたものだ、と思う。

05 金冠塚古墳

ちなみに「中田」というのはこのあたり、旧錦村の古い地名で、源義経が木曽義仲と戦った際、義経側についた佐々木四郎高綱の家臣に中田孫左衛門という人物がいて、この人の出自がここ、中田であるとされるようなので、相当古くからある地名なのだろう。

それにしても、中田七曜塚の残りの塚は一体どこにあったのだろう。「七曜」は太陽や月などを表す語でもあるが、この場合は家紋としての所謂「七曜紋」、●の周囲を六つの●が取り囲んでいる家紋を指すのだろう。とは言え、まさか金冠塚古墳の周囲をぐるりと6つの古墳が取り囲んでいた、という訳でもないだろうし、もしかすると「七」は具体的な塚の数ではなく、「複数/幾つもある」といったような意味合いなのかも知れない。

06 金冠塚古墳周辺

07 金冠塚古墳周辺

ひとしきり周囲を見回していると、陸橋下、常磐線の線路脇に小さな祠が見えたので行ってみた。

08 阿屋稲荷神社遠景

この祠は「阿屋稲荷神社」という神社の祠のようだが、すぐ脇にある神社の名前の彫られた石板が大きく欠けてしまっていて、何とも痛々しい。手を合わせ、いつもより深めに頭を垂れるぐらいしかできることがない。

09 阿屋稲荷神社 欠けてしまっている石碑

祠の周囲が特別、塚のように盛り上がっているという訳ではないが、なぜこんな陸橋下で日当たりも悪く、すぐ脇まで駐車場と線路が迫る手狭な場所に祠が祀ってあるのだろうか、と思う。
「今昔マップ on the web」で明治時代の地図を見ても、この場所には神社のマークは見当たらず、そればかりか金冠塚古墳も描かれておらず、七曜塚の名残としての手掛かりは何もなさそうである。

長くなったので、続きはまた次回。

<投稿 2020.06.21>


(参考資料)
「いわき市の文化財」 改訂版 いわき市教育委員会
「みんなで学ぼう いわきの歴史」 平成29年度版 いわき市教育委員会
「要綱石城郡町村史」 昭和4年10月 諸根樟一著 郷土社出版部
「ふくしまの文化財をみる 金冠塚古墳」 まほろん 福島県文化財センター白川館 https://www.fcp.or.jp/mahoron/bunkazai/362.htm
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html





2018/10/24

心が疼く「石積み」(東京都福生市 睦橋東袂の石積み)

今回は、以前から気になっていた「石積み」である。

何年か前から仕事であきる野方面へ往復する機会が増えて、クルマで睦橋を渡るたびに、橋の東側の袂の斜面上にある石積みが気になっていた。
それは遠目には、人頭大の丸い川原石がゴロゴロと積み上げられているだけの、単なる石積みにしか見えなかったのだが、確かこのあたりの古墳はあんな感じの積石塚が多いらしいんだよなあ・・・と、そこを通るたびに気になっていたけれど、「東京都遺跡地図情報」を見てもそこには古墳マークはおろか、遺跡表示すらされていなかった。

ある日、「今昔マップ on the web」を眺めていて、何気なく例の石積みのあたりを見てみた。
そのあたりは明治の頃から「内出」という集落があって、橋が掛けられるずっと以前から民家が多かったらしく、明治の地図で既に一帯が黒い斜線で「市街地」表示されていた。
中央少し上、神社と寺院が並んでいるそのすぐ南、斜線が白く抜けてしまっている箇所があった。
あれれ、塗り損なってるじゃん、これ、と思ったその時、ハタと気が付いた。塗りつぶし損ねているわけではなくて、これは「塚/古墳」のマークではないのか、と。

01 内出周辺の明治時代地図(二万分の一「拝島」明治39年)
(中央、寺院記号下に見える「塗り残し」? 今昔マップ on the webより、二万分の一「拝島」明治39年)

位置的には現在、睦橋通りが通っているあたりか、それよりやや南にズレたあたりだろうか、おそらく睦橋通りを切り拓く際、切り通しになって崩されてしまっているようにも思えるが、もしかするとここには昔、塚や古墳の類いがあったのかも知れない。
そう思ったところで再びハタと閃いた。いつも気になっていたあの石積み、実はこれだったりするんじゃなかろうか。

数日後、半ば無理やりセットしたあきる野での用事を終え、睦橋を渡り、懸案だった斜面の石積みの前に立ってみた。(仕事とどちらが主目的なのだろうか、と自分でも時々思うことがある。)

02 気になっていた石積み

積み上がっている石は思いのほか大きく、しかも石の積まれている底地はコンクリートで階段状に整地されていて、やはり少なくともこれは古くからある石積みの塚か古墳がそのまま遺存している、という訳ではなさそうである。

03 石積みから多摩川を望む

やはり空振りだったかしら、と思い、振り返ってみると、少し離れた空き地に大きな木が一本、立っており、その根太のあたりが盛り上がっているようにも見える。

04 少し東に見える木

05 少し東の木の根太

いやいや、さすがにこれは木の根太が盛り上がっているだけだろう。だがしかし、永年鬱積した欲求不満がそうさせるのか、頭では違うと思っているのに、何故か写真まで撮ってしまう。(しかもそれをブログで記事にしてしまう。)

結局のところ、明治の地図にあった塚/古墳マークの正体も存否もわからずじまいであるが、これで終わってはあまりに何なので、ひとつだけ。
ふと見ると、石積みのやや下の方に、福生市の立てた史跡の案内板がポツンと立っていた。

06 石積み下の福生市史跡案内板

お!やっぱここ、古墳だったのか!と、諦めの悪いオッサンは瞳を輝かせつつ駆け寄ったのだが、やはりそうではなかった。
昭和30年頃まで、このすぐ下の河川敷から砂利が採取され、それを運搬する鉄道がここを通っていたらしい。確かにいまの南武線なども私が子供の頃は砂利を運ぶ貨物列車が走っていたようにも思う。コンクリートの強度を増す重要な建築資材として、多摩川の砂利は首都東京の経済成長を担っていたのだ、と聞く。
戦前の地図を見ると、当たり前だが解説版と同じ経路を線路が通っているのがわかる。いまの拝島駅の北西、共光稲荷神社前の駐車場のあたりまで続いていたようだ。

積年の懸案はひとまず解消した、と思ったけれど、習慣というものは恐ろしいもので、その後もやはり、ここを通るたびにこの石積みが目に入り、何故か心が疼くのである。

07 石積み近くで見上げた空



<投稿 2020.6.14>

(参考資料)
「今昔マップ on the web」 http://ktgis.net/kjmapw/index.html





2018/10/19

川崎市内に残る中世の十三坊塚(2) (神奈川県川崎市 野川の十三坊塚?)

非常事態宣言は解除されたけれど、東京などでは一時期よりも感染した方の数は増えている。南米やロシアなどでは深刻な状況になりつつあるらしい。当分の間、こうした未知のウィルスとの闘いは続くのだという人もいるし、傲慢になった人類に神様が罰を与えているのだ、という人もいるけれど、雨はいつかは上がるものだし、夜明けの来ない夜はない、という歌だってある。
夜明けを信じて、今はとにかく謙虚に、前を向いていようと思う。

前回に引き続き、今回も川崎市宮前区内の十三塚伝承地である。

長尾の十三塚から南東に5㎞ほど、現在は開発されて野川南台団地が立ち並んでいる台地上の一帯も、古くは「十三本堂」と呼ばれた土地だそうだ。
団地の南側を画する台地上の道は「南の横大道」と呼ばれた古道で、中原街道から分岐して標高差30mほどの台地上に上り、野川を通ってそのまま西へ進み、打越でいったん台地を下りた後、再び上り直して有馬古墳の目前を通り、有馬9丁目で矢倉沢往還へと至る、尾根上を行く見晴らしのよい道で、鎌倉街道中ツ道の支路ではないか、とされる道でもある。

この台地上は中世、鎌倉幕府の有力御家人であった和田一族が支配していたとされるらしく、台地下を東西に流れる有馬川に面した南向きの崖地には和田八幡宮が鎮座している。このあたりは現在でも和田一族の末裔の方々が多く暮らしているのだそうだ。
和田八幡宮の300mほど東、南から台地に向かって、「篭場谷(ろうばや)」と呼ばれる深い浸食谷が食い込んでおり、この浸食谷を望む台地の縁、南の横大道のすぐ南側に、15m四方ほどの大きな土のマウンドがある。

01 十三坊塚とされるマウンド

宮前区の発行する「歴史ガイドまち歩き」では、この大きなマウンドが「十三坊塚」となっていて、解説文でも「以前、13の塚が並んでいたと伝わるが、現存する塚は一つである」とされている。

02 十三坊塚とされるマウンド

これを読むと、まさしく目前のこのマウンドがかつての十三塚の名残、「現存する一つ」であって、おそらくは東西に走る南の横大道に沿って、往年は十三基の塚が並んでいたのだろう、と思っていた。
しかしながら、何となく腑に落ちない気もしていた。

天保5年(1834年)に発刊された「江戸名所図会」には、まさにここ、野川村の十三塚が挿絵付きで次のように紹介されている。
「十三塚 土人は十三本墓と呼べり 野川村の耕地の中ここかしこに散在せり 雑樹茅草茂れり 相伝ふ新田左兵衛介(新田義興)江戸遠江守のために伐たれて矢口の渡しにて亡びたまひしとき随ふところの家臣の墳墓なりといへども詳らかならず」

03 江戸名所図会「十三塚」
(「江戸名所図会 巻之三」、「国立国会図書館デジタルコレクション」 国立国会図書館より)

十三塚は「ここかしこに散在」とあり、挿絵でも、広い野原のあちらこちらにポツン、ポツンと、樹々を頂いた塚が点在している様が描かれている。
前回紹介した「長尾の十三塚」は、典型的とされる十三塚の配列、すなわち村境の街道沿いに一列に並んでいた、とされるし、また、ここから東に第三京浜をわたった久末神社の南方、同じ読みの「籠場谷(ろうばや)」やその東の「伊ノ木」にあったとされる十三塚も同様に、整然と一直線に並んでいた、とされるのだが、ここ、野川の十三塚はそうではなく、「名所図会」によればここにあったのは整然と一列に並んだ十三塚ではなかったようである。

さらに、文政13年(1830年)に完成したとされる「新編武藏風土記稿」では、次のように書かれている。
「十三本堂 中程なり 又十三菩提とも十三本塚とも呼り 古は古塚十三ありしと云 今は其状のみ残れり 中古此所より甲冑の朽しものを堀出せしと云」

「風土記稿」では「昔は十三の古塚があったというが、今ではその名残しか残っていない」とあるので、当時既に十三塚は僅かな名残しか残っていなかったのかも知れず、そうだとすると、「名所図会」の挿絵のように明確に塚が点在していた、といった光景は、もしかすると「名所図会」では観光案内として幾分かの脚色が加わっているのかも知れないな、などと思わないでもない。

なんとなく腑に落ちないまま現地を訪ねてみたのだが、折しも地主の方が丹念に落ち葉を清掃していて、写真を撮りたいのだが、と尋ねると無言で小さく頷かれた。見ると、マウンドの脇では小さな石の仏様が合掌していらっしゃる。

04 十三坊塚脇の仏様

これを見れば、このマウンドが、点在した十三塚の名残であろうと、整然と並んだ十三塚の名残であろうと、もしかするとこの方も和田一族の末裔かも知れないが、とにかく大切なことは、今なおこうして念入りに手入れがなされていて、小さいながらも仏様も祀られている、という事実であろう。少なくとも私のような赤の他人がとやかく詮索すべきことでないことだけは確かである。

ここで話を終わらせておけばよかったのだが、帰宅してから、以下、無粋な詮索をしてしまった。

このマウンドのことが気になって、前回も参考にした、日本常民文化研究所が昭和54年に発行した十三塚に関する報告書を読んでいると、次のような記述があった。
すなわち、ここ、野川の十三塚は、地元では古くから「十三ボディ(菩提)」と呼ばれていたが、調査を行った昭和54年時点では既に「塚は確認できない」とある。
さらに、この地域の文化財調査に精通していたとされる新井清氏が昭和29年に十三塚を撮影しており、その場所は下図①の場所であった、という。さらに新井氏は下図②にも十三塚の名残があった、とし、さらにもう一人、地元在住の古老 金子氏も、下図③、④に十三塚の名残の塚があった、と証言したという。

新井氏が撮影したという①の塚の写真は、白黒で、こんもりとした草叢が写っており、その大きさは比較するものが写っていないので判別し難いが、少なくとも、歴史ガイドが「十三坊塚」としている今日見たマウンドとは別のもののように見える。また、金子氏が証言した③の塚は、高さ3m、面積にして25㎡(ということは5m四方ぐらい?)ほどあったそうで、これも「十三坊塚」のマウンドとは規模感が違う気がしないでもない。

05 野川南耕地 十三坊塚周辺の十三塚跡

①~④の4基の塚は一列に並んでいる、という感じではなく、むしろ「名所図会」のように点在しているように見えるし、なおかつ、昭和54年の時点でこれらの塚は既に確認できなくなっていた、というのである。
位置的に見ても、今日見た「十三坊塚」とされるマウンドは上記①~④とは場所が違っていて、最も近い④からでも南西方向に100mほど離れている。

調査報告書では、文末になお書きで、「④の西、約120mぐらいのところに、径16.7×12.6メートル、高さ1.85メートルほどの盛り土《塚》がある。私は、ながいことこれが十三塚の一つであるとばかり信じてきたが、新井・金子両氏ともその点については明確に否定された。」と付記している。
もしこの「盛り土《塚》」が、「十三坊塚」とされるこのマウンドを指しているのだとすれば、少なくとも前述の調査では、このマウンドは十三塚の名残ではない、と結論付けられたことになる。
ただし、報告書では上記に続けて、「発掘調査したわけでもないので、古墳であるとも断言できない。」と結んでおり、この「盛り土《塚》」の正体が何であるかについてまでは言及していない。

もしこの「十三坊塚」とされるマウンドが、古くからある「盛り土《塚》」なのであれば、①~④の塚と同様、前述の新井氏、金子氏ともに、それが何であるか知っていてもおかしくなかったのではないか、と思う。①~④の塚、しかもおそらくは「十三坊塚」とされるこのマウンドより小ぶりであったであろう塚に興味を持っていた二人が、それよりも大きなこのマウンドを認識していなかった、としたら、それは一体何故なのだろう。
報告書でも、わざわざ「盛り土《塚》」と表記している点や、①~④の塚とは別に、文末になお書きで付記してあるところなどからすると、調査の結果、残念な結論となってしまったが、筆者としても、永い間、十三塚の名残と信じてきたこのマウンドを軽んじることができず、そうした特別な思いを後世の研究に託したかった、ということなのかも知れない。

ところでこのマウンドは、グーグルマップでは、「野川南台和田古墳」として登録されているので、もしかすると上記昭和54年の調査後、発掘調査などがあってこれが古墳であることが確認されたのかと思い、「川崎市地図情報システム」でこの地点の遺跡登録の有無を調べてみたのだが、この場所には特段、古墳・塚としての登録は見当たらなかった。

万策尽きたかな、と思いながら川崎市市民ミュージアムの調査報告書にある「橘樹郡内の古墳一覧表」を見ると、そこには「野川古墳群」としていくつかの古墳が掲載されており、その中に「十三菩提古墳」という古墳が挙げられていて、やっぱりここがそうか!と全身の毛穴から一瞬、アドレナリンが噴き出しかけたが、よく見ると墳形・規模は「-」となっていて「不明」とも書かれておらず、存否は「×」(おそらく「現存せず」の意)となっていることからすると、やはり「十三菩提古墳」は「十三坊塚」とされるこのマウンドを指している訳ではないのかも知れない。(ではその『十三菩提古墳』というのはどこにあったのだろう・・・。)

何とも諦めきれないので、最後に、国土地理院の「空中写真閲覧サービス」でこの周辺の航空写真を確認してみることにした。夜更かしして、充血した目を皿のようにして古い写真を凝視していたところ、昭和38年(1963年)に撮影された白黒写真に、そうだ、と言われればそのようにも見える(?)影を見つけた。

06 航空写真(1963年6月)MKT636C16-6(部分)

一番左の大きな円内が「十三坊塚」とされるマウンドで、ここはこれより古い戦後すぐの航空写真で見ても同じように樹々が密生していたようであり、木立の中に何があったのか、航空写真からは判別できないが、周囲に人家が立ち並ぶ中、この一画だけは宅地化の波から大切に守られてきているのだから、やはり何か特別な意味を持ったマウンドなのであろう。
ちなみに、その少し右上の円が④塚、一番右上が①塚、その下が②塚と思われる位置であるが、それぞれ、塚のような気がしないでもない、小さな影?が見える気がするのだが、さて、これって一体・・・。


<投稿 2020.6.1>

(参考資料)
「宮前区歴史ガイドまち歩き その9 南の横大道」 川崎市宮前区役所地域振興課 宮前区歴史文化調査委員会 平成27年3月
「十三塚 実測調査・考察編」 神奈川大学日本常民分化研究所報告 第10集 1984年 平凡社
「ガイドマップかわさき 川崎市遺跡地図」 http://kawasaki.geocloud.jp/webgis/?p=0&mp=21
「加瀬台古墳群の研究Ⅰ-加瀬台8号墳の発掘調査報告書」 1996年12月 川崎市市民ミュージアム
「地図・空中写真閲覧サービス」 国土地理院 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1