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2019/05/14

荒川中流域 さいたま市内の古墳群(1)(埼玉県さいたま市桜区 天神山古墳、塚本塚山古墳、神明寺古墳(大久保古墳群/大久保支群))

久しぶりの遠出であったが、浦和での用件はすぐに済んでしまった。
いささか拍子抜けではあったけれど、その代わり日没まではまだだいぶ時間があるので、帰りがけ、もっと寄り道して帰れそうである。
浦和には、古い荒川の流路に沿った自然堤防上に多くの古墳群があって、いくつかの古墳はつまみ食い的に見学してきたが、見逃している古墳もかなり多いので、今日はそうした見逃し古墳を見たいと思う。

<天神山古墳>
荒川を渡る長い羽根倉橋を渡ると、何故かいつも「どこかに似ているな」と思う。
所謂「デジャブ(既視感)」というものかも知れないが、正確には「この景色、前にも見た気がする」ではなく、「昔、これに似た景色を見た気がするけれど、いつ、どこでだったか全然思い出せない」という方が正しいので、おそらくこれはデジャブなんかではなく、むしろ痴呆の初期症状かも知れないけれど、とにかく、突然、空中に飛び出してしまったような感覚、とてつもなく長く感じる橋を渡っている間、ずーっと、前も横も上も後ろも、どこもかしこも青空しか見えない、という、何だか現実離れしたようなあの雰囲気は、何故だかちょっと得した気持ちになれる眺めだと、ここを通る度に思う。

そんな羽根倉橋の東の袂にある信号から北に入って、そのまま土手に向かって暫く進むと、サーキット場やテニスクラブへの入り口の看板が見えてくるのでここを右折、田園の脇の道路を進むと広いグラウンドに突き当たる。
突き当たりを左折すると俄かに道路の幅が狭まり、舗装がなくなって、あちこち大穴の空いた砂利道になる。穴は道路一面に口を開けているので避けきれず、止む無く上下左右に大きく揺られながら必死に進むと、左手にテニスコートが広がる。いい大人が意に反して大きく揺られている手前、恥ずかしいので視線は向けられないが、どうやら皆さん、まさにレッスンの真っ最中のようで、悪路に揺られながら真顔で必死にハンドルを握る我がクルマを少し呆れたように見守っているのが視野の片隅に見えている。
どうにかテニスコート横を通り過ぎると、その向こうに空き地のような駐車場があり、中央に大きな木立が見えている。これが天神山古墳である。

01 天神山古墳

木立を取り巻く藪は極めて濃厚で、中へと突入できそうな隙間は見当たらない。仕方ないので周囲をウロウロするほかないが、これではどう見ても、岸部の藪でオジサンが用を足したくてウズウズしているようにしか見えまい。

02 天神山古墳

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」によると直径25mの円墳とあるので、この樹叢全体が墳丘という訳ではなさそうであるから、藪の中に墳丘の盛り上がりがあるのだと思うが、木立の中を凝視してみても何が何だかさっぱりわからない。

03 天神山古墳樹叢

「関東の古墳&史跡探訪」という方のブログではなんと、この樹叢の中の様子を撮影されていて、どうやって突入されたのかわからないけれど、藪の中は意外と開けているらしい。現存墳丘の高さは2mほどあって、周囲には周溝のような溝も残されているらしい。

「埼玉の古墳 北足立・入間」という書籍によると、この古墳は特段の調査などはされておらず、詳細不明のようだが、埴輪片が見つからないためか、埴輪消滅後の7世紀代の築造と考えられているようだ。

なお、当日は気づかず素通りしてしまったのだが、周辺にはまだ他にもいくつかの古墳が現存しているらしい。

見逃している古墳を見に行く途中にある別の古墳に気付かず、これまた見逃すとは、相変わらずの己の脇の甘さにほとほと感心してしまうけれど、例えばここへ来る途中、グラウンドに突き当たる手前、田園脇の道沿いにあった民家敷地内にある高い木立の基部も古墳だったようで、これは「観音塚古墳」というらしい。「調査報告書」によれば直径10mの円墳とされ、詳細はよくわからないが、所在地の字名も「観音塚」というらしいので、古くは観音様を祀る祠などがあったのかも知れない。
さらに、ここ(天神山古墳)から東に500mほどの住宅地内にも、直径15mの円墳、「金剛塚古墳」が現存しており、さらにその西にも、規模不明の円墳、「西金剛塚古墳」という古墳の存在が伝わるそうだ。
Googleマップでみると、住宅地内のマンション南側、隣接する民家の庭先に長さ10mほどの細長いマウンドがあり、これが「金剛塚古墳」であるらしい。墳頂には赤い屋根の祠が見えていて、東側から祠まで階段が伸びている。「関東の古墳&史跡探訪」さんのブログには正面から見た写真が掲載されていて、墳丘の高さは2~3mほどあるようだ。西金剛塚古墳も近くの民家の庭先に祠があって、そこが古墳跡と考えられるようだ。

これらの古墳は大久保古墳群(大久保支群)と呼ばれ、全部で15基ほどあるそうなので、まだまだ他にも見逃しているものがたくさんあるようだ。(と言うか、見た古墳の方が断然少ない。)
例えば、埼玉大学周辺に5基(本村/山王塚/船塚古墳等、いずれも湮滅)あるほか、金剛塚古墳の北500mほどのところに「大久保3号墳」(円墳/10m)、「大久保4号墳」(円墳/10m)、「堤防下古墳」跡(詳細不明)などもあり、さらに浦和北高校の北方、支群北端には、盟主墳とされる「塚本塚山古墳」や「神明寺古墳」などがある。

このうち、塚本塚山古墳と神明寺古墳は以前、つまみ食い見学の対象として見に来たことがあったが、いずれも民家の敷地内にあって、勝手に墳丘を間近に見学することはできないようである。

<塚本塚山古墳>
天神山古墳の北方1.5kmほどにある大久保支群の盟主墳と目される古墳で、墳形は前方後方墳、北側括れ部を残して前方部の大半が明治・大正年間に削平されているが、残存する後方部はかなり大きさがあり、幅35m、高さは6mほどあるらしい。削平前の墳長は推定で60mほどあったものとされている。

04 塚本塚山古墳
(2016/10/04撮影)

墳形は当初、前方後円墳とされたようだが、残存墳丘が方形状であることから、古墳時代前期、4世紀中葉築造の前方後方墳ではないか、と考えられているようである。

<神明寺古墳>
塚本塚山古墳の南西300mほどのところにある直径16m、高さ3mの円墳で、墳丘東側1/4ほどが削平されている。
こちらは墳丘から円筒埴輪片が採集されていることから、6世紀後半代の築造と考えられているようだ。

05 神明寺古墳
(2016/07/22撮影) どうでもよいが、我ながら今回の写真はどれもただの藪の写真にしか見えない。

ところでどうにもよくわからないことがある。
その道に精通された方には他愛もない話で、調べればわかることかも知れないけれど。

塚本塚山古墳の築造は4世紀中葉となっていて、同じ支群の他の古墳は古いものでも6世紀後半の築造とされている。
と言うことは、最初?の盟主墳が作られて以降、この地域ではその次の世代の盟主墳は作られておらず、そればかりか、その後200年もの永きに亘って古墳そのものが作られていなかったことになる。再び下位?の首長クラスの円墳などが作られるようになるまでの2世紀に及ぶ空白期間は、一体どのように考えればよいのだろう。
当然に、開発などで消えてしまった古墳も中にはあったのだろうし、例えとして適切かわからないが、下野地方などでは広域の複数集団が回り持ちで盟主を立てていた、とも考えられているらしいので、この地域でももっと広い範囲で見れば、違った解釈もできるのかも知れない。
けれど、少なくとも盟主墳クラスの古墳については、周辺の古墳群を見ても、4世紀後半以降、5世紀前半ぐらいまでに築造されたとされるものは見当たらないように思う。
塚本塚山古墳の主がこの世を去った後、この地域では一体何が起こったのだろうか。

いつもの悪いクセで、ロクに調べもせず、思いつきだけで書くのはどうにも憚られるけれど、古墳に興味のない人から見たらそんなどうでもいいようなことがいちいち気になっているうちはまだ、羽根倉橋から見る景色が一体どこの景色と似ているのか、痴呆気味のこの脳ミソでもどうにか思い出すことができるかも知れない。

そうか、あの景色はもしかすると・・・。
いや、やっぱりよくわからないのだけれど、もしかしたらこういうことは、このままずっとわからないままの方がいいのかも知れない。

<投稿:2021.2.21>

(参考資料)
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」 1994年3月 埼玉県教育委員会
「関東の古墳&史跡探訪 さいたま市の古墳 大久保古墳群」 http://kohunsuki.livedoor.blog/archives/cat_99618.html
「埼玉の古墳 北足立・入間」 2004年9月 塩野博氏